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 冬の終わりには珍しく、ベズレーの空はよく晴れていた。聞くところによれば、この地方は盛夏を除いて冷涼で、峠の上から釜の底を眺めると、メレンゲで覆われているのが常らしい。帝都ヒルドブルクから馬車で二日、ベズレー州は丘陵に囲まれた盆地である。
(確かに寒い……夏は夏で蒸し暑いらしいし……勘弁して欲しいな)
 流れていく景色に胸中の不満をぶつけたところで、何がどうなる訳でもなく、延々と続く草原を乗合馬車は淡々と駆け抜けていく。見渡す限りの牧草地には、鹿毛、青毛、栗毛──およそ全ての毛色が揃っているかと思うくらい、多くの馬が草を食んでいた。
 痩せた土壌と冷涼な気候は、ベズレー盆地に穀倉地帯不適合の烙印を押した。故に古来、馬と騎兵の産地として名を馳せ、この国では勇猛果敢ベズリックという言葉に象徴されるほど、一つの文化として浸透している。
 ただ残念なことに、エレスベンの騎兵がハイブロン大陸随一、と謳われたのも今は昔の話であって、東方のバムン山脈よりカルハラの騎馬民族が現れてからこの方、最強騎兵の称号は彼の傭兵団にお株を奪われた格好となっている。
 エレスベン往還の並木から、バーミリオンに輝く城壁がチラリと見えた。その城壁の向こうには、大小様々な形の塔がひしめきあっている。あと小一時間、この窮屈な乗合馬車を我慢すれば、ベズレー州都エレスベン──『百塔の都』での生活が、カールを待っているのだ。
 木々の影に城壁が消えると、カールは鞄の底から筒を取り出して、中で丸まっていた紙片を丁寧に広げた。紙片には単眼の山羊、そして十字に交差した銃の紋章が描かれている。
『合格証書 第七七七号
 カール・フレッチャー 一六二〇年人馬月五日リブヌール生
この者は、神聖ハイブロン帝国兵部局が所管するエレスベン陸軍士官学校入学選抜試験に合格したことを証する。
 一六三九年宝瓶月一日
 神聖ハイブロン帝国兵部局長セレスタン・ルヴィエ』
「……こんな所でお店を広げては迷惑ですよ?」
 隣の貴婦人がしたり顔で嗜めてきた。お仕舞いなさい、と持っていた扇子で、婦人はカールの肩をトントンと叩きだす始末。
「なくしでもしたら、大事ですよ? ヒヨッコさん」
「ヒヨッコって──」
 乗り合わせていた全員の視線が注がれていた。カールは慌てて合格証書を丸めた。エレスベンでは、陸軍士官学校の候補生をヒヨコと呼び習わしているのを、カールは入校後に知った。
 ブラオフルスの謀反から、一年の月日が流れた。『碧石の変』と呼ばれるに至ったこの反乱は、帝国内外に大きな波紋を投げかけ、以前にも増して帝国を貫く大動脈、ブラオフルス川への関心が高まっている。
 反乱は、その余波に期待を抱く者、火消しに躍起になる者、漁夫の利を狙って立ち回る者を鮮明にしつつある、とエレインは言っていた。それは近隣の王侯であり、帝国内の有力諸侯であり、神に一生を捧げた者まで居るらしいが、何よりもまず、カールとエレインが直面したのは、騎士団を襲った大嵐だった。
 事実上、ホルン騎士団は瓦解した。
 謀反の主力が『聖帝の騎士』──この事実は帝国元老院を震撼させた。一報がヒルドブルクにもたらされるや、事件の処理を待たずに、騎士団の規模縮小が閣議決定された。実質的にはゲルトルードを首魁とするグノーベルト戦士団による犯行だったが、首謀者が朱籠手ガントレット隊長であるのを元老院は重く見たのだ。
 朱籠手隊は即時解散。その大部分は兵部局管轄の陸軍騎兵団に編入された。二千人を超える兵士が一挙に加算された兵部局は、彼らを養う義務が発生し、これが財政難下の兵部局長セレスタンの胃を直撃した。セレスタン卿は決議を受け取るや、卒倒したという。
 ホルン騎士団の縮小は朱籠手だけに留まらず、諜報部隊の長靴ソルレット隊にも及んだ。長靴隊は対外部門と公安部門に分割され、それぞれ外務局と内務局に繰り入れられた。当初は騎士団の中核、銀鎧キュイラス隊の一部も内務局に、という案も出ていたが、これは当時の騎士団長が首を差し出すことで免れた。故に、現騎士団は銀鎧隊のみで組織されている。
 一連の騒動の後始末が済み、騎士団が落ち着くのを見計らって、カールはエレスベン陸軍士官学校への入学を願い出た。碧石の変は騎士団のみならず、カールの価値観にも大打撃を与えていたからだ。
 あの事件までは、従騎士という役回りに満足こそすれ、己の立場に疑問を感じたりはしなかった。至極当たり前だと思い込んでいたと言えばそれまでだが、その意味では、ブラオフルスで初めて、カールは外界に触れたのかもしれなかった。
