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六章 二人の王

 鏡を隠した懐に手を当てながら、キゲイは皆の所へとぼとぼと歩いていく。頭の中は鏡のことで一杯だった。
 ブレイヤールは、この鏡を誰にも見せるなと言った。ディクレス様にさえも。鏡には、強力な魔法の呪文が封印されているからだ。けれども。
——この魔法があったら、アークラントは助かるかもしれないのに。
 アークラントを救うには、禁呪以上のものが必要だと、ブレイヤールは言っていた。でもそれはあくまで、彼自身の想像でしかないのではないか。彼がディクレス様のことを、いったいどれだけ知っているというのだろうか。アークラントのことを、どれだけ知っているというのだろうか。
 大人達は口を揃えて言っていた。ディクレス様は、あらゆる知恵と勇気で困難な状況を乗り切り、アークラントをここまで守り抜いてきたと。あの方がいなければ、もっと早くに国は滅びていただろうと。
 そんなディクレス様なら、この鏡を正しく使う方法を、思いつくかもしれないのだ。決して、悪いようにはしないだろう。鏡の持ち主であるレイゼルトはいとも簡単に言ったではないか。渡したいなら渡せ、と。
 考えれば考えるほど、鏡をディクレス様に見せるのは良いことだと思えてくる。
 キゲイは立ち止まった。地読み士達のテントは、もうすぐそこだ。その向こうに、アークラント老兵や、傭兵、魔法使いのテントが並び、ディクレス様の大きな天幕がその真ん中ほどにある。場所の関係で、テントは密に隣り合っていた。間をうまい具合にぬって行けば、見張りの目をごまかしつつ、ディクレス様の天幕に潜り込めるかもしれない。
 ぎゅっと唇を噛み、両手を握りしめる。しばらくそうした後、城壁の影に身を沈めて靴を脱いだ。足音を殺すためだ。どっちにしろ、この方が走りやすい。里ではいつも裸足だった。
テント 靴を脱ぐと、いよいよ決心がついた。深く息を吸い、ぐっと息を止める。城壁沿いを小走りに駆け、とうとう地読み士達のテントをやり過ごしてしまった。あまりにあっけない。しかし本番はこれからだ。キゲイは身を低くして、老兵らのテントの群れへと立ち入る。
 兵士達のテントは、寝るためだけのもので高さがない。いくら子どものキゲイでも、身を隠すため、ほとんど四つん這いで進まなければならなかった。おまけにテントの中では人が寝ている。兵隊達はいびきをかかないのだろうか。嫌になるくらい静かだ。これでは少しだって音を立てられない。そんな中を進むのは、思った以上に勇気が必要だった。けれども使命感が心を奮い立たせてくれる。鏡をディクレス様に届ければ、アークラントが救われるかもしれないのだ。
 突然、すぐ隣のテントから、誰かの足が突き出して来て、キゲイの足首の上にドンと乗った。キゲイの心臓は、口から飛び出さんばかりに跳ね上がる。彼は息を呑み、その場でじっと固まった。あやうく悲鳴をあげるところだった。多分、寝相の悪い兵士なのだろう。下手に動かない方がいいと思った。顔から血の気が引いていくのが、自分でもよく分かる。こめかみの辺りが、痛いくらいに冷たくなった。
——ああ……。もうだめかも……。
 臆病風が吹き始める。こんなところで足止めを食うなんて。しかもかなり進んだと思ったはずなのに、ディクレス様のテントはまだ遠い。かと言って、引き返そうにもこれでは動けない。キゲイは地面にうずくまり、顔を伏せる。ここでずっと止まっていても、誰も助けに来てはくれない。なにより、見つかったらまず過ぎる。地読みの皆に大迷惑をかけてしまうのだ。キゲイは一か八かと目をつぶり、恐る恐る体を前へずらしていく。
 ところが事は、最悪の方向に動いてしまった。足が引っ込んだと思ったら、テントのすそが持ち上がり、暗闇の中から人の顔がにゅっと出てきた。相手はキゲイの姿を見て、寝ぼけ眼から驚いた表情になる。
「なんだなんだ。地読みの子どもじゃないか。転ばせてしまったか? 悪かったなぁ」
 キゲイは声も出せず、首を振ることしかできない。老兵の顔つきが、険しくなった。
「それにしても、こんな遅くにこんな所で、何をしてるんだ? お前達のテントは、向こうの方だろうが」
 テントの中から、もうひとつのしわがれ声が聞こえてきた。
「タバッサの待機組じゃなかったか? 地読みの子ども達は。なんでこんな所にいるんだぁ?」
 二つの顔がテントの中からこちらに向けられる。キゲイはすっかり動転し、立ち上がってしまった。そして二、三歩後ずさると、全速力で走り出す。いったんは地読み達のテントへ逃げかけたものの、すぐに気がついてディクレス様のテントへと、方向転換した。テントの老兵が異変を察知し、短い口笛を吹く。たちまち見張り達が行く手をふさぎ、キゲイはびくともしない力強い腕に捕まってしまった。
「ラダム老将軍の所へ」
「いや、まずはトゥリーバ様がいいだろう。怪しい奴だ。石人が魔法で化けてるかもしれん」
 無理やり引きずって連れて行かれそうになり、キゲイは両足を踏ん張る。
「違うんです! 僕、ディクレス様にどうしても会わなきゃ……!」
 キゲイの言葉は最後まで続かない。踏ん張った両足をもう一人の兵士に持ち上げられ、二人がかりで運ばれて行く。絶体絶命の窮地におちいり、キゲイはとうとう叫んだ。
「ディクレス様! おうさまぁっ! 助けて! 僕は正気ですっ! 化けてなんかいません!」
「ばかっ。大きな声出すなっ」
 別の兵士がキゲイの口を塞ぐ。キゲイはどうにか首を曲げて、ディクレス様の天幕を見た。もう絶対にたどり着けない。途中で挫けてしまわなかったら、行き着けていたかもしれなかった。涙で天幕がゆがむ。
 そのとき、奇跡が起こったように思えた。天幕の中から、鋭い動作で人影が現れたのだ。その人影は、片腕を上げた。それだけだった。それだけなのに、キゲイを抱えていた兵士達も口を塞いでいた兵士も、彼から手を離したのだ。天幕の前の人影は、挙げていた手の平を返し、そのまま中へと消える。兵士がキゲイの背中を押した。キゲイはほうけて、兵士の顔を見返す。兵士は渋い顔で言った。
「早く行け。お待たせするな。さぁ」
 追い立てられて、キゲイはへなへなと走り出す。あちこちのテントから、物珍しそうにキゲイを見る顔が覗いている。キゲイの邪魔をする者は、もういなかった。
 ディクレス様の天幕の脇に、予言者トゥリーバと老将軍ラダムが立っていて、やって来たキゲイを見た。トゥリーバの鋭い目つきと、傷跡だらけの筋肉の塊のようなラダムの姿に、キゲイはおどおどと足を止める。トゥリーバが幕ごしに声をかける。
「魔術のかかっている形跡は、認められませぬ。しかし……」
 彼はキゲイへ、苦りきった表情を向ける。
「念のため、あの石人の魔法使いに見立てさせた方が、良いかもしれません」
「ならば、呼び寄せよ」
 天幕の中から答えが返る。トゥリーバは命令を後ろの兵士に伝え、自分も足早に立ち去る。キゲイはラダムの方を見る。老将軍は、兵士の一人から耳打ちをされていた。将軍は報告を聞き終えると、天幕越しにこう言った。
「少々問題が起きました故、調べてまいります。しばしお待ちを」
 それから将軍は、去り際にキゲイへ目を剥いて、小さく怒鳴る。
「何をぼけっとしとるか。早く入れ!」
 キゲイは大慌てで垂れ幕をくぐり、中へと飛び込んだ。
 大きな天幕の中には、小さく輝くろうそくがあった。年季の入った折りたたみ机があり、毛のマントを羽織ったディクレスその人が、机に両手をついてこちらへ顔を向けている。
 キゲイは、緊張で震える。ぎこちなく頭を下げたが、慌てて両膝をついて、もう一度頭を下げなおした。キゲイの知っている中では、最上級のお辞儀の仕方だった。ディクレスは、うなずいた。
「こちらに来て、座りなさい。地読みの少年が石人にさらわれたと聞いたが、もしかして君がそうか?」
「その……」
告白 キゲイは向かい合わせになった椅子の端っこに、遠慮がちに腰掛ける。緊張のし過ぎで、ディクレスの言った言葉は、頭からすっぽり抜けてしまっていた。彼の心にあったのはただひとつ。震える手で、懐からあの銀の鏡を取り出したのだ。
「こ、これです……」
 差し出された鏡を、ディクレスは黙って受け取った。机の上のろうそくを引き寄せ、鏡を照らし出して裏表を丁寧に観察し始める。
 キゲイは小さく震えながら、その様子を見守った。ディクレス様をこんなに近くで見たのは、生まれて初めてだ。とにかく、大柄な人だった。年はもうずいぶんなはずなのに、白髪も目立たず張りのある肌をしている。額にも口元にも深いしわが刻まれ、老王にふさわしくいかめしい。逆に目じりのしわが、非常に親しみ深い印象を与えていた。側に居るだけで、安全で安心な、温かい気持ちが湧いてくる。ブレイヤールもトエトリアも王族だったが、ディクレス様とは段違いだ。足元にも及ばない。これほどの威厳を感じさせる人を、キゲイは他に知らなかった。
 どれくらいの時間がたったのか、きっとそうたいした時間ではなかったのだろうが、ディクレス様は落ち着いた優しい声で、キゲイに尋ねた。
「これは、なんなのだろうか。どこで見つけたのかね?」
「それは……」
 キゲイの心が、ちくりと痛んだ。ブレイヤールとの約束を破ることが、心苦しかったのだ。鏡のことを話すとなると、ブレイヤールのことも話さざるを得なくなる。しかしこれほどの大人物を前にして、自分の身にはるかに余る秘密を抱えたままではいられなかった。キゲイはつっかえつっかえ、話し始める。その話は支離滅裂で、時系列もめちゃくちゃだった。約束を破った後ろめたさから、声が震えて泣いてしまいそうにもなる。
 ディクレスはそんなキゲイの様子を見守り、うまい具合に質問を返す。そのおかげで、キゲイも少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 傭兵に追いかけられて、石人に助けてもらったこと。鏡はレイゼルトから渡されたこと。この白城にいる石人達に、かくまって貰ったこと。ブレイヤールのこと。銀の鏡に封じられているかもしれない、砂の禁呪のこと。そして何より石人達は、自分達がこの世界に侵入しているのを知っていること。
 これら全てを話し終えると、キゲイは今までの息苦しさがすっかり無くなったのに気がついた。そして最後の不安を抱えて、ディクレスの顔色をうかがう。ディクレスは何度もうなずいた。うなずきながら何度も、そうか、そうかと呟いた。
「全て承知した。すまなかった。私が不明なばかりに、ずいぶんつらい目にあわせてしまったな」
 ディクレスはそう言って、キゲイにゆっくりと頭を下げた。キゲイは驚いたものの、この言葉で最後まで心に引っかかっていたものも完全に取り払われ、安堵のあまりに涙をこぼした。それでもすぐに、鼻をすすって涙をこらえ、両目をぬぐう。泣き虫だなんて思われたくない。
 ディクレスは難しい表情で、鏡を見つめていた。もしかすればこれこそが、アークラントに必要なものかもしれなかったからだ。キゲイは疲れ切り、ぼんやりと先王の複雑な表情を見つめるだけだった。
 緊張の緩んだキゲイの耳に、外の物音が入ってきた。気のせいだろうか。何か騒がしい。いつからしていたのだろう。
裏切り者! 突然テントの垂れ幕を跳ね上げて、興奮した様子のトゥリーバとラダムが現れた。キゲイの驚いたことに、ディクレスは素早く手に持った鏡を机に伏せ、大きな手のひらをその上において鏡を隠した。何も知らずラダムは、怒りもあらわな口調で先王に告げる。
「傭兵と側近の一部が姿を消しております。馬も数頭ございません。しかも、傭兵どもが城に向かうのを見たと言う者がおりました。連中、もしや昼間見つけた宝を持ち逃げしたのかもしれませんぞ!」
 トゥリーバも、怒りに震える声で訴えた。
「あの石人の魔法使いとその師も、影も形もございませぬ。恐らく共犯かと存じます」
 それを聞いたキゲイは、何か言わなければと口を開いた。それでも、怒り狂う二人に圧倒されて、声が出てこない。
「すぐに人をやって、後を追わせまする!」
 ラダムがそう息巻くと、ディクレスは一言しか返さなかった。
「無用だ」
「な、なんですと!」
 キゲイの頭上を、ラダムの怒声が通り過ぎていく。キゲイは頭を伏せて、背を丸めた。
「裏切り者を、捨ておくというのですか! 宝を、せっかく見つけた石人の宝を、汚くも盗んだのですぞ!」
「彼らに先んじられてしまったな」
 ディクレスの物静かな応えに、長年彼に仕えてきた老将軍は、主の言わんとするところを察する。将軍は深い溜息を吐きながら、黙って天幕を後にする。トゥリーバも、それに倣って退出の礼をした。去りかける彼を、ディクレスが止める。
「トゥリーバ、少し待ってくれ。もう一度あの夢見の話を、聞かせてはくれんか」
 トゥリーバは下げていた顔を上げる。彼はキゲイの方へちらりと目をやったが、主が何も言わないのを見ると、上体を起こし、気の進まない様子で話し始めた。
「夢の中で、私は大草原の真ん中におりました。空は一面に薄明るく、辺りの景色も煙るような光に満ちておりました。光の霧は地平線の彼方から流れてきており、その霧の中にひとつの影がありました」
「その人影は、どのようなものか」
「光が強く、良くは見えませぬ。頭身から、大人かとは思われまするが……」
 トゥリーバは顔を曇らせる。
「それにいたしましても、石人の世界に入ってから、何度もこの夢を見るようになりました。その度ごとに、人影との距離が縮まったように思うのは事実です。そのうち私は、その人物の顔が見えるまでに、近づけるかもしれませぬ」
「そうか。引き止めてすまなかった」
「本当に、裏切り者達を追わぬのですか? 石人の魔法使いを見逃すのは、危険かと思われまするが」
「石人の世界で石人に危害を加えることほど、恐ろしい行為は無いようにも思える。手がかりを集めるだけに、とどめておいてはくれんか」
「承知いたしました」
 トゥリーバは礼をして退出する。再びテントの中は、キゲイと先王だけになった。
「ディクレス様。あの、僕さっき、レイゼルトに会ったんです!」
 キゲイは思い切って口を開く。先王ははじめて、少し驚いた顔を見せた。そしてキゲイに先を促す。キゲイは、レイゼルトが銀の鏡をディクレス様に見せてもいいと言ったこと、銀の鏡を受け取らずに、どこかへ去ったことを話した。しかし、彼がキゲイを先住民と言ったことは、話さなかった。宝を持ち去った傭兵達のことにも、触れなかった。どちらも、ディクレス様に話すのは、なんとなく気まずかった。
「レイゼルトは、その鏡は魔法の品だから、無意味には動かないとも言っていました。僕、よく意味が分からなかったんですけど……」
「そうか」
 ディクレスはしばらく鏡面を見つめた後、何も言わず銀の鏡をキゲイに渡した。
「あ……の……?」
 まったく予想もしなかった展開に、キゲイは頭がぼうっとなる。口を閉じるのも忘れて、目を丸くした。
「魔法の品は、私にも分からん。トゥリーバにでも聞けば、まだましかもしれんが。……たとえこの鏡が禁呪の書であったにしろ、私がこの石人の地に求めたのは、このようなものでは無いように思う」
 ディクレス様は立ち上がり、テントの中を歩き回り始めた。本当に背の高い人だ。考え事をしているようなので、キゲイは無言のままでいた。そして、自分の手に戻ってきてしまった銀の鏡を、信じられない気持ちで眺める。鏡には先王の手の温もりが残っていた。ディクレス様は、これを引き取ってはくれないのだろうか。これこそが、アークラントが石人世界で手に入れようとしていた物ではなかったのか。それとも自分は、役立たずの鏡を持って来ただけだったのだろうか。
「キゲイ」
 ディクレス様はようやく足を止める。
「その白王という人に、私を会わせてくれんか」
「え……」
 キゲイはぼんやりと顔を上げる。少し間を置いて、キゲイはディクレス様のとんでもない言葉に気がつき、目を見開いた。その間ディクレス様は、キゲイの反応を辛抱強く待ってくれていた。
「会う! い、いつですか?」
 ディクレス様がすばやく口元に指を立てて見せたので、キゲイははっとして自分の口を塞いだ。ディクレス様は声を潜めた。
「今からだ。今しか時間が無い」
「で、でも、この城はものすごく広くて。元に帰る道、はっきり覚えてるか自信が無いんです……」
 キゲイの声は、最後の方はほとんど消えかけていた。けれども彼も地読み士の端くれだ。大体どの辺りに石人達の住居があったかくらいは、分かる。それで仕方無く方角だけを告げると、先王はそれでも良いと返してきた。彼は、キゲイがこの天幕を目指していたのと同じくらい、必死だったのだ。夜に石人の城に入るのは危険だったが、それすらも構っていられなかったのだ。
「君はこの城の主に認められた人間だから、夜中に城に入っても大丈夫だろう。そして、ここから石人達の場所までの道を見たのは、君だけだ。おぼろげな記憶でも構わない。とにかく少しでも、彼らの場所に近づきたいのだ」
 英雄王の再来とまで呼ばれたこの人は、これほどまでに無謀な人だったのだろうか。キゲイは意外だった。しかしここまで言われれば、嫌とは断れない。それにキゲイ自身も、もう一度ブレイヤールに会いたかった。秘密の重みに耐え切れず、約束を破ってディクレス様に鏡を見せてしまったことを、知らせた方がいいと思ったのだ。
 キゲイは先王の後について、天幕から出た。
「この子を送りついでに、地読みのテントまで行ってくる」
 ディクレスは見張りの兵士にそう告げる。見張りの兵士はキゲイが脱ぎ捨てた靴を持っていた。ディクレスはキゲイが靴を履くのを待つと、いったんはテントの方へ行く振りをし、途中から城の方へじわりじわりと道を逸れ始める。見張り達は裏切り者の出現に、野営地の外よりも内の方へと注意が向いていた。ましてディクレスの行動を疑う者などいるはずもない。
 二人は誰にも知られることなく、今朝キゲイがブレイヤールと一緒に隠れていた、柱の連なりの影にすばやく駆け込んだ。ディクレスは、ほとんど持ち上げるように連れて走ってきたキゲイの手を、離して降ろす。
「頼む」
 キゲイはうなずいて、真っ暗な回廊の中、道を探し始めた。西の里長のテントの位置を確かめ、手探りでどうにか廊下の入口を探し当てる。それから用心しいしい、壁を伝って廊下の奥へと進んだ。やがて廊下はつき、星明りが見覚えのある庭を照らし出しているのが見えてきた。正しい廊下を選んだことが分かって、キゲイはほっとした。兵士達に見つかる心配がなくなったので、ディクレスは腰に下げていた小さな真鍮のランタンに、明かりを入れる。
 城の中は、自分達以外に音を立てるものはいなかった。ランタンが照らす光のすぐ外は闇だ。光の対としての影ではなく、闇そのものが満ちていた。光がなくとも存在し得るもの。そんな感じだ。ランタンが移動した後を、すかさずその闇がとろりとうずめていく。ランタンの炎は、闇など露知らず、無邪気にはぜていた。キゲイはこの明かりをひどく不愉快なものに感じた。明かりのせいで、自分達が危険から丸見えのように思えたからだ。それにランタンを灯した今の方が、辺りの闇が濃くなった気がした。ランタンで目がくらみ、微かな星明りを捕えられなくなったのかもしれない。足元はよく見えるようになったが、遠くは見通せなくなってしまった。
 キゲイは懐のお守り、あのトエトリアの髪を編んだお守りを、服の上からぎゅっと押さえる。これがあれば、邪妖精なども怖くないはずだ。多分、魔物からも守られているだろう。すぐ後ろをついて来る、ディクレス様だって守ってくれるはずだ。ディクレス様が危険な目にあえば、キゲイだって、危険のお相伴にあずからざるを得なくなるのだから。
「やった……!」
 下へ続く階段を見つけたとき、キゲイは思わず小さな歓声を上げた。おぼろげな記憶と夜の暗さの中にありながら、ここまで道を間違えずに戻ってこられたのは、ほとんど奇跡だったかもしれない。ディクレス様にランタンを廻してもらい、石扉や周りの壁の様子を調べる。間違いない。あの高い塔の螺旋階段だ。外に通じている丸い石窓が、星明りでぼんやりと紫紺を帯びた闇に染まっている。天井を見上げると、彼方に小さく切り取られた星空があった。
 キゲイが階段を下ろうとすると、先王がその肩を押さえて止めた。キゲイは後ろを振り返る。ディクレス様はランタンの明かりを消し、螺旋階段の下をそっと覗き込んでいた。
「何か気配がしたが……。気のせいか。私が先に行こう」
 ディクレスはキゲイにランタンを渡す。そして剣をいつでも引き抜けるよう、柄に片手をかけ、壁面に沿って静かに下りて行く。キゲイもそれに倣った。
 二人はそのまま何事も無く下まで降りる。しかしディクレスは警戒を解かず、闇に沈んだ塔の中央へ、静かに歩み寄る。キゲイは音が鳴らないようランタンを抱え、階段を下りたところで立ち尽くした。
 ひとりでに、ランタンに明かりが灯った。
 キゲイは驚いて仰け反り、ランタンを体から離す。右手に掲げたランタンの向こうに、ディクレス様の背中が見えた。ランタンが揺れると、壁に長く伸びたディクレス様の影も、幽霊のように大きく振れる。その塔の壁際に、何か白っぽいものがあった。ディクレス様の影の中で白っぽいものが動き、ぼんやりと人の顔が現れる。ブレイヤールはキゲイの方へ伸ばしていた腕を、ゆっくりと下ろすところだった。
「王様!」
 キゲイはディクレスの隣をすり抜けて、駆け寄った。
「なんだ。君だったのか……」
 ブレイヤールは長い息を吐いて、うなだれる。彼は両足を地面に投げ出して、壁にもたれかかっていた。明かりに照らされた顔は疲れきった様子で、眩しそうに閉じたまぶたを震わせている。随分長い間、この真っ暗闇にいたようだった。キゲイが声をかけようとすると、ブレイヤールは額に手をかざして上を向いた。キゲイの後ろに、ディクレスが歩み寄ったのだ。
「あの、その、ごめんなさい。ディクレス様に、話しちゃいました……」
 キゲイはそっと告白する。ブレイヤールはキゲイに視線を戻す。表情は薄く、ブレイヤールがどう思ったのか、キゲイには分からなかった。
「いいんだ。自然の流れに任せよう」
 ブレイヤールはそう言った。ディクレスがキゲイの隣に膝をつく。
「アークラント先王ディクレスと申します。あなた様は?」
「白城の王族ブレイヤール。ディクレス殿。銀の鏡をご覧に?」
「はい。ところで、いかがされました。見たところ、ほとんど動けぬようですが」
 ディクレスの言葉に、ブレイヤールは再び深く息を吐く。
「レイゼルトに……。いえ、まずは城内から出ましょう。人間達の匂いを嗅ぎつけて、先程から闇の中で色々なものが騒いでいるのです。失礼ですが、手を貸してくださいませんか」
 ディクレスはブレイヤールの体を支えて、立ち上がらせる。キゲイは先に立って塔から外へと出た。
 ブレイヤールは二人を近くの中庭へと案内した。ディクレスは庭に倒れている古い柱の上に、ブレイヤールを座らせる。ブレイヤールは左手で右腿をちょっとさすり、それからディクレスとキゲイの顔を見比べた。ディクレスは柱から少し下がって、立ったままブレイヤールを見下ろしていた。
「キゲイをテントの方へ走らせた後、私はレイゼルトに捕まったのです」
 彼はつと視線を二人からはずし、思い起こしながらゆっくりと話し始めた。
「彼はある取引を持ちかけてきました。お互いに知りたいことを、ひとつだけ交換しようと。少なくとも害意は無いようなので、私は承知しました。私はあの鏡が何であるのかという答えを望み、レイゼルトは、石人達がアークラントにどう対処するつもりなのかを聞いてきた。彼は、あの鏡が禁呪であると答えました。裏を取りたいなら、直接鏡を調べるか、美術書から由来を探せと」
「禁呪? やはりあれは、大きな力を持つものなのですか」
「禁呪は大きな力を持ちますが、鏡は呪文を記しているだけです。しかし魔法の品というものは、簡単にその危険性を判断できるものではありません。呪文自体が力を持つものでもありますから」
 ブレイヤールはディクレスを見返す。
「それから私が彼の問いに返した言葉は、あなたにも興味深いものでしょう。申し訳ありませんが、詳しくはお話できません。ただ今のところ、あなた方に危害を加える話はありません。できうる限り早々に、この地を立ち去ったほうが良いでしょう。石人達は人間の存在を恐れて嫌っているのです。それに、これは私個人の意見ですが、これ以上石人の地に長居することは、石人全てに災いをもたらす行為となるのかもしれません」
「それは、どういうことでしょうか」
 ディクレスの声が、少しこわばっていた。キゲイはなんとなく二人の側に居づらくなり、数歩下がった。
「あなたが大空白平原に作った連絡路のことです。馬が一日で駆けられる間隔で、拠点を築いておられますね。少なくともあの連絡路は、オロ山脈の抜け道からここまで延びているのではありませんか?」
「……仰るとおりです。本国の様子をいち早く知るためには、連絡の手紙を一瞬たりとも止めるわけにはまいりませぬから。アークラントと大空白平原を分かつ抜け道を知っているのは、我々だけです。しかし万一、ハイディーンかエカが我が国を滅ぼしたとき、私の築かせた拠点を辿って、彼らが平原に到達できる可能性は、あるかもしれません」
「七百年前に、人間と石人との戦争がありました。我々はその発端を、人間が石人の領界を犯したことにあったと考えています。ハイディーンやエカが平原に出れば、大きな兵力を持っているだけに、石人にとっては脅威です。そうなった場合、我々は人間達に対し、過剰な反応に出るかもしれません。七百年前以上の大きな戦が、石人と人間との間に生まれる気がします。これは、大げさな空想でしょうか。我々石人は暗にそれを恐れ、速やかに、アークラントをオロ山脈の向こうへ押し返したがっているのです」
「そうでしたか。このような弱小国が、そこまで石人の世界を震撼させていたとは」
 ブレイヤールが見つめる前で、ディクレスはうな垂れるようにして、わずかに頭を下げる。この先のことを懸念したのか、石人に対して申し訳なさを感じたのかは分からなかった。彼はすぐに顔を上げた。
「それにしても、なぜそれほどに人間界についてお詳しいのですか? オロ山脈とは、アークラント独自の呼び方で、大空白平原では別の呼び方をされているようです」
「平原に人間が現れるようになると、石人も我が身を守るため、誓いを侵して境界を越える必要が出てきました。今では選ばれた者達が平原で常に人間の様子を探っています。大空白平原には大陸の富とうわさが西に東にと流れ、手に入らぬものはないとまで言われています。そして私の城から平原は、目と鼻の先にありますから。あの連絡路は、手紙を運ぶためだけに築かれたものなのですか」
 白王の瞳が、人間の先王を鋭く見据えた。ディクレスはその視線を引き締まった表情で受け止める。先王は何も答えず、視線を先に逸らしたのはブレイヤールの方だった。ブレイヤールは沈痛な面持ちでそっと目を閉じ、うなだれる。
 離れた所で二人を見るキゲイには、ブレイヤールが落ちつかなそうにしているのがよく分かった。ディクレス様が彫像よろしく微動だにせず立っているのに対して、ブレイヤールは腿をさすったり、左手をぎゅっと握りこんだりしている。話し方も少しのろのろしていて、言葉が出てこなかったりすると唇を噛んでいた。今もそうだ。キゲイはそれを見て、なぜかハラハラした。二人がそれぞれに、相手の考えを探り合っているのはなんとなく分かる。ブレイヤールの方が、ディクレス様ほどそれをうまくやれていないらしいことも。本来ならディクレス様の方を応援すべきなのに、キゲイは奇妙だと思いながらも、ブレイヤールの方も心配でならなかった。
 しばらくしてブレイヤールは再び面を上げ、声の調子を変えて話題を移した。
「私は、この廃墟の主です。石人の世界には、星の神殿という最古にして第一の存在があります。そしてその下に、十二の古い国があります。十二の国の王は、同時に星の神殿の神官でもあります。そのためたとえ戦争をして相手の国を打ち負かしても、王族の血筋を絶つことは決してありません。国が滅んでも、王族だけは神殿の手によって守られます。ですから七百年前に滅んだこの国にも、私のような王族の末裔が居られるわけです。もっとも、立場は非常に弱いものです。私は他国の王達の指示に従って、この城に宝を用意し、あなた方の行動を観察するのみです。しかしこんな私でも、この城を守るくらいの力は持っているのです」
「では我々は、あなたに許されてこの城に居ると」
「そうなります。石人達はまだあなた方に危害を加える気は、ありません。しかし分からないのは、あなた方の目的です」
「アークラントは光の中にいる人物を探しに参りました。我が国の予言者が見た夢を、聞いてはくださりませんか。かの予言者も石人の世界には詳しくなく、どうも夢見を正しく解釈しきれていないようなのです」
 ディクレスは、トゥリーバから聞いた夢の話を繰り返す。キゲイもブレイヤールの返事が気になって、全身を耳にした。ブレイヤールなら、予言者の言っていた英雄が誰なのか分かるかもしれない。そう思ったのだ。
 ブレイヤールは予言の夢を思い浮かべるように目を閉じて話を聞いたが、すぐに瞼を開いた。
「石人の世界にそこまで広い平原があるとは、聞いたことはありません」
 それから考え考え、ゆっくりと言葉を続ける。
「ただ、光の霧には心当たりがあります。『こう』というものがあるのです。光の霧を発生させるものです。香を練りこんだものもあり、専用の光炉こうろで焚きますが、非常に幻想的です。我々の世界をかつて満たしていた原初の大気を想起させるものとして、特に神聖な儀式では欠かせません。他は、ある程度の高貴な身分の人が用います。私は儀式以外の用途では使ったことはありません。とても高価なものなので」
「ではあの人影は、石人である可能性が高いのですか? そして高貴な身分の方であると」
「神職にある可能性が高いですが、十二国の王も、神官ではありますし……。平原のどちらの方向にその人影が立っていたのか、分かりませんか」
「それは聞いておりません。平原の様子から言っても、方位を知らせるものが何もないようです。その平原は、アークラントから南にあり、ただただ石人の地であると」
「石人世界のもっと奥かもしれません。でも、なぜその人影が英雄だということになるのですか?」
「そう見なす以外にないのです。我々は」
 ディクレスの顔に苦笑混じりの、穏やかな笑みが広がる。それでもすぐに、彼は真顔に戻ってこう言った。
「しかし私自身、この地に何らかの光明は感じていたのです。そこへ丁度、予言者があのような夢見を伝えてきたことが、私をこの地に駆り立てました。予言者の見たものが、私がそれと感じながらも、はっきりと捉えることができなかったもののような気がいたしたのです」
「そうでしたか……」
 ブレイヤールはディクレスから視線をはずし、どこともなく遠い目をした。
「私が今気になっているのは、『レイゼルト』を名乗る少年のことです。実は彼と情報を交わした後、彼はそのまま私の前から立ち去ろうと背を向けたので、その隙をついて魔法で捕らえようと試みたのです」
 それを聞いて、キゲイは思った。アークラントではたぶん、卑怯と言われる行為だ。キゲイはディクレスの様子をうかがったが、先王の表情は真面目なままだった。
「私の魔術は失敗し、返り討ちにされました。目が覚めたときには辺りは夕暮れで、右半身に感覚がなく、まったく動かせませんでした」
「彼は……、腕の良い魔法使いなのでしょうか?」
「石人の水準から言って、年齢を問わず、相当なものです。あなた方の前では、実力を隠していましたか? もっとも他種族の前でありのままの実力を見せるというのは、あまり賢いやり方ではありません」
「彼は深夜のうちに、我々の陣営から姿を消しました」
「えっ?」
「そもそも彼は、自分も石人の宝を探していると言って、我々の元へとやって来ました。そして彼は、この城は遠い昔にうち捨てられたものだと我々に教えました。タバッサの遺跡荒らし達も廃墟だといい、はぐれ者の石人が数人住んでいるとも言っていました。その石人がまさか城主であると分かっていたならば、この城に忍び込む失礼は冒さなかったでしょう。つまり我々は、レイゼルトによって城におびき出され、あなたに許されてここに留まっているということになる。私は、彼にまんまと騙されたわけです」
「怒っていらっしゃるようには、お見受けできません。なぜあの少年を陣営に組み入れられたのです?」
「私は騙されましたが、裏切られたとは思っておりません。私が彼を雇ったのは、彼の目を見たからです。アークラントの者達と、非常に似通った真剣さがあった。彼はいったい何者なのでしょうか」
「私も同じ質問をあなたにしようと思ってました」
 ブレイヤールは心からの溜息をつく。
「私は、あなた方人間よりも、あの少年の存在の方に差し迫った危険を感じます。そしてそれ以上の危険を、あの銀の鏡は秘めている……」
 ブレイヤールはキゲイの方を向く。キゲイは崩れたアーチの根元にもたれ掛かって、船を漕いでいた。ブレイヤールはキゲイに視線を残したまま、ディクレスに向き直る。
「レイゼルトがあの鏡をキゲイに託した理由も不明です。ただ逆から考えれば、適切な人選ではあります。現に彼はあの鏡を、不用意には扱っていない。そうでしょう?」
「いえ、私には分かりませんな。ただ彼が我々から去る際、キゲイに最後に言い残した言葉から察するに……、彼は目的はあれど、自身の意のままにそれをなそうとは考えていないようです。ああいった手合いは、非常に柔軟な動きをするものです」
 それを聞いたブレイヤールはうな垂れ、両手で顔を覆った。
「私にはまだ、物事の流れというものが見えません……」
「それについては、局面は違えど私も同様です。しかし幸い、彼の立ち位置のひとつだけは、はっきりしている。それは彼がアークラントに対して、我々と同じ思いを持っているということです。ならば彼とて、ひとつの布石も打たずにいることは不可能でしょう。……彼はあなた方の敵なのですか? 恐れるに値する者だと」
 ブレイヤールは両手をぱたりと下ろし、地面を見つめたまま固い口調で答えた。
「敵というより、味方ではないと言ったほうが適切かもしれません。彼の動向を見守ることが果たして、我々石人の益になるのかは、不明です。それに彼とアークラントとの関係は、伏せておくべきかどうか……。もし我々がレイゼルトを炙り出さねばならなくなった際、アークラントを攻撃すればよいことになる」
「そこまでなさいますか」
 ディクレスは暗い笑みを浮かべる。ブレイヤールは慌てて首を振った。
「お許しください。考えすぎでした。今はまだ、そこまで考える時期ではありません。……私は銀の鏡に触れたことで、石人達に秘密ができてしまった。ここであなたと会った事実も、明らかになっては困るのです。文字通りであれ形式的であれ、私の首が飛べば、あなた方にもいい影響はないはずです」
 東の空に夜明けの気配が来ていた。夜の闇が薄まり、庭園に淡く長い影が落ち始めている。
「ディクレス殿、もう一度、キゲイを私に預けてはくださりませんか」
 ブレイヤールは早口に言った。時間はもうなかった。
「鏡のことが、気になって仕方がないのです。レイゼルトが鏡を彼に預けたなら、鏡と彼はもう少し一緒にしておかなければ。それに私は、鏡に触れることは出来ません。彼の身の安全は、私が守ります。彼の運命が、私の手の内にある間は」
 ディクレスは短く鼻を鳴らした。溜息と不満、両方らしかった。
「魔法使いというものは、良くも悪くも言葉がうまいようですな。分かりました。私から、彼に話してみましょう」
 ディクレスはキゲイに歩み寄り、肩に触れてそっと起こす。キゲイは寝ぼけ眼で、相手の顔を見上げた。
「折り入って、頼みがある。白王の下に、しばらく残ってはくれないか?」
「え。……え?」
 キゲイは耳を疑い、両目をごしごしこすった。寝ぼけていると思ったのだ。それから柱の上に座ったままのブレイヤールへ、目を向ける。ブレイヤールは何とか立ち上がろうと苦戦していた。まだ体がおかしいらしい。
「白王がおっしゃるには、君は大変特殊な立場にいるようなのだ。あの鏡のために」
「かがみ……っ!」
 キゲイは胸を押さえる。それはまだ確かに、そこにある。ブレイヤールが大きくよろめいて、倒れこむように傍へ膝をついた。
「キゲイ、その鏡は僕の手元にあった方がいいと思うんだ。でも、僕はその鏡に触れることは出来ないから……」
「えーっ!」
 キゲイはようやく状況を理解する。ディクレスが同情したようにこちらを見ていた。
「アークラントは、あの鏡を受け入れることはできないのだ。それは国を助けるどころか、新たな災いと混沌を人間の世界にもたらすものだろう」
 キゲイはブレイヤールを見返す。ブレイヤールは真っ直ぐその視線を受け止めて、色々言うべき言葉を探しているようだった。ところが、良い言葉は思い浮かばなかったと見える。彼独特のしごく穏やかな表情でにっこり微笑み、こう言った。
「悪いね。恨むなら、レイゼルトを恨んでくれ」
 はっきり言い切られて、キゲイは顔を引きつらせた。やっとの思いで仲間の元に帰ってから、まだようやく一日になるかならないかくらいだ。何をどう間違ったというのか。また状況は逆戻り。いや、本当にそうなのだろうか。
「僕、今度はいつ皆の所に帰れるんですか?」
「多分、誰かがレイゼルトをとっ捕まえて、彼の秘密を全部吐き出させるまで……かな」
 先が見えないぶん、状況は前より悪くなっているようだ。
「非常につらいと思うのだが、他に代われる者もいない」
「決着がついたら、君は僕が責任を持って、皆の所に帰すよ。それまで……頼む」
 キゲイの前には恐れ多くもアークラント先王と白王の二人がいて、こちらの返事を待っている。「嫌だ」と言えば、「うん」と言うまで二人から延々と諭されるに違いない。キゲイはがっくりとうな垂れ、自分の運命について観念することにした。
 ブレイヤールはキゲイの決心を見届けると、ディクレスにうなずく。ディクレスを元の場所まで送るため、ブレイヤールとキゲイは昨日の道を辿り始めた。ブレイヤールは右足を引きずり、壁に手をつかないと歩けない状態だったので、途中までしか案内できなかった。
 最後の一本道の廊下の所で、去り際にディクレスはキゲイの肩へ手を置いた。
「ブレイヤール殿と会えて良かった。キゲイ、よく決心してくれたな」
 それだけで、彼は何か特別な言葉をかけるわけでもなく、地読みのテントの方へと立ち去っていく。
 その背中を見送るキゲイの耳に、レイゼルトの一言がよみがえる。
——アークラント先住民ごときが、「国を助ける気」だって?
 もし今度彼に会うことがあれば、もう「アークラントのために」という言葉は使うまい。でも、「ディクレス様のために」なら、きっとレイゼルトも、そしていつか彼を怖がらせたアークラントの少年達も、まだ納得してくれるんじゃないか。キゲイはそう思った。それにキゲイ自身、今ではそちらの方がしっくり来るのも、確かだった。レイゼルトがこの鏡をエツ族である自分に預けた理由は、もしかしたらここにあるのかもしれない。アークラント人では駄目だったのだ。きっと。
 キゲイが物憂げに立ち戻ると、ブレイヤールは庭園の池の側で、地面に転がっていた。彼は足音でキゲイに気がつき、不自然なくらい不動の体勢のまま、こう言った。
「ちょ、ちょっと待ってて……。やっと感覚が戻ってきたと思ったら、強烈な痺れと激痛が」
「……王様。それもレイゼルトの魔法のせい?」
 ブレイヤールは返事の代わりに歯を食いしばり、苦しそうに体を丸めている。これは、相当きているらしい。キゲイは溜息をついた。この様子では、もうしばらくここを動けそうにない。眠気と空腹で、ふらふらだったのだが。
 冷たい朝日が、純白の城を新しい光と影で染めていく。照らし出された回廊の柱は、その輪郭を朝霧に淡く滲ませ、石畳を珊瑚色の光彩でいろどった。この城は、光によって様々にその様相を変えるのだ。まばらな下草の上に横たわる白王の髪もまた、赤みがかった黄金色に輝いていた。

