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三章 白の王

 荒野を縁取る遠く青い山並みの向こう。丸く白い月がかすかに泡立つ光を放って、星々と共に沈もうとしている。向かいあう東は茜色の雲を二筋引いて、金の光に大地の稜線をにじませる。空半分、夜は西の彼方へ追いやられようとしていた。
 レイゼルトは、境の森の外れに立っていた。天を貫いて朝と夜の狭間に立つ、巨大な白い山の全景を見据える。朝焼けの空気の向こうに霞むその山こそが、石人世界において白城と呼ばれる場所だった。
 目を凝らせば、この距離からでもその山肌に、人工的な造形物が構成されているのが分かる。レース編みにも見えるアーチの連続、それが支える巨大な橋、幾重にも重なる長い回廊、階段状の屋根を持った家々、雲を突く六角の塔、高くそびえるのは崖ではなく、山肌に穿たれた高層の館だ。それら全てが、白色の石材で構成されている。
 山は人工物だけで覆われているわけではない。橋の下には、黒い森があった。森からは同じく黒々とした蔦が伸び、橋脚を覆っている。高層の館の前には、かつては豊かだった耕地があった。今は茶色の荒れ野となり、崩れさった北側の塔が大きな残がいとなって横たわっている。
 レイゼルトは知っていた。その城が滅び、眠りについたのは七百年前。しかし無人ではない。王族の末裔が、今もそこで暮らしている。そしてその者こそが、森に幻術をかけた張本人と思われた。問題はその人物が城のどこに住んでいるかだ。レイゼルトもさすがにそこまでは知らない。探すにしても、城はあまりに大すぎる。時間を無駄にはできなかった。
 そのときレイゼルトの感覚は、かすかな魔力の軌跡を捉えた。あの銀の鏡が発する、ある種の気配だ。気配は、真の持ち主であるレイゼルトだけが嗅ぎ取れる。それは、白城へ向かって消えていた。
——大半の地読み士は、まだタバッサにいるはずなんだが。あの少年に、何があったんだろうか。鏡の軌跡に誰かが通った痕跡すらない所を見ると、あいつは一人ではないな。随分巧みに、足跡を消したものだ。……彼を石人の世界へ連れ込んだのは、誰だ。何のために。
 レイゼルトはしばし思いをめぐらせる。
——まあいい。おかげで、幻術をかけた者を見つけやすくなったかもしれない。
 それから彼はおもむろに森へと引き返す。一本の木に登り、太い幹の上で楽な姿勢になる。
——見立てによっては、再起不能にしておく必要もあるだろうな。アークラントには邪魔な存在になるかもしれない。
 彼は幻の魔法を編み、自分の姿を枝の一本に偽った。たとえ石人の魔法使いが見ても見破られないよう、念入りに。彼はマントにくるまって、しばし休息することにする。長い間人間世界にいた彼に、石人世界の空気がはらむ魔力は刺激が強すぎた。石人ゆえに彼は土地の持つ魔法の力に敏感だった。ここにじっとして故郷に体がなじむまで、奥地から届く魔法の風に身を慣らさなくてはならない。

 夢うつつに、キゲイは迷っていた。
 自分が柔らかな布団の中にいることは感じていた。布団はかぎ慣れない匂いだが、なんとも居心地がいいのだ。一方で、胃のよじれるような激しい空腹感と、寝返りをうつのもおっくうな疲労感が、体中を支配している。起きて何か食べ物を探すか、このままもう少し、いつものように姉が叩き起こしに来るまで寝ていようか。頭の中でぐるぐる考える。
——ん?
 キゲイはふと気がついて、目を開ける。茜色に染まる古びた石壁が、目の前にあった。記憶にない光景。そういえば、こんなふかふかの布団に寝たのも生まれて初めてだ。重たい体を何とかひき起こす。
 彼は、簡単な作りのベッドの上にいた。部屋は石造りで広くはない。壁に造り付けられた暖炉と、小さなテーブルに椅子が一脚。開け放たれている縦長の窓からの光で、全てが茜色と橙色に染まっている。部屋の壁は歯抜けとなった色タイルの列と、模様の描かれた剥がれかけの漆喰でまだらだ。ゆるい山形の曲線をした天井にも、壁からの模様が続いて描かれている。こちらも剥落がひどい。きっと以前は部屋中美しい模様で飾られていたのだろう。暖炉でぱちんと火花がはじけた。
 キゲイはようやく、今までのことを思い出す。灰色の髪をした石人と、境の森を抜けた。森を抜けて彼が最後に見たのは、起伏の激しい荒野と、星空の下にそそり立つ高い山だ。たしか石人は、あの山を指差して白城だと言った。山が城なのか、城が山なのか。しかし彼の方は眠たくて眠たくて、まっすぐ立っているのも難しかった。
 その後の記憶がない。眠たいなりにも、歩き続けたのだろうか。それともあの石人が、自分を担いでここまで運んでくれたのだろうか。いずれにせよ、白城の中に居ることは間違いないようだ。
 キゲイは用心深く辺りをうかがうと、靴をはき、椅子の背にかけられていた上着をはおる。そして窓にそっと忍び寄って、外を覗いた。
「うわぁ……」
 キゲイは思わず身を乗り出した。窓の外は、小さな庭だった。ところが周りを囲んでいるのは、信じられない高さの建物だ。空がひどく遠く見える。建物同士の隙間から日の光が差し込み、そのおかげでこの奥深い庭も真っ暗ではない。それにしても、周りの建物に人の気配が一切ない。庭も荒れ放題だ。辺りは重苦しいほどに静まり返っている。
 キゲイは、ひどく心細くなった。まるでこの世に、ひとりぼっちにされたみたいだ。いてもたってもいられなくなって、部屋の扉を開けて外へ出てみる。
「えぇ……?」
 部屋の外は、広い庭に面して柱が建ち並ぶ、吹きさらしの廊下だった。しかも、馬鹿みたいに長い。右を向いても左を向いても、どこまでもまっすぐに伸びている。そして廊下の壁も複雑な装飾の入った多角形の柱も、薄汚れてヒビだらけだった。今にも崩れてきそうだ。
——なんだか、寂しいところだなぁ……。
 辺りは徐々に、暗くなり始めている。
——夕方だったんだ。
 キゲイが途方にくれてあたりを見回していると、廊下の先にぼんやりと明るい場所があることに気づいた。不思議な感じのする白っぽい光だ。恐る恐る近づいて行ってみる。その間に、夜が駆け足で迫ってくる。明かりは廊下を途中で曲がった先の、半開きの扉の向こうから漏れていた。
 特徴のある高い澄んだ声が、キゲイの耳に入る。半開きの扉の向こうからだ。隙間から遠目に覗いてみると、キゲイの知っている姿がそこにあった。
 あの、黄緑色の長い髪をした女の子だ。側には、扉の隙間から見切れるものの、傭兵から彼女を助けた黄緑色の髪をした石人が、大きな体を曲げてひざまずいているのが分かる。彼は手に木のコップを持って、女の子に渡そうとしている。しかし女の子の方は偉そうに両腕を組んで、そっぽを向いている。彼女は再び何か言ったが、その言葉はキゲイには分からなかった。多分、石人語だ。
「トエトリア」
 今度は、穏やかな若者の声が聞こえてくる。
「あの傭兵達が君に飲ませた眠り薬は、質が悪くて、一つ間違えば大変なことになっていたんだよ。それを飲んで、少しずつ体から毒を洗い出さないと」
 若者の言葉は「言の葉」で、キゲイにも何を言っているのか理解することができる。
 女の子は若者の言葉に納得したのか、ようやくコップを受け取り、一気に飲み干した。
「それで良うございますよ、姫様」
 隣の石人も「言の葉」で答え、そして、キゲイの方へと顔を向けた。目が合う。戸口にいたキゲイは、息を呑んで身を引いた。その背中に、何かが当たった。キゲイは驚いて扉の取っ手に飛びついた。かろうじて扉にすがりつきながら後ろを向くと、大人の男がひとり立っている。部屋から漏れる明かりでぼんやりと照らされた男の頭髪は、青色だ。顔立ちにも見覚えがある。他でもない。彼は境の森で、キゲイが生まれて初めて会った石人だった。
 相手は無表情のまま、顎を上げ気味にじっとキゲイを見下ろす。キゲイは目をまん丸にしたまま、見返すのが精一杯だ。
「誰かな、そこにいるのは。入っておいで」
 この奇妙な睨み合いを中断させたのは、再び部屋の向こうから聞こえてきた、先ほどの若者の声だった。
 青髪の男が扉に手をかけ、半ば力づくでキゲイを部屋の中へと押しやる。
 部屋は広く、昼のように明るかった。光は、天井からぶら下がっている複数の青銅の皿からくる。皿には幾本も水晶の柱が蝋燭のように立っていて、それが白っぽい光を放っている。部屋の中央には五十人用くらいの大きな長い食卓がある。さらにその向こうは壁で、床より一段高いところに広い窪みが彫り抜かれていた。そこには小さいながらも立派な座卓と、植物の彫刻に縁取られた美しい背もたれ付きの座椅子が、しつらえられている。
 その壁の掘り込みのふちに、年の頃は十七、八といった感じの石人の若者が座っていた。顔立ちには、鋭いところがまったくない。少しくせのある短髪は、恐らく純白だ。肌色はアークラント人よりは色白かもしれない。机や座椅子が立派な割には、身につけている物はそれほど高級そうには見えなかった。暗緑色の厚手のチュニックに、膝丈の渋茶の上着を羽織り、藤色をした幅広の帯で締めている。下には、ゆったりした生成りのズボン。非常に簡素だ。
 青髪の石人が、キゲイの後ろで扉を閉めた。彼は部屋の右手に開いたアーチをくぐって、隣室へ消える。彼の衣装も、外形は白髪の若者とほぼ同じだった。しかし袖や襟元には凝った刺繍が入り、房のついた薄布を金の鎖とともに腰に巻いて、非常に見栄えがする。
「ええっと、名前はキゲイでよかったかな。こちらへ」
 白髪の若者はふちを登って座椅子におさまり、キゲイに手招きする。キゲイは促されるまま、長テーブルでも一番若者に近い席に歩み寄る。
「白城へようこそ。僕はここの城主、ブレイヤールだ」
 キゲイが椅子に浅く腰掛けると、彼はそう言った。人の良さそうな、優しい笑顔だ。
「事情は、トエトリア王女とシェド……君をここまで連れてきてくれた、灰色の髪の人だよ。その二人から聞いた。必要なだけここに居るといい。歓迎するよ」
「あ、ありがとうございます……」
 キゲイは中途半端に頭を下げる。空腹のせいかもしれないが、頭が全然働かない。自分が石人の城にいることも、まだ信じられなかった。今は、何も考えない方がいいかもしれない。
 パタパタと軽い足音を響かせて、黄緑の髪の女の子がやってくる。彼女はキゲイの向かいの席に片膝を乗せて、机に身を乗り出した。
「ごめんね。君を巻き添えにしちゃって、まさかここまで大騒ぎになるなんて、思わなかったの」
 同じく、黄緑色の髪をした初老の石人もトエトリアの後ろにやってきて、申し訳なさそうな顔をキゲイに向ける。
「我々は、この白城からさらに南方にある、黄緑の城の者です。こちらは、黄緑の城の王女。今回は本当に、ご迷惑をおかけいたしました」
 初老の石人があまりに深々と頭を下げたので、キゲイは戸惑ってしまう。
「このおじいさんは、黄緑の城の王室騎士団長」
 ブレイヤールが簡単に紹介する。
「あのぅ、その、お姫様って……」
 キゲイはブレイヤールの方を向いて、言葉を詰まらせる。
「君は王女様を、悪者から助ける手伝いをしてくれたんだ。すごいじゃないか」
 ブレイヤールは快活に答えた。
「僕も一応はこの城の王族だけれど、そうかしこまることはないよ。僕らは、石人にとっての王族に過ぎないんだから。それより、腹が空いているだろう? 仕度ができたようだ。夕食にしよう。キゲイ、食べられない物はある?」
「ええっと、大丈夫です。キノコは嫌いだけど……」
「そうか。人間も石人も、似たようなものを食べるってことだね」
 キゲイの返事に頷くと、ブレイヤールは卓上のベルを取って、カランカランと鳴らす。するとまもなく、廊下の扉や隣室からの扉が開き、次々と石人達が部屋に入ってきた。奇妙なことにその全てが、ものすごいお年寄りだ。皆髪は白かったが、ブレイヤールのようにはじめから白かったのか、歳をとって白くなったのか、分からない。ただ彼らの髪はブレイヤールと違い、暖炉の火や天井の照明に透けて、きらきらと輝いていた。そしてやっぱり皆、それぞれに凝った服装をしていた。最後にあの灰色の髪の石人が戸口に現われて、キゲイに気がつき会釈した。彼もトエトリアの家来の一人だったわけだ。
「これはこれは、はじめてお目にかかる」
 キゲイの向かいの席に、バター色の髪と髭の、厳格そうな老人が座る。他の老人達より少し若くて、六十代くらいだろうか。白地に細かい金紋様の入った衣装は、一際目をひいた。
「主君が適当な服を着ておっても、家臣の方は常に身だしなみに気をつけねばならん。わしはこの白城の大臣、ルガデルロと申す」
 キゲイは大臣に頭を下げる。石人の名前は、キゲイにはまだなじみが薄い。頭を上げたときには、大臣の名前など、すっかり忘れ去っていた。
「白城は滅びて国民もいないのに、大臣だなんて」
 機嫌の悪い声が聞こえたと思ったら、青髪の石人が、鉄の鍋を片手にキゲイの後ろに立っている。彼は鍋の中の食べ物をおたまですくい、キゲイの前に置かれた椀に、べたり、ぼたり、とよそう。
「白の王子はともかく、家来の役職なんか意味ないじゃないですか。俺達全員、失業状態ですよ、大臣殿。あ、キゲイ、俺はグルザリオだ。王子の目付けをやっている。その他の雑用が多いがな」
 彼は仏頂面のまま、おたまを鍋の中に突っ込み、キゲイに尋ねる。
「昨日の夜から、大して食ってないんだろ? これ、もっと沢山ほしいか?」
 キゲイは慌てて首を振った。彼の前にはすでに、全体的に灰色の粥状のものが、椀から零れ落ちるまでに取り分けられている。グルザリオは、鍋を持って別の石人の所へ移って行った。キゲイは怪しいものでも見るように、椀に盛られた食べ物をじっと観察する。
 それは、灰色の穀物をどろどろになるまで煮た物らしく、赤イモや大根などの根菜、その他緑や紫の菜っ葉、黒い豆が混ざっている。なんともいえない色彩の取り合わせだ。死ぬほどお腹が空いていたのに、胸が一杯になってくる。その間にグルザリオは粥を配り終え、長テーブルの数か所に、薄切りの肉らしきものが乗った大皿を置いて行った。
 壁の掘り込みを見上げると、ブレイヤールとトエトリアが座卓に向かっていた。卓上にはやはり灰色の粥が載っていたが、二人は王族であるためか、料理が一品多い。
 ブレイヤールのは、杏色をした正体不明の瑞々みずみずしい団子。トエトリアの方は、薄切りの燻製くんせい肉。
 夕食は、ブレイヤールが自分の料理に手をつけるのを合図に始まった。キゲイは心の中で、溜息をつく。地読み士の里での食事の方が、まだましかもしれない。木さじで粥をすくい、一口食べてみる。大地の香りが喉の奥から鼻先をかすめた。端的に言えば、土臭い。薬草の味が強く、おいしくもなければ、意外とまずくもない。大皿の薄切り肉は、ほとんど油と塩の塊だった。粥に溶かして、塩味を足すだけのものらしい。
 周りの老人達は食事より会話に夢中で、合間合間、灰色の粥を無感動に口へ運んでいる。もしかしたらこれは、彼らの体に合わせた薬膳料理なのかもしれない。一方、二人の王族は、黙々と食べていた。トエトリアは難しい顔をして、灰色の粥をもぐもぐとしている。彼女にとっても、この粥はおいしくないらしい。ブレイヤールの方は食事をしながら、何か考え事をしているようだった。
 慣れない場所で、まわりは石人ばかり。理解できるのは周りの石人達が話す「言の葉」だけだ。天気と腰痛と今年生まれる子羊の話題が、大半を占めている。つのる心細さを振り払うように、キゲイは粥に集中した。幸い一口食べるごとにお腹が落ち着いてきて、重たい疲労感も薄れていく。
「キゲイ」
 いつのまにか、ブレイヤールが褐色の瞳をこちらへ向けている。彼はまだ何かを考えている風だった。
「後で、僕の部屋に来てくれないか? この城で過ごすのに、知っておかなくちゃいけないことが、幾つかあるし、君が仲間達の所へ戻る時期についても、少し話しておきたいし……」
 キゲイはその言葉に、ほっとして頷いた。城に泊めてくれるだけではなく、キゲイが帰るときのことも、ちゃんと考えてくれているようだ。
「キゲイ! 夕ご飯、それだけじゃ、足りないでしょ」
 トエトリアが、すかさず口を出してきた。
「このお肉、あげる。香ばしくて、おいしいよ。こっちのは、なんて名前だったっけ。ミルクの膜と何かのスパイスを混ぜてつくった、水煮のお団子らしいわ」
 トエトリアが燻製肉の皿に杏色の食べ物を添えて、キゲイに差し出す。ミルク団子はともかく鹿肉はありがたかったので、キゲイは少し上ずった声で礼を言い、素直に受け取った。団子は香料が効きすぎて個性的な味だったが、鹿肉は本当においしかった。
 食事がすむと、淡紅色の髪をした老婦人がつと寄ってきて、お風呂に入るように言った。
「みそぎの意味もあるのだけど、それより、旅で埃だらけですからね。お湯に浸かれば、疲れも溶け出しますよ。服も洗濯します。代わりにこれを着ていらっしゃいな」
 差し出された着替えを受け取り、優しげな老婦人に続く。「みそぎ」と言う言葉には、おそらくキゲイの体にくっついている、人間世界の埃や匂いを拭うという意味があるのだろう。あまり体を洗うのが好きでないキゲイも、ここは素直に従った方がいいと考える。
 日は既に落ちて、部屋の外は暗闇に包まれている。老婦人が手にした輝く水晶の明かりを頼りに、終わりのないような廊下を進む。いくつもの角を曲がったために、キゲイはもとの部屋が分からなくなってしまった。大迷宮のような城だ。
「後でまた、迎えがお越しになりますよ」
 老婦人は浴室の前で、そう言ってくれた。彼女の言葉遣いにキゲイは首をかしげたが、何も言わなかった。
 キゲイはひとり、脱衣室に入る。部屋は相変わらず古びた様相だ。浴室への入り口から白い明かりが差し込んで、脱衣室をぼんやりと照らしている。
 浴室は、キゲイがこの城ではじめて見た豪華さだった。床一面に、幾何学模様が砕いた白タイルで描かれている。所々タイルが剥がれているものの、白の曲線が様々な淡い色合いをした石床の上で踊っているさまは、見事だ。すぐ脇の壁際からは、暖かい湯が小さな滝になって注いでいる。お湯は床を一段掘り下げた水路を流れて、薄暗い部屋の奥へ消えていた。浴室の中ほどには四角い穴が三つあり、湯気の立つ湯が溜まっている。人の姿はない。
 キゲイはお湯の滝に当たって、頭からつま先まで汚れを落とす。きれいになるだけなら、これで十分だ。しかし「みそぎ」のために、慣れない湯船の一つへそろそろと身を浸した。思っていたより気持ちがいい。体が温まるとともに、今まで張り詰めていたものが、ゆるくほどけていくようだ。
 一人きりになれてよかった。湯船から石床の上に片腕を出し、その上にあごを乗っけた。そして、肺が空っぽになるまで、心底深い息を吐く。
 これから、自分はどうなるのだろうか。そして、いつまでこの城にいればいいのだろうか。さっぱり見当もつかない。おまけに突然いなくなったから、里長や姉や兄は、ひどく心配しているだろう。傭兵の言いがかりで、地読みの皆に迷惑が掛かっていないといいのだが。
 しかし今回のことは、石人を知る良い機会ではないのだろうか。ここで知ったことをアークラントの皆に話せば、役に立つかもしれない。
 すぐにキゲイは、いやいや、と首を振った。レイゼルトの存在を思い出したのだ。石人のことは、彼が皆に説明できるだろう。そうなのだ。キゲイの力を必要としている人なんか、どこにもいない。
——僕、また失敗して、ここにいるだけなのかぁ……。
 鼻の奥がつーんと痛くなる。キゲイは鼻をこすって、別のことを考えることにした。白城のことだ。
 夕食に現われた石人達は、四十人くらいだった。それがこの城の全住人なのだろうか。しかもよぼよぼの人達ばかり。そういえば、青髪の石人が言っていた。白城は滅びたと。人も建物もよぼよぼボロボロなのは、そのせいか。
——この城で僕ができるのは、これ以上ヘマをしないってことだ。
 もしあの白髪の王子にアークラントのことを聞かれたとしても、絶対に黙っていよう。そう決心する。
 キゲイは風呂から上がり、新しい服を身につける。汚れた服の内ポケットからは、銀の鏡を取り出した。レイゼルトに預かってくれといわれた品物だ。鏡は、浴室からの明かりで、ぼんやりとにぶく輝いている。
——こんなところまで持ってきちゃったけど、よかったのかなぁ……。持ち逃げしたなんて、思われてなきゃいいけど。困ったな。
 キゲイは銀の鏡を、服の前合わせの隙間から懐にそっとおさめた。
「冬の尻尾を踏んづけろ!」
 廊下へ出るなり、キゲイの目の前にトエトリアが躍り出た。もちろんキゲイは驚いて飛びのく。トエトリアは輝く水晶を片手に、ニコニコしながら立っていた。彼女の姿に、キゲイはひやりとする。トエトリアの色味のない純白の肌は、人間の彼にとっては不気味の一言だった。特に、こんな暗い場所では。トエトリアの方は、キゲイのことなどお構いなしにマイペースだ。
「びっくりした? 私、春迎えのお祭りが待ち遠しいの。ほら、これ。体冷やさないでって」
 彼女は相変わらずのんびり上機嫌で、厚手の上着をキゲイに差し出す。詰め物が入って、少し重いが暖かそうだ。
「ブレイヤールの部屋に案内するね。ついて来て」
 そう言うと、先に立ってさっさと歩き出す。キゲイは上着に袖を通しながら、おいて行かれないよう急いで追いかけた。
 トエトリアの歩調に合わせて、彼女の腰に下がった銀の飾りが、しゃらしゃらと音をたてる。それは暗い廊下にどこまでも響いた。城はあまりに広く複雑で、その多くの場所が闇の中にある。
「あの……」
 キゲイは廊下に声が響かないよう、小声でトエトリアの背中に声をかける。
「何?」
 彼女は振り返らずに返事した。彼女の声は、腰飾りよりも鋭く闇に響く。
「あの、きみ……じゃなくて、あなた様は黄緑の城の王女様なんですか? でも、黄緑って……?」
「石人の世界には、十二個の城があるの」
 トエトリアは歩調を緩めてキゲイの隣に並ぶ。彼女は自分の長い髪をつまんで、キゲイに見せた。
「それぞれの城は、王族の髪の色にちなんで、黄緑の城とか灰の城とか呼ばれてるの。どの城も山みたいに巨大で、そこに王族も貴族も国民も、全ての人が住んでる。城には、畑も森も川もある。だから石人にとっては、城がひとつの国でもあるの。人間達は『領地』が、国なんでしょ?」
「うん、多分……。石人の人達は、城以外の場所には住まないんですか?」
「他の場所は、魔物とか恐い精霊とかで一杯だもの。他のもので溢れていて、私達のいる隙間がない。無理よ。ところで、私のことは、トエトリアと呼んでね。ブレイヤールが言ってたけど、私は人間の前じゃ王族じゃないもん。でもね、本当は名前の呼び方ってちゃんとしてないと、大人達がうるさいの。白城の大臣さんとか、うちの王室騎士団長とか……。人間でも石人でも、私のことはトエトと呼ばないといけないらしいの」
「で、でも……。『トエト』は呼び捨てじゃ……」
「尊称だから、『様』はつけなくていいんだよ。石人の名前は、二つに分けられるの。私の場合は、トエトとエトリア。最初の名前は、神様の名前を表していて、尊いの。だから、ものすごく目上の人なんかは、こっちの名前でしか呼んじゃいけない。後ろの名前は、家族とか親友とか、特別親しい人達の間でしか使わないよ。両方の名前をあわせて呼ぶのが、一番普通」
「それじゃあ、この城の王子様のことは?」
「ブレイ。でも本人は、『音感が悪い』って、気に食わないみたい。私は彼のこと、時々、白王はくおうって呼ぶことがあるわ。ブレイヤールってちょっと長くて言い難いから、あなたもそうするといいかも」
 二人は大広間ほどの幅を持つ廊下を横切り、大きな木の扉の前までやってきた。扉には曲線を主体とした幾何学模様が彫刻されている。線はうねって、水の波にも蔦にも見える。
「ここがブレイヤールの部屋」
 トエトリアは、扉についた輪っかを握り、扉をこつこつ叩く。
「キゲイ、押して開けて」
 キゲイは扉の取っ手に手をかけて、押してみる。かなり重い扉だ。両手を突いて体重をかけると、ようやく一人が通り抜けられそうな隙間が開く。キゲイの期待に反して、扉の向こうは真っ暗だった。トエトリアが真っ先に扉の間をすり抜ける。
「ここは?」
 キゲイは周りを見回しながら、トエトリアにそっと尋ねる。扉の向こうで、二人は水晶の明かりの中に取り残されていた。周りは一切の真っ暗闇で、明かりを照り返すのは足元の床だけ。かなり広い空間が二人の周りに広がっているらしい。声も足音もよく響く。空気はよどんでいて、かび臭い古い匂いがする。
「白城の大図書館よ」
 トエトリアは何の目印もない真っ暗闇を、水晶を掲げて迷いなく進んでいく。
「彼はとっても本が好きだから、ここに住んでるの。暇があれば本棚のどれかによじ登ってるみたい。えーと、そろそろ右に曲がらなくっちゃ」
 二人の行く手に、暖かい色合いの光が現われる。それは一つの部屋から漏れている。部屋の入り口には厚手の織物が下がっていた。二人は織物をくぐって、中へと入る。
「いらっしゃい」
 ブレイヤールが書き物から顔をあげた。
 部屋はそれほど広くはなかった。部屋の壁数カ所の窪みに、それぞれ蝋燭が燃えている。蜜蝋のろうそくらしく、室内にはほのかなよい香りが漂っていた。素朴な造りの書見台とスツールが窓際に、そして小さな暖炉に火が灯っている。暖炉の赤い照り返しは天井へも伸びていて、天井の輪っかからつるされた糸束を照らし出していた。糸束は部屋の隅に置かれた簡素な織り機につながっている。その脇にはベッドがあり、毛布が数枚、きちんと畳んで重ねてある。小ぢんまりとした、居心地の良さそうな部屋だ。だが、とても王族の住む場所には見えない。
 ブレイヤールは、部屋の真ん中にある小さな丸テーブルにいた。彼は手元の紙を脇にやり、素焼きのランプの灯りをテーブルの中央に戻した。
 トエトリアは水晶の明かりを消し、テーブルの椅子にちょこんと腰掛ける。キゲイも促されて、椅子に座った。水晶の明かりがなくなると、この部屋には魔法らしいものは何もなくなる。キゲイにはそれが少し不思議な気がした。
「それじゃあ、ちょっと話そうか。トエトリア、まずは君から」
 ブレイヤールは左の袖を探る。中から紐の束を取り出すと、それをトエトリアへ渡す。受け取ったトエトリアはあらためて、紐をキゲイに差し出した。
「あの、これは?」
「お守り。私の髪でできているの。魔術をからめて編んだのは、ブレイヤールだけど」
 確かにそれは彼女の髪を一房、三つ編みにしたものだった。両端は髪がばらばらにならないよう、溶かした黄金でしっかりと留められ、表面には何かの模様が型押しされている。ただこの紐、やたらと長い。どうやらトエトリアは、ほとんど根元から髪を切ったようだ。
 キゲイはお守りを受け取った。
「それを持っていれば魔物はあえて近づいてこないし、たちの悪い妖精にちょっかいを出されることもない。白城あたりはまだ大空白平原に近くて、土地の魔力も薄いから、魔物も邪精もたいしていないんだけど……」
 ブレイヤールは話しながら、暖炉にかけられていた真鍮しんちゅうの茶瓶を引き出す。
「夜はやっぱり、彼らの力が増すからね。魔よけとして、持っておいた方がいい。いや、石人世界じゃ持ってないと、むしろ危険だ」
 彼はテーブルに戻ってくると、三つの小さな湯飲みに中身を注ぐ。キゲイはトエトリアにお礼を言った。
「ありがとう……。えっと、王女様の髪も三つ編みが何本かあるけど、もしかして、それにも全部おまじないがかかってるの?」
「え、まさか。もしそうなら、髪結いの人が大変よ。そっちの三つ編みが特別なの。それは迷惑かけちゃった、せめてもの償い」
 トエトリアはしおらしげにうな垂れて見せ、早速湯飲みに口をつけた。ブレイヤールも湯飲みを包むように持って、両手を暖める。石造りの城は底冷えがする。
「キゲイ、この城、ものすごく広いだろ?」
 キゲイはお守りを懐に収め、ブレイヤールの言葉にうなずいた。
「僕一人だったら、絶対迷子になると思います」
「だろうね。僕だって、時々迷うことがあるんだから」
 ブレイヤールは苦笑いを浮かべた。
「この城は、七百年前に滅びてしまったんだ。戦争で王が亡くなり、家来も国民も、城からみんな逃げ出してしまった。王族とわずかな側近だけが残ったんだけど、城はあまりにも大きすぎた。管理が行き届かなくなったうえに、時が流れるにつれ、城に関する知識や情報が失われてしまったんだ。側近の末裔達もどんどん数が少なくなって、もう年寄りばかり。今では僕自身にも、城のどこに何があるか、ほとんど分からない状態になってる。おまけに城が滅んだ後、なぜかうわさだけが大空白平原の人間達に伝わった。以来数百年間にわたってこの城は、遺跡と勘違いした人間達に、遺された財宝を盗まれ続けてきたんだ」
「宝物がこの城にあるんですか!」
 キゲイの胸が高鳴る。それは、アークラントの人々が探し求めている魔法の宝なのだろうか。
「数百年間も盗まれ続けている割には、この城に隠されている宝は減っていないようだね。この間も、探検家を名乗る人間が勝手に城内をうろついていたから、追い払ったところだ。追い払っても何度も来る奴はいるけどね。変に顔馴染みになった連中もいるし」
 ブレイヤールは、短い溜息をつく。
「この城は本当に広いんだ。深入りすれば、出られなくなることもある。城内で遭難して、飢え死にする人間もいるくらいなんだ」
 それを聞いて、キゲイは不安になった。どうやら本当に手に負えないくらい、広い城らしい。ディクレス様達は、この城に入って大丈夫なのだろうか。うっすらと心配にもなる。
「アークラントの人達も、多分この城にやってくると思う」
 ブレイヤールが、キゲイの心を見透かすようにこう言ったので、キゲイは思わず湯飲みを取り落とすところだった。もっともブレイヤールは、自分の湯飲みに視線を落としたまま考えにふけっていて、キゲイの様子には気がついていないようだ。
「問題の傭兵達も、城に来れば財宝に目がくらんで、君のことは忘れてしまうだろう。その隙に、こっそり戻っちゃえばいいんじゃないかな……。地読み士の皆は、君の味方なんだろう? ならきっと、かくまってくれるはずだ」
 キゲイは、ブレイヤールの言ったことを、頭の中で繰り返してみる。本当にうまくいくだろうか。楽観的すぎるような気もするが、確かにそのタイミングで仲間の所に戻れなければ、いつ戻れるのかという気もする。
「じゃあ、僕、皆がこの城に来るまで、ここにいることにします……」
「そうしてくれ」
 ブレイヤールは心細そうなキゲイに、穏やかな表情を向けた。
「さて、そろそろ二人ともお休み。キゲイはまだ疲れているだろうし、トエトリアは明日の朝早く、黄緑の城に帰らなきゃいけないんだからね」
 トエトリアは、はぁいと返事して、椅子から飛び降りる。キゲイも湯を飲み干し、立ち上がった。軽い甘みとしょうがの味の湯だった。
「あの王様、ありがとうございます」
 白王と呼ぶのもなんだが堅苦しい気もしたので、キゲイはブレイヤールのことを、王様と呼ぶことにした。ブレイヤールはキゲイの言葉にうなずいてみせる。彼はその呼び方を受け入れたようだ。結局白王は、キゲイにアークラントのことなど一つも尋ねなかった。