 戦闘能力、勇気、高潔さ、忠誠心、寛大さ、信念、礼節、統率力、弱者の保護──騎士たる者が胸に刻み、遵守すべき心得とされ、カールも肝に銘じてきた。それをゲルトルードは木っ端微塵に粉砕してのけた。衝撃という言葉すら生ぬるかった。しかし、それ以上にカールの魂を震わせたのは、二人の男の背中だ。ユィアンの知識と洞察力、そしてフィートの技術と行動力だ。
 このやや独善的な薬師と気短な職人が居なければ、フェルディナ十三聖は暗殺され、大陸が焦土と化したかもしれない。それはエレインも認めているし、カールも自明だと思っている。兎にも角にも、謀反の騒乱の中で、カールは自分の非力さを痛感した。そして直感的に自身の欲している能力を悟った。
 ミリアムを本当に守れたのか、という胸のしこりは、どうやらこの先も消えそうにない。
 大聖堂で、アドルファスの凶刃から庇った記憶まではある。次に目を開けたときには、何故かクジャク亭のベッドの上に居た。
 ゲルトルードは戦死。アドルファスとスクウィレルは行方不明だと、エレインに告げられた。ミリアムも無事だった。でも、守れなかった……とカールは思う。
 己に力があれば、あれほど切迫した状況まで、もつれなかったのではないか。何より彼女の安全を確保する前に、カールは意識を失っていた。それが何より腹立たしい。己のあずかり知らぬ所で事態は丸く収まっていたのだから。
 あのとき、カールは夢を見たように覚えている。真っ白い光の中で、ミリアムはたった一人で泣きじゃくっていた。その朧気な夢の記憶が、カールの決意を固めた。騎士団よりも、最新の技術や知識が集まってくる士官学校に身を置くことこそ相応しく、必要不可欠だと思った。
 エレスベンへ行く──
 そう腹をくくったが、碧石の変で状況は一変した。優秀な人材は軍部として歓迎すべきなのだが、朱籠手隊の編入が決定されるや、士官学校は狭き門となった。これ以上養えるか、と財務局が悲鳴を上げたのだ。
 小領主の次男三男や、冴えない農村の若者にとって、軍は魅力的な職場だ。さらに士官学校を経て入隊すれば、栄達の道も開かれている。建前として身分の貴賤を問わないのが、軍部の打ち出した方針だったから、昨今の不況を背景に、狭き門だろうとなかろうと、食い扶持目当ての入学希望者は後を絶たず、それが結果的に入学者の質を上げていた。
 それよりも何よりも、主のエレインは自分の決意に当然難色を示すだろうと思っていた。入学試験は天蠍月。それまでには伝えよう──と思っていたものの、カールはなかなか話を切り出せずにいた。
 腹を括ったのが獅子月で、ああだこうだと悩んでいたら、天秤月になっていた。そこでとりあえず、レノールを筆頭に銀鎧隊の面々へ、内々で相談を持ちかけてみた。してはみたが、思った通り、皆は口を揃えて騎士団に留まるよう説得してくる有様で、特にレノールは顔を合わす度に、考え直したか、と聞いてきた。それが挨拶代わりになるほどだった。とはいえ、括った腹は解けないし、意地より以前の問題で、気持ちは少しも揺るがなかった。
 風の噂でカールの態度を知ったのかどうか、断固反対すると思っていたエレインは、あっさりと了承した。それだけでなく、士官学校の校長宛に推薦状までしたためていた。自分の力で受かってみせると推薦状を突き返そうとしたが、忙しいの一言で部屋を追い出され、カールは拍子抜けすると同時に、いいようのない寂寥を感じた。
(主従の間柄はこんなものか)
 いや、今まで共に過ごしてきた時間の積み重ねは、カールの胸の内に、従者以上の何かを根付かせている。身分違いも甚だしいが、カールは密かに姉のように思っていたし、エレインだって心を許してくれていたと感じている。
 エレインがホルン騎士団への入団を決めたとき、彼女は誰より先にカールへ打ち明けてくれた。それが今度はどうだ。表情も変えずに、紙切れ一枚差し出しただけとは、何とも情けない話だろう。ただ、その気持ちをバネにして、実力で試験に合格できたことを思えば、皮肉な話と言えるかもしれなかった。


   *

 塔の隙間を縫うように、馬車は通りを走り抜けて、定刻通りに円形広場で客を吐き出した。降り立った広場は市こそ立っていないが、人で溢れかえっている。その大多数が地にひれ伏して、古ぼけた建物に祈りを捧げる光景は、聞いてはいたが圧巻だった。
「これが開かずの大聖堂か……」
 大聖堂とは言うものの、向かいの宿屋に毛が生えた程度であって、隣に聳える壮麗な礼拝堂と比べると雲泥の差と言える。漆喰が剥げ落ち、ズングリとした大聖堂の容姿は、どこか愛嬌がある。
(帝国一の大聖堂? 本当かよ、これが?)