七章 黄緑の城

 白城から大人の足で三日。そこに黄緑の城があった。城とはいえ、石人は巨大な城に国民全員が集まって暮らすので、城そのものを国とも呼ぶ。
 黄緑の城は白城ほどの規模はないが、それでもやはり大きな城だ。周辺の山々に比べれば標高は低いものの、城の天辺部分には雲がかかることもある。城には町もあれば、畑や森や川もあった。生きていくのに必要なものは、全て城に揃っている。城の周りは魔物や邪妖精といった魔法の生物がうろつき、危険でとても暮らしてはいけない。人間達はこの地を石人世界と呼んでいるが、本当ならば魔物世界と呼ぶのが正しいだろう。石人は城を築くことによってこれらから身を守り、ようやく自らの生活できる場所を得ていた。
 城の頂上には王の居城が建っている。昇ったばかりの朝日はまだ山々の向こうにあって、一番高い塔の屋根に飾られた水晶だけがわずかな光を捉えて輝き、残りの部分はまだ影と朝霧に霞んでいた。
 トエトリアは冷気を頬に感じて目を覚ます。大きな金色の瞳を開いて、目をこすった。瞳に、ベッドの円屋根に描かれた、黄緑色の神魚の姿が映る。あくびと伸びをしながらごろんと寝返りをうつと、視線の先には白い大きな暖炉。一晩中彼女の側に付き添っていた女官が、傍らで火に当たりながら居眠りしていた。
 トエトリアは起き上がって、ベッドから飛び降りる。まったく、あの傭兵達の眠り薬のせいで酷い目にあった。粗悪な薬の成分と、人間の町で吸った空気の毒気を抜くために、毎日三度、苦い薬を飲まされる。おまけに城に帰ってすぐ、ちょっと風邪をひいたものだから、風邪薬まで余分に飲まされる羽目になった。
朝 彼女は裸足でぺたぺたと、淡い黄緑色を基調とした大理石の部屋を横切る。深い黄緑のカーテンをかき分けて、バルコニーへ出た。石床の下には暖かい湯が通されていて、裸足でも冷たくない。
 トエトリアは手すりの上に立ち、両手を腰に当て、ぐるりと景色を見回す。外には霧雨の衣が漂っていて、周りの山々は薄墨色の影にしか見えなかった。城の下方は厚い霧に隠れている。空だけがじわじわと黄金色に輝きを増し、朝日が昇ったことを知らせていた。
 彼女は首から下げた紐を手繰り、絹の小袋の中から小石を取り出す。
「冬の朝じゃなくなってきたみたい。雪じゃなくて雨だもん!」
 うきうきと一人呟やき、手にした小石を朝日にかざした。小石は淡い黄緑色に透け、中に封じられた小さな虫も朝日に透けた。この石は、トエトリアの祖母や母親が小さかった頃に、算術の勉強で使っていたおはじきの一つだ。星の神殿が浮かぶ湖に長年沈んでいた琥珀を磨いたもので、陽炎らしき虫が封じられている。宝石というほど質の良いものではなかったが、彼女はとても気に入っていて、お母さんが病気で亡くなってから、何かにつけお付の妖精みたいに持ち歩くようになっていた。
「せっかく雨が降っていい気持ちなのに。熱が下がるまでは、外で遊ばせてくれないんだろうね」
 トエトリアは小石に語りかけるようにつぶやくと、手すりから床に飛び降りた。
「姫様!」
 間一髪、甲高い声が聞こえて、彼女は室内を振り返った。痩せて背の高い侍従長の女性が、大またで寝室に入ってくる所だ。危うく手すりの上にいるのを見られるところだった。侍従長はベッドの上から肩掛けを取ると、トエトリアの側まで小走りにやって来た。
「外は冷えます。また風邪をぶり返されたら、たいへんです! 雨が降っているから、お外でお遊びになられたいとでも思われたのでしょう。普通の者は、晴れの日にこそ屋外で遊びたくなるものですが」
「私は晴れの日より、雨の日の方が遠くへ出かけたくなる」
「分かっておりますとも。王女様が城を抜けだされたのは、みぞれ混じりの日でございました」
 侍従長は肩掛けをトエトリアに被せると、ベッドの所まで引き戻す。そして寝室の扉に向かって、どうぞと声をかけた。かしこまって現れたのは、トエトリアの母の代から王室付き医師をしている老人だ。彼はベッドの端に腰掛けているトエトリアの元へ近づき、うやうやしく朝の挨拶をする。彼は彼女の額に手を当て、次に舌の色を調べた。
「まだ少しお熱があるようですが、風邪が原因ではなさそうですな。体内に残っている眠り薬の毒気が、解毒薬の力でまだ燃えているようです。ご気分はどうでしょうか」
「お腹がすいたかな」
「食欲が出てきましたな。それは結構。解毒薬より良い食事の方が何よりの良薬でしょう」
 医師は微笑んで、侍従長を振り返る。
「一日くらいならお姫様も耐えられましょう。少々おかわいそうな気もいたしますが」
 トエトリアも侍従長へ顔を向ける。
「何? 何のこと?」
「今日からまた少しずつ、公務に復帰していただくということです。王女殿下の今日のご予定を申し上げます」
 侍従長は懐に差した筒から、さっと長い巻物を取り出した。それを見たトエトリアは鳥肌が立つのを感じる。風邪もよくなって、いつもの朝の光景が戻ってきたのだ。
「聞きたくないっ!」
 しかし耳をふさいでも、侍従長の甲高い声は手のひらを突き破って脳天に響いてくる。
「朝食をとりつつ下層まで移動。城下の謁見の間にて、新しくわが城の国民となった者達の名読みの儀。再び上部二層にて王衛就任の儀。以上でございます。お昼過ぎには全て終了する予定になっております」
「……それだけ?」
 トエトリアは疑い深げに、侍従長の反応をうかがう。信じられないことだった。いつもなら二度寝ができるくらい、長々と今日の予定が続くのだ。侍従長は澄ましながら頷き、巻物を元通りに収める。
「あなどってはなりません。王衛就任の儀は正装をしていただきますので、お覚悟を」
「正装……。明日に延期するとかはだめ?」
「いま何かおっしゃりましたか」
 わがままは聞き入れないとばかりに、侍従長が鋭く聞き返す。
「王衛の方は、昨日から儀式の準備で剣の間に篭っています。儀式が終わるまで、日の下には出て来れません。彼にもう一日そこに居ろと、おっしゃられますか」
 トエトリアは頭を振ってベッドから降りると、お召し代えに現れた女官達に体を預けた。女官達は王女の長い髪を三人がかりで梳かし始める。侍従長はそれを見届け、回れ右をして退出して行った。
「なんだかひどく機嫌が悪いね」
 トエトリアは、前髪を梳かす女官の一人に話しかける。
「姫様が一人で勝手に城からお出かけになったからですよ。私どももそうですが、侍従長もそれはそれは心配していらっしゃったんです」
「ちゃんと『人間の国に行ってくる』って、置手紙してたのに?」
 彼女は唇を尖らせる。すると、後ろ髪の上半分を梳かしつけていた女官が答えた。
「まあ! だから皆さん、あんなに慌てていたんですね。あの森の境界を越えるのは、いくら王族でも許されないのです。姫様はまだ子どもだったから罰を受けずに済みましたが、王室長官は大変だったようですよ」
「姫様が元気になられたと知ったら、お説教に参られるかもしれませんね」
「私、もう少し病気のままでいようかな……」
 後ろ髪の下半分を梳かしている女官が、首をかしげてトエトリアに尋ねる。
「でもどうして、一人で行こうなんて思われたのです?」
「大臣達が、人間が侵攻してくるかもしれないと言ってたの。もしそうなったら、ブレイヤールが真っ先に対応しなくちゃいけないらしいけど、実質的な行動を起こせるのはこの城だって、言ってた。だったら王女である私も敵を知らなきゃ、何のお手伝いも出来ないよ。で、大臣達にそう話してみたら、そんな必要ないって。仕方ないから、一人で調べに行くことにしただけなの」
「うーん。いくら王女様でも、皆さんが話し合いで決めたことを、勝手に破っちゃいけないと思います。それに人間って魔法は大してうまくありませんから、束になってきたってちっとも怖くなんてありませんわ。おまけに夜になれば、邪妖精に魂をかじられて、抜け殻になるだけです」
 別の女官が水盤を前へ差し出す。トエトリアは水盤の水を両手ですくって、顔を洗った。
——だから不用意に私達の世界に入り込まないよう、気をつけてあげないといけないんじゃないかしら。
 彼女は上の空で差し出された布を取り、顔を拭いた。
 女官達がトエトリアの寝巻きを脱がせ、銀糸の刺繍が入った深い黄緑色の服を着せた。琥珀のおはじきは、他のおはじきを入れた小箱に大切におさめられる。今日のお勤めが終わるまで、しばしのお別れだ。
 女官らは、髪を結い始める。彼女達はみな楽しそうだった。なにしろ王女様は石の肌と呼ばれる、血の気も感じられない真っ白な肌を持っている。夜空のような漆黒の肌とともに、石人達の間でこれらの肌色は最高に尊いとされていた。加えて、王女様の髪は柔らかな若葉を思わせるみずみずしい黄緑色につやつやと輝き、踵までまっすぐに流れ落ちている。綺麗に飾り立てればそれだけいっそう、彼女は美しい王女様になってくれた。女官達にとっては、存分に腕の振るい甲斐があるというものだ。
「さあ、仕上がりましたよ」
 謁見があるため、いつもより豪華な飾り付けだ。トエトリアが頭を振ると、小さな銀と真珠の髪飾りが触れ合って、しゃらしゃらと涼しげな音を奏でる。耳にくすぐったい音で、あまり好きにはなれない。腰紐に下がった銀の彫刻付き円盤飾りも、それなりに重い。歩いているうちに、腰紐ごと下に落ちてしまいそうな気がする。いずれにしても、物音を立てないで歩くなど不可能だ。
 腰から下は、広げると大きな四角い袋状になるズボンで、下二つの頂点に足首を出す穴が開いている。腰飾りで足の間の布を上に吊り上げ、大きく優雅なひだが足を包むつくりだ。これをはいたとき、気をつけなければいけないのは一つだけ。決して走らないこと。走ればひだに足を引っ掛けて、転ぶ。
 トエトリアは、首に鈴を付けられ、さらに紐付きの脚輪をされた鳥の気分になった。
 やれやれと居室を出ると、侍従長が辛抱強く待っていた。彼女は王女の身なりを確認し、ほんの少し歪んでいた上衣の裾を引っ張って直す。
「朝食は箱舟に用意しております。私は王衛就任の儀の用意がありますから、これで失礼させていただきます。途中でご気分が悪くなられたら、無理をせずに近くの者におっしゃるのですよ。薬を持たせておりますから」
「はぁい」
 侍従長が去ると、トエトリアは女官達を従え、さっそうと歩き出した。緑色の石の床が真っ直ぐ伸び、淡い灰色の壁は巧みに組み合わされた竹とヒスイの彫刻、小さなモザイク画で美しく飾られている。通路を守る近衛騎士達はうやうやしく頭を下げ、飾り柱のように控えている。皆黄緑色の髪をして、黄緑色のマントを羽織っている。近衛騎士をはじめとする王室直属の騎士は、黄緑色の髪を持つ人しかなれないのだ。
 トエトリアは一対の扉の前で立ち止まる。扉の前には二人の家来が、船の櫂を模した杖をささげ持っていた。彼らはトエトリアに一礼し、扉を開ける。
 扉の向こうは小さな丸い部屋だ。天井は高く、神魚の形にくりぬかれた天窓から弱い日の光が差し込んでいる。窓枠に嵌まっているのは薄く剥ぎ取られた雲母の板で、日の光に黄緑色をした天然の縞模様を浮かび上がらせていた。そして、部屋の床は水である。そこに部屋よりひとまわり小さい、箱型の舟が浮かんでいた。
 箱舟には二人の舟役が待っていて、トエトリアの手をとって舟に乗せてくれる。舟の上には、座り心地のよさそうなクッションと、椀に盛られた果物、穀物のビスケット、味付けした野菜のペーストに、湯気を立てる温かいお茶が用意されていた。トエトリアに続いて、三人の女官と一人の侍従が乗り込む。部屋の扉は重々しく閉じられた。
昇降塔「降下良し! 水を抜け!」
 トエトリアがクッションの上に落ち着いたのを確認し、舟役の一人が声を上げる。水面に小さなさざなみが立ち、まもなくゆっくりと、舟は水面と一緒に下降を始めた。
「さあ、朝食にいたしましょう」
 三人の女官達は果物を一口サイズに切り分け、野菜のペーストをビスケットに塗った。二人の舟役は双子で、それぞれ箱舟の縁に片足をかけ、舟が壁にぶつからないよう櫂で壁を押し、位置を正している。互いの呼吸を合わせる短い掛け声が、威勢良く楽しげだ。
 巨大な石人の城では、このように水を利用した昇降塔が使われていた。五階、十階程度なら階段でもいいのだが、それ以上となるとさすがに移動も大変になる。水を注入したり抜いたりするため素早い移動には向いていないものの、多くの荷物を一度に運べるという点でも、この昇降塔と箱舟は生活の重要な移動手段だった。そしてこの箱舟がひっくり返ったり、壁に引っかかったりしないよう操るのが、舟役の仕事だ。うっかり水の中に落ちた人も助けあげたりする。
 トエトリアは、女官達が切り分けてくれた果物を口に含んだ。まだ熱のある喉に、心地よい冷たさが通っていく。頭上を見上げると、少し遠くなった天窓の魚模様が見えた。四方の壁には時々モザイク画が水面から現れる。また、壁に窓のように埋め込まれた大粒の宝石を通して、外の光や壁の向こうに灯されている明かりが入ってきていた。まだ水面の下にある窓からも、透明な水を通して小さな明かりがゆらいでいる。
 朝食が済んでも箱舟はまだ目的の階には着かない。ゆうに百階は下るので、時間がかかるのは仕方のないことだ。王族や貴族であれば、この長い時間を優雅に過ごせるよう様々な工夫を凝らす。たいていは詩人や楽士を一緒に乗せて、小さな宴会を開いたりするのだ。ところが王女であるトエトリアの場合は、優雅からは程遠いものだった。
「ここなら逃げられませんものね。さあ、魔法のお勉強をしましょう」
 おもむろに立ち上がった侍従が、トエトリアの前に分厚い本をどしんと置く。どこに隠し持っていたのやら、不思議なものだ。トエトリアはかくんとうな垂れた。
 舟が下層に着いたのは日も高くなっての頃だ。昇降塔の分厚い扉が重々しく開くと、近衛隊長の気難しそうな顔が待っていた。近衛隊長は卵型の小さな顔をした女性で、侍従長とはまた違った意味で、トエトリアは彼女が苦手だ。
「おはようございます、王女様。名読みの儀の用意はすでに整っておりますゆえ、謁見の間へご案内いたします」
 近衛隊長は短い朝の挨拶をすると、それ以上無駄な言葉は一切口にせず、トエトリアを国民との謁見の間へと促した。隊長の後ろに控えていた数人の近衛兵が、王女を先導するためにさっと背を向ける。近衛兵の黄緑のマントが、窓から差し込む光に鮮やかな色彩を躍らせた。
 謁見室には、生まれて間もない赤ん坊を連れた大人と、二家族くらいの新しい城民が待っていた。王座の両脇には、左右の大臣も控えている。トエトリアが王座に胡坐をかくと、部屋の一同は彼女に向かって膝を折り、深々と礼をする。
「名読みの儀を執り行います。順に王女様の前へ出て、名をお告げなさい」
 左大臣が重々しく口を開き、侍従がトエトリアの前に筆記台と筆と、小さな紙束を用意する。赤ん坊を抱いた親は子の名前をトエトリアに告げ、忠誠の証として赤ん坊の小さな手をとって彼女の膝を触らせた。トエトリアは聞いた名を紙に書きとめる。
 本来であれば名読みの儀は王の仕事だ。ところがトエトリアの母であった女王は若くして亡くなり、黄緑の城は王が不在の国となっている。トエトリアは王の娘であったから、いずれ王位を継ぐ者として、幾つかの重要な儀式を執り行う義務があった。名読みの儀も重要な儀式の一つだ。王は国民一人一人の名を書き留め、それを城に捧げることで、魔物や邪妖精から守るべき者を城に教えるのだ。
 すべての名を書き終えると、彼女は紙束を持って謁見室の中央へと向かう。そこには床から大きな杯型の台座が生えている。石造りの台座は目立った装飾もなく、重要なものには到底見えなかったが、名読みの儀にはとても大切なものだった。トエトリアは紙束を台座に端から一枚ずつ並べ、それから台座の杯を支えるように下から手を添える。すると、ポッという軽い音とともに紙束は透明な炎に包まれて燃え出し、あっという間に燃え尽きる。台座の上には灰すら残っていない。トエトリアは台座の上をそっとなで、本当にそこに何もないことを確認する。台座はほんの少し暖かくなっていた。彼女は誰にも気づかれないよう安堵の息をつく。そして国民達を振り返り、古くから定められた言葉を告げる。
「我が城はそなた達を受け入れ、守り、応えるでしょう」
 それまで神妙に儀式の進行を見守っていた国民達が、ようやく顔をほころばせた。もし台座の上に自分の名が書かれた紙の灰が残っていたら、城に暮らすことを許されないのだ。長い城の歴史でもそういったことがあった試しはほとんどないのだが、名を試される方はいつの時代でも気が気でないらしい。もちろんトエトリアだって、灰が残らないかどうかいつも心配だ。灰が残ったときなんと言うべきか、儀式の先生は教えてくれなかったのだから。
 名読みの儀式がすむと、トエトリアは再び昇降塔の舟に乗り込む。左右の大臣達も次の王衛就任の儀を見守るため、別の昇降塔へ急いで去っていった。今度は昇りなので、昇降塔には水が注入されることになる。
 塔の扉が閉まると、まもなく四方の壁を伝って薄い滝が落ちてきた。塔のずっと下の方でも、ものすごい勢いで水が流れ込んでいるはずだ。それでも登りは降りの倍くらい時間がかかる。女官達はこのときも時間を無駄にはしない。トエトリアの髪をほどいてよく梳ると、まじないの言葉を口ずさみながら正装用の髪型に編みはじめる。髪を何本もの細い束にわけ、布を織るように編みこんでいくのだ。均等な強さで編まないと、よじれて不恰好になる。トエトリアはうかつに頭も動かせず、石の像のように舟の上でじっとしていなければならない。
「お姫様も大変ですこと。お城から逃げ出したくなるのも、分かりますわ」
 舟役の双子が笑った。
「名読みの儀も、なんでもないように見えて大変だしね」
 トエトリアは口を尖らせて答える。
「名札を燃やして、灰が残らなければいいんですよね。私達は先代に名読みの儀をしていただきました」
「あれは私が燃やしているわけじゃないの。城が燃やしているのよ」
「城が?」
「あ、でも私と城とが一緒に燃やしているのかな。あの台座を通じて」
 トエトリアは首をかしげて、膝の上の両手を見つめる。あの台座の芯は、城の構造体と一繋がりとなっている。台座の杯の下、王が手で触れる部分は化粧石で覆われることなく、この構造体がむき出しになっていた。構造体は継ぎ目のない半透明の石で、王にしか引き出せない城の魔力を秘めている。こまごまとした儀式の中にはこうして直に構造体に触れることがあり、その度ごとに彼女は城の魔力に触れていた。城の力は何度触れても底知れず、一向に理解が出来るものではなかった。
「そうだ。王衛就任の儀は、城の中枢であるんだったよね」
「その通りでございます。さ、編み目が歪みますから……」
 女官が答えて、トエトリアのかしいだ首を元通りに押し戻す。
 髪が編みあがり、昼食もとってそろそろ眠くなる時間。ようやく舟は上層に位置する王城に到着する。待ち受けていた侍従長がすかさず寄ってきて、トエトリアの髪型を確認した。侍従長はてきぱきと女官達に指示を出す。
「すぐにお清めを。風邪をぶり返されるといけないから、お体を冷やさないよう気をつけて。そちらに部屋を整えているから、お召し替えはそこで」
お召かえ トエトリアはそのまま女官達の流れ作業に乗せられて、何がなにやら段取りがつかめないまま、急かされるままに控えの間から浴室へ、浴室から着替えの部屋へと移される。部屋の大きな机の上には正装用の衣装がずらりと並べられていた。侍従長は端から順に着せていくように指示し、自分も服を取って王女に着付けを始める。
 当の王女本人はといえば、もう半分は昼寝をしていた。寝ていても周りの女官が体を支えて引っ張りまわし、うまい具合に服を着せていってくれる。それでも侍従長が古風な長衣の帯を思いっきり締めると、彼女は咳き込んで目を覚ました。
「さ、これからが本番です。寝ている場合ではございませんよ!」
 城の、すなわち国の守護者である王の正装は、戦衣装だった。魔物から城を守るという意味がある。草水晶の石鱗を幾重にも重ねた鎧をつけ、腰には金銀細工のベルト、そして翡翠の剣を下げる。頭には銀細工の冠。こちらにも淡い黄緑の宝石がちりばめられている。最後に床に引きずるほどの長いマントを羽織る。それは春の大草原のような、萌え立つ若芽色だった。体の動きにあわせて、風が渡るかのように銀色の波模様が現れる。それはそれは見事な織物だった。
 すべての着付けが終わると、トエトリアは重すぎて動けなくなる。体重が三倍以上に増えたぐらいの苦しさだ。そもそもこの衣装は、大人用なのだ。泣きそうな顔で侍従長に無言の訴えを投げる。
「近衛隊長殿、いらっしゃってます?」
 侍従長はすぐさま隊長を呼んだ。
「両脇から支えて、姫様がお歩きになれるよう手を貸してください」
 隊長は小さくうなずき、二人の近衛騎士をトエトリアの助けに立たせた。
 用意が整うと一同は王女の歩調に合わせ、そろそろと儀式の間へと移動を開始した。道中、星の神殿から派遣された神官がすっと追いついて来て、王女と並ぶ。彼は儀式の段取りを伝えにきたのだ。
「まず一つ。ですがこれがすべてです。儀式の間では一切口を聞かぬこと。よろしいですか?」
 トエトリアは無言で頷いた。服が重くて、口をきく余裕がない。本当ならば神官の問いかけにきちんと答えないのは、とても失礼なことなのだ。もっとも神官は彼女の様子を見て、大目に見てくれた。彼は無礼を気にすることなく、先を続ける。
「王衛はあなた様の家臣であり、また星の神殿の神官でもありますが、実際の立場は特殊です。彼らの仕事は王の命を守ることで、その使命を果たすためならば法を犯しても構わないとされます。というのも王衛となるものは儀式の間へ入ると同時に、戸籍の上では死亡とされます。死んだ者ですからこの世の法に縛られる必要がないのです。儀式の部屋となる『剣の間』は、あの世とこの世の境だとお心得ください」
「分かりました」
 今度はトエトリアも、王女として何とか言葉を返す。
「結構なご返事です。それでは星の剣と杖の話は、すでにお勉強されておりますか?」
「十二国建国以来伝わる、初代国王の魔力を宿した一振りの王剣と王杖。それから、大巫女様の霊力を封じた、王剣と対になっている剣があるって聞きました」
 トエトリアは早口に答える。重たい冠のために首は痛いし、鎧のおかげで肩も痛くなってくる。儀式の間まで、体力が持つかどうかもあやしい。
「その通りです。黄緑の国では王剣は栄光とともに失われてしまいましたが、守護の剣が残っていることはたいへん素晴らしいのです。大巫女様の力が宿っているため、剣の持つ力は王剣よりも大きく、もっともよく王を守護するといわれているのですから」
 それから神官は、黄緑の国の歴史において守護の剣が大活躍した話をいくつも話す。神官の顔に表情はないが。声だけは少し誇らしく聞こえた。
 静を重んじる星の神殿は、神官達に表情を出すことを禁じている。感情がどうしても顔に表れそうになったときのため、顔を覆うお面を持ち歩かせているほどだ。トエトリアは視線を下げ、神官の胸元を見てみる。前あわせの上着の懐に、布を押し固めて作ったお面が覗いていた。
 神官が式の段取りを確認しているうち、遅れて到着した左右の大臣達も合流して来た。やがて一同は、城の中枢に入る大扉の前に到着する。黒地に銀と黄緑の琥珀で装飾された扉も、今は幾重もの魔法の鍵を取り払われて、大きく口を開けていた。扉の両脇には神殿の騎士らが居並んで、中枢の入口を守っている。神殿騎士は神官と異なり、常にお面を被っている。その上物々しく武装した彼らの姿は人の気配も感じさせず、どことなく不気味だ。入り口の中央に立つ騎士が、白い魔法の炎を揺らめかせる長い銀のトーチを床に立てて構えていた。トーチは騎士の身長の倍もある。神官の話によると、中枢回廊に明かりを入れることは禁じられているため、この明かりを使って中に入る一同の足元を照らすという。
 中枢入口の前で神官は深く一礼する。それから一同を振り返り、静粛に進むよう、唇の前に両袖をつき合せて見せた。トエトリアは頷き、この国の王族として最初に中枢への門をくぐった。神官とその他の家臣達が後ろに続く。
 中枢回廊は城の根から頂上までを貫くといわれる、巨大な円柱の塔を中心とした螺旋のスロープである。この中枢部の壁面は、城の構造をなす石がむき出しのままになっていた。この石は城の部位によって透明度がまちまちだが、中枢部の構造石はそのすべてが澄んだ水のように透き通っている。そうとはいえ、外の光が入らない場所では、石は漆黒一色にも見えた。ただスロープ外周側の壁の奥で、白く輝く面がいくつもある。トエトリアは後ろを振り返り、神殿騎士がかかげていた明かりが、壁の中にある屈折面で反射しているのを知った。彼女は壁の奥を見透かそうと目を凝らす。しかし光を反射している部分以外は星のない夜空のように真っ暗で、奥行きさえ分からなかった。
 一同は立ち止まることなく螺旋道を下って行く。奥へ行くほど入口から直接差し込んでいた明かりは届かなくなり、騎士が捧げていた銀の杖の光を反射した白い輝きだけが道を知らせるものになった。光は壁の奥で砕けた鏡の破片のように輝き、回廊の床がそれを受けて暗闇の中に淡く輪郭を浮き上がらせている。
 中枢を支配する暗闇に目が慣れてくると、外周の壁の中にほのかな明るい縦の線がいくつも見えてきた。トエトリアは立ち止まり、壁に顔を近づける。それは細い光の線が小さな円を描いているものだった。円はわずかに細くなったり太くなったりしながら、ゆっくりと上へ昇っている。
——水の中の泡かしら? それとも水の粒なのかしら?
 城ではどんな高所でも、水が尽きることなく湧き出ていた。それはこの城に限らず、白城でも他の城でも同じだ。その仕組みについて昔から様々な議論がされていたものの、実際の所は誰にも分からなかった。水は構造石の湧き出し口から流れてくるのだが、構造石はダイヤモンドのように硬く、その奥の水路がどうなっているのか、調べようにも手が出せないのだ。
 水を汲み上げる秘密があるとすれば、この中枢のどこかだろう。この壁の奥でゆっくりと立ち昇る小さな水、あるいは気泡を含んだ細い水の通り道が、その秘密なのだろうか。トエトリアは首をひねって壁から離れ、再び歩み始めた。
 剣の間は塔の中にあった。扉は開け放たれ、部屋からは白く輝く煙が外へ漏れている。スロープの外周側には砕けた光の欠片がいくつもあったが、塔の外壁でもある内周側は、常に真っ暗だった。剣の間付近だけを輝く煙が照らし、透き通った基礎石を通して塔の内側を覆う化粧石の背面をあらわにしている。化粧石は黒っぽい色をして、背面には細かな蔦模様らしきものが彫り込まれている。
「少々お持ちください。儀式の用意がまだ整っていないようです」
 神官が扉の前に立ち、トエトリアにそっと告げた。まだ部屋には入れないらしい。
 トエトリアは神官の背中越しに室内を覗いてみる。暗い部屋の中央には、きらびやかな正装に身を包んだ老神官の姿があった。その片手に鎖のついた光炉を下げている。輝く煙はそこから立ち昇り、淡くあたりに漂っていた。煙に照らし出される室内は磨かれた暗黄緑の石が敷き詰められているだけで、調度品は一切ない。部屋の奥に、隣室へと続いているらしい二本柱のアーチがある。隣室は真っ暗だ。
 やがてそのべったりと暗闇に塗りつぶされた柱の間から、三つの人影が浮き出るように現れた。真ん中の人影は知っている。彼女をタバッサから連れ帰った若い方の石人、シェドだ。両脇の二人は装束から神官だと分かる。光炉のほのかな明かりの中で、三人とも顔色が悪く見える。シェドは時々足元がふらついて、左右の神官に支えられることもある。
 三人は老神官の前にひざまずく。左右の神官だけがすぐに立ち上がり、部屋の片隅へと身を引いた。そのうち一人が、怯えたように自分達の出てきたアーチの暗闇へ一瞬目をやったのが見えた。
 老神官が腰帯から細身の銀の杖を抜き、光炉を軽く打つ。澄んだ音色が中枢に響いた。儀式を始める合図だ。トエトリアはそっと部屋へ踏み込む。何枚も着重ねているというのに、室内の冷気が肌を刺した。老神官の隣へ行き、ひざまずいたシェドと向かい合う。シェドが身に付けているのは、黒地に銀刺繍で複雑な曲線を描いた貫頭衣だ。それは石人の死装束だった。
 老神官が再び光炉を打つ。隣室から剣を捧げ持った神官が、静かに歩み出てきた。剣は抜き身のままで、研ぎ澄まされた刀身には冴え冴えとした白い光が宿っているように見える。神官は顔にお面をつけていた。老神官は光炉と入れ替わりに輝く剣を受け取り、それを恭しくトエトリアの前に差し出した。
「大巫女様の無き御名において、この者は剣の影となることをお誓い申し上げます」
 トエトリアの背筋を痺れるような悪寒が走る。嫌な誓いの言葉だ。剣の影なんて、まるで人ではなくなるかのような言い回しではないか。
 彼女は王衛と言うものが、他の家臣達とは全く異なる立場にあることに、ようやく気が付いた。剣を捧げ持つ老神官の手は震えている。大巫女の魔力が宿る剣の尊さと、剣の鋭さを畏れているのだ。彼女も震えた。命を捨てて剣の影になろうとする王衛を迎えることは、彼女自身もまた、王の立場に一歩近づくことなのだ。その責任の重さに気が付くと、彼女は怖くて仕方がなくなった。
 トエトリアは助けを求めるように、視線を泳がせる。老神官は剣を捧げ持つことに全身全霊を傾けている。シェドはまるで眠っているかのように無防備にうな垂れてひざまずいたままだし、部屋の隅に控える神官達も無表情だ。部屋の入口には侍従長や大臣達の姿が見えた。彼らは目を丸くして、無言でトエトリアを急かしている。助けてくれそうな人はいない。むしろ彼女が王にならねば、この人達は助けの手を差し伸べられないのかもしれない。王に仕え、国に仕える人達なのだから。
 トエトリアは口を引き結んで覚悟を決める。彼女は剣の刀身に右手を下から添え、左手で剣の柄を掴む。心配していた剣の重量は、あまりの軽さにかえって戸惑うほどだった。子どもの彼女でも、危なげなく持てる。老神官に視線を送ると、彼は両腕を真っ直ぐ下げた。剣はトエトリアの手に残る。
儀式 彼女は光炉の光に煙る銀色の刀身を見つめた。ふとある確信が芽生えて、固く目を閉じ、右手を握りこむ。刃が指の腹に当たる感触がある。再び手を開く。指には刃の痕が残っていたが、血は滲んですらいない。彼女は理解した。確かにこの剣は王を守る剣だ。自らの刃からも王を守っている。当時の大巫女様の魔力が、剣にその意思を吹き込んだのだ。
 彼女は剣から顔を上げ、老神官を見返した。相手は一礼をして後ろへ下がる。儀式は、王衛の首の後ろへ剣を添えれば終わる。彼女は刀身に添えた手を離し、剣を水平に薙ぎながら王衛の方へ向きなおる。
 トエトリアは目を見開き、全身で大きく息を吸った。彼女はそれで我に返った。いつの間にか、剣は足元の床に突き立っている。何が起こったのかよく分からず、じっと剣を見つめていると、シェドのやや戸惑ったような顔が視界に入る。彼は立って、剣の柄に手をかけて引き抜いた。それから剣を脇に置き、再び服従の姿勢に戻る。トエトリアが横を向くと、老神官が部屋の入口を示した。儀式は王が王衛を伴って部屋から出ることで完結する。とすれば、もう儀式は終わったのだ。
 トエトリアはわけが分からないままに、老神官の無言の指示に従った。体が冷え切っていて感覚がない。両足もきちんと動かせているか、衣の裾から覗くつま先に意識を集中させなければ歩けなかった。部屋から出ると、すぐに両脇から近衛兵達が支えてくれた。一行は足早に中枢のスロープを戻った。
「私、儀式をちゃんとやれていた?」
 ようやく城の中枢から出ると、すぐにトエトリアは侍従長に尋ねた。自分が儀式の最中の、しかも一番大事なときの記憶を失っていたのは確かだ。よほど緊張していたのだろうか。あの間、自分の身に何が起こり、自分は何をしたのか、不安でならなかった。
「はい。迷うことなく王衛殿の首に剣を載せ、たいへん立派でございました。最後に剣を取り落とされたのには驚きましたが。床の傷は神官様方が直してくださいますから、ご心配には及びません」
侍従長は血の気の引いた顔をしていた。けれどもそれは、単に緊張と寒さのせいなのかもしれない。彼女の口調は、いつもと変わらなかった。
「王女様には、剣が重かったのかもしれません。お気になさいますな。あの剣はとても鋭い刃を持ちますが、王と王衛は決して傷つけないのです」
 儀式の間へ案内した神官も口を添える。トエトリアは頷いた。
 周りで見ていた者達は、見た通りのことしか分かっていないようだ。彼女が目を開けたとき、心がまるでどこか遠くから帰ってきた感覚がしたことや、そのために、まるで自分の魂を体に呼び戻すように、大きく息を吸い込まなければいけなかったことは、彼女にしか分からない。これが儀式というものなのだろうか。過去の黄緑の国の王達も、そして他国の王達も、王衛就任の儀でこんな気味の悪い経験をするものなのだろうか。
 トエトリアは後ろを振り向いた。王衛になったシェドが、服を着替えて中枢の扉から出てくるところだ。身に付けていた死装束は縦に長細く折りたたまれ、肩から腰へたすき掛けにして王衛を表す帯飾りになっている。剣帯は黄緑の国の所属であることを示す黄緑色で、剣を二本吊っていた。細身で短い方があの守護の剣で、もう一本のものは近衛兵が持っている剣と同じだ。改めて守護の剣を見ると、柄には国の紋章である神魚が透かしとして彫り込まれており、全体的に華奢で、実用というよりも飾り用に見える。それでも実際には石に突き刺さるほどの、とんでもない切れ味の剣なのだ。
 シェドに続いて、儀式の間にいた二人の神官達も出てくる。彼らは互いに言葉を交わしていたが、小さな声だったので彼女には何を言っているのか分からない。シェドがそれに気づいて、鋭い動作で彼らを振り返ると、神官達は揃って口を閉じた。トエトリアには、シェドが彼らを無言で戒めたように見えた。とすれば、神官達は何かよくないことを言っていたのだろうか。
「さあ、すべて終わりました。戻りましょう。姫様も随分お体を冷やしてしまいました」
 左大臣がトエトリアの様子を気遣って、皆を急かす。確かにトエトリアはくたくただった。寒い部屋で散々緊張して、冷や汗もいっぱいかいた。悪寒も止まらない。結局私室に戻った彼女は、すぐさまベッドに寝かしつけられて薬草茶を飲む羽目になってしまった。悪寒の説明が、上手く出来なかったからだ。おかげで儀式の間で体験した不気味な記憶の欠落は、風邪をぶり返したせいにされてしまった。
 日が暮れると大臣達が見舞いに訪れ、最期にシェドが現れた。トエトリアは暖炉の側の長椅子で、しょんぼりと食後の水薬を飲んでいるところだった。
「お加減はいかがですか?」
 彼は一礼をした後、大臣達と同じ言葉をかけた。
 シェドはひと月前に、神殿から城に来ていた。王衛に選ばれるくらいだから、髪は灰色でも黄緑の貴族の血縁者なのだろう。トエトリアの前にもちょくちょく顔を出していたので、どんな人なのか大体分かっていた。他の神官に漏れず、彼は礼儀正しく、過不足ない行動というものをわきまえている。そこから真面目で善良な性格が垣間見えることもあった。表情に乏しいのは神官というそれまでの生活上、仕方がないのかもしれない。仕事中の近衛兵達も同じように無表情な感じだから、さほど気にはならない。王衛の儀を終えたからといって、彼は人が変わったようには見えなかった。ただ儀式で疲れているのか、少し悲しげな様子が目元や声色ににじんでいる気はする。
「本当に、あれでよかったのかな」
 トエトリアは尋ねてみた。儀式のことがどうしても気になってしょうがない。王衛ならば遠慮なく聞いていい相手だ。あの儀式が持つ秘密を共有しているのだから。
「それから、あの部屋の奥はどうなっているの? 守護の剣が置いてあるだけ?」
「恐れながら……」
 シェドは長椅子の脇にひざまずいて答えた。
「あの部屋に何があるか、口外してはならないのです。部屋に入ることが出来るのも、王衛と星の神殿の神官だけです」
「……それは、剣以外にも何かあるってこと?」
 トエトリアが探りを入れると、相手は困ったように微笑んだ。
「確かに剣が安置されています。剣には代々の王衛達の記憶が残されており、それが王をお守りするために役立ちます。剣は王の身に降りかかるあらゆる危機を、はねのけてきたからです。この話はご存知でしょう」
「うん。じゃあ、私に降りかかる危機も、剣ははねのけてくれるの?」
「もちろんです。しかし幸いにして、今は穏やかな時代です」
「王の剣が失われたとき、守護の剣は王の剣の側にはなかった」
 トエトリアは国の歴史の一節を口にする。黄緑の国の王剣は、七百年前に失くなったのだ。
「悪い魔法使いを倒すために、当時の王子が、姉であり王であった人の棺から、勝手に王剣を持ち出してしまったのよね」
「はい。以来、王子のご遺体とともに行方が知れません」
 シェドはトエトリアの言葉に頷いて答える。王の剣が失われたということは、守護の剣が王を守る唯一の剣になってしまったことでもあった。それだけに王衛は、いっそう重大なお役目になってくる。
 トエトリアは儀式の間の隣室に、守護の剣以外に何があったのか、なんとなく分かるような気がした。シェドの沈んだ様子は、七百年前に王剣の持ち主を守れなかった、守護の剣の無念にあるのではないだろうか。ならば彼も、あの儀式で、形は違えど彼女と同じように不気味な経験をしたのではないだろうか。
「儀式の最中、私が意識を失ったのに、気がついた? 私、あなたの首に剣を置いた記憶がないの」
 トエトリアははやる気持ちを押さえつつ、口元に手をあて、小声で話す。脇の小机を隔てて、女官達がトエトリアの寝仕度の用意をしていたからだ。シェドもちらりと彼女達の方へ目を向けた。彼も他の者に聞かれるのはまずいと思ったらしい。声を落として答えた。
「神官達もそれを気にしていたのです。しかしながら私を含め彼らも、姫様が気を遠くされたのは、剣を取り落とされた一瞬だと思っておりました」
 彼は腰にさした守護の剣を、ちょっとだけ引き抜いてみせる。澄み透った刀身がトエトリアの瞳を映している。シェドの答えに、トエトリアは当てをはずした気になってがっかりした。
「姫様はまだ即位をしておられませんから、お力が不十分であったのかもしれません。この剣を手に取るだけでも、それなりの気力が必要なのです。しかし決して忘れないでください。王衛を任じられるのは、王だけです」
 それから彼はわずかに覗かせた刀身へ、自分の指を押し当ててみせる。トエトリアは、あっと声を上げそうになった。シェドが再びその指を彼女の方に見せると、細いあざが出来ただけで、血は流れていない。
「私が王衛と認められた証です。姫様も剣を握られたとき、手を切ることはございませんでした」
「……そうだね」
 トエトリアには、自分の感じたことを伝えられるだけの言葉で、うまく話すことが出来なかった。剣が彼女を主だと認めているのは、間違いないようだ。けれども儀式の最中に意識を失った理由ははっきりせず、それが拭いきれない不安としてずっと心に残っている。
「あのね。剣の間は、怖い所だった?」
 シェドはトエトリアを見返した。暫くした後、彼は頷いた。
「二度とあの儀式の間に入りたいとは思いません」
 トエトリアは答えを聞いて、ようやくにっこりと微笑んだ。やはり王衛にとっても、儀式は恐ろしいものだったらしい。王衛の本音を引き出して、彼女は満足した。
疲れました 城にはたくさんの秘密が隠されていて、それが城の力となっている。いくら王でも、城の秘密を全て知ることは出来ない。けれども知っている秘密も知らない秘密も、すべて受け入れることが、王には必要なのだ。今日あった二つの儀式にも、城の秘密はいっぱい隠されていたに違いない。もし自分が正式に王となれば、儀式を執り行う度、今日のように不可解な経験をすることもあるかもしれない。だとすれば、それをいちいち怖がっていては、王は務まらないだろう。
「寝る支度ができたみたい。私、今日はもう休みます」
 トエトリアが告げると、シェドは頭を下げて身を引いた。彼女は長椅子からぽんと飛び降り、寝室の扉へ歩き出す。控えていた女官達が扉を開ける。寝室の向こうのバルコニーから、色とりどりの光の粒が散るのが見えた。春迎えの祭りで放つ、花火の試し打ちらしい。
「すごい!」
 トエトリアは歓声を上げ、バルコニーへと駆け寄った。花火の輝きは、城の秘密がつまった暗い中枢の記憶を、彼女の頭からいっぺんに追い払ってくれた。