 トエトリアがキゲイを連れて部屋を出て行くのを見送った後、ブレイヤールはひどく陰うつな気持ちに戻って、ベッドの端に腰掛ける。彼は知っていた。この先、アークラントに何が起こるかということを。しかしそれは、それと認めたがらない者以外ならば、誰にでもすぐ分かる事実に過ぎない。
 滅ぶのだ。あの国は。
 そもそも石人達にとって、大空白平原の人間達は疎ましい存在だった。七百年前の誓いで、互いの世界を分かつ境界を侵さないこと、大空白平原には誰も住まないことを決めたはずだ。なのに人間達はその誓いをたった三百年で忘れてしまったらしい。平原に住みはじめた人間に石人が気付いたときには、彼らの数は簡単に追い返せるほどではなくなっていた。それでも多くの人間達は本能的に境界石群を超えるのを恐れ、誓いの最後の一つは守られていたために、石人達も平原の人間に手を出すことは差し控えていた。少なくとも平原の人間はかつて争った人間達と異なり、平原を東西に行き来することだけにしか興味を持っていなかったからである。確かにこの平原は、大陸の東西をなだらかな地形でつなぐ唯一の道らしかった。
 ところが今、忘れ去られたはずの峡谷を抜けて、新しい人間達が平原にやって来た。しかも彼らは躊躇なく境界石を越えようとしている。石人達はすぐに気が付いた。アークラントの人間達は不吉な運命を負って峡谷を通り、戦の匂いを運んできたのだ。平原の人間だけでも厄介に感じていた石人達が、新たに現れた人間達の素性を確かめるのに、大した時間はいらなかった。
「なんでこんなことをしてしまったんだろう……」
 ブレイヤールは独り呟く。
 キゲイはトエトリアを助けてくれた。それで困った事態になったのだから、今度はこちらがキゲイを助けるのは、当然だ。お互いの立場や生まれを気にすることなく、親切に親切で応じるだけですんだなら、どんなによかっただろう。
 ブレイヤールを悩ますのは、キゲイが滅びる国の人間だったこと。このまま仲間の元に帰せば、いつかはアークラントを巡る戦争に巻き込まれて、ひどい目にあうか死ぬかのどちらかだ。かといって、彼をこのままずっと、城に引き止めておくわけにもいかない。一方では助けていても、一方では見殺しにしようとしている。トエトリアが人間の町に行くなどという、浅はかな行動をしでかさなければ、彼もこんな割り切れない嫌な気持ちにならずにすんだろう。そう考えると、彼女のことを恨めしく感じる。
 彼を落ち着かなくさせているものは、他にもあった。アークラントの人間達が石人世界に入ろうとしている、事実そのものだ。石人達はアークラントの人間達を、それほど危険だとは思っていない。魔物が闊歩かっぽするこの石人世界で、人間はすぐに引き返す道を選ぶと考えている。人間達が峡谷の向こうに帰れば、峡谷を魔法で突き崩し、二度と通れなくしてしまえばよいと。しかし本当にアークラントの人間達の侵入を、そんな程度に捉えていていいのだろうか。
 ブレイヤールは立ち上がり、織り機の前に行く。織り機には作りかけのタペストリーが張ってある。彼はこのタペストリーで、森に広大な幻を織り込んだ。布に縫い取られた森の姿は、いまだどの場所も、ほつれたり穴が開いたりはしていない。幻術は破られていないようだった。なのにどうも嫌な予感がする。
 彼は虚空を見上げる。魔法使いとしての鋭い感覚が、アークラント人達が平原に持ち込んだ戦の匂いとは別のものを嗅ぎ取っていた。
「人間の心配だけなら、いいんだけど……」
 ブレイヤールは呟いて、すぐに口をつぐむ。アークラントが石人の宝を求めて平原に現れたのは、石人達に否が応でも七百年前のことを思い起こさせる。七百年前には、人間との戦以上に、振り返りたくない過去があったのだ。

 日が昇り、朝食の時間も過ぎた頃。白城の年取った住民達は、それぞれの仕事につき始めていた。家事に精を出す者、三頭の羊の世話をする者、城内から発掘された骨董品を調べる者、薬草を調合する者——。トエトリアとその二人の家来は、早朝に白城を発っていた。
 キゲイは、手持ち無沙汰この上なかった。城には興味があったが、一人で探検するのは怖い。迷子になりそうだったし、なにより城の巨大さと古さは、キゲイにとって常識はずれだ。何十階建てもの建物を見上げていると、今にもこちらへ向かって倒れてくるような錯覚を覚えたし、廊下の亀裂だらけの柱や天井も、いつ崩れてきてもおかしくない気がした。
 それでキゲイは朝食の後、食堂の前に広がる荒れ果てた中庭を、所在無くうろうろしていた。中庭の一角には、料理に使うらしい野菜や香草が植わっている。庭の中央には、白い石で縁取られた大きな楕円の池。藻の間に、ブチ模様をした細身の魚の背が見え隠れしている。
「キゲイ」
 呼ばれて池から顔を上げると、回廊からブレイヤールが手招きしている。その隣には、彼の目付け役である青髪の石人が立っていた。
「これから、城の見回りに行くんだけど、一緒に来るかい」
 キゲイが駆け寄ると、ブレイヤールは言葉を付け足した。
「日課にしているんだ。それと、アークラントの人達が本当にこの城に来るかどうかも気になってる。だから今日は城の下層、外周部の北側を回るつもり」
 そういうことならば、キゲイもついて行かないわけにはいかない。
 ブレイヤールを先頭に、三人は歩き出す。廊下は相変わらず古びていて、辺りはひっそりとしている。各部屋には木戸がついていたが、廊下を進むに連れて、木戸のない部屋が増えてきた。部屋の中は空っぽで、物置にすら使われていないようだった。
 キゲイの後ろからは、グルザリオが大股のゆっくりとした足取りでついて来ている。彼はいつかの夜のように、腰に剣を下げていた。剣帯の留め金が、彼の歩調に合わせて鳴っていた。腰帯には、魔法の杖らしい細長い銀の棒を挟んでいる。キゲイの前を行くブレイヤールも、よく見れば、帯に似たような木の棒を差していた。
「皆、まだこの城へはたどり着いてないのかなぁ」
 相変わらず人の気配がない城内に、キゲイが呟く。
「城は広いから、この辺りを見ただけじゃ、なんとも言えないな。でも、まだだと思う。城主の勘ではね」
 ブレイヤールは辺りを見回しながら答えた。
 三人が歩いているのは、城内都市跡のひとつだった。石畳の大通りの両側には、十数階建ての館が立ち並んでいる。館は数階ごとに奥へずれ込む、階段状の層構造をしていた。各層の館前は、下階の天井が大通りの並走路となっており、大通りを隔てて対岸に建つ館の並走路と、橋でつながっていた。振り仰げば、さらに城の上部から伸びている巨大な空中回廊が、都市の上空を大胆に横切っている。空は淡い銀色だった。
 館を貫くトンネルへ入る。出口に近づくにつれ、三人の足音以外の物音が混じってくる。キゲイは耳を澄ませる。水の音だ。
 一行は朝の光が存分に降り注ぐ、気持ちの良い庭園へと出た。三方は背の高い建物に囲まれ、前方の石垣に半円の小さな池が築かれている。石垣の後方は段々になった土の地面で、水路が上の方から流れ、水のベールを落とす滝となって水面に注いでいる。池の中央の島には、大樹をかたどった壊れかけの彫刻がひとつ。白い大理石の枝には、黒曜石の葉が埋め込まれていた。
 キゲイは寒風に身をさらしながら、辺りを見渡しそっと溜息をつく。城を形作る石の建造物は何から何まで、人の手によるとは思えないほどに巨大で美しい。なのにどれひとつとして、壊れていないものは無かった。滅ぶとは、こういうことを言うのだろうか。
 ブレイヤールは池の縁石に手をついて、片手で水をすくっていた。水は清らからしかった。
「頂上から麓まで、この城で水の循環が絶えたことはない。不思議なもんだよなぁ。城は滅んでるのに」
 キゲイの隣で、グルザリオが両腕を組む。
「この池の水、雨水とは違うの?」
 キゲイはグルザリオに尋ねる。
「この城は山みたいだけど、あくまで城だからな。山みたいに、降った雨を自然に貯めることできん。溜池はあるが、城の上の方はどうなってることやら。うちの曾爺さんの代に一回見たきりだったかもなぁ」
 そのとき、何かのとどろきが二人の耳に入った。ブレイヤールも水面から顔を上げる。三人は息を潜めて静かな庭園に耳を澄ませ、視線をめぐらせる。先ほどの静けさとは、何かが変わっていた。
 張り詰めた静寂の中で、グルザリオが真っ先に我に返り、キゲイの背を突いてブレイヤールの側へ共に駆け寄る。
「ちょっと違やしませんか、王子。時々聞く、古くなった石壁が崩れた音と」
「うん。何か、来てるみたいだ。あっち」
 ブレイヤールが指を差し、グルザリオも腰帯から杖を引き抜く。二人はキゲイを間に挟み、池を背にして右手の館に注意を向ける。
 右手の館は三階分の高さの奥深い大柱廊が、庭に向かって開いていた。その奥まった暗がりの中から、石畳をカチカチと鳴らして歩み出る。それは王者のように、悠々と姿を現した。不思議な姿に、キゲイは目をこする。
 はじめは、館の奥に広がる暗闇が突然切り取られ、うごめいてこちらに歩き出したように見えた。しかしやがて、その姿ははっきりとしてくる。しなやかな獣の歩み。明り取りの窓から斜めに差し込む弱々しい光のすじを、獣は何度か横切った。その度ごとに、獣の丸い明るい色の瞳が浮かび上がる。獣の周りで舞い上がった砂埃は、光を受けて白く輝く霞になる。それなのに、獣の体はずっと真っ黒なままだった。光を浴びても影に入っても。庭園に頭を突き出すまでに、近づいてきても。
 キゲイは息を呑んで見上げる。なんと大きな闇の塊なのだろうか。
「魔物じゃないか」
 ブレイヤールの、上ずったささやきが聞こえる。彼の構える杖の先が、小刻みに震えていた。
 魔物の目は、傷ひとつない水色の水晶玉のようだ。瞳孔すらない。それはキゲイ達三人に向けられ、闇色の顔の中で鈍く光る。そして一対の目は、三人へ向けられたままゆっくりと下降し、細められた。キゲイは、はっとした。魔物の姿が黒すぎて体勢は良くつかめないが、あれはこちらに飛びかかろうとしているのではないだろうか。
 キゲイの予想したとおり、闇の四肢が地面を蹴った。キゲイは思わず片足を後ろへ引く。
「動くな!」
 抑えた怒鳴り声とともに、キゲイの肩を誰かが強くつかむ。キゲイの視界を闇が覆い、息を詰まらせるほどの密度を持った風が、たたきつけられる。これではまるで、境の森での晩と同じだ。しかも今度の魔物とやらは、あの晩に出会った奴の比ではない。
 肩をつかんでいた手が、キゲイを後ろに振り向かせる。石垣の上に闇色の魔物が立って、見下ろしていた。日の下に出ても、魔物はシルエットそのものだった。ただ、背骨とわき腹にかけて銀色の鱗状の筋がついており、それが黒い体の姿勢を唯一示すものとなっている。頭部は鼻面が存在せずのっぺりとしていた。それにしても、妙な毛並みだ。毛先が炎のようにたぎり、揺れるたびに暗い虹色の残像が重なる。特に長いたてがみがこの上もなく見事だった。まるで幻のような姿なのに、圧倒的なまでの存在感を誇って悠然と立っている。
 キゲイはよろよろと後ずさり、その場に崩れるようにして尻もちをついてしまった。ブレイヤールとグルザリオが、魔物に杖を構えながらこちらへ後退してくる。
「ど、どうしよう」
「殺すしかありません。ほっとくと人を食っちまう。もうすぐたくさんの人間が、この城にやってくるかもしれないんすよ。この城を血で染めるおつもりで? うっ!」
 キゲイが声をかけるより先に、グルザリオがキゲイにつまずいて、息を呑んだまま彼の隣に片手をついて倒れこむ。
 その瞬間、魔物は二人の石人へ狙いを定め、宙へ身を躍らせた。
「来るな!」
 ブレイヤールがかざした杖を、すばやく横へ振る。その動きにあわせて、どこからともなく飛んできた石の塊が魔物の体を横様に直撃し、魔物を吹き飛ばした。重たい音を立てて地面に落ちた石の塊は、どうやら館を飾っていた柱頭らしかった。
 その隙に、グルザリオはキゲイの襟首と帯を両手につかんで走り出す。そして城内都市へと続くトンネルへ駆け戻り、キゲイを床に投げ出した。彼はそのままトンネルの出口の壁に、ぴったりと背を押し付けた。
「ちょ、ちょっと!」
 キゲイはグルザリオに這い寄り、服のすそを引っ張る。
「こんなところに隠れてたら、王様がやられちゃうよ! どうするつもり! 剣は使わないの!」
「こんなものが役に立つか! だいたいあいつは、石人世界の奥深くにしかいないんだ。なんだってこんな所に……」
 グルザリオは庭園の方をうかがったまま、動こうとしない。
 ブレイヤールと魔物は、池を挟んで向き合っていた。柱頭の重い一撃を受けたというのに、魔物は弱った様子もない。ブレイヤールは何かの言葉を声高に繰り返しては杖を何度か突きつけていたが、魔物は彼を見つめ返しているだけだ。尾をゆっくりと左右に振り、頭部をかすかにゆすっている。
——あれは、自分が魔物であることを知っている。
 ふいに、キゲイの左耳の側で、風のようにかすかな声が聞こえた。キゲイは戸惑う。彼の左側には、誰もいない。
——そんな魔物は、存在自体がすでにして魔法。ゆえにあれは直接、魔法にかけることができない。例えば、こんな風に。
 そのささやきが途切れると同時に、グルザリオが胸を押さえてうめき声を上げた。グルザリオの体が重心を失い、目を丸くしたキゲイの上へ倒れてくる。キゲイはあえなく下敷きとなった。何とか這い出てグルザリオの肩をゆするが、顔が真っ青になっている。彼はかたく目を閉じ、杖を胸元で強く握り締めていた。
——あれに唯一効く魔法は、あれを構成する魔法をほどくものだ。かなり難しい魔術なんだが、あの人はさっきから五回も唱えているな。……いい加減気づいてもよさそうなのに。
 キゲイは左手で左耳をふさいでみた。
「あれは、獣の姿ながら言葉を理解するという。しかし、自身は言葉を語る喉を持たない」
 いまや声は、キゲイの耳元ではなく、トンネルの奥から足音と共に響いてきた。はたして暗がりから現れたのは、レイゼルトである。キゲイは困惑とあっけにとられて、相手を注視する。レイゼルトは炎色の瞳を、遠くのブレイヤールの姿へ据えていた。
「口にするのは、言葉に至らぬ言葉。あるいは、言葉を超えた言葉。すなわち……」
 レイゼルトは、左手の人差し指をゆっくりと魔物へ向ける。キゲイの後ろから、巨石のきしむような唸りが聞こえた。そしてそれに続くのは、大地を揺るがす咆哮。
 キゲイは両耳をふさぎ、床にうずくまった。あまりの大音響に、心も魂も何もかも、持っていかれそうだ。魔物の叫びは、館の石積みすら緩ませる。空っぽの館の廊下を満たし、部屋を満たし、人の体の中まで満たして、どこまでも反響していく。
「しょせん、すべて幻だがな」
 脇を通り過ぎていくレイゼルトの気配と声が聞こえ、キゲイは辺りが静けさを取り戻したことに気がついた。それでもまだ耳鳴りは残っていて、頭がぐらぐらする。
「ま、待ってよ! 何でここに?」
「あそこの魔法使いに、会いに来ただけだ。向こうもようやく、あれが幻術だったことに気づいてくれたらしい」
 レイゼルトは半身だけ振り返り、あごでしゃくってみせる。その先にはブレイヤールが立っていた。そして、彼を見下ろすようにして魔物もまた。
 しかしブレイヤールはすでに、魔物の方へは向いてなかった。彼はレイゼルトへ顔を向けたまま、魔物へ杖を突き出す。魔物の姿が揺らぎ、見る間に杖の先へと吸い込まれていく。すべてを杖に吸い込ませると、ブレイヤールは右手で杖をしごき、その手を開く。手から薄青い影が立ち昇り、日の光に溶け消えた。
「誰だ」
 ブレイヤールはレイゼルトに尋ねる。幻で騙されたことを知って、苦々しく不機嫌で、厳しい顔つきだ。
「境の森に幻術をかけたのは、あなたか」
 レイゼルトは相手の問いを無視し、トンネルから庭園へと踏み出る。キゲイはレイゼルトを止めるべきか迷いつつ、後を追った。
「境の森に魔法をかけたのは、確かに僕だ。人間が七百年前の禁を犯し、軍を率いて石人の領内へ踏み入ろうとしている。その試みをくじこうとするのは、当たり前だろう」
「それにしては、ずいぶん気のない幻術だった。あなたは人間を馬鹿にしているのか」
「幻の魔物みたいな、本格的な罠を仕掛けるわけにもいかないだろう。それより君はいったい何者だ。石人なのに、人間の味方をしているような口ぶりだ」
 その言葉にどきりとしたのは、むしろキゲイの方だった。
 レイゼルトは懐から、金属の杖を取り出す。ブレイヤールもレイゼルトへ杖の先を向けたが、気が進まなそうだった。
「確かに」
 レイゼルトは、杖を緩やかに掲げた。
「彼らは人数を削られるような危険な魔法より、限られた時間を削られる方が痛手かもしれない。だが、これ以上の邪魔立ては困る」
 彼は掲げた杖を振り下ろす。見る間に三方を囲う館の輪郭が、淡くなった。そして館の前面が最上階からすべて白砂と変わり、流れ落ちてくる。
 キゲイは頭上から降り注ぐ砂から逃れようと、池へ走る。振り返ると、砂は館の一階部分を埋めるまでに積もっていた。ブレイヤールは杖を構えたまま、歯を食いしばっている。なぜ彼は、むざむざレイゼルトに館を壊させてしまったのだろうか。
「王子、術士を狙え!」
 突然レイゼルトの背後で積もった砂が吹き上がり、レイゼルトに向かって飛ぶ。半分埋まっていた館のトンネルから、グルザリオが走り出てきた。顔色はまだ随分悪い。
 レイゼルトは杖を上げ、難なく飛んできた砂を杖に巻き取る。それはそのまま、杖の先を起点とした砂の竜巻になる。竜巻はやがて周りの砂も巻き上げ、空高く伸びていく。グルザリオはレイゼルトに向かい、杖の先から白い閃光を放った。閃光はレイゼルトの周りに立ち込める砂煙の中で、微塵にはじけて消えてしまった。
 キゲイはどうしていいか分からなかった。レイゼルトはあの砂で、何をするつもりなのだろうか。気がつけば、彼は足元の石をつかみ、レイゼルトに投げつけていた。意外にも石は砂煙を裂いて、レイゼルトの足元に落ちる。キゲイの腕力がもう少しあれば、確実に当たっていたはずだった。レイゼルトはキゲイに炎色の瞳を向ける。
「お前こそ、人間と石人、どちらの味方なんだ」
 瞳に怒りはないが、問いかけは辛らつだった。キゲイは言葉につまる。
「今はそんなこと、関係ないと思うな」
 ブレイヤールがキゲイの代わりに答え、杖を振る。彼の背後で池の水が大きく跳ねたかと思うと、レイゼルトへ向かって襲いかかる。レイゼルトは砂の竜巻で水流を受けた。くすんだ灰色の竜巻は、水を含んで真っ白に変わる。しかしブレイヤールが放った水は、決してレイゼルトの砂竜巻に飲み込まれることはなかった。竜巻の上から沸き立つと同時に、再びレイゼルトめがけて降り注ぐ。
 それから先は、わずかな間に起こった。レイゼルトは頭上を見上げ、杖を振り下ろす。砂竜巻が首をもたげて水を追う。庭園を、すさまじい突風が襲った。水を吸い上げた竜巻が、すそから広がってきたのだ。湿った砂嵐はレイゼルトの姿を呑み、こちらへ迫る。キゲイは全身に叩きつけられる砂に体を縮め、いつの間にか気を失っていた。

「何で池の水なんか! 向こうの砂の方が、ずっと量でまさっていたってのに! 何であんたも館くずして、対抗しなかったんですか!」
「城主が自分の城壊して、どうする!」
 のどかな水音に混じって、そんな口論が聞こえてくる。キゲイは体を起こした。彼は砂の上にいて、すぐ側には彼を掘り起こしたらしい砂の穴が開いていた。体中、湿った砂がこびりついてごわごわだ。
「そんな場合じゃ、なかったでしょうが! 俺なんか、血中に大量の気泡を入れられて、死ぬところだったんすよ!」
「こっちだって、脳髄のうずいに水銀入れようとしてた! おかげで、あいつが館を砂に変えるのを、止め損ねた。あいつ、僕らを殺すつもりだったんだろうか」
「もしそうならば、チャンスはいくらでもありました。俺達が、幻術にだまされている間に! しかし、どんだけ悪趣味な魔法を使うんだ、あのクソガキ! 脅しにしても本気すぎる」
 グルザリオが腹立たしげにブレイヤールへ背を向け、見る影もない三方の館を仰ぐ。ブレイヤールは、池の縁石にうなだれて腰掛けていた。池の大理石の木は、なぜか黒曜石の葉をすべて落としている。
「こわかった」
 ブレイヤールは呟くと、目をこすった。
「あの……」
 キゲイは二人に声をかける。キゲイだって、レイゼルトが何者なのか、分かりはしない。でも、目の前の二人よりかは知っている。
「あいつ、レイゼルトって言うんです……。石人だけど人間の味方をするって、言ってました」
 ブレイヤールは目を丸くした。
「知っているのか?」
 キゲイはうなずく。服の上から、懐の銀の鏡をぎゅっと握る。
「レイゼルト……。はて、どこかで聞いた名だな」
 グルザリオが腰に手を当て、考える仕草をする。キゲイは次に言うべき言葉を探し、口の中で舌をかむ。しかし二人の思考は、ブレイヤールのくしゃみで中断させられた。ブレイヤールは池に注ぐ水の下で、体についた砂を洗い落としていた。
「いったん引き上げよう。二人とも、砂は完全に流して。この辺りの廊下に、砂で足跡を残すのはまずい。……水は冷たいけどね」
「洗った後は、ちゃんと乾かす必要もありますよ。凍え死にたくなけりゃ」
 グルザリオが主の言葉に付け加える。それから二人の石人は、再び無残な姿の館を見上げ、大きな溜息をついたのだった。