 大聖堂の名はユーリーといい、この地で殉教した聖人の名を冠している。聖ユーリーはかつての帝国──現モンフェラン公国に迫害され、魔女ウィッチとして殺された。この椀を伏せたような小さな堂で、蒸し焼きにされたのだ。
 伝説によれば、死体を検分しようとした役人が、ことごとく雷に打たれて焼け死んだらしい。以来三百年、誰もこの聖堂を開けようとしない。
 その三百年間、この地に留まり、墓所ともいうべき大聖堂を守り続けてきた一族がいる。始祖は聖ユーリーの妹と言われ、ベズレーに根を張る豪族と交わり、僧兵団とも言うべき勢力にまで発展したのが、ベズレー伯タンクレート・ゼーベックの系譜だ。枢機卿をも務めるタンクレートは、エレスベンの誇りであり、エレスベンそのものと言っても、あながち間違いではないだろう。
 エレスベンの街は常に巡礼者で賑わい、祭りの空気がこびりついているように感じる。大聖堂の前で織りなされている光景を目の当たりにして、カールはブラオフルスの聖祭を思い起こした。
 巡礼者の中に士官学校の黄色い制服を見かけなければ、カールは飽きるまでその場で物思いに耽っていたかもしれない。士官候補生はゲラゲラと笑い声を上げながら、広場を横切っていった。
 候補生の歓声と巡礼者の祈りを、カールの真横で発せられた女の悲鳴が切り裂いた。目の端を掠めていく影に向かって、カールはとっさに持っていた鞄を投げた。
 馬車で相席していた婦人が尻餅をつくのと、男が転がるのが、ほぼ同時だった。強盗と思しき男は、彼女の手荷物を放り出していた。
 呆然としている婦人に、カールは石畳に転がっている荷物を拾って渡した。婦人はきょとんとしていたが、手元の荷物を見て、ようやく自分が悲鳴をあげた事態を把握したようだ。
「ああ! ありがとうございます! この中には主人の形見が──」
 そう言って、彼女は何度も何度も頭を下げてきた。
「いや、いいんです。お気になさらず──」
 未亡人を立たせようと手を差し伸べた。目の端では、強盗が雑踏を掻き分け、泡を食って逃げようとしていた。未遂に終わったことだし、深追いはやめておこうと思った矢先、強盗の行く手に熊が見えた。
 巡礼者に混じって大男が祈りを捧げていて、その男が熊に見えたのだ。障害物と見なしたのか、強盗は熊男の頭に手を着いて、飛び越えようとした。その刹那、鈍重そうな見た目からは想像できない反応で、大男は強盗の腕を取って軽々と放り投げた。
 強盗はゆったりと宙を舞い、運の悪い士官候補生の一団が受け止める具合になった。
(こいつは──)
 広場は静まりかえった。皆がその大男の一挙手一投足を注視している。
 体格のいい大人を二〇メートルも投げ飛ばしたのだから当然だ。腕っ節の強い男は朱籠手隊にも大勢居たが、目の前ののっそりとした男は、それを凌駕している。敢えて比較するとしたら……
(力だけなら、スクウィレルに匹敵する……?)
 大男は巡礼者のような粗末な格好をしている。祈りを捧げていたことからすると、実際巡礼者なのかもしれないが、襟首で束ねた黄土色の長髪を気にしながら、彼は足早に大聖堂の裏へ姿を消した。
「もし……是非ともお礼がしたいのですが──」
 未亡人が袖を引いてきた。彼女の首元にある三つのほくろが、妙に心をざわつかせる。未亡人から執拗に自邸へと招かれたが、カールは申し出を固辞した。
 大男が消えた坂を急いで登らねばならない。あの坂の上に陸軍士官学校はある。

 エレスベン陸軍士官学校は、ベズレー伯タンクレートの別邸を譲り受けて発足した。かつて、ベズレー騎兵の勇壮さは天下に轟き、ベズレー馬は帝室にも献上されていた。それは、騎馬の育成にこの地方が適していただけでなく、宗教的な情熱が騎馬を必要とし、品種改良が重ねられてきたからだ。
 バムン山脈より遙か東方、失われた聖域への遠征に、ベズレー馬は駆り出されてきたという歴史があり、代々の領主は軍用馬の育成を教皇から要請されていた。ベズレー州は聖域奪還作戦における後方支援の最重要拠点だったのだ。
 士官学校発足に関して、現当主タンクレートがベズレー騎兵の復権を願ったかというとそうとも言い難く、むしろ彼は戦事について消極的であるらしい。
 タンクレートは枢機卿として、迷える民草の救済という信念を固持していると聞くが、枢機卿であると同時に帝国の最有力諸侯でもある。初代聖帝が発した『巡察勅令』は現在も生きている。聖帝に忠誠を誓う貴族は、おしなべて武具と馬を所持し、騎兵としての従軍義務を負っている訳で、元老院は枢機卿の立場を上手く活用したのだろう。
 直轄領に学校を設立する余裕もなく、かといって諸侯の領地を間借りすれば税が掛かる。それは聖教会と伯が折半で治めるエレスベンも同じだったが、元老院は有事の徴用免除を全面に打ち出して、免税特権と設立費用の折半という好条件を勝ち取っていた。帝都からの距離も許容できるエレスベンは、陸軍にとって打ってつけの場所といえる。
 大聖堂裏の細い坂道を抜けると、唐突に道幅が広くなった。等間隔に並ぶカラマツの枝の先に、黒金の大門が屹立している。鉄門には冷たい蔓草が装飾されていて、ゼーベック一族の趣向が色濃く残っている……ような気がした。そう思ったが、流麗で繊細な門の佇まいは、士官学校にそぐわない気もする。
 門前で突っ立っているカールを追い抜いて、青年たちが守門に一礼しながら中へ入っていく。ぽつぽつと歩いていく彼らの先には、これまた瀟洒な建物がある。
 市外から正門まで続くカラマツ並木は、そのまま学校の中に入っていき、練兵場を縁取りながら、その建物へと延びている。これがベズレー伯の旧邸であり、士官学校本部と教官の詰所を兼ねていた。その背後に質素な石造りの建物が二棟ある。講義棟だろうと思いながら、カールは旧邸の敷居を跨いだ。
 本部事務室の前の廊下には、既に長蛇の列ができていて、カールは小一時間ほど待たされた。ようやく部屋に通されると、待ち受けていた事務官が姓名と出身を名乗るよう、静かに言った。
 カールは一歩進み出て、挙手礼をした。騎士団でもそうだが、上官に対して右手をこめかみまで引き上げ、手のひらを相手に向けるのを挙手礼と呼ぶ。エレインが言うには、面頬のある水鉢兜バシネットの蝶番を上げる仕草から来ているらしい。手のひらを見せるのは、武器を所持していない──つまり挙手礼とは、身元の確認と害意がないことを示す所作といえる。
「カール・フレッチャー。リブヌール出身であります」
 帳簿を確認しながら、事務官は黄色いリネンの制服一式と支給品を手渡し、宿舎で待機するよう告げた。何か一言あるのかと待ち受けていたが、さっさと行かんかと退出を促された。騎士団なら、ここで美辞麗句が並んだ訓辞の一つや二つもあるのだが、軍は勝手が違うらしい。
 本部棟から講義棟までは石畳が続いていて、その先は踏みならされた赤土の三和土が延びている。宿舎はその講義棟の奥だ。宿舎と言っても倉庫か何かのようで、事務官から説明を聞いていなければ、余りにみすぼらしくて、素通りしてしまうような代物だった。
 通称、荷物置き場と呼ばれる建物は、実のところ、一年の大半を文字通りの意味で使用されていた。入校したての候補生は、巨蟹月の編成試験で兵科分けされるまで、全員がここで雑魚寝するのだが──その仮宿舎の前で、あの大男が制服姿の三人に囲まれていた。
(……こいつら!)