 花火の音に耳を澄ます、ひとりの若い女性がいた。どこにでも変わり者はいるもので、アニュディもそうだ。城の中層に位置するひとつの町の、たった一人の住人だった。
 石人の数が減ってから、人の住まなくなった町は他の国同様、この黄緑の国にもたくさんあった。大ざっぱに廃地とよばれるこういった無人の町は、水門が閉じられ井戸は干上がり、日に一回兵士が見回りに来るくらいの寂しい所だ。
 アニュディは城に許可を取って、廃地となった町のひとつに住んでいた。下層の巨大な城内都市に住んだ方が、生活はずっと便利かもしれない。けれども変わり者の彼女は、不便で静かなこの町の方が好きだった。
 町には、石造りの家々が通りに沿って綺麗に並んで建っている。どの家も中庭を四角く囲う平屋だが、中庭は通りよりも一階か二階分低く掘り込まれた位置にあり、中央に水場が設けられている。各階は階段状に重なっているために、中庭にいても広い空を見上げることが出来た。高所から町を見下ろすと、家々は塩の結晶のように見えるだろう。
 彼女は大きな中庭を持つ家を自宅に選び、庭でたくさんの薬草を育てている。通りの入口を閉ざす門の鍵は彼女が管理し、夜になれば門の戸締りも忘れない。自分一人で町を独り占めする気分は最高だ。若い女性の一人暮らしを心配されたり、変人ぶりを面白がられたりもしたが、彼女は気にしなかった。泥棒を返り討ちにする魔法ならよく知っているし、自分でも自分のことをちょっと変わり者だと認めている。しかし人嫌いかと問われれば、そういうわけでもないと答える。月に二回は友人知人を集めて、近所迷惑の心配もなく、夜遅くまでパーティーを開くのだから。
 通りでは一軒の家だけが玄関に、ドライフラワーを巻き付けて飾った粗末な木の脚立を出している。その上には目の粗い葦の丸駕籠が置かれ、光の玉を納めた香ランプが籠の内側でぼんやりと輝いていた。日が暮れると玄関先に明かり香を灯すのが、人の住む家の習わしだ。香が尽きて明かりの消える頃が、町が眠りにつく時間だった。
 アニュディはその日も日暮れの鐘を聞き、中庭に面した地下二階から一段ずつ階段を上って、明かりを灯しに行った。たとえ自分がたった一人の住人でも、彼女はこの慣わしを大切にしている。夜に城を遠くから見たとき、この灯りがとてもきれいに城を飾ると聞いたからだ。ここより上の層に住む彼女の家族も、この灯りを見れば、彼女が何事もなく生活しているのを知ることができる。
「……あらあら、もう花火は終わりなんだ。試し打ちなら仕方ないわね。たまには賑やかな夜もいいものだけど」
 彼女は再び作業台のスツールに腰掛け、そっと台の上を片手でなぞる。乳鉢の冷たく重い胴が、小指に触れた。
「今日中に、これだけでも終わらせなきゃ」
 アニュディは呟いて、台の上の乳鉢を引き寄せる。
 ごろごろと乳鉢を擦る。乳棒の先でパチパチと弾ける、乾燥した堅いつぼみの音。ほのかに立ち昇る未熟な花弁の清々しい香り。中庭に向かって大きく開いた窓は作業台の正面にあって、冷たい風で部屋を満たしている。
「今夜も冷えそうだな。よし。もうひとつまみ春の呼び手を加えて、この寒さを退治してやる。青黄金の花はどこだっけ」
 彼女は手を止めて立ち上がる。片手を上に伸ばすと、梁にずらりとぶら下げた香草と薬草の束に当たる。彼女は指先で薬草束に触れ、その香りを確かめながら、梁の下をゆっくり歩く。青黄金の花はすぐに見つかった。乾いた茎を一筋抜き取り、薬草束の列を指で確かめながら作業台へ戻る。
 乾いた茎からしごくように青黄金の花の芽を摘み、片手で探り寄せた乳鉢に移す。さらに腕を台の奥へ延ばし、蜂蜜の鈴付小瓶を引き寄せる。ひと匙を乳鉢へ加え、瓶を元の場所へ戻す。
 やがてしばらく途絶えていたすり鉢の心地よい響きが、彼女の仕事部屋に戻ってきた。
「やつぱり冷えてきた。春呼びの香が去年より入りようなのも、納得ね」
 練りあがった香を小分けに丸め、乾燥棚へ納める。それから作業台の上に身を乗り出して、窓を閉めようと片腕を前へ泳がせた。
 最後の夕の風が、中庭からさっと吹き込んだ。彼女は首を傾げる。微かだが、風以外のものも通っていった気がしたのだ。むしろそれが夕の風を部屋に導いたのかもしれない。
 アニュディは少し迷い、窓の扉を開けたままにしておく。それから背筋をまっすぐに伸ばした。
「どちら様? お客さんなら玄関から入ってもらわなきゃ。風に紛れて入ってくるなんて、礼儀知らずね」
 彼女は努めて明るく、はっきりとした声を出す。こういうとき、怖がっていることを相手に気取られたら駄目なのだ。暫く耳を澄ますが、何の物音も聞こえない。何か入ってきたと思ったのは気のせいだったのだろうか。
 彼女が緊張を緩めかけたとき、彼女の背後、部屋の壁際辺りで、かすかな衣擦れの音がした。
——やっぱり何かいる!
 アニュディは振り返り、余裕を装いながら、腕を組んで作業台に軽くもたれ掛かる。本当は胸がドキドキしている。魔術の縄で進入者を縛り上げようかとも考えるが、いざとなると気が動転して呪文が思い出せない。情けないものだ。
「部屋の明かりをつけてあげましょうか? それとも用がないなら、さっさと出ていってくださいな。それがお互いのためじゃない?」
 考えた末に、もう一度呼びかけてみる。まずは相手の正体を見極めようと思ったのだ。
「明かりはいい。私は物を見るのに、明かりを必要としない」
 返ってきた言葉は少年の声色で、まるで水の奥から発せられたようにくぐもって遠かった。
 アニュディは思わず眉根を寄せる。強盗と思った相手が子どもだとは、予想外だ。しかし子どもならば、魔術を使わなくてもどうにかなるかもしれない。
「とりあえず窓は閉めるわ。私も明るかろうが暗かろうが、どっちでもいいの。ただ、冷えてきたから」
 アニュディは言いながら窓を閉める。その背中に再び声が聞こえる。今度は先程よりしっかりした音だった。
「翼を貸してもらいたい」
「翼?」
 またしても予想だにしていない言葉に、アニュディは飛び上がるようにして振り返った。それでもすぐに口元を引き結び、頭を振る。
「だめよ。用事より先に、名乗ってちょうだい。あんた、人の家に勝手に入ってきて何様だっていうのよ。いい加減にしなさい。家に帰らないと、親に言いつけるわよ」
「私は子どもじゃない。魔法使いだ」
「はいはい。そうね。そうみたいね」
 アニュディは口ではいい加減に答えながらも、頭では先ほどから少年が話した言葉を反芻していた。翼を持つ自分のもう一つの姿を言い当てたということは、相手はよほどの魔法使いだ。子どもでこれほどの才能を持つ者はまずいない。普通は長年の修練が必要なのだ。
「あんた、いい目を持ってるようね。でも、おあいにく様。私も大人じゃない。ただの調香士よ。だから翼も貸さないわ。ほら、話はおしまい。家に帰りなさい」
 アニュディは次の行動にあれこれ思いをめぐらせ、舌を噛む。この少年をどう扱えばいいのだろう。少々くらいなら痛い目に合わせるのもいい薬かもしれない。しかしただの不良少年と言い切れる相手でもなさそうだ。
 途切れ途切れの不安定な声が、再び彼女にかけられる。
「今夜は城の中枢の扉が開いている。分かるか」
 アニュディは時間稼ぎとばかりにのろのろと答える。
「知ってるわよ。王女様が王衛を迎えられる儀式をなさったはずだから。あそこの扉、巨大すぎて開けるのも閉めるのも、一日がかりなんですもの」
「あの扉が開くと、城の力は弱まる」
「ふむ。そうかもしれない。あそこは城の急所だから。だから特別なときにしか開けない」
「城の力が弱まると、その裏で力を取り戻すものがある。基礎石の内部には水の通り道がある。あれは、ただの水か。これほど静かな場所に住んでいるのだから、あのかすかな音も聞いたことがあるだろう。それともあの音を聞くために、ここに暮らしているのか」
 アニュディは組んでいた腕をほどいた。
「……あなた、ただの魔法使いにしちゃ、ちょっと鋭すぎるね。本当に子どもなの? 私をだまそうとして、魔法で声色を変えてるんじゃない? だとしたら、こちらも手加減しないわ」
「魔術は必要。死者は息をしないから、口もきけない」
 相手の声が再び揺らいで遠くなる。それとともに床板のずっと下から、何かの力が立ち昇りつつあるのを彼女は感じた。それは厚い石と土の層の下。城を支える基礎石から。
 城がこの得体の知れない者から、自分を守ろうとしている。アニュディはそう感じた。この自称魔法使いが高い魔力の素質を垣間見せながらも、せいぜい粗末な魔術で少年の声色を使っているだけなのは、城の力のせいかもしれない。城の力は、城民に害をなすあらゆる存在を封じると言われているのだ。けれども、それはあくまで王が城の力を用いるときの話。黄緑の城には、王女はいても王は不在だ。何か嫌な予感が胸の奥で頭をもたげてくる。
 声はくぐもり、さらに消え入りそうになった。相手は明らかに、城の力に押されつつある。
「時間がないようだ。翼を貸すか貸さないか、今すぐ決めろ。貸すならば、それに見合う代償を払う。そうでないなら、代償を払うことになるのはそちらだ」
「代償?」
「この運命を受けるかどうか、決める時間もあなたにはない。下から何か昇ってくるのが分からないか。この力は私だけを打ち倒して、あなたはそのまま無傷で残す、そんな器用な真似は出来ないぞ」
 声は小さくなる。部屋に立ちこめてきた城の力は、アニュディの肌までちくちくと刺してきた。言われるように、何かもっととんでもない存在が近づいてくる予感がする。部屋に立ちこめる力は、それの気配にすぎないのかもしれない。
「あんた、この城の何を呼び出したって言うの」
「何も。呼び出したのは王だ」
「嘘。今は空位のはず……」
 気づけば、彼女の手のひらは冷や汗でびっしょりだった。相手の言葉を信じるつもりは無いが、近づいてくる何かから、とにかく逃げ出したい。何の根拠もなく突然湧いた焦りが、彼女を支配した。
 部屋の片隅で何かがはじける。強い芳香が広がった。青黄金の花の甘い香り、白星草の清々しい香り、朱妃木の香りは他のどの香の中でもすぐにそれと分かるほど華やかだ。乾燥台に乗せた香の玉が次々と、力に反応して燃え始めている。この分だと一番高価な光香も燃え出し、部屋には白い光の霧が濃く漂い始めているに違いない。
 彼女の耳元を、炎の音がかすった。梁に下がった薬草も、火の粉を上げて燃え落ちている。香りの奔流の中、彼女の焦りは一瞬にして激しい恐怖と弾ける。
「分かった。翼を貸す。だから早くここを離れましょう。私を早くここから出して!」
 言い終わらないうちに、部屋の隅で床板を蹴る音がした。驚く間もなく、アニュディは誰かの背に担がれる。作業台の窓が開く音がしたかと思うと、彼女は思いきり体を振り回された。
 冷たい夜気が頬を打ち、髪の中を通る。室内の強い芳香は薄れ、馴染みある薬草畑の香りと、砂利を踏みしめる音がした。どうやら中庭に飛び出したらしい。
「発て! 風を送る!」
 すぐ脇で、少年の声が聞こえた。今度はしっかりとした声だった。生身の体から発せられたものとほとんど区別がつかない。
 アニュディはすぐさま姿を転じる。自分を担いでいた少年は、押しつぶされる前に彼女の首筋に飛び乗った。彼女は苛立って大きく頭を振る。しかし、しがみついた乗り手は振り落とせなかった。四肢をばねに跳躍すると、魔法で呼ばれた風が彼女の翼を打った。
——飛び立ってしまった!
 上空の風を捉えたアニュディは後悔する。後戻りはできなかった。目の見えない彼女は、もう一人では地上に降りることができなかったのだ。

八章 魚の少女と砂の禁呪

 キゲイは再び白城の寝室へと帰ってきた。
 朝早くにディクレス様と別れ、レイゼルトの魔法と空腹と寝不足でふらふらになったブレイヤールを引きずるようにして、白城の石人達の所へ戻った。戻ったのはなんと昼もずいぶん遅い時刻だ。その頃になるとブレイヤールはレイゼルトの魔法の影響から随分よくなって、今度は逆にキゲイの方がふらふらに疲れ切っていた。
 ブレイヤールの帰りがあまりに遅いので、石人達は皆ひどく心配していた。そしてキゲイが出戻ってきたことにびっくりしたり、同情してくれたりした。ルガデルロ大臣はさっそくブレイヤールに何があったのか問い質し、見当違いの場所ばかりを探していた目付けのグルザリオを叱り飛ばした。
 キゲイの方は、叱られて不機嫌なグルザリオに急かされるまま、味気ない昼ご飯を平らげて、すぐに寝室へ連れて行かれる。
「先のことは分からんが、とにかく今は考えるな。休め。考えるのは、王子と大臣がやってくれる」
 グルザリオは仏頂面でそういい残し、部屋から出て行った。キゲイはすぐに靴を脱ぎ捨てて、ベッドに上がる。
 上着を脱いで、その懐から銀の鏡を取り出した。くもりを袖で拭って、じっと見つめてみる。どんなに見つめても鏡は鏡で、なんとも情けない表情を浮かべたキゲイの顔を映し返しているだけだ。裏に刻み込まれた模様は複雑精緻。それでもよくよく見れば、ある程度の対象性や規則性のある模様で、洗練された芸術品であることはなんとなく分かる。けれどもそれ以上の意味を、この模様が持っているようには見えなかった。これのいったいどこに、魔法の言葉が書かれているのだろうか。
 キゲイは深い溜息をついた。グルザリオの「考えるな」という言葉を思い出す。確かにそうかもしれない。キゲイは鏡を上着に戻し、布団にもぐりこむ。よほど疲れていたのか、気を失うように深い眠りに落ちた。

「おはよう……ございます」
 翌日、キゲイは朝早くに目覚めて食堂へと顔を出した。すると意外にも食堂にはブレイヤール一人で、他には誰もいない。彼は自分の席で眠たそうな顔をして、もそもそと朝ごはんを食べていた。
「うん。おはよう」
 ブレイヤールは顔を上げ、自分の側の席を指差す。キゲイがそちらにいくと、ブレイヤールは自分の食卓の鍋と籠から、シチューとパンをキゲイに取り分けて置いてくれた。
「もうしびれは取れました?」
 キゲイが尋ねると、ブレイヤールは頷いた。
「ほとんどね。けど僕ら、随分寝坊したようだ。皆とうの昔に朝の仕事に出たよ」
「まだ外暗かったですよ」
「ここ城の西側だし、今日も天気は曇りがちみたいだ」
 ブレイヤールはいったん黙ると、パンを力いっぱい引き千切った。
「食事を終えたら、すぐに黄緑の城へ発とうと思う。キゲイも石人の服を着て、一緒に来てくれ。例の鏡は、なるべく側に置いて見張っておかないといけないんだ」
「黄緑の城って、石人がたくさんいる所じゃ……」
 キゲイは恐る恐る尋ねてみる。
「いるよ」
 キゲイの気持ちを知ってか知らずか、ブレイヤールは事も無げに答えた。彼はシチューにパンの端をつけて、ぐるぐるかき混ぜる。そのままパンをふやかすことに集中するように見えたものの、少し経って、ようやくキゲイの怖気づいた顔に気づいてくれた。
「うん。石人の服を着て、少し魔法をかければ大丈夫だ。石人は、人間が自分達の城にいるなんて夢にも思ってないから、まずばれないよ。石人語が話せないのは、そうだな……。赤ん坊の頃人間にさらわれて、大空白平原で育ったってことにしよう。そういう人、時々いるし」
「はあ……」
 それを聞いたキゲイは、生返事しか出来ない。ブレイヤールがそう言ってくれても、「人間だとばれたら」という、不安がなくなるわけではない。おまけにブレイヤールは、とんでもないことをさらりと言った。彼の言う石人語を話せない理由から、空白平原に暮らす人間達がどれだけ石人に酷いことをしているかが、よく分かる。キゲイは石人に対して申し訳ない気持ちになってしまった。空白平原の人間といい、宝探しに来た自分達アークラントの人達といい、人間は石人に迷惑ばかりかけている気がする。
 しょんぼりしたキゲイを、ブレイヤールは誤解したようだ。
「大丈夫だよ! 万一ばれてしまっても、僕がなんとかするから。黄緑の城では僕かグルザリオか、必ずどちらかと一緒に行動した方がいいかな。とにかく一人で動かないように」
「でももし、なんとかならなかったら? もしかして、牢屋に入れられたりしたら……」
「いや、所持品をあらためられて、平原に放り出されるくらいだろう」
「一人で平原に放り出されたら困るなぁ……」
 あまりにキゲイが心配するので、ブレイヤールも少し不安になったらしい。
「君の所持品をあらためられても困るよな……」
 と、小さく呟やき首を振った。それから腕を組んで考え込む姿勢になる。いつまで待っても、次の反応が返ってこない。キゲイはその間にパンを食いちぎり、シチューに浸してふやかした。こうでもしないと、硬くて食べられたものではない。そのうちにブレイヤールも黙って食事を再開した。
 二人でパンをシチューに沈めていると、大臣のルガデルロが早足に部屋へ入ってきた。彼は片手にひと巻きの紙筒を持っていて、ブレイヤールにそれを手渡した。
「やれやれ。朝早くからいい運動をさせてもらいましたわい」
「ご苦労様」
 ブレイヤールは簡単にねぎらって、紙筒をくるくると開く。キゲイは下から見上げてみた。薄い羊皮紙に、何か文字が書いてあるのが透けて見える。
「それ、何ですか?」
「ディクレス殿に頼んでいた、レイゼルトに関する記述だよ」
 ブレイヤールはパンをくわえたまま、紙に目を通し始める。ルガデルロは、行儀が悪いとその口からパンをもぎ取った。
「食事をするか、読むか、どちらかにしてくだされ。それでアークラントの者達のことですが、彼らはすでに城から引き払った後でした。その紙以外、彼らがあそこにいたという形跡は残されておりません」
 キゲイはうつむいた。どうやら自分は、本当に置いてけぼりにされたらしい。覚悟していたとはいえ、こうまでうら寂しい気持ちになるとは思わなかった。こうなったらもう、全面的にブレイヤールに頼るしかない。
「空白平原で雇い入れた魔法使いの中に、レイゼルトがいたわけか。育ての親で、師匠を名乗る人間の老人と一緒に。レイゼルトを赤ん坊の頃に空白平原で拾った、とある」
「それ、王様がさっき僕に言った嘘と、同じだ……」
 ブレイヤールはキゲイと目を合わせる。ルガデルロが言った。
「よくある話ではありますが、逆にそれ以外ないとも言えます。さらわれでもしない限り、石人の子どもが人間世界にいるなどありえないですからな。つまり、嘘も誠も見分けがつかないということで」
「それは、限りなく胡散臭いということか」
 ブレイヤールは大臣の言葉を要約し、キゲイに目配せする。
「僕、なるべく人間ってばれないようにします」
 キゲイは答えた。嘘はつかないに越したことはない。胡散臭いなら、なおさらだ。
 朝食をすませ、二人は早速旅支度にはいる。キゲイには石人の服が用意された。グルザリオが一式持ってやって来て、着方を教えてくれる。
「ばあやさんがこの裏に隠し袋を縫い付けてくれたから、例の物はここに入れろ。蓋が閉まるから、逆立ちしても落とさん」
 黄土色の長袖の肌着に、渋茶のだぼだぼしたズボン。グルザリオが隠し袋を見せてくれたのは、くすんだ黄緑色らしき色調の膝丈の上着だ。ブレイヤールが着ているのと形が同じだ。八分丈くらいの袖は、袖口がかなり広がっている。これでは寒いのでないかと思っていると、グルザリオは紐を取り出して袖口の穴に差しこみ、ぎゅっと絞った。さらにズボンの裾は、膝下まで脚半を巻く。
 最後に上着の上からお尻を包むように腰布を巻いて、幅広の帯を締めるとようやく完成だ。
「よし終わり。お前の服は、こっちで預かっておく。仲間の所に帰るとき、またいるからな。じゃ、これ羽織りな」
 マントを受け取りながらキゲイは頷いた。石人の服は普段と違う所を締め付けるので、動くと変な感じがする。特に幅広の堅い帯は、少々お腹が苦しかった。グルザリオが言うには、帯が幅広でしっかりしているのは、悪い妖精から内臓を守るためらしい。すぐ慣れるから、我慢しろとのことだった。
 ブレイヤールもキゲイとほとんど同じ出で立ちで部屋に戻ってきた。着ているものはキゲイのよりずっと上質で、綺麗な刺繍も入っていたが。
「キゲイ、これ被って。それからこれも」
 彼は持ってきた布束を差し出した。まだ身に付けなければいけないらしい。受け取ってみると、三角の布帽子とマフラーだった。キゲイが慣れない手つきで帽子を被ると、グルザリオが手を出して、帽子を耳が隠れるくらいまで引っ張り、三角の頂点を頭の後ろに折り込んだ。マフラーも鼻先が隠れるように、しっかり巻きつけられる。
「石人の世界は風も違うんだ。人間は出来る限り当たらない方がいい。体調を崩しやすくなるみたいだから」
 ブレイヤールが言った。それからキゲイが、銀の鏡とトエトリアの髪でできたお守りを持っていることを確認する。
「私は一緒に行けませんが、レイゼルトに関する話は、慎重に願います」
 いくらかの紙束を抱えて、大臣のルガデルロが部屋に入ってくる。ブレイヤールはその紙を薄布に包んで、自分の荷物袋へ入れた。
「今朝までのアークラントの者達に関する報告も、これまでのものに付け加えておきました。道中もう一度よく目を通されて、これと辻褄の合わないことは、一切おっしゃらないように。そこにはレイゼルトのことは書いておりません。必要ならばご自分で付け加えて構いませんが……」
「アークラント側に石人の魔法使いがいるくらいは、書いた方がいいかも知れない。魔法使いとして、非凡な才能を持っているのは確かだ。でもディクレス殿は、レイゼルトは姿を消したって、言ってたし。あーあ……もう! ややこしいな」
 ブレイヤールは嫌そうに顔を歪めて、中空を見上げる。何もないところをまっすぐに見上げるのは、彼が考えるときの癖のひとつらしい。
「アークラント先王とお会いになったこと、それで知りえたことは、まかり間違っても言ってはなりませんぞ。嘘を言うくらいなら、ずっと手前で黙っておられるよう。あなた様が禁呪に触れたことがばれたら、この白城は完全に終わりです。なにはなくとも、ご自分の身を守ることをお忘れなきよう」
 ルガデルロが厳しく釘をさす。彼はブレイヤールが心配でならないらしい。グルザリオと代われるものなら、彼が一緒に黄緑の城に行きたかったろう。しかし彼はもうそこまで足腰は強くなかった。
「……分かってます」
 ブレイヤールは眉間に皺を寄せたまま、前に向き直った。
 黄緑の城までは大人の足で三日という話だったが、キゲイは子どもだし、ブレイヤールもそう体力がある方ではない。必要最低限の荷物でも二人にはかなりの負担となるので、四、五日はかかるという算段だった。
 しかしブレイヤールは焦っていた。慌しく黄緑の城への出発を決めたのは、銀の鏡の正体を確かめたい気持ちと、レイゼルトの存在自体に危機感を強めたからだ。どちらも石人世界に大きな影響を及ぼすかもしれない一方で、下手に公言することも出来ない事柄だった。それは彼がレイゼルトの禁呪に触れたからこそ、知り得た話だからだ。
