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(一)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つひに盗となる      普聞 隆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巣善騎射、喜任侠、粗渉書伝、屡挙進士不第、遂為盗。
      (『資治通鑑』巻二百五十二)

 

 

 

 

 

 

 

 

――黄巣(くわうさう)は崇真館(すうしんくわん)に急いでゐた。

 大中(だいちゆう)十一年(八五七)。麗(うら)らかな春の日も夕暮れが迫つてゐる。

 綺羅(きら)を飾つた若者が数人、野遊びの帰りであらう、奇声をあげながら大路の真ん中を揃ひの白馬で駆け抜ける。近づいてくる蹄(ひづめ)の音に、声を嗄(か)らして売り歩いてゐた商人(あきんど)たちは馬の群れが疾駆(しつく)する間はいちやうに塁塊(かたま)り、顔を顰(しか)め、眉を顰(ひそ)めてゐたが、跫音(あしおと)が遠ざかるにつれまたぞろ蠢(うごめ)きを取り戻す。すんでしまつたことなど、まうどうでもよく、騒然(さんざ)めく賑(にぎ)やかさ、哄笑(わら)ひ、雑然たる活気とで広い大通りはたちまち元に戻つてしまふ――大唐長安(ちやうあん)。

 都大路はいやが上にも殷賑(いんしん)を極めてゐた。

 日が落ちる前にと車塵(しやぢん)の中を異国の果物(くだもの)を溢れんばかりに満載した馬車が急ぐ。果物ばかりではない。獣肉(けものにく)や魚、檻(おり)の中には囂(かしがま)しく鳴き声をあげる豚や鶏もゐた。山いつぱいに積みこまれた陶器。大小長短の材木。新しい家具まである。重くて潰(つぶ)れさうな車重(しやちよう)を人も牛も喘(あへ)ぎながら牽(ひ)いていく。野菜や穀物、花や饅頭(まんぢふ)を担(かつ)いださまざまな天秤棒(ぼてふり)がせはしげに行き交(か)ふ。歩道には髪を胡風(こふう)に装(よそほ)つた女たちが春の夕暮れに誘(いざな)はれるやうに、片手で大きな羽根扇(はねおふぎ)を優雅に揺らし、艶(なま)めかしい笑みを紗(うすぎぬ)の裡(うち)に隠して寛然(ゆつたり)と進む。どおん、どおんと通りの先から太鼓の音が近づいて来る。だが人々は一向に驚かない。黙つて道の端によるだけだ。やがて大路の中央に現れたのは、厳重な警備に囲まれて宮殿から退(さが)つてくる外国の使節たち。その行列が延々と続く…。

 ――黄巣(くわうさう)はまた不合格だつた。

 今回は自信があつただけに巣(さう)は礼部(れいぶ)南院(なんいん)の東側築地(ついじ)に立てられた榜(たてふだ)の前に釘付けになつた。両の目が、墨痕(ぼつこん)鮮やかに認(したた)められた登第(とうだい)(合格)者一覧を前から後、後から前へとめまぐるしく往復した。だが何度確かめても自分の名を見つけることは叶はなかつた。

 巣(さう)は失望し、かつ落胆した。

 だがこの時、巣に奇妙な考へが過(よ)ぎつた。

 (おれの名前を愚かな吏員(りゐん)が間違つて書き落としたに違ひない)

 といふ、愚にもつかない考へだつた。

 (ふむ。有り得ない話ではない…)

 さう思ふと今度は逆に        

 (いや、きつとさうに違ひないのだ)

 と強く確信してしまつたのだ。だから巣はかう決意した。

 (それなら、ここにはまうゐる必要がない。崇真館(すうしんくわん)には登第者の名が彫つてあるはづだ…)

 黄昏(たそがれ)近くになつて巣(さう)が礼部(れいぶ)南院(なんいん)から崇真館(すうしんくわん)へ向かほふとしたのはかういふわけだつた。

 そこに行けば必ず自分の名前が彫られてゐる。巣はさう信じてゐた。そして今頃はこの過(あやま)ちを詫びるために天子からの早馬が故郷の曹(そう)州に急いでゐることだらう。

 かう思つた時、巣はくくッと嗤(わら)ひを堪(こら)へきれなくなつた。

 (人間誰しも間違ひはあるものさ)

 ひたすら平伏して謝罪する使者にさう言ひ聞かせてゐるわが身を考へたとき巣は妙にうきうきした気分になり、崇真館(すうしんくわん)の望楼が深い森の向うからにゆつと現はれたときにはまう間違ひなく合格者になつてゐた…。

 そのすぐあと――。

 歓声と喧噪を避けるやうに巣は走つた。子供みたいにかぶりを振りながらも決して走るのをやめやうとはしなかつた。涙が自然に溢れてくる。角を曲がり人目を避けるやうに小さな横丁に折れたとき巣の足は初めて遅くなつた。それからとぼとぼと歩き始めたがそれは崇真観とは逆の方向だつた。歩くたびに首から上は未練がましく元の場所に戻らうとするのだが足はそのまま前に進む。

 巣(さう)は肩で大きく息をした。

 (…これまでの失敗は詩作の拙さだつた)

 溜息(ためいき)を吐くと頭の底に沈めたはづの苦々しい思ひ出が泡のやうにぶつぶつと湧き上がつてきた。

 (…だからこそ、この三年間は明けても暮れてもそればかりを稽古してきたのに。押韻(おういん)に平仄(へうそく)、対句(ついく)と愚にもつかぬ事ばかりに時を過ごしてきたのは何のためだ。――いや。詩は出来てゐた)

 科挙の受験勉強。それは巣が自らに課した拷問(がうもん)であつた。

 本来が野趣豊かな自然児として育つてきた男だ。故郷の山河を馬で颯爽(さつさう)と走り回ることがこの男の性根(せいこん)だつた。糸のやうな柳の花を追ひ、春の水面(みなも)に己(おのれ)の凛々(りり)しい姿を映し、立ちのぼる雲の根を求めて山道を駆け上る。さうかと思へば空山落日(くうざんらくじつ)、秋の夕暮れに人馬ともへとへとになつてやうやく村に辿(たど)りついたこともある。骨まで凍(こご)へるやうな吹雪でも馬と外で戯れてゐたのが巣(さう)であつた。

 その生活を科挙が襲つた。

 拷問(がうもん)はまず巣から目の輝きを奪ひ、顔の表情を一変させた。目は赤くなる一方でそのかはり顔は青くなつていつた。

 それでも初めての下第(かだい)、不合格の時にはまだ余裕があつた。簡単に合格できるものではないと云はれてゐたからである。しかし二度三度続くうちに負けん気の強い巣にとつて不合格はおのれの生き方を頭から否定されてゐるやうに思はれてきた。

 科挙はもはや通らなければならない門ではなく打ち倒すべく敵に変はつた。とうとう巣は一切の外出をやめると云ふ一大決心をした。

 庭に面した円窓(まるまど)からは終日五経を読誦する声と筆を動かす微かな音のみが聞こえるばかりになつた。外に出られなくなつた馬はその寂しさに耐へかね厩(うまや)の壁を蹴つては嘶(いなな)いた。父はその豹変(へうへん)振りに驚き、かつあの乱暴者がと喜びもした。

 だが、母は心配した。

 裕福な塩商人の妻として何不自由なく暮らしてきたこの婦人には、子供に官途を望む夫と、必死になつてそれに応(こた)へやうとする息子の気持ちがどうにも理解できなかつた。官になつてどうなるといふのか、大事な息子が都へ去つてしまふだけではないか。それは大切に育ててきた子供が家からゐなくなることである。家族がばらばらになるのにどうしてさう夢中になれるのだらう。

 それだけしかこの母にはわからなかつた。

 巣のあまりの変はりやうに漠(ばく)とした不安を抱きつつも、母としてできたのは息子の体を気遣ふことだけだつた。母は、輿(こし)入れの時つれてきた実家の老僕毛三(もうさん)に息子をひたすら見張らせた。

 ある日、黄巣の部屋から圧殺(おしころ)したやうな呻(うめ)き声が聞こえてきた。

 言ひつけを守り、目を光らせてゐた毛三がその声に驚き、庭仕事の手を放擲(うつちやつ)て慌てて巣の部屋にとび込んだ。内(なか)には、太股を血塗(ちまみ)れにさせた巣が顔を引き攣(つ)らせ、それでもなほ経書(けいしよ)を読まうと震える手で緗帙(しやうちつ)――浅葱色(あさぎいろ)の書物覆(しよもつおおひ)を繙(ひもと)かうとしてゐる。

 「ぼ、坊ちやま。こりや、まあ、どうなすつたので…」

 巣は慌てふためく爺やに無理にも微笑(ほほへ)む。

 「なあに、眠くなつたので眠気を覚ますために小刀で股(もも)を刺しただけだ」

 かくして数か月後――。

 巣は経書(けいしょ)のことごとくを諳(そら)んじた。

 しかも最近流行(はやり)といふ韓退之(かんたいし)の古文体にまで眼を通す余裕さへ生まれてゐた。詩作も定型からはづれずに一応はそれらしき味わいを醸(かも)し出せるほどに上達した。かうなると師なる人も、うまくいけば探花(たんくわ)も夢ではあるまいと嘯(うそぶ)くやうになる。探花とは科挙での第三位及第者のことである。

 (…合格できるはづだつた。それとも詩にはやはり天賦の才がゐるのだらうか。さうだとすれば―)

 と巣は自嘲した。

 (おれは未来永劫(みらいえいごふ)、進士になることはあるまい。これが騎射や撃剣だつたら少しは望みもあつたらうに)

 街衢(がいく)から曲巷(きよくかう)へ。路地からまた大通りへ――いくつ辻を曲がつたのか。

 この時、ふと一人の男の顔が浮かんだ。

 挙場(きよぢやう)で隣室にゐた人である。挙場とは科挙の試験会場をいふ。そこでは挙子(きよし)、すなはち受験生に個室が与へられる。部屋には外から覗けるやう腰から下を隠す半戸しかついてゐない。通路を巡視する役人に分かるためと云はれてゐるが実のところ試験に耐へきれなくなつた挙子の自殺を防ぐ工夫だつた。

 壁一枚で仕切られた半戸の部屋が横並びに長屋を作り、それが数十棟も延々と続いてゐる異様な空間が挙場なのである。

 その室内で挙子が眼に出来るものといへば限られてゐた。

 まず三方を取り囲んでゐる壁。通路の向かう側にある別棟の裏壁。それだけである。挙子はこの無表情な空間の中で自炊しつつ何日もかかつて答案を仕上げなければならない。無論この期間中、そこから一歩も外には出られない。それゆえ個室には焜炉(こんろ)、寝台、厠(かわや)が揃つてゐた。

 「あの人は変はつてゐたなあ…」

 黄巣はぽつりと思わずかう呟いた。

 四十に手が届かうかといふ年齢はさほど珍しくはない。生涯を科挙に費やす者だつてゐる。七十を越えた老書生が動けなくなり、なほ荷車に乗せられて挙場まで運び込まれたこともある。だから年を重ねてゐるからと云つて特別な存在だといふわけではない。

 けれども垢染(あかじ)みて薄汚れた衣服はもとより、鳥の巣よりも乱れた髪を全く気にせず六尺もあらうかといふ巨体を屈(こご)ませ筆をとる姿は想像するだに滑稽である。

 ところが詩作に入るやこの人は別人のごとくなるのだ。

 (――あの人は一瞬のうちに書き上げた)

 黄巣はその時の驚きを不思議な懐かしさと憧憬の念で思ひ出してゐた。その人は詩を作り終へるとしばらくもごもごと口哦(こうが)してゐた。

 ――が、突然大きな伸びをしたかと思ふと、急に悪戯(いたずら)つぽい目つきに変はり見張りがゐなくなるのを幸ひに、にはかに半戸から身を乗り出し、隣室の黄巣に小声で話しかけてきたのである。