 熊男はもとより、制服の三人組にも見覚えがある。ついさっき広場で見かけたばかり、強盗の下敷きになった連中だ。
(あの熊も新入生らしい……というか、因縁つけられてるのか? 避けられない方が悪いだろう──)
 案の定、候補生はその男を連れて、仮宿舎の裏手に消えた。しかし、どう贔屓目に見ても、熊男の腕力は尋常ではない。放っておけば怪我人が出るだろう。
(──流石に軍人の卵が相手じゃ、多勢に無勢か?)
 そう思いつつも、好奇心が勝った。こっそりと裏に回ると、早速上級生が詰め寄っていた。
「オイ! 何とか言ったらどうだ?」
 候補生も巨漢だが、無言で対峙する男はさらに大きい。さっきはよくもだの、礼儀を知らんのか、と捲し立てられているが、熊男は聞き流しているようだ。
(街のゴロツキと変わらないな……)
 先輩候補生の態度に接して、カールは幻滅すると同時に憤りを覚えた。顔色一つ変えない熊男に業を煮やしたのか、上級生は腰の剣に手を掛けた。どうにも我慢できなくなって、カールは物陰から飛び出していた。
「抜くのかよ? 随分安いな、軍の剣ってのは」
 上級生がくるりと振り向いた。血走った目は焦点が定まっていない。呼吸は浅く、涎を垂らしている。いくら熊男が馬鹿力でも、真剣相手じゃ無傷で済まないだろう、と思ったのが運の尽きかもしれない。
(──僕も丸腰だった……これは拙い)
 しかし、船に片足を突っ込んだ以上、今更後には退けない。不意の闖入者の思わぬ態度に、候補生は激昂したようで、いい度胸だとブロードソードを抜いた。
 熊男はここでようやく驚いて気色を変えたが、カールは眉一つ動かさなかった。動かす気にもなれない。腰の入り方にしろ構えにしろ、素人に毛が生えたようなレベルだ。
 カールは敢えて一歩間合いを詰めた。心理的に揺さぶりを掛けられると踏んだ。読みは当たった。上級生の剣先がぶるぶると震えだす。動揺しているのが見て取れ、挙動は酷く分かり易くなった。
 来る──と思った瞬間に、カールは半身を引いて、上級生の懐に潜り込んだ。エレインの剣捌きより数段劣っていて、帝国陸軍の力量に不安を覚えたが、カールは遠慮なく上級生の鳩尾を殴り、ついでに横っ面を叩いて張り倒した。仲間も剣を抜こうとしていたが、熊男が問答無用でなぎ倒したところで、乱闘騒ぎはお開きになった。上級生のうめき声に被せて教官の怒号が降ってきて、全員首根っこを掴まれて教務室に連行された。
 入学早々刃傷沙汰とは言語道断ということで、カールと熊男には懲罰として、当面の間、校内の清掃が言い渡された。広場の事件から一部始終を目撃したカールは、事情を包み隠さず説明した。それを斟酌しても、まかりならんというのが、武官文官を問わず全員一致の見解だった。ともあれ、喧嘩をふっかけてきた上級生は、十日間の懲罰房送りを言い渡されていたから、二人の罰は軽いと言えば軽かった。


   *

 講義棟の一番奥の、如何にも倉庫ですという自己主張の激しい板張りの部屋は、天窓から申し訳程度に西日が差し込んでいるだけで、薄暗い上にやたらと埃臭い。埃っぽいから掃除の任務を仰せつかったのだが、問題は絶妙に薄暗い時間帯に命令を下さなくても……という話だ。
 扉は長いこと役目の半分しか果たせずにいたらしく、ギイギイと軋んだ音をまだ鳴らしている。隅の方に荷物が積んであるだけで、倉庫の床は白く輝いている。それが一面に積もった分厚い埃だと気付いて、カールは任務を前にして、早くもうんざりした気分になった。
 颯爽と部屋に乗り込んだものの、一歩進むごとに埃が舞い上がり、カールは鬱陶しくなって箒を振り下ろそうとしたのだが、その手をぐいと掴まれた。
「アホか。埃まみれになるぞ」
 熊男の名はベスター・レブランク。モンフェラン公国と海を挟んで対峙する帝国西方の要、ウッドフォード州レブランク村の出身らしい。ベスターは濡らした藁を部屋中にばらまいた。
「そうかそうか……こうすれば埃は立たないよな」
 ぶっきらぼうな奴だと思いながらも、カールは感心してうなった。
「さっさと終わらそうぜ? こうなったら、面倒でも仕方ない」
 そう呟きながら、カールは部屋の隅から掃き始めた。掃きながら、これからは大人しくやっていこう、と心に誓った。最新の戦術を身につけて、自分の決断は正しかったと、エレインに見せてやりたい。いや、そうしなければ意味がない。
(そうなる前に、除隊処分を食らっちゃあ、目も当てられないからな──)
「おい、お前。何で首を突っ込んできた? 奴らはただの麻薬常習者だぜ? 適当に蹴散らせとけば、片は付いた」
(麻薬? ……それであの体たらくか。なるほどな)
 ベスターは箒にもたれ掛かかりながら、じっとカールを見つめている。何故か、と聞かれてカールも困ったが、見下されているような言い方が頭に来て、カールはぶっきらぼうに、騎士だからだ、と答えていた。