四章 石人の物語

 池の水で砂だらけの体を洗い、その後グルザリオが魔法で乾かしてくれた。しかし完全には乾かない上に冷え切った体も温めることはできず、三人は震えながら帰ることになった。その間、ブレイヤールとグルザリオは難しい顔で黙りこくったままだった。
「人間に協力する石人がいたですと?」
 食堂に帰り着き、ブレイヤールが大臣のルガデルロに事の次第を話す。厳格な大臣の顔は、ますます険しくなった。
「それで王子は、相手の石人をどう見立てました?」
「かなりの術士だった。あっという間に、館を砂にしてしまった。館の石には、形を保つ魔法が埋め込まれていたはずなのに」
「それで、あなた様はどうされました。城主として、魔法使いとして、その者にどう対されましたか」
「どうって……」
 大臣の厳しい追及に、ブレイヤールは思わず口ごもる。そして、グルザリオと目を合わせた。グルザリオは溜息をついて助け舟を出す。
「子どもの癖に、たいした手練れでしたよ。使う魔術の趣味は最悪でしたが」
「どう巧みだったかは、もう少しお聞かせ頂かなければ、分かりませんな」
 大臣はいかめしい顔つきのまま、食卓の椅子をブレイヤールに示す。ブレイヤールは溜息をついて、椅子に座る。大臣は向かいの椅子に座って構えた。グルザリオの助け舟も、大して役には立たなかったようだ。
 一方のキゲイは暖炉の側で、昨晩の優しい老婦人に温かいお茶を入れてもらっていた。ブレイヤールが大臣に話し始める。耳を傾けると、どうやらキゲイが気を失った後が本番だったらしい。
 レイゼルトの砂竜巻が庭園を吹き荒れたとき、遅れてブレイヤールは逆向きの力を竜巻に与えようとした。それは成功した。砂の渦は止まらなかったが、風は止まった。二人の魔法使いが風に力を加えたため、庭園の大気は不自然に停滞した。竜巻に飲まれた水は砂竜巻の中で霧になるまで細かく砕かれており、庭園に霧雨を降らした。
 そこへレイゼルトは砂を、ブレイヤールめがけて叩きつけてきた。ブレイヤールの周りで砂を硬め戻し、石の中に閉じ込めてしまおうとしたらしかった。もちろんのこと、物を壊す魔法より、物を作り出す魔法の方がずっと難しい。レイゼルトはこの魔法だけでも、十分な才能を見せつけていると言える。
 ブレイヤールは自分の周りに集まった砂へ、霧雨を集めて染み込ませた。水は砂を包み、ブレイヤールの魔法の支配下にあった水は、砂のほとんどを制した。しかし彼は、水をまとって重たくなった砂粒を持て余した。どう使えばいいのか、分からなかったのだ。
 これら一連のやり取りで何よりまずかったのは、ブレイヤールが防戦一方だったことらしい。レイゼルトが常に先手で、うわ手だった。
 ブレイヤールが迷っている隙に、レイゼルトは、ブレイヤールに奪われた砂も自分が操っている砂も、あっさり手放してしまった。代わりに、池の中央に立っていた大理石の木に魔法を当て、鋭く尖った黒曜石の葉すべてを飛び散らせた。
 ブレイヤールは本格的に命の危険を感じた。恐怖に駆られ、彼は黒曜石の葉に全意識を集中させた。レイゼルトの魔力を一瞬にして葉から払い、黒曜石を木っ端微塵に砕いたのだ。反対に彼の魔法による支配は、停止した大気からも、湿った砂からも逸れた。ずっと自身を守っていた、魔法の守りも崩れてしまった。
 留められていた庭園の大気が、再び激しく渦を巻いた。ブレイヤールは完全に虚をつかれて転倒し、石畳の上をなすすべもなく吹き転がされる。彼は館の基礎に頭をぶつけ、気を失った。そして黒曜石を打ち砕いたときの魔力の余波もまた、レイゼルトを襲っていた。
「結果的には、王子が奴を追い払ったことになるんでしょう。あの赤い髪をしたガキ、ふらふらになって逃げていきましたから」
 グルザリオが、ブレイヤールが気絶した後の短い顛末を付け足し、話を締めくくる。大臣は、グルザリオをじろりと睨みつけた。
「おぬしは何もせんで、見とっただけか」
「俺ごときが、下手に手出しできませんよ。王子やキゲイを置いて、あいつを追いかけるわけにはいかんでしょう」
 グルザリオは悪びれる風もなく、さらりと答える。
 キゲイはお茶のコップを静かに置き、三人の近くに行って立ち止まった。ブレイヤールがキゲイに気が付いて顔を向ける。大臣達もキゲイを振り返る。キゲイはブレイヤールが頭に血のにじんだ包帯を巻き、顔にもひどい打撲と擦り傷を負っているのを見た。三人の石人が見つめる中で、キゲイは自分の顔が熱くなるのを感じる。涙で視界が歪む。
「あいつ、レイゼルトは、ディクレス様に雇ってもらうと言ってました。お姫様が傭兵達に捕まったときに、助けようとしてくれたんです。人間に味方するって言ってたし、それに、妙な銀の鏡を僕に預けたんです」
 キゲイは涙をこぼすまいと歯を食いしばりながら、そう言った。もう、レイゼルトに関してだけは、知ってることを何でも話すつもりになっていた。レイゼルトはブレイヤールを殺しかけたのだ。いくら人間の味方でも、そのために平和に暮らしている罪もない人達を傷つけるなんて、ひどすぎる。
 石人達はきょとんとしてキゲイの言葉に聞き入ったが、あまりに唐突すぎる告白に、内容を理解するのに少し時間がかかった。
「レイゼルトとな?」
 しばらくして、大臣が最初にキゲイへ問い返す。口調は柔らかだった。
「殿下をひどい目に合わせた術士が、確かに、そう名乗ったのかの?」
 キゲイはうなずく。それに対する石人達の反応は、妙だった。三人とも考え込む様子を見せたのだ。その表情は、一様に苦々しい。
「あいつの名前が、何か変なの……?」
 キゲイがブレイヤールに尋ねると、彼は何度か首を縦に振った。自分自身でもその返事を確かめるような、用心深い頷き方だ。
「石人の名前は、生まれたときちょうど頭上に輝いている星の名から、付けられるんだ。星読みの神官が魔法の天球儀を使って、その光が僕達の目に届かない小さな星まで、見逃さずに名付けるんだ。星の名はどれひとつとして同じものはないから、石人の名前も二つとして同じものはない。レイゼルトの名を持つ者は、すでにいた。七百年ほど前の、歴史上の人物だ」
「たいそうな名前を名乗って、いきがってるもんだ。石人に恐怖を与える名前かもしれんが、同時に魔法使いとして恥っさらしな名前さな」
 ブレイヤールの言葉に、グルザリオが嫌悪に顔をゆがめて呟く。
 キゲイは内心首をかしげた。七百年前といえば、ちょうど人間と石人が争っていた時代ではないだろうか。ディクレス先王について石人の世界へ行くことが決まったとき、里長が地読み士達を集めて、簡単に話してくれた。
「七百年前の大戦……」
「そう。石人と人間が、争っていた時期だ。終結したのは七百と十八年前になる」
 キゲイの呟きに、ブレイヤールが答える。
「人間達が、石人の持つ魔法の宝を求めて侵攻してきたんだ。でもこの戦は、三十年ばかりで終わった。人間達は石人の世界から追い返された。石人も人間も、多くを失った。戒めのために、平原の端から端まで境界石群を建てて、石人と人間の世界をはっきりと線引きしたんだよ。お互い二度と、相手の世界を侵さないと約束して。キゲイはこの先の話を、聞いておいてもいいかもしれないな」
 ブレイヤールは右頬の擦り傷へ、薬湯に浸した布を当てる。レイゼルトとの争いで、彼は右半身を強く地面に打ち付けていた。特に右の頬骨は赤黒く血が滲み、ひどいありさまだ。
「長い話だから、俺がしましょう」
 主の痛々しい姿に溜息をつきながら、グルザリオは大臣の隣の席に座る。実際彼の方が、ブレイヤールより話し慣れていたようだ。
「戦の原因となっていた魔法の宝というのは、禁呪だった。禁呪ってのは、人が使うにはあまりに魔法的すぎるものだ。魔法なのに魔法的すぎるって表現はおかしいかもしれないが、人が使うにはあまりに多くの犠牲を必要とする、強大な力を持つ魔法と考える方が分かりやすいかもな。人間達が狙っていたのは、とどのつまりこの魔法が記された魔術書だったわけだ」

 人間と石人の戦は長く続き、先に疲労の色を見せ始めたのは石人達だった。石人は魔物との戦いは慣れていても、大勢の軍隊を相手に戦ったことなど滅多になかったからだ。味方の犠牲が大きくなるにつれ、石人の中には禁呪を用いて人間を追い払うべきだと考える者達も現れ始めた。人間が求める禁呪を人間に向けて使い、その力の恐ろしさと扱いの難しさを身を持って知らしめるのは、有効な手立てかもしれなかった。
 しかし禁呪が使われることはなかった。人間との戦にうんざりしていたのは確かだが、それが禁呪を用いる正当な理由になりはしない。石人にとっても、禁呪は難しく危険な魔法だったのだ。
 やがて戦は、人間達の敗走によって終わった。境界石群を建てることが決まったとき、人間と石人、それぞれの思惑はどうだったのだろうか。人間は、境界石群の向こうから、石人が復讐のために追いかけてこないことを願ったかもしれない。石人もまた、魔法もろくろく知らないような荒っぽい種族と、きっぱり縁が切れることを喜んだかもしれない。
 境界石群は、大空白平原を端から端まで途切れることなく分断する長大なものだった。始端である最西端の海岸から終端である東の竜骨山脈までを、通して歩いた者はいないはずだ。人間が平原から石を切り出して運び、石人が石を地面に立てた。その石に人間は自らの神々を掘り込み、石人は星の名を刻んだ。互いに顔を合わせないよう、人間は昼に作業し、石人は夜に作業した。
 石人が人間に興味を持ち始めた理由は、この時期にあるのだろう。作業場におかれた巨大な石柱を、魔法も使えない人間がどうやって切り出して運んだのか。人間の忘れ物らしい小さな楽器は、華やかな音階を奏でた。戦場では目にしたことのない人間の持ち物を、石人は初めて目にした。
 境界石での共同作業によって、石人は人間達の存在をまじめに考えるようになった。人間世界は土地の持つ魔力は乏しいが、それ故に魔物も精霊もほとんどいないことを知った。石人世界に比べ、種をまけばそれ以上の実りで応える豊かな土地がそこかしこにあることも。時間を分けて境界石での作業をしていたとはいえ、決まりを破って互いに会う者達もいたようだ。それまで石人達は、人間世界にも人間にも興味はなかった。魔力を持たない土地に行けば、石人は三日で干からびてしまう。だからそこに住む人間と、交流を結ぶ必要もないはずだった。
 境界石群を立て始めて数年後。すでに、石人達の当初の思惑は大きく変わっていた。
 人間は不可侵の誓いを疑うことなく、境界石群での作業を続けていた。石人も変わらず境界石を立て続けてはいた。ところがその裏で、石人の国の幾つかが、人間世界を手に入れようと言い出したのだ。人間にとってはとんでもない話だ。境界石の誓いは、なんだったのか。ところが石人達にとって、人間との約束など、必要がなくなれば守る義務もないものに過ぎなかった。先の戦に勝ったのは、自分達の方なのだ。
 当然、人間を支配することに反対する石人の国もあった。人間世界へ侵攻したがっている国は、禁呪によってそれをなそうと主張していたからだ。まともに戦えば手ごわかった相手でも、禁呪なら簡単に勝てるという算段だったのだろう。彼らは人間世界の富に目が眩んでいた。
 もっともこれに反対する石人の国も、あまり関心な本音を持っていなかった。これを機会に相手の国から禁呪を取り上げ、自分達のものにしようと考えた。禁呪はそこに存在するだけで、大きな魔力を城に与えてくれる。魔力は石人の城を豊かにするのだ。
 人間界への侵攻を主張する国々も、それに反対する国々も、その愚かさではもはやどちらも救いようがない。
 やがて石人の国々は二つの陣営に分かれ、武力で争うこととなる。その間、侵攻派の国々は人間に対する禁呪の使用を唱えていたとはいえ、石人の国々に対して、禁呪を使うことはなかった。同族にそのような恐ろしい力を振るうのは、ためらいがあったからだ。
 この状況に、石人世界の中心である「星の神殿」の大巫女は、ひどくお怒りになった。ところが大巫女は俗世にかかわる権限をもたない。彼女は唯一の抗議手段として、次代の大巫女を指名なさると、神殿の中枢にお篭りになった。石人世界全十二国が考えを改めない限り、一切の食事をとらず言葉も発しないと申されて。
 大巫女の静かな抗議は、誰の耳にも届かなかった。石人世界は騒がしくなりすぎていたのだ。尊い大巫女は空しく亡くなり、次代の大巫女は幼すぎたため、石人達を止めることのできる者はいなくなった。
 やがてこの戦は、石人達に取り返しのつかない代償を求めることとなる。
 広大な湖の中にそびえ立つ赤の城は、人間界へ攻め込むことに反対していた国のひとつだった。しかし戦に負け続け、いまや目前に敵の連合軍が迫っていた。味方の国々もそれぞれに押され気味で、援軍を望める状況にない。
 湖岸には、敵の軍勢が何千と布陣していた。その様は、色とりどりの花が咲き乱れているようだった。石人は自分の髪の色彩を誇りに思っており、決して頭すべてを覆う兜をかぶらない。また兵士達は、それぞれが所属する国の色を身に付けている。
 赤の兵士達は圧倒的な数の敵を前に、城に篭る以外なかった。出て行けば、赤は敵の色彩の渦に巻き込まれて、消え行くしかない。兵士達は迫る運命に重苦しい夜をじっと耐えて、決戦がおとずれる夜明けを待った。
 空が白む。赤の兵士達は見張りの高台から湖岸を確認する。驚いたことに、敵の姿がひとつも見当たらない。それどころか、様子が妙だ。兵士達は赤王せきおうの命により、湖岸へおもむく。
 それは言いようのない、恐ろしい光景であった。敵の陣はそのままだった。いたる所に、敵の武具と鮮やかなマントが砂にまみれて落ちている。天幕の中も、砂だらけで無人だった。敵達はすべて、血肉を砂に変えられ崩れてしまっていたのだ。
 兵士達は怯えきって戻り、赤王へ見たままを報告した。ところが赤王は顔色一つ変えず、それどころか満足そうな笑みを浮かべてこう言ったそうだ。
「それこそ禁呪。奴ら自身が用いようとしていた力なのだ」
 彼はその先にも言葉を続けたそうだが、記録には残っていない。王の傍らにいた書記官の筆が、事のあまりに凍りついたためだった。
 赤王が禁呪を用いて敵を一掃したという話は、その日のうちに城中に知れ渡った。すべての家臣と国民は、国王に裏切られたと感じ、王の居室へと踏み入った。彼らが見たのは、すでに冷たくなった王の亡骸と、その傍らに立つ成人した王の息子、そして涙にくれる王の妻の姿だった。詰め寄る家臣に王子は青白い顔を向け、こう言ったという。
「もはや戦どころではない。王の罪は、あがなうにはあまりに深い。だが、手を貸してくれ。まずは城にある禁呪の書をすべて破壊せねば。二度と過ちを犯さぬために」
 時を同じくして、湖岸にいた本当にわずかな連合軍の生き残り達が、恐怖に鞭打たれるまま走り続けていた。そしてとうとう、赤の国の援軍に駆けつけていた白の国の軍と鉢合わせた。
 白の軍ははじめ、こちらへ駆けてくるのは赤の国の使者だと思っていた。彼らの姿が赤かったからだ。しかし近づくにつれ、彼らは赤い服を身に付けているのではなく、裸で全身から血を滲ませていることに気がついた。彼らは高位の魔法使いばかりだった。全身砂だらけで、皮膚はやすりをかけられたように傷つき、頭髪も頭皮と一緒に抜け落ちていた。裸だったのも、服が肌に当たってひどい痛みを与えるため、脱いでしまっていたのだ。
 白の軍は彼らから何が起こったのかを問いただすと、きびすを返して自分の国へと急ぎ足に戻っていった。
 赤の国が禁呪を使ったことは、こうして瞬く間に石人世界すべてに伝わった。赤の国は禁呪によって、味方の国々はおろか敵の国々をも裏切ったと言える。石人世界の中心である「星の神殿」の神官達、そして神殿が認める正十二国のうち、赤の国を除く十一国の王が一堂に会することとなった。
 常に中立にあり石人世界の行く末を見守る神殿も、沈黙し続けることは難しくなっていた。それに禁呪を使う者を罰するのは、神殿の役目でもあった。その点では禁呪を使って人間界を支配すると言っていた国々も、神殿に対する反逆を起こしていたことになる。こういった状況もあって、神官と十一人の王との会議の雰囲気は、大変とげとげしいものだった。
 会議では、赤の国は禁呪をもって罰するより他はない、という意見が出た。禁呪には禁呪でしか対抗できないのだ。十一人の王達は、赤の国の王はこのまま禁呪の強大な力に魅入られて、石人世界を支配する気になるだろうと考えていた。
 王達と神官は長いこと意見を交わしていたものの、結局何かを決めることはできなかった。それどころか赤王の死が伝えられてくると、元凶は消え心配事はなくなったとばかりに、それぞれの王達は自分達の国へと帰ってしまった。そして再び戦争をはじめた。神殿だけが混迷する赤の国での調査を開始した。
 ところが禁呪の使い手だった赤王はいなくなったはずなのに、同じ惨事が起きた。黄緑の国と白の国が戦っていたとき、突如黄緑の軍勢が砂になって崩れ落ちたのだ。別の戦場でも事は起こった。禁呪で人間界を支配しようとしていた国々は、ことごとく砂の禁呪のえじきと成り果てたのだ。
 再び神殿によって、会議が招集される。王達の顔には、恐れがありありと浮かんでいた。前回とはその顔ぶれも、いくぶん変わっていた。何人かの王は砂になって亡くなっていたのだ。
 そこへ十二人目の王、新しい赤王が現れる。彼は他の王の敵意ある視線を浴びながら、会議室の中央へと歩み寄った。静かに立ち止まり、周りを円形に囲む十三の椅子を見渡す。そのひとつに腰掛けている神官の前へ、彼は先の王の名をささげた。罪を犯した王族は、命と名前をとられるのがしきたりだった。
「なぜこのようなことが続く!」
 緑王が我慢できずに叫んだ。
「術者は誰なのだ!」
 残りの十人の王も立ち上がる。赤王はやつれきった顔を王達へ向けた。
「わが王族に、以前にも禁呪についての罪を犯した者がおりました。幼き頃何の計らいか、封印された書庫から禁呪を盗み出した者です。名はレイゼルト。わたくしの実弟でした。禁呪に触れるは死に値する罪。しかしまだ幼い子のしたこと。今は亡き先代の大巫女様は情けをくださり、彼は罪人の塔に幽閉されるにとどまりました。
 それから年月が流れ、この戦が起こりました。いつかは分かりません。また、手段も分かりません。わが先代は扉が塗りこめられているはずの塔から彼を引き出し、ひとつの禁呪を与えたらしいのです。まことに信じられませんが、彼はその禁呪を読み解きました。そして使ったのです。湖の畔で。塔に封じてから食事や衣類を小さな穴から差し入れるだけで、人との接触もありませんでした。ようやく言葉を話せるようになった程度の年の頃より塔に入ったため、まして文字など……」
赤王の懇願 赤王はその場で両膝をつき、こうべを垂れた。
「すべてはレイゼルトが手を下しております。それを指示したのは先代。今もレイゼルトは、先代の言葉通りに動いていると思われます。わが国は全力でかの者の行方を追っておりますが、いまだその影すら捕らえることかないません。一刻も早くレイゼルトを止めねば、石人の国々の半分は滅びてしまいましょう」
「それは我らに対する脅しか! 赤王!」
 侵攻派の王達はそろって立ち上がる。逆に赤王は、深くひれ伏した。
「我々の力だけでは、かの者を止めるに叶いません。赤の国の禁呪はすべて捨て去りました。先代の妻が禁呪を残らず窯へ、その身と共に運び入れました。そうしてわたくし自ら火をつけ、神官長と共にすべて灰になったのを見届けたのです。少なくともレイゼルトを除き、禁呪に触れた者は赤の国より消え去りました。どうかもう戦はやめ、力をお貸しくださりませ。どうか」
 赤王を罵っていた王達も、この言葉に口をぴたりと閉ざした。そこへ赤の軍が砂になったという、急な報告がもたらされる。
「これもまた、亡き先代が末息子に遺した指示の一つか」
 騒然とする会議室で、神官は静かに問いかけ、赤王は弱々しく首を振ってそれに答えた。度重なる心労のあまり、赤王の心はこれ以上かき乱されることはなかった。
「力は、人の心を狂わせます。わたくしは命を懸けて、最後の罪人を追わねばなりません」
 赤王はそうとだけ答えたという。赤王の「人の心を狂わせる」と言わしめた「人」とは、先代赤王だけでなくこの戦を始めた石人全てを暗に指したと言われている。

 話には少々ややこしい所もあったが、キゲイはあきれ返ってしまった。七百年前、人間との戦以外にもこんなことが石人世界で繰り広げられていようとは。
 ブレイヤールが先を続けた。
終わりの滝「結局、十二の国は協力してレイゼルトを探すことにした。ところが、協力したとたんにどの国も関係なく、砂の禁呪に襲われ始めた。レイゼルトは、石人の約半数を砂に変えてしまったと言われている。彼のせいで二つの城が滅びた。
年齢でいえば、ちょうどキゲイくらいかな。皆が彼を恐れた。姿も幽霊みたいだったそうだ。骨と皮だけで、目が爛々と光ってて。それでもとにかく、レイゼルトは抵抗むなしく徐々に追い詰められていった。そしてとうとう、黄緑の国の王子によって強力な一太刀を浴び、滝の下へ落ちて死んだ。かわいそうに、黄緑の王子も道連れになったそうだ。でもこうして、石人は全滅せずにすんだ。
今度こそ誰も彼も禁呪の恐ろしさが身に染みて、すべての国は持っていた禁呪全てを葬り去った。あらゆる野心も消えうせて、憂鬱な平和が訪れた。石人達はすべての発端は人間界への興味にあったと考え、人間との接触をひどく嫌うようになった。今は記憶が薄れて石人も緊張感をなくしているけど、許可なく境界石群を越えると罰則がきついのは、今でも変わらない」
 そこでブレイヤールは深く息をつく。キゲイは尋ねた。
「もしかしてこの国、レイゼルトに滅ぼされちゃったんですか?」
 ブレイヤールは首を振ったが、なぜかがっくりとうな垂れてしまう。グルザリオが代わりに答えた。
「確かにこの国は、レイゼルトを追っている時期に滅びたんだけどな。でも、レイゼルトとは直接関係ないことで滅びたんだわ。ほら、今まであちこちの石人の国と戦争してたろ? レイゼルトが現れたからといって、いきなり皆仲良く協力するってわけにゃ、いかないじゃないか。レイゼルトを追っている間も、ああだこうだ揉め合っているうちに……。その、なんだ、当時の王様があっさりと暗殺された。王には世継ぎがいなくて、王位継承にふさわしい力を持つ王族も運悪くいなかった。王のいない城は、安全が約束される場所じゃない。レイゼルトの脅威もあった時代だ。国民達は皆逃げ出し、城は空っぽに。踏んだり蹴ったりだよなぁ」
 そこで大臣が咳払いをして、グルザリオの話を止める。ブレイヤールも疲れた表情で顔を上げた。
「それで、今日王子が出会った魔法使いのことですがじゃ」
「彼が何者かという話はともかく、魔法使いとして年齢不相応に優れていたのは確かだった。大臣、言いたいことは分かってるよ。彼はいつでもこちらの命を奪えた。けどそれをせずに、魔力だけでの力比べに持ち込もうとしたんだ。彼が人間の味方だとすれば、この城や僕の実力を知りたがるのは当然かもしれない。あいつの素性が分かればいいんだけど」
「そういや……」
 グルザリオが二人の話に口を挟む。
「あのガキ、右腕に籠手をしてましたねぇ。確かレイゼルトは、右手が手首の先からないんですよ。小さい頃禁呪を右手に掴んで盗んだから、切り落とされたんだとか」
 キゲイは思い出して、慌てて口を開いた。
「はじめて僕があいつと会ったとき、あいつ、自分で言ってましたよ! 小さい頃に何か触って、右手がなくなったって」
「本当に、なかったか?」
 グルザリオの追求に、キゲイは困って首をかしげた。実際に右手がないのを確かめたわけではない。大臣がグルザリオを叱る。
「馬鹿馬鹿しい。あの子どもは才能を鼻にかけて、『レイゼルト』を気取っておるだけじゃ」
「ただの子どもとも思えないけど」
「王子、あなたまでそんなことを……」
「大臣、分かってるって! それよりキゲイ、確かあいつに、『銀の鏡を預けられた』って言ってなかった? 見せてくれるかい」
 キゲイはうなずいて、懐から銀の鏡を取り出す。少しばかり曇っていた鏡面を袖でちょっと磨いてから、ブレイヤールの方へ差し出した。ブレイヤールはしばらく鏡の上に手をかざし、躊躇する仕草を見せる。結局彼は手に取り、まずは裏返して背面の繊細な彫刻に目を細める。それもつかの間に、再び手の中でひっくり返して鏡面をじっと覗き込んだ。
 レイゼルトはその鏡を、魔法の品だと言っていた。しかしキゲイがそれを持っている間、それは銀の鏡以上のものではなかった。裏側の彫刻が美しいために、宝物みたいではあったが。
 鏡面を真剣に見つめるブレイヤールは、やがて深い溜息をついた。
「これは……。困ったな」
 呟くなりすばやい動作で鏡を裏返し、キゲイに差し出した。キゲイは受け取ったが、「困ったな」と言われた物を返されても、それこそ困る。グルザリオと大臣は、ブレイヤールと銀の鏡を心配そうに見比べた。
「魔術書の類だ。強い魔法を鏡の世界に封じている。内容は……敢えて見たいとは思わない」
 ブレイヤールは額に手を当てて、目をしばたく。グルザリオと大臣の表情が固まる。ブレイヤールは前髪をつかみながら、どこを見るともなく天井をあおいだ。
「大臣、七百年前、本当にすべての禁呪を破壊したんだろうか。『レイゼルト』は、砂の禁呪が書かれた魔術書を持っていたと言われてるんだが。あれは彼の死後、ちゃんと回収されたんだろうか。いや、まさか本当にあいつが『レイゼルト』だと考えてるわけじゃないけど……」
「調べてまいります」
 大臣が椅子を後ろに倒して、勢いよく立ち上がった。その腕を、グルザリオがつかむ。
「待ってください、大臣殿。まさか赤の国に、直接問い合わせる気じゃないでしょうね。それに王子、あんた今、その鏡を触ったんです。まかり間違って、本当に禁呪だったらどうする気で? 神殿にばれたら、首が飛びます。そうなったら白城は完全に終わりだ!」
「まだこれが禁呪と決まったわけじゃないよ。けど、出所を調べる価値はありそうだ。これはれっきとした石人の品物なんだ。それだけは、間違いないだろう」
 鏡に触れた痕が手に残ってしまったか気にするように、ブレイヤールは右手をしげしげと眺めた。それから視線だけをキゲイに移す。
「キゲイ、やり方を教えるから、その鏡の彫刻を型取りしてくれない?」
「はい。……あの、これ、僕が持ってても大丈夫なんですか」
「うん。魔法使い以外の人には、ただの鏡だよ。だけど、魔法がかけてあったね。受け取るとき、解いてしまったけど。後でもう一度かけなおしとこう。もうちょっと穏便な魔法で」
「え……。どんな魔法?」
「君以外の人がその鏡に触ると、ひどく痛い思いをする。君と鏡の距離が一定以上離れても、君はひどく痛い思いをする。鏡を盗まれたり、落としたりしてもすぐ気がつく魔法だよ」
 キゲイは思わず鏡をにらみつけた。レイゼルトもひどい魔法を鏡にかけてくれたものだ。
型取り 大臣とグルザリオはレイゼルトの資料を調べるために食堂から出て行き、ブレイヤールは早速型取りの準備を整える。彼に教えられるまま、キゲイは銀の鏡を沈めた木枠の中へ溶けた蝋を注ぎ込む。後は蝋が固まるのを待てばいい。
「あの、ディクレス様達は、禁呪を探しにここに来たんでしょうか。魔法の宝を探しに行くって話だったし……」
 キゲイはおずおずと、気になっていたことを尋ねる。してよい質問かどうかは分からなかったが、彼はブレイヤールのことを信頼してもよい人物だと思いはじめていた。今ひとつ頼りないものの、その性格に軽々しさやずるさは感じられない。
「どうなのかなぁ」
 ブレイヤールは、壁の掘り込み座敷に這い上がりながら答えた。
「石人世界に禁呪がもうないことは、タバッサでそれなりに調べれば、すぐに分かることだ。それ以前に人間が禁呪を使うには、多くの優秀な魔法使いが必要になる。多くの生贄も。それもタバッサで聞ける話だ」
 彼は座卓で右腕の袖をまくり、そこにも薬を染ませた布を巻きつけた。キゲイは食卓の席に着き、ブレイヤールを見上げる。
「禁呪は力でしかない。禁呪で敵の国を滅ぼしても、その先のことがある。国を救うには、禁呪以上のものが必要なんだ。そんな奇跡みたいなものがこの世にあるんだろうか。僕にも、ディクレス殿が何を求めてこの地に来たのか、よく分からない」
 彼はキゲイの様子を見つめ、それからさらに続けた。
「いずれにせよ、ディクレス殿はこの城に来るだろう。僕は金銀財宝ならば、いくらでも出すつもりだ。それで満足して人間世界に帰ってくれるなら。事実、宝物庫のいくつかは鍵をゆるめてある。城を探索していれば、必ずそこを見つけられるだろう。これは石人の国々が僕に与えた指示でもある。どの国も、人間がこの地に入ってこようとしているのは知っているけど、何を探しに来たのかは知らない。適当な魔法の宝が見つかれば、帰ってくれるだろうと思っているのかもしれない。少なくとも魔法の宝があれば、魔術を使って敵と有利に戦えるようになるだろう」
「ちゃんとした魔法の宝じゃないと駄目なんだよ。適当な魔法の宝じゃ駄目なんだ」
 キゲイは溜息をつき、うなだれる。そこでふと彼は思い出した。
「そういえば……ディクレス様は、『希望でなく奇跡を探しに石人の世界に行く』って話してたって、里長が言ってた。えーと、予言者様が、『サイコロの目を当てて見せる』って言ってたみたい。ん、ちょっと違ったっけ」
「奇跡。奇跡か……」
「そうだ! 『石人の地に光あり。英雄が現る』って言ってたんだ!」
「英雄?」
 ブレイヤールは少し驚いた顔をして、居ずまいをただす。
「それは初耳だな。それにしても、光? 英雄って、誰?」
「さあ……。そこまでは聞いてないです」
「予言者様ねぇ」
 ブレイヤールは右腕をさすりながら、視線を宙にさまよわせる。彼の頭には、その予言が本物なのかどうか、といった疑いが浮かんでいた。もし本物であれば、その予言は石人にも関係するのではないだろうか。
 彼の視線はしばらくして、蝋の満たされた木枠へ移った。
「もう冷めてるかな。魔法をかけておいたんだけど」
 キゲイはブレイヤールに言われたように慎重に木枠をはずし、銀の鏡をはがして蝋のかたまりを渡す。
「思ったよりきれいにいったね。それじゃ、これを紙に写すか……」
「あのぅ、この鏡、どうしたらいいんですか?」
 キゲイは鏡の処理に心底困っていた。アークラントのことでも頭が一杯なのに、これ以上妙なものを抱えていたくない。そんなキゲイの心中に対し、ブレイヤールの返事はあっさりしすぎていた。
「そのまま持っていて」
「ええっ!」
「近いうちに仲間の所に帰るんだし、そのときに自称レイゼルトともまた会うだろう。なぜ彼がこんなものを君に預けたのは謎だけど、君がそれを持ってないと、まずいだろ。いっそ当人に返してしまってもいいよ」
「ううっ」
 キゲイは顔をゆがめる。そうだ。皆の所に帰るということは、レイゼルトのいる陣営に戻るということなのだ。うれしい反面、なんだかひどく気が進まない。
「でも、それ以外の人には見せちゃいけない。ディクレス様にもだ。それだけは約束して」
「はい……」
 妙な鏡ともうしばらくの付き合いになることが分かり、キゲイは情けない顔つきで仕方なく返事する。ブレイヤールはそんなキゲイを置いて、腰をさすりながら食堂から出て行った。