 「おぬし、詩はお得意か」

 黄巣は苦虫(にがむし)を噛み潰(つぶ)した声でそつと答える。

 「あまり得意ではありません」

 男はさらに尋ねる。

 「さうか。それでは随分お困りだらう」

 苦心してゐた巣は笑はれてゐると思ひ返辞をしなかつた。ところがその男は仰天(ぎゃうてん)するやうなことを言ひ出したのであつた。

 「よかつたら小生のものを使はれよ。なあに、気にすることはない。この頃はみなかうだ。」

 それから男は身を引つ込めるとさらさらと筆を動かした。その音が急に止まつたかと思ふと突然くしやくしやに丸められた紙が巣の部屋に投げ込まれてきた。拾い上げて皺を伸ばすと詩が添へてある。文字は書きなぐられてあつたが押韻(あふゐん)、平仄(ひやうそく)、対句(ついく)の妙はもとより字眼(じがん)となる適字が納まるところに納まり、神韻縹渺(しんゐんへうべう)、たうてい巣の及ぶことのできない出来映(できばえ)である。

 巣は惨めになつた。

 このままこれをそつくり写し取つたらどれほど楽だらうかとの抑へがたい衝動がにはかに起こつた。けれども自然の中で育つた者だけに特有の一種独特な感覚がそれを阻止させた。巣は投げ込まれた餌に隠してある毒のにほひを感じとつた。

 「ご好意には感謝いたしますが――」

 と巣はその紙を返しながら小声で言つた。

 「私にはこんなに巧くは出来ません。でも自分で作つてみたいのです」

 すると意外なことに男の弾んだ声が返つてきた。

 「さうかい。うん、さうでなくつちや。しつかりやつておくれよ」

 それは嬉しさを隠し切れないといふ響きだつた。

 

 …我に返つた黄巣の目にふと這入(はい)つてきたのは荒れた大きな門である。

 ただ荒れてゐるといふのではない。見る影もない有様なのだ。しかし崩落した軒(のき)や壁の一部に微かながらも朱や金泥(こんでい)の跡が残つてゐるのを見ればそこが嘗(かつ)ては豪邸であつたことだけはわかる。大きな門はすつかり崩れ落ち、黒く焼け焦げた門構へは骨組みだけが形ばかりを留めてゐる。

 こんな屋敷にも春はやはり訪れるらしく、門内のいたるところに新緑は萌え、焼けて黒づんだ大きな土台石の傍らにも若い草が芽を出してゐた。それにもましてこの空き地を覆う木々の無造作に伸びたいつぱいの枝からは、赤や白、黄色の花が零(こぼ)れんばかりに咲き誇つてゐた。

 ところがその華やかさとは裏腹に、樹木の間から垣間見へるのは屋根を失くし、焼け爛(ただ)れた無惨な姿のまま、幾十星霜も風雨に晒(さら)され、今や枯れ木と化しつつある何十本もの墓標のやうな柱だつた。

 塀の壁はもう土塊(つちくれ)といつてよいほどに形貌(すがた)を変へてゐるのに、門の前には真新しい立札がぽつねんと立つてゐて、そこにただ一字、「奸(かん)」とだけ黒々と書かれてあつた。

 道を挟んだその向ひ側には大きな楡(にれ)の木があり、その亭々(ていてい)とした姿がこのあたりの佇(たたず)まいをいつさう森閑とさせてゐる。

 ――巣はこの木の根元にゆつくりと腰をおろした。歩き疲れてゐた巣はそのまま両目を閉ぢた…。

 

 肩を、とん、とん、と叩かれたやうな気がした。

 うつすらと開けた瞼の奥には相変わらず荒放題(あれはうだい)の屋敷の跡しか映らない。もう黄昏(たそがれ)だつた。

 突然。

 目の前にある築(つい)泥(ひじ)の黒い瓦が急に上に飛び上がつた。

 巣はどきりと目をみはる。とたんに頭の芯にぴしやりと鞭がおちた。黒い瓦と見えたのは鴉(からす)だつた。おびただしい数の鴉が廃屋のいたるところにゐた。

 「おいおい…」

 と今度は後ろから声がした。あはてて振り向いた巣はそこに一人の老人を見た。

 (道士…)

 色褪(あ)せた道服に胸まで鬚(ひげ)を垂らした老人が巣の顔を見て微笑(ほほゑ)んだ。笑ふと眼が隠れてしまう白い眉だ。

 「ほほう、生きてをるわ。いつたいどうしたのぢや。このやうな所で。…どこぞ具合でも悪いのかな」

 老人の問ひかけに巣は無愛想に答へた。

 「――別に。ただ何もかもが嫌になつただけです」

 吐き棄てるやうな言葉に巣はわが身を疑ふた。こんなことを言ふつもりはなかつた。別に何でもありませんと、さう言はうと思つてゐたのに舌が勝手に動いてしまつたやうだ。だが老人はその言ひ方を格別気にする様子はない。それからまるで巣の言葉を反復するかのやうに己(おのれ)の口の中で、嫌になつたか…と呟いた。

 それから当然のごとく巣の横に腰をおろした。

 「はてさて、息苦しい時代になつたものよ。塩も買へぬ」

 「塩?」

 聞き返した巣にその老人は大きく頷いた。

 「さうぢや。塩と言ふた。よいか、塩はもはや金銀と同じぢや」

 「どういうことでせう」

 と尋ねた巣の顔を見て老人はにやりと笑つた。それから長く伸びた白い鬚(ひげ)を片手でゆつくりと扱(しご)きはじめる。

 「そなたはいづれより来た?わしは久しぶりに都にやつてきたのだが、ほれ、塩の値がなんと五百にも上がつてをる…」

 この時、鴉(からす)が一羽、急に甲高(かんだか)く鳴いて空に上がつた。

 するとその声につられるように喧噪(けたたま)しい鳴声があちこちに起こり無数の鴉がわれさきに夕闇の空に舞ひ上がつた。

 空がたちまち黒く波打つた。

 「…李唐(りとう)そのものぢや」

 ふと洩(も)らした老人の一言を巣は聞き逃さなかつた。異様な言ひ方だ。巣は、〈李唐〉といふ不遜な言葉に何かしら不快感を禁ぢえなかつた。

 創始者の姓をつけて国号を呼ぶのはその王朝が〈歴史上の存在〉になつたといふことである。それではまるで生きてゐる人物を戒名で呼ぶやうなものだ。

 「そなた、挙子であらう?」

 唐突な問ひかけに勝手な物思ひとささやかな反発を抱いてゐた巣はどぎまぎした。思はずこくんと頭を下げた。その子供じみた仕草に老人は微笑(ほほゑ)んだ。それからその顔ではと言つた。

 「どうやら落ちたらしいな。もつとも登第してゐたら今頃は曲江(きょくこう)で大宴会の最中ぢや」

 巣は唇を噛んだ。しかし老人は巣の気持ちなどもうどうでもよいらしく、独り言のやうにぶつぶつと勝手に話し出す。

 「惜しいかな。相(さう)を見れば、まさに国初の魏徴(ぎちよう)にも劣らぬものを」

 巣は今度は面食らつた。魏徴(ぎちょう)といへば大唐創建の功臣ではないか。

 「――で、そなたには解(わ)かつてをるのか」

 と無頓着に老人が尋ねる。

 「は?」

 巣の驚く顔を見て老人は何がをかしいのか声を立てて笑ふ。それからゆつくりとした口調でかう言つた。

 「ふふ。どうやら解かつてはをらぬやうぢや。下第(かだい)の原因がその不敵な面構(つらがま)へだとはな。監督に当たる知貢挙(ちこうきょ)がその顔に怖れをなしたか。もつとも、その精悍(せいかん)な顔つきでは無理もあるまいが…」

 巣にはこの老人が何を言ってゐるのか皆目見当がつかなかつた。だが、どうやらこの人は自分の失敗の原因を知つてゐるやうだ。

 「私は愚昧(ぐまい)ゆへに仰(おつ)しやられてゐることが良くわかりませぬが…」

 しかし老人は巣の言ふことなど全く聞いてゐないかのやうに、なほも独りで語り続ける。

 「…あやつらは少しでも気骨のある人物と見ればすぐに《叛相(はんさう)あり》と朱を入れたがる。その顔では――」

 老人は大きく嘆息しつつ、

 「だから李唐はだめになったのぢや…」

 と最後は怒りのやうでもあり言葉にはならなかつた。それから老人は改めて巣の人相をじつと見た。

 「そなた、名は?」

 「はい。巣(そう)と申します。姓は黄(こう)です。曹州(そうしゅう)の冤句(えんく)から参りました」

 巣は弾けるやうに答へた。この不思議な老人にはどことなく侵しがたい威厳があつた。それでゐて世間といふ桎梏(しっこく)には囚はれてゐない自由な雰囲気が感じられたのである。ともかく、この人の前にゐる時は巣は素直になれた。昔の自分になることが出来たやうな気がしたのである。

 老人は巣の返辞に黙つて頷いた。

 巣はさらに家業は塩商で、自分が試験のために長安に来たのは三度以上になること、故郷にゐる父と母のことなど、これまでの出来事をつぶさに語つた。

 巣が口を閉ぢたとき、老人は黙つて目の前の屋敷跡を指差(ゆびさ)した。巣はその指差すはうに眼を送つた。

 「巣よ。ここがもと誰の屋敷か、そなた知つてをろうか」

 巣は頭を振つた。

 「ふふ。知つたら驚くぞ」

 「あのう…。どなた様のお屋敷だつたのでせうか」

 「…安禄山(あんろくざん)」

 ぽつりと老道士は呟いた。

 安禄山の名前ならばこれまでにも聞いたことはある。

 なんでも名君といはれた玄宗皇帝に巧みに取り入りその寵臣となつた。しかし欲に目が眩(くら)み、こともあらうに大恩ある皇帝に叛旗(はんき)を翻したといふ大逆臣である。

 二十年ほど前。白楽天(はくらくてん)といふ有名な詩人がこの切掛(きつか)けとなつた玄宗と楊貴妃(やうきひ)の情(こい)を謳(うた)ひあげ、今ではこれが都人(みやこびと)の間でひそかに愛唱されてゐると云ふ。

 (―― しかし、そんな逆臣がどうしたといふのだ)

 「安禄山の話は百年も前の話ではありませぬか」

 訝(いぶか)しげな表情の巣に相変はらず老人は淡々と話し出した。

 「…安禄山の叛乱は天宝の十四年。今が大中十一年ぢやから、さやう、もう百年以上も前になろうか」

 はあ。巣はどう返事してよいのか途惑つた。

(この人はいつたい何が言ひたいのだらう。もうぼちぼち日も落ちやうとするのに…)

 だが老人は相変はらずだ。

 「その時、長安の都は町も城壁もみな壊されてしまつたといふ。それでもさすがに皇城だけは火が出たとはいへ破壊されずにすんださうぢやが、よいか、巣とか云ふたな、昔を知らぬそなた達は今の長安が高祖太宗の頃より何も変はつてゐないと思つてゐようがそんなことがある筈もない。瓦一枚、柱の一本一本に至るまで全てがあの乱の後に作り直されたものばかりなのだ」

 かう言ふと老人はふいに巣を食い入るやうに見つめた。巣は、今はつきりとこの不思議な老人の目を見た。澄み切つてゐる瞳の中にどこまでも深い黒があつた。その黒は悲しみの闇を思はせた。巣はその深みに吸い込まれさうな眩暈(めまい)を感じた。それで思はず目を伏せた。

 老人の話は続く。

 「…だが、ここはどうだ。この百年もの間、誰も手をつけやうとしないではないか。皇城にかほどに近いのに朝臣の誰一人としてこの屋敷を求めやうとはしなかつた。それはなぜか」

 巣は固唾(かたず)を呑んだ。老人が再びにやりと笑ふ。

 「ふふ…それはな。ここが逆臣安禄山のゐた所だからぢや。李唐もあの乱にはよほど懲(こ)りたとみゆる。それでもな、巣よ」

 巣は目で答へた。

 「あの乱の原因をさすがに玄宗の色狂ひにするやうな勇気ある史官もをるまいが、ほれ、なんとか言う詩人――」

 「白楽天でせうか」

 と巣がすかさず答へる。老人はうんうんと頷く。

 「その詩人だけが玄宗の老いらくの恋を皮肉つただけで、ほかの学者どもは禄山の乱を遠く開元二十四年に求めたのぢや…」

 