「──騎士団を飛び出して来た。だから、勢い余って首を突っ込んだんだろうさ」
 他人事のようにそう言うと、ベスターは少し構えたようだ。眉間に皺が寄っている。
(大方、どこぞの貴族の御曹司──世間知らずでいい気なもんだ、とでも思ってるんだろう)
 誤解されても寝覚めが悪いと思って、自分は平民だとカールは付け加えた。
「……何だと?」
 ベスターは身を乗り出して食いついてきた。予想外の反応に、カールはホルン騎士団に居た、とつい口を滑らせてしまった。
「ホルン! 天下の騎士団にか? 平民の小倅が騎士団の中の騎士団に居たのか?」
「まあな」
「嘘だな! 有り得ねえ」
「嘘なもんか!」
「じゃあ、続きを聞かせてくれよ。どうやって騎士団に潜り込めたのか」
 興奮気味なベスターの勢いに乗せられて、カールもついつい身の上話を始めていた。
 生国のリブヌール州は、ハイブロン大陸の東に位置する大封土で、譜代御三家筆頭ハーディー家が治めている。領主のアイネアス・ハーディーは、近衛院の長官を務める帝国の柱であり、賢君としても名高い。
「僕はエレイン・ハーディー様の従者だった」
「嘘だろ エレイン姫と言えば、ホルン騎士団の実力者! 天蠍団を壊滅させ、ブラオフルスじゃ聖帝を守り抜いたという──」
 白百合姫の従者だったのか……とベスターは驚きを隠せない様子だ。
(白百合じゃないけどな……実際は)
 幼い頃母に死なれたカールは、兄弟もいない。アイネアスの馬丁をしていた父親と二人で暮らしてきたが、その父もカールが五つになるかならないかの頃、魔女熱ウィッチフィーバーであっけなく死んだ。
「天涯孤独になったこの僕を、大殿様は姫様の従者に取り立てて下さった。それだけじゃない。僕に騎士の手ほどきまで──」
 その教えを貫くのが、ハーディー家への恩返しだと、カールは締めくくった。呆れたように、ベスターが鼻を鳴らした。
「お前な……恩を感じてるなら、帝都で奉公するのが筋じゃないのか?」
 何故ここにいる? とベスターは解せないという顔をしている。
「……自分の力を試したいからここに来た」
 カールは真剣に言った。笑われるかと思いきや、ほほう、とベスターは真顔で肯いた。
「気に入られるだけはあるな」
 実は……とベスターが切りだしてきた。
「俺も力試しにここに来た。アルベール・デュラン様のような大剣士になるためにな!」
 ベスターは箒を正眼に構えながら、むしろあの鬼神を超えてみせる──とまで言い切った。
 アルベール・デュランは譜代御三家の一つ、ウッドフォード公の実弟にして、朱籠手隊長を務めていた伝説の騎士だ。血統からすれば、騎士団での立場は妥当と言えたが、就任までには紆余曲折があったと聞いている。問題はアルベールの性格にあったらしい。
 血に飢えた獣と呼ばれるほど、アルベールは戦場でも、それ以外でも、斬った。彼の蛮行を近衛院のアイネアスは嫌ったが、アルベールは剣と武勲でそれをねじ伏せた。彼が赴いた戦はおしなべて勝った。それだけの技量とカリスマ性を持っていたのだ。
 結局、下から推される形でアイネアスも認めざるを得なくなり、朱籠手隊長の椅子を与えたらしい。そのアルベールも十年前の内戦の最中、リブヌールの南東にあるカロスクロナ辺境伯領の紛争地で、あっけなく鬼籍に入った。その後継がゲルトルード・フォートマンだった訳だ。
 ともあれ、領国のウッドフォードでは、半ば神格化されている梟雄を、ベスターは超越すると言っている。
「お前……来る場所、間違えてるんじゃないか? いや、絶対に間違えてるな」
 軍に入ったところで、剣士になれるとは限らない。というより、道は大分横に逸れたと言わざるを得ない。しかし、ベスターは剣でねじ伏せるまでよ、と言った。
「お前こそ、人のこと言えるのかよ? うまく立ち回れば、正騎士に手が届くかもしれなかったってのに……そいつを放り出してくる奴に言われたくないね」
 ベスターは愉快そうに笑いながら、右手をカールに差し出した。
「似た者同士、以後よろしく頼むぜ、大将」
「……大将はやめろ。かっこ悪い」
「意外と器は小さいのな、お前」
 有り体に言えば大いにカチンときた訳だが、カールは差し出された右手を握りかえしていた。話してみれば思ったよりいい男で、カールとベスターはすっかり意気投合していた。
 この日、波乱に満ちた士官学校生活が幕を上げた。


   *

 聞くところによると、鐘の音というのは街ごとに違うものらしい。帝都のそれは堅苦しく、ブラオフルスは柔和で、エレスベンの鐘の音は荘厳そのものだ、とベスターは言うが、カールに違いは分からない。そもそも、見かけによらず、鐘の音に詳しいベスターが、よく分からない。
 ベスターの趣味が何であろうと、毎日毎時、礼拝堂の鐘の音は、時を刻むのが大きな仕事だ。とりわけ、エレスベン礼拝堂の鐘の音は、夜明けの街に染み渡るようだと言われている。
