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「ウソ・・・・・・どうしてここに?」
 頭上へクエスチョンマークをちりばめて混乱する祐希に真衣は、説明に代えて後方を振り返る。視線を追うと、河川敷を隔てた堤防の上、櫂のジムニーに縦列して見慣れた黒塗りのセダンが停車している。オーナーの西山は腕を組んでフェンダーに寄りかかり、得意げに河原を見下ろしていた。と、後部座席のドアが開き、パーカーにスリムジーンズの女性が降り立つ。一瞬、誰かと思った。フォーマルなスーツか、あるいはジャージ上下しか見たことがなかったためだ。
「涼香先生・・・・・・」
 担任教師の篠田涼香は土手の斜面に敷かれた石段を下り、河川敷の護岸を小走りに駆け寄ると、いきなり祐希に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい祐希君。おじい様の思い出話を勘違いだなんて決め付けたりして。図鑑に載っていた一般情報を鵜呑(/うの)みにして、それがすべてだと思い込んでいたなんて、教師として恥ずかしいわ」
 授業のたびに起立して頭を下げている相手から逆に頭を下げられてうろたえる祐希に、苦笑しながら真衣が説明した。
「祐希君からのメール、涼香先生に転送したのね。そしたら、現地まで出かけて謝ってくるって言うから、お願いして私も連れてきてもらったの」
 真衣と涼香先生の背後から、西山がくわえ煙草で歩み寄る姿が見えた。
「こらクソガキ。なんだ、その邪魔者を見るような目は? お前のお客さんを丁重にお連れしたんだ。もちっと感謝しろや」
 涼香先生は通勤に使っているコンパクトカーに真衣を乗せ、はるばるこの街まで運転してきた。まず向かったのは伯父夫婦の家だという。住所は祐希の両親に電話で確認したらしい。だが釣り三昧の祐希は当然留守で、行動を共にしているであろう櫂の住所を伯母に教えられた。さらに瓜生家へ(/おもむ)くがやはり不在で、折から新作ルアーの催促に来ていた西山が事情を知った。涼香のコンパクトカーは瓜生家に置いて、西山の車で釣り場へと案内したらしい。
「祐希君、あなたクラスのみんなから嘘つきって言われたんですって? 気付かなくてごめんなさいね。でも大丈夫。先生が責任をもって、おじい様の思い出話に嘘はないと、クラスメイト一人ひとりに説明します」
「きっとみんな信じてくれるよ。海から遠く離れた川でスズキが釣れるっていうことは、祐希君が自分の手で証明済みなんだから」
「真衣ちゃんの言う通りね。祐希君はよく頑張った。だからもう何も心配しなくていい・・・・・・」涼香先生は腰をかがめ、祐希の顔を覗き込んで言った。「いますぐ先生と一緒に帰りましょう」
「いますぐ・・・・・・帰る?」
 そんな話になるとは思わなかった。呆気にとられて声が出ない。涼香先生がここに来たのは、祐希に詫びるためだけではなく、連れ戻す目的もあったようだ。真衣もそこまでは読めていなかったらしく、微笑みを忘れて担任を見ている。
「でも先生、僕が狙ってるのはもっと巨大な獲物で・・・・・・まだ全然、目標を達成できてなくて・・・・・・だから帰るわけには・・・・・・」
「いまはそんなことしている場合じゃないの。祐希君、まだ進路を決めていないでしょう」涼香先生は噛んで含めるように言い聞かせた。「あなたの成績なら、頑張れば私立中学へ進学できると思うの。もちろん選ぶのは祐希君の意思だけど、公立中学へ進むにしても、この夏を遊んで過ごすのと勉強に身を入れるのとでは進学してから授業の理解度も違ってくる。いずれにしても目標が未定なのはよくない。すぐにでも御両親に相談すべきだわ」
 涼香先生の気持ちは分かる。できることなら私立に進学させたいのだ。祐希の住む小金井市は公立小学校の選択制を採用していない。だが今後導入の可能性がないとは言えず、少子化の時代に入学希望者を獲得するためには進学率を上げておいて損はない。小学6年のクラスを担任したどの教員が何人の教え子を私立中学に送り込んだのかを、父兄たちは常に観察している。そして父兄の関心は、学校内でのヒエラルキーにも影響する。もちろん、そんなことを口にする教師はいないが、小学生も高学年になればその程度のことは容易に想像がつく。
「相談と言われても・・・・・・」
 祐希の両親は、私立中学の受験を肯定も否定もしていない。「好きなようにしなさい」というのが基本姿勢だ。良く言えば理解があり、悪く言えば優柔不断である。私立も公立も、それぞれメリットとデメリットが、多分、ある―――ぐらいに考えている。受験だけではない。幼い頃から、文鳥かインコか、マウンテンバイクかクロスバイクか、カレーかハンバーグか、野球かサッカーか、重要な選択肢は子供の自主性に任せ、口出しやアドバイスはしなかった。そして、どんな最悪の結果になろうとも、後付けの文句や説教も一切しない。ただひたすら祐希とともに悩み、困るだけだ。役に立たないことこの上ないが、なぜかありがたいと感じることも多い。そんな両親に甘えて、進路の決定を先延ばしにしてきたことは事実だ。
 考え込む祐希を気の毒に思ったか、西山が沈黙を破って口を開いた。
「受験たって、まだ小学生じゃねーか。いまは好きなことやればいい。私立がダメだったら公立へ行けばいいだけの話だろ」
「無責任なことを言わないでください」素行の悪い生徒を叱りつけるように涼香先生が反論した。「私立と公立どちらを選ぶかは本人次第。だからこそ真剣に、慎重に検討しなければいけない問題なんです。持てる力を出しつくして挑戦すべき、代えの利かないハードルなんです。安易に公立を選び、後から私立へ行けばよかったと後悔しても遅いんです。あなた、いい加減なこと言って祐希君の将来に責任持てるんですか?」
「なんで俺がこんなクソガキの責任持たなきゃいけねーんだよ!」
 言いながら西山が祐希の頭をはたく。とんだとばっちりだ。しかめっ面で祐希を見下ろし、喧嘩腰の言葉を続ける。
「コイツと出会って、せいぜい1週間だ。だが俺には分かるんだよ。思い込みと勢いだけで行動したあげく空回りばかりしてるヤツだけどな、それでもコイツなりにテメエの頭でモノを考えることができる。テメエの不手際はテメエで始末をつけることができるんだよ。俺なんかが責任とるまでもねえ。なあ先生よ、自分の教え子を、そんな見くびんなよ」
 ちょっと泣きそうになった。西山がそんなふうに自分を見ているなんて想像もしていなかった。これには涼香先生の口調も和らいだ。
「ねえ祐希君、なにも先生は巨大な魚に挑戦することを諦めろと言ってるんじゃないの。いまじゃなきゃダメ? 中学に進学してからでは間に合わない? いまは自分の将来にとって、一番大事なことは何かを真剣に考える必要があると思うんだけど」
 確かに熟慮(/じゅくりょ)には欠けていた―――祐希自身、そう思う。進路のことはもちろん、1メートル20センチの巨大シーバスを