——奇跡を探しにくるなんて、魔法の宝探しよりひどい。まるでおとぎ話じゃないか。
 白王は胸の内でつぶやく。アークラントの行動は、まったくもって無謀で無益な、断末魔のあがきにしか見えなかった。現実的な思考から完全に逸脱している。それでもアークラントの人々は、ディクレスを勇気と知恵に恵まれた人物として慕っていた。そんな人が、こんな非常識な行動を起こすだろうか。予言者の言葉は、それほどまでに力あるものだったのだろうか。
——皮肉なものだな。ディクレス殿は光と英雄を求めて、この地にやって来た。味方として、石人にとっては闇であり、非英雄のレイゼルトを騙る者を連れて。
「アークラント。かつて英雄が建てた国。彼らは再び英雄を必要としているのか……」
 白王は中庭を見渡し、今年は春が遅れていることを思う。それから城の奥へと足早に消えていった。

五章 交錯

 翌日の早朝。ブレイヤールは起き抜けに、暖炉の脇に開いている石壁の小さな穴の中を手で探る。指先に、城の芯である構造石がひんやりと当たる。外気の冷たさが構造石まで染み入っているのだ。石に手の平をつけ集中する。しばらくして彼は壁の穴から手を出し、暖炉の火にかざした。
「さあ来たぞ……」
——他国の偵察達は、気づいたかな。アークラントもいい隠れ場所を見つけたもんだよ。城の外だけど、城壁よりは内側か。これじゃ、こっちも動向が掴みにくいなぁ。レイゼルトの助言もあったんだろうな。
 遠くから雷のような音が響く。彼は部屋に開いた小さな窓から外に目をやって、ちょっと眉をひそめただけだった。また城のどこかが崩れたのだろう。彼は室内へと視線を移す。部屋の書き物机の上に、一枚の薄紙がある。それは蝋の鋳型から写し取った、あの銀の鏡の絵だった。
——あの鏡は、持っていた奴に返すのが一番だ。あいつほどの魔力を持つなら、鏡に隠された魔法を知っているはず。それにしても何者だ。どこであれを手に入れたか、聞き出せればいいんだけど。
 彼は薄紙を持ち上げ、朝日でよくよく確認する。彫刻は繊細で入り組んでおり、綺麗に書き写すのは苦労した。鋳型の蝋はすでに昨晩、溶かして無きものとしている。銀の鏡の存在は、まだ他の石人にばれてはならない。
「何の魔法が封じられているのやら……」
 興味が無いといえば嘘になる。しかし下手な好奇心は身を滅ぼす元だ。彼は魔法使いとして、本能的に鏡の存在を忌んでいた。この感覚は、大切にしたほうがいいだろう。彼は薄紙を油紙とともにそっと丸め、木製の丸筒に収める。
 彼は黄緑の城へ行く必要があった。必要な資料が白城の図書館では手に入らないからだ。ここは五百年前から放置されっぱなしの場所になっていた。書棚に並ぶ本は虫や小さな妖精らに食い荒らされ、まともに読める物も少なくなっている。
——トエトリアにこの写しを渡して調査を頼めば、国中の識者を集めてあっという間に、あれが何かを突き止めてくれるだろうけど。……最後の手段にすべきだな。まずは自分で調べてみたほうがいい。もし禁呪だったら、たいへんなことになる。
 ブレイヤールは神殿騎士達の厳しい立ち姿を思い浮かべ、首をさする。
「さて、今日はまず、キゲイを仲間の元に返してあげなきゃな……」
 彼は織り機のタペストリーに目をやる。描いた森の姿はだいぶ薄くなっていた。境の森にかけた幻術も、太陽の光にほどけかけている。

 キゲイは、はやる気持ちを抑えながら朝食に手をつけた。皆の所に帰れるのだ。それでも昨日のレイゼルトの一件があったから、手放しに喜ぶわけにもいかなかったが。
 朝食は、丸い形の米パンとスープだった。パンはそのまま武器になりそうなくらい硬かった。隣の席のおじいさんが畑仕事に節くれた強そうな指で、パンを細かく千切ってくれた。スープは色あせた緑色に濁り、ベーコンの切れっぱしと乳白色のチーズの小さな塊が、油の粒と一緒に浮いている。木さじを突っ込んですくうと、さじの端に緑色のひらひらしたものが、べろんと垂れ下がってついてきた。何かの葉っぱの成れの果てらしい。昨日の夕食といい、石人料理はどうも穀物や野菜を完膚なきまで煮潰す傾向にあるようだ。
 キゲイは周りの石人達を真似て、固すぎるパンをスープにつけてふやかす。スープの味はベーコンの出汁のおかげか、すこぶるよかった。特にチーズは片栗粉の膜に覆われ、つるりとした舌触りが心地よい。淡白な味はベーコンの脂身とよく合った。昨日の夕食より断然おいしい。
 ブレイヤールはというと、硬いパンを金づちで粉砕し、椀の中へ放り込んでいる。右頬の傷はまだ乾いておらず、右腕の打ち身も青黒くなっていた。見ているだけで痛々しい。頬の腫れが比較的ましなのは、塗り薬のおかげなのだろう。右腕も痛むらしいので、主に左手で食事をしていた。どうやら彼の椀の中身は、昨日の灰色の粥をミルクでのばしたものらしい。王子たるものに、昨日の残り物を食べさせていいんだろうか。キゲイは疑問に思ったが、黙っていることにした。
 食事がすむと、ブレイヤールはキゲイを呼び寄せる。いよいよ仲間の元へ帰るのだ。
「今朝もたいしたものが食べられなかったな。冬の蓄えがつきかけてるから。黄緑の城に行けば、もっと美味しいものが食べられたんだけど」
 道々、ブレイヤールは言い訳がましく呟いた。王女を助けたキゲイを十分もてなしてやれなかったことが、気がかりのようだ。もっとも、キゲイはそんなこと気にもしていなかった。あの老婦人は優しくて、キゲイの服を洗濯してくれたばかりか、ほつれた所も繕ってくれた。他の石人の老人達もそれぞれに皆親切だった。
 ブレイヤールは城の複雑な廊下を早足に進んでいく。分かれ道で時々方向を確かめるような仕草をしたものの、それ以外はほとんど迷うことはなかった。キゲイは、この巨大な城の構造を把握しているらしいブレイヤールに驚く一方、自分でも周りの様子を記憶におさめるよう努力した。石人達のいる場所を、覚えておくためだ。皆の所へ戻っても、また傭兵達に嫌がらせをされるかもしれない。そのときの逃げ場が欲しかったのだ。
「あのさ、キゲイ」
 ブレイヤールが再び口を開く。二人は、円形の広間へちょうど入るところだった。
「アークラントの他の人にばれないよう、地読み士の皆のところへ、こっそり帰らないといけない。君が戻ってこれた適当な言い訳は、向こうに着くまでに僕が考えとくよ。だから皆の所へ帰っても、僕達のことは誰にも話さないでおいて」
「え、あ、はい」
 キゲイは上の空で返事する。彼は、周りの風変わりな様子に、心を奪われていた。
 ここの広間はどうやら塔の底らしく、壁に沿って螺旋階段がぐるぐると、はるか頭上へ伸びている。遠い天窓から朝日が暗い塔内に滲みこんでいるが、二人のいる最下層までは届いていなかった。壁には窓らしき開口部は一切なく、代わりに所々、透明な石材が丸い小窓のようにはめこまれた部分がある。小窓の幾つかは真っ暗で、幾つかは光を通して明るく浮き上がり、塔内を淡く照らしだしていた。二人は螺旋階段を上がり始める。
「それから例の鏡のことだけど。僕も近々、詳しく調べてみるつもりだ。もし何か分かったら、こちらからまた会いに行くかもしれない」
「えっ? でもその前に、レイゼルトが返せって言ってくるかも……」
「その時は返してくれて構わない。鏡のその後の行方が知りたいだけなんだ」
「うん。分かった」
 キゲイは、明るく光る小窓を覗こうと背伸びする。小窓の向こうは、白い光と塔の厚い外壁が、おぼろげに見えるだけだった。それにしてもこの小窓、何でできているのだろうか。水晶にしては大きくてぶ厚いし、表面も綺麗にならされている。ほぼ無色で、混じり気もほとんどない。
 先を登っていたブレイヤールが振り返った。
「明るい石は、採光のために外に通じているんだ。暗い石の向こうは城内に開いているけど、往時には石の向こう側に明かりを灯していたんだ。同じ施設が黄緑の城にもあって、夜も昼もそれぞれきれいだよ。さ、急ごう」
 キゲイは慌てて後を追った。二人は螺旋階段を三階分登ったところで、開きっぱなしの石扉から外へと出た。再び果てのない回廊が始まった。回廊は庭に面している。どうやら地面の高低差のために、この辺りではここが一階らしい。庭を囲う崩れかけの塀の向こうに、荒野の起伏が連なって見える。
 回廊から城内へと通じる廊下へ折れる。薄暗く埃っぽい城内通路をいくらか行くと、前方から明かりが差し込んでくる。通路の先は、大きく外へ開けた大回廊となっていた。連なる円柱は中に入るための入口が設けられており、塔も兼ねている。それくらい巨大で、背の高いものだった。
 ブレイヤールは大回廊へ入ると、手近の柱の影へキゲイを連れて行く。そして、明るい外を指先で示した。そこにはせり出した荒野の崖と古い城壁に隠れるようにして、幾つかのテントが張ってある。紛れもなく地読み士達のテントだ。丸屋根のそれらには、泥染めによる独特の印が、そこかしこについている。あれは地読みの里に古くから伝わる姿隠しのまじない文字……のはずだ。少なくともブレイヤールには何の効果もないことが、これで分かった。
「君の仲間達だね。間違いない?」
 こんなに簡単に見つかってよいものかと、今後を不安に感じつつ、キゲイはうなずいた。ブレイヤールはキゲイに、でっち上げの言い訳を教える。その後に彼はちょっと困った顔をして、キゲイの服を繕っていた糸を、小刀で切ってほどいてしまった。石人に出会った痕跡は、消しておかなければいけなかったのだ。
「向こうの方に見張りがいる。僕が魔法で目を眩ますから、その間に走って地読みのテントに飛び込むんだ。いいね。何も考えず走るんだよ」
 キゲイはテントまでの距離を測る。回廊を出てからテントまでは、特に姿をさえぎる物もなく無防備だ。果たしてうまくいくのだろうか。
「さあ、行け!」
 キゲイの決心がつかないまま、ブレイヤールが突然彼の背を突いた。柱の向こうに押し出されたキゲイは、慌てて走り出す。
 ブレイヤールに礼を言う暇もなかった。心にはためらいも恐怖もあった。奇妙なことに回廊を横切る彼の足音は、いっさい耳に入ってこない。息遣いも、頭の中だけで響く。でも、そんなことを不思議に思う余裕は一切なかった。目は一番立派なテントに釘付けで、もうひたすらに必死だった。
 そして回廊を出た砂地で、滑って転んだ。
 キゲイは反射的に、向こうの見張りに目をやる。目頭を押さえて頭を振っていた見張りが、体のバランスを崩して倒れるのが見えた。ブレイヤールが、強力な立ち眩みの魔法をかけ直したのかもしれない。キゲイは立ち上がりつつ、再び走り出す。あるいは走り出しながら立ち上がる。無我夢中でテントの中へと飛び込んだ。
幸か不幸か 幸か不幸か、飛び込んだテントの中には人がいた。文字通り転がるように駆け込んできたキゲイの目に、つるりと禿げ上がった頭が映る。西の里長だ。キゲイは安堵の溜息を、思い切り吐き出した。
「誰じゃ、騒々しいの。ソウガか。んん、ちと背が低いのぅ? とすると、ジリンか」
 年を取って視力の弱い西の長が、キゲイへ顔を近づける。
「違うよ。東の里のキゲイだよ」
 西の里長は目を丸くした。
「生きとったんか! いやぁ、いやぁ……」
 西の里長はしばらく、感心するばかりになった。
 キゲイはテントの中を見渡す。テントの中央には折りたたみ式の机があり、上には地図らしきものが描かれた紙や布が、ごちゃごちゃと乗っていた。西の里長は仕事中だったようだ。
「あの、東の里長は?」
「里の者を連れて、城の探索中じゃ。お前さん、とにかく他のもんの目に触れたら、いかんわ。色々よくない噂がたっとってなぁ。石人にさらわれて、蛙にされたとか、魔法にたぶらかされて間者にされたとか。お前さん、本当に大丈夫じゃろな?」
 西の里長はよたよたと荷物の山へ歩み寄り、その中から朱と紺で彩色された木刀を取り出してきた。それは里境のご神木の枝から作られた、魔除けの刀だ。
「きえーい!」
 里長は振り返りざまに気合一閃、木刀の切っ先をキゲイの額に振り下ろす。予想だにしなかった行動に、キゲイはその場で凍りついた。木刀はキゲイの額の上で止まる。里長は神妙な顔つきで、木刀をキゲイの額にそっと降ろし、両肩にも触れさせる。キゲイがされるがまま大人しくしていると、里長は大きくうなずいた。
「なんにも、憑いとらん。大丈夫のようじゃな」
 満足げに木刀をしまう里長の背で、キゲイはなんともいえない気持ちで頬を掻いた。あの刀は悪い森の精が祟りついたときに、はらうための物だ。森の精に対しては威力抜群かもしれないが、石人の魔法相手だとどうだろう。キゲイはついさっき、テントの姿隠しのまじないが何の効果もないことを知ったばかりだ。
 それにしても本当に自分は、石人の魔法に操られていないんだろうか。キゲイはちょっと不安にもなる。ブレイヤールは親切だったけれども、人間と石人のこういう状況下では、完全に信用する、というわけにもいかないのかもしれない。
「このテントは、兵隊さん達も来たりするから、もっと安全なとこへ連れて行くわ。ほれ」
 里長は、立ち尽くすキゲイの頭にマントをかぶせる。キゲイは里長についてテントを出た。
 城壁の影には、兵士や傭兵や魔法使い達のテントも並んでいた。里長は兵士達のテントを横目に気にしつつ、地読み士達のテントの中でも一番大きいテントの前で立ち止まる。テントの側には、眠たそうな男の人が座っていた。西の里の人なので、キゲイには知らない人だった。
「ここに隠れとけな」
 西の里長は、テントの中へキゲイを押し込む。
「長、ここ荷物でもう一杯ですが」
 男が声をかけるが、キゲイは里長の手によって、荷物の隙間に無理やり押し込まれてしまった。
「ここなら安全じゃて。ジュラン、この子が他の者の目に触れんよう、気をつけてやってくれ」
「あの……。僕、ずっとここに隠れていなきゃ、いけないの?」
「当たり前じゃ。兵隊さん達に見つかったら、申し開きができんわい。それにしても、どうやってここまで逃げて来れたんじゃ?」
「ええっと」
 キゲイは嘘をつく居心地の悪さから、指を組んで視線を落とす。
「レイゼルトって人が、助けてくれたんです……。こっそりと」
「ほぅ? あの石人の男の子か。そうか、そうか。若いのに、気の利く子じゃなぁ。ほんに、ありがたいわい。わしらも後で、こっそりと礼を——」
「あ! その必要は……」
「何じゃ?」
「な、なんでも、ないです……」
「とにかく、大人しくしとれよ。東の長が帰ってきたら、すぐ知らせるからの」
 キゲイは溜息をついて、窮屈な隙間に腰を下ろす。テントの入口は閉じられ、周りは暗くなった。このまま旅が終わるまでずっと、荷物にまぎれて座っていることになるのだろうか。何はともあれ、こうしてキゲイは無事仲間の元へと帰ったのだった。
 ブレイヤールも、ほっとしたことだろう。キゲイが無事テントの中へ駆け込んだのを確認し、帰ろうと振り向きかけたその背中に、後ろから冷たい金属の杖が突きつけられたことは、キゲイには知るすべもなかった。

 昼過ぎ。ディクレスは石人の巨大すぎる城の中を、家来を従えて探索していた。いや、むしろ散策に近いものだったかもしれない。古びた城内は、崩落の危険にさえ気をつければ他の不安は無かった。この辺りはすでに、地読み士達と雇われ魔法使い達が調べた後だ。歩を進めるたびに、精緻で巧みな装飾が施された通路や広間が現れる。美しいものを見ながら警戒し続けるのは難しいものだ。無人の城が見せるあらゆる造詣に、人々は心を許しがちになっていた。
「この城に落ちる影は、みな青いのだな」
 予言者トゥリーバは、先王の言葉に「さようで」と、同意する。
「往時はさぞかし美しい城だったのでしょうなぁ」
 ディクレスについてきた側近達も唸った。
 廊下の壁には、かつては絵画か何かをはめ込んでいたらしい窪みがいくつも続いていた。窪みには、接着剤の跡らしき黒っぽい汚れが残っている。同様の汚れは柱にも見られ、全体として殺風景な印象はあった。それでもどこまでも続く廊下や高い天井、巨大な柱は見ごたえがある。
 人間世界にはこれほどまでに巨大な城は存在しないだろうし、これほどまでの装飾を施せるほど豊かな国もないだろう。田舎の小国から出てきた者達にとっては、まさにお伽の城だ。
 一同はやがて開けた場所へと出た。誰からともなく感嘆の声が上がる。
 そこは高い吹き抜けの大ホールだった。はるか頭上にある八方の窓から光が差し込み、埃に色あせながらもなおその神秘さをたたえる天井のモザイク画を浮き上がらせている。それは羽毛で覆われた羽を持つ、蝶のような鳥のような純白の幻獣の姿を描きだしていた。またディクレスの言ったとおり、光はホールの随所に青い影を投げかけている。その青さがどこから来るのかは分からない。純白の石が、空の青さに化粧をしているのかもしれなかった。
 滅びてからの長い無人の年月は、城に重くのしかかっていた。砂埃はあらゆる物を覆い、あらゆる歪みはヒビとして無尽に現れ、盗賊達は略奪と破壊を尽くしている。ここは紛れもなく廃墟だった。しかしあたりに満ちる静寂は、侘しさよりもいっそうの荘厳さを物語る。静寂の裏には、長い時を重ねた石人の歴史が潜んでいた。
「ディクレス様、あれを」
 側近の一人が、天井まで続く柱の上部を指差す。そこには柱を包む、朽ちかけた木造の透かし彫刻があった。もともとは柱全体に彫刻が貼り付けられていたのかもしれない。天井を、数匹の小鳥達が窓から窓へと飛び過ぎていく。
「ここは、どういった場所なのだろうか」
 ディクレスは青味を帯びたホールに見とれながら、ついて来ていたレイゼルトに問う。レイゼルトは目深にかぶったフードの下から、小鳥たちの飛び去った窓に鋭い視線を向けていたが、すぐにディクレスに向き直る。
「送りの間です。その中央の石台に死者を弔い、魂を星々に送る儀式をするのです。この間では静寂が重んじられます。みだりに立ち入ったり口をきいたりすれば、災いが降りかかると言われています」
 彼は大人しい様子で、静かに答える。しかし配慮を欠いた物言いに、側近達がレイゼルトを睨んだ。レイゼルトはそっぽを向く。質問に正しい答えを返して、何が悪いといった感じだ。レイゼルトの隣に立っていた彼の師を名乗る人間の老人が、持っていた長い杖の先でレイゼルトの頭を叩いた。レイゼルトは老人を横目に見上げ、ディクレスは一人苦笑した。
「異種族の神聖な場所を汚す前に、立ち去るとよいでしょう」
 そう言ってトゥリーバも眉をひそめ、レイゼルトに射るような視線を向けた。
 一同はもと来た道を帰り始める。
「ところでトゥリーバ殿。最近の夢見はいかがですかな」
 道中側近の一人が、少し小馬鹿にした様子で年若い予言者に問いかける。
「申し訳ありませぬが、夢見は変わりませぬ」
 トゥリーバは真面目くさって答える。
「光の中の人物……、英雄。ただ、この石人の地に入ってから、その者との距離が縮まったように思われます」
 レイゼルトはトゥリーバの表情を盗み見る。瞳にかすかな戸惑いの色を読んだが、トゥリーバが気がついてこちらを見たので、彼は目を逸らした。
 トゥリーバは話題を変えた。
「ところで昨晩も申し上げましたとおり、夜になってこの城に立ち入るのは危険です。石人の世界は魔法の力が強く、我々人間にはただでさえ危険な場所です。ことに古い遺跡ともなると、魔法の力に加え、過去の亡霊すらたち現れるやも知れませぬ」
「我々は、幽霊なぞ恐れている場合ではないぞ」
 側近の一人が鼻で笑った。レイゼルトはそんな彼を戒めるかのように、再び口を開いた。
「城主の許しなく入った者は、城に滅ぼされます。この城は城主を失い滅んでいる。それでも、城は眠っても死んでもおりません。ただ沈黙しているだけ。我々をしかと見ています。それだけは、お忘れなきよう」
「しつこいぞ! 幽霊の話は、魔術師同士か子ども同士でするんだな。大体お前は『森に幻術をかけた者を探してくる』などと言って、結局何の成果も持たずノコノコ帰ってきただけではないか」
「ああ……、まことに申し訳ありません。これ、レイゼルト! もうお前は、質問されるまで口をきいてはならんぞ」
 とうとうレイゼルトの師が、側近達に頭を下げた。
「老魔術師よ、その子どもは厳しく躾けねばならんぞ! 魔法の才能があるかは知らんが、それを鼻にかけて尊大な態度をとるというのは——」
「彼は幾つかね」
 側近達の言葉をさえぎって、ディクレスの物静かな口調が聞こえた。側近達は見事なくらい瞬時に口を閉じてしまう。レイゼルトの師はうやうやしく答える。
「石人は、年を追うごとにゆっくりと老いていきます。この子は、人間で言えば十四、五才といったところでしょうか。実際には二十七、八年は生きています」
「そうか。私の若い頃の様子にそっくりだ。私が二十七、八の時のな。よくよく城臣達を困らせたものだ」
 ディクレスが城のさらに奥へ通じる廊下へ曲がったので、レイゼルトと彼の師は「一足先にテントへ戻ります」と告げ、一行と別れた。
風の庭園 二人は白い柱の林立する庭園の道を進む。それぞれの柱には細工がしてあるらしく、風が吹くたびに柱が様々な音程で歌った。レイゼルトの師はこれらの柱を不思議そうに眺め、手に触れて振動を確かめたりしていたが、やがて口を開いた。
「それにしても、あの側近連中は、愚か者ですな。人間界での考え方が通用する場所でないというのに。それすらにも気づけんとは」
「だからこそ、ディクレス様はあの者達を連れてきた。今のアークラント国内には、本当に有能な家臣しか残っていないはずだ」
 レイゼルトは笑みを含んだ声で答える。それは決して、師に対する口のきき方ではない。老人は怒るでもなく、柱を見上げながらほくそ笑んだ。
「彼らは無能と?」
「それ以下だろう。居てもらうと困る。敵国に下る機会を逃し、仕方なしに付き従っている。あるいは、ぎりぎりまで待つことで、とうとう石人の宝を手にする機会を得た悪賢い連中かもな。……トゥリーバはどうかな。人間にしては、なかなかよい魔法使いだ。予言が己の運命で曇って見えていなければ」
 老人は喉の奥で笑う。
「何であなた様はあの男をあんなに嫌うんですか。もうちょっと抑えてもよいと、不肖な弟子ながら、私めはそう思うのですが。おや?」
 レイゼルトが、庭園の半分を覆う深いいばらの茂みへ、左手をさっと突き出した。風もなく茂みが大きく揺れ、小さな影が驚いて飛び立つ。それは高く舞い上がり、寂しげな口笛の音を残すと館の向こうへと消えた。黒い尾羽と、灰色の翼を持つ小鳥だった。
「あれは、なんという鳥でしたかな。……年をとるといけませんな」
「エギン、この世界では、小さな獣相手でも油断できない」
 レイゼルトは風の中、暴れるマントの襟元を右腕の籠手で押さえた。
 二人は庭を通り抜けて城内へと入る。廊下の両側にはいくつもの部屋があり、扉のなくなった入口から室内が見て取れる。どの部屋も調度はなく、窓の近くは雨ざらしになって泥が堆積し、いつのものとも知れない枯葉が散らばっていた。閑散とした眺めだ。壁面のモザイク画は盗賊達によって荒らされ、余計にうらぶれた様子となっている。
「レイゼルトの名は石人にとって不吉この上ない」
 しばらく黙って歩いていたレイゼルトが、再び口を開く。
「七百年前は石人を滅ぼしかけた。今回はどうなる。別の名が不吉となるか。アークラントは人間と石人の境界を犯し、この世界に風穴を開けてしまった。しかし石人どもめ。人間ばかりに気をとられていると、痛い目を見るぞ」
 それはほとんど独り言だったため、エギンは答えなかった。
 廊下の先から、数人の傭兵達がどやどやと現れた。彼らも彼らなりに城の探索をしているようだった。金目の物を見つけようという下心があったのだろう。もっとも期待はあっさり裏切られ、苛ついているのがありありと見てとれる。
 レイゼルトは歩調を緩め、エギンの後ろについた。
「よおよお! 魔法使いさん達じゃないか。なんかめぼしい物は、ありましたかねぇ? こっちゃ、さっぱりだ」
「ネズミの糞すら、ありませんわな」
 エギンは相手に合わせて答える。傭兵達が廊下に広がり、二人の行く手をふさぐ。二人はやむなく立ち止まった。傭兵達はレイゼルトをじろじろと眺める。
「おい、じいさん。あんたの弟子は大丈夫か? 俺達を裏切ったりせんだろうな」
 エギンは朗らかな笑みを浮かべる。
「この子は、大空白平原に捨てられていた赤ん坊でした。わしが拾って育てたのです。本人は、自分が人間に生まれなかったのを残念に思っているくらいで」
「ほほう。そりゃ、いい子に育てたな。大空白平原にはなんでもあると聞くが、石人の赤ん坊も落っこちてるのかい。俺達も平原の方が稼げるかもしれんなぁ……」
 傭兵達は太い指で髭をごりごりこすりながら、レイゼルトから視線をはずさない。タバッサでの一件があるから、仕返ししたくてたまらないのだ。エギンは咳払いをして長い杖を床にトンと突き、レイゼルトの腕を引っ張って、傭兵達の間をすり抜ける。傭兵達もそれ以上に絡んではこなかった。やはり魔法の怖さは、身に染みていたらしい。
「魔物にでも食われて、くたばるといい」
 傭兵達の姿が見えなくなったところで、レイゼルトが押し殺した悪態をつく。
「幻術で魔物を見せて脅してやろうか。さぞかし見物になるだろう!」
 エギンはそれを聞いて、短い息をついた。
「師匠。老人になった私めから言わせていただきますと、子どもはいつまで経っても、子どものままですわい。たとえ不老不死で、何百年と生きていようと」
 レイゼルトはそれを聞いて、口元をゆがめる。
「私ぐらいの年で不老になったら、それこそ地獄だ。見識は十分なはずなのに、心がそれを認めない」
「老いてしか悟ることの出来ないものもありますからな。しかしその年でも、自重は十二分に出来なさるでしょう」
 レイゼルトは耳を塞ぐ仕草をし、エギンは肩で笑う。
「それで、行動はいつ起こされます。もうお発ちに?」
 エギンは真顔になり、声を潜める。
「もう少し様子を見てから。この城を探索して、適当な隠し場所をみつくろっておきたい」
「私は適当なところで、平原へ戻らせていただきますよ。できるだけ怪しまれず、あなたをアークラントの者達に雇わせるという目的は、達しましたから」
「そうか。どの町で待つ」
「平原の東にあるカナリーという町で。あそこで、のんびり逗留させていただきます。さて、では、お先に失礼を」
 二人は別れ、別々の方向へ去った。どちらも自分の行く先に迷いはなく、振り返りもしなかった。