 黎明の鐘音の余韻に後押しされて、巡礼者や修道女の一日はゆったりと動き出す。しかし、士官学校の候補生は違う。ヒヨコの一日は、甲高いラッパに突き破られて始まるのだ。
 起床の合図と共に、荷物置場のハンモックは一斉に運動を開始する。新米候補生が我先にと、黄色い制服に着替え始める光景は、さながら鶏小屋のようで、乗合馬車の貴婦人は、ひょっとして、これを見たからヒヨコと言ったのか……と寝惚け眼でハンモックを畳みながら思ったほどだった。
 初日はハンモックを片付けるのさえ一苦労。制服に着替えるのにもう一苦労で、周りの候補生は慣れない制服に四苦八苦していた。お陰様で、監察役の教官がそこかしこに雷を落としまくって、朝っぱらから修羅場と化した。
 着替え終えた少年たちは、一目散に練兵場へと飛び出していく。いや、飛び出さなくてはならないのだ。上級生より先に整列をしなければ、鬱になるような罰則が科せられる。
 初めの内はどんなに急いで着替えても、上級生は整列を終えていて、その度に新入生は練兵場を走らされた。これは誰か一人でも一番乗りを果たすまで続き、その名誉ある一番乗りを成し遂げたのが、ベスターだった。
「あの連中な、ありゃあ、徹夜だ。間違いない」
 ベスターがそうぼやくものだから、このうすら寒いエレスベンで徹夜なんてやってられるか、と返してやると、それもそうだと納得していた。とにかく、そうこぼしたくなるくらい、上級生は整然と涼しい顔で列んでいたのだ。
 熊のような見た目に合わず、朝は滅法強いのか、荷物置場を真っ先に飛び出していくのがベスターで、それでも初日、二日目は遅れを取った。三日目にようやく成し遂げて、午前中延々と走らされる拷問は回避された。
 手短な朝礼、そして体操が終わると、これまた候補生は居室に素っ飛んでいく。朝食までの時間は掃除に当てられていて、この日課も気が抜けなかった。少しでも油断しようなら、教官の罵声が飛んでくる。これは陸軍流の躾教育であるらしい。
 朝食が終わると講義が始まるのだが、新入生は基礎教練に一日が費やされた。まず徹底的に言葉遣いが直された。特に訛りの酷い地方出身者は苦労していて、所謂、軍言葉に慣れるには時間がかかりそうだった。
 端的で明瞭な言い回しや報告の仕方、挨拶など、急に話を振られて言い淀みでもすれば、ご丁寧に罰が待っている。訓練という名の大剣クレイモアの素振りがそれだ。
 入校早々目を付けられたカールとベスターは、特に風当たりが強く、容赦ない不意打ちを仕掛けられた。従騎士生活が長かったカールは別として、ベスターはウッドフォード訛り丸出しで返答して、大剣を握らされていた。尤も、ベスターは喜々と享受しているようで、罰が罰に見えはしなかったが──
 基礎教練のもう一つの柱は、銃器の扱いだ。火縄式前装滑腔マスケット銃ならば、騎士団で多少の心得があるものの、軍のそれは最新鋭が揃っていて、カールは少し戸惑った。
 先込式なのは変わらないが、火縄式最大の欠点である雨中使用効率を劇的に改善し、さらには斥候の騎兵を火縄の臭気から解放させ、索敵と急襲の精度を上昇させた燧石式前装滑腔グレノーン銃。この銃は、着火の動揺が少ない火縄式に比べて、燧石を叩いて火花を散らさねば発射できないから、命中精度の点で及ばないが、風雨への耐性と、速射や遠射に秀でている長所が認められ、陸軍の主流となっている。
 さらに、速射を捨て命中率の一点を求めるなら、火縄式前装滑腔銃にしろ燧石式前装滑腔銃にしろ、猟銃を改良した前装旋条ロートール銃には敵わない。
 新型銃の操作方法には面食らったのは当然として、何より一番戸惑ったのは、銃よりもむしろ担当教官の方だ。この実習の担当教官、実は初日に面倒を掛けたラドクリフ・カロッソという男だった。
 彼は実習と関係ない質問を連発して、候補生を閉口させた。
「宿舎を網だらけにしたの、アイツらしいぜ」
 どこで仕入れてきたのか、ベスターがそう言った。網とはハンモックのことだ。教官の殆どはハンモックの導入に消極的だった。ここは陸軍である、というのが彼らの言い分だったが、不況の嵐に抗うこと能わず、軍上層部は廉価なハンモック導入に踏み切った。これを推したのがラドクリフで、彼はリブヌールの東にあるグレノーンという自治領出身の元海軍将校だそうだ。
 ちなみに、燧石式前装滑腔グレノーン銃という名は、正にこの自治領に由来している。燧石の一大産地であるグレノーンの海軍が、火縄からの解放を切に望んだ結果、この銃が産まれたという。
 額が狭く縮れ毛のお雇い教官は、物覚えのいい候補生を見つけると、大袈裟に褒めちぎった。真っ先に標的となったのは他でもないカールだ。といっても、別の理由が働いているのは、皆も分かりきっている。
「そのやり方は、ホルン流かね? 実に──」
 ビューティフル、と語尾に付くのがラドクリフの口癖で、要は手際がいいという意味らしい。