 開元二十四年(七三六)、安禄山の契丹(きったん)討伐が失敗した時のことだつた。

 当時の宰相張九(ちょうきゅう)齢(れい)が遠征中の安禄山の言動から

 『禄山に叛相あり。断罪にすべし』

 と主張した。だが安禄山を高くかつてゐた玄宗は折角の提言を斥(しりぞ)けてしまつたのである。案の定、安禄山は乱を起こした。玄宗は長安をあとに蜀(しょく)に走る。途中、この老皇帝は側近の者に幾度となく、かつての張九(ちょうきゅう)齢(れい)の諫言を思ひ出しては愚痴つてゐたと云ふ。

 「――その結果が知貢挙(ちこうきょ)(試験官)の判断といふわけだ。すなはち挙子(きよし)(受験生)が心血を注いだ答案に知貢挙(ちこうきょ)がただ一筆『叛相あり』と書き添へるだけで、その答案に〈下第〉の烙印(らくいん)が押されるやうになつたといふ…」

 巣はあつと叫んだ。が、それは声にはならなかつた。呑み込まれた声が咽喉(のど)の奥に吸ひ込まれると体中の毛穴という毛穴から怒りと憤(いきどほ)りと、それにも増して激しい悲しみが噴出した。同時に巣の背筋にこれまで味はつたことのない恐怖心が走つた。顔面は蒼白になり体が小刻みに震へだした。涙が自然にぼたぼたと落ち、それが膝の上で黒い染みを増やしていつた。巣は拳(こぶし)をじつと握りしめ黙つて涙を流し続けた。

 あたりが暗くなり始め木立の周りの闇が次第に濃くなつていく。

 巣はいつしか嗚咽(をえつ)してゐた。その泣き声さへも自分の耳には届かないほど全身を硬直させてゐたのだ。

 「私は――私はどうすれば…どうすればよいのです」

 絞り出すやうな声で巣は尋ねた。

 「…徳を…徳を積めば、この叛相が消えるのでせうか」

 とたんに老人は、あはは、と甲高(かんだか)い声で笑つた。巣はたちまち小さくなつた。

 「徳ぢやと?」

 と今度は嘲(あざけ)るやうに言ふ。

 「偽りの徳こそ進士の身上。大道廃(すた)れて仁義ありとはまさにこのことぢや」

 烈しい口調であつたが言ひ終はると再び穏やかな慈顔に戻つてゐた。それからしみじみと語りだした。

 「なう、巣よ。わしはこれより蜀に戻らうと思ふが…そなた、一緒に参らぬか。さすればゆくゆくは道(タオ)を授けやうほどに」

 巣は躊躇(ちゅうちょ)した。途端に老人は破顔一笑して、

 「ははは。だめぢや、だめぢや。迷ひがあつては仙にはなれぬ」

 と答へた。それから急に腰を上げたのである。巣は慌ててその足元に拝跪(はいき)した。

 「老師さま。まだ――まだご尊名を伺つてはをりません」

 歩きかけてゐた老人はつと立ち止まった。

 「名か…。懐かしい響きぢや。昔は李完(りかん)と呼ばれたこともあるが今はない。巷(ちまた)では鶴(かく)寿(じゅ)真人(しんじん)とも言ふてをるさうな…」

 それから老人は何を思つたのか、もう一度、巣の顔をじつと見た。

 「…どうやらそなたはこの俗塵(ぞくじん)の中で思い切り驥足(きそく)を展(の)ばしたいやうぢやの。まあ、それもよからう」

 はははと老人は大声で笑つた。それから今度は後ろを振り向きもせず、すたすたと夕(ゆう)靄(もや)の中に消へていつた。巣はもう呼び止めやうとは思はなかつた。ただその場に座り込んで小さくなつていく老人の姿を見送りつづけるだけだつた。

 靄(もや)の中に老人がすつかり溶け込んだ後も巣は座りつづけてゐたが、急に、小石をぎゆつと掴(つか)むとすつくと立ち上がり、突然、目の前にある屋敷跡に向かつて投げつけた。小石が朽ち果てた屋根に当たつた途端、鴉(からす)という鴉が喧(けたたま)しい声を立てて空に舞ひ上がつた。

 暗い空が一瞬にして闇に変はつた。

 


(二)

 黄巣は再び雑踏の中を徘徊してゐる。

 巣は焦つてゐた。

 夜が迫つてゐるのだ。

 夜歩きを禁ずる街鼓(がいこ)が鳴る前にどこかに泊まらなければならない。もしこのまま歩いてゐて役人にでも見つかれば少なくとも棒打ちの刑はまちがひない。足はいつしか急ぎ足になり道行く何人かの肩と巣はぶつかつた。そのたびに逃げるやうな背中にむかつて罵声が飛んできた。知貢挙(ちこうきょ)への怒りが歩いていくうちにより大きな存在への憤(いきどほ)りへと変わつていく。しかしそれが何なのか、巣にはもう分からなかつた。得体の知れぬ機械(からくり)のやうな仕組みが自分を、いやもつと多くの人たちを操つてゐると感じてゐた。

 小路が巣の前でぽつくり暗い闇になつてゐる。

 その時、まるで虫が花に誘はれるごとくに巣は疑ふこともなく闇にはいつた。

 路は屈曲してゐた。手探りしつつしばらく歩くと空の黒い広がりが建物の上のはうに仄(ほの)かな明るさを見せはじめた。やがて森の黒々とした木々が剪紙(せんし)のやうな形を見せ始めた。森の右手は小高い丘だ。その中腹に道観らしき楼門がある。それを横目にそのまま歩くと胡風(こふう)造りの頑丈な門扉に出会つた。巣はそれが唐金(からかね)で出来てゐることを知つた。だが巣が覚えてゐたのはここまでだつた。

 ――身体(からだ)がそのままずるずると門の前で崩れ落ちていつたからである。

 

 …馬がゐた。

 遠い道を巣は馬で走つてゐる。

 闇の中だつた。闇は突如として金色の鼬(いたち)に変はつた。

 どこからか声がしてそいつが大唐を倒す黄妖(くわうえう)だと叫ぶ。巣は敢然とその獣に斬りかかつた。黄妖は巧みに剣をかはし振り向きざまに巣に襲ひかかる。馬がたちまち噛み殺された。流れる血の中にばらばらになつた巣の体があつた。

 耳元で聞きなれぬ太い声がした。

 「おお、気がついたやうだ。ピーラ、早くあれを」

 巣は薄目を開けた。明かりの中に見たことのない大男がゐる。その顔が近づいて真上からこちらを覗(のぞ)き込んだ。紫(し)髯(ぜん)緑(りょく)眼(がん)。赤黒い髯(ひげ)と青い目の上背も幅も十分にある巨漢の不安げな表情が喜びに和らいだ。巣はやうやく自分が榻(とう)(寝台)に臥(ふ)してゐることが分かつた。慌てて起きやうとするその身を大きな男の手が遮(さえぎ)る。

奥の方から手に沈(じん)の箱を捧げた乙女が足音を忍ばせてやつてきた。歩くたびにゆらゆらと揺れる巻き毛が碧(あお)い瞳にかかり、鳩色をした服の胸元からは白桃色の肌が輝いてゐる。

 「飲みなさい」

 髯の男はさういふと娘が持つてきた箱から瑠璃(るり)の杯(グラス)を取り出した。琥珀(こはく)色の液体が杯(グラス)の中で揺れる。巣は今度こそ身体(からだ)を起こした。

 「胡酒です。私の国のお酒です。心配ありません」

 巣は頷いて手渡された杯(グラス)を一気に飲み干した。すぐに体の底から熱気が上がつてきて、朦朧(もうろう)とした意識が次第に明瞭になつてくるのがわかつた。

 肩から大きく息が抜けた。

 「有難うございます。何とお礼を申し上げてよいのか…。私ですか?黄巣と申します」

 杯(グラス)を空にした後、巣は改めて男の顔を見た。男は愛想よく笑つた。

 「黄巣さんですか。わたし、ラーク・ムアートと言ひます。あなた方のいふ胡商です。ペルシア人です」

 さう言ひながら、ムアートは傍にゐた少女の肩に手をかけ、

 「娘のピーラです」

 と紹介した。

 長安に胡商の邸宅が多いことを巣とて知らないわけではない。大唐といふ国が生まれた頃には都中に彼らの住まゐする屋敷があつたとも云ふ。

 無論、それには理由があつた。

 西域の大国であつたペルシアが滅亡し、多くの胡人たちが逃げ込んできたのがその第一であつた。しかしそれ以上に唐朝の国風がもともと異国人に寛容であつたことのはうが大きいだらう。なにしろ唐初には胡人であつても朝廷の大官になれたのである。いや建国した李氏自身が胡人だといふ噂さへもあるのだ。

 (それが今では…)

 と巣は思つた。唐朝が漢人化するにつれ胡人は白眼視され、差別され、つひには邪魔者扱ひされるまでになつた。その胡人の世話になるとは、と巣は困惑した。どのように応待すれば…と巣は途方に暮れた。

 「感謝してをります」

 とぴんと背筋を伸ばしてさう言つた後、

 「今日はこれにて失礼いたします。後日改めてお礼にうかがひます」

 とつけ加へた。ムアートはいやいやとその言葉を遮るやうに手を振つた。

 「実はもう既に月が出てをります。先程、六百槌(つい)の街鼓(がいこ)が打ち鳴らされました。いま街を歩かれますと、巣さん、それこそ鞭打ちの刑が待つてをりますよ」

 長安では夜禁(やきん)、つまり夜間の徘徊を固く禁じてゐる。それでも昔は急病人や訃音(ふいん)の者のために〔文諜(ぶんちょう)〕と称する通行手形が用意されてゐたが、これとて安禄山の乱以後は出されることもなくなつた。

 今では夜禁を犯した場合、それが金吾衛(きんごえい)にでも見つかれば撲殺はまず間違ひない。金吾衛(きんごえい)とはすなはち国都警備の正規軍である。ムアートが心配したのはそのことであつた。

 「まあまあ。今夜は私どもにお任せください。ピーラ、準備は?」

言はれたピーラはにこりと頷く。ムアートは鷹揚な態度で

 「さあ、それでは黄巣さん。少しばかり食事をなさつてはいかがでせう。顔色もずいぶん良くなりましたし、あとは温(あたた)かい湯(スープ)が薬になるでせうから」

 と微笑んだ。

 中庭に面した食堂の前には、回廊の庇(ひさし)に吊るされた明かりを受けてぼんやりと青い影が浮かび上がつてゐる。青い胡服に身を包んだ家僕たちが主人のお越しを待つてゐるのだ。三人が席に着くと、一人が腕に抱へてゐた壺を両の手に移し、卓の上に用意してある瑠璃(るり)の杯(グラス)になみなみと酒を注いだ。家僕の動きが忙しくなるにつれ銀の燭台に輝いてゐた蝋燭(らふそく)がゆらゆらと炎を揺らした。

 (――獣脂(けものあぶら)の炎ではなく、高価な蝋燭(らふそく)の明かりだ。長安の胡商は豪儀だといふ噂は本当だつたんだな…)

 巣は揺れ動きながらジジッ…と微かに音を立ててゐる炎の舞に見とれた。

 (それにしてもいつたい自分はどうだ。絶望と自棄(やけ)ばかりで、その挙句(あげく)がかうだ。身も知らぬ異邦人の世話になる情けない有様ではないか)

 その時、ふつと老道士の顔が巣の脳裏を過ぎつた。

 (…これが天命だといふのか。いや、そんな馬鹿な…)

 巣は思はず苦笑した。向かい側に座つてゐたピーラがそんな姿の巣をみてくすりと笑つた。気づいた巣は耳まで赤くなつた。そこで照れ隠しとその場を持たせるためにムアートに話しかけた。

 「私にはどうも解せません。あなたがたがどうして私のやうな見ず知らずの人間にこれほど親切にしてくださるのか」

 この唐突な問ひにムアートは答に窮したらしい。困つている人を手助けするのは当たり前ではありませんかと出かかつた言葉をムアートは呑みこんだ。そんなことを言つたところでこの若者が素直に信じるとは思へなかつたからである。実際、この国には困窮してゐる人々に手を差し伸べるといふ習慣がないとムアートは信じてゐた。