 荒縄の束と、木タールが塗布された木箱の狭間は、居心地のよいものではない。縄はごつごつとして痛いし、木箱は木タール独特の焦げ臭い匂いがする。キゲイは、相変わらず地読み士達の荷物テントの中だった。
 夕暮れ時に、東の里長が血相を変えてやって来た。彼女はキゲイの無事を喜んだものの、やはり、彼の存在はアークラントの兵士や傭兵達から隠しておきたいようだった。さらに彼女は、昼遅くに城内で手付かずの宝物庫が発見されたことを、興奮気味に話した。
「なかなか、込み入った場所にあった宝物庫だったわ。運び出しは明日だけど、こりゃ期待大だね。あの中に、国を救ってくれるような魔法の宝があれば、一歩前進よ。予言に言われている英雄って、案外ディクレス様ご自身のことじゃないのかしらね。国を留守にして、怖い石人の世界に足を踏み入れるなんて、ご英断をされたんだもの」
 キゲイは里長の言葉を、なんとも言えない気持ちで聞いた。あの宝物庫の中には、アークラントが真に望んでいるようなものはないのだ。それが分かったときには、皆さぞがっかりすることだろう。彼女は忙しげに去っていき、キゲイは再び一人取り残される。
スープ 夕食時には、テントの中にいても、周りの人々の興奮した活気ある沈黙を感じ取ることができるくらいだった。日が暮れて冷え込みがきつくなると、荷物見張りの男が熱くした石をいくつかよこしてくれる。キゲイは石を布にくるんで胸に抱き、熱くてぴりぴりするスープをすすって、じっと寒さに耐えた。
 今では、辺りはすっかり静かになっていた。人々の多くが眠りについたようだった。キゲイも毛布をもらってうとうとしていたが、寒さで熟睡ができない。そのうちに、おしっこまでしたくなった。いくらずっと隠れていなければならなくても、こればかりは無理な話だ。外の見張りに声をかける。
「漏れそうです……!」
 見張りは飛び上がった。
「そこではするなよ! こう暗くなれば、顔も見えんから大丈夫だろう。向こうの城壁の隅でしてこい。あとはちゃんと隠すんだぞ」
 キゲイは渡されたスコップを手に、小走りにテントの群れから離れた。城壁の影に穴を掘り、用を足す。穴を埋めて砂で手を洗うと、ほっと一息ついた。
 振り返って城を見上げる。城内はひっそりと静まり返り、星を浮かべる夜空と同じくらいの深い闇に満たされている。何もない闇を見つめていると、その中で瞬く小さなものがある。キゲイは目をこすった。瞬くものは見えなくなったが、不意に背筋に悪寒が走り、反射的に胸に手を当てた。手の下には、懐に収めた石人達の品がある。
 ひとつは、黄緑の王女様にもらったお守り。これがあれば、悪い妖精は怖くないはずだ。ひとつは、彼女を傭兵達から助けたときにもらった硬貨。そして、最後のひとつはレイゼルトの銀の鏡。
——もしかしたら宝物庫の宝より、僕が持ってるものの方が、ずっとずっと価値があるのかも。
 冷たい風が出てきたため、キゲイはテントへ帰ろうと小走りに駆ける。ところがその足はすぐに止まった。城の奥、いくつも連なる柱の影に、ひとつの人影らしきものが動くのが見えたのだ。胸が高鳴った。もしかしたら、ブレイヤールではないのだろうか。他の人に気づかれる可能性もあるから、声を上げるわけにはいかない。キゲイは城壁の影に身を沈ませて、そっと追い始めた。
 月の淡い輝きが、暗い柱廊へ斜めに差し込んでいる。人影は、月の光と柱の作る影の狭間を、音も無く滑るように進む。キゲイはできうる限り足を速めた。それでも徐々に、人影は先へ先へと小さくなっていく。最後に人影がひと揺らぎして、柱の影に入る。キゲイは一瞬駆け出し、それから立ち止まって柱廊の奥をうかがう。闇の中で何かが動く気配は、ここからでは良く分からない。キゲイは息を整え、思い切って城の方へと歩みだした。
「よせ。行くな」
 背後からの声が、キゲイの足を止めた。キゲイは息を呑んだ悲鳴を上げ、振り返ると同時に腰を抜かしてしまう。崩れかけた城壁の上を、レイゼルトが歩いていたのだ。レイゼルトは城壁に腰を下ろし、そのまま崩れ落ちた石の塊を次々と、無駄の無い動作で飛び降りる。そして、キゲイの側まで詰め寄ってきた。
「この世界で得体の知れないものについて行くのは、命取りだぞ。いったい、あれを誰だと思った」
「だ……、誰なのさ……」
 キゲイは相手に圧倒されたまま、どうにか問い返す。レイゼルトの顔にはたいした表情は浮かんでいなかったが、全身の様子から、どこか緊張と警戒を秘めているように感じられたのだ。レイゼルトは城の方へ顔を向ける。月明かりに浮かんだ彼の横顔は、一瞬厳しさを帯びた。
「石人の亡霊みたいなものだ。あれは目が悪いから、大きな魔法しか見ることができない」
 レイゼルトはぱっとキゲイに向き直る。
「お前に渡した、その銀の鏡に引き寄せられて来たんだ。いざ近づいてみて、鏡の持ち主が私ではないことに気づき、立ち去ったんだろう」
 レイゼルトの口からするすると出てきた一言一言に、キゲイは混乱する。どの言葉も、何かとんでもないことを暴露している気がした。いくつもの疑問と戸惑いが形を成さないまま、キゲイの頭の中で激しく渦を巻く。ところが次の瞬間、それらの全ては一色の怒りに変わった。
「誰なんだよ! お前は! 名前だって、嘘ついてるくせに! それに、この鏡だって!」
 目の前の人物が、ブレイヤールを殺しかけたことを思い出したのだ。キゲイはよろめきながらも、立ち上がる。
「嘘か。私の名の由来を聞いたのか?」
 レイゼルトは横にちらりと目を逸らし、投げやりな動作で、右腕の籠手のベルトを緩めて取り外す。そしてキゲイの方へ、右腕を差し出した。その腕は手首から先がない。口をへの字に曲げてそれを見つめるキゲイに、レイゼルトは呟いた。
「『レイゼルト』には右手がない。私が名乗った名前とこの腕が、果たして何の証拠になる? 『レイゼルト』じゃなくたって、こんな怪我は珍しくもない」
 レイゼルトは再び籠手をはめ、ベルトを締める。
「それよりも、その銀の鏡は間違いなく禁呪だと言ってみせようか」
 キゲイはさっと胸に手を当て、それから懐から鏡を取り出した。
「人間の味方なら、なんで先にこれをディクレス様に渡さないんだよ! 魔法の宝なんだろ? 人間の味方をするって、言ってたじゃないか! これがあれば、アークラントは滅びなくてすむんだろっ」
「私は今それに触れられない。さっきの化け物に気付かれる。お前がディクレス様にそれを渡したいなら、今しかチャンスがないぞ。渡したいなら渡すがいい。それも運命だ」
 澄まして答えたレイゼルトに、ますますキゲイはむかっ腹が立ってきた。
「本当に僕らの味方なのかっ! アークラントを助ける気、あるのかよ!」
「アークラント先住民ごときが、『国を助ける気』だって?」
 思いがけないレイゼルトの切り返しに、キゲイは目を点にする。彼の怒りはなぜか、冷や水を浴びせられたかのように、一瞬にしてすぼってしまった。レイゼルトの言っている意味が、よく分からなかった。
「な、なんだよ。そっちだって、石人のくせに……」
 レイゼルトの瞳は、鋭さを帯びてキゲイに向けられていた。そこにあるのは怒りではない。その眼差しを、キゲイはよく見知っていた。アークラントの老兵士、タバッサで天幕の前にいた少年達、ひいてはアークラント人全てに共通する、ディクレス様への真摯な忠誠の表情だ。それに気がついたキゲイは、目の前の人物をどう解釈すればいいのか、完全に分からなくなってしまった。なぜ石人である彼が、そんな言葉を口にするのだろうか。なぜ石人である彼が、アークラント人と同じような眼差しを持てるのだろうか。
 石人だの人間だの、ディクレス様だのブレイヤールだの、敵だの味方だの、もうめちゃくちゃだ。何を信じて、何を疑って、何をすべきなのか、ひとつとして分からない。キゲイはただただ負けたくなくて、レイゼルトを睨み返すだけになってしまった。
「人が来るな……」
 レイゼルトが不意に視線を逸らし、キゲイはそのおかげで我にかえる。しかしすぐさまレイゼルトに首根っこをつかまれ、状況の分からないまま、城壁の下の崩れ落ちた石材の影に引っ張り込まれてしまった。レイゼルトも隣に隠れて、短い言葉とともに開いた左手を宙で握りこむ。辺りの影が、より濃くなったような気がした。
「鏡を覗いてみろ」
 キゲイは言われたとおり鏡を覗き込む。レイゼルトが横から手をかざすと、鏡にくっきりと一つの像が染み出してきた。キゲイは石材の影から城の方をうかがい、再び鏡に視線を戻す。鏡はすぐそこの柱廊を映し出していた。そしていつの間にかそこに現れていた、いくつもの人影も。レイゼルトが再び左手を上げ、何かを巻き取る仕草をする。風に乗って、大人の話し声がキゲイの耳に届いてきた。
「おい、誰もいないよな? よな?」
「大丈夫だ。ここまで来れば」
「しかしまぁ、こんな夜中に城に忍び込もうなんざ、よくやるよなぁ。トゥ……なんたらは、夜に入るとやべぇって、言ってたろ?」
「ふん。魔術師なんぞ、子ども以上に愚かで意気地無しだわ」
 鏡に映し出される柱の狭間から、独特の形の鎧を身につけた汚らしい男達が姿を現した。傭兵だ。後からやや身なりのいい男達が続く。傭兵達は皆、背中に重たそうな麻袋を背負っていた。
「それにしても、本当になんか出そうだったぜ」
「ひゅーぅ。こんな所でとり殺されちゃぁ、浮かばれないぜ。なぁ?」
「俺達だって、お頭にばれてみろ。ミンチにされるか、三枚に下ろされるかの、どっちかだぞ」
「違うな。下ろされてミンチだよ」
「タバッサの方へ抜けるんですかい?」
「そこで馬車を借りて、カナリーの町ヘ向かう。そこからさらに北へ向かい、平原を出る。アークラントでの先の見えた小競り合いなどとは、永遠にお別れだ」
「これだけありゃあ、いい暮らしができまさぁ。でも旦那方は、髪は少ないが知識は豊富なその頭で、この金を何倍にも増やせるんでがしょう? 分け前は頼みますぜ」
「もちろんだ。馬の用意はできているだろうな?」
「向こうで仲間が待ってるはずでさぁ」
 たくさんの人影は鏡から見えなくなる。会話はこの後もぽつぽつと続き、やがてそれも遠くなった。レイゼルトは鏡の像を消し、立ち上がる。
「こいつら……」
 キゲイは呆れと怒りで、二の句がつけない。鏡をぎゅっと握りこんだ。
「アークラントの行く末は暗い。灯りがいるな。予言者はそれが石人世界にあるというが」
 キゲイは顔を上げる。レイゼルトは皮肉な笑みを浮かべて、裏切り者達が立ち去った方向を眺めていた。
「連中のことはすぐにばれるから、お前は気にせず戻っていいぞ」
 レイゼルトは偉そうに言いながら、城壁を這い登る。キゲイは慌てて立ち上がった。
「宝を取り返しに行くの?」
「その必要はない。それよりお前、早く戻った方がいいんじゃないのか? 仲間が心配する」
「待ってよ。それじゃあ、どこに行く気なんだよ! それにこの鏡、お前のだろ! いらないのかよ!」
「私はその鏡を時の水面みなもに投げ入れた。鏡の描く波紋がどこに行きつくか、もう少し見させてくれ。それは七百年前も見事に動いてくれた。魔法の品は無意味には動かないものだ」
「ど、どういう意味だよ! わけ分かんないってばっ……!」
「分からないように言ったんだ」
 それ以上の答えが返ってくる気配はなく、レイゼルトの姿は城壁の向こうへと消えた。キゲイは迷ったものの、追いかけて行くわけにもいかない。暫く城壁の下でうろうろしていたが、結局、地読みのテントへ戻るしかなかった。その足取りは重い。再び懐の中に隠した鏡の存在が、あまりに重かった。