 初めて言われたときは、咄嗟に何と返せばいいか分からず、カールは即座に罰を言い渡された。時折カールの横に来て、ラドクリフは騎士団の話を振ってきた。その話になると、ベスターは元より、他の候補生も聞き耳を立てているのが分かって、何とも居心地が悪かった。お雇い教官は技術云々よりも、カール本人に興味があるらしい。
 そんな中、ラドクリフが舌を巻いた候補生がいた。赤毛のグリグリ頭で、カールより頭一つ背が低く、名前はマルコ・クロフォードといった。
 銃の分解、組立の速度だけでなく、射撃の精度も新入生離れ──いや素人離れしている。彼の技術には、カールでさえ足下に及ばなかった。ラドクリフは感極まったように頬を紅潮させ「ビューティフル! 貴君は船乗りか?」と尋ねる始末で、それを聞いたベスターは、頭に付けて言うこともあるのか、と意味の分からぬ感慨を漏らしていた。
 グノーベルトで行商をしていた、とマルコが小気味よく答えると、ラドクリフは満足そうに、そうだろうなと頷いていた。こちらの男も意味が分からない。
 基礎教練が終わると、もう日は暮れていて、夕食と入浴という一大レクリエーションが、ヒヨコたちを待っている。それが済むと、消灯までは数少ない自由時間になった。
 殆どの候補生は予習復習に励んでいるが、カールとベスターといえば、掃除に向かうのが、当面の日課なのは言うまでもない。


 エレスベン陸軍士官学校での生活も瞬く間に過ぎていき、世間一般で言うところの、一年で最も過ごしやすい双児月が到来した。殺風景な教室や、堅い木の椅子、寸詰まりなベスターの制服も、この頃には見慣れたものになっていた。基礎教練もようやく終わり、座学、つまり教養科目の講義に移っていた。科目は文法、論理学、修辞学、幾何、数論、天文学、音楽の自由七科と呼ばれていて、それに軍制学が加わる。
 幾何の講義が終わって、軍制学の教官を待つ教室は、束の間の解放感に包まれていた。気の合う者同士、他愛のない話、例えば燧石式前装滑腔銃の欠点だとか、近接格闘において確実に相手を屠る技術など、多少知ったかぶりが混じっているが、話の華がそこかしこに咲いている。
 既にいくらかのグループができていて、概ねそれは近しい出身地で纏まっていた。やはり気が抜けるのか、聞き慣れない方言が飛び交っては、聞き咎めた仲間に罰金を払っている者もいる。
 窓からは広大な練兵場が見え、上級生が騎兵訓練に勤しんでいる。心浮き立つ双児月にも関わらず、相も変わらず街全体にうっすらと靄がかかっていて、憂鬱な気分に拍車が掛かる。退屈な講義より、専門的な演習に加わりたかったが、それはまだ当分先の話で、一ヶ月後の試験の結果次第だ。自由七科の選別試験の結果如何で今後の進路、ひいては出世街道が決まるといっても過言ではない。
 ベスターの大きな背中がもぞりと動いて、ゆっくりと振り向いた。生気とやる気をハンモックかどこかに置き忘れてきたような冴えない顔をしていて、カールは腹を抱えて笑ってしまった。
「オレの出世はどっちだ……」
「僕が知るか! 三角四角に聞いてみろよ」
 そう切り返すと、ベスターはがっくりと項垂れた。この大男は幾何が大の苦手で、初講義が終わった後の放心具合は、見ていて気の毒になるほどだった。
 幾何と数論の教本は、多島海語で綴られている。教官曰く、幾何が醸成された言語で学ぶのが上達の秘訣らしいが、ベスターはそもそもこの言語から不得手だった。
 幾何数論はからきしだが、神聖古語ヒエログラムは流暢で、文法学では一目置かれていた。とはいっても、修辞学ではぱっとせず、要するに口下手なのだとベスターは管を巻いている。早い話、修辞学に輪を掛けて数学は見込みがないようで、定規を振って剣豪になれるか、というのがベスターの言い分だ。
「それよりも──」
 カールは物憂げに頬杖をついた。
「軍制学の方がよっぽど問題だろ……」
 軍制学の教官は、シルヴァーノ・レジントンという老人で、難物につき要注意とされる人物だ。何が要注意かと言うと、シルヴァーノは恐ろしく眠気を誘う話術の持ち主で、さらに軍制学自体もこの上なく退屈だったのが、悲劇、いや、むしろ喜劇だと断言できる。
 つまり、クラスの全員が居眠りを経験する事態に直面している上に、シルヴァーノは居眠りを見抜く技量も並でなく、罰を科せられる候補生が続出しているのだ。さらに、お約束ではあるが、カールとベスターは件の騒動で目の仇にされている。
 白チョビ髭の老人が音もなく教室に入ってきた。これを見逃さないのも一苦労である。シルヴァーノは意外にも身のこなしが軽くて、今日の足取りから察すると、機嫌はまずまずのようだ。
 シルヴァーノは教壇に立つや、前回はどこまで話したか、と目があった候補生に尋ねた。教え子の的確な返答に満足しながら、今日は少し別の話を……と教壇を降りて教室を歩き始めた。ベスターの頭ががくりと揺れた。
(──何でいきなり寝てるんだよ!)