 (いや、一人一人にはその気持ちはあるのだが…)

 ただその気持ちを表す場所と方法がないのだらう。何よりも生活の余裕がなかつた。長安といふ世界屈指の大都会の中で、しかも繁栄の極みといつてもよいほどの賑はひがありながら、生活にゆとりがないといふのも妙な話である。

 だが、これもまたこの古い帝国の偽らざる姿であつた。

 つまりはこの国も他の王朝と同じく、王と貴族とそのほかの貧窮者で成り立つてゐたのである。そして最も人数の多い貧窮者たちにはなぜか自分たちの苦しい訳を知らうとする意欲がまるでなかつた。

 ――特に若者たちがいけなかつた。

 かれらはただ貴族の一員になることだけをひたすら願つてゐるだけなのだ。

 ムアートが口籠(くちご)もつたのはこの事実を知つてゐたからである。

 しかしムアートの中にまだ残つてゐた普遍的な心情が、巣の燃えるやうな眼差しに出会つたことで、この胡商の心を変へた。商人はいま目の前にいる異郷の若者に光を与へなければと決意した。

 「《汝の隣人を愛せよ》と神の子イエスは教へてをります。私どもには聖人ネストリウスから伝へられました」

 「イエス…ネストリウス?」

 長安の西北にある開遠門(かいゑんもん)。

 その城門から遠からぬ所に義(ぎ)寧坊(ねいぼう)といふ街区がある。その中の十字街通りの一角に、今ではすつかり姿を消してしまつたが、かつてはここに波斯(ぺるしゃ)胡寺と呼ばれる寺院があつたといふ。大部分の唐人はここを仏教の寺だと思つてゐたが、実は景教の教会だつたのである。景教とは〔ネストリウス派キリスト教〕のことだ。

 唐初以来、栄えてゐた寺院であつたが武宗の弾圧でここも廃寺となり、それ以後、寺とともに景教そのものが長安の人々の脳裏から消へていつた。

 巣にはムアートの言はんとすることがわからなかつた。

 皆目わからなかつたわけではない。

 『聖人』といふ言葉だけは耳に残つた。すると巣に聖人ならばわが国のはうが本家のはずだと妙な対抗心が出てきた。同時に巣は自問してゐた。

 (しかし、いつたい今の大唐に聖人の教へを信じ、そのまま実践してゐる人が何人ゐるだらうか。それなのにこの胡人はかの地の聖人の言葉を疑ふことなく、しかも生活の中で活かしてゐるではないか)

 さういへば、と巣はさらに思ひをめぐらす。昔は胡人をも高官にしたといふのに、どうして武宗の時だけ胡人を弾圧し排斥するやうになつたのだらう。こう考へた巣の耳に老人の言葉が蘇つてきた。

 (――ここが安禄山の住まゐした跡だ)

 安禄山!――安禄山も胡人だつた。さう思つた瞬間、目の前の蝋燭が不意に視界に入つた。巣は一瞬、酔つたやうな感覚を覚へた。

 その時だった。

 風に揺らいでゐた炎が巨大な火柱と化し、轟音とともに巣の周りはみるみる火と煙の壁と変はり巣に迫つてきた。剣戟(けんげき)の烈しい音と怒声が渦(うず)をなし、いたるところで血しぶきが上がつた。悲鳴がする。切られた腕が宙に舞ふ。

 巣は白い煙に全身が覆はれ、全く視界が利かなくなつてゐた。

 慌てて瞼(まぶた)をこすった時、巣は自分が不思議な場所に立つてゐることに気がついた。

 いつの間にか周りが一面の焼け野原に変はつてゐるのだ。

 崩れ落ちた建物と瓦礫(がれき)だけが堆(うずたか)く山を造り、遥か彼方(かなた)に焼け残つた仏塔が無残な姿を曝(さら)け出してゐる。

 瓦礫の間からは殺された者たちの首や腕などの腐臭が鼻をついた。巣は、この時初めて、自分の後ろに文武の百官たちが悄然とした面持ちで座してゐることに気がついた。彼らは身動きひとつせずに長い間誰かがやつてくるのを待つてゐるのだつた。

 しばらくすると、金色の鳳凰の飾りを屋根につけた輿(こし)が大勢の兵士に護衛され静々とやつてきた。皇帝の鳳輦(ほうれん)である。やがて中から憔悴(しやうすい)してはゐるが喜びを隠しきれぬ顔の老人がゆつくりと降りてきた。七十はとうに越えたと思はれる人物であつた。

 巣の意識はこの時その老皇帝と一体になつてゐた。

 ――老人は玄宗だつた。

 長安に戻つてきた玄宗は帝位こそ皇太子に譲つてゐたが、その威厳は依然として保つてゐた。この前皇帝はすでに蛆(うじ)が湧き吐気(はきけ)を催すまでに腐りきつて散らばつてゐる兵士たちの死体には眉一つ動かさなかつた。整然と待機してゐる百官たちを後目(しりめ)に、あたかも決められた動作だけを演ずる役者のごとく、なんの躊躇(ためらひ)もなく瓦礫(がれき)の広がる原へと足取りしつかり歩いて行つたのである。そして甲冑に身を固めた姿のまま腐臭を発してゐる将軍らしき死体の前まで来た。玄宗はその側に立つと怒りに燃える眼差しでその男を睨みつけ、それから息を一瞬止めると渾身(こんしん)の力をふりしぼつて倒れてゐる将軍の頭を思ひ切り蹴とばしたのである。腐りきつた死体の頭は鈍い音を立て地面に兜ごと転がつた。すると、この時を待つてゐたかのやうに将兵や文官の間から地をもどよめかす歓声が上がつた。

 転がつたのは安禄山の首だつた。

 玄宗はたちまち身を翻して鳳輦(ほうれん)に戻つてきたが、中に入つても終始ぶつぶつ何事かをつぶやいてばかりゐた。

 (…これが長安なのか。ほんたうにここが長安なのか)

 巣には確かにさう聞こえた。

 「黄巣様、どうなさいました?ご気分でも…」

 黙り込んでゐた巣に心配顔のピーラが覗き込む。巣はわれに返つて顔を上げた。目の前のピーラの口元から皓(しろ)い歯がこぼれた。

 巣は改めて訊ねる。

 「――ムアートさん、先ほどのお言葉ですが、もし、もしもですよ、例へばこの私が盗賊だとしたら…その時でもあなた方は《隣人を愛す》といふ教へに従ふのでせうか」

 ムアートは笑つた。しかしその返事は黄巣をさらに驚かせた。

 「もちろんですとも。《上着を取られたら下着までも差し出せ》といふのがイエスの教へですからね」

 それから、ムアートは悪戯つぽい目で巣を見た。

 「では、黄巣さん、今度は私がお尋ねしませう。もしあなたが盗賊だとしたら、いつたい何を盗むつもりですか」

 さう言つたあと、

 「いや、もしかしたらあなたのやうな方は大唐そのものを盗むのかもしれませんね。ははは」

 と大笑ひをした。巣は苦笑した。

 「滅相もないことを。大唐どころか、わたしはその官にもなれぬ情ない人間なのですよ。科挙に失敗しましてね…」

 「はう。あなた…科挙をうけられたのですか」

 と言つたきり、ムアートは口を噤(つぐ)んだ。それからまじまじと巣の顔を見た。

 科挙がこの国でいかなる地位を占めてゐるかは、ペルシア人であるムアートにも十分に分かつてゐる。

 それはかつて仕事の都合で崇(すう)仁(じん)坊といふ街区に行つたときのことであつた。その町全体が醸(かも)し出してゐる退廃的な虚無感とでも表現するしかない、街のあまりの静寂さに驚いたことがあつたからだ。その街には科挙の受験生を相手にする旅籠(はたご)や下宿屋ばかりが軒を連ねてゐた。そのせいか、通りを呼び歩く物売りもここでは黙つて通り過ぎるだけだと云ふ。それがこの街の静けさの原因だつたかもしれないが、しかしそれだけではなかつた。そこにゐる挙子と呼ばれる連中の青ざめた顔色と物憂い動作がこの界隈(かいわい)に流れる時間を止めてゐたのである。中にはもうすでに孫がゐてもいひやうな頭が白くなつた齡(とし)の者もゐたが、かれらは一様に終日難解な書物を相手にぶつぶつ独り言を言ひながら部屋をうろうろ歩き、疲れるとこれも決まつたやうに一人で窓辺に座り、虚ろな目を通りにぼんやりとなげかけるのだつた。

 一度、ムアートがなにげなく路上から顔を上げた矢先に、欄干(おばしま)に腰掛けてゐるほとんどの目から異様な倣岸(がうがん)さと絶望の交(まぢ)つた眼差しをいつせいに投げ返させられたことがあつた。

 この時にはさすがのムアートも体が震へてしまい思はず視線をそらしたのである。

 その街を訪れるのが四度目にもならうかといふ頃、ムアートは挙子に三つの人生があることに気がついた。

 そのうちの一つは勿論、合格して進士の栄誉を得ることであつたが、この人生を択(えら)ぶ者は極めて少なかつた。二つ目は孤独な独り言に飽きた若者が酒を覚え女の体を知り、やがては客(きゃく)戸(こ)坊と俗称されてゐる流民の巣窟にいつの間にか溶け込んで消えていく姿であつた。最後の人生はもつと簡単だつた。永久に独り言を言はなくなるのだ。万年挙子の行き着く先で一番多いのは自殺だつた。

 しかし、とムアートは思ふ。

 (この黄巣と名のる若者はあの紙魚(しみ)のやうな連中とはどこか違ふ…)

 さう思ひながらもどういふわけかムアートはこの若者にどこかであつたやうな気がしてならなかつた。                      

 「科挙をお受けになつたとはすごいではありませんか」

 ムアートの返事に黄巣は首を振つた。

 「いえ。合格しなければ自慢にはなりません」

 (そうだ。この眼差しだ)

 ムアートは思ひ出せないじれつたさにやきもきした。

 「でも、どうして唐の人たちは科挙にこだはるのかしら?」

 出し抜けにピーラが口を開いた。巣は虚を突かれたやうに目を見開く。答へやうとしたがそれはただ口をあけただけだつた。ピーラはなほも続けた。

 「飛(ひ)卿(けい)先生も何度もお受けになつたさうですわ。あんなにご聡明な方ですもの、科挙なんか受けなくてもすぐに大臣になれさうなのに」

 「飛卿先生?」

 巣は興味半分に尋ねる。するとピーラか嬉しさうに答へた。

 「ええ、家(うち)へお見えになるお客様ですの。それよりも黄巣様はどうして科挙をお受けになられるのかしら」

 巣は息苦しさを感じた。そんなことは今まで考へたこともなかつた。科挙は受けるべきものであり生涯をかけて合格しさへすればそれで人生はまつとうされるのだとさう教へられてきたからだ。

 「あなた方のやうに」

 と巣は答へた。

 「千里の彼方からこの国にやつて来られた人には理解できにくいでせうが、この国には昔から一つの教へがあります。それは学問によつて身を修めた者のみが国を栄へさせ人々を幸せにできるという孔孟の教へです。《天子より以(もつ)て庶人(しよじん)に至るまで壱(いっ)是(し)にみな修身を以て本(もと)となす》といふ言葉もあります。科挙はそのためにあるのです」

 巣の説明はピーラには難しかつたやうだ。ピーラはわからないわと笑ふだけである。巣はおのれの虚しい説明に苦笑ひを浮かべた。しかしムアートには理解できたらしい。しきりに感心して頷いてはゐたが、それにも拘らずやはり首を傾(かし)げた。

 「ねえ、黄巣さん。それならどうして大官連中があれほど自堕落(じだらく)なのでせうか。学問で身を修めた姿とはとても思へませんが…」

 「自堕落?」

 黄巣は怪訝な表情で聞きなほした。ムアートは慌てて商人の顔に戻る。

 「おやおや、これは言ひ過ぎました。どうか気を悪くしないでください。でも都の繁栄振りと比べてこの国の地方では田も畠も荒れ放題です。聞くところによれば租(そ)を払へなくなつた農民が土地を棄てて流民となり耕す者がいなくなつたからだとのこと。それなのに科挙をへて顕官になつた人たちの暮らしぶりときたら、それはもう実に豪奢(ごうしゃ)で天と地ほどの違ひがあります」