 もしレイゼルトが、本当に七百年前に大暴れした「レイゼルト」であるならば、禁呪に触れた罪で死刑になろうとも、一刻も早く多くの石人に知らせなければならない。逆に偽者であるなら、その必要はひとまずなくなる。どうすべきかは、銀の鏡の正体を掴んでからでないと決められない。ブレイヤールは、黙っていることで石人世界の裏切り者になるかもしれない危険と、白城の存続との板挟みになっていた。
 最初は起伏の細かい石ころだらけの荒野が続き、二日目には山がちの地形を進むことになった。水が豊富なのか植物の影が多くなり、岩の隙間から水が染み出ている。
道しるべ 道らしい道はない。黄緑の城と白城をつなぐ道は、七百年前を境にほとんど使われなくなっていた。キゲイは途中、道しるべの石柱を根に抱いた老木を見た。石柱は木と一緒に苔に覆われていて、ブレイヤールがそれと教えてくれなかったら、見逃していただろう。石柱は、白城がすでに石人世界で忘れ去られてしまっていることを、象徴しているようだった。あの晩、ブレイヤールがディクレス様に言った「私は無力です」の言葉も、ここから来ているのかもしれない。白城は辺境の巨大な廃墟にすぎず、そこの主であるブレイヤールには、石人世界に通用する実質的な力は何もないのかもしれない。キゲイには、ブレイヤールとディクレス様が、それぞれの世界で似たような立場にいるように思えた。
 物思いにふけっていると、キゲイは苔の上で足を滑らせ、思い切り尻餅をついた。下が岩なので、痛みでなかなか立ち上がれない。グルザリオが襟首を引っ張って、引き上げてくれた。
「あの、王様」
「何?」
 先を歩くブレイヤールは、口だけで答える。彼も自分の足元に気を配るので手がいっぱいだった。
「本当にトエト……王女様は、こんな道を一人で人間の町まで行ったのかなぁ」
 子ども一人ではとても危険な道のりだ。キゲイなら、この道を一人っきりで歩きたいとは思わない。
「あの子は、素直でのんびりしているところがあるけど、根は恐ろしく強い子なんだ。やろうと決めたら、尖塔の屋根にも平気で登ったり、真夜中に墓地に行ったり。なんであんなことしなくちゃいけないのか、僕には分からなかったけど」
 ブレイヤールが感心したように言うと、キゲイの後ろから来るグルザリオも頷いた。
「俺でも夜一人で歩く気にはならんからなぁ。この辺りは気味が悪いから」
 その言葉どおり、日がかげり始めると霧が谷間に溜まって視界を悪くし、立ち枯れの木々は手を広げた怪物のようにも見える。辺りはしんとして静まり返り、時々出し抜けに猛禽の叫び声が岩場に反響した。いや、もしかしたらあれは魔物の叫び声だったのかもしれない。
 太陽が山の影に隠れてすっかり暗くなってしまっても、ブレイヤールは足を止めようとしなかった。木の枝を魔法の杖代わりにして、先っぽに明かりを灯す。彼はキゲイの分も明かりを作って、渡してくれた。キゲイは不安になる。日が暮れてからの旅歩きは、危険なものだ。足元も見づらく、道も間違えやすい。夜行性の獣達もうろつきだす。足場が悪く、道らしき道も見えない上に魔物がいるかもしれないここは、夜歩きに最悪の場所だろう。
 キゲイは渡された木の枝を、珍しさ半分、不安半分といった気持ちで眺める。後ろから肩を突っつかれて振り返ると、グルザリオが追いついてきて小声で言った。
「王子、焦ってるみたいだな。実際急ぎだ。もうちっと歩けるよな」
 キゲイは頷いた。アークラントから大空白平原に行くときも、キゲイ達は夜遅くまで行程を稼いだことが幾度かある。暗闇で歩くのにも、少しは慣れていた。
 結局夜の旅は、キゲイが思っていたより早く終わった。ブレイヤールが一番最初に音をあげたからだ。考えてみれば、彼はレイゼルトと戦い、その翌日も一睡もせずディクレス様と話をして、一晩寝ただけで旅に出発したわけだから、疲労はかなり溜まっていたはずだ。
「まいったなぁ。道を間違えた。もう歩ける気がしない……」
 ブレイヤールがそういいながら立ち止まって座り込んだのは、小さな湖が見えた高台だった。
「ああ、やっぱりこっちの道に入ってたか」
 グルザリオも湖を見下ろして、荷物を地面に下ろした。
「しょうがないから、今日はここまでにしましょう。確かあの辺に洞穴があったはずです」
 洞穴はそれほど奥深くなく、雨露がしのげる程度のものだった。三人はそこに荷物を置き、薪になりそうな枝を集める。枝はほとんどが湿っていて、乾いたのを探すだけでも一苦労だ。グルザリオはようやく集まった薪を一か所に集め、携帯炉から火を取って薪に火をつける。
「魔法を使って火をつけないの?」
 キゲイが尋ねると、グルザリオは頷いた。
「魔法で火を燃やすと、邪精が寄って来る。出来るだけ使わないようにせんと」
 ブレイヤールは鍋を片手に、湖の方へ降りていく所だ。それを見て、グルザリオがキゲイに言った。
「お前は王子の従者として振舞った方が、怪しまれなくていい。今から練習だ。王子には何もさせるな。あれでも一応王族なんだから」
「はい」
 キゲイはブレイヤールの後を追う。道の中ほどで追いついて、鍋を受け取った。水の中に落ちないよう、明かりを灯した木の枝を片手に、足元を確かめながら湖に近づく。湖面は山の影になっていて、そこだけ世界をくり貫いたように真っ暗闇だ。辺りはあまりに静かで、水音を立てるのも躊躇われるほどだった。
 湖の水が打ち寄せる砂地から足を踏み入れる。水中の泥煙がおさまるのを少し待って、鍋を水の中へ静かに沈めた。黒い鍋の上を、細長い影がしゅっと横切る。魚だろうか。鍋じゃ捕まえられないだろうなと思いつつ、キゲイは水を汲み上げようとした。そのとき何が起こったのか。突然鍋が重くなって、キゲイは引きずられるように水の中へ突っ伏してしまった。
 柔らかな砂地はキゲイの重みで深みへ向かって崩れてしまう。足を踏ん張ろうとするほど、砂は水の中で滑った。薄暗い水の中、キゲイは真っ白なものと、その中にある大きな二つの目玉がこちらを向いているのを見た。キゲイの悲鳴はたくさんの泡になって視界を遮る。たっぷり水を飲んでしまったキゲイは無我夢中に両腕を動かした。動転した彼の耳に、ばしゃばしゃという水音と甲高い叫び声がごちゃ混ぜに響く。声は、まるで金属を擦り合わせたかのように高い。鼻に水が入るわ、幽霊がいるわ、周りは真っ暗だわで、キゲイはますます混乱した。どちらに向かって泳げば水の上に出られるのか、無茶苦茶にあがいていると、ものすごい力で引き上げられた。
「落ち着け! 落ち着け! 足がつく!」
 グルザリオの怒声が聞こえて、キゲイはようやく冷静になる。言われるまま両足をまっすぐ伸ばすと、キゲイはもう水の上に立っていた。水は腰の高さまでだった。キゲイの持っていた木の枝は、魔法の明かりを灯したまま水の上に浮いている。と、その明かりに照らされて、湖の奥にブレイヤールの背中が見えた。彼は胸まで水に漬かりながら、水の上を流れて夜闇の中へ消えていく、白っぽいものへ手を伸ばしている。
「幽霊!」
 キゲイは息を詰めて叫び、後ずさる。
 グルザリオはブレイヤールの後を追って、腰までの深みまで進む。ブレイヤールが白いものを抱きかかえるようにして、水の中を戻ってきた。グルザリオはそれを受け取ると慎重に両腕に持ち上げて、焚き火の所へすっ飛んで行った。
「キゲイ、大丈夫?」
 ブレイヤールが声を上げる。彼は足を止めることなく、グルザリオを追って湖から上がろうとした。キゲイも慌ててそちらへ泳いで行く。こんな所に一人取り残されたくはない。
「水の中に、変なものが……」
 キゲイが背中に声をかけると、ブレイヤールは首を振った。
「幽霊じゃない。石人だよ」
 キゲイはブレイヤールと一緒に、湖からの坂を駆け上がった。
 焚き火の傍では、グルザリオが白いものを片膝の上に乗せて、水を吐かせていた。ブレイヤールの言った通り、それは石人だった。体は小さくて、七つか八つ程度の子どもみたいだ。緑と灰色をした、まだら模様の古ぼけた布が体を巻いている。肌は真っ白だ。首や手足は異様に細く、頭でっかちで、髪の毛も生えていない。ただならないその姿に、ブレイヤールもキゲイも何か異様なものを感じて立ち尽くす。グルザリオの方は、二人よりもずっと先にその感情を脱していたらしい。
「何ぼっとしてるんすか!」
 彼はブレイヤールに怒鳴った。
「早く濡れてない服を袋から出してください! キゲイもさっきの鍋に水を汲んで、火にかけろ」
 結局ブレイヤールもキゲイも、グルザリオに怒鳴られるまま言われるままに動き出した。
 また湖の方へ戻るのは怖かったが、今はそんなことを言っている場合ではないようだ。キゲイが水際に戻ると、まだ木の枝が水の上に浮いていた。寒さで歯の根があわない。それでも仕方なしに、水の中に入った。すでに全身冷え切っていて、かえって水の中の方が暖かなくらいだった。木の枝の明かりを掴み、水底に沈んでいた鍋を見つけて引き上げる。鍋は見た目相応に軽かった。なぜあのとき突然重くなったのか、さっぱり分からない。あの白い子どもが関係ありそうだったが、どう関係あるのかも、やっぱり分からない。
 キゲイは焚き火の側に戻って鍋を火にかける。ブレイヤールは相変わらずグルザリオの指示通り、着替えの服を取り出したり、毛布を余分に引っ張り出したりしていた。グルザリオは手際よく、ぐったりして動かない白い子どもを毛布でくるむ。
「その子、どうなってる? 体を温める魔法はかけた? 男の子? 女の子?」
「お嬢ちゃんみたいです。でも、気を失っているようで。このまま目を覚まさないようだと……」
 ブレイヤールとグルザリオが声を潜めて言い交わす。キゲイも他に何をしていいか分からず、二人の側に行って女の子を見下ろす。
 生きているようだが、血の気のない白い肌のために、キゲイには人形にしか見えなかった。頭には髪の毛も眉毛もない。まつげすらないようで、閉じられた目はナイフで切れ込みを入れただけの筋のようだ。痩せているためかまぶたも薄く、眼球の丸みがやけに目立つ。キゲイは水中で見た大きな目玉のことを思い出し、女の子から目を逸らした。
「身につけていたものは?」
「藻でぬるぬるしてて、気持ちが悪いから丸めてその辺に。でも、身元が分かるものではなさそうです。後できちんと調べておきますよ」
「そうだな」
 それからブレイヤールは、ようやくキゲイが隣に居るのに気がついた。
「キゲイ、いったい何があったんだ」
「鍋が突然重くなって、引きずられて水にはまったんです。そしたら、水の中でこの子と一瞬目があったような気がして」
 キゲイは寒さで震えながら、胸元の隠しに入れた銀の鏡を上から押さえた。鏡はちゃんとそこにある。
「最初、幽霊だと思ったんだ。この鏡のせいかと思って……」
「鏡? 突然、現れたの? この子が」
「……よく分かりません」
「でも、なんで鏡のせいかと思ったの」
「レイゼルトが……」
 キゲイは、地読みのテントに戻った夜、白城の柱廊を歩いていた得体の知れない人影のことをブレイヤールに話す。
「あれは石人の亡霊で、銀の鏡が亡霊を呼んだって、言ってたから。ひょっとして、また鏡が呼んだのかなって……」
 なんとなくそんな気がしただけの理由なので、聞き流されるだろうとキゲイは思った。ところがブレイヤールの様子が一変して、キゲイは驚いた。
「石人の亡霊だって! もっと早くに言ってくれなきゃ、ダメじゃないか! それより、外廊のどっち側を歩いていた。柱の列の外側? 内側?」
 ブレイヤールはいつになく鋭い口調で尋ねる。不意をつかれたキゲイは、慌ててそのときのことを思い出そうと首をひねった。
「ええっと、柱の向こうに見え隠れしてたから、内側だと思いますけど」
「あそこは城の端っこだから、城の内と外の境界上でもあるな。僕が気を失っていた時間帯だろうし。それにしても、得体の知れないものの侵入を許すなんて……」
「王子、相変わらず卑近なものが見えてないですね」
 グルザリオがブレイヤールの言葉を遮り、口を挟んだ。
「ほらキゲイ、着替えてこい。凍え死ぬぞ。王子も自分の姿をよく見て、今のうちに着替えてください。着替える服があるだけ幸せだ。まったく」
 グルザリオはそう言いながら濡れた靴を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げて絞る。彼自身は自分の着替えを全部女の子に巻きつけてしまったため、外套一枚で過ごさなければならない羽目になっていた。
 キゲイは自分の荷物袋を開け、着替えを探る。濡れた靴は、脱いで乾かすしかない。
「おーお!」
 高い声が聞こえて、キゲイはグルザリオの方を向いた。グルザリオは、女の子の方を驚いた様子で見ている。
「目が覚めたか! ……やれやれ」
 女の子の瞳は、澄み通った空色だった。彼女は横になったまま首だけ動かして、自分を見下ろす三人に、まん丸な瞳を順に向ける。あまりにまっすぐ目を向けるので、キゲイは居心地が悪くなって目を逸らしたほどだ。ブレイヤールが石人語で話しかけて名前を聞いたりしたようだが、女の子は返事をしない。顔にも瞳にも表情はなく、最初はブレイヤールの声に耳を傾けていたものの、そのうち飽きたのか、自分の手の指を見つめたり、側にあったキゲイの裸足の足に突然触ったりした。様子に気になる所はあるが、心配していたより遥かに元気そうだ。
「とりあえずは、命に別状ないみたいだな」
 ブレイヤールは難しい表情のまま言った。
「グルザリオ、あとは僕が見ているから、先に休め。明日の朝一番に、この子を連れて黄緑の城へ急ぐんだ。医者に見せないと」
「同意です」
 グルザリオが自分の寝支度を整えているうちに、女の子はまた目をつぶっていた。今度は気を失ったのではなく、眠くなっただけのようだ。
「お腹すいてないのかな」
 キゲイがブレイヤールに尋ねたが、彼は返事の代わりに首を傾げただけだった。
「この子、本当に石人なの?」
 キゲイは重ねて尋ねる。どう考えても、この子は湖から突然湧いて現れた。ブレイヤールはやはり、返事の代わりに頷いただけだった。
 ところがキゲイは、突然無口になってしまったブレイヤールの態度がなんとなく気に食わない。知っているのに、ちゃんと答えてくれていない感じがしたのだ。レイゼルトに腹を立てたときと、同じような気分だった。
 レイゼルトは、キゲイにいっぱい隠し事を持っていた。ブレイヤールも同じように、キゲイに何か隠し事をしているはずだ。キゲイが人間だから、というのが隠し事をする理由だろう。実際にブレイヤールは、ディクレス様の前でも「人間には話せない石人達の考え」という隠し事をしていたのだ。
「本当に、本当なんですか? 絶対の絶対に、幽霊とかじゃない?」
 キゲイが詰め寄ると、ブレイヤールは困った顔をした。
「この子は確かに石人だ。でも、突然湖から現れたのは普通じゃない」
 搾り出すような声でそういうと、彼は大きく息を吐いて肩をすぼめた。
「本人に聞ければいいんだけど、出来そうにもないんだ。ただ……」
 ブレイヤールは横目にキゲイの懐を見た。銀の鏡を隠している所だ。
「やっぱり、これのせい?」
 キゲイはうんざりした顔で、胸元を指差す。ブレイヤールは女の子に視線を戻した。
「大きな魔法を納めている物は、そこにあるだけで色々なことを引き起こす。石人の亡霊を目覚めさせたのも、そのひとつかもしれない。それでこの子だけど、彼女は多分別の姿をして、湖で暮らしていたんだと思う。魚とか、貝とかだったのかも。それなのに今日、鏡が自分の側にやって来て、それがちょっとした刺激になったのかもな。魔法が解けて、石人の姿に戻ったんだ。だけど長い間魚として暮らしていたから、自分が人だったことを忘れてるのかもしれない」
「なにそれ」
 キゲイは口を尖らせて、明らかに不満そうな声を出す。魔法で魚の姿になっていた女の子が突然人の姿に戻るなど、まるでおとぎ話だ。さすがのキゲイも、そのおとぎ話を何の疑いなく信じるほど、子どもではなかった。
 ブレイヤールも自分の話が、人間にはどれだけ受け入れられない現象か、すぐに気づいたようだった。キゲイの冷めた視線を遮るように片手を額に当て、口元を薄く開いた。一人で苦笑いをしていたのかもしれない。
 二人の間に気まずい沈黙の幕が降りる。
「キゲイ」
 しばらくして、ブレイヤールが先に口を開いた。
「一生誰にも話さないって、誓える? 一生だ。今度ばかりは銀の鏡のときみたいに、ディクレス様にだって話しちゃだめだ。本当に誰にも、他の石人にだって言わないと、誓えるか」
 キゲイはブレイヤールを見返した。ブレイヤールの顔からは、先程のあいまいな表情は消えて、真剣そのものになっていた。
「それとも、僕がこれから話すことは聞かないでおく? そうすれば、そんな一生の誓いは持たずにすむ」
「それは、聞かなくてもいいってこと?」
 ブレイヤールの挑んでくるような口調に、キゲイはあっさりと怖気づく。
「この先どんな妙な現象を目の当たりにしても、どうしてそうなったのか分からなくても、それをそのまま受け止められるなら、聞かなくていい。君は石人のことも石人世界のことも知らないから、理解できないのは仕方ない」
「分からないことだらけは、嫌かも」
 キゲイは目だけを動かして、周りをぐるりと見渡した。暗い森も、そそり立つごつごつした岩場も、すべて石人世界に属するものだ。生えている木や植物の多くは、キゲイもよく見知っていた。でも人間世界に生えている杉と、石人世界に生えている杉は、同じように見えてどこか違うのかもしれない。彼にとって本当の意味で馴染みのあるのは、頭の上に広がっている空だけだ。この世界では、キゲイは完全に余所者だ。
「この子のことだけ、聞きたいです。突然現れてすごく怖かったから、どういうことか、ちゃんと知りたい」
 ブレイヤールは頷いて、居ずまいをただす。キゲイも覚悟を決めて、一生守らなければならない秘密というものを、聞くことにした。
「姿かたちはほとんど同じなのに、石人と人間を全く違う存在にしている点がある。石人は人以外のものに姿を変えられるんだ。普段は人の姿をしているけど、それは二つの姿のうちの一つに過ぎない。もうひとつの姿は『真なる体』と言われて、普段は人の姿の中に隠されている。石人世界で『魔法使い』といわれている人達は、修練を経て、この『真なる体』と人の姿を自由に交換できるんだ。そんな人達でも、めったに変身なんてしないけどね」
「じゃあ、王様も、何か別の姿に変われるってこと?」
 ブレイヤールは気が進まない風に頷く。
「……うん。よく見かけるような動物や虫になる人もいれば、今では伝説にしかいない生き物に変身する人もいる。他人に見られたくない、気持ち悪い生き物になる人も。修練が足りなければ、自分の意志で姿を変えることはできない。なにかの拍子に姿が変わってしまったら、自力じゃ戻れない。その上、長い間姿を変えていると、自分が人だったことを忘れて、それそのものになってしまう。運よく元の姿に戻っても、前の姿の影響が残ってしまう。例えば魚は、髪の毛なんて生えてないし、水の中で泳ぐだけから、歩き方も忘れたりする。言葉も忘れる」
「あの子がそう?」
「湖に突然現れたんだから、そうだと思う。きっと以前、湖やここに流れ込む川で行方不明になった子どもがいたんだろう。水遊びをしていて、フナかタニシに姿が変わってしまったとか。何ヶ月前なのか、何年前なのかは分からないけど、銀の鏡がきっかけにしろ、何か他の理由があったにしろ、元に戻れたのはよかったんだろうな」
「ふうん」
 今度の話は、キゲイもまあまあ納得がいった。不思議な話には違いないが、石人世界ではあり得ることなんだというのが、ブレイヤールの口ぶりから分かったからだ。それにしても、石人のことが少し気持ち悪くなったのは確かだ。キゲイはそろそろとお尻をずらし、ブレイヤールから距離を取る。ブレイヤールはそれを咎めるように、横目でじろっとキゲイに視線を送った。
「……絶対言うなよ。石人が変身できるってこと。人間にばれたら、大変なことになる。石人にも、何に変身できるかなんて聞かないように。すごくデリケートな質問だから。自分のもうひとつの姿は大抵の場合、人に見られたくないし、やすやすと見せるものでもないんだ。僕にも聞かないように」
「分かりました。絶対言いません」
「絶対だからな」
 あの女の子は銀の鏡が呼んだ幽霊でないと分かって、キゲイはようやく安心した。それにブレイヤールの話してくれた石人の秘密は、一生守るにふさわしい気もする。なぜなら話し終わった後のブレイヤールは、まるで話したことを後悔するかのような、浮かない表情になっていたからだ。ブレイヤールには悪いと思いつつも、キゲイは石人の大切な秘密を、勝ち取った気分だった。
 キゲイが見た通り、確かにブレイヤールは少しだけ後悔していた。銀の鏡を持つという重荷を背負ったキゲイの不安を察したからこそ、話した方がいいと思った大切な秘密だったからだ。ところがキゲイは彼が心配していたよりも、繊細ではなかった。立ち直りが早くて、ちょっとした言葉ですぐ元気を取り戻す。人間だから、銀の鏡の重大性を今ひとつ理解し切れていないのかもしれないが。彼はもう二度と、必要以上にキゲイを気の毒がったりしないと心に決める。
「キゲイも食べたら寝な。明日もたくさん歩かなきゃいけないから」
 疲れた声でそう言うブレイヤールに対し、キゲイは一生ものの秘密にわくわくしながら、眠りについたのだった。
 翌日、キゲイが目を覚ますと、グルザリオは女の子を連れて先に出発した後だった。ブレイヤールも支度を整え、キゲイを急かしてすぐさま歩き始める。湖を過ぎると、足元は随分歩きやすくなっていた。平たい石が所々残った道の残骸が姿を現す。道は進むにつれて広くなり、苔生した小道から街道と言えるくらいの立派なものにかわっていった。
 四日目に、ようやく二人の目の前へ不思議な形をした綺麗な山が姿を現した。赤く燃える空を背景に、夕暮れの柔らかな影をまとったその山からは、たくさんの細い塔が生えている。影の中に滲む細く白い筋は、夕食を用意するかまどの煙だ。中腹に見える白っぽい崖は巨大な建物の側面で、レースのように穿たれた外回廊と空中庭園の木々に飾られていた。
 黄緑の城にたどり着く頃には、日はとっぷり暮れていた。谷間を通って城の裾野に達すると、数人の兵士達が道の先から現れてブレイヤールに挨拶をした。兵士達は二人の荷物を持ってくれ、先に立って城の門まで導いてくれる。彼らは杖の先に鎖を下げ、そこに光るランプを引っ掛けていた。光は靄の玉で、ランプの中でもやもやと形を定めていない。優しく輝いて、ランプが揺れるとその軌跡に短い尾を残す。
 キゲイはブレイヤールの後ろを歩きながら、城の姿を見上げた。城にはあちこちに明かりが灯っていた。たくさんの窓とアーチが輝いて、人々の行き交う影が見える。風に乗って花の香りと美しい音楽が届いた。
「今夜は、春呼びのお祭りなんだ」
 ブレイヤールが教えてくれる。
 キゲイは神妙に頷いた。春は誰もが待ち望む季節かもしれない。しかし今年ばかりは、アークラントの人々は春を歓迎しないだろう。春になって暖かくなると、冬眠していた戦線が動き出す。
——冬を引き止めるお祭りがあってもいいのにな。
 キゲイは、今はそう思うだけに留めておいた。