 しかも、ベスターは居眠りを隠す気など、毛筋もないらしい。シルヴァーノが咳払いをした。
「エレスベン陸軍士官学校の歴史は浅い」
 何を言い出すのか、と候補生は互いに目配せを始めた。士官学校が設立されて五年。その目的は軍の中核を担う人材の育成であるのは、何あろう最初の講義で白チョビ髭が言っていた。今更それを蒸し返してどうするのだ、という空気だ。
「我ら陸軍自体、まだ産湯に浸かっておる」
 シルヴァーノは白けた空気をモノともせず、淡々と続けて「では、胎の中に居た頃はどうか?」と、カールの横で立ち止まった。答えを求められているようだ。
「巡察勅令であります、教官殿」
 立ち上がったカールの肩を掴んで、老人は左様と言った。
「我が帝国の軍事は、諸侯の騎士とその従者で賄われていた。その花形がホルン騎士団である」
 ホルン騎士団は、聖帝直属の武装集団であるのは間違いない。しかし、その実態は近衛院の管轄下にある治安維持部隊に過ぎない。
 兵卒を含めれば二千人を超す所帯で、確かに腕利きの精鋭が揃ってはいた。諸侯の中でも、肉体、精神両面で優れた者が選抜、推挙されてはいるものの、正騎士にして五百人足らずの人員で、帝国全土に睨みを利かせられるはずがない。
「有事の際は、諸侯の兵士を召し上げる、あるいは傭兵団で賄うこともあった。いずれにせよ、陛下の要請あって初めて軍が存在するのであり、帝国が所有するものではない。故に、かつては度重なる内乱があった。それは、傲慢であり、怠惰だろう。許されざる背信が帝国を荒廃させたのである」
 例えば、十年前の乱がそれだ、とシルヴァーノは語気を強めた。十年前の乱というのは、農民一揆に端を発した宗教戦争『案山子の乱』──所謂、魔女狩り戦争のことだ。
「この中の殆どの者が、辛酸を舐めてきただろう。どれほど無駄な血が流れたか。何故、いたずらに命が失われたのか。まず第一に──これが決定的であるが、聖教会の教えが行き届き過ぎていたのが挙げられる。でなければ、本派と太陽十字サンホイール派の諍いは起きなかったはずだ。しかし結果として、彼らの経緯が戦渦を帝国全土に波及させた」
 そして第二に、これが我が陸軍の存在理由である、と老教官は言った。
「統制のとれていない寄せ集めの騎士団や傭兵団が、ウサギ狩りよろしく、てんでバラバラに戦場を駆けていったことがあろう。これが、逆に火を煽ったといえる。しかも、屈強な槍兵と長銃兵の連携は、重装騎兵といえども突き崩せぬようになった。最後に、先帝陛下の認めた信仰の保証により、同じ部隊でも宗旨を違えるものが出てきた。さらに傭兵団はもとより、あろうことか騎士団の中にも、朝立てた信仰への誓いを、夕には金で塗り替える者が現れた。結局、誰が味方で敵なのか、神のみぞ知る事態になってしまったのだ。賢明な諸君ならば、陸軍が何故欲されたのか、気付くはずだ」
 シルヴァーノはカールの肩を叩いて座らせた。教官殿、と赤毛のマルコが声を上げた。
「信仰を金で覆すなど、騎士道から凡そかけ離れていると思われます! 騎士とは一体何なのでありますか?」
「──数奇者よ」
 と言って、シルヴァーノは練兵場を眺めた。心なしか、その背中がいつもより小さく見える。
「己の信念に固執する愚か者よ。軍略、戦術も分からず、先陣争いに命を賭けられては、勝てる戦も勝てぬ。殊に騎兵はその機動力、展開力、突撃力こそ要。勝手気ままに散開されては話にならん。今の騎兵旅団は、ガントレットの処遇が悩みの種とも聞く。それだけ、騎士とは手に負えんのだ。かつては一騎打ちで国の行く末が決まる珍事もあったが、もはや時代がそれを許さぬ」
「しかし──」と、カールは声を上げていた。
「騒々しいぞ、カール・フレッチャー」
 シルヴァーノはツカツカとやってきて、カールを睨み付けた。
「も、申し訳ありません……いや、でも、ホルン騎士団は数々の武勲があり、彼のアルベール・デュランの偉業は、カロスクロナ紛争を終結に──」
「騎士団は既に有名無実。宙に消えたところで誰が困る? 現状にそぐわない──というのが元老院の判断だ。現実を見据えるのだ。状況を的確に、総合的に判断せよ。理性こそ戦場で生き延びる術である」貴様は何故ここにいる? とシルヴァーノは言った。
「騎士になるためか? 違うだろう?」
 ここで老教官は思い切りベスターの横っ面を叩いて、罰として二人に大剣の素振りを命じた。
「さて、昨今の情勢を鑑みるに、今後諸君が配属される舞台は二つあろう。一つはウッドフォード──」
 近年、対外膨張の兆候があるモンフェラン公国の牽制は、軍部に課せられた大きな使命だ。
「二つ目はグノーベルトであろうな。辺境伯の処遇は未だ宙に浮いたまま。レーヴライン家の跡取りは恭順の姿勢を示してはいるが、巣の中で何が起きているか、知れたものではない」
 来期からは雪中訓練が軍務として追加される、とシルヴァーノは言った。それを聞いて、候補生全員がうんざりとした顔をした。
「これからの帝国を担い、陛下の剣として盾として、夷敵から王土を守護するのは、他でもない貴君らである。来月の試験は将たる器を判別せんがため、論述を課したい。主題は陸軍の展望とする」
 講義を締めくくり、シルヴァーノはさっさと教室を出て行った。



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