 巣は黙つた。都の大官連中の生活がどんなものかは知らないが、田舎の農民の暮らしぶりは云はれる通りだつたからだ。

 「ご存知ですかな。さる大臣のお屋敷には数十人の燭(しょく)奴(ど)がゐるとか言ふ話…」

 燭奴ですつて?巣は耳を疑つた。

 「まさか玄宗時代に流行(はや)つたといふ人間燭台――宴会の間中、ぢつと灯火を持つて立つてゐる子供のことではないでせうね」

 「そのまさかですよ」

 とムアートは声を潜めて言ふ。

 「さう言えば、ほら」

 と今度はピーラが口を開いた。

 「先だつて飛卿(ひけい)先生も怒つておいででしたわ。どこかのお屋敷では壁を金箔で飾り庭の敷石に小銭を敷き詰めて喜んでゐるとか言つて」

 信じられぬという顔で巣はピーラを見た。ムアートはそんな黄巣には全く無頓着に、

 「まあ毎晩毎晩、飲めや歌への大宴会があることは確かです。おそらく一回の費用だけで一万緡(びん)は下らないでせうね」

 一万!――巣は目を瞠(みは)つた。これがどれほどの金額であるのかは塩商人の息子として育つてきた自分には十分に理解できた。父親からも塩にまつわる話はあれこれ耳にしてゐた。

 ――劉士安(りゅうしあん)といふ人物が国庫の逼迫(ひつぱく)を救ふと称して塩を専売にしたのが始まりだと云ふ。

 「あいつのせいで――」

 と父は唇を振るわせた。

 「塩の値が十倍にも上がつてしまつたのだ。わしらは儲かつたが、それにしても十倍は法外だ。塩を買へなくなつた連中がどんなに酷(ひど)い暮らしになつたか、あいつはわかつてゐるのか。水を干したり井戸を掘つたりしてゐるといふぢやないか…」

 堪りかねた巣の父は安く売る算段をたてた。途端に二人の役人がやつて来たのだ。

 「長官の許可は得てゐるのだらうな」

 父親が首を振ると役人たちは急に猫なで声に変はつた。

 「なあ、旦那」

と役人たちは言ふ。

 「旦那の気持ちは村人にはありがたいが長安には勝てつこない。わしらは黄旦那が好きだし今回は大目に見ておきますよ。へへ…」

 と明らかに賄賂をねだつたのである。

 父が息子に科挙の夢を託すようになつたのはこの時からだつた。

 「いいか、巣。専売の塩が朝廷にもたらした利益は四十万緡(びん)ほどだ。しかしこれだけではどうやら焼け石に水らしく次は茶を専売にするさうだ」

 それが一度の宴席で一万緡(びん)――。

 それもほとんど連日だといふのか。それでは塩の専売は誰のためにやつたのか。大官たちの贅沢を支へるためだけではないか。

 巣が憤懣(ふんまん)やるかたない怒りを顔に表さうとした時だつた。召使の一人があわただしくやつて来てムアートの耳元でなにやら囁いた。ムアートの表情が一瞬険しいものに変はつた。すぐにピーラが席を立つた。召使もすぐに後を追ふ。

 耳を済ますと廊下のはうから声がする。

 「何かありましたか」

 巣は心配さうに尋ねた。ムアートはにつこりと笑ふ。

 「どういたしまして黄巣さん。噂をすれば影つてやつですよ。先ほどから娘がお名前だけ口にしてゐた、ほら、飛卿(ひけい)先生がお越しになりましたよ」

 こちらでご一緒させてもらつても構ひませんかとムアートが尋ねた。

 「願つてもないことです」

 と巣は嬉しさふに答えた。だがその時、ムアートの顔に影がさしたことに気がついた。

 「何かあつたやうですね」

 巣の言葉にムアートは自然に頷いた。

 「どうやら厄介なことに巻き込まれたやうなのです」

 「厄介なこと?」

 「それが…」

 とムアートは巣に語る。

 「飛卿先生が途中で老人を助けたらしいのです。その人がどうやら金吾衛(きんごえい)に追はれてゐたやうで…。逃げるには逃げたのですが相当弱つてゐたのでせう。ここまで連れてきたら倒れてしまつたといふのです」

 巣はその老人と自分とを重ね合わせて苦笑した。

 「どうやら今日は行き倒れの当たり日らしいですね」

 その言葉の終はらないうちに扉の向こうから燥(はしや)ぐピーラの声がした。

 「先生、どうぞおはいりくださいな。わたくしはお連れのご老人の様子を見てまゐりますわ。それにしても危ないところでしたね」

 その声を追ふやうに野太い声が響く。

 「――ッたく、あぶねえ話さ」

 扉が開いて声の主がまばゆい光の中に姿を現した。

 「いよお。ここでもたうとう連日の宴会かね。わつはつはつは」

巣はその姿に言ひようのない懐かしさを感じた。

 「おお、これは失礼。先客がお目見えであつたか」

 男はさういふと被(かぶ)つてゐた巾帽(きんぼう)をすばやく直し、気ままに伸びてゐる鬚をとり合へず指でしごいた。

 「先生、こちらは黄巣様とおつしやる方で先生と同じく挙子のかたです。」

 ムアートの紹介が終はる前に飛卿(ひけい)は空いてゐた椅子に無造作に座つた。そして座つたまま頭を掻いた。

 「なんの。挙子と云ふたところで、このわしなど、なにしろ《七度挙場にいりて累年(るいねん)第(だい)せず》と街の小僧どもにまで馬鹿にされ遊び歌にまでなる有様だわい。わつはつは」

 と大笑ひした。ムアートは巣に向かつて

 「長安の子供たちは飛卿(ひけい)さんに親しみを込めてさう言つてゐるのですよ。この方は街では有名な方ですからね。――巣さん、改めてご紹介させてください。この方が有名な温飛卿(おんひけい)先生ですよ、ほら、詩人の。先生の詩は評判でしてね、都で先生の詩を口ずさまない妓女(ぎじょ)はもぐりとさへ言はれてゐるくらゐです」

 黄巣は驚いた。それではこの人が――。

 温飛卿(おんひけい)。飛卿とは字(あざな)で本名は庭筠(ていゐん)。太原の人で、都では同じく詩人の李商隠(りしやういん)と並んで評判が高かつた。ともに当代きつての詩人である。

 ただしこの人、後世の史家にはすこぶる評判が悪い。

 〔――士行塵雑(しかうじんざつ)にして辺幅(へんぷく)を修(おさ)めず、能(よ)く弦吹(げんすい)の音(ね)を追ひ、側艶(そくえん)の詞をつくる〕

 要するに、がさつで軽薄。いい齢(とし)をして音楽にうつつを抜かし恋の歌ばかりを作つてゐる馬鹿な男だといふのである。

 そればかりではない。

 〔――公(く)卿(げ)無頼(ぶらい)の子弟、斐(ひ)誠(せい)、令狐滈(れいここう)の徒と相(あい)ともに蒲飲(ほいん)し、酣酔(かんすい)すること終日、これによりて累年(るいねん)第(だい)せず〕

 とまで揶揄嘲弄(やゆちょうろう)される始末である。

 ところで、ここに出てくる令狐滈(れいここう)といふ人物だが、大中四年(八五〇)に宰相となつた令狐綯(れいこたう)の息子である。面白いことに父親の在職中の重要な案件は全て息子が決裁してゐたといふ話も伝はつてゐる。

 それでは父の令狐綯が愚かなのかといへば、かういふ話もあるのだ。

 宣宗(せんさう)皇帝がかつて令狐綯に御下問になつた。その時、あまりに素晴らしい返答であつたので帝はいたく感激され、自分の乗り物を遣はして翰林院(かんりんゐん)まで送らせたといふのである。つまり父なる令狐綯は決して愚かな人物ではなかつたといふことだ。

 それなのに無頼といふ噂のある息子のはうが父親よりも的確な判断力を持つてゐたといふのもをかしな話である。

 実は白衣宰相と呼ばれた息子の令狐滈(れいここう)の知恵袋がどうやら温飛卿その人だつたらしい。さうだとすると史書の《蒲飲(ほいん)し、酣酔(かんすい)》といふのも、世を欺くための姿であつたことと想像がつく。

 どうやらこの貴公子と詩人は政治上の密議をするためにせつせと青楼(せいろう)通いをつづけてゐたのであらう。

 ――史書などあてにならぬものである。

 

 「今日も若様とご一緒で?」

 ムアートが尋ねると飛卿はいつになく弾んだ声で答へた。

 「それよ。公子がいい娘がゐるからといふので、助平心をおこして行つてみたのさ」

 ムアートがにやりと笑ふ。

 「先生。当ててあげませうか、その青楼」

 と言ふと飛卿は驚いた顔で、

 「ほう。胡商ラーク・ムアートは長安にてつひに神通力を得たか、はつはつは」

 と豪快に笑つた。

 「江柳楼(かうりうろう)の魚(ぎょ)玄機(げんき)。――どうです、どんぴしやりでせう?」

 「どうしてわかつた?」

 と驚く飛卿にムアートは酒を勧めながら

 「先生が遅すぎるのでござゐますよ。あの娘はとつくに有名ですから」

 と答へた。飛卿はまつたくと言はぬばかりに

 「あれこそ天下の才媛。口に出す言葉の全てが詩になつてをる」

 江柳楼での宴も酣(たけなわ)になり、興に乗つた飛卿が琴を弾じ、勢いに任せて得意の詞(うた)を吟じ始めたとき、いつのまにか一人の美少女がその声に韻をあわせながら微かな声で歌つてゐるのに気づいたと言ふ。店の妓女が詞(うた)を聞きに来るのはよくあることなのでその時には格別気にも留めなかつたが、驚いたのはその後である。謡(うた)ひ終はつた飛卿(ひけい)にその美少女が襟を正し、形を改めて突然師弟の礼をとつてきたと言ふのであつた。魚玄機――十四歳とも十五歳とも言ふ。

 「その娘がうらやましい…」

 ふと漏らした黄巣の横顔を飛卿が覗き込んで、かう言つた。

 「…たしか黄巣君とか言はれましたな。いや、実は先ほどからどうにも気になつてはゐたのだが、どこかでお目にかかつたことがありませんかな」

 それとも人が懐かしくなる、これも齢(とし)かな、ははは、と笑ふ飛卿に巣は笑みをたたへて答へた。

 「お忘れでせうか。その節は挙場にてご親切をお受けしながら失礼にもお返しいたしました。」

 巣の言葉に温飛卿のそれまでにこやかだった表情が急に強張(こはば)り、動きが止まつた顔には口だけがぽかんと開(あ)いたままになつた。やがて飛卿の両眼にみるみる涙が溢れ、それが頬を伝はつて下に落ちた。

 「や、やはり、あの――」

 今度は大声で叫んだ。

 「あの若者!」

 この予期せぬ成り行きに面食らつたのはムアートだつた。

 「先生。ご存知の方だつたのですか」

 しかし飛卿はもう巣の肩を強く握り、感極まつたやうに抱きしめてゐる。

 「ムアートさん。ほれ、この人だよ、いつも話してゐた若者は。詩をつき返したたつた一人の英雄だ。――そうか、黄巣といふ名だつたのか。会ひたかつたぞ」

 ムアートはこのとき初めて自分がこの若者に出会つたときに抱いた妙な懐かしさがどこから来たものかが分かつた。あの懐抱(くわいはう)はこれまで幾度となく聞かされてゐた噂の人物との邂逅(かいこう)だつたのだ。いはば好意の直感的な感情だつたのだ。

 だが飛卿(ひけい)のあまりの感激ぶりはむしろ巣を困惑させた。

 「あの…ォ、いつたいどうされたんですか」

 ムアートは笑つた。この若者は何かしら人を夢中にさせるものを持つてゐるやうだとも思つた。笑いながら巣を強く抱きしめてゐる飛卿の腕を軽くぽんと叩いた。飛卿ははつと気づくと腕を解き高らかに笑つた。