六章 二人の王

 鏡を隠した懐に手を当てながら、キゲイは皆の所へとぼとぼと歩いていく。頭の中は鏡のことで一杯だった。
 ブレイヤールは、この鏡を誰にも見せるなと言った。ディクレス様にさえも。鏡には、強力な魔法の呪文が封印されているからだ。けれども。
——この魔法があったら、アークラントは助かるかもしれないのに。
 アークラントを救うには、禁呪以上のものが必要だと、ブレイヤールは言っていた。でもそれはあくまで、彼自身の想像でしかないのではないか。彼がディクレス様のことを、いったいどれだけ知っているというのだろうか。アークラントのことを、どれだけ知っているというのだろうか。
 大人達は口を揃えて言っていた。ディクレス様は、あらゆる知恵と勇気で困難な状況を乗り切り、アークラントをここまで守り抜いてきたと。あの方がいなければ、もっと早くに国は滅びていただろうと。
 そんなディクレス様なら、この鏡を正しく使う方法を、思いつくかもしれないのだ。決して、悪いようにはしないだろう。鏡の持ち主であるレイゼルトはいとも簡単に言ったではないか。渡したいなら渡せ、と。
 考えれば考えるほど、鏡をディクレス様に見せるのは良いことだと思えてくる。
 キゲイは立ち止まった。地読み士達のテントは、もうすぐそこだ。その向こうに、アークラント老兵や、傭兵、魔法使いのテントが並び、ディクレス様の大きな天幕がその真ん中ほどにある。場所の関係で、テントは密に隣り合っていた。間をうまい具合にぬって行けば、見張りの目をごまかしつつ、ディクレス様の天幕に潜り込めるかもしれない。
 ぎゅっと唇を噛み、両手を握りしめる。しばらくそうした後、城壁の影に身を沈めて靴を脱いだ。足音を殺すためだ。どっちにしろ、この方が走りやすい。里ではいつも裸足だった。
テント 靴を脱ぐと、いよいよ決心がついた。深く息を吸い、ぐっと息を止める。城壁沿いを小走りに駆け、とうとう地読み士達のテントをやり過ごしてしまった。あまりにあっけない。しかし本番はこれからだ。キゲイは身を低くして、老兵らのテントの群れへと立ち入る。
 兵士達のテントは、寝るためだけのもので高さがない。いくら子どものキゲイでも、身を隠すため、ほとんど四つん這いで進まなければならなかった。おまけにテントの中では人が寝ている。兵隊達はいびきをかかないのだろうか。嫌になるくらい静かだ。これでは少しだって音を立てられない。そんな中を進むのは、思った以上に勇気が必要だった。けれども使命感が心を奮い立たせてくれる。鏡をディクレス様に届ければ、アークラントが救われるかもしれないのだ。
 突然、すぐ隣のテントから、誰かの足が突き出して来て、キゲイの足首の上にドンと乗った。キゲイの心臓は、口から飛び出さんばかりに跳ね上がる。彼は息を呑み、その場でじっと固まった。あやうく悲鳴をあげるところだった。多分、寝相の悪い兵士なのだろう。下手に動かない方がいいと思った。顔から血の気が引いていくのが、自分でもよく分かる。こめかみの辺りが、痛いくらいに冷たくなった。
——ああ……。もうだめかも……。
 臆病風が吹き始める。こんなところで足止めを食うなんて。しかもかなり進んだと思ったはずなのに、ディクレス様のテントはまだ遠い。かと言って、引き返そうにもこれでは動けない。キゲイは地面にうずくまり、顔を伏せる。ここでずっと止まっていても、誰も助けに来てはくれない。なにより、見つかったらまず過ぎる。地読みの皆に大迷惑をかけてしまうのだ。キゲイは一か八かと目をつぶり、恐る恐る体を前へずらしていく。
 ところが事は、最悪の方向に動いてしまった。足が引っ込んだと思ったら、テントのすそが持ち上がり、暗闇の中から人の顔がにゅっと出てきた。相手はキゲイの姿を見て、寝ぼけ眼から驚いた表情になる。
「なんだなんだ。地読みの子どもじゃないか。転ばせてしまったか? 悪かったなぁ」
 キゲイは声も出せず、首を振ることしかできない。老兵の顔つきが、険しくなった。
「それにしても、こんな遅くにこんな所で、何をしてるんだ? お前達のテントは、向こうの方だろうが」
 テントの中から、もうひとつのしわがれ声が聞こえてきた。
「タバッサの待機組じゃなかったか? 地読みの子ども達は。なんでこんな所にいるんだぁ?」
 二つの顔がテントの中からこちらに向けられる。キゲイはすっかり動転し、立ち上がってしまった。そして二、三歩後ずさると、全速力で走り出す。いったんは地読み達のテントへ逃げかけたものの、すぐに気がついてディクレス様のテントへと、方向転換した。テントの老兵が異変を察知し、短い口笛を吹く。たちまち見張り達が行く手をふさぎ、キゲイはびくともしない力強い腕に捕まってしまった。
「ラダム老将軍の所へ」
「いや、まずはトゥリーバ様がいいだろう。怪しい奴だ。石人が魔法で化けてるかもしれん」
 無理やり引きずって連れて行かれそうになり、キゲイは両足を踏ん張る。
「違うんです! 僕、ディクレス様にどうしても会わなきゃ……!」
 キゲイの言葉は最後まで続かない。踏ん張った両足をもう一人の兵士に持ち上げられ、二人がかりで運ばれて行く。絶体絶命の窮地におちいり、キゲイはとうとう叫んだ。
「ディクレス様! おうさまぁっ! 助けて! 僕は正気ですっ! 化けてなんかいません!」
「ばかっ。大きな声出すなっ」
 別の兵士がキゲイの口を塞ぐ。キゲイはどうにか首を曲げて、ディクレス様の天幕を見た。もう絶対にたどり着けない。途中で挫けてしまわなかったら、行き着けていたかもしれなかった。涙で天幕がゆがむ。
 そのとき、奇跡が起こったように思えた。天幕の中から、鋭い動作で人影が現れたのだ。その人影は、片腕を上げた。それだけだった。それだけなのに、キゲイを抱えていた兵士達も口を塞いでいた兵士も、彼から手を離したのだ。天幕の前の人影は、挙げていた手の平を返し、そのまま中へと消える。兵士がキゲイの背中を押した。キゲイはほうけて、兵士の顔を見返す。兵士は渋い顔で言った。
「早く行け。お待たせするな。さぁ」
 追い立てられて、キゲイはへなへなと走り出す。あちこちのテントから、物珍しそうにキゲイを見る顔が覗いている。キゲイの邪魔をする者は、もういなかった。
 ディクレス様の天幕の脇に、予言者トゥリーバと老将軍ラダムが立っていて、やって来たキゲイを見た。トゥリーバの鋭い目つきと、傷跡だらけの筋肉の塊のようなラダムの姿に、キゲイはおどおどと足を止める。トゥリーバが幕ごしに声をかける。
「魔術のかかっている形跡は、認められませぬ。しかし……」
 彼はキゲイへ、苦りきった表情を向ける。
「念のため、あの石人の魔法使いに見立てさせた方が、良いかもしれません」
「ならば、呼び寄せよ」
 天幕の中から答えが返る。トゥリーバは命令を後ろの兵士に伝え、自分も足早に立ち去る。キゲイはラダムの方を見る。老将軍は、兵士の一人から耳打ちをされていた。将軍は報告を聞き終えると、天幕越しにこう言った。
「少々問題が起きました故、調べてまいります。しばしお待ちを」
 それから将軍は、去り際にキゲイへ目を剥いて、小さく怒鳴る。
「何をぼけっとしとるか。早く入れ!」
 キゲイは大慌てで垂れ幕をくぐり、中へと飛び込んだ。
 大きな天幕の中には、小さく輝くろうそくがあった。年季の入った折りたたみ机があり、毛のマントを羽織ったディクレスその人が、机に両手をついてこちらへ顔を向けている。
 キゲイは、緊張で震える。ぎこちなく頭を下げたが、慌てて両膝をついて、もう一度頭を下げなおした。キゲイの知っている中では、最上級のお辞儀の仕方だった。ディクレスは、うなずいた。
「こちらに来て、座りなさい。地読みの少年が石人にさらわれたと聞いたが、もしかして君がそうか?」
「その……」
告白 キゲイは向かい合わせになった椅子の端っこに、遠慮がちに腰掛ける。緊張のし過ぎで、ディクレスの言った言葉は、頭からすっぽり抜けてしまっていた。彼の心にあったのはただひとつ。震える手で、懐からあの銀の鏡を取り出したのだ。
「こ、これです……」
 差し出された鏡を、ディクレスは黙って受け取った。机の上のろうそくを引き寄せ、鏡を照らし出して裏表を丁寧に観察し始める。
 キゲイは小さく震えながら、その様子を見守った。ディクレス様をこんなに近くで見たのは、生まれて初めてだ。とにかく、大柄な人だった。年はもうずいぶんなはずなのに、白髪も目立たず張りのある肌をしている。額にも口元にも深いしわが刻まれ、老王にふさわしくいかめしい。逆に目じりのしわが、非常に親しみ深い印象を与えていた。側に居るだけで、安全で安心な、温かい気持ちが湧いてくる。ブレイヤールもトエトリアも王族だったが、ディクレス様とは段違いだ。足元にも及ばない。これほどの威厳を感じさせる人を、キゲイは他に知らなかった。
 どれくらいの時間がたったのか、きっとそうたいした時間ではなかったのだろうが、ディクレス様は落ち着いた優しい声で、キゲイに尋ねた。
「これは、なんなのだろうか。どこで見つけたのかね?」
「それは……」
 キゲイの心が、ちくりと痛んだ。ブレイヤールとの約束を破ることが、心苦しかったのだ。鏡のことを話すとなると、ブレイヤールのことも話さざるを得なくなる。しかしこれほどの大人物を前にして、自分の身にはるかに余る秘密を抱えたままではいられなかった。キゲイはつっかえつっかえ、話し始める。その話は支離滅裂で、時系列もめちゃくちゃだった。約束を破った後ろめたさから、声が震えて泣いてしまいそうにもなる。
 ディクレスはそんなキゲイの様子を見守り、うまい具合に質問を返す。そのおかげで、キゲイも少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 傭兵に追いかけられて、石人に助けてもらったこと。鏡はレイゼルトから渡されたこと。この白城にいる石人達に、かくまって貰ったこと。ブレイヤールのこと。銀の鏡に封じられているかもしれない、砂の禁呪のこと。そして何より石人達は、自分達がこの世界に侵入しているのを知っていること。
 これら全てを話し終えると、キゲイは今までの息苦しさがすっかり無くなったのに気がついた。そして最後の不安を抱えて、ディクレスの顔色をうかがう。ディクレスは何度もうなずいた。うなずきながら何度も、そうか、そうかと呟いた。
「全て承知した。すまなかった。私が不明なばかりに、ずいぶんつらい目にあわせてしまったな」
 ディクレスはそう言って、キゲイにゆっくりと頭を下げた。キゲイは驚いたものの、この言葉で最後まで心に引っかかっていたものも完全に取り払われ、安堵のあまりに涙をこぼした。それでもすぐに、鼻をすすって涙をこらえ、両目をぬぐう。泣き虫だなんて思われたくない。
 ディクレスは難しい表情で、鏡を見つめていた。もしかすればこれこそが、アークラントに必要なものかもしれなかったからだ。キゲイは疲れ切り、ぼんやりと先王の複雑な表情を見つめるだけだった。
 緊張の緩んだキゲイの耳に、外の物音が入ってきた。気のせいだろうか。何か騒がしい。いつからしていたのだろう。
裏切り者! 突然テントの垂れ幕を跳ね上げて、興奮した様子のトゥリーバとラダムが現れた。キゲイの驚いたことに、ディクレスは素早く手に持った鏡を机に伏せ、大きな手のひらをその上において鏡を隠した。何も知らずラダムは、怒りもあらわな口調で先王に告げる。
「傭兵と側近の一部が姿を消しております。馬も数頭ございません。しかも、傭兵どもが城に向かうのを見たと言う者がおりました。連中、もしや昼間見つけた宝を持ち逃げしたのかもしれませんぞ!」
 トゥリーバも、怒りに震える声で訴えた。
「あの石人の魔法使いとその師も、影も形もございませぬ。恐らく共犯かと存じます」
 それを聞いたキゲイは、何か言わなければと口を開いた。それでも、怒り狂う二人に圧倒されて、声が出てこない。
「すぐに人をやって、後を追わせまする!」
 ラダムがそう息巻くと、ディクレスは一言しか返さなかった。
「無用だ」
「な、なんですと!」
 キゲイの頭上を、ラダムの怒声が通り過ぎていく。キゲイは頭を伏せて、背を丸めた。
「裏切り者を、捨ておくというのですか! 宝を、せっかく見つけた石人の宝を、汚くも盗んだのですぞ!」
「彼らに先んじられてしまったな」
 ディクレスの物静かな応えに、長年彼に仕えてきた老将軍は、主の言わんとするところを察する。将軍は深い溜息を吐きながら、黙って天幕を後にする。トゥリーバも、それに倣って退出の礼をした。去りかける彼を、ディクレスが止める。
「トゥリーバ、少し待ってくれ。もう一度あの夢見の話を、聞かせてはくれんか」
 トゥリーバは下げていた顔を上げる。彼はキゲイの方へちらりと目をやったが、主が何も言わないのを見ると、上体を起こし、気の進まない様子で話し始めた。
「夢の中で、私は大草原の真ん中におりました。空は一面に薄明るく、辺りの景色も煙るような光に満ちておりました。光の霧は地平線の彼方から流れてきており、その霧の中にひとつの影がありました」
「その人影は、どのようなものか」
「光が強く、良くは見えませぬ。頭身から、大人かとは思われまするが……」
 トゥリーバは顔を曇らせる。
「それにいたしましても、石人の世界に入ってから、何度もこの夢を見るようになりました。その度ごとに、人影との距離が縮まったように思うのは事実です。そのうち私は、その人物の顔が見えるまでに、近づけるかもしれませぬ」
「そうか。引き止めてすまなかった」
「本当に、裏切り者達を追わぬのですか? 石人の魔法使いを見逃すのは、危険かと思われまするが」
「石人の世界で石人に危害を加えることほど、恐ろしい行為は無いようにも思える。手がかりを集めるだけに、とどめておいてはくれんか」
「承知いたしました」
 トゥリーバは礼をして退出する。再びテントの中は、キゲイと先王だけになった。
「ディクレス様。あの、僕さっき、レイゼルトに会ったんです!」
 キゲイは思い切って口を開く。先王ははじめて、少し驚いた顔を見せた。そしてキゲイに先を促す。キゲイは、レイゼルトが銀の鏡をディクレス様に見せてもいいと言ったこと、銀の鏡を受け取らずに、どこかへ去ったことを話した。しかし、彼がキゲイを先住民と言ったことは、話さなかった。宝を持ち去った傭兵達のことにも、触れなかった。どちらも、ディクレス様に話すのは、なんとなく気まずかった。
「レイゼルトは、その鏡は魔法の品だから、無意味には動かないとも言っていました。僕、よく意味が分からなかったんですけど……」
「そうか」
 ディクレスはしばらく鏡面を見つめた後、何も言わず銀の鏡をキゲイに渡した。
「あ……の……?」
 まったく予想もしなかった展開に、キゲイは頭がぼうっとなる。口を閉じるのも忘れて、目を丸くした。
「魔法の品は、私にも分からん。トゥリーバにでも聞けば、まだましかもしれんが。……たとえこの鏡が禁呪の書であったにしろ、私がこの石人の地に求めたのは、このようなものでは無いように思う」
 ディクレス様は立ち上がり、テントの中を歩き回り始めた。本当に背の高い人だ。考え事をしているようなので、キゲイは無言のままでいた。そして、自分の手に戻ってきてしまった銀の鏡を、信じられない気持ちで眺める。鏡には先王の手の温もりが残っていた。ディクレス様は、これを引き取ってはくれないのだろうか。これこそが、アークラントが石人世界で手に入れようとしていた物ではなかったのか。それとも自分は、役立たずの鏡を持って来ただけだったのだろうか。
「キゲイ」
 ディクレス様はようやく足を止める。
「その白王という人に、私を会わせてくれんか」
「え……」
 キゲイはぼんやりと顔を上げる。少し間を置いて、キゲイはディクレス様のとんでもない言葉に気がつき、目を見開いた。その間ディクレス様は、キゲイの反応を辛抱強く待ってくれていた。
「会う! い、いつですか?」
 ディクレス様がすばやく口元に指を立てて見せたので、キゲイははっとして自分の口を塞いだ。ディクレス様は声を潜めた。
「今からだ。今しか時間が無い」
「で、でも、この城はものすごく広くて。元に帰る道、はっきり覚えてるか自信が無いんです……」
 キゲイの声は、最後の方はほとんど消えかけていた。けれども彼も地読み士の端くれだ。大体どの辺りに石人達の住居があったかくらいは、分かる。それで仕方無く方角だけを告げると、先王はそれでも良いと返してきた。彼は、キゲイがこの天幕を目指していたのと同じくらい、必死だったのだ。夜に石人の城に入るのは危険だったが、それすらも構っていられなかったのだ。
「君はこの城の主に認められた人間だから、夜中に城に入っても大丈夫だろう。そして、ここから石人達の場所までの道を見たのは、君だけだ。おぼろげな記憶でも構わない。とにかく少しでも、彼らの場所に近づきたいのだ」
 英雄王の再来とまで呼ばれたこの人は、これほどまでに無謀な人だったのだろうか。キゲイは意外だった。しかしここまで言われれば、嫌とは断れない。それにキゲイ自身も、もう一度ブレイヤールに会いたかった。秘密の重みに耐え切れず、約束を破ってディクレス様に鏡を見せてしまったことを、知らせた方がいいと思ったのだ。
 キゲイは先王の後について、天幕から出た。
「この子を送りついでに、地読みのテントまで行ってくる」
 ディクレスは見張りの兵士にそう告げる。見張りの兵士はキゲイが脱ぎ捨てた靴を持っていた。ディクレスはキゲイが靴を履くのを待つと、いったんはテントの方へ行く振りをし、途中から城の方へじわりじわりと道を逸れ始める。見張り達は裏切り者の出現に、野営地の外よりも内の方へと注意が向いていた。ましてディクレスの行動を疑う者などいるはずもない。
 二人は誰にも知られることなく、今朝キゲイがブレイヤールと一緒に隠れていた、柱の連なりの影にすばやく駆け込んだ。ディクレスは、ほとんど持ち上げるように連れて走ってきたキゲイの手を、離して降ろす。
「頼む」
 キゲイはうなずいて、真っ暗な回廊の中、道を探し始めた。西の里長のテントの位置を確かめ、手探りでどうにか廊下の入口を探し当てる。それから用心しいしい、壁を伝って廊下の奥へと進んだ。やがて廊下はつき、星明りが見覚えのある庭を照らし出しているのが見えてきた。正しい廊下を選んだことが分かって、キゲイはほっとした。兵士達に見つかる心配がなくなったので、ディクレスは腰に下げていた小さな真鍮のランタンに、明かりを入れる。
 城の中は、自分達以外に音を立てるものはいなかった。ランタンが照らす光のすぐ外は闇だ。光の対としての影ではなく、闇そのものが満ちていた。光がなくとも存在し得るもの。そんな感じだ。ランタンが移動した後を、すかさずその闇がとろりとうずめていく。ランタンの炎は、闇など露知らず、無邪気にはぜていた。キゲイはこの明かりをひどく不愉快なものに感じた。明かりのせいで、自分達が危険から丸見えのように思えたからだ。それにランタンを灯した今の方が、辺りの闇が濃くなった気がした。ランタンで目がくらみ、微かな星明りを捕えられなくなったのかもしれない。足元はよく見えるようになったが、遠くは見通せなくなってしまった。
 キゲイは懐のお守り、あのトエトリアの髪を編んだお守りを、服の上からぎゅっと押さえる。これがあれば、邪妖精なども怖くないはずだ。多分、魔物からも守られているだろう。すぐ後ろをついて来る、ディクレス様だって守ってくれるはずだ。ディクレス様が危険な目にあえば、キゲイだって、危険のお相伴にあずからざるを得なくなるのだから。
「やった……!」
 下へ続く階段を見つけたとき、キゲイは思わず小さな歓声を上げた。おぼろげな記憶と夜の暗さの中にありながら、ここまで道を間違えずに戻ってこられたのは、ほとんど奇跡だったかもしれない。ディクレス様にランタンを廻してもらい、石扉や周りの壁の様子を調べる。間違いない。あの高い塔の螺旋階段だ。外に通じている丸い石窓が、星明りでぼんやりと紫紺を帯びた闇に染まっている。天井を見上げると、彼方に小さく切り取られた星空があった。
 キゲイが階段を下ろうとすると、先王がその肩を押さえて止めた。キゲイは後ろを振り返る。ディクレス様はランタンの明かりを消し、螺旋階段の下をそっと覗き込んでいた。
「何か気配がしたが……。気のせいか。私が先に行こう」
 ディクレスはキゲイにランタンを渡す。そして剣をいつでも引き抜けるよう、柄に片手をかけ、壁面に沿って静かに下りて行く。キゲイもそれに倣った。
 二人はそのまま何事も無く下まで降りる。しかしディクレスは警戒を解かず、闇に沈んだ塔の中央へ、静かに歩み寄る。キゲイは音が鳴らないようランタンを抱え、階段を下りたところで立ち尽くした。
 ひとりでに、ランタンに明かりが灯った。
 キゲイは驚いて仰け反り、ランタンを体から離す。右手に掲げたランタンの向こうに、ディクレス様の背中が見えた。ランタンが揺れると、壁に長く伸びたディクレス様の影も、幽霊のように大きく振れる。その塔の壁際に、何か白っぽいものがあった。ディクレス様の影の中で白っぽいものが動き、ぼんやりと人の顔が現れる。ブレイヤールはキゲイの方へ伸ばしていた腕を、ゆっくりと下ろすところだった。
「王様!」
 キゲイはディクレスの隣をすり抜けて、駆け寄った。
「なんだ。君だったのか……」
 ブレイヤールは長い息を吐いて、うなだれる。彼は両足を地面に投げ出して、壁にもたれかかっていた。明かりに照らされた顔は疲れきった様子で、眩しそうに閉じたまぶたを震わせている。随分長い間、この真っ暗闇にいたようだった。キゲイが声をかけようとすると、ブレイヤールは額に手をかざして上を向いた。キゲイの後ろに、ディクレスが歩み寄ったのだ。
「あの、その、ごめんなさい。ディクレス様に、話しちゃいました……」
 キゲイはそっと告白する。ブレイヤールはキゲイに視線を戻す。表情は薄く、ブレイヤールがどう思ったのか、キゲイには分からなかった。
「いいんだ。自然の流れに任せよう」
 ブレイヤールはそう言った。ディクレスがキゲイの隣に膝をつく。
「アークラント先王ディクレスと申します。あなた様は?」
「白城の王族ブレイヤール。ディクレス殿。銀の鏡をご覧に?」
「はい。ところで、いかがされました。見たところ、ほとんど動けぬようですが」
 ディクレスの言葉に、ブレイヤールは再び深く息を吐く。
「レイゼルトに……。いえ、まずは城内から出ましょう。人間達の匂いを嗅ぎつけて、先程から闇の中で色々なものが騒いでいるのです。失礼ですが、手を貸してくださいませんか」
 ディクレスはブレイヤールの体を支えて、立ち上がらせる。キゲイは先に立って塔から外へと出た。
 ブレイヤールは二人を近くの中庭へと案内した。ディクレスは庭に倒れている古い柱の上に、ブレイヤールを座らせる。ブレイヤールは左手で右腿をちょっとさすり、それからディクレスとキゲイの顔を見比べた。ディクレスは柱から少し下がって、立ったままブレイヤールを見下ろしていた。
「キゲイをテントの方へ走らせた後、私はレイゼルトに捕まったのです」
 彼はつと視線を二人からはずし、思い起こしながらゆっくりと話し始めた。
「彼はある取引を持ちかけてきました。お互いに知りたいことを、ひとつだけ交換しようと。少なくとも害意は無いようなので、私は承知しました。私はあの鏡が何であるのかという答えを望み、レイゼルトは、石人達がアークラントにどう対処するつもりなのかを聞いてきた。彼は、あの鏡が禁呪であると答えました。裏を取りたいなら、直接鏡を調べるか、美術書から由来を探せと」
「禁呪? やはりあれは、大きな力を持つものなのですか」
「禁呪は大きな力を持ちますが、鏡は呪文を記しているだけです。しかし魔法の品というものは、簡単にその危険性を判断できるものではありません。呪文自体が力を持つものでもありますから」
 ブレイヤールはディクレスを見返す。
「それから私が彼の問いに返した言葉は、あなたにも興味深いものでしょう。申し訳ありませんが、詳しくはお話できません。ただ今のところ、あなた方に危害を加える話はありません。できうる限り早々に、この地を立ち去ったほうが良いでしょう。石人達は人間の存在を恐れて嫌っているのです。それに、これは私個人の意見ですが、これ以上石人の地に長居することは、石人全てに災いをもたらす行為となるのかもしれません」
「それは、どういうことでしょうか」
 ディクレスの声が、少しこわばっていた。キゲイはなんとなく二人の側に居づらくなり、数歩下がった。
「あなたが大空白平原に作った連絡路のことです。馬が一日で駆けられる間隔で、拠点を築いておられますね。少なくともあの連絡路は、オロ山脈の抜け道からここまで延びているのではありませんか?」
「……仰るとおりです。本国の様子をいち早く知るためには、連絡の手紙を一瞬たりとも止めるわけにはまいりませぬから。アークラントと大空白平原を分かつ抜け道を知っているのは、我々だけです。しかし万一、ハイディーンかエカが我が国を滅ぼしたとき、私の築かせた拠点を辿って、彼らが平原に到達できる可能性は、あるかもしれません」
「七百年前に、人間と石人との戦争がありました。我々はその発端を、人間が石人の領界を犯したことにあったと考えています。ハイディーンやエカが平原に出れば、大きな兵力を持っているだけに、石人にとっては脅威です。そうなった場合、我々は人間達に対し、過剰な反応に出るかもしれません。七百年前以上の大きな戦が、石人と人間との間に生まれる気がします。これは、大げさな空想でしょうか。我々石人は暗にそれを恐れ、速やかに、アークラントをオロ山脈の向こうへ押し返したがっているのです」
「そうでしたか。このような弱小国が、そこまで石人の世界を震撼させていたとは」
 ブレイヤールが見つめる前で、ディクレスはうな垂れるようにして、わずかに頭を下げる。この先のことを懸念したのか、石人に対して申し訳なさを感じたのかは分からなかった。彼はすぐに顔を上げた。
「それにしても、なぜそれほどに人間界についてお詳しいのですか? オロ山脈とは、アークラント独自の呼び方で、大空白平原では別の呼び方をされているようです」
「平原に人間が現れるようになると、石人も我が身を守るため、誓いを侵して境界を越える必要が出てきました。今では選ばれた者達が平原で常に人間の様子を探っています。大空白平原には大陸の富とうわさが西に東にと流れ、手に入らぬものはないとまで言われています。そして私の城から平原は、目と鼻の先にありますから。あの連絡路は、手紙を運ぶためだけに築かれたものなのですか」
 白王の瞳が、人間の先王を鋭く見据えた。ディクレスはその視線を引き締まった表情で受け止める。先王は何も答えず、視線を先に逸らしたのはブレイヤールの方だった。ブレイヤールは沈痛な面持ちでそっと目を閉じ、うなだれる。
 離れた所で二人を見るキゲイには、ブレイヤールが落ちつかなそうにしているのがよく分かった。ディクレス様が彫像よろしく微動だにせず立っているのに対して、ブレイヤールは腿をさすったり、左手をぎゅっと握りこんだりしている。話し方も少しのろのろしていて、言葉が出てこなかったりすると唇を噛んでいた。今もそうだ。キゲイはそれを見て、なぜかハラハラした。二人がそれぞれに、相手の考えを探り合っているのはなんとなく分かる。ブレイヤールの方が、ディクレス様ほどそれをうまくやれていないらしいことも。本来ならディクレス様の方を応援すべきなのに、キゲイは奇妙だと思いながらも、ブレイヤールの方も心配でならなかった。
 しばらくしてブレイヤールは再び面を上げ、声の調子を変えて話題を移した。
「私は、この廃墟の主です。石人の世界には、星の神殿という最古にして第一の存在があります。そしてその下に、十二の古い国があります。十二の国の王は、同時に星の神殿の神官でもあります。そのためたとえ戦争をして相手の国を打ち負かしても、王族の血筋を絶つことは決してありません。国が滅んでも、王族だけは神殿の手によって守られます。ですから七百年前に滅んだこの国にも、私のような王族の末裔が居られるわけです。もっとも、立場は非常に弱いものです。私は他国の王達の指示に従って、この城に宝を用意し、あなた方の行動を観察するのみです。しかしこんな私でも、この城を守るくらいの力は持っているのです」
「では我々は、あなたに許されてこの城に居ると」
「そうなります。石人達はまだあなた方に危害を加える気は、ありません。しかし分からないのは、あなた方の目的です」
「アークラントは光の中にいる人物を探しに参りました。我が国の予言者が見た夢を、聞いてはくださりませんか。かの予言者も石人の世界には詳しくなく、どうも夢見を正しく解釈しきれていないようなのです」
 ディクレスは、トゥリーバから聞いた夢の話を繰り返す。キゲイもブレイヤールの返事が気になって、全身を耳にした。ブレイヤールなら、予言者の言っていた英雄が誰なのか分かるかもしれない。そう思ったのだ。
 ブレイヤールは予言の夢を思い浮かべるように目を閉じて話を聞いたが、すぐに瞼を開いた。
「石人の世界にそこまで広い平原があるとは、聞いたことはありません」
 それから考え考え、ゆっくりと言葉を続ける。
「ただ、光の霧には心当たりがあります。『こう』というものがあるのです。光の霧を発生させるものです。香を練りこんだものもあり、専用の光炉こうろで焚きますが、非常に幻想的です。我々の世界をかつて満たしていた原初の大気を想起させるものとして、特に神聖な儀式では欠かせません。他は、ある程度の高貴な身分の人が用います。私は儀式以外の用途では使ったことはありません。とても高価なものなので」
「ではあの人影は、石人である可能性が高いのですか? そして高貴な身分の方であると」
「神職にある可能性が高いですが、十二国の王も、神官ではありますし……。平原のどちらの方向にその人影が立っていたのか、分かりませんか」
「それは聞いておりません。平原の様子から言っても、方位を知らせるものが何もないようです。その平原は、アークラントから南にあり、ただただ石人の地であると」
「石人世界のもっと奥かもしれません。でも、なぜその人影が英雄だということになるのですか?」
「そう見なす以外にないのです。我々は」
 ディクレスの顔に苦笑混じりの、穏やかな笑みが広がる。それでもすぐに、彼は真顔に戻ってこう言った。
「しかし私自身、この地に何らかの光明は感じていたのです。そこへ丁度、予言者があのような夢見を伝えてきたことが、私をこの地に駆り立てました。予言者の見たものが、私がそれと感じながらも、はっきりと捉えることができなかったもののような気がいたしたのです」
「そうでしたか……」
 ブレイヤールはディクレスから視線をはずし、どこともなく遠い目をした。
「私が今気になっているのは、『レイゼルト』を名乗る少年のことです。実は彼と情報を交わした後、彼はそのまま私の前から立ち去ろうと背を向けたので、その隙をついて魔法で捕らえようと試みたのです」
 それを聞いて、キゲイは思った。アークラントではたぶん、卑怯と言われる行為だ。キゲイはディクレスの様子をうかがったが、先王の表情は真面目なままだった。
「私の魔術は失敗し、返り討ちにされました。目が覚めたときには辺りは夕暮れで、右半身に感覚がなく、まったく動かせませんでした」
「彼は……、腕の良い魔法使いなのでしょうか?」
「石人の水準から言って、年齢を問わず、相当なものです。あなた方の前では、実力を隠していましたか? もっとも他種族の前でありのままの実力を見せるというのは、あまり賢いやり方ではありません」
「彼は深夜のうちに、我々の陣営から姿を消しました」
「えっ?」
「そもそも彼は、自分も石人の宝を探していると言って、我々の元へとやって来ました。そして彼は、この城は遠い昔にうち捨てられたものだと我々に教えました。タバッサの遺跡荒らし達も廃墟だといい、はぐれ者の石人が数人住んでいるとも言っていました。その石人がまさか城主であると分かっていたならば、この城に忍び込む失礼は冒さなかったでしょう。つまり我々は、レイゼルトによって城におびき出され、あなたに許されてここに留まっているということになる。私は、彼にまんまと騙されたわけです」
「怒っていらっしゃるようには、お見受けできません。なぜあの少年を陣営に組み入れられたのです?」
「私は騙されましたが、裏切られたとは思っておりません。私が彼を雇ったのは、彼の目を見たからです。アークラントの者達と、非常に似通った真剣さがあった。彼はいったい何者なのでしょうか」
「私も同じ質問をあなたにしようと思ってました」
 ブレイヤールは心からの溜息をつく。
「私は、あなた方人間よりも、あの少年の存在の方に差し迫った危険を感じます。そしてそれ以上の危険を、あの銀の鏡は秘めている……」
 ブレイヤールはキゲイの方を向く。キゲイは崩れたアーチの根元にもたれ掛かって、船を漕いでいた。ブレイヤールはキゲイに視線を残したまま、ディクレスに向き直る。
「レイゼルトがあの鏡をキゲイに託した理由も不明です。ただ逆から考えれば、適切な人選ではあります。現に彼はあの鏡を、不用意には扱っていない。そうでしょう?」
「いえ、私には分かりませんな。ただ彼が我々から去る際、キゲイに最後に言い残した言葉から察するに……、彼は目的はあれど、自身の意のままにそれをなそうとは考えていないようです。ああいった手合いは、非常に柔軟な動きをするものです」
 それを聞いたブレイヤールはうな垂れ、両手で顔を覆った。
「私にはまだ、物事の流れというものが見えません……」
「それについては、局面は違えど私も同様です。しかし幸い、彼の立ち位置のひとつだけは、はっきりしている。それは彼がアークラントに対して、我々と同じ思いを持っているということです。ならば彼とて、ひとつの布石も打たずにいることは不可能でしょう。……彼はあなた方の敵なのですか? 恐れるに値する者だと」
 ブレイヤールは両手をぱたりと下ろし、地面を見つめたまま固い口調で答えた。
「敵というより、味方ではないと言ったほうが適切かもしれません。彼の動向を見守ることが果たして、我々石人の益になるのかは、不明です。それに彼とアークラントとの関係は、伏せておくべきかどうか……。もし我々がレイゼルトを炙り出さねばならなくなった際、アークラントを攻撃すればよいことになる」
「そこまでなさいますか」
 ディクレスは暗い笑みを浮かべる。ブレイヤールは慌てて首を振った。
「お許しください。考えすぎでした。今はまだ、そこまで考える時期ではありません。……私は銀の鏡に触れたことで、石人達に秘密ができてしまった。ここであなたと会った事実も、明らかになっては困るのです。文字通りであれ形式的であれ、私の首が飛べば、あなた方にもいい影響はないはずです」
 東の空に夜明けの気配が来ていた。夜の闇が薄まり、庭園に淡く長い影が落ち始めている。
「ディクレス殿、もう一度、キゲイを私に預けてはくださりませんか」
 ブレイヤールは早口に言った。時間はもうなかった。
「鏡のことが、気になって仕方がないのです。レイゼルトが鏡を彼に預けたなら、鏡と彼はもう少し一緒にしておかなければ。それに私は、鏡に触れることは出来ません。彼の身の安全は、私が守ります。彼の運命が、私の手の内にある間は」
 ディクレスは短く鼻を鳴らした。溜息と不満、両方らしかった。
「魔法使いというものは、良くも悪くも言葉がうまいようですな。分かりました。私から、彼に話してみましょう」
 ディクレスはキゲイに歩み寄り、肩に触れてそっと起こす。キゲイは寝ぼけ眼で、相手の顔を見上げた。
「折り入って、頼みがある。白王の下に、しばらく残ってはくれないか?」
「え。……え?」
 キゲイは耳を疑い、両目をごしごしこすった。寝ぼけていると思ったのだ。それから柱の上に座ったままのブレイヤールへ、目を向ける。ブレイヤールは何とか立ち上がろうと苦戦していた。まだ体がおかしいらしい。
「白王がおっしゃるには、君は大変特殊な立場にいるようなのだ。あの鏡のために」
「かがみ……っ!」
 キゲイは胸を押さえる。それはまだ確かに、そこにある。ブレイヤールが大きくよろめいて、倒れこむように傍へ膝をついた。
「キゲイ、その鏡は僕の手元にあった方がいいと思うんだ。でも、僕はその鏡に触れることは出来ないから……」
「えーっ!」
 キゲイはようやく状況を理解する。ディクレスが同情したようにこちらを見ていた。
「アークラントは、あの鏡を受け入れることはできないのだ。それは国を助けるどころか、新たな災いと混沌を人間の世界にもたらすものだろう」
 キゲイはブレイヤールを見返す。ブレイヤールは真っ直ぐその視線を受け止めて、色々言うべき言葉を探しているようだった。ところが、良い言葉は思い浮かばなかったと見える。彼独特のしごく穏やかな表情でにっこり微笑み、こう言った。
「悪いね。恨むなら、レイゼルトを恨んでくれ」
 はっきり言い切られて、キゲイは顔を引きつらせた。やっとの思いで仲間の元に帰ってから、まだようやく一日になるかならないかくらいだ。何をどう間違ったというのか。また状況は逆戻り。いや、本当にそうなのだろうか。
「僕、今度はいつ皆の所に帰れるんですか?」
「多分、誰かがレイゼルトをとっ捕まえて、彼の秘密を全部吐き出させるまで……かな」
 先が見えないぶん、状況は前より悪くなっているようだ。
「非常につらいと思うのだが、他に代われる者もいない」
「決着がついたら、君は僕が責任を持って、皆の所に帰すよ。それまで……頼む」
 キゲイの前には恐れ多くもアークラント先王と白王の二人がいて、こちらの返事を待っている。「嫌だ」と言えば、「うん」と言うまで二人から延々と諭されるに違いない。キゲイはがっくりとうな垂れ、自分の運命について観念することにした。
 ブレイヤールはキゲイの決心を見届けると、ディクレスにうなずく。ディクレスを元の場所まで送るため、ブレイヤールとキゲイは昨日の道を辿り始めた。ブレイヤールは右足を引きずり、壁に手をつかないと歩けない状態だったので、途中までしか案内できなかった。
 最後の一本道の廊下の所で、去り際にディクレスはキゲイの肩へ手を置いた。
「ブレイヤール殿と会えて良かった。キゲイ、よく決心してくれたな」
 それだけで、彼は何か特別な言葉をかけるわけでもなく、地読みのテントの方へと立ち去っていく。
 その背中を見送るキゲイの耳に、レイゼルトの一言がよみがえる。
——アークラント先住民ごときが、「国を助ける気」だって?
 もし今度彼に会うことがあれば、もう「アークラントのために」という言葉は使うまい。でも、「ディクレス様のために」なら、きっとレイゼルトも、そしていつか彼を怖がらせたアークラントの少年達も、まだ納得してくれるんじゃないか。キゲイはそう思った。それにキゲイ自身、今ではそちらの方がしっくり来るのも、確かだった。レイゼルトがこの鏡をエツ族である自分に預けた理由は、もしかしたらここにあるのかもしれない。アークラント人では駄目だったのだ。きっと。
 キゲイが物憂げに立ち戻ると、ブレイヤールは庭園の池の側で、地面に転がっていた。彼は足音でキゲイに気がつき、不自然なくらい不動の体勢のまま、こう言った。
「ちょ、ちょっと待ってて……。やっと感覚が戻ってきたと思ったら、強烈な痺れと激痛が」
「……王様。それもレイゼルトの魔法のせい?」
 ブレイヤールは返事の代わりに歯を食いしばり、苦しそうに体を丸めている。これは、相当きているらしい。キゲイは溜息をついた。この様子では、もうしばらくここを動けそうにない。眠気と空腹で、ふらふらだったのだが。
 冷たい朝日が、純白の城を新しい光と影で染めていく。照らし出された回廊の柱は、その輪郭を朝霧に淡く滲ませ、石畳を珊瑚色の光彩でいろどった。この城は、光によって様々にその様相を変えるのだ。まばらな下草の上に横たわる白王の髪もまた、赤みがかった黄金色に輝いていた。

