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 我々にとって我々自身は未知である。我々は未知の中にさまようが、常に知を求め、それを手にしたように錯覚する。
 私が常に感じ、また思う事は、私達は私達の生自体に無関係、というより他人に対する態度で当たっているという事である。そしてこれは現在に近づけば近づくほどその程度は激しい。そして私を含めた誰かがそのような事をどれほど指摘しようと、この傾向は増大していくに違いない。そして良識を求める良き人は常に過ちと錯誤を繰り返しながらも、ついに自らがこの生涯で何をすべきかを導きだし、その答えを自己自身の可能性の内に求め、それを実現するに違いない。そしてこの私の小文は、結局は大勢多数の人に受け入れられるように書かれたものではなく、そうした遠い未来の優れた若者に向けて書かれた置き手紙のようなものとなるであろう。
 「死を自らの宿命と考えないことが、普通の人間の属性である」とシオランは言った。死は我々を自分自身に引き戻してくれる唯一の方法である。私達はどういう訳か、一度心理的に死ぬ事によって、始めて自分自身の生に回帰する事が可能になる。私達は自分を求めて遠くさまよい、そしてそのまま遠くに行って帰らぬ人も多くあるだろうが、自分自身を常に求める誠実な人はやがて自分の家に帰ってきて、自分のすぐ近くにすでにあった、自らの青い鳥を発見するのであろう。
 私がこんな妙な事を言っているからといって、すぐにページをクリックして前のネットページに戻る必要はないと私は思う。私はありきたりの事しか言っていない。私達は今、私達を概観して感じる当たり前の事を言っているに過ぎないのだ。私達は多くを求め、全てを失う。だがその場合、私達は何を求めているのかをほとんど自分で知らないのみか、私達は自分の欲求すら、誰か違う他人に定義された状態でスタートを切らされているのである。
 例えば、昔話をしよう。私が小学校高学年の頃、読書感想文というのがあった。(今でもあるのだろう。)そしてその時の私は人一倍ませていたガキんちょであったために、妙に着飾った知的そうな文章を書いたのだった。そしてそうやって書いた内の一つの文章を、私は何かのきっかけで教室で読み上げる事になった。そしてその時、私以外はほとんど誰も使わなかったであろう「念頭において」という言葉が、その文章の感想文に入っていたために、私のその文章はクラスにちょっとしたざわつきーーー小学生にも関わらず、過度に知的な文章を書いて発表したために起こるざわつきーーーをクラスにもたらした。私はその一件で別に得意になった訳ではないが、その文章自体は間違いなく、私は得意になって書いていたと断言できる。
 そしてそうした読書感想文なるものはその当時のませた人間にふさわしく、内容は空っぽであり、そしてその最期の結論というのは、「やっぱり環境は大事にしないといけないと思いました」とか、「やっぱり何があっても生きていくことは大切だと思いました」などといったテンプレート的結論で埋め尽くされていた。そしてまた、世の中の雰囲気の常で、教師や親などもそうした結論ーーーとってつけた結論というものを推奨し、また彼ら自身も自ら好んで、そうした結論をあたかも自分で発見した結論であるかのように口に出して、子供達に吹聴していたのだった。そしてそうした雰囲気の中で、感覚的に鋭敏であった少年の私は大人達の「空気」を読んで、そうした内容空疎な読書感想文を書き、得意になっていのだった。そしてこうした得意の気分は、それから少したって中学生くらいになり、高校生になり、自意識ができあがり、世の中に反発する事を覚えるようになってくると、直ちに黒歴史となり、自分の中でもう二度と思い出したくない忌まわしい記憶のような体裁を取った。
 そしてまたついでに言うと、こういうことは残念ながら、大人の世界でも同様に行われているのである。それは種々の作文コンクールやエッセイコンテストのようなもの・・・・あるいは、そうした考え方は、大きな文学賞などにもいくらか跡を留めているように思える。つまり、結局の所、人は自分のサイズ、自分達が望むサイズで物を見ようとするのであり、本当に良いもの、美しいものを求めているとは言えないという事である。
 だが、これはおそらく、今も影を留めている私の子供らしい判断がいくらか、誤った判断を作り上げているのだろう。・・・例えば、企業体が自分達の企業理念に合致するなにものかを募集し、それをほめたたえる事は当然の事であり、また、それが真に芸術的に価値があるかどうか?などといった点について考えたりしないのは、当然の事である。だがしかし、こうした事が積み重なり、また世界全体がそうした、無意識の内の党派性というものの錯合でできあがり、そうした複雑な光と闇の陰影で埋まってしまうというのはおそらく、いつの時代にも存在しなければならない本当の芸術を窒息し、その息の根を止めかねないものである。・・・・そしてここに、正にこの点にこそ、全く空手空拳、何一つ手に持たない若者が、それ故にこそ、本物の作品を作り上げ、芸術を開花させる素地が眠っているのである。
 私は小学校の読書感想文から始めて、意外な所にたどり着いてしまった。私が言いたかったのはこうした事ではない。(言いたかった事など、どうでもいいが。) 私が言いたかった事は、私の小学校の読書感想文の結論があらかじめ誰かの手によって用意されていたように、現在では非常に多くの事がこうした状況に晒されている、という点にある。つまり、あらゆるものは既に誰かに先回りされて、解答を用意されているのである。・・・あらゆる所に教師がいて、問いを発するが、自由な答えなどはない。そしてその答えは既にほくそ笑んだ教師の持っているノートに記されているのである。
 こうした自由の欠如や、反発的な心には退屈と感じる現在のあらゆる状況は、ただちに否定されるべきものではない。社会の運営に対してそれは必ず必須の事項だからである。だが、現在の日本の状況はそんな必須事項ばかり突き詰めすぎている為に、どんどんと降下していっているように感じる。私は、この船と一緒に沈んでゆく。だが、私の心は少数の人と一緒にあの空の上を飛んでいる。
 私はーーー自分を語っても仕方ないのだが、とにかくうんざりしてきたように思う。私の二十七年くらいの人生の間において、私という袋には無数の「うんざり」と「失望」がたんまりと溜まったという他に、私の存在は見あたらない。
 だが、それでも私は生きている。その理由を聞かれても、私には答えられない。私には種々の、若い時に持つべく養成されている幻想は全て打ち砕かれたし、後に残っているのは、私にとって退屈なこの生だけなのである。私は自殺すべきかーーー?・・・おそらく、そうであろう。もし、理論整然とした紳士がやってきて、私の前後の状況を鑑みて、私に一つの決断を下すならば、私には「自殺」が好ましいだろう。だが、私は未だ自殺しない。何故だろうかーーー?それは私には、きっと理論外の物を信じる癖のようなものがあるからなのだろう、と私は私を洞察してみる。私は死にたくなっても、私の魂はいつも未来に触手を伸ばしている。それは、この文のはじまりに書いたように、多くの人々のためでなく、ごく少数の人々のため、あるいは未来の私自身の為に他ならないのである。私はーーーこの世界の無数の資本主義的に強制されたうんざりする希望の波を全て斥け、そして自分の絶望を探さなければならない。そして絶望する事もおそらくはまた一つのーーーそれもおそらくはたった一つの真の希望なのである。

この本の内容は以上です。


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