 三人はあらためて座に着いた。

 ムアートが語りだした。

 それによると――。

 温飛卿の科挙に応ずることの始まり三十の頃だと言ふ。どちらかといへば遅い方である。その飛卿が挙場で耳にしたのは、詩が出来なくて苦しみもがく隣室からの声であつた。それはいつしか詩に対する呪詛(じゅそ)に変はり嘆(なげ)きは怨みになつた――。

 飛卿にとつて、その声は逆に愛する詩への耐え難い悪口にも聞こえたといふ。堪りかねた詩人は知らないうちに自作の詩を隣室に投げ込んでゐた。

 その男は登第した。

 ――以来、飛卿の隣室に来た者で合格しない者はゐなかつた。特に詩が上出来であつた。

 不思議なもので、さうなると与へる側にも妙な自負心が芽生える。それは相手が誰であらうとも、その者には秀逸な詩を与へ、自分はそれよりは少し劣つたものを作るといふ隠微ともいへる誇りであつた。自分が合格するよりも詩を与へた相手が登第する方が嬉しくなつてきた。実際、飛卿は自分の詩をいかに拙く作るかに腐心したのである。何しろ作るたびに巧みになつていつたからこれは難題であつた――ふと気づいたらもう七回も下第してゐたのである。

 この間の二十数年の経験は飛卿をすつかり挙場の有名人にしてゐた。

 なにしろ詩の恩恵を蒙つた者たちが今では皆が皆、世をときめく顕官に成り上がってゐる。かれらは温飛卿の自宅への来訪を知るや、下へもおかぬもてなしで、天下の詩人のご来臨と口を極めて誉めそやすのが常だつた。そして飛卿の好きな管絃の遊びと山海の珍味で接待した。しかしその実、挙場での一件を口外してほしくなかつただけである。

 「なあに、わしは酒が飲めればそれで十分」

 とムアートの話を飛卿が中断した。しかしその手は杯(グラス)を所在なげに回してゐる。

 しばらく間をおいて飛卿はぼそりと話し出した。

 「本音を言へば、わしは愚かなことをしてきたと後悔してをるのだ。…あやつらの顔を見るたびに、こんなお粗末な人間が本当に大唐の屋台骨を背負つていけるのかといふ危惧と反発心で実は自分自身を責めてばかりきたのだ。奴らは、傲慢で狭量、不実で頑固、冷酷で固陋(ころう)。わしは詩を与へすぎたらしい…」

 それから飛卿は官界の裏話やら醜聞の類を次から次へと語りだした。それは巣にとつては信じがたい出来事ばかりで怒る前にただ呆然とするばかりであつた。

 「このあひだも」

 と言ひかけて飛卿はくくッと笑つた。

 「何があつたのでせう」

 ムアートが話を促した。

 「うん。令狐(れいこ)閣下がなにやら古い格言の由来を尋ねてこられた。わしがそれは『荘子』の中にあります。さほど珍しいものとも思へませんが、と答へたところ」

 巣とムアートは身をのりだす。飛卿はたうとう声を立てて笑ひだした。

 「わつはつは。あの親父、顔を真っ赤にして怒鳴りだした。汝は才あれども行(こう)なしぢや、とさ」

 巣はおそるおそる訊ねた。

 「令狐閣下は帝の覚えもめでたいと伺つてをりましたが、まさかそんなこと…。『荘子』もご存じないとは」

 飛卿は憮然としたまま

 「あの人は任子(にんし)だ。貴族だからな。科挙を受けなくても官につける。進士ほどの知識はもとより望むべくもないが、しかし令狐閣下にしてかうだ。そうすると無知な任子と利に眩(くら)んだ進士の集まりが朝廷といふことになる…」

 巣は黙つた。

 「巣君――」

 飛卿が改まつた口調で呼びかけた。

 「君にはつくづく感服した。挙場でのわしの振る舞ひは決して酔狂ではない。せめて一人くらゐはわしの与へた詩を地面に叩きつける奴がゐないかと、そればかりを願つてゐた。その人物こそがわが大唐を担ふにふさわしいはずだと思つたからだ」

 はう、とムアートが感心した。

 「初耳ですよ、先生。そのやうな深いお考へがあつたなんて。で、そのやうな人物はをりましたか」

 飛卿は寂しげに顔を振つた。

 「いや。後にも先にも、この黄巣君だけだつた」

 この言葉に食卓は沈鬱(ちんうつ)になつた。蝋燭(らふそく)の芯(しん)があいかはらず微かな音を立てて燃えてゐる。

 「ははは。わしは八度目の下第だけはごめんだ」

 と、急に飛卿が言つた。ムアートが完爾(にこり)と笑つて

 「いよいよ本気で合格をめざすといふわけですね」

 と言ふと、飛卿は

 「いや。もう受けやしないよ」

 そう、しやあしやあと答へる。巣が口を開かうとするのを飛卿は片手で制した格好になつて、かう言つた。

 「しかし、君には是非とも登第してほしい」

 巣は目頭が熱くなつた。涙が零(こぼ)れないやうに顔を上に上げた。ふと夕暮れに出会つた鶴寿真人(かくじゅしんじん)の言つた言葉を思ひ出した。

 「…だめです。私には叛相(はんそう)があり、そのため知貢挙(ちこうきょ)がおそらく一筆入れるでせうから」

 この言葉に飛卿もムアートも思わず顔を見合わせた。

 「おぬし、そんなことまで知つてゐるのか」

 と飛卿が呟く。

 「飛卿先生。そのやうなことがあるのですか」

 とムアート。飛卿はゆつくりと頷く。

 「叛相(はんそう)といへばさうかもしれん。わしの詩をつき返したところなどは叛相そのものだぞ。ははは」

 はあ、すみませんでした。巣は素直に詫びた。

 「冗談だよ。それよりもそんなこと、誰に聞いたのだ」

 巣は聞かれるままに夕暮れの出来事を語りだした。

 飛卿もムアートもまるで不思議なお伽噺(とぎはなし)でも聞くやうな思ひでその話に耳を傾けた。巣が全てを語り終えたとき、飛卿の顔は上気し、厳しい表情で腕組みをしてじつと宙を睨んだままだつた。ムアートは飛卿のかういふ態度には慣れつこなのか、いつまでも話しかけやうともしない。やがて、ふうと溜息をついた飛卿がはつきりした声で叫ぶやうに言つた。

 「驚いた。本当に驚いた。こんなことがあるのだなあ!」

 怪訝な顔で見つめる二人に飛卿は今度はゆつくりと語りだした。

 「鶴寿真人、李道士様に出会へたのか。君は――」

 あの方はどなたなのですと面食らつた巣が訊ねる。

 「今上陛下の叔父(おじ)君にあたられるお方だ。しかし今ではまうその方は伝説上の人物になりつつある。あの方は今の陛下が即位された時に骨肉の争ひが起こるのを危惧され自ら蜀(しょく)の国に遁世されたといふ話だ。その後は杳(よう)として行方が知れず仙界に赴かれたのだらうといふ噂であつたが、それがまたどうして長安に…」

 このあと、飛卿はひとりでぶつぶつ独り言のやうに呟いてゐた。それからまたはつきりした声で巣に向かつて言つた。

 「実際、この都に住んでゐる心ある人士の多くが道士の謦咳(けいがい)に接することを一日千秋の思ひで待つてをつたらうに…。さうか、巣君が出会つたのか」

 と何度も何度も頷いては一人で納得してゐた。

 

 廊下で足音がしたかと思ふと血相を変へてピーラが飛び込んできた。

 「はやく。お父様。はやく――」

 その声にムアートの体はもう扉の外にゐた。飛卿は立ち上がりざまに椅子を押し倒したがそのままその後に続いた。巣は一瞬ためらつた――が、体は既に廊下に向かつた。

 食堂の外には方形の庭園がある。

 その庭を取り囲むやうに回廊が巡つてゐた。その突き当たりに納戸をかねた小部屋があつて、そこはちやうど食堂の正反対になつてゐた。小部屋の棚には雑多な什器(じゅうき)や器物の類が整然と置かれてあり、それらが床からの弱々しい光のために異様な影を壁に描いてゐた。

 床には小さな油皿があるきりだつた。そこからちよろりと出た灯心の炎だけがここでは唯一の明かりだつた。そのわずかな明かりのそばに老人の体が無造作に横たはつてゐる。

 ムアートとピーラの姿を見た胡僕たちは静かに老人の傍から立ち上がると二人に向かつてうやうやしく一礼をした。あとから来た巣と飛卿は戸口のところで立ち止まつたまま中の様子を見守つた。

 「脈が弱つてゐる。あぶないな」

 さきほど胡僕がゐた場所に座り込んだムアートは老人の手首をとりながら呟いた。ピーラが明かりを近づけるために油皿を動かすと、炎が揺れて老人の顔にくつきりとした陰影ができた。土色の狭い額に野良仕事をしてきた者に特有の深い皺が無数に刻まれた顔だつた。両眼はまるでえぐり取られたように窪(くぼ)んでいる。

 「うむ、まだ暗い。食堂の蝋燭をもつてこい。ピーラ、それからお前はあの壺を」

 命じられた胡僕が燭台ごと蝋燭をもつてきた。ピーラが片腕に壺を抱き、もう一方の腕に布を数枚掛けるようにして持つてきたのはそのすぐあとだつた。ムアートは壺の蓋を開けると、ピーラが差し出した布を静かに浸(ひた)し始めた。

 「そいつはどういふ魔法だい」

 入口の柱に背をもたれかけていた飛卿が物珍しげに声をかけた。

 「魔法ではありません。ある植物から採りだした精油なのです。この油をかうやつて布に浸し、それを病人の肌に直接当てれば生気がもどつてくるのです」

 さう言ひながら、ムアートはピーラに手伝はせ、手際よく老人の体を布で包んだ。

 「灯りを、さふ、もつとこちらだ」

 胡僕があはてて燭台を動かした。老人の顔から濃い陰影が消え表情が露わになつた。

 黄巣は息を呑んだ。

 ムアートは二枚目の布を油に浸す。取り出してそれを再び老人の痩せた体にあてる…。何度も同じことを繰り返した。するとそれまで土色だつた老人の顔にほんのりと赤みがさした。ピーラの目が輝き、ムアートの口から安堵の溜息が漏れた。やがて老人の口から呻くような声が微かに聞こえるようになつた。戸口の飛卿がやつたとばかりに拳で壁を叩く。

 ほら、とピーラが二人に微笑を投げかけようと振り向いた時、目の前に仁王立ちになつたまま、顔面蒼白の巣がゐた。

 「――毛三(もうさん)!」

 その声に誰もが巣を見た。

 「巣君、知りあひか」

 飛卿が驚いて尋ねる。巣は何か言はふとするのだが、唇だけがただわなわなと振るへ、声にならない。

 「おい、しつかりするんだ。このぢぢいは君の知り合ひなのか」

 飛卿が今度は怒鳴るやうに尋ねた。ピーラがそつと巣の背中に手をあてた。巣は黙つてゆつくり頷いた。それから押し出すやうな声で

 「家の下僕です。毛三といふ者です」

 それがどうして…。そこまで聞くと飛卿は病人のところまでとんでいつて荒々しく老人を抱き起こすと耳元で大声で叫んだ。

 「おい!しっかりするんだ。目を開けるんだ」

 おい、聞いてるのか!と今度は烈しく体を揺すつた。老人の目がうつすらとあいた。巣は駆けよつた。

 「毛三!俺だ、巣だ。わかるか」

 巣は叫んだ。老人は巣の声に応じて微かに頭を振つたやうだつたが、じきに目を閉ぢやうとする。

 「ばかやろう!」

 と飛卿が怒鳴る。

 「せつかく開けた目ぇを閉ぢるんぢやない!」

 と急に老人の頬を叩いた。――これが効いた。

 毛三の目がぱつちりと開(あ)いたのである。

 「おお、坊ちやん…」

 巣は思ひ切り毛三を抱きかかへた。

 「お前、…どうして。ここに」

 毛三の両眼から涙が溢れた。それから弱々しげに伸ばした手で巣の顔を探つた。両手で巣の頬に触れると突然嗚咽しはじめた。

 「どうしたんだ。いつたい何があつたんだ」

 と巣が何度も尋ねる。

 泣きやんだ毛三がぽつりと言つた。

 「みんな殺された…」

 「え?」

 巣が聞き返すと、毛三は悲鳴のやうな声で泣いた。大きな声だつた。泣きぢやくりながら毛三は言つた。

 「県の軍隊が…あいつらが、旦那様も奥様も…」

 それから、精一杯の声で

 「みんな死んでしまつたよぉ!」

 と叫んだ。

 「馬鹿を言ふな。どうして県の軍隊が…」

 巣が目を見開いた。

 「旦那様を…塩賊だと」

 言ひ終はらないうちに巣の体にしがみついてゐた力が急に消えた。

 「毛三!」

 毛三は口元に微笑を浮かべたまま、もう一度目を閉ぢてしまつた。

 巣は小さな老人の体を抱きかかえたまま立ち上がつた。涙がとまらない。この爺やは自分が小刀で太股を刺した時、庭から真先(まつさき)にとんできた。

 〔ぼつちやま。まあ、何てことをなさゐます〕

 さう言ひながら自分の着ているものを破つて血を止めてくれた。

 〔後生ですからこの老いぼれのためにも二度とこんな真似はおやめくだせえ〕

 「毛三…」

 巣は黙つて泣いた。

 ――ふと、背中に温かいものを感じた。そつと首を回すとピーラが目に涙を湛えつつも唇をぎゆつとかみ締め、首を何度も横に振つてゐた。

 飛卿が口を開いた。

 「巣君。君の心痛は察するに余りあるが、しかし、今は泣いてゐるときではないぞ。毛三の話から勘(かんが)うるに、やがては君自身にも追手がかかつてくると見てよいだらう。いや、その前にこの老人の亡骸(なきがら)をどうしたものか」