 黄緑の兵士達はブレイヤール到着を王城に知らせ、貴賓室へ案内しようとした。けれどもブレイヤールはそれを断り、城の裾野近くに広がる町中に、宿をとった。
 祭りのせいもあるのかもしれないが、街には所狭しと石人が溢れている。皆が様々な色彩の頭髪を生花や造花、薄衣等で飾り、揃って目の覚めるような黄緑色のスカーフをしている。老若男女問わず長髪の人が多く、それぞれが自分の髪色を意識して結い上げたり垂らしたりしていた。衣装も華やかだ。建物も柱も斑模様を浮かべる黄緑の石で出来ていて、石畳は霧のような鈍い灰色だ。町の構造は白城で見た廃墟の町と同じ。大通りの両脇に立つ建物は階段状の層構造で、空に向かって開いている。大通りは行き交う人と花で飾り立てられた輿でごった返し、各階に設けられた側道にも人が溢れていた。そこには大通りと異なり、小さな出店もひしめいているようだ。
 キゲイはあまりの人の多さに、気分が悪くなりそうだった。目を閉じても、町の明かりや人々の華やかな衣装がまぶたの裏にちらついて、くらくらする。人ごみの中、ブレイヤールの背中を追うだけで精一杯だった。
 宿は祭りの場所から外れた静かな一角にあった。ブレイヤールは馴染みらしく、二つ返事で部屋に通してもらう。白城の寂れた部屋を思わせる古い宿で、こじんまりとして清潔な部屋に入ると、キゲイはようやく一息つくことが出来た。しかしブレイヤールにはまだやることがある。
「銀の鏡を調べに、図書館に行ってくる。下手したら今夜は帰ってこれないけど、グルザリオにこの宿へ来るよう、兵隊に言伝てを頼んだ。じきに現れるだろう。食事は宿の人が持ってきてくれる。石人語の挨拶とお礼の言葉だけでも教えとくよ」
 キゲイを残し、ブレイヤールは銀の鏡の写しを入れた丸筒を持って街へ舞い戻った。路地裏から石段を登ると、町の広場が見渡せる丘へと出る。
 広場には舞台が設けられており、「春呼びの星降り物語」という演劇が行われていた。様々な表情の面をとっかえひっかえしながら、役者達が舞台の上で飛び跳ねる。無言劇のため、広場から聞こえるのは観客達の歓声や溜息のみだ。ブレイヤールのいる丘も見物人が多い。もっとも彼は劇を見るために丘に登ったわけではなかった。広場の中央には噴水があり、背の高い水時計が建っている。時計は真夜中より二針手前を指していた。ブレイヤールはそれを確認すると、売り子の差し出す花やお菓子も素通りし、図書館へと向かう。
図書館 図書館周辺はひっそりとし、入口の大きな扉には守衛が座り込んで舟をこいでいた。それでも中に入ると、人の姿は少なくない。祭りそっちのけで勉強にのめり込む学者や学生達だ。貴重な書物の類は、利用者が少なくなる祭りの日にこそゆっくり読める。あまり人に知られたくない調べ物も、こういう日が絶好のチャンスだ。
 ブレイヤールは可動式の書見台を引きずって、ひとまず七百年前の歴史を納めた書架を目指す。書架は都合のいいことに人影がまったくない。心おきなくレイゼルトに関する記述を洗いざらい調べ、レイゼルトが使った砂の禁呪が誰のものだったのか突き止める。
——正十二国創成期頃の黄城お抱えの大魔法使い、シュラオイエン。大地に根ざす魔法を操り、また多くの禁呪を遺した。レイゼルトの禁呪もまた砂という大地に関するものであるため、シュラオイエンの禁呪であった可能性は高い。
 ブレイヤールはその名前を手がかりに、美術品目録の書架へ移る。その中から大魔法使い由来の品を探し出した。もしシュラオイエンの遺品に銀の鏡があれば、これに砂の禁呪が納められていることを裏打ちする。膨大な目録を繰りながら、ブレイヤールは自分が刻々と真実に近づいているのを感じていた。行をたどる指は、自然と遅くなっていく。
——ああ、これは断首決定だな。
 血の気が引く。開いたページには、彼の持つ写しと寸分違わぬ図版がある。おまけに、最後にこの鏡を持っていたのは赤城で、約五千年前に黄城から譲り受け、その後七百年前の禁呪焚書直前に行われた所蔵確認の際、紛失を確認。現在に至るまで見つかっていないという説明まであった。彼は暫く放心して、ぼんやりと図版に目を落とす。
 銀の鏡は、シュラオイエンが黄城の名工に特注で作らせた、五十二組の札のひとつだったらしい。レイゼルトのは「南の8」で、銀の鏡はゲーム用の札を模した、実用性のない美術品だったと記されている。シュラオイエンは友人を招く際、招待状として皮製の一般的な札を送り、招待客は晩餐の席で自分に届いた札と同じ銀の鏡が置かれた席に座ったという。どういった経緯でその札のひとつに砂の魔法が隠されたのかは知れないが、大魔法使いにもやむを得ない事情があったのだろう。大きな力を持つ魔法が一転して禁呪として扱われるようになったのは、この大魔法使いが生きた時代の終わりのことだ。
 レイゼルトと銀の鏡のことを、石人達に話さなければならなくなってしまったようだ。ブレイヤールは焦点が定まらないまま、天井を見上げる。考えはそれ以上まとまらなかった。