七章 黄緑の城

 白城から大人の足で三日。そこに黄緑の城があった。城とはいえ、石人は巨大な城に国民全員が集まって暮らすので、城そのものを国とも呼ぶ。
 黄緑の城は白城ほどの規模はないが、それでもやはり大きな城だ。周辺の山々に比べれば標高は低いものの、城の天辺部分には雲がかかることもある。城には町もあれば、畑や森や川もあった。生きていくのに必要なものは、全て城に揃っている。城の周りは魔物や邪妖精といった魔法の生物がうろつき、危険でとても暮らしてはいけない。人間達はこの地を石人世界と呼んでいるが、本当ならば魔物世界と呼ぶのが正しいだろう。石人は城を築くことによってこれらから身を守り、ようやく自らの生活できる場所を得ていた。
 城の頂上には王の居城が建っている。昇ったばかりの朝日はまだ山々の向こうにあって、一番高い塔の屋根に飾られた水晶だけがわずかな光を捉えて輝き、残りの部分はまだ影と朝霧に霞んでいた。
 トエトリアは冷気を頬に感じて目を覚ます。大きな金色の瞳を開いて、目をこすった。瞳に、ベッドの円屋根に描かれた、黄緑色の神魚の姿が映る。あくびと伸びをしながらごろんと寝返りをうつと、視線の先には白い大きな暖炉。一晩中彼女の側に付き添っていた女官が、傍らで火に当たりながら居眠りしていた。
 トエトリアは起き上がって、ベッドから飛び降りる。まったく、あの傭兵達の眠り薬のせいで酷い目にあった。粗悪な薬の成分と、人間の町で吸った空気の毒気を抜くために、毎日三度、苦い薬を飲まされる。おまけに城に帰ってすぐ、ちょっと風邪をひいたものだから、風邪薬まで余分に飲まされる羽目になった。
朝 彼女は裸足でぺたぺたと、淡い黄緑色を基調とした大理石の部屋を横切る。深い黄緑のカーテンをかき分けて、バルコニーへ出た。石床の下には暖かい湯が通されていて、裸足でも冷たくない。
 トエトリアは手すりの上に立ち、両手を腰に当て、ぐるりと景色を見回す。外には霧雨の衣が漂っていて、周りの山々は薄墨色の影にしか見えなかった。城の下方は厚い霧に隠れている。空だけがじわじわと黄金色に輝きを増し、朝日が昇ったことを知らせていた。
 彼女は首から下げた紐を手繰り、絹の小袋の中から小石を取り出す。
「冬の朝じゃなくなってきたみたい。雪じゃなくて雨だもん!」
 うきうきと一人呟やき、手にした小石を朝日にかざした。小石は淡い黄緑色に透け、中に封じられた小さな虫も朝日に透けた。この石は、トエトリアの祖母や母親が小さかった頃に、算術の勉強で使っていたおはじきの一つだ。星の神殿が浮かぶ湖に長年沈んでいた琥珀を磨いたもので、陽炎らしき虫が封じられている。宝石というほど質の良いものではなかったが、彼女はとても気に入っていて、お母さんが病気で亡くなってから、何かにつけお付の妖精みたいに持ち歩くようになっていた。
「せっかく雨が降っていい気持ちなのに。熱が下がるまでは、外で遊ばせてくれないんだろうね」
 トエトリアは小石に語りかけるようにつぶやくと、手すりから床に飛び降りた。
「姫様!」
 間一髪、甲高い声が聞こえて、彼女は室内を振り返った。痩せて背の高い侍従長の女性が、大またで寝室に入ってくる所だ。危うく手すりの上にいるのを見られるところだった。侍従長はベッドの上から肩掛けを取ると、トエトリアの側まで小走りにやって来た。
「外は冷えます。また風邪をぶり返されたら、たいへんです! 雨が降っているから、お外でお遊びになられたいとでも思われたのでしょう。普通の者は、晴れの日にこそ屋外で遊びたくなるものですが」
「私は晴れの日より、雨の日の方が遠くへ出かけたくなる」
「分かっておりますとも。王女様が城を抜けだされたのは、みぞれ混じりの日でございました」
 侍従長は肩掛けをトエトリアに被せると、ベッドの所まで引き戻す。そして寝室の扉に向かって、どうぞと声をかけた。かしこまって現れたのは、トエトリアの母の代から王室付き医師をしている老人だ。彼はベッドの端に腰掛けているトエトリアの元へ近づき、うやうやしく朝の挨拶をする。彼は彼女の額に手を当て、次に舌の色を調べた。
「まだ少しお熱があるようですが、風邪が原因ではなさそうですな。体内に残っている眠り薬の毒気が、解毒薬の力でまだ燃えているようです。ご気分はどうでしょうか」
「お腹がすいたかな」
「食欲が出てきましたな。それは結構。解毒薬より良い食事の方が何よりの良薬でしょう」
 医師は微笑んで、侍従長を振り返る。
「一日くらいならお姫様も耐えられましょう。少々おかわいそうな気もいたしますが」
 トエトリアも侍従長へ顔を向ける。
「何? 何のこと?」
「今日からまた少しずつ、公務に復帰していただくということです。王女殿下の今日のご予定を申し上げます」
 侍従長は懐に差した筒から、さっと長い巻物を取り出した。それを見たトエトリアは鳥肌が立つのを感じる。風邪もよくなって、いつもの朝の光景が戻ってきたのだ。
「聞きたくないっ!」
 しかし耳をふさいでも、侍従長の甲高い声は手のひらを突き破って脳天に響いてくる。
「朝食をとりつつ下層まで移動。城下の謁見の間にて、新しくわが城の国民となった者達の名読みの儀。再び上部二層にて王衛就任の儀。以上でございます。お昼過ぎには全て終了する予定になっております」
「……それだけ?」
 トエトリアは疑い深げに、侍従長の反応をうかがう。信じられないことだった。いつもなら二度寝ができるくらい、長々と今日の予定が続くのだ。侍従長は澄ましながら頷き、巻物を元通りに収める。
「あなどってはなりません。王衛就任の儀は正装をしていただきますので、お覚悟を」
「正装……。明日に延期するとかはだめ?」
「いま何かおっしゃりましたか」
 わがままは聞き入れないとばかりに、侍従長が鋭く聞き返す。
「王衛の方は、昨日から儀式の準備で剣の間に篭っています。儀式が終わるまで、日の下には出て来れません。彼にもう一日そこに居ろと、おっしゃられますか」
 トエトリアは頭を振ってベッドから降りると、お召し代えに現れた女官達に体を預けた。女官達は王女の長い髪を三人がかりで梳かし始める。侍従長はそれを見届け、回れ右をして退出して行った。
「なんだかひどく機嫌が悪いね」
 トエトリアは、前髪を梳かす女官の一人に話しかける。
「姫様が一人で勝手に城からお出かけになったからですよ。私どももそうですが、侍従長もそれはそれは心配していらっしゃったんです」
「ちゃんと『人間の国に行ってくる』って、置手紙してたのに?」
 彼女は唇を尖らせる。すると、後ろ髪の上半分を梳かしつけていた女官が答えた。
「まあ! だから皆さん、あんなに慌てていたんですね。あの森の境界を越えるのは、いくら王族でも許されないのです。姫様はまだ子どもだったから罰を受けずに済みましたが、王室長官は大変だったようですよ」
「姫様が元気になられたと知ったら、お説教に参られるかもしれませんね」
「私、もう少し病気のままでいようかな……」
 後ろ髪の下半分を梳かしている女官が、首をかしげてトエトリアに尋ねる。
「でもどうして、一人で行こうなんて思われたのです?」
「大臣達が、人間が侵攻してくるかもしれないと言ってたの。もしそうなったら、ブレイヤールが真っ先に対応しなくちゃいけないらしいけど、実質的な行動を起こせるのはこの城だって、言ってた。だったら王女である私も敵を知らなきゃ、何のお手伝いも出来ないよ。で、大臣達にそう話してみたら、そんな必要ないって。仕方ないから、一人で調べに行くことにしただけなの」
「うーん。いくら王女様でも、皆さんが話し合いで決めたことを、勝手に破っちゃいけないと思います。それに人間って魔法は大してうまくありませんから、束になってきたってちっとも怖くなんてありませんわ。おまけに夜になれば、邪妖精に魂をかじられて、抜け殻になるだけです」
 別の女官が水盤を前へ差し出す。トエトリアは水盤の水を両手ですくって、顔を洗った。
——だから不用意に私達の世界に入り込まないよう、気をつけてあげないといけないんじゃないかしら。
 彼女は上の空で差し出された布を取り、顔を拭いた。
 女官達がトエトリアの寝巻きを脱がせ、銀糸の刺繍が入った深い黄緑色の服を着せた。琥珀のおはじきは、他のおはじきを入れた小箱に大切におさめられる。今日のお勤めが終わるまで、しばしのお別れだ。
 女官らは、髪を結い始める。彼女達はみな楽しそうだった。なにしろ王女様は石の肌と呼ばれる、血の気も感じられない真っ白な肌を持っている。夜空のような漆黒の肌とともに、石人達の間でこれらの肌色は最高に尊いとされていた。加えて、王女様の髪は柔らかな若葉を思わせるみずみずしい黄緑色につやつやと輝き、踵までまっすぐに流れ落ちている。綺麗に飾り立てればそれだけいっそう、彼女は美しい王女様になってくれた。女官達にとっては、存分に腕の振るい甲斐があるというものだ。
「さあ、仕上がりましたよ」
 謁見があるため、いつもより豪華な飾り付けだ。トエトリアが頭を振ると、小さな銀と真珠の髪飾りが触れ合って、しゃらしゃらと涼しげな音を奏でる。耳にくすぐったい音で、あまり好きにはなれない。腰紐に下がった銀の彫刻付き円盤飾りも、それなりに重い。歩いているうちに、腰紐ごと下に落ちてしまいそうな気がする。いずれにしても、物音を立てないで歩くなど不可能だ。
 腰から下は、広げると大きな四角い袋状になるズボンで、下二つの頂点に足首を出す穴が開いている。腰飾りで足の間の布を上に吊り上げ、大きく優雅なひだが足を包むつくりだ。これをはいたとき、気をつけなければいけないのは一つだけ。決して走らないこと。走ればひだに足を引っ掛けて、転ぶ。
 トエトリアは、首に鈴を付けられ、さらに紐付きの脚輪をされた鳥の気分になった。
 やれやれと居室を出ると、侍従長が辛抱強く待っていた。彼女は王女の身なりを確認し、ほんの少し歪んでいた上衣の裾を引っ張って直す。
「朝食は箱舟に用意しております。私は王衛就任の儀の用意がありますから、これで失礼させていただきます。途中でご気分が悪くなられたら、無理をせずに近くの者におっしゃるのですよ。薬を持たせておりますから」
「はぁい」
 侍従長が去ると、トエトリアは女官達を従え、さっそうと歩き出した。緑色の石の床が真っ直ぐ伸び、淡い灰色の壁は巧みに組み合わされた竹とヒスイの彫刻、小さなモザイク画で美しく飾られている。通路を守る近衛騎士達はうやうやしく頭を下げ、飾り柱のように控えている。皆黄緑色の髪をして、黄緑色のマントを羽織っている。近衛騎士をはじめとする王室直属の騎士は、黄緑色の髪を持つ人しかなれないのだ。
 トエトリアは一対の扉の前で立ち止まる。扉の前には二人の家来が、船の櫂を模した杖をささげ持っていた。彼らはトエトリアに一礼し、扉を開ける。
 扉の向こうは小さな丸い部屋だ。天井は高く、神魚の形にくりぬかれた天窓から弱い日の光が差し込んでいる。窓枠に嵌まっているのは薄く剥ぎ取られた雲母の板で、日の光に黄緑色をした天然の縞模様を浮かび上がらせていた。そして、部屋の床は水である。そこに部屋よりひとまわり小さい、箱型の舟が浮かんでいた。
 箱舟には二人の舟役が待っていて、トエトリアの手をとって舟に乗せてくれる。舟の上には、座り心地のよさそうなクッションと、椀に盛られた果物、穀物のビスケット、味付けした野菜のペーストに、湯気を立てる温かいお茶が用意されていた。トエトリアに続いて、三人の女官と一人の侍従が乗り込む。部屋の扉は重々しく閉じられた。
昇降塔「降下良し! 水を抜け!」
 トエトリアがクッションの上に落ち着いたのを確認し、舟役の一人が声を上げる。水面に小さなさざなみが立ち、まもなくゆっくりと、舟は水面と一緒に下降を始めた。
「さあ、朝食にいたしましょう」
 三人の女官達は果物を一口サイズに切り分け、野菜のペーストをビスケットに塗った。二人の舟役は双子で、それぞれ箱舟の縁に片足をかけ、舟が壁にぶつからないよう櫂で壁を押し、位置を正している。互いの呼吸を合わせる短い掛け声が、威勢良く楽しげだ。
 巨大な石人の城では、このように水を利用した昇降塔が使われていた。五階、十階程度なら階段でもいいのだが、それ以上となるとさすがに移動も大変になる。水を注入したり抜いたりするため素早い移動には向いていないものの、多くの荷物を一度に運べるという点でも、この昇降塔と箱舟は生活の重要な移動手段だった。そしてこの箱舟がひっくり返ったり、壁に引っかかったりしないよう操るのが、舟役の仕事だ。うっかり水の中に落ちた人も助けあげたりする。
 トエトリアは、女官達が切り分けてくれた果物を口に含んだ。まだ熱のある喉に、心地よい冷たさが通っていく。頭上を見上げると、少し遠くなった天窓の魚模様が見えた。四方の壁には時々モザイク画が水面から現れる。また、壁に窓のように埋め込まれた大粒の宝石を通して、外の光や壁の向こうに灯されている明かりが入ってきていた。まだ水面の下にある窓からも、透明な水を通して小さな明かりがゆらいでいる。
 朝食が済んでも箱舟はまだ目的の階には着かない。ゆうに百階は下るので、時間がかかるのは仕方のないことだ。王族や貴族であれば、この長い時間を優雅に過ごせるよう様々な工夫を凝らす。たいていは詩人や楽士を一緒に乗せて、小さな宴会を開いたりするのだ。ところが王女であるトエトリアの場合は、優雅からは程遠いものだった。
「ここなら逃げられませんものね。さあ、魔法のお勉強をしましょう」
 おもむろに立ち上がった侍従が、トエトリアの前に分厚い本をどしんと置く。どこに隠し持っていたのやら、不思議なものだ。トエトリアはかくんとうな垂れた。
 舟が下層に着いたのは日も高くなっての頃だ。昇降塔の分厚い扉が重々しく開くと、近衛隊長の気難しそうな顔が待っていた。近衛隊長は卵型の小さな顔をした女性で、侍従長とはまた違った意味で、トエトリアは彼女が苦手だ。
「おはようございます、王女様。名読みの儀の用意はすでに整っておりますゆえ、謁見の間へご案内いたします」
 近衛隊長は短い朝の挨拶をすると、それ以上無駄な言葉は一切口にせず、トエトリアを国民との謁見の間へと促した。隊長の後ろに控えていた数人の近衛兵が、王女を先導するためにさっと背を向ける。近衛兵の黄緑のマントが、窓から差し込む光に鮮やかな色彩を躍らせた。
 謁見室には、生まれて間もない赤ん坊を連れた大人と、二家族くらいの新しい城民が待っていた。王座の両脇には、左右の大臣も控えている。トエトリアが王座に胡坐をかくと、部屋の一同は彼女に向かって膝を折り、深々と礼をする。
「名読みの儀を執り行います。順に王女様の前へ出て、名をお告げなさい」
 左大臣が重々しく口を開き、侍従がトエトリアの前に筆記台と筆と、小さな紙束を用意する。赤ん坊を抱いた親は子の名前をトエトリアに告げ、忠誠の証として赤ん坊の小さな手をとって彼女の膝を触らせた。トエトリアは聞いた名を紙に書きとめる。
 本来であれば名読みの儀は王の仕事だ。ところがトエトリアの母であった女王は若くして亡くなり、黄緑の城は王が不在の国となっている。トエトリアは王の娘であったから、いずれ王位を継ぐ者として、幾つかの重要な儀式を執り行う義務があった。名読みの儀も重要な儀式の一つだ。王は国民一人一人の名を書き留め、それを城に捧げることで、魔物や邪妖精から守るべき者を城に教えるのだ。
 すべての名を書き終えると、彼女は紙束を持って謁見室の中央へと向かう。そこには床から大きな杯型の台座が生えている。石造りの台座は目立った装飾もなく、重要なものには到底見えなかったが、名読みの儀にはとても大切なものだった。トエトリアは紙束を台座に端から一枚ずつ並べ、それから台座の杯を支えるように下から手を添える。すると、ポッという軽い音とともに紙束は透明な炎に包まれて燃え出し、あっという間に燃え尽きる。台座の上には灰すら残っていない。トエトリアは台座の上をそっとなで、本当にそこに何もないことを確認する。台座はほんの少し暖かくなっていた。彼女は誰にも気づかれないよう安堵の息をつく。そして国民達を振り返り、古くから定められた言葉を告げる。
「我が城はそなた達を受け入れ、守り、応えるでしょう」
 それまで神妙に儀式の進行を見守っていた国民達が、ようやく顔をほころばせた。もし台座の上に自分の名が書かれた紙の灰が残っていたら、城に暮らすことを許されないのだ。長い城の歴史でもそういったことがあった試しはほとんどないのだが、名を試される方はいつの時代でも気が気でないらしい。もちろんトエトリアだって、灰が残らないかどうかいつも心配だ。灰が残ったときなんと言うべきか、儀式の先生は教えてくれなかったのだから。
 名読みの儀式がすむと、トエトリアは再び昇降塔の舟に乗り込む。左右の大臣達も次の王衛就任の儀を見守るため、別の昇降塔へ急いで去っていった。今度は昇りなので、昇降塔には水が注入されることになる。
 塔の扉が閉まると、まもなく四方の壁を伝って薄い滝が落ちてきた。塔のずっと下の方でも、ものすごい勢いで水が流れ込んでいるはずだ。それでも登りは降りの倍くらい時間がかかる。女官達はこのときも時間を無駄にはしない。トエトリアの髪をほどいてよく梳ると、まじないの言葉を口ずさみながら正装用の髪型に編みはじめる。髪を何本もの細い束にわけ、布を織るように編みこんでいくのだ。均等な強さで編まないと、よじれて不恰好になる。トエトリアはうかつに頭も動かせず、石の像のように舟の上でじっとしていなければならない。
「お姫様も大変ですこと。お城から逃げ出したくなるのも、分かりますわ」
 舟役の双子が笑った。
「名読みの儀も、なんでもないように見えて大変だしね」
 トエトリアは口を尖らせて答える。
「名札を燃やして、灰が残らなければいいんですよね。私達は先代に名読みの儀をしていただきました」
「あれは私が燃やしているわけじゃないの。城が燃やしているのよ」
「城が?」
「あ、でも私と城とが一緒に燃やしているのかな。あの台座を通じて」
 トエトリアは首をかしげて、膝の上の両手を見つめる。あの台座の芯は、城の構造体と一繋がりとなっている。台座の杯の下、王が手で触れる部分は化粧石で覆われることなく、この構造体がむき出しになっていた。構造体は継ぎ目のない半透明の石で、王にしか引き出せない城の魔力を秘めている。こまごまとした儀式の中にはこうして直に構造体に触れることがあり、その度ごとに彼女は城の魔力に触れていた。城の力は何度触れても底知れず、一向に理解が出来るものではなかった。
「そうだ。王衛就任の儀は、城の中枢であるんだったよね」
「その通りでございます。さ、編み目が歪みますから……」
 女官が答えて、トエトリアのかしいだ首を元通りに押し戻す。
 髪が編みあがり、昼食もとってそろそろ眠くなる時間。ようやく舟は上層に位置する王城に到着する。待ち受けていた侍従長がすかさず寄ってきて、トエトリアの髪型を確認した。侍従長はてきぱきと女官達に指示を出す。
「すぐにお清めを。風邪をぶり返されるといけないから、お体を冷やさないよう気をつけて。そちらに部屋を整えているから、お召し替えはそこで」
お召かえ トエトリアはそのまま女官達の流れ作業に乗せられて、何がなにやら段取りがつかめないまま、急かされるままに控えの間から浴室へ、浴室から着替えの部屋へと移される。部屋の大きな机の上には正装用の衣装がずらりと並べられていた。侍従長は端から順に着せていくように指示し、自分も服を取って王女に着付けを始める。
 当の王女本人はといえば、もう半分は昼寝をしていた。寝ていても周りの女官が体を支えて引っ張りまわし、うまい具合に服を着せていってくれる。それでも侍従長が古風な長衣の帯を思いっきり締めると、彼女は咳き込んで目を覚ました。
「さ、これからが本番です。寝ている場合ではございませんよ!」
 城の、すなわち国の守護者である王の正装は、戦衣装だった。魔物から城を守るという意味がある。草水晶の石鱗を幾重にも重ねた鎧をつけ、腰には金銀細工のベルト、そして翡翠の剣を下げる。頭には銀細工の冠。こちらにも淡い黄緑の宝石がちりばめられている。最後に床に引きずるほどの長いマントを羽織る。それは春の大草原のような、萌え立つ若芽色だった。体の動きにあわせて、風が渡るかのように銀色の波模様が現れる。それはそれは見事な織物だった。
 すべての着付けが終わると、トエトリアは重すぎて動けなくなる。体重が三倍以上に増えたぐらいの苦しさだ。そもそもこの衣装は、大人用なのだ。泣きそうな顔で侍従長に無言の訴えを投げる。
「近衛隊長殿、いらっしゃってます?」
 侍従長はすぐさま隊長を呼んだ。
「両脇から支えて、姫様がお歩きになれるよう手を貸してください」
 隊長は小さくうなずき、二人の近衛騎士をトエトリアの助けに立たせた。
 用意が整うと一同は王女の歩調に合わせ、そろそろと儀式の間へと移動を開始した。道中、星の神殿から派遣された神官がすっと追いついて来て、王女と並ぶ。彼は儀式の段取りを伝えにきたのだ。
「まず一つ。ですがこれがすべてです。儀式の間では一切口を聞かぬこと。よろしいですか?」
 トエトリアは無言で頷いた。服が重くて、口をきく余裕がない。本当ならば神官の問いかけにきちんと答えないのは、とても失礼なことなのだ。もっとも神官は彼女の様子を見て、大目に見てくれた。彼は無礼を気にすることなく、先を続ける。
「王衛はあなた様の家臣であり、また星の神殿の神官でもありますが、実際の立場は特殊です。彼らの仕事は王の命を守ることで、その使命を果たすためならば法を犯しても構わないとされます。というのも王衛となるものは儀式の間へ入ると同時に、戸籍の上では死亡とされます。死んだ者ですからこの世の法に縛られる必要がないのです。儀式の部屋となる『剣の間』は、あの世とこの世の境だとお心得ください」
「分かりました」
 今度はトエトリアも、王女として何とか言葉を返す。
「結構なご返事です。それでは星の剣と杖の話は、すでにお勉強されておりますか?」
「十二国建国以来伝わる、初代国王の魔力を宿した一振りの王剣と王杖。それから、大巫女様の霊力を封じた、王剣と対になっている剣があるって聞きました」
 トエトリアは早口に答える。重たい冠のために首は痛いし、鎧のおかげで肩も痛くなってくる。儀式の間まで、体力が持つかどうかもあやしい。
「その通りです。黄緑の国では王剣は栄光とともに失われてしまいましたが、守護の剣が残っていることはたいへん素晴らしいのです。大巫女様の力が宿っているため、剣の持つ力は王剣よりも大きく、もっともよく王を守護するといわれているのですから」
 それから神官は、黄緑の国の歴史において守護の剣が大活躍した話をいくつも話す。神官の顔に表情はないが。声だけは少し誇らしく聞こえた。
 静を重んじる星の神殿は、神官達に表情を出すことを禁じている。感情がどうしても顔に表れそうになったときのため、顔を覆うお面を持ち歩かせているほどだ。トエトリアは視線を下げ、神官の胸元を見てみる。前あわせの上着の懐に、布を押し固めて作ったお面が覗いていた。
 神官が式の段取りを確認しているうち、遅れて到着した左右の大臣達も合流して来た。やがて一同は、城の中枢に入る大扉の前に到着する。黒地に銀と黄緑の琥珀で装飾された扉も、今は幾重もの魔法の鍵を取り払われて、大きく口を開けていた。扉の両脇には神殿の騎士らが居並んで、中枢の入口を守っている。神殿騎士は神官と異なり、常にお面を被っている。その上物々しく武装した彼らの姿は人の気配も感じさせず、どことなく不気味だ。入り口の中央に立つ騎士が、白い魔法の炎を揺らめかせる長い銀のトーチを床に立てて構えていた。トーチは騎士の身長の倍もある。神官の話によると、中枢回廊に明かりを入れることは禁じられているため、この明かりを使って中に入る一同の足元を照らすという。
 中枢入口の前で神官は深く一礼する。それから一同を振り返り、静粛に進むよう、唇の前に両袖をつき合せて見せた。トエトリアは頷き、この国の王族として最初に中枢への門をくぐった。神官とその他の家臣達が後ろに続く。
 中枢回廊は城の根から頂上までを貫くといわれる、巨大な円柱の塔を中心とした螺旋のスロープである。この中枢部の壁面は、城の構造をなす石がむき出しのままになっていた。この石は城の部位によって透明度がまちまちだが、中枢部の構造石はそのすべてが澄んだ水のように透き通っている。そうとはいえ、外の光が入らない場所では、石は漆黒一色にも見えた。ただスロープ外周側の壁の奥で、白く輝く面がいくつもある。トエトリアは後ろを振り返り、神殿騎士がかかげていた明かりが、壁の中にある屈折面で反射しているのを知った。彼女は壁の奥を見透かそうと目を凝らす。しかし光を反射している部分以外は星のない夜空のように真っ暗で、奥行きさえ分からなかった。
 一同は立ち止まることなく螺旋道を下って行く。奥へ行くほど入口から直接差し込んでいた明かりは届かなくなり、騎士が捧げていた銀の杖の光を反射した白い輝きだけが道を知らせるものになった。光は壁の奥で砕けた鏡の破片のように輝き、回廊の床がそれを受けて暗闇の中に淡く輪郭を浮き上がらせている。
 中枢を支配する暗闇に目が慣れてくると、外周の壁の中にほのかな明るい縦の線がいくつも見えてきた。トエトリアは立ち止まり、壁に顔を近づける。それは細い光の線が小さな円を描いているものだった。円はわずかに細くなったり太くなったりしながら、ゆっくりと上へ昇っている。
——水の中の泡かしら? それとも水の粒なのかしら?
 城ではどんな高所でも、水が尽きることなく湧き出ていた。それはこの城に限らず、白城でも他の城でも同じだ。その仕組みについて昔から様々な議論がされていたものの、実際の所は誰にも分からなかった。水は構造石の湧き出し口から流れてくるのだが、構造石はダイヤモンドのように硬く、その奥の水路がどうなっているのか、調べようにも手が出せないのだ。
 水を汲み上げる秘密があるとすれば、この中枢のどこかだろう。この壁の奥でゆっくりと立ち昇る小さな水、あるいは気泡を含んだ細い水の通り道が、その秘密なのだろうか。トエトリアは首をひねって壁から離れ、再び歩み始めた。
 剣の間は塔の中にあった。扉は開け放たれ、部屋からは白く輝く煙が外へ漏れている。スロープの外周側には砕けた光の欠片がいくつもあったが、塔の外壁でもある内周側は、常に真っ暗だった。剣の間付近だけを輝く煙が照らし、透き通った基礎石を通して塔の内側を覆う化粧石の背面をあらわにしている。化粧石は黒っぽい色をして、背面には細かな蔦模様らしきものが彫り込まれている。
「少々お持ちください。儀式の用意がまだ整っていないようです」
 神官が扉の前に立ち、トエトリアにそっと告げた。まだ部屋には入れないらしい。
 トエトリアは神官の背中越しに室内を覗いてみる。暗い部屋の中央には、きらびやかな正装に身を包んだ老神官の姿があった。その片手に鎖のついた光炉を下げている。輝く煙はそこから立ち昇り、淡くあたりに漂っていた。煙に照らし出される室内は磨かれた暗黄緑の石が敷き詰められているだけで、調度品は一切ない。部屋の奥に、隣室へと続いているらしい二本柱のアーチがある。隣室は真っ暗だ。
 やがてそのべったりと暗闇に塗りつぶされた柱の間から、三つの人影が浮き出るように現れた。真ん中の人影は知っている。彼女をタバッサから連れ帰った若い方の石人、シェドだ。両脇の二人は装束から神官だと分かる。光炉のほのかな明かりの中で、三人とも顔色が悪く見える。シェドは時々足元がふらついて、左右の神官に支えられることもある。
 三人は老神官の前にひざまずく。左右の神官だけがすぐに立ち上がり、部屋の片隅へと身を引いた。そのうち一人が、怯えたように自分達の出てきたアーチの暗闇へ一瞬目をやったのが見えた。
 老神官が腰帯から細身の銀の杖を抜き、光炉を軽く打つ。澄んだ音色が中枢に響いた。儀式を始める合図だ。トエトリアはそっと部屋へ踏み込む。何枚も着重ねているというのに、室内の冷気が肌を刺した。老神官の隣へ行き、ひざまずいたシェドと向かい合う。シェドが身に付けているのは、黒地に銀刺繍で複雑な曲線を描いた貫頭衣だ。それは石人の死装束だった。
 老神官が再び光炉を打つ。隣室から剣を捧げ持った神官が、静かに歩み出てきた。剣は抜き身のままで、研ぎ澄まされた刀身には冴え冴えとした白い光が宿っているように見える。神官は顔にお面をつけていた。老神官は光炉と入れ替わりに輝く剣を受け取り、それを恭しくトエトリアの前に差し出した。
「大巫女様の無き御名において、この者は剣の影となることをお誓い申し上げます」
 トエトリアの背筋を痺れるような悪寒が走る。嫌な誓いの言葉だ。剣の影なんて、まるで人ではなくなるかのような言い回しではないか。
 彼女は王衛と言うものが、他の家臣達とは全く異なる立場にあることに、ようやく気が付いた。剣を捧げ持つ老神官の手は震えている。大巫女の魔力が宿る剣の尊さと、剣の鋭さを畏れているのだ。彼女も震えた。命を捨てて剣の影になろうとする王衛を迎えることは、彼女自身もまた、王の立場に一歩近づくことなのだ。その責任の重さに気が付くと、彼女は怖くて仕方がなくなった。
 トエトリアは助けを求めるように、視線を泳がせる。老神官は剣を捧げ持つことに全身全霊を傾けている。シェドはまるで眠っているかのように無防備にうな垂れてひざまずいたままだし、部屋の隅に控える神官達も無表情だ。部屋の入口には侍従長や大臣達の姿が見えた。彼らは目を丸くして、無言でトエトリアを急かしている。助けてくれそうな人はいない。むしろ彼女が王にならねば、この人達は助けの手を差し伸べられないのかもしれない。王に仕え、国に仕える人達なのだから。
 トエトリアは口を引き結んで覚悟を決める。彼女は剣の刀身に右手を下から添え、左手で剣の柄を掴む。心配していた剣の重量は、あまりの軽さにかえって戸惑うほどだった。子どもの彼女でも、危なげなく持てる。老神官に視線を送ると、彼は両腕を真っ直ぐ下げた。剣はトエトリアの手に残る。
儀式 彼女は光炉の光に煙る銀色の刀身を見つめた。ふとある確信が芽生えて、固く目を閉じ、右手を握りこむ。刃が指の腹に当たる感触がある。再び手を開く。指には刃の痕が残っていたが、血は滲んですらいない。彼女は理解した。確かにこの剣は王を守る剣だ。自らの刃からも王を守っている。当時の大巫女様の魔力が、剣にその意思を吹き込んだのだ。
 彼女は剣から顔を上げ、老神官を見返した。相手は一礼をして後ろへ下がる。儀式は、王衛の首の後ろへ剣を添えれば終わる。彼女は刀身に添えた手を離し、剣を水平に薙ぎながら王衛の方へ向きなおる。
 トエトリアは目を見開き、全身で大きく息を吸った。彼女はそれで我に返った。いつの間にか、剣は足元の床に突き立っている。何が起こったのかよく分からず、じっと剣を見つめていると、シェドのやや戸惑ったような顔が視界に入る。彼は立って、剣の柄に手をかけて引き抜いた。それから剣を脇に置き、再び服従の姿勢に戻る。トエトリアが横を向くと、老神官が部屋の入口を示した。儀式は王が王衛を伴って部屋から出ることで完結する。とすれば、もう儀式は終わったのだ。
 トエトリアはわけが分からないままに、老神官の無言の指示に従った。体が冷え切っていて感覚がない。両足もきちんと動かせているか、衣の裾から覗くつま先に意識を集中させなければ歩けなかった。部屋から出ると、すぐに両脇から近衛兵達が支えてくれた。一行は足早に中枢のスロープを戻った。
「私、儀式をちゃんとやれていた?」
 ようやく城の中枢から出ると、すぐにトエトリアは侍従長に尋ねた。自分が儀式の最中の、しかも一番大事なときの記憶を失っていたのは確かだ。よほど緊張していたのだろうか。あの間、自分の身に何が起こり、自分は何をしたのか、不安でならなかった。
「はい。迷うことなく王衛殿の首に剣を載せ、たいへん立派でございました。最後に剣を取り落とされたのには驚きましたが。床の傷は神官様方が直してくださいますから、ご心配には及びません」
侍従長は血の気の引いた顔をしていた。けれどもそれは、単に緊張と寒さのせいなのかもしれない。彼女の口調は、いつもと変わらなかった。
「王女様には、剣が重かったのかもしれません。お気になさいますな。あの剣はとても鋭い刃を持ちますが、王と王衛は決して傷つけないのです」
 儀式の間へ案内した神官も口を添える。トエトリアは頷いた。
 周りで見ていた者達は、見た通りのことしか分かっていないようだ。彼女が目を開けたとき、心がまるでどこか遠くから帰ってきた感覚がしたことや、そのために、まるで自分の魂を体に呼び戻すように、大きく息を吸い込まなければいけなかったことは、彼女にしか分からない。これが儀式というものなのだろうか。過去の黄緑の国の王達も、そして他国の王達も、王衛就任の儀でこんな気味の悪い経験をするものなのだろうか。
 トエトリアは後ろを振り向いた。王衛になったシェドが、服を着替えて中枢の扉から出てくるところだ。身に付けていた死装束は縦に長細く折りたたまれ、肩から腰へたすき掛けにして王衛を表す帯飾りになっている。剣帯は黄緑の国の所属であることを示す黄緑色で、剣を二本吊っていた。細身で短い方があの守護の剣で、もう一本のものは近衛兵が持っている剣と同じだ。改めて守護の剣を見ると、柄には国の紋章である神魚が透かしとして彫り込まれており、全体的に華奢で、実用というよりも飾り用に見える。それでも実際には石に突き刺さるほどの、とんでもない切れ味の剣なのだ。
 シェドに続いて、儀式の間にいた二人の神官達も出てくる。彼らは互いに言葉を交わしていたが、小さな声だったので彼女には何を言っているのか分からない。シェドがそれに気づいて、鋭い動作で彼らを振り返ると、神官達は揃って口を閉じた。トエトリアには、シェドが彼らを無言で戒めたように見えた。とすれば、神官達は何かよくないことを言っていたのだろうか。
「さあ、すべて終わりました。戻りましょう。姫様も随分お体を冷やしてしまいました」
 左大臣がトエトリアの様子を気遣って、皆を急かす。確かにトエトリアはくたくただった。寒い部屋で散々緊張して、冷や汗もいっぱいかいた。悪寒も止まらない。結局私室に戻った彼女は、すぐさまベッドに寝かしつけられて薬草茶を飲む羽目になってしまった。悪寒の説明が、上手く出来なかったからだ。おかげで儀式の間で体験した不気味な記憶の欠落は、風邪をぶり返したせいにされてしまった。
 日が暮れると大臣達が見舞いに訪れ、最期にシェドが現れた。トエトリアは暖炉の側の長椅子で、しょんぼりと食後の水薬を飲んでいるところだった。
「お加減はいかがですか?」
 彼は一礼をした後、大臣達と同じ言葉をかけた。
 シェドはひと月前に、神殿から城に来ていた。王衛に選ばれるくらいだから、髪は灰色でも黄緑の貴族の血縁者なのだろう。トエトリアの前にもちょくちょく顔を出していたので、どんな人なのか大体分かっていた。他の神官に漏れず、彼は礼儀正しく、過不足ない行動というものをわきまえている。そこから真面目で善良な性格が垣間見えることもあった。表情に乏しいのは神官というそれまでの生活上、仕方がないのかもしれない。仕事中の近衛兵達も同じように無表情な感じだから、さほど気にはならない。王衛の儀を終えたからといって、彼は人が変わったようには見えなかった。ただ儀式で疲れているのか、少し悲しげな様子が目元や声色ににじんでいる気はする。
「本当に、あれでよかったのかな」
 トエトリアは尋ねてみた。儀式のことがどうしても気になってしょうがない。王衛ならば遠慮なく聞いていい相手だ。あの儀式が持つ秘密を共有しているのだから。
「それから、あの部屋の奥はどうなっているの? 守護の剣が置いてあるだけ?」
「恐れながら……」
 シェドは長椅子の脇にひざまずいて答えた。
「あの部屋に何があるか、口外してはならないのです。部屋に入ることが出来るのも、王衛と星の神殿の神官だけです」
「……それは、剣以外にも何かあるってこと?」
 トエトリアが探りを入れると、相手は困ったように微笑んだ。
「確かに剣が安置されています。剣には代々の王衛達の記憶が残されており、それが王をお守りするために役立ちます。剣は王の身に降りかかるあらゆる危機を、はねのけてきたからです。この話はご存知でしょう」
「うん。じゃあ、私に降りかかる危機も、剣ははねのけてくれるの?」
「もちろんです。しかし幸いにして、今は穏やかな時代です」
「王の剣が失われたとき、守護の剣は王の剣の側にはなかった」
 トエトリアは国の歴史の一節を口にする。黄緑の国の王剣は、七百年前に失くなったのだ。
「悪い魔法使いを倒すために、当時の王子が、姉であり王であった人の棺から、勝手に王剣を持ち出してしまったのよね」
「はい。以来、王子のご遺体とともに行方が知れません」
 シェドはトエトリアの言葉に頷いて答える。王の剣が失われたということは、守護の剣が王を守る唯一の剣になってしまったことでもあった。それだけに王衛は、いっそう重大なお役目になってくる。
 トエトリアは儀式の間の隣室に、守護の剣以外に何があったのか、なんとなく分かるような気がした。シェドの沈んだ様子は、七百年前に王剣の持ち主を守れなかった、守護の剣の無念にあるのではないだろうか。ならば彼も、あの儀式で、形は違えど彼女と同じように不気味な経験をしたのではないだろうか。
「儀式の最中、私が意識を失ったのに、気がついた? 私、あなたの首に剣を置いた記憶がないの」
 トエトリアははやる気持ちを押さえつつ、口元に手をあて、小声で話す。脇の小机を隔てて、女官達がトエトリアの寝仕度の用意をしていたからだ。シェドもちらりと彼女達の方へ目を向けた。彼も他の者に聞かれるのはまずいと思ったらしい。声を落として答えた。
「神官達もそれを気にしていたのです。しかしながら私を含め彼らも、姫様が気を遠くされたのは、剣を取り落とされた一瞬だと思っておりました」
 彼は腰にさした守護の剣を、ちょっとだけ引き抜いてみせる。澄み透った刀身がトエトリアの瞳を映している。シェドの答えに、トエトリアは当てをはずした気になってがっかりした。
「姫様はまだ即位をしておられませんから、お力が不十分であったのかもしれません。この剣を手に取るだけでも、それなりの気力が必要なのです。しかし決して忘れないでください。王衛を任じられるのは、王だけです」
 それから彼はわずかに覗かせた刀身へ、自分の指を押し当ててみせる。トエトリアは、あっと声を上げそうになった。シェドが再びその指を彼女の方に見せると、細いあざが出来ただけで、血は流れていない。
「私が王衛と認められた証です。姫様も剣を握られたとき、手を切ることはございませんでした」
「……そうだね」
 トエトリアには、自分の感じたことを伝えられるだけの言葉で、うまく話すことが出来なかった。剣が彼女を主だと認めているのは、間違いないようだ。けれども儀式の最中に意識を失った理由ははっきりせず、それが拭いきれない不安としてずっと心に残っている。
「あのね。剣の間は、怖い所だった?」
 シェドはトエトリアを見返した。暫くした後、彼は頷いた。
「二度とあの儀式の間に入りたいとは思いません」
 トエトリアは答えを聞いて、ようやくにっこりと微笑んだ。やはり王衛にとっても、儀式は恐ろしいものだったらしい。王衛の本音を引き出して、彼女は満足した。
疲れました 城にはたくさんの秘密が隠されていて、それが城の力となっている。いくら王でも、城の秘密を全て知ることは出来ない。けれども知っている秘密も知らない秘密も、すべて受け入れることが、王には必要なのだ。今日あった二つの儀式にも、城の秘密はいっぱい隠されていたに違いない。もし自分が正式に王となれば、儀式を執り行う度、今日のように不可解な経験をすることもあるかもしれない。だとすれば、それをいちいち怖がっていては、王は務まらないだろう。
「寝る支度ができたみたい。私、今日はもう休みます」
 トエトリアが告げると、シェドは頭を下げて身を引いた。彼女は長椅子からぽんと飛び降り、寝室の扉へ歩き出す。控えていた女官達が扉を開ける。寝室の向こうのバルコニーから、色とりどりの光の粒が散るのが見えた。春迎えの祭りで放つ、花火の試し打ちらしい。
「すごい!」
 トエトリアは歓声を上げ、バルコニーへと駆け寄った。花火の輝きは、城の秘密がつまった暗い中枢の記憶を、彼女の頭からいっぺんに追い払ってくれた。