 この言葉にムアートがむつとしたやうに言ふ。

 「先生、情けないことをおつしやいますな。ここで亡くなつたものは誰であれ、わが家族同然ですぞ」


(三)

 翌日。

 毛三の遺体は丘の上の道観に納められた。名も知れぬ流民(るみん)として城外に遺棄されなかつたのはムアートが自分の唐子(とうす)――唐人の下僕として役所へ届けでたからである。そのムアートに何の嫌疑もかからなかつたのは、これまた宰相閣下のご友人、温飛卿の口添えがあつたからである。葬儀は全く型どほりに終はつた。あとは日を選んで、外槨(がいかく)に納めた棺を城外の墓地に埋葬するだけだ。

 その外槨(がいかく)を前に巣とムアートは無言で佇(たたず)んでゐた。

 巣の思ひは錯綜してゐた。この二日間の出来事がまるで夢の中のように思はれた。

 (――自分はこれまで科挙に登第することだけを目指してきた。それがどれほど難関であらうとも紙上の戦いである以上は努力すれば必ず報はれるものとさう信じてきた。だがその合否が人相の善し悪しで左右されるとは…)。

 (――叛相あり、とは要するに知貢挙(ちこうきよ)の気に入らぬ顔つきをしてゐるといふことではないか。では知貢挙とは何者か、天帝か、否(いな)、知貢挙とはただの臆病者にすぎぬ…)

 「巣さん。あなたはすぐに長安を去らねばなりません」

 沈黙を破つたのはムアートだつた。

 「やがてあなたにも追手がやつてきますから」

 巣は返事に躊躇(ちうちよ)した。

 「その覚悟はできてをります。ただ――わからないのです、どうして父や母が塩賊として殺されなければならなかつたのか」

 ムアートは手を後ろに組むとゆつくりとした足取りでこつこつと歩き始めた。

 「巣さん。昨夜の話、まだ終わつてをりませんでしたね」

 巣は頷いた。ムアートは続けた。

 「さう。科挙の話です――信じられないでせうが、あなたがた科挙の受験生が必死になつて官を目指してゐる間にこの国にはもう崩壊が起きてゐたといふことです」

 「崩壊…」

 と巣が聞き返す。

 「さうです。あちこちで節度使(せつどし)が勝手に動き始めてゐます。皇帝の力はもう今では長安などごく限られた地域にしか及んでをりません」

巣はどうしてこの人はそんなことまで知つているのだらうかと思つた。

 「これがどういふことかわかりますか」

 とムアートは突然尋ねた。巣は首を横に振つた。ムアートはそれを見て鷹揚に頷き、それから、

 「簡単なことです。皇帝への収入が減つたといふことです。それはつまり朝廷の官僚たちの生活が苦しくなることを意味します。ところが」

 とムアートはここで口を閉ぢた。ムアートは湧き起こつてくる怒りを無理にでも抑へこまうとしてゐるやうだつたが、たうとう我慢しきれなくなり急に堰(せき)を切つたやうに話し出した。

 「現実はまるでその逆なのです。長安にゐる大官は朝から酒の匂ひがします。地方の荒廃した実状など見たくも聞きたくもないといふ人たちばかりです」

 ムアートはさう言ふと、知つてゐる大官たちの名をいちいち挙げてはああだかうだと具体的にあげつらつた。巣はムアートの話を聞いてゐるうちに奇妙な妄想が浮かんできた。

 ――それは科挙に登第した黄巣がさつそうと官衙(かんが)に赴いてゐる場面から始まつた。

 意欲に満ちた巣はその志を上司から称へられてゐた。最初の任地は偏僻(へんぺき)の知事である。僻地だからといつて格別驚くことではない。新進士としては出世の常道でもあつたのだ。ここでの働きぶりで次の官職が決まるのである。巣の上司はかう言つた。

 「巣君。わかつてゐるだらうが都への報告だけは欠かさぬやうに」

 その人は餞別(せんべつ)だといつて懐から一通の書状を出した。開けてみると、そこには今をときめく権門勢家(けんもんせいか)の名がぎつしりと並んでゐた。

 巣はかの地に二年ほどゐた。

 その間に巣がやつたことと云へば、餞別の書状に書かれてあつた大官連中に季節ごとの届け物を贈つたり祝いの品を忘れずに届けさせることであつた。

 上司の云ふ報告とは、つまりかういふことだつたのである。

 これらの贈り物に、もちろん、金子(きんす)が添へてあつたことはいふまでもない。そのために巣の赴任地の民は重税に喘(あえ)いだ。が、巣の長安における評価はうなぎのぼりに上がつた。切れ者の若手官僚としてその名はついに叡聞(えいぶん)、天子の耳にまで達した。

 たうとう巣は有能な行政官として長安に戻つてきたのである。

 巣は今こそ父の夢を果たすときが来たと思つた。塩制の改革こそが父の長年の夢であつた。巣は胸を躍らせた。しかし、一人の老大官の忠告がこの炎に水をさした。

 「何のために塩で手を洗ほふとするのか。御身(おんみ)は陛下のご信任も厚く格別前途を嘱望(しょくぼう)されてゐる身ではないか。ゆくゆくは社稷(しゃしょく)を護るべき立場の者が軽挙妄動してよいものだらうか」

 それから、その大官はかう言つた。

 「およそ朝廷の威光正しければ、民はおのづから楽しむものぢや。それぞれの民草の暮しの違ひに迷ふなどとはいやしくも君子にあるまじき振る舞ひであらう」

 翌日から巣は大官の邸宅に招かれるやうになつた。二人して天下国家を論じては日がな一日を過ごすやうになつたのである。巣の評判はますます高まり、人格円満な君子人として長安の人士に褒め称へられるようになつた…。

 「かれらは贅沢を競ひあつてゐます。しかしその元になるお金はどこからくるのでせう」

 ムアートの声が巣の妄想を砕いた。巣は再び首を振つた。

 「塩です――かれらは人間が生きていくのに欠かすことのできない物に税をかけることを思ひついたのです」

 それでは、と巣は答へた。

 「塩の値を高くするほど朝廷の収入が増えると云ふわけですね」

 ムアートはかう言つた。

 「あなたのお父上は」

 巣は次の言葉を待つた。

 「人としての当然のことをなさつたのですよ。誰にとつても必要な物を誰もが買へる値段で売らうとなさつただけなのです」

 (もちろん、そうだ)

 と巣は頷いた。

 「ところがこれは朝廷から見れば密売であり、闇塩の扱ひになるのです。その結果、お父上は塩賊として処罰されたのです」

 巣は絶句した。

 「それでは朝廷は農民に死ねとでも言ふのでせうか」

 ムアートは皮肉な笑ひを浮かべた。

 「あなたは何もご存知ない。農民など何人死なうとも大唐といふ国が維持できればそれで十分なのです。それが朝廷なのです。そしてそのためにこそ科挙といふ制度がうまれたのではないのですか」

 (ちがう。科挙は、君子が政(まつりごと)をなすためにあるのだ)

 と巣は叫んだ。が、それは声にはならなかつた。その叫びは憐れみを湛へたムアートの静かな瞳の前に沈黙せざるをえなかつた。

 「――塩の専売制度を考へ出したのは科挙の登第者たちでした」

 巣は今度こそ喚(わめ)きたい衝動に襲はれた。だが巣は辛うじてそれを抑えた。その反動で激しく恥ぢ入る思ひが体の奥から衝(つ)きあがり、後悔の念が全身を波打つた。

 巣の心に、これまでひたすら進士を目指して積み上げてきたあらゆる集積物の一つ一つが一挙に崩れ落ちる音が聞こえてきた。それでも巣はその動きに反抗しやうとした。

 「それでは、仁の精神は、思ひやりの心は、もう要らないといふのでせうか」

 興奮して尋ねる巣にムアートは静かに答へた。

 「どのような教へであれ、それを実行するのは人です。確かにこの国はすばらしい文化を生み出してきました。しかし、巣さん。よく見てください。教へはすでに形だけになつてゐるのですよ」

 「――抜け殻、だと…」

 自嘲気味に呟いた巣の言葉を打ち消すやうに大きな音がした。堂の扉が開いて暗かつた内部に急に明るい光が差し込んできた。

 「ムアートさん。大変だ」

 やつてきたのは飛卿だつた。そのすぐ後ろにピーラがゐる。二人とも、ぜい、ぜい、と息を切つてゐる。走つてきたらしい。

 「ムアートさん。あんた神(しん)策禁軍(さくきんぐん)に――」

 飛卿はその場にぺたりと座り込んだ。はあはあと息遣いが荒い。ピーラが後ろから背中をさすつた。

 「どうしたんです、飛卿さん。神(しん)策禁軍(さくきんぐん)といへば長安警護の軍隊ぢやありませんか。」

 落ち着き払つたムアートに飛卿が早口で答へた。

 「その警備の軍隊があんたを捕まえに来るさうだ。公子(こうし)からの報せだ。どうやらその爺さんがやはり付けられてゐたらしい。すまん、わしがつれてこなければ良かつたんだが…」

 「何を言ふのです。飛卿さん、あなたが連れてこなければこの人は黄巣さんに会ふことはできなかつたのですよ」

 飛卿は後ろにいるピーラに、もういい、もういい、と手を振つた。それからピーラを前に出し今度は自分が後ろからその肩を両手で押さえて、

 「おいおい、のんびり構えてもらつたら困る。すぐにでもこの娘を連れて逃げてくれ。どうやら原因はこの爺さんばかりでもないやうだ。ムアートさん、あんただ、あんたが本命らしい」

 二人のやり取りを聞いていた巣はもう堪らなくなつた。

 「待つてください、飛卿先生。ムアートさんに何の罪があるといふのです。毛三の件でしたら罪はむしろこの私にあります。それに、」

 と巣は一瞬、言葉を切つた。

 「…それに、今ではもう私も塩賊の一味らしいですから。こうなつたら神策禁軍(しんさくきんぐん)だらうと金吾衛(きんごえい)だらうとどこにでもいきますよ」

 むきになつて弁ずる巣に飛卿は含むやうに笑つた。

 「なあに、さういふことぢやないんだ。金持ちの胡商は何かと難癖をつけられるのさ」

 ムアートも巣を慰めるやうに言ふ。

 「巣さん、大丈夫です。どうにも武宗皇帝の弾圧以来、わたしたち景教徒にはこの街は住みにくくなりましてね」

 飛卿はムアートの言葉に呆れ顔でつけ加えた。

 「どうもわかつてないやうだな…。いいか、ムアートさん。あんたの裏稼業までばれちまつたらしいんだよ」

 「裏稼業?」

 巣の疑問にムアートは不敵な笑みを浮かべた。

 「塩ですよ――実は、わたしも塩の専売には反対でしてね」

 唖然とする巣に、ごほんと軽い咳払ひをした飛卿がもつたいぶつた口調で話しだした。

 「――胡商ラーク・ムアート。この人こそ実にわが長安の守り神である。この街百万の民に命の糧(かて)たる塩を与へてきたのは皇帝にあらず、宰相にあらず、実にわがムアートその人なり」