九章 禁呪の復活

 何のせいかは分からなかったが、その晩キゲイはずっと落ち着かない気持ちで、寝返りばかりうっていた。寝床でじっとしていると、なんとなく自分の周りを包む雰囲気に、違和感のようなものがあった。石人の町の匂いが、嗅ぎ慣れないものだったからかもしれない。
 ようやくウトウトしたかと思うと、もう目が覚めた。室内は最初真っ暗だったが、目を開けているうちに物の形がかろうじて浮かび上がってくる。どうやら夜が明けてしまったらしい。キゲイはだるい体を起こし、隣のベッドに目を向ける。ベッドは空っぽだ。ブレイヤールはまだ帰っていない。もうひとつ奥のベッドからは、いびきが聞こえてくる。グルザリオはまだ寝ているようだ。
 キゲイはベッドから降りて、窓際に寄る。グルザリオを起こさないよう静かに掛け金をはずし、板戸を少し開けた。外には夜明け独特の、青みがかった世界が広がっている。宿の前の通りは、人影がちらほら行き来していた。キゲイは部屋に向き直る。すると、部屋の扉が開いていることに気がついた。ついでに、戸口の床に何かが転がっている。
 まさかと思いながらも、キゲイは明かりを入れるために板戸を片方開け放った。はたして青い影の中に浮かび上がったのは、戸口でうつ伏せに倒れているブレイヤールの白い髪だ。頭はこちらを向いているから、外から帰って部屋に入ろうと扉を開けた直後に力尽きたと見える。キゲイは忍び足で側に寄って、ちゃんと息をしているかどうか、注意深く観察する。大丈夫だ。今度は肩を軽く叩いてみる。反応はない。
「王様、起きてよ」
 もう一度、今度は少し強めに肩をゆすってみた。折よく、外から鐘の音が響いてくる。一度鳴っては音の余韻が消える頃に、次の音が鳴る。三つ目の音が鳴ったとき、部屋の奥でいびきがやんで、グルザリオが無言で体を起こした。四つ目の音で、ブレイヤールが呻きながら仰向けになる。
「朝か」
 ブレイヤールは片腕を目の上に乗せたまま、呟いた。声が鼻声になっている。グルザリオが朝の寒さに両手をすり合わせながら、キゲイの後ろまで近づいて主を見下ろした。
「なんでしょうね。この体たらく」
 彼は冷たい口調でそう言うと、すぐにいつものさばさばした様子になって続ける。
「今日は黄緑の王城に行って、報告をする予定です。迎えは断ってあるので、昼の鐘に遅れないよう仕度を。場所はここから三階層。昇降塔を使って昇ります。ところで大臣がまとめた文書、ちゃんと目を通してますよね」
 聞いているのかいないのか、ブレイヤールはぴくりとも動かず返事もしない。グルザリオは暫く待った後、何も言わずに自分の寝床に戻り、身支度を始める。キゲイも迷いながらブレイヤールの側を離れて自分のベッドに戻り、枕の下にたたんで隠した銀の鏡入りの上着を羽織って、腰の帯をしめる。
 二人がいつでも出かけられるようになると、ブレイヤールも立ち上がり、服を着替えた。彼はベッドの端に腰を下ろし、片手で頭を支えてうつむく。
「例の鏡は本物だ。困ったことになった」
 ブレイヤールはその姿勢のまま、低い声で呟く。キゲイとグルザリオは、ブレイヤールの方へ視線を戻した。思いのほかしっかりとした口調だ。ブレイヤールは顔を上げ、二人を軽く睨みつける。
「何か誤解されてるようだけど、泥酔してなんかいなかったからな! 気付けに一口だけだ……」
「それはもうどうでもいいです。鏡が本物だとすると、どうなるんで」
 グルザリオは声を潜めた。
「あの赤い髪の少年は、限りなくレイゼルトに近い存在ということになる」
「しかしその結論は、銀の鏡が本物だと分からなけりゃ、導かれません」
「だから困るんだ」
 ブレイヤールは悲しげな顔で、両腕をだらりと下げた。外は大分明るくなってきて、窓からの光が部屋の奥まで届きはじめていた。彼は光に照らされた古い木の床へ、見るともなく視線を向ける。
「報告会までに、魔法使いの意見が聞きたい」
 暫くの沈黙の後に呟くと、それまでと打って変わった素早さで立ち上がった。彼はキゲイを手招きする。
「ちょっと付き合ってくれ。鏡を見せたい人がいる」
「い、いいの?」
 キゲイは尋ねると、ブレイヤールは頷く。グルザリオは難しい顔をして主の判断を吟味していたようだが、結局何も言わなかった。
 早朝の街並みは、うっすらと霧がかかっているようだった。冷たく湿った空気が胸に気持ちいいが、鼻や耳たぶはそのうち寒さでじんじんしてきた。石人の姿も増えていて、多くがすでに今日の仕事に取り掛かっている。中央通りは荷車や兵隊の通行専用のようだ。荷車を黒い水牛が引き、石人は積み上げた荷台の上に腰かけている。タバッサではよく見かけた馬やロバの姿は、ここにはない。警備の交代か、鮮やかな黄緑のマントを身に着けた兵士の一団が、速足に通り過ぎていく。整然と流れる中央通りに対して、両脇の建物前に設けられた二階や三階の側道には、食べ物を売る店や、軒下に仕事道具を引っ張り出して木の皮を剥いだり、糸を紡いだりしている人達で賑やかだ。
 ブレイヤールは中央通り脇の階段を上って側道に行く。彼はひとつの店の前で、二椀の朝食を買った。店には屋外用のかまどがあり、店主は先が二股に分かれた木の棒を、かまどの中に差し入れる。取り出した木の棒の先には、金椀が引っかかっていた。かまどの隣には形もばらばらなスツールが無造作に並べてあり、かまどから暖を取りながら、お客は適当な椅子に座ったり、石畳に布を敷きスツールをテーブル代わりにしたりして食べている。
 ブレイヤールはキゲイに金椀を乗せた皿を差し出した。あつあつの金椀は、焼き上がった生地が中で丸く膨れている。それをスプーンで崩すと、生地はぷっと灼熱の息を吐いて縮んだ。生地の破れ目から穀物の粥がとろりと出てくる。熱いお粥に舌を焦がし、鼻をすすりながら、二人はもくもくと食べた。味は良く、冷えた体も温まる。
「黄緑の城って、どこもこんなに人が多いの」
 キゲイはブレイヤールに尋ねる。辺りの雑踏があるとはいえ、石人語を話していないのを聞き咎められたくなくて、声は自然と小さくなる。ブレイヤールは耳を澄ませてキゲイの言葉を聞き取り、首を振った。
「この城には大きな町の施設が三つあって、ほとんどの人がそこで暮らしてる。もう少し上に登った城内都市の方が、もっと人が多い」
 キゲイはもっと人が多い町を想像しようとして、昨晩の祭りを思い出す。もっと人の多い町とは、毎日がお祭り騒ぎみたいに、人がひしめいているのだろうか。だとするとぞっとする。宿に辿り着くまでに会った昨晩の人ごみは、もまれているうちに気分が悪くなるほどだった。
 食事が済むと、再び歩き始める。二人は人通りの多い場所を離れ、広い中庭を横切り城内都市の別棟らしき建物に入った。天井は高く、明かり採りの窓も天井近くにあるため、廊下は暗い。太い柱には蔦を模した掛け金が設えてある。そこから輝く水晶を収めた金属製の蛍籠が吊るされ、柱の足元を照らし出している。
 建物は石造りだが、内部は柱も壁も、木製の透かし彫刻に覆われている。場所によっては、竹の鮮やかな黄緑で編んだものが柱に巻きつけられていた。彫刻は蔦や木の枝がモチーフにされ、所々鮮やかに彩色された鳥や虫、リスやイタチなどの生き物の姿も彫られている。明かり採りの窓で照らされる柱の上部には、翼を広げて今まさに飛び立とうとする鳥の姿まで造られている。
 キゲイは見事な装飾に目を丸くし、不思議に思いながらブレイヤールの背中を追った。城の外にいくらでも本物があるのに、こんなに手を掛けて建物の中に森の風景を再現するなど、石人は変わっている。
 廊下の突き当りには、大きく堅牢そうな四角い木の扉と、身長ほどの杖を持った扉番がいた。扉の表面には、細かな文様が見事な木象嵌細工で施され、文字らしき金の象嵌も刻まれている。扉番も立派な服装で、裾を床に引きずるほどの長い黄緑の上着が印象的だ。
「お久しぶりでございます。白殿下」
 扉番はブレイヤールに会釈する。ブレイヤールも同じように会釈をかえした。キゲイは石人語がさっぱり分からないので、ブレイヤールの後ろで神妙にする。グルザリオに言われたよう、人前では従者の振りをしていなくてはいけない。
「大樹の塔の老師にお会いしたく、参りました。老師のご都合はよろしいでしょうか。午後から用事があり、できればそれまでにお会いしたいのです」
「お通りください。午前中は、大樹の塔の最上階におられるはずです」
 扉番は静かな低い声で応じる。扉がほんの少し開けられ、ブレイヤールはキゲイを連れて中へ入った。二人の後ろで、扉が閉じる。
 扉の向こうは円形の広間だった。中央には石造りの大樹が、大きく身をよじりながら彼方の天井まで伸びている。天井は枝葉の細かな透かしが掘り込まれ、その隙間から朝の光が注いでいた。よく磨かれた石の床は深い黄緑色で、天井に揺れる外の光を映している。ここは石人達が魔法を学ぶ学院だった。広間を行き交うのは、魔法を学びつつある学生達だ。
 キゲイは里の森を思い出した。神木の生えている場所もこんな風に薄暗く、地面はやわらかな苔で覆われている。木漏れ日は遥か上から注いでいて、神木の根元は影で暗い。神木はその影に、様々な森の秘密を隠して守っているらしい。
 この館も、たくさんの秘密を持っており、それらを影の中に隠しているようだ。広間の影と静寂を守るかのように、誰も一言も口をきかない。何人かはブレイヤールの姿に気づき、通りすがりに会釈した。ブレイヤールの方は、頷くだけでそれに応えていた。
 広間にはたくさんの扉がついていた。どの扉にも大人の目の高さに、金色に光る文字が刻まれている。光は夕焼けの色に似ていた。ブレイヤールはそのうちの一枚に向かって歩みだす。キゲイも周りの物珍しさをひとまずおいて、後を追った。ブレイヤールはキゲイをいったん振り返って、扉を押し開ける。
 扉の向こうも、先程と同じような広間に太い柱が立っていた。しかしこちらの広間は窓が付いていて、とても明るい。数人の学生達が冷たい石の床に布を敷いて座り、陽だまりの中で熱心に本や巻物を読んでいた。広間の中央に立つ巨大な円柱は、葉っぱや枝をかたどった石と木の彫刻で飾られている。円柱をそのまま大樹に模した造りだ。円柱には入口が、石の木の根の間に彫り貫かれていた。入口は狭く、キゲイでも中腰にならないとくぐれない。
「さて、ここからが辛いぞ」
 ブレイヤールはそう言って、円柱内部の狭い螺旋階段を上り始めた。階段の途中には木の洞の形の出入り口が開いていて、それぞれの階の部屋に出られるようだ。静かな階もあれば、何か熱心に言い合っている声が聞こえる階もある。階段で時々学生とすれ違うこともあったが、場所が狭いためにどちらかが壁に張り付いて道を空けなければならない。たいていは学生の方が壁に張り付いて、ブレイヤールとキゲイを先に通してくれた。学生の反応からすると、どうもブレイヤールは敬われているようだ。
 キゲイは階段が何段あるのか数えていた。単純に登った高さを知るためだったのだが、百段登っても、ブレイヤールは足を止めない。二百段になる頃には、キゲイよりもブレイヤールの方がくたびれてきていた。それでも二百四十段目に、ようやく階段が尽きる。
 二人は倒れこむように円柱から外へ出た。視界は一気に開け、土と草と岩の斜面が目の前一面に広がる。厚い雲の隙間から、日の光が帯になって降り注いでいる。地面の草は露をのせて、岩陰には小さな川が幾筋もきらめきながら流れている。斜面の上の方には林の暗い影が見え、さらにその上には黄緑色に苔むした石の壁が、絶壁のようにそそり立っていた。壁には彫刻と窓の穴がいくつもあり、所々の大きな窪みには庭園がある。石の壁の上もさらに森の影や草地の斜面があり、集落の存在を思わせる煮炊きの煙が、雨霧の中にうっすら溶け込んでいる。
 円柱の出口は、丸屋根の祠のような建物だった。両隣にも同じ形の祠が二つずつ並んでいて、地面に突き出た巨人の指先のようにも見える。どの祠もひどく古ぼけて、茶枯れた苔と蔦に覆われていた。近くには葉を落とした大きな楡の木が、幹と枝を広げて立っている。枝の狭間から見える城を囲む山々は、霧と日の光で、灰色と金色の複雑に交じり合った色彩に霞んでいた。
 ブレイヤールは、我を忘れて景色に見惚れるキゲイの背中を押した。
「ほら、あそこが僕の魔法の師匠がいる館だ。あの人なら、銀の鏡を見せても大丈夫。常識はずれな人だから」
 ブレイヤールの指差した先。斜面の下の方に、煙突から煙を吐く白い平屋の家が見える。林の影に隠れるようにあって、古そうだがとても立派な建物だ。ただキゲイは、「常識はずれ」の言葉に内心首をかしげる。キゲイには石人の常識などさっぱり分からない。
 門をくぐると、去年の落葉が散らかった閑散とした庭を囲んで、館はコの字型をしているのが見てとれた。庭周りの吹きさらしの回廊には、濃い褐色の木の扉がいくつも並んでいる。館はしんと静まり返って、人の姿はない。
 ブレイヤールは一番大きな扉の前に立って、こぶしで扉を叩く。扉は軋んだ音を立ててひとりでに開いた。ブレイヤールは一礼をして中へ入る。キゲイもブレイヤールの真似をして礼をすると、こわごわ戸口をまたいだ。
 部屋の中は、薬草の強い香りが充満していた。壁には乾燥させた薬草の束や、複雑な文様のタペストリーが所狭しと下がっている。壁には何か流れるような曲線が彫刻されているようだが、ぶら下がっているものが邪魔でまったく見えない。色タイルをはめ込んだ暖炉が目の前の壁際にあり、火には大鍋がかけてあった。暖炉の周りには、火掻き棒や杖が入った壷や、大きな木さじなどがごちゃごちゃと置いてある。室内の雑多な様子は、すっきりした造りの館とはうって変わって、庶民的な雰囲気だった。
 部屋の奥は床が一段高くなっており、何十もの布を積み重ねた上に、一人のおばあさんが胡座をかいて座っていた。草木染の使い古した肩掛けを羽織って、長い髪がその体のほとんどを、マントのように覆っている。白い髪は、暖炉や窓からの光に透けるときらきら透明に輝いて見えた。しわくちゃの口元は歯がほとんどない様子で、かなりの高齢らしい。おばあさんは二人の姿を見ると、すぼんだ口の両端をにいっとあげて、愛嬌のある笑顔を浮かべて見せた。切れ長の目が、線のように細くなる。
「お気をつけ。他の者の目はごまかせても、あたしの目はごまかせないんだよ」
 おばあさんはキゲイにも分かる「言の葉」でそう言った。キゲイはびっくりして立ち止まる。ブレイヤールの方を見ると、彼は首を振って溜息をついた。
「僕の師匠だからだよ。普通の石人には分からない」
 ブレイヤールの師匠と言うこのおばあさんは、にこにこ笑いながら手招きした。ブレイヤールは咳払いして、老師の一段下の石床に胡座をかく。彼はキゲイを手招きして、隣に立たせた。
 キゲイに向けられた老師の瞳は、変わっていた。金色の瞳を、淡い水色のラインが縁取っている。中央には深い紫の瞳孔。綺麗だが、キゲイはこんな目を今まで見たことがない。キゲイの様子を見てか、老師はパチパチとかわいらしく瞬きしてみせる。
「石人の目はね、人間とはちいと構造が違うの。なんせ、人間よりひとつ余分の世界を、この目で見るんだからね。そこの白髪の弟子の目は、色合わせが似た感じだから分かりにくいけどね。あたしも若い頃はこの瞳と雪のように白い髪で、ずいぶん声をかけられたものだよ。今じゃ髪の方は、すっかり色が抜けちまったけど。水みたいに透明だろう?」
 年に似合わず茶目っ気のある老師に、キゲイの方が目を瞬く番だった。魔法の師匠と言うから、もう少し重々しい人格だと思っていたのだ。ブレイヤールが咳払いをして、師の世間話をさえぎる。
「師匠の目はごまかせずとも、他の目をごまかせればいいんです。時間がありませんので、細かい挨拶は省かせていただきます」
 彼はそう言うと、懐から銀の鏡の写しを取り出し、老師に渡した。老師は受け取った紙に目を鋭くするが、紙を近づけたり遠ざけたりする。
「細かいねぇ。あたしにはまったく見えないよ。本題をお出し」
 ブレイヤールはキゲイを見上げる。キゲイは銀の鏡を納めた懐に手を当てた。
「……えっ? い、いいんですか」
「うん」
 ブレイヤールは頷く。
「師匠は物事の常識から、大分外れた方だから。怖いものが何もない人なんだ」
 老師はそれを聞いて肩で笑う。
 キゲイには判断のしようがない。大人しく銀の鏡を懐から取り出し、手を伸ばして老師に手渡そうとする。
「いや、いくらあたしでも、弟子が触りたがらないものに触りたくはないよ。もうちょっと近くで見せてくれないかね」
 キゲイは老師の乗っている布山の上に片膝をかけて、鏡を差し出す。それを見る老師の顔は、さらに皺だらけになった。特に、文様が彫刻されている面よりも、鏡の面の方をしげしげと覗き込んだ。
「砂漠が見える。これはシュラオイエンかエフェニエットの魔法だろう。禁呪だね。まさか触っちゃいないだろうね、王子」
「手遅れです。ですから、ご助言を頂きにあがったのです」
「手を見せてごらん」
 ブレイヤールは右の手のひらを、老師に向ける。彼女は厳しい顔つきで鏡と弟子の手を何度か見比べた。
「際どい所だけど、触ったなんて言わなけりゃ、誰も分からないだろう。神殿の首狩騎士どもにも、分かりゃしない」
「人間達が石人世界にやって来た話はお聞きでしょう。そのとき、この鏡も持ち込まれました。あのレイゼルトが砂の禁呪を携え、人間達に混じって戻ってきたのです」
「七百八年前に死んだ者が? 死に損なって、まだこの世を彷徨っていたとしたら、かわいそうなものだが」
「彼の身に起きた事情は与り知れませんが、私はその鏡を通じて、彼がレイゼルトに極めて近似した人物であることを知りました。彼自身は、自分の正体と思惑を明らかにしていません。しかし禁呪使いの存在は、我々を滅ぼしうるものです」
 ブレイヤールは息をついて、うつむく。老師はキゲイに視線を戻した。
「坊や、この札はどうやって手に入れたんだね? ああ、もうしまっていいよ。それのことは、よく分かったから」
 キゲイは老師に促されて、ブレイヤールの隣に正座する。ブレイヤールはうな垂れたままで、ずっと床を見ている。
「その鏡は、レイゼルトが預かってて欲しいと言ったんです。自分がこれを持っているのを、ディクレス様達に知られたくないって。あ、ディクレス様というのは」
「偉い身分の人間だろう」
 老師は両手を膝の上に乗せて、姿勢を正した。
「そのレイゼルトとやらが偽者だろうが本物だろうが、魔法使いであることは確かだ。軽い気持ちで命より大切だろうその禁呪を、他人に、しかも人間の子どもに託すはずがない」
「でも、この禁呪を探してる変なお化けがいるみたいで、レイゼルトはそれに見つかりたくないから、僕に持たせたのもあるみたいです」
「ほうほう。白王子、この子にお守りを持たせた方がいいよ」
 ブレイヤールは呼ばれてようやく顔を上げる。
「もう持たせています。キゲイ、あれをお見せして」
 キゲイはトエトリアの髪でできたお守りを取り出し、老師に手渡す。老師はそれが王女の髪だと知ると、髪を持った両腕をいったん掲げて敬意を示す。それから三つ編みの編み目に、ふしくれた指を当てていく。
「編み目ごとに色々なまじないを織り込んだね。相変わらずいい出来だ。これなら、幽霊だろうが邪妖精だろうが、よほどのものでもない限り、この子にちょっかいは出せないだろう」
「皆に知らせるべきでしょうか。レイゼルトの出現を。今の我々は人間達を追い返すので頭がいっぱいですが、禁呪使いの出現にも気づかねばなりません」
「なんだって」
 老師はお守りをキゲイに返しながら、目を丸めてブレイヤールを見る。驚いているというよりは、呆れている様子だ。
「あんたはそれを、あたしに聞きに来たの」
「……それとも私は、迷うべきことを取り違えていますか」
「人が迷うのは、正しい答えを得られないからではなく、正しい問いかけが見つけられないからだと言うね」
 老師はそう言って、杖を突きながら立ち上がった。彼女は暖炉にかけられた鍋に歩み寄り、壁にいくつもかけてある木のコップを杖の先に引っ掛けて取る。コップに鍋の中身を注いで、立ち昇る緑の奇妙な湯気に鼻を突っ込んだ。
「いい出来だ」
 彼女は座ったままこちらを見る二人に、満足そうな顔つきでコップを上げてみせる。
「これが長生きの秘訣」
大樹の塔 老師はそのまま一息に飲み干した。ブレイヤールは膝をついたまま、老師の足元に寄る。
「レイゼルトのことをどうお考えになりますか」
「魔法使いならば、何が大切かを見失ってはならん。いずれ王となる身であるなら、なおさらだ。たとえ亡国の王だとしてもね」
 老師は足元のブレイヤールに、やれやれと頭を振った。
「あたしは魔法使いだから、レイゼルト何とやらの話よりも、その禁呪が今ここにあることを信じる。禁呪が禁呪とされるようになってから、魔法使い達は禁呪から引き離されるようになった。後も禁呪を編み出す優れた魔法使いはいたが、編み出された禁呪は神殿によって破壊され、魔法使いも二度と禁呪に関わらないよう、永久に魔力を封じられる罰を受けてきた」
 それまでかくしゃくとしていた老師の表情が、暗くなった。
「シュラオイエンもエフェニエットも、立派な魔法使いだった。禁呪を編み出すことは、魔術の真理に近づくことでもある。今のあたしらには、その道は閉ざされてしまった。あたしもある時点で、探求の歩みを止めた。そして後から続く弟子達が、探求の境界を見極められず先に行ってしまわないか、見張っている。才能のある者ほど、分別が育つ前に境界を越えてしまうものだ。そもそも大樹の塔は、禁呪が封じられた後に大魔法使い達が新たに作り出した学問だ。魔法を使わず魔法を学び、力を使わず魔法を使い、魔術の真理から遠ざかりながら、同時に近づくためのね。後世、この塔で学ぶ者達が、魔法を使わない魔法使いと揶揄されるようになったのはもっともな話だけど、まさかあんたが禁呪を手にすることになるなんて、嫌な巡り合わせだ」
 老師はブレイヤールの上に覆いかぶさるように構え、鋭く弟子を見据えた。
「この禁呪との出会いに早まった答えを出してはならない。禁呪に関わって無事ですむのは、禁呪使いと、魔法の力をまったく持たない者だけだ。あんたは禁呪を理解するより先に、扱えるだけの魔力を持っている。その銀の札を見せて、レイゼルトが現れたことを信じ込ませる前に、皆は禁呪に触れたあんたの方を、禁呪に関わった者として恐れるだろう」
 キゲイはブレイヤールの顔が赤くなったのを見た。それからすぐに、血の気が失せていったのも。ブレイヤールは呆然として、両膝で立った姿勢からゆっくりと腰を踵に下ろす。まさか自分が禁呪使いの疑いの対象になるなんて、思ってもいなかったようだ。
 ブレイヤールとは対照的に、老師の機嫌はなおる。
「石人の歴史は古い。この正十二国だって、創生されたのは七千年以上も前だ。古すぎる歴史は、得体の知れないものも育む。この世の中、あたしらの理解を超えた魔法の存在が、誰も見ていない所で徘徊しているんだ。連中が歴史にその一端を表すとき、歴史は裏と表に加えて深みを得る。そこは誰にも語られず顧みられることもない場所だ。おそらく『レイゼルト』も、そういった存在のひとつだったのかもしれん。銀の札が呼び寄せたとかいう、亡霊もね」
 老師は片手で鍋をかき混ぜながら、杖の先で壁にかかるコップをもうひとつ取った。
「あんたがこの大樹の塔に来たとき、あたしは言った。『王子の才能は、大昔の偉大な魔法使いに匹敵するほどだ。だから王子を本当の魔法使いとして教え導ける者はいない』って。それでいいんだ。王と魔法使いは同じようで違う。『魔法使いは夜の崖を明かりなしで歩くが、王は明かりをかざさねばならない』とも言ったことがある。この世に真の闇はない。己の目が役に立たぬなら、他の者の目を借りるものだ。己の見るものばかりを信じ、明かりを灯す者は智者とは言えぬ。闇の中で光を灯せば、光に目がくらみ闇は深まるだけ。光に照らし出された己の影こそが、真の闇として生じる。しかし導く者は、敢えて明かりを灯さねばならない。後に続く者達へ、進むべき道、見るべきものを明らかにするために。レイゼルトは銀の札を掲げて現れた。あれはある者にとっては王の光かもしれんが、ある者にとっては魔法使いにとっての光だ。あたしが分かるのはそこまで」
 老師は湯気の立つコップを、ブレイヤールの顔の前に差し出した。
「……飲むかね? 強烈だよ」
 コップからは緑色の湯気が、燐光を放ちながら立ち昇っている。受け取ったブレイヤールは無表情のままでコップの中身を見つめ、ぎゅっと目を閉じたかと思うと、喉を鳴らしてぐいと飲んだ。そしてなぜかキゲイの方へコップを突き出す。コップの中にはまだ半分残っていた。ただよう強い芳香に、キゲイはのけぞった。
「おやりよ、坊や。それは精神に活力を与えるのさ。人間にも効くよ。生き物みんなに効くのさ」
 老師に促され、キゲイは仕方無しに息を止めて、なるべく薬が舌に触らないよう一気に喉へ流し込んだ。
 ガンと衝撃が全身を駆け抜ける。喉がかっと熱くなって、鼻の奥から激烈な薬草の香りが抜けた。薬が体の中ではっきりとした軌跡を描いて、胃に落ちるのが分かる。ブレイヤールをつと見ると、彼は瞑想でもしているかのように頬を引き締め、じっと床を注視して体の中で暴れる薬に耐えている。キゲイもそうだった。あまりのまずさに顔をゆがめる余裕もない。耐えている間、頭の中の雑念や心配事ははるか彼方へ遠ざかって、空っぽになる。まさに修行者か魔法使いでもなければ、好き好んでこんな飲み物を口にしたりしない。
 ブレイヤールはやっとのことで立ち上がると、老師に礼を言う。彼はまだ衝撃から立ち直れていないキゲイを引きずるように、部屋を後にした。キゲイには、ブレイヤールが答えらしい答えを老師からもらっていないように思えた。ブレイヤールの顔つきはここに来る前と一緒で、難しいままだ。けれども、彼は何かを決意したようだった。
「ディクレス殿と話せたおかげで、アークラントは平原へ退いてくれた。アークラントのことがきちんと決着するまで、僕は鏡のことは話さないで、今後も白城に残れるようにするよ。キゲイ、悪いけどもう少し石人の世界にいてくれな」
 話がまったく見えず、ともかくキゲイはブレイヤールの言葉に頷くしかない。どうやらブレイヤールがした決断は、皆の所へ戻る機会を先延ばしにしてしまうもののようだった。こうなるとキゲイの方も、とことんまでブレイヤールに付き合う覚悟を決めなくてはいけないらしい。しかしキゲイは返事の代わりに、何度か頷くのが精一杯だった。薬がいまだ胃の中でめちゃくちゃに乱舞して、下手に口を開くと飛び出しかねない。

 再び宿に戻ったブレイヤールはキゲイをグルザリオとともに宿に残し、単身黄緑の城の報告会へと赴く。昇降塔で三階層上へ昇った所で、彼は黄緑の左大臣に迎えられる。
「白の王子様、お久しぶりにございます」
 左大臣は灰色の長い髪を結い上げた、年配過ぎの婦人だ。正しく整然と事を運ぶのをよしとする彼女は、黄緑の城の指針そのものだった。姿勢は柱よりもまっすぐに見える。その彼女が報告会に先立って自分の目の前に現れたことに、ブレイヤールは胸騒ぎを覚える。
「少々気になる知らせが入りまして、会わせたい者がいるのです。こちらへ」
 左大臣はブレイヤールを先導するため、すぐに背を向けて歩き始めた。左大臣の射るような視線が苦手な彼は、若干ほっとして後に従う。
「会わせたい者とは?」
 ブレイヤールは動揺を抑えながら、何気なさを装って尋ねた。ディクレスと会ったことや、キゲイとともに銀の鏡を隠匿していることは、絶対にばれてはいけない秘密だ。これが動揺の原因とはいえ、ブレイヤールはいまさらながらその秘密の重さをひしひしと感じる。
「会えば分かります。ところで、白城に忍び込んでいた人間達は、平原へ戻ったそうですね。タバッサに潜ませていた石人達からも、彼らが町から去り始めたとの報告がありました」
「……正確には、彼らは五日前の早朝までに白城から退いています。宝物庫も発見し、中身を持ち出しています。トエトリアを助けた人間の少年も、無事仲間の元へ返しました」
「ええ。白城からの報告にも、目を通させていただきました。これで人間達も満足して、国へ引き上げてくれればよいのですが。王女様のことでも、たいへんご迷惑をおかけいたしました。誠に感謝しております」
 ブレイヤールは眉をひそめる。ディクレス達がタバッサからも引き上げようとしているのは、妙だった。キゲイがまだここにいるというのに。アークラント本国に何かあったのだろうか。気になって仕方がないが、左大臣にあれこれ質問して不審に思われるのは避けたかった。
 彼は気を紛らわせようと、自分の周りの見事な建造物に目を移す。滅びた白城にはないものが、ここにはたくさんあった。その際たるものは、人だ。忙しく行き交う人々が、どちらを向いても存在する。白城では忙しそうな石人の代わりに、崩れ落ちた石壁の破片か、ねずみの死骸を見つけるのが関の山だ。
 二人がいる建物には、下層で王と城民がまみえるための謁見の間もあった。それだけに造りもひときわ立派だ。大広間を支える巨大な柱は、樹木を模している。遥か頭上のドーム天井は、琥珀で造られた木の葉で埋め尽くされ、陽光を透かしていた。学院同様森を思わせる場所だ。この広間を歩く人々は多くが役人で、皆黄緑色を基調とした衣装を身に付けている。赤や黄など鮮やかな髪をしている者は、遠目に森の底に咲く花のようにも見えた。
 左大臣はやがて一本の廊下に入り、飴色の木の扉の前で立ち止まった。彼女はブレイヤールを振り返る。
「白城で人間達の動向を探っていた、灰城の偵察兵です。今朝、命からがらこの城へたどり着きました」
 彼女は表情を固めたまま扉を開け、ブレイヤールに入るよう促す。ブレイヤールは眉をひそめて室内へ足を踏み入れた。灰城の偵察が白城にいることは知っていたし、そのためにブレイヤール自身色々気をつけてもいた。有能な兵士を「命からがら」な状態に出来るのは、例の魔法使いしか心当たりがない。
 室内は日の光が直接差し込んで明るい。小さな応接間らしかったが、椅子やテーブルは壁際に押しやられ、変わりにベッドが運び込まれていた。白城の王子を迎えるために、わざわざ灰城の偵察兵の方を、こちらによこしたらしい。ベッドの上には、暖かみのあるやわらかな灰色をした髪の、小柄な男が横になっていた。側には医師らしき石人も控えている。
「白の王子様、恐れながら彼は怪我により、体を曲げることができません。横になったままで失礼いたします」
 医師はそう言って、ブレイヤールに場所を譲る。左大臣も部屋に入ってきて、ブレイヤールの隣に立った。灰城の兵士は上半身にぐるぐると包帯を巻いて、仰向けにされていた。兵士は目を動かして、ブレイヤールと左大臣に無言の挨拶をする。目の動きには、助けを求めている人の怯えと忙しなさが垣間見える。
「彼は小鳥に姿を変え、人間の様子を探っていました。そのときに魔法をかけられ、このようになってしまったのです。彼は片足を半分失い、喉も潰されておりますが、実際をご覧になる方が何があったか分かりやすいと申しております」
 ベッドの向かいに回った医師は上掛けを取って、兵士の胸から腹部を覆う包帯を、少しめくって見せる。ブレイヤールは思わず顔を引きつらせた。血の滲む痛々しい肌が見えたからだ。
「火傷ですか。かなりひどいように見えますが」
 ブレイヤールは尋ねる。医師の代わりに左大臣が口を開いた。
「傷口から病の精が入り込まないよう気をつければ、命に別状はありません。火傷ではないようです。まるで、やすりにかけられたよう。衣服は無傷であったのに」
「誰にやられたのですか」
 ブレイヤールの再度の問いに、今度も左大臣が答えた。喉をやられたという言葉どおり、兵士は自分では口をきけないようだった。
「人間達の中に、少年ですが石人の魔法使いがいたらしいのです。しかしどのような魔術を用いて、このような傷を負わせたのかは判じかねます。そもそも白城で魔法を使えば、殿下にもそれがお分かりになるはず。何か気が付かれることはありませんでしたか?」
 ブレイヤールは黙っていた。左大臣はそれをブレイヤールが何も気付かなかったと見たのか、ふっと溜息をついた。
「……もしやと思い、先に殿下にご覧になっていただきたかったのです。小鳥にとっては小さな木の枝が刺さっても、命取りになることがあります。この者も小鳥に姿を変えていた折とはいえ、油断して些細な魔法にかかっただけなのかもしれません。小鳥の足はか弱いものです。とにかくこの城に運ばれて来たとき、彼は受けた傷よりも恐怖のために取り乱し、言ったこと全てを信じるわけにはまいりません。白城で傷を負ったなら、殿下にまず知らせるべきなのに、この者は敵から遠くへ逃げることしか頭になかったのです」
 左大臣は判断に迷っているようだった。一方でブレイヤールは、兵士の身に何が起こったのか、すぐに確信できてしまった。やはりレイゼルトに襲われたのだ。しかもこの兵士が受けた魔法は、禁呪かもしれない。そしてレイゼルトはこの兵士を生きて逃がした。彼は自分の存在を、石人達の前に現すようなことをしでかしたのだ。
「彼は片足を失くしたといいますが、それも魔法によるのでしょうか」
 ブレイヤールは医師に尋ねる。医師が答えようと口を開けたとき、突然今まで大人しく横たわっていた兵士が体を起こし、痛みに震える手でブレイヤールの腕をつかんだ。そしてきれぎれの細い悲鳴のような声で、必死になって叫ぶ。それは短い言葉で、「砂と崩れた」だった。ブレイヤールが兵士の顔を見返すと、彼はもう一度口だけを動かして同じ言葉を言った。
 医師と左大臣が色を失って、兵士をブレイヤールから引き離す。兵士の方はベッドに押さえ付けられるように寝かし直されながらも、首だけ伸ばしてブレイヤールに何か伝えようとしていた。ブレイヤールが手を上げて制すると、相手はがくりと頭を枕に戻した。
「いつ、この傷を」
 ブレイヤールは直接兵士に尋ねる。兵士が途切れがちの息でようやく伝えた日付と時間は、正確だった。それはキゲイを人間達のテントに帰した朝で、ブレイヤールがレイゼルトに捕まり、魔法を受けて気を失っていた時間と一致する。ブレイヤールは唇をかむ。
「どうされましたか」
 ブレイヤールの表情の変化を、左大臣が鋭く捉える。
「何か、思い出されたのですか」
「いえ」
 左大臣の追及に、ブレイヤールは首を振る。頭の中を、あらゆる考えが目まぐるしく駆け巡った。もう少しこの嵐が収まるのを待っていたかったが、答えを遅らせることは左大臣の前では無理だ。
「実は私も、石人の少年に攻撃を受けました」
 吐き出すように答えたブレイヤールに、左大臣は口と眉を歪めた。どこかで自制してそんな中途半端な表情になったのだろう。彼女がブレイヤールの告白に、怒りを覚えたのは確かだ。そして彼女の怒りは、正当なものだった。
「なぜそれを、もっと早くに知らせていただけなかったのです」
「彼が何者か、まったく分からなかったのです。私が受けた魔法は特別なものではありません。けれど、強力なものでした。そして、彼は城から立ち去りました」
「分かりました」
 左大臣はいつもの厳しい顔つきに戻り、そこで話を打ち切った。時を告げる鐘の音が鳴っていた。
「続きは報告会で話された方がよいでしょう。そろそろ時間です。この者も後で会議場に運ばせます。どうやら我々が憂慮すべきは、人間ではなくその少年になるかもしれません」
 左大臣は一礼をして、先に退出する。医師もベッドを運ばせる手はずを整えに、一度部屋を出て行った。ブレイヤールも議場に行かなければならない。その前に、彼は兵士に声をかけた。
「片足が砂に変えられたこと、私は本当に思える」
 兵士はその言葉に頷き、口を動かした。禁呪使いが現れたことを信じるのは、禁呪を受けた者以外には難しい。兵士の唇は、「砂の禁呪」と読めた。彼の頭には、すでにレイゼルトの名が浮かんでいるのかもしれない。史実に名を残す砂の禁呪使いは、レイゼルトただひとりしかいないのだ。
 ブレイヤールは部屋を出た。あの兵士がどれだけ孤独を感じているか、彼にはよく分かる。レイゼルトは禁呪が蘇った事実を、兵士の喉を潰すことで、彼ひとりの心に閉じ込めてしまった。そして真実を、彼の体へ残酷に刻んだのだ。