 花火の音に耳を澄ます、ひとりの若い女性がいた。どこにでも変わり者はいるもので、アニュディもそうだ。城の中層に位置するひとつの町の、たった一人の住人だった。
 石人の数が減ってから、人の住まなくなった町は他の国同様、この黄緑の国にもたくさんあった。大ざっぱに廃地とよばれるこういった無人の町は、水門が閉じられ井戸は干上がり、日に一回兵士が見回りに来るくらいの寂しい所だ。
 アニュディは城に許可を取って、廃地となった町のひとつに住んでいた。下層の巨大な城内都市に住んだ方が、生活はずっと便利かもしれない。けれども変わり者の彼女は、不便で静かなこの町の方が好きだった。
 町には、石造りの家々が通りに沿って綺麗に並んで建っている。どの家も中庭を四角く囲う平屋だが、中庭は通りよりも一階か二階分低く掘り込まれた位置にあり、中央に水場が設けられている。各階は階段状に重なっているために、中庭にいても広い空を見上げることが出来た。高所から町を見下ろすと、家々は塩の結晶のように見えるだろう。
 彼女は大きな中庭を持つ家を自宅に選び、庭でたくさんの薬草を育てている。通りの入口を閉ざす門の鍵は彼女が管理し、夜になれば門の戸締りも忘れない。自分一人で町を独り占めする気分は最高だ。若い女性の一人暮らしを心配されたり、変人ぶりを面白がられたりもしたが、彼女は気にしなかった。泥棒を返り討ちにする魔法ならよく知っているし、自分でも自分のことをちょっと変わり者だと認めている。しかし人嫌いかと問われれば、そういうわけでもないと答える。月に二回は友人知人を集めて、近所迷惑の心配もなく、夜遅くまでパーティーを開くのだから。
 通りでは一軒の家だけが玄関に、ドライフラワーを巻き付けて飾った粗末な木の脚立を出している。その上には目の粗い葦の丸駕籠が置かれ、光の玉を納めた香ランプが籠の内側でぼんやりと輝いていた。日が暮れると玄関先に明かり香を灯すのが、人の住む家の習わしだ。香が尽きて明かりの消える頃が、町が眠りにつく時間だった。
 アニュディはその日も日暮れの鐘を聞き、中庭に面した地下二階から一段ずつ階段を上って、明かりを灯しに行った。たとえ自分がたった一人の住人でも、彼女はこの慣わしを大切にしている。夜に城を遠くから見たとき、この灯りがとてもきれいに城を飾ると聞いたからだ。ここより上の層に住む彼女の家族も、この灯りを見れば、彼女が何事もなく生活しているのを知ることができる。
「……あらあら、もう花火は終わりなんだ。試し打ちなら仕方ないわね。たまには賑やかな夜もいいものだけど」
 彼女は再び作業台のスツールに腰掛け、そっと台の上を片手でなぞる。乳鉢の冷たく重い胴が、小指に触れた。
「今日中に、これだけでも終わらせなきゃ」
 アニュディは呟いて、台の上の乳鉢を引き寄せる。
 ごろごろと乳鉢を擦る。乳棒の先でパチパチと弾ける、乾燥した堅いつぼみの音。ほのかに立ち昇る未熟な花弁の清々しい香り。中庭に向かって大きく開いた窓は作業台の正面にあって、冷たい風で部屋を満たしている。
「今夜も冷えそうだな。よし。もうひとつまみ春の呼び手を加えて、この寒さを退治してやる。青黄金の花はどこだっけ」
 彼女は手を止めて立ち上がる。片手を上に伸ばすと、梁にずらりとぶら下げた香草と薬草の束に当たる。彼女は指先で薬草束に触れ、その香りを確かめながら、梁の下をゆっくり歩く。青黄金の花はすぐに見つかった。乾いた茎を一筋抜き取り、薬草束の列を指で確かめながら作業台へ戻る。
 乾いた茎からしごくように青黄金の花の芽を摘み、片手で探り寄せた乳鉢に移す。さらに腕を台の奥へ延ばし、蜂蜜の鈴付小瓶を引き寄せる。ひと匙を乳鉢へ加え、瓶を元の場所へ戻す。
 やがてしばらく途絶えていたすり鉢の心地よい響きが、彼女の仕事部屋に戻ってきた。
「やつぱり冷えてきた。春呼びの香が去年より入りようなのも、納得ね」
 練りあがった香を小分けに丸め、乾燥棚へ納める。それから作業台の上に身を乗り出して、窓を閉めようと片腕を前へ泳がせた。
 最後の夕の風が、中庭からさっと吹き込んだ。彼女は首を傾げる。微かだが、風以外のものも通っていった気がしたのだ。むしろそれが夕の風を部屋に導いたのかもしれない。
 アニュディは少し迷い、窓の扉を開けたままにしておく。それから背筋をまっすぐに伸ばした。
「どちら様? お客さんなら玄関から入ってもらわなきゃ。風に紛れて入ってくるなんて、礼儀知らずね」
 彼女は努めて明るく、はっきりとした声を出す。こういうとき、怖がっていることを相手に気取られたら駄目なのだ。暫く耳を澄ますが、何の物音も聞こえない。何か入ってきたと思ったのは気のせいだったのだろうか。
 彼女が緊張を緩めかけたとき、彼女の背後、部屋の壁際辺りで、かすかな衣擦れの音がした。
——やっぱり何かいる!
 アニュディは振り返り、余裕を装いながら、腕を組んで作業台に軽くもたれ掛かる。本当は胸がドキドキしている。魔術の縄で進入者を縛り上げようかとも考えるが、いざとなると気が動転して呪文が思い出せない。情けないものだ。
「部屋の明かりをつけてあげましょうか? それとも用がないなら、さっさと出ていってくださいな。それがお互いのためじゃない?」
 考えた末に、もう一度呼びかけてみる。まずは相手の正体を見極めようと思ったのだ。
「明かりはいい。私は物を見るのに、明かりを必要としない」
 返ってきた言葉は少年の声色で、まるで水の奥から発せられたようにくぐもって遠かった。
 アニュディは思わず眉根を寄せる。強盗と思った相手が子どもだとは、予想外だ。しかし子どもならば、魔術を使わなくてもどうにかなるかもしれない。
「とりあえず窓は閉めるわ。私も明るかろうが暗かろうが、どっちでもいいの。ただ、冷えてきたから」
 アニュディは言いながら窓を閉める。その背中に再び声が聞こえる。今度は先程よりしっかりした音だった。
「翼を貸してもらいたい」
「翼?」
 またしても予想だにしていない言葉に、アニュディは飛び上がるようにして振り返った。それでもすぐに口元を引き結び、頭を振る。
「だめよ。用事より先に、名乗ってちょうだい。あんた、人の家に勝手に入ってきて何様だっていうのよ。いい加減にしなさい。家に帰らないと、親に言いつけるわよ」
「私は子どもじゃない。魔法使いだ」
「はいはい。そうね。そうみたいね」
 アニュディは口ではいい加減に答えながらも、頭では先ほどから少年が話した言葉を反芻していた。翼を持つ自分のもう一つの姿を言い当てたということは、相手はよほどの魔法使いだ。子どもでこれほどの才能を持つ者はまずいない。普通は長年の修練が必要なのだ。
「あんた、いい目を持ってるようね。でも、おあいにく様。私も大人じゃない。ただの調香士よ。だから翼も貸さないわ。ほら、話はおしまい。家に帰りなさい」
 アニュディは次の行動にあれこれ思いをめぐらせ、舌を噛む。この少年をどう扱えばいいのだろう。少々くらいなら痛い目に合わせるのもいい薬かもしれない。しかしただの不良少年と言い切れる相手でもなさそうだ。
 途切れ途切れの不安定な声が、再び彼女にかけられる。
「今夜は城の中枢の扉が開いている。分かるか」
 アニュディは時間稼ぎとばかりにのろのろと答える。
「知ってるわよ。王女様が王衛を迎えられる儀式をなさったはずだから。あそこの扉、巨大すぎて開けるのも閉めるのも、一日がかりなんですもの」
「あの扉が開くと、城の力は弱まる」
「ふむ。そうかもしれない。あそこは城の急所だから。だから特別なときにしか開けない」
「城の力が弱まると、その裏で力を取り戻すものがある。基礎石の内部には水の通り道がある。あれは、ただの水か。これほど静かな場所に住んでいるのだから、あのかすかな音も聞いたことがあるだろう。それともあの音を聞くために、ここに暮らしているのか」
 アニュディは組んでいた腕をほどいた。
「……あなた、ただの魔法使いにしちゃ、ちょっと鋭すぎるね。本当に子どもなの? 私をだまそうとして、魔法で声色を変えてるんじゃない? だとしたら、こちらも手加減しないわ」
「魔術は必要。死者は息をしないから、口もきけない」
 相手の声が再び揺らいで遠くなる。それとともに床板のずっと下から、何かの力が立ち昇りつつあるのを彼女は感じた。それは厚い石と土の層の下。城を支える基礎石から。
 城がこの得体の知れない者から、自分を守ろうとしている。アニュディはそう感じた。この自称魔法使いが高い魔力の素質を垣間見せながらも、せいぜい粗末な魔術で少年の声色を使っているだけなのは、城の力のせいかもしれない。城の力は、城民に害をなすあらゆる存在を封じると言われているのだ。けれども、それはあくまで王が城の力を用いるときの話。黄緑の城には、王女はいても王は不在だ。何か嫌な予感が胸の奥で頭をもたげてくる。
 声はくぐもり、さらに消え入りそうになった。相手は明らかに、城の力に押されつつある。
「時間がないようだ。翼を貸すか貸さないか、今すぐ決めろ。貸すならば、それに見合う代償を払う。そうでないなら、代償を払うことになるのはそちらだ」
「代償?」
「この運命を受けるかどうか、決める時間もあなたにはない。下から何か昇ってくるのが分からないか。この力は私だけを打ち倒して、あなたはそのまま無傷で残す、そんな器用な真似は出来ないぞ」
 声は小さくなる。部屋に立ちこめてきた城の力は、アニュディの肌までちくちくと刺してきた。言われるように、何かもっととんでもない存在が近づいてくる予感がする。部屋に立ちこめる力は、それの気配にすぎないのかもしれない。
「あんた、この城の何を呼び出したって言うの」
「何も。呼び出したのは王だ」
「嘘。今は空位のはず……」
 気づけば、彼女の手のひらは冷や汗でびっしょりだった。相手の言葉を信じるつもりは無いが、近づいてくる何かから、とにかく逃げ出したい。何の根拠もなく突然湧いた焦りが、彼女を支配した。
 部屋の片隅で何かがはじける。強い芳香が広がった。青黄金の花の甘い香り、白星草の清々しい香り、朱妃木の香りは他のどの香の中でもすぐにそれと分かるほど華やかだ。乾燥台に乗せた香の玉が次々と、力に反応して燃え始めている。この分だと一番高価な光香も燃え出し、部屋には白い光の霧が濃く漂い始めているに違いない。
 彼女の耳元を、炎の音がかすった。梁に下がった薬草も、火の粉を上げて燃え落ちている。香りの奔流の中、彼女の焦りは一瞬にして激しい恐怖と弾ける。
「分かった。翼を貸す。だから早くここを離れましょう。私を早くここから出して!」
 言い終わらないうちに、部屋の隅で床板を蹴る音がした。驚く間もなく、アニュディは誰かの背に担がれる。作業台の窓が開く音がしたかと思うと、彼女は思いきり体を振り回された。
 冷たい夜気が頬を打ち、髪の中を通る。室内の強い芳香は薄れ、馴染みある薬草畑の香りと、砂利を踏みしめる音がした。どうやら中庭に飛び出したらしい。
「発て! 風を送る!」
 すぐ脇で、少年の声が聞こえた。今度はしっかりとした声だった。生身の体から発せられたものとほとんど区別がつかない。
 アニュディはすぐさま姿を転じる。自分を担いでいた少年は、押しつぶされる前に彼女の首筋に飛び乗った。彼女は苛立って大きく頭を振る。しかし、しがみついた乗り手は振り落とせなかった。四肢をばねに跳躍すると、魔法で呼ばれた風が彼女の翼を打った。
——飛び立ってしまった!
 上空の風を捉えたアニュディは後悔する。後戻りはできなかった。目の見えない彼女は、もう一人では地上に降りることができなかったのだ。

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