 巣は驚いた。それでは毛三が長安までやつて来たのは同じ塩賊であるこの人を頼つてきたのだらうか。しかし、ムアートはまるで巣のさういふ思ひを見透かすかのやうに、

 「巣さん。あなたのお父上とわたしとは何の繋(つな)がりもありません。あなたのお父上は良き塩商人だつたのです。わたしは塩を密かに売りさばく塩賊です。毛三の伝へたことは今のこの国の姿です。あの老人がわたしのところに来たのはきつと神の御心だつたのでせう」

 巣はじつとムアートを見た。ムアートは何か感ずるところがあつたのか明るい声でかう云つた。

 「さあ、巣さん。今度はあなたがわたしを助けてください」

 なんでも、と巣は言つた。ムアートはにこりと笑つた。

 「ありがたう。あなたはすぐに長安の外に逃げてください。その時に娘のピーラを連れて行つて欲しいのです。逃げるときは必ず開遠門を通つてください」

 「開遠門――昔、波斯(ペルシャ)胡寺があつたといふ、あの通りにある城門ですね」

 さうです、とムアートは嬉しさうに頷く。

 「その門を出ると十六里も行かないうちに小さな店があります。青い旗が目印の胡式の饅頭を売つてゐる店です。そこまで行けばあとは何とかなります」

 「あなたは…あなたは、どうなさるのですか。禁軍と戦ふのならば、わたしもここにゐます」

 と巣は力強く言つた。ムアートは巣の返事にうれしさうに微笑んだ。

 「たつた一人で戦ふのは無理です。わたしも逃げます。顔を知られてゐますからあなた方と一緒に逃げればかへつて危なくなります。その点、ピーラは人前には出してをりません。大丈夫です」

 それからまるでこれから起きることを楽しむかのやうな口調で言つた。

 「巣さん。客戸坊という場所をご存知でせう。流民が入り込んでくる場所です。科挙の受験生でそこに落ちぶれていく人もたくさんゐます。わたしは万一の時にはあそこに逃げ込む手はずがしてあります。ただ城外にいる仲間たちに連絡を取りたいのです。そのためには何とかしてピーラをさきほどの店に行かせねばなりません。巣さん、お願ひします」

 巣はムアートの手を固く握り締めた。髯面のムアートの目にうつすらと涙が浮かんだ。それからピーラにむかつて、

 「わかつてゐると思ふが、開遠門を出るまでは顔を見せるでないぞ。お前は黄巣さんの胡婢(こひ)の姿で行くのだ」

 ピーラは燃えるやうな目で父を見た。ムアートは急にピーラを抱きしめた。それからもう一度離して、力強く、よし、と言つた。

 「よし。これで決まりだ」

 と飛卿の声がした。

 「あとのことはこのわしがうまくやる。さあさあ、若い二人は道行きだ」

 巣とピーラは互いに顔を見合はせた。巣はピーラの中に気高く誇りに満ちた光を見た。その瞬間、巣は熱い昂(たか)ぶりを覚へた。巣は胸中でひとり叫んだ。

 (これ。天命なり)

 黄巣は今こそ自分が何をなすべきかを知つた。その時、巣の手はもうピーラの手を握り、祭壇の傍の切戸へと向かつていた。飛卿が叫んだ。振り返つた巣に飛卿は、

 「忘れ物だ」

 と懐から袋を取り出して投げた。片手でそれを受け取つた巣はもう振り返らなかつた。巣は何の躊躇(ためら)いもなくピーラと切戸に消へた。

 「先立つものがなくてはな…」

 ふふと笑みを浮かべる飛卿にムアートが尋ねる。

 「先生。いつのまにあのやうなお金を」

 すると飛卿はぬけぬけとかう言つた。

 「いや、あれはあんたの金だ。なあに、ここに来る前に屋敷に立ち寄り、そこにゐた連中にも好きなものを持つてさつさと逃げろ、と言つてきたんだ」

 ムアートはそれを聞いて一瞬呆気にとられたが、突然笑ひ出した。笑いは止まらなかつた。飛卿はしばらくそれを見てゐたが、落ち着いたところで、

 「面白いのはな、ムアートさん。これからなんだが…」

 と申し訳なささうに言つた。

 「え?先生、いつたい何を――」

 飛卿は思ひ入れたつぷりの仕草で左の手を耳の後ろにかざした。

 「ほれ、やつと聞こえてきた…」

 耳を澄ますと麓のはうからわあわあと慌てふためく音がする。

 「いつたい何が…」

 訝しがるムアートに飛卿は悪戯(いたずら)つぽい目を向けた。

 「あんたの忠実なる下僕どもにちよいとわが大唐の礼ッてやつを教へてやつたのさ」

 「大唐の礼?」

 「そうさ。逃げるときには火を放つていくもんだつてね」

 「飛卿先生、あなたッて方は…」

 飛卿の目はもう両方とも濡れてゐる。ムアートも飛卿も黙つてゐた。

 目を瞬(またた)かせた飛卿が今度は吐き棄てるやうに言つた。

 「この国はまうだめだ。腐りきつてる。ムアートさん、逃げきつてくれよ。わしも逃げる。科挙に取られた人生をこれから取り戻すんだ」

 「先生…」

 とムアートが口を開いた。だが、飛卿はみなまで言はせなかつた。飛卿が叫んだ。

 「早く逃げろ!」

 その言葉にムアートは巣たちが逃げた切戸へ走つた。しんとした堂内に飛卿と毛三の棺だけが残された。麓の音がますますひどくなつてくる。しばらく佇んでゐた飛卿は棺をちらと一瞥(べつ)した。

 「ふん。やはりお前とゐるよりも玄機(げんき)のはうがよほど可愛いや」

 飛卿はさう嘯(うそぶ)くとゆつくりと向きを変へた。扉を動かす音が響いた。鈍く錆ついた音だつた。音はいつたん天井まで上がると飛卿のゐなくなつた部屋に重苦しく垂れてきた。それから床に安置してあつた毛三の棺を静かに覆い始めた。そのあとから静寂な闇がその音も棺も無表情に飲みこんでいつた。

 

 大中十三年(八五七)といへば黄巣とピーラが姿を消して二年後のことである。

 この年、浙(せっ)江(こう)東道(とうどう)にいた裘(きゅう)甫(ほ)といふ男が唐朝に対して決起した。この乱は一年も続かなかつたが、この最中にあの令狐綯(れいことう)が宰相から揚(よう)州の知事に退けられた。その揚州にたまたまやつて来たのが都を離れ放浪中の温飛卿(おんひけい)だつた。飛卿はこの地の知事が令狐公であることが分かると懐かしくなり直ちに久闊(きうくわつ)を叙(じょ)せんとした。しかし、その矢先に、飛卿はとんでもない事件をひき起こしてしまつたのである。

 事件はいかにも飛卿らしいきつかけから始まつた。

 まずは前祝とばかりに妓院(きいん)に立ち寄つたのも酒好きの飛卿ならではである。そこに先客が数名ゐた。いずれも挙人であつたといふ。べろべろに酔つた一人が呂律(ろれつ)の回らぬ舌で長安の女流詩人、魚玄機(ぎょげんき)の悪口を声高に話してゐた。あの淫売めとか、たかが女のくせにといふ言葉が乱れ飛び、そのたびにどつと哄笑(こうせう)が沸いた。はじめは聞き流してゐた飛卿も男がその詩について悪しざまに罵り始めるやもう我慢ができなくなつた。

 その詩は飛卿と玄機が二人して作つた〔相聞(そうもん)の詩〕であつたからだ。

 われを忘れた飛卿はつかつかとその男に近づくと、突如として酒盃を投げつけ、卓を倒し、ついには手近にあつた棒でその男たちをしたたかに打ちのめした。駆けつけた廬候(ろこう)(警備兵)が大乱闘の末に飛卿を取り押さえたが相手は挙人である。事件は隠しやうのないほどの大問題になつた。

 ――結局、飛卿は洛陽近くにある、方(ほう)といふ片田舎に流された。

 長安でも随一と騒がれた詩人が名もない田舎の書役にされたのである。その後、飛卿はさらに荊(けい)州に遷されそこで亡くなつた。

 飛卿が卒して十年ほど後、長安にゐた魚玄機は間夫(まぶ)を巡る争ひから、おのれの従婢(じうひ)を殺(あや)めこれが発覚して刑死した。死ぬ直前まで玄機が口ずさんでゐたのはかつて飛卿とともに作つた〔相聞の詩〕であつたといふ。

 

 それからさらに九年後――。

 山東の塩賊、王仙(おうせん)芝(し)が五千の兵で反乱を起こした。

 この巨大な叛徒に手を焼いた朝廷は首魁(しゅかい)の王に官位を授けて懐柔しやうと目論(もくろ)んだ。賊徒を官兵にし、その待遇の違ひにより反乱者の間に動揺を起こさせて分裂を図るのは常套手段である。

 だがこの計画は失敗した。

 王仙芝は大いに乗り気だつたのだが賊徒の将の一人が官の詭計(きけい)を見破つたのである。

 史書によれば、その男は官位の話ににやついてゐた仙芝をその場で殴り倒し、かう叫んだといふ。

 「天下を良くせんと起つたのではないか。お前一人だけが神策軍にいつて、ここにゐる五千の仲間を売らうといふのか!」

 殴り倒された仙芝はその場をとり繕(つくろ)ほふと頬をさすりながら、ふつと顔を上げた。自分の周りには土から生えたかのやうに大勢の兵士の脚があつた。目を上に動かすにつれ、脚は胴に、胴は首に、そして首は怒りに満ちた顔に変はつた。

 この瞬間から、反乱軍は仙芝を殴り倒した男を頭領に戴き、その男の名をとつて〔黄軍(くわうぐん)〕と名乗るやうになつた。

 黄軍は官軍の要衝を次々に破り、ついに長安をも陥落させた。

 この時、後に僖(き)宗(そう)と呼ばれるやうになる皇帝は、かの玄宗と同じく蜀に逃げ去つていつたのである。

 それ以後、大唐の都長安がかつての栄耀(えいよう)を極めることは二度となかつた…。

 

 さて――。

 黄軍の頭領は黄巣といふ名の男であつた。

 この黄巣がこれまで述べてきた黄巣と同一人物であるかどうかは分からない。

 世の中には同姓同名は珍しくもない。同姓同名で、しかも同じやうな経歴を持つ者もゐないわけではない。

 しかし、ここに面白い話がある。

 それは反逆者、黄巣の妻に関する逸話である。

 正史ではその人はただ〔曹氏〕とだけ書いてあつて、それ以外は一切記されてゐない。

 だが〔曹(そう)〕といふ字があの黄巣の出身地を連想させることは言ふまでもない。もし巣がピーラを妻にしたとすれば、愛する異国の女性に自分の故郷の地名を与へて姓にしたとしても可笑(をか)しくはあるまい。

 実はこのやうな臆説が、あたかも事実であるかのやうに語り伝へられてきたのには理由があつた。それはこの逸話の元になつた文献があつたからだ。だが、それはもう現在では散逸してしまひ今では名前さへも忘れられた野史である。しかしそこには確かにかういふ件(くだり)があつたと別の書物に伝へられてゐる。

 《――曹氏ノ容貌ハ黄髪(おうはつ)碧眼(へきがん)。ソノ為人(ひととなり)ハ寡黙ニシテ、好ンデ胡服ヲ纏(まと)イ、ヨク病ヲ癒(いや)ス術ヲ心得(こころえ)、以テ信ヲ得タリ》

                                                                          【了】


奥付


つひに盗となる


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著者 : 普聞 隆
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