 議場は百人近くが入れる広さのもので、王と神官が傍聴する場も一段高い所に設けられている。七百年ぶりに人間が大勢石人世界に侵入したことで、滅亡している紫の城を除いた十一国の代表が集う、十二国会議の体裁がとられていた。とはいえ、そこに集まったのは二十人にも満たない。結局人間達の侵入は脅威とまでは考えられておらず、実質的に人間に対処しているのは白城であり、主導しているのは黄緑の城だった。灰城は白城と同じ人間世界の境界に近い立地のため、同調的立場から偵察を出していただけに過ぎない。そのため、他国は使者一人だけが出席し、神官が数人、残りは全て黄緑の国の者達だ。
 最後にトエトリアが現れて玉座に腰を下ろすと、星の神殿の神官が、会議の始まりを告げた。灰城の偵察が人間とともに現れた石人に攻撃を受けた知らせは、すでに伝わっていた。そのため、ブレイヤールのアークラントに関する報告は、財宝を持って平原に帰った、という要点だけで済まされ、黄緑の城側の報告も、彼の報告を裏付けるだけに終わった。
 少々引っかかったのは、黄緑の城側がトエトリアのタバッサへの家出と、それに巻き込まれて散々迷惑をこうむった人間の少年について、一言も触れなかったことだ。恐らくこの話はアークラントの動向と関係がなく、黄緑の城にとっても不名誉なことだったからだろう。おかげでブレイヤールも、キゲイの話は一切しなくてもよかった。
 報告会は、人間と一緒に現れた石人の少年の話に向かいつつある。平原へ去ったアークラント王国の人間達のことは、彼らの中では過去の終わった問題になってしまったようだ。
 ブレイヤールは灰城の報告を聞きながら、胸のうちに薄暗いものがいや増すのを静かに感じた。人間世界に対する不安と、それに埋もれそうになりながらもはっきりと胸を刺す、小さな針のような恐れだった。
 灰城の報告は、偵察兵が石人の少年に攻撃を受けたくだりに差し掛かっており、石人達の反応もますます身が入ってきている。偵察兵本人も、体を支えられながら議場に姿を現す。胸から腹までを覆う傷と、膝から無くなった右足に、議場が騒然となる。ブレイヤールは自分がどこにいるかも忘れ、ひとり物思いに沈んでいく。
 誰かに肩を叩かれ、ブレイヤールは顔を上げた。左大臣の澄んだ声が耳に入ってくる。
「——石人の少年に襲われたと、おっしゃられていました。もしその少年が白の王子に匹敵する力を持つなら、これは憂慮すべきことです。彼を襲った魔法について論じる前に、王子の話を伺うべきでしょう」
 話を振られて、ブレイヤールは途方にくれる。それまでの経緯をまったく聞いていなかった自分の方が悪いのだが、石人達が一様にこちらを注目しているのを見ると、どこから話せばいいのかなどと、誰に尋ねる勇気も出ない。何かしている最中に別のことを考える癖が、どれほど間の悪い事態を引き起こすか。ブレイヤールはここで思い知る。けれどもようやく発言の機会を与えられた。そう考えて、気を持ち直す。
「人間達を探して城内を探索中に、例の少年から攻撃を受けました」
 ブレイヤールは石人達の反応を伺い、的外れなことを言ってないか確認しながら話し始める。
「最初は城の中で。彼は館の一部を砂に変えてしまいました。このとき、私は彼の実力の一端を見ました。彼が魔法を扱うことにかけて、非凡な才能と魔力を持っていると確信しました。二度目は、白城に忍び込んだ人間達の側まで行ったときです」
 ブレイヤールの「二度目」の言葉に、多くの石人が目を丸くした。二度も襲われて、緊急の報告を黄緑の城に入れなかったことを非難する者もいる。左大臣も怒りを通り越して呆れた顔をしていたが、周りの者を静かにさせてくれた。
「二度目はもっと早くに決着がつきました。私は油断していて彼の魔法で意識を奪われ、朝から日暮れまで気を失っていました」
「灰城の兵が攻撃を受けたのは、あなたが気を失った後だが、なぜあなたは一度襲われながらも、人間の動向を気にし続けたのだ」
 穏やかな声で尋ねたのは、星の神殿の老神官だった。ブレイヤールは畏まり、身を低くして拝聴する。
「気を付けていたならば、二度目の攻撃を許すようなことなどなかったはずだ。城はあなたの領域というに。白の王族が昔からそうであるように、あなたも祖先に恥じぬ優れた魔力を秘めておられることは、我々もよく知っている。そのあなたを手こずらせた魔法使いを、簡単に見逃してよいものではない」
 声とは裏腹に厳しい追及に、ブレイヤールは神妙に頷いて応じた。
「最初に彼と会ったとき、彼は自分が人間達のために行動しているようなことを話しました。境界の森に魔術をかけた私の力を探りに来たのでしょう。私としても、彼の素性を確かめるため、まずは白城を目指している人間達の侵入を待とうと考えていたのです」
 ブレイヤールは息をついて、頭を下げる。レイゼルトと遭遇した話は、うっかり口を滑らせればキゲイと銀の鏡の存在を示唆してしまう。自分の立場を守りながらもその足場を少しずつ削るように、できる限りの事実を話さなければならない。
「翌朝、私が人間達の隠れ場所の確認へ行ったとき、二度目の攻撃を受けました。警戒していたつもりでしたが、思えばあまりに軽率な行動でした。長い時間気を失って目覚めたとき、レイゼルトが城からいなくなったのは分かりました。これが私がお話できる、精一杯です」
 言ってしまって、ブレイヤールは肺が空っぽになるまで息をはいた。口を滑らせ、「レイゼルト」の名前を出してしまったことに気がついたのだ。一息遅れて、驚きや疑いを飲み込んだ緊張が、まさに水を打ったように議場に広がるのをブレイヤールは目の当たりにする。神官達だけが、激流を砕く巌のように微動だにしなかった。神官の一人が口を開く。
「その名は初めて聞きました」
「……名乗ったのです。私は七百年前の『レイゼルト』を騙っていると思っていました」
 レイゼルトはブレイヤールの前で一度も名乗ったことがない。キゲイからその名を聞いただけだ。ブレイヤールは今更のように気づいた。口を滑らせた動揺と、それに続く嘘で、ブレイヤールの声はかすれた。幸い彼の些細な変化は、レイゼルトという大きな名前の影に見逃された。多くの石人が、灰城の偵察とブレイヤールの姿を交互に見比べて顔を強張らせている。ブレイヤールがここぞとばかりに偵察の方を指し示すと、皆の視線はそちらへ向けられた。
「彼の言葉に耳を傾けてください。私よりも彼が、『レイゼルト』のことを身をもって知りました。片足を砂に変えられたという彼の言葉を、強い魔法にあてられたための恐怖が見せた幻覚とお考えですか。私もまた、砂の魔法を受けていてもおかしくはなかったのです」
「慎みなさい! みだりに口にしてはならない名だ」
 先程の神官が鋭く声を上げ、ブレイヤールの前に歩み寄る。彼は神官と向かい合ったが、言われたとおりに口を閉ざすしかなかった。滅びた城の王族でしかない彼は、神官に逆らうことはできない。
 彼は退いて、頭を下げる。灰城の偵察が受けた傷は、銀の鏡の話を出すことなくレイゼルトの存在を石人達に知らせる、降ってわいた切り札だった。だからこそ彼も、出来うる限り包み隠さず話そうとした。これで信じてもらえなければ、もう打つ手は残っていない。
「己の恐怖を他の者にまで煽るのはやめなさい。あなたまでもが、この者は禁呪で傷を負わされたと言うつもりなのか。レイゼルトは過去の罪人であり、砂の禁呪もまた、過去のものだ」
 神官は退いたブレイヤールへ、さらに戒めの言葉を浴びせる。やはり銀の鏡を見せないと、誰も信じられないかもしれない。神官の言葉にブレイヤールは失望する。
 そのとき、会議の行方を見守っていた老神官の前へ、自らひざまずいた者がいた。灰城の偵察だ。老神官は上体を傾けるほどにして、つぶれた喉から漏れるかすかな声を聞き取り、他の石人達も耳を澄ませた。とうとう兵士が激しく咳き込むと、老神官は医師らに引き取らせるよう合図する。全ての石人が見守る中、老神官は段を登って、王座に座るトエトリアの隣に立った。
「彼は私にこう言った。かの者の魔法は、私が今まで受けたことのある魔法の衝撃とはまったく違う。魂の底まで響き、心を粉々に砕くばかりだった、と。腕が良いだけ、魔力に優れているだけで、そこまで言わしめる魔法を放てるとは思えぬ。白の王子の申されるとおり、我々はレイゼルトを名乗る少年が何者なのか、どのような魔法を用いたのか、突き止める必要がある」
 老神官はそこで言葉を切り、石人達をぐるりと見渡す。ブレイヤールも上体を起こして、老神官へ顔を向けた。
「そもそも我々が予想していたのは、人間達の侵入だけだった。故にその対処も不十分なものとなり、思わぬところで白の王子の身を危険にさらし、灰城の兵に深い傷を負わせることにつながった。レイゼルトを名乗る少年も、取り逃がしてしまったのだ。これは反省すべきことだろう。白の王子一人に負わせる責任ではない。『レイゼルト』を名乗る者のことは神殿の大巫女様にもお伝えし、ご判断を仰ぐことにする。赤城にはレイゼルトの切り落とされた右手が、王墓に残されているはずだ。神殿から高位の星読み達を遣わすことにする。残された右手を調べれば、かの少年が『レイゼルト』と関連あるかどうか、分かるだろう」
 老神官の言葉は強力だった。ことに「大巫女様」の名を出したことは、石人達にとって、事態がどれだけ深刻であるかを否応無しに認識させる。一方で赤城の使者はみるみる顔色を悪くした。レイゼルトの名は他の石人以上に、赤城の者にとって悪夢よりも忌まわしい過去だったのだ。
「我々も、その少年を探す手がかりをつかまなければなりません」
 黄緑の城の左大臣が発言した。十一国側としても、全てを神殿に仕切らせるつもりはない。他の国の使者達も左大臣の言葉に同意し、白城での手がかり収集に人を送ることを決める。ブレイヤールはといえば、これを素直に受け入れるしかなかった。
 使者達と神官は、それぞれの役割や権限の範囲について議論をはじめていた。十一国側は出来る限り神官の関わる事柄を制限しようと苦心し、神官側も十一国側が人間相手にとった穴だらけの警備体制を批判して、レイゼルトの捕縛を主導しようとする。ブレイヤールは議論に熱を帯びてきた集団の中で、次第に外へ押しやられてしまう。文字通り、完全に蚊帳の外になっていた。
「あの、皆さん、お聞きください! 確かに彼の足取りを追い、捕らえるのは、何よりも優先すべきことです。しかし人間達もまだ平原に退いただけで、再び我らの世界に忍び込んでくる可能性が残されています。彼らが峡谷の向こうに退くまで、警戒を解くべきではありません!」
 ブレイヤールは石人達に声を上げる。ところが。
「その話はもう終わりましたぞ。仮に連中が境界石を再び越えることがあれば、今度はその場で追い返せばよろしい。境界石の守備は、白王子、引き続きあなたがやってくだされば、人間の心配はありません。今度はもっと強い魔術を森にかけていただきたいものですな」
 黄緑の城の右大臣が振り返り、諭すようにそう言う。ブレイヤールは食い下がった。
「私は境界石の向こうにも、さらなる注意を向けるべきだと言いたいのです。白城に現われた人間達が、どのような背景を持っているかが問題なのです」
「もうじき滅びる国からやって来たのでしょう。人間達の素性は、あなたご自身が一番よく調べてくださいましたからな。彼らが滅びれば平原への抜け道も忘れ去られ、掟を忘れた人間が群れをなして我等の世界に来ることもなくなるではないですか。混乱されているようですから、もうお引取りになられて結構です」
 右大臣はぴしゃりと言い切ると、背を向けて議論に戻る。赤城の使者がブレイヤールの側に来て、たしなめた。
「我々も取り急ぎ城に戻り、王墓に残された禁呪使いの右手を運び出す手続きをとらねばなりません。殿下も白城に戻られた方がよろしいのではないでしょうか。かの少年がどこへ去ったか、城に手がかりが残されているやも知れません」
「……それを調べるのは神殿と黄緑の国の者達になっていて、私じゃない」
 ブレイヤールは押さえた口調で答えるが、その前に赤城の使者と神官達は足早に議場を去ってしまっていた。完全に身の置き場がなくなったブレイヤールは、トエトリアのいる壇上に登って壇の端に腰掛ける。老神官は話し合いに参加するために壇を降りていたので、壇上にはトエトリアと王衛、近衛兵だけが残っていた。
「何が起ころうとしているの?」
 王座から飛び降り、トエトリアは心配そうに囁きながら、ブレイヤールの隣にかがみこんだ。王女という立場上臨席していたものの、彼女に報告会の内容は難しかったようだ。
「誰にも分からないよ。赤城と星読みの神官が、レイゼルトを見つけるならいいんだけど」
 ブレイヤールはげんなりと呟く。石人達がレイゼルトのことを考え始めてくれたのはいいが、自分自身はこれからどうしてよいか分からなかった。人間達への対処は、ある意味自分ひとりに任されたのかもしれない。しかし手足になる家来が殆どいないようでは、いったい何が出来るのだろうか。
「滅びた国の王族って、本当に不自由な身分だな……」
「そう? 私は自由だと思ってた。一日中、自分の好きなことできるから」
 トエトリアは無邪気だ。そのあまりの能天気さに、ブレイヤールは思わずまぶたを閉じて、涙をこらえる。何の悩みもなさそうな彼女が、今はとてつもなく羨ましい。トエトリアだって、反省しなければならないことはたくさんあるはずなのに。
「違うの?」
 トエトリアはブレイヤールの反応を見て、首をかしげる。しかし頭の回転だけは速い。彼女は、直後に手を打った。
「でも、うちの兵士達が白城に暫くいるなら、チャンスじゃないかな。その間、白城は兵士達が見張ってくれてることになるんだし」
 トエトリアはうきうきと飛び跳ねるような口調でそう続ける。聞き流すつもりでいたブレイヤールだが、この言葉に初めてトエトリアを見上げた。口ぶりから想像できる通り、彼女は満面の笑みを浮かべている。「境界石の向こうが気になるなら、ちょっと見てきたら?」と、そそのかしてくれているわけで、当然それ以上の深い意味はないだろう。
「さすがだね。城を空けるチャンスを見逃さないんだな」
 彼は力のない笑みを返して見せる。その表情とは裏腹に、彼はこれからどうすべきかを見出していた。トエトリアがタバッサまで行ったように、彼も行けばいいのだ。そして、そのもっと先へも——。

十章 紫の城

 赤城は広大な湖の中央に、島のようにそびえ立っていた。城壁が水面から伸び、その上には細く尖った岩山がいくつも並んでいる。崖も岩山も赤茶けた色をしており、そこにくり貫かれた千もの窓から明かりが漏れていた。湖の下に沈む部分にも水晶をはめた窓がいくつもあり、水面の下をぼんやりと照らし出している。湖には小さな明かりを灯す、幾漕もの小舟がのんびり漂っている。
 城の南東部分、町から林の向こうへと続く道に、とぼとぼと歩くひとつの人影があった。簡単な作りの裾長のワンピースに、群青色をした丈の短い刺繍入り上着。枝を落としただけの木の幹を杖代わりに持ち、栗色の髪を首元でぱっつりと切りそろえた賢そうな面立ちの若い女性だ。もっともワンピースは皺だらけで、室内履きの柔らかい布靴をつま先に引っかけ、片方の手に皮袋と湯気の立つ木の皮の包みを下げているさまは、明らかに冴えない。
「おいおい。お嬢さん、随分な恰好じゃないか。祭りの夜なんだから、みんな楽しくやらなきゃいけないんだぜ」
 町外れで眠そうに立っていた警備の兵が、はっと目覚めて声をかける。女性は一瞬にやりと笑っただけで歩調を速めた。
「祭りも祝わないなんて、醒めてるな。気をつけて帰れよ」
 兵士はその背を心配そうに見送った。

「私、本当にバカだわ。なんだってこんな所にいるんだか。おまけに、こうしてまたあいつのいる所へ戻ろうとしているんだもの」
 アニュディは、もう百回目になるかもしれない溜息をつく。風に乗って、春呼びの音楽がかすかに届いていた。今夜は春迎えの祭りの日なのだ。
「私だって、お祝いしたかったわよ。家族で集まって、ご馳走を食べる予定だったのに。皆、きっと心配してるだろうな」
 再び溜息をついたアニュディは、林の道を杖で確かめつつ、半時ばかりして古い塔へと帰りつく。塔は林立する岩山の陰に隠れ、さほど高いものではない。せいぜい八階建てくらいだろうか。最上階辺りに窓が二つ、それ以外は塔の入り口があるだけだ。その入り口も石ころで隙間なく塞がれ、茶枯れた苔や木蔦がその上を覆っていた。窓も同じありさまで、酷く殺風景だ。
 彼女は塔の冷たい壁を片手に触れて存在を確かめると、皮袋と木の皮の包みを杖に結わえて腰帯にさす。それから姿を変じた。彼女の影が足下から塔に沿って、長く延びていく。壁に沿わせた彼女の腕も、見る間に鋭い鉤爪を持つ獣の腕に変わり、ぐっと力が込められたかと思うとその巨体を塔の上へと引き上げた。
 それは銅色に鈍く光るトカゲの体、熊のように太い四肢、狼に似た頭を持つ生き物だった。背中に広がっていた薄い銅の羽毛を持つ翼は、体の両脇にたたまれる。腹部にはワンピースの帯だったものが手綱のように結わえてあり、そこには杖が引っかかっている。短い上着は首から胸元を包む蒼い被毛になり、刺繍はその縞模様に変わっていた。
 その生き物は塔に爪を引っかけて登り、屋上まで来ると銅の翼を星明かりに閃かせ、再び小さくなってアニュディに戻った。彼女は杖を腰から引き抜いて、結わえていた荷物を解く。
「ふう、誰にも見られなかったかな。私みたいに図体の大きいのは、城で勝手に変身したら罰金ものだもの」
「罰金ですむ大きさならまだいい」
 手すりに腰掛けていたレイゼルトが答える。
 彼が見上げる視線の先には、王城があった。祭りを祝う明かりが、深い紅の王城全体を照らし出している。緋色の柱が並ぶ大回廊もここからよく見える。とりわけ回廊の大窓が見事だ。それは山珊瑚の細かな装飾を複雑に組みあわせ、この国の象徴である妖精竜の姿を透かし出していた。
「夕食を買ってきたんだけど。川魚の蒸し包み。あなた本当に食べなくていいの?」
「食べない」
 レイゼルトはきっぱりと答え、手すりの向こう側に体を降ろした。そこには石で塞がれた窓がある。彼は左手で手すりにぶら下がりながら、籠手をはめた右手を窓に向かってかざす。窓を塞ぐ石はさらさらと砂に変わって崩れ落ち、後に残ったのはぽっかり空いた窓枠と、カーテンのようにぶら下がる枯れた木蔦だけだ。
 彼は窓の枠石に足を降ろし、木蔦を掻き分けて室内に飛び降りた。砂埃が舞い上がり、窓から差し込む月明かりの筋を浮かび上がらせる。彼は窓を背にじっと動かず、まっすぐ先の室内に火色の瞳を向ける。その視覚は、昼よりも夜の方がきいた。しかし見る必要などないくらい、彼の記憶はこの部屋をよく知りつくしている。
 七百年前、ここにはまぎれもなくあの「レイゼルト」が幽閉されていたのだ。「彼」は塔での一日の大部分を、この部屋で過ごした。窓から差し込む外の光に怯え、同時に強くひきつけられながら、部屋の暗がりに身を隠していた。この塔から出れば自分は殺されることを知っていた。切り取られた右腕の先は体の成長に従って痛みを増したが、逃れるすべはなかった。塔と右腕の痛みこそが、この世に唯一与えられたものであり、「彼」を捕らえ続けるものだった。
忘れたくない 当時、部屋には壁にも床にも、文字がびっしりと彫り込まれていた。「レイゼルト」が幽閉される以前にも、この部屋で過ごした者達がいたのだ。長い年月の間に、どれだけの囚人がいたのだろうか。刻まれた言葉は誰かを呪う文句の他にも、許し、無実の訴え、無念、諦め、そして最後の悟りを滲ませた詩もあった。「レイゼルト」自身は筆もなくナイフも持たず、文字を書いたり刻んだりできなかった。できるのは薄明かりの中、先住者達の残した文字を、たどたどしく発音して時を過ごすことだけ。幼い頃から塔に封じられたために、その発音すらも、正しいかどうか分からない。それでも完全な孤独の中、ともすれば記憶から薄れ消えてしまう言葉、人としての知性にすがるように、「レイゼルト」はこの文字を指でたどり続けた。
 これまでの囚人達が絶望の末、正気を手放し生を終えたように、「彼」もまたそうなると期待されていたのかもしれない。しかし「彼」の心で、絶望は十分には育たなかった。そういった感情を持つには幼すぎたのかもしれない。ただひたすらに、過去の囚人達が壁や床に刻んだ言葉が、自分と人の世界を繋ぐと信じて疑わなかった。
 レイゼルトは、暗闇を透かして部屋に視線をめぐらす。
 今、この部屋に文字はひとつもなくなっていた。無理もない。あれから七百年も経ったのだ。塔が貴人の牢として使われなくなったとき、何もかもきれいに造り直したのだろう。しかし囚人達の暗い思念の染みついた塔を使うのは、気味が悪かったとみえる。いつしか塔は封鎖され、このまま何百年も放置されていたようだった。
 一方で、七百年前と変わらないものもある。それはこの室内に落ちる影と、水のはじけるかすかな音だ。
 「彼」には、この狭い世界を観察する十分すぎる時間があった。日が暮れて真っ暗になると、風に乗って人の声が町から届くのではと、耳を澄ますことも多かった。徐々に研ぎ澄まされていった感覚がある瞬間、自分のすぐ側にあった音、塔の壁の中から聞こえる囁きを捉えたのは、当然だったのかもしれない。それが初めて聞いた城の音だった。そして「彼」が塔から引き出されたのは、それからまもなくのことだ。
 古い記憶が湧き上がる泥のように心の奥底から蘇り、明らかな形を取らないまま再び意識の底へと沈んでいった。レイゼルトは薄闇の中で顎を上げる。塔から引き出され、目の当たりにした外の世界に覚えた感情は、古い記憶の深みの中でまだ荒々しく燃え続けていた。彼はもう部屋を一瞥だにせず、身を翻すと来たときのように窓から塔の天辺へ戻った。
 アニュディは食事を終えて、何をするでもなくこちらに背を向けてまっすぐ立っていた。
「春呼びの歌が始まったみたいね」
 彼女は町の方向に耳を傾けていたのだ。
「耳がいいな」
 レイゼルトが答えると、アニュディは首だけで振り返る。
「城の音を聞いたことは?」
 レイゼルトは尋ねる。アニュディはああと小さく声を漏らした。
「あんな音に気づくもんじゃないわね。自分の心臓よりも静かな音だもの」
 彼女はうな垂れて、考え込むように腕を組んだ。
「私が人里離れた場所に家を持ったのは、気ままに暮らしたかっただけじゃない。ああいう所でないと、基礎石の中を通る音は聞きとれないもの。王族の人は、もっと多くの音をあそこから聞き取るものなのかしら。でも私、基礎石の中を通る音でも、きっと一番小さな音を聞いたのよ。地の底から打って、天へ送り出される流れをね」
「食事を買いに行って、まさか戻ってくるとは思わなかった」
 レイゼルトの言葉を聞いて、アニュディは冷たく言い返す。
「いまさら言う? 戻らなかったら、探しに来たでしょう。あんたは私に危害を加える気はないようだから、付き合ってあげてるの。翼を持つ者には、花を持たせておきなさい。そうすりゃ少なくとも、空にいるときは振り落とさないでいてあげるから」
 最後に少し笑い声を立てて、アニュディは難しい顔に戻った。レイゼルトは再び王城に目をやる。王城の天辺にはひときわ強く輝く赤い灯火が設置され、大きな水晶の結晶をルビーのように照らし出していた。あの水晶は、城の芯である中枢部の頂点にある。中枢部は城のすべての力の源であり、その力が拡散する場所でもあった。
「城の中枢には全ての秘密の源があるそうだ」
「そう言われているね」
 アニュディは頷いた。
「私は自分で見つけた秘密の側に、いたかっただけ。それなのに、あんたみたいな妙な存在に目を付けられるし、床からは妙な力が溢れてきて、三か月分の香を燃やしちゃうし」
 彼女は不機嫌な様子で唇を尖らせると、自分の前髪をぷっと吹いた。
「で、あんた本当に誰? 城の音に興味を持っている人は、私の周りにはいなかった。ある意味、あんたが初めて会った私の同類だわ。あの音のこと、皆は基礎石の中を通る水の音だっていうけど、私にはむしろ泡がはじける歌に聞こえる。うまく言えないけど、節回しがあるのよ。虫の鳴き声より、もっともっと単純な」
「なぜ基礎石の中に水の通り道があるのか、なぜそこを水が昇って行くのか、知ってるか」
「『建城記』で、初代の十二王達に仕えた魔術士が書いているわ。初代王達が、死した神の体に魔力の道を焼いた。神の体がこの城で、魔力の道が城中に張り巡らされた水の道。城の天辺の水晶で集めた星の光が中枢の根っこに届いて、それで形なき魔法の機関が動いている。つまり、初代王の魔法の言葉でできた歯車が城の地下にある巨大湖で回り、それが水を絶えず押し上げて、城の下から上までを潤しているって。魔法の機関はこの城の最大の秘密で、不安定ゆえに誰の目にも触れてはいけないし、そもそも見ることも出来ないものだって」
「水の通り道で気泡は弾けないんじゃないか」
 レイゼルトの問いかけに、アニュディは口を曲げ、気を悪くしたようだった。
「そうかもしれないけど、それに近い音だったのよ。どっちにしろ私は、魔法の歯車とやらの存在を感じないの。あの城の音からは」
 偉大な魔術士の記した書物を信じる気にもなれなければ、自分自身の解釈にも自信が持てない。いまいましさが感じられる口調だ。それから彼女は真顔に戻る。
「私、『あんたは誰?』って尋ねたはずだけど」
「私はずっと昔に死んだんだ。死んだら、名は星に返されてしまう。誰だとも言えない」
 怪訝そうなアニュディの片手に、レイゼルトは左手で触れる。
「おお、嫌だ。ずいぶん冷たい手をしてるわね。首に乗っけて飛んでるときから、妙だと思ってた」
「半分死んでいるし、半分生きてもいる。体が当てにならないから、魔術を使って、ものを見て、声を作っている。不便もあるが、食事をしなくても腹が減らないことは、ずいぶん勝手がいいかもな」
 アニュディは素早く手を引っ込め、レイゼルトから一歩身を引く。しばらく黙りこんた後、ようやく彼女は固い口調で答えた。
「書物で読んだわ。不死不老の者ね。長生きしすぎると、体だけが若いまま老衰するの。でも私が読んだ書物ってのは、作り話よ。素晴らしいわ。子どもの頃はそんな作り話の主人公になって、生命の理を曲げた悪い魔法使いをやっつけたいって、夢見てたもの」
 口ではそういうものの、作り話が本当になると、大抵がろくなことにならない。アニュディはやれやれと実感する。
 かつて禁呪というものが存在した石人世界では、こういう者がいてもちっともおかしくないのかもしれない。魔術の最も深い闇へと沈んだ者達は、人々の記憶や書物の狭間だけが住処ではない。この世の土を踏み、しかし誰にも姿を見せることなく、影から影へと渡り歩く者もいるはずだ。禁呪が封じられてから、このような者達が存在し得ることも、石人達はほとんど考えなくなっている。それこそ、作り話として不死不老が語られるほどに。
 アニュディは姿勢を正して顔を引き締める。彼女の心に、石人らしい魔法使いとしての意志が呼び覚まされていた。
「城の音は、決して明かされてはいけない城の秘密に通じるもの。あんたが私の仕事部屋に現れたとき、地面から沸きあがってきた力も、城の秘密のひとつだったんでしょうね。あの力は、とても古い匂いがした……」
 城の音に魅入られたことで、こういった化け物を身近に呼んでしまったのかもしれない。
 彼女は石人の城が怖くなっていた。あの晩、黄緑の城でこの少年を追うように湧き上がってきた不気味な力。あれは紛れもなく、禁呪よりも底知れない城の秘密から発せられたものだ。その力が彼女に及ぼした恐怖は、心に鋭く刺さって抜けずにいた。これを取り除くには、彼女に与えた恐怖そのものの正体を暴かねばならない。この不死不老を称する少年に従えば、それが叶う気がしていた。そしてそうしなければ、再び石人の城で、以前と同じように暮らすことなど出来はしない。
「私、城の音は好きよ。だからしばらく、あんたの用事に付き合ってあげる。あんたのおかげで、城での日常を失ったわけだしね。失ったものに対して、私はあんたの用事から何を得る?」
「探求の糸口になるものなら、なんでも」
「じゃ、視覚。皆が言うのよ。黄緑の城はとても綺麗だって。城の秘密を明かしても、城がどういう姿をしてるか知らないのは、ちょっとしゃくだわ。あんたが今使ってる、ものを見る魔術とやらを教えてよ」
「この魔術は、生まれつき目が見えないあなたには意味がない。用事をあらかたすませたら、私の片目の視力を、あなたの片目に移してやろう」
「……本当にそんなことできる?」
「できるが、後で相当苦労することになる。ものに出来るかは、城の探求より苦労するかもしれない」
 レイゼルトは塔の端へ立ち去りながら、小声で答える。相手が側を離れたのに気づき、アニュディは声を張り上げた。
「あんたが名乗らないなら、私も自分の名は名乗らないから! でもね、あんたがいつの時代から生きてるか、聞いてもいいでしょ。下手な骨董品より古いんじゃない? ぜひとも人として生きた、最後の記憶が何か聞いてみたいわ」
 レイゼルトは口を引き結んで振り返る。
「そろそろ飛び立ちたい。黄緑の城のときと同じ目に会う前に」
「あ、そう。そういうつもりなんだ。好きにするといいわ。でも私への接し方を考え直した方がいいわよ。私も機嫌を損ねると、城より怖いんだから。今後一切、命令しないで」
 アニュディは溜息をつく。もはや何度目の溜息か、覚えていない。
 彼女は塔の上で姿を変え、銅色の翼を大きく広げた。

 わずかな休息時間を挟むだけで、数日飛びっぱなしだった。獣に姿を変えたアニュディの鼻先に、風はいよいよ冷たくなっていた。獣の感覚は、自分達がより奥地へと移動したことも教えてくれる。幸いレイゼルトは飛ぶ者を操る技に長けていた。彼が指示する通りに飛行旋回していれば、崖の岩肌にも背の高い木にも衝突しないですむことを、彼女は認めざるを得なかった。特に着地する際の指示は、目の見えない彼女にとって命にも関わる重要なものだ。この手際も、レイゼルトは抜かりがなかった。あまりに上手いので、彼が飛ぶ者を操るのに慣れているというより、彼自身も翼を持つものに姿を変えられるのでは、と怪しんだくらいだ。
「ここどこ? 風が強い」
「紫城。水晶の山」
 人の姿に戻り、アニュディは強風に乱れる髪とワンピースをそれぞれ手で押さえた。彼女は胸いっぱいに、知らない土地の冷たい空気を吸う。
 紫城は滅んだ城だった。南東側に巨大な縦の亀裂が入り、北西側が大きくひしゃげている。七百年前、城の中枢が傾いたときに起こった大規模な地崩れの跡だ。大きな傷を負ったこの城に人が戻ることはなく、生き残った紫の王族も去って行った。基礎石を覆う化粧石は地崩れや長年の風化により、あるいは成長する木の根に砕かれて、多くが剥落している。化粧石には深紫の石材が使われていたが、むき出しになった城の基礎石がその色を映し、紫水晶のごとく輝いていた。紫城はその有様から、いつしか水晶の山と呼ばれるようになっていた。
紫の城 二人が降り立った場所は、紫城の中腹にある高台だ。上層から崩れ落ちた石材の破片が散らばり、倒れた巨柱の影には、強い風を避けるように潅木の茂みが黒々と広がっている。後ろにそそり立つ絶壁は、高層の館の壁だ。透明な基礎石がむき出しとなっており、四角い窓の幾つかから、細い滝が落ちている。館の足元には滝でできた川が流れ、さらに一筋の滝となって高台から下層へと続いていた。
「ここなら、上から石が落ちてくる心配はないだろう。落ちそうなものはあらかた落ちた後だ。水もあそこにある」
 レイゼルトは自分の杖を取り出し、枯れ草だらけの地面に線を引く。彼は滝の下の水たまりや、風を避けられそうな石材の陰まで、杖で地面を引っかきながらひと巡りして戻ってきた。アニュディのために、魔力で印をつけた道が必要だったのだ。
 彼は杖で描いた線の上に足を乗せるよう、アニュディを促す。アニュディは綱渡りをするように、見えない線の上へ両足を乗せて前後を確かめた。
「うん。分かる。これで一人でもだいたい動ける。けど、どうするつもりなの」
「私はこの城に探し物があるから、しばらくここに」
「ええっ!」
 ほとんど悲鳴にも近いアニュディの驚いた声を背にして、レイゼルトは魔法の風に乗り、城の上層へと大きく飛び上がった。彼は高台を見下ろす絶壁の天辺に着地して、一度だけ振り返る。まだ日は高く、乾いた風が荒れ果てた城の埃を舞い上げ、あたりを薄紫に霞ませている。高台にはアニュディがぽつんと立って何か叫んでいたが、声は届かない。彼はその場を離れ、城の上層を目指し始める。
 もしレイゼルトが生きた体を持っていたなら、城の上層を目指すのはひどく骨の折れる仕事だったに違いない。幸い、彼は半生半死だった。不老不死の魔法といえど、生き物の寿命を超えてこの世にとどまろうとすれば、どこかで術のもつれが出てくる。この世との繋がりが強い肉体は死に縛られ、あの世に行けない魂は魔法に縛られたまま残り続けている。それが少なくとも今の状況では、何よりありがたい。死んだ体は疲れないし、食べ物も必要としない。何も感じず痛みもない、人形みたいなものだ。それを魔術で操るのは、造作ない。
 レイゼルトは休むことなく走り、上へと続く階段を見つけては駆け上がる。場所によっては絡み合った蔦をよじ登ったりした。もともと複雑な構造をしていた城は、七百年前の大崩壊でさらに道が分かりにくくなっていた。
「禁呪の力に魅せられて暴走を始めたと、歴史書にあったな。それ以前に、もともと正気じゃなかった気もする……」
 大きな亀裂で断絶した回廊を飛び越え、レイゼルトは呟いた。白城の図書館に忍び込んだとき歴史書を漁ってみたが、当時の記憶は彼の中でも、不思議とおぼろげなものになっていた。七百年前の大崩壊で起きた悲劇は、どれほど凄まじいものだったろうか。数え切れないほどの石人達が命を落とした。紫城がレイゼルトの操る禁呪によって滅びたとき、石人達は禁呪の真の恐ろしさを知ったのだ。歴史書には「禁呪によって、初代十二王が半生をかけて建てた城は、わずか九日で滅びた」とあった。
——たかが一人の石人の力で、禁呪を用いたとはいえ、これほどのことができるものか。そもそも私にとって、この城を滅ぼすことに何の意味がある。私以外に強力な魔法の使い手がいて、その者が計り知れない恨みをこの城に抱いていたとしたら? 地上を巡る歴史もあれば、地下でうごめく物語もある。
 無人の城には、様々な調度品がそのまま残されていた。長い回廊を飾る燭台は厚い砂埃に輝きを失い、床に転がった陶器の花瓶は拾い上げる者もなく、ずっとそのままだ。木で出来ていたものは全て跡形もなく崩れ去り、土になるか風に運ばれて散っていた。
 進む方向を見定めようと立ち止まったレイゼルトの視線の先、天窓から夕暮れの日が注ぐ小さなホールに、数頭のカモシカがいた。彼が近づくと、シカ達は軽やかに跳ねて石柱の森の向こうへ逃げ去ってしまう。
 ホールの中央には小さな噴水跡があった。水は絶えず湧き出し、壊れた噴水の縁からシカ達が逃げた柱廊へ、小さな流れを作り出している。天窓を見上げると窓枠だけになっており、外がよく見える。傾いた塔の階段状の屋根が覗いて、縁飾りに紫城の聖獣である獅子に似た生き物のシルエットが彫りこまれていた。
——あそこから王城に入れる。
 レイゼルトは塔へ向かって大きく跳び上がる。王城に入れば、中枢の入口である扉もいずれ見つかるはずだ。
 日が暮れて城の影は濃くなる。王城には動物達の気配すらなかった。水晶のような基礎石を通して星明りが崩れた壁面に踊る。あらゆる物が安らかに沈黙していた。衣服らしきものもくしゃくしゃになって床に張り付いていたが、それを身に付けていた持ち主はとうの昔に死んで石となり、砂となり、吹き込む風で散っていた。
——石人は死んで石となる。やがて崩れて砂になる。人間は土人つちびとだ。死んで土に還る。
 古い時代、この城を満たしたであろう悲鳴も恐怖も絶望も、その後に降り積もった長い時間と静寂が全て乾かしてしまったかのようだった。
 二日目の真夜中過ぎ。レイゼルトはようやく巨大な二枚の扉の前に辿り着いた。紫城の中枢への入口だ。本来ならば強力な魔法の鍵が幾重にもかかり、扉は一枚岩になっている。ところが七百年前に大きく傾いた城の中枢は、この扉をひとたまりも無くひしゃげさせていた。レイゼルトはひび割れた扉の隙間から、するりと入り込む。
 月明かりが中枢頂点の水晶から差し込み、螺旋階段を淡く浮かび上がらせている。階段もまた中枢とともに歪み、亀裂が所々走っていた。レイゼルトは階段を慎重に降り始める。
 中枢を包む基礎石の中を、小さな泡が月明かりをはじく燐光となって立ち昇る。このような状態でも、なお水は城のあらゆる場所に運ばれているのだ。
ーー中枢には魔法の機関がある、か。その方が、まだはるかに良かった。
 中枢の芯部に設けられたいくつもの儀式の間も、レイゼルトは構わずに降りていく。中枢は城の力の源にして、その内部は力の真空地帯でもある。一切の力が働かない場で、城の秘密が守られている。
——七百年前の者がなぜ生きているか。『レイゼルト』に関する歴史的な事実から、答えは出ない。『レイゼルト』は全ての石人を呪いながら死んだと伝えられているが、恨みだけでこんな化け物になれるものか。私の石人達に対する感情も、赤城の湖畔に凄惨な砂漠を作り出した禁呪の力も、多くの歴史物が記す事実も憶測も、全て関係ない。私があの翼を持つ石人を調香部屋で捕まえたように、彼らも私を七百年前、禁呪を使って捕え、自分達のいる闇に引きずり込んだ。
 すでに彼は、水晶から差し込む明かりも届かない深部へと達していた。螺旋階段の終わり。そこが紫城の最深部と言われる所だった。魔法の光を丸籠の形に編み、自分の先にそっと漂わせる。光は白く滲みながら、辺りを弱々しく照らし出す。影と反射が空間を走った。中枢が倒れる以前は行き止まりだったはずの場所は、斜めに大きな亀裂が入り、粉々になった基礎石の破片が散らばっている。亀裂の狭間は、まるで大広間ほどの広さと高さがある凄まじいものだ。
 レイゼルトは迷うことなくその亀裂の中へ上がり、先へと進む。いびつな断片を無数にもつ大広間は、垂直に建つ無傷の壁で終わっていた。壁は基礎石の一枚岩だったが、その奥に薄紫の石の影がある。中枢の崩壊に耐え、その内部にあるものを守るほどの強さを持った壁だ。レイゼルトは立ち止まり、左手をなめらかな壁に当てる。
「七百年の初めと終わりに、最も深部の扉が依代よりしろを求めて開く。あるはずのない扉が。すでに他の八色の扉は開かれ、閉じられた。今、十番目となる赤の扉が七百年ぶりに開かれ、十一番目の扉は初めて開かれようとしている。九番目の扉はどうか。七百年前にそれは閉じられることは無かった。扉は中枢が傾いたときに、壊れてしまった」
 彼は腕を動かし、壁の左右を確かめる。透明な基礎石の壁の中を、不意に白い明かりが伝わってきた。光は彼の右側から来る。その先には、壁の中へと通じる穴があった。彼は素早く左手を引くと、入口へ歩み寄る。
 室内には、光が煙るように満ちていた。壁面と床は磨き抜かれた薄紫の石が覆っているが、部屋の中央に立つ樹木を模した巨大な柱は基礎石そのままを削り出している。柱の上部は波打つ枝葉とも風の軌跡ともつかないひだ模様となって、緩やかな曲線を描く天井までを覆っている。
 レイゼルトの視線は、紫色を映す基礎石の柱へと据えられた。柱の土台部分には一つの王座が彫り込まれている。そこに褐色の肌をした一人の王が、ぐったりと身を投げ出していた。絹の光沢を持つ深い紫の衣を身にまとい、透き通るような菫色の波打つ長髪が、王の肩から膝まで垂れていた。
「初代紫王。名前は伝えられていない」
 レイゼルトが低い呟きとともに室内に足を踏み入れても、王は死んだように目を閉じたままだった。その姿は波打つ水面に映っているかのようにゆらゆらとたなびき、ときに王座の背が透けて見える。
「歴史書にはこうある。はるか昔、この地にはひとつの神殿のみがあり、石人達を絶対的に治めていた。ところが時を重ねるごとに神殿の権力は腐敗し、石人達を苦しめるようになる。あるとき神殿に仕える十三人の神官が、石人達を権力から解放するため、神殿に逆らい十二の城を建てた。彼らは初代国王となり、多くの石人達は彼らを慕ってその国の民となった」
 レイゼルトは王に向かい合って立つ。しかし決して近づきすぎはしなかった。
「十二の城は、神殿も簡単に排除できないほど巨大で強固だった。それでも神殿から完全な自由を得るために必要なものを、神殿に残してしまっていた。命名の書だ。この宇宙に存在する全ての星の名が記され、石人の名付けに欠かせない。
 十二城は命名の書を求めて、神殿と争った。そこで多くの大きな魔法が用いられ、神殿の大巫女の怒りをかうことになった。それは結果として十二城を敗北せしめ、初代国王達は城の存続と引き換えに自らの命を神殿にゆだねた。十二城の、今では代々の国王達が即位式を行う台座で、それぞれ処刑が行われた。
 神殿との戦で、我々は多くを失った。しかし最たる損失は、初代国王達の処刑によって、城がどのように創られたか、その創生の秘密までが分からなくなってしまったことだ。
 これら一連の出来事は、十二城全ての歴史書の冒頭から記され、誰もが知る史実だ。そして、誰にも気付かれなかった事実もある。初代国王の処刑とともに、石人の世界は二つに分かれたことを。ひとつは神殿が支配し、もうひとつは暗い地下へと潜り、誰の目にも触れずあなた方の支配下にある」
 レイゼルトの語りに答えるように、王の唇がわずかに動いた。ところが声は聞こえず、紡がれる言葉を唇の動きから読み取るしかなかった。それはやはり古い時代の言葉だった。
——神殿は処刑前夜、我らから創生の秘密を聞き出そうと、空しく力を用いた。
 紫王はまぶたを閉じたまま、音も無く体を起こす。年齢の分からない、神々しいまでに厳しい面立ちの女性だ。
——そなたも、私を消そうと空しく足掻くか。だが、相手が違うのではないか。
「七百年前、あなたを消そうとした者に代わって、ここに来た。私はあなたを消した後に初代赤王も消すつもりでいる。死者は速やかに生者達の舞台から降りるものだ」
 レイゼルトは淡々と答える。
「十二の城を建てた王達は、偉大だった。その王達が今も中枢の底で眠り続けていることなど、誰が知るだろう。いや、知ったら最後か。同じ暗闇の世界に引き込まれ、二度と光の差す世界には戻れない。不死の術をかけられ、己の生きる場所、時代すらからも遠く引き離され、七百年間さまようことになる。そして七百年の終わりに待つのは、始めのときと同じ。あなた方だ。私達は魂を引き抜かれ、体を奪われる。それから魂がどうなってしまうのか、私は知らない」
 紫王のまぶたが開き、濃い紫に縁取られた淡い水色の二輪の瞳が、現れる。その瞳は焦点が合わないまま、漠然とレイゼルトの方へ向けられた。
「その瞳には覚えがある。……魂の依代たる体を失って彷徨うあなた方が、自身の子孫から依代を奪うとは。私は七百年前、その体の持ち主に会った。私が見たのは限界を超えて老いた七百歳の石人だ。人相はおろか体も崩れ、瞳だけがそのままだった。自身をそのような運命に陥れられたことを恨み、あなたを消そうと時を待ち続けていた。あれほど恐ろしい姿と執念を、私は見たことがない」
 レイゼルトは声に怒りを滲ませ、紫王の虚ろな瞳を睨み返した。
「あなた方は何故、ここまでしてこの世に留まった。神殿との決着をつけねばならないのか」
——あるいは、戦いはまだ始まっていない。
 答えた紫王は何の感情も見せず、ただ静かに石の柱の根元に座したままだった。その様子はまるで不動そのものを体現しているかのようだ。
——復讐のために、この世に留まり続けているわけではない。我らは戦仕度を整える前に処刑され、現身を失った。神殿は多くの秘密を持ち、それを代々の大巫女が守ってきた。全てが狂い始めたのは、その秘密の一部を九竜神官が大巫女から盗みとった故だ。
「神殿の心臓部には、この世の創生に関わった石櫃と、命名の書があると言われている。それだけしかないのだとも」
——それが全てなのだ。
 王は目を閉じ、初めて深く息を吐き出した。息は白く煙り、それとともに揺らめいていた王の姿が、はっきりとした輪郭を帯びてくる。再び開いた両の目は、レイゼルトの姿をはっきりと捉えていた。レイゼルトは思わず片足を引き、左手の杖を握り締めた。
——神話の時代の最後に、神々の体は石櫃の上で砕け、破片は星となって宇宙に四散した。石櫃の側には、星の名を記した命名の書が遺され、最初の石人であり名を持たぬ最後の石人となった初代の大巫女が、長旅の末にこれらの元へたどり着いた。そして神殿は、石櫃を中心に築かれた。それが石人の知る最古の世界の記憶だと、神殿は語る。あの単調な調べに乗せて歌い継がれる詞の、全てだと。
「十三神官は、九竜神官らが大巫女様から秘密を盗んだことを知ったんだな」
「石櫃に納められしもの」
 レイゼルトの言葉に、滑らかな低い女の声が答えた。
 王の息が規則正しく白く吐き出され、立ち上がるとともに衣擦れの音が響く。紫王の体は今や完全な重みを持ってそこにあった。それは明らかに血の通った生きた体だ。この世から切り離されるほどに深い城の最奥の部屋で、むしろ生身の肉体は不釣り合いな存在にも思える。
「この世が生まれるとき、その代償として封じられた闇。彼らはその力に魅せられ、それを知ることを望んだ。しかし、彼らは自ら闇に近づくほど愚かでもなかった。彼らは言葉巧みに、我らを闇の近くへと誘った。闇を目の当たりにして知ったのだ。彼らが大巫女のみにしか触れるを許されぬものを盗み取り、それをもって神殿に権力を打ち立てたのだと」
 紫王の瞳は小刻みに震え、すっと焦点を失った。
「そしてかの闇は、近づく者を飲み込む」
 紫王の姿がぼやけ、一瞬透き通って暗くなる。本当に目に見えない闇に沈んだかのように、その声も姿とともにどこか遠くなった。
「闇を知るほどに我らの生気は弱まり、現の光を失い、眼は隠されたものを鋭く捉えるようになった。我らは九竜神官らの野心を見透し、その支配が全ての石人達に及ばぬよう、この魔物の地に新たなる住処を求め、十二の城を築いた。時を待ち、神殿に抗する力を育て養う必要があったのだ。神殿は我らを葬り去ったが、闇に触れた者は肉体を失っても滅びはしない。いずれこの十二城は、再び神殿に立ち向かうだろう」
「実体のない者が、この世に関わることはできない。だからこそ、魂にまとう肉を求めたのか」
 レイゼルトは口の端に嫌悪の笑みを浮かべる。紫王の姿を透かして、基礎石の柱の中を立ち昇る細かな泡が、星のように輝いていた。
「その肉も、常のものではだめだ。あなた方の存在様式に耐えられる、寿命を遥かに超えてこの世に留まり続けた魂が入っていたものでなくては。七百年はそれに十分な時間だ」
 レイゼルトはがらんどうの室内を見渡し、最後に王座の柱へ、紫王の立つ根元から天井まで視線を流す。
「この柱の真上には、即位式で代々の王がその姿を映す水盤がある。城の天頂にある水晶は、真の中枢の真上からは外れているわけだ。あなた方は開くはずのない扉の部屋にいて、水盤に映る王達の姿で時を数えた。闇に触れた魂は、この世の息吹に弱い。そして十二城は互いに根で、この玄室と繋がっている。扉を開くのは十二城を通して、七百年に一度ずつが精一杯だ。外気が根を伝わり他の部屋まで届いてしまうから。依代を定め、扉を開き、有無を言わさずあなた方がいる同じ闇の深みに引きずり込み、不死の術をもって七百年の『放牧』に出す。私達からすれば、あなた方こそが闇だ。今、赤城の扉は開き、王は私を探して彷徨っている。もうひとつの扉も、依代を選び出すために開いているはず。それはどの城の扉だ」
「我が城の扉が崩れたとき、他の城から根を断たれてしまった。紫城では、もはや何も知るすべはない。……依代達も、わずかな機会に次代の依代を見つけ、知り得た真実を重ね継いできたとみえる」
 薄まりかけていた紫王の姿が、その言葉とともに再び浮かび上がってきた。口調には、かすかだが苛立ちのような感情が入っている。レイゼルトは王に杖の先を向ける。
「私が出会ったあなたの依代は、正気を忘れ言葉を交わせる状態には無かった。あなたの呪縛を解くことを望み続け、同じように当時正気を知らなかった私の魔力を利用して、この中枢を倒した。だが遥か昔のある依代が、変わらぬ形で遺したものがある。なぜその依代が失われていた真実を知り得たのか。あなた方しか知らぬはずなのに」
 レイゼルトは言葉を切り、杖を握る手に力を込めた。紫王の刻み込まれた不動の面に、ひとつの感情が浮かんでいたのだ。それは憤怒だった。
「ただ一人、神殿に残った者がいた」
 紫王は両腕を横に広げながら低く唸る。瞳は爛々と、獲物を狙う獣さながらにレイゼルトを捉え、その挑戦を受けようとしていた。紫王の体を覆っていた髪が、重みを失い水草のように宙を漂う。
「我らの闇を、依代に漏らした者が!」
 息詰まる押し殺した叫びが、紫王の口から放たれる。漂っていた彼女の髪が、毛先から炎に変わっていった。明るい紫に輝く光焔は部屋を隅々まで照らし出す。壁石が火の水となって流れ出した。中枢の最奥で、部屋はまるでひとつの恒星になろうとしている。
 レイゼルトは自身の体を、明るい炎が包んでいくのを見た。左手に握り締めた杖の先の輝きは、紫王の光焔に飲まれる。それでも彼の魔法が紫王の体を焼き、紫王の魔法が彼の体を焼こうとしているのを、はっきりと感じていた。
 紫王の姿はさらに明るさを増し、褐色の肌も髪と同じ色で輝く。顔の辺りに不意に現れた漆黒の線は、彼女の横に引き伸ばされうっすらと開いた口だった。
——城が滅ぼされ、王がその座につけなくとも、城が死ななかったのは、我らがこの柱の根にいたからだ。それを、お前は滅ぼすのか。
 レイゼルトは答えの代わりに、柱へ最後の視線を送った。柱は砕け、水晶の砂へと崩れていく。輝く紫王の姿が膨張し、視界は眩い光一色に染められる。それと同時に、彼は自分の体が消え去ったのを知った。

 心音に気づいて、彼は鈍い意識を取り戻す。体を起こして辺りを見回そうとした。しかし全身が石みたいに硬く、ひどく重い。彼はしばらく倒れたまま、自分の心音に耳を傾けた。やがて呼吸が戻ってくると、胸の中が焼けるように痛む。喉からは細い音が漏れている。感覚が混乱し、自分が仰向けなのかうつ伏せなのかも分からなかった。目を開けているのか、閉じているのかも定かでない。耳だけがまともに聞こえるようだ。
 紫王の魔法は、彼の体にかかった死の呪縛もきれいに焼き尽くしてしまっていた。暗闇の中で初代赤王のかけた不死の術が力を取り戻し、彼を生の状態へと引き戻したのだ。七百年前、黄緑の国の王子によって追い詰められ、滝から身を投げたとき、彼は自分の死を確信していた。その後、どことも知れない川のほとりで目覚めた夕暮れの、激しい絶望。遠い記憶の感覚を思い出しながら、彼はしばらく待っていた。これは経験的に学んだことだ。あれからも、彼は何度か死んだことがある。
 呼吸が楽になってくると、彼は動けるようになったと確信する。全身に力を込めて上体を起こそうとすると、何か強い力で阻まれた。しばらく考え、自分がどういった状態にあるのに気がつく。彼は魔法で自分の周りのものを砂粒に変え、右腕の先に小さな明かりを浮かべた。
 部屋は様変わりしていた。壁面を覆っていた石は高温で床に流れ出し、冷えて固まって彼の体を半分ほど埋めていたらしい。基礎石の床や壁は傷ひとつ無くなめらかで、中央の柱だけが台座部分を残して消えている。まるで溶け残りの氷のようだ。その周りには、柱の破片が水晶の砂になって散らばっていた。
 柱の台座には、王座の窪みが残っていた。そこに、白く揺らめくかすかな靄がある。獣の姿かと思えば、人の姿にもなった。どちらにしても頭部だけがさらにかすかで輪郭が定まらず、ほとんど何もないかのように見える。ただ、目と思われる二つの空洞だけが真っ黒だ。目は彼の方へゆっくりと向けられたが、もう何かを話すことは無かった。まぶたを閉じたかのように二つの空洞が見えなくなると、靄は王座に吸い込まれるようにして消える。
「ずっと、そこにいるしかない」
 レイゼルトは王座に向かってつぶやき、弱々しく何度か咳き込んだ。体は木の棒と粘土でできているかのように感覚が無い。それなのに油断していると、鮮烈な痛みが稲妻となって背中を走る。彼は這うように部屋を出て、中枢の階段を再び登り始めた。
 中枢を登るにつれ、外の光と風の鳴る音が分かるようになる。彼はここで二日を数え、三日目にようやく両足で歩けるようになった。中枢の深部からここまで、どれだけの時間が過ぎていたのか分からなかった。
水 中枢から出て王城に戻ると、彼は近くの庭園を探し、その中央にあった水場へ倒れ込みながら駆け寄った。元は彫刻で周りを囲っていたかもしれない水場は、七百年たった今では水溜りのような泉に変わっていた。水は氷よりも冷たく、渇きを癒すと同時に体温を奪う。レイゼルトは二口だけ水を飲むと、悪夢から目覚めたばかりの頭にも水をかけた。
 緋色の毛先からぽたぽたと雫が水面に落ち、映っている影を揺らす。水草の中に、月がある。
「夜か」
 目の端に月を捉えて呟く。水を飲んだおかげか、不死の体はさらに生き物らしさを取り戻してきたらしい。骨まで凍える寒さと、差し迫った空腹を訴えていた。彼はのろのろと立ち上がる。死の余韻で寒さも空腹も疲労もどうにかごまかせるうちに、色々採ってこなくてはならない。
 暖かい衣服が真っ先に必要だったが、これは比較的早く手に入った。城内にはあらゆるものが手付かずのまま残されていた。衣裳部屋を探し、服と砂埃の塊を片足で踏んづけ左手で力任せに引っ張る。絹で出来た布はぶつぶつと千切れ、魔物蜘蛛の糸で織った布だけが残る。彼は何着かの無傷の服を探し出し、自分の丈に合いそうな濃紫の寛衣を被る。さらにもう一着、大人用の外套を探し出した。アニュディの存在を思い出したのだ。
 彼が高台を見下ろす崖の上に戻ってきたとき、夜は白みかけていた。見下ろすと、倒れた柱の影に銅色の翼の獣が潜んでいる。一匹のウサギが自分の隠れ家から出てきて、柱の前を横切ろうとした。獣はすかさず、大きな口を勢いに任せてぱくりと突き出した。
 レイゼルトは下まで降りていく。自分まで狩られないよう気を付けながらそっと近づき、適当な場所で鋭い口笛を吹く。首周りの青い被毛がびりりと逆立ち、アニュディはそちらへ首をもたげる。ウサギを丸呑みにしながら。
「何日過ぎたか分かるか!」
 レイゼルトが風に負けない声で怒鳴ると、アニュディは地面に伏せた体勢のまま、頭の上で先の丸い耳をピンと立てる。豪快な食事の現場を見られて、決まりが悪いようだった。彼女は人の姿に戻らず、代わりに前足で七回地面を引っ掻いた。
 レイゼルトは暫く黙る。紫城は表向き何も変わった様子は見られなかった。しかし中枢の王座の柱が壊れた今、この城は石人のものではなくなっている。これまで城と王の力によって払われていた魔物や邪妖精達が、再びここに棲むようになるだろう。なるべく早く立ち去るのが得策だ。一方で、彼自身には休息が必要だった。たとえ、急がなければならない次の用事があったとしてもだ。
 いつまで待っても反応がないため、業を煮やしたアニュディはやっと人の姿に戻った。
「いままで、ここで何を? ああ、言いたくないなら、構わないけど。でもまさか、こんなに何日もほったらかしにされるなんて、思ってもみなかった」
「黄城に行かなければ……」
 レイゼルトは答えてその場に腰を下ろす。疲労と空腹の波がどっと押し寄せてきていた。彼は何度かぜいぜいと肩で息をし、左手で額を押さえる。
「なんだか、声質が変わったみたい」
「もう魔法で声を作っていないから。私はこんな声をしていたんだな」
「……死にかけみたいな息ね」
「生き返りかけてる」
「……ふーん。人並みに弱くなったわけだ」
「城の音はまだ聞こえるか」
「風が強すぎる。昨日の晩は、風が止まったときに聞いていた。あの音だけは、黄緑の城と変わらないね」
「王がいなくても、城は変わらない」
「あら!」
 アニュディは息を呑んだ。彼女は何度も頭を振る。
「王様がいなきゃ、私達の城じゃないわ。石人の暮らせる場所がなくなってしまう」
 レイゼルトは答えずに、持っていた外套をアニュディに投げた。今日一日だけでも休息をとり、黄城までの飛行に耐えるだけの体力を取り戻さなければならない。彼は柱の影に身を潜め、そのまま丸くなって目を閉じる。
 アニュディは受け取ったものが着物だと分かると、それを羽織って再び獣の姿に変じる。外套のおかげで、獣になった彼女の体は青紫の豊かな被毛に包まれることになった。彼女は別の柱の影に隠れると、狩の続きに集中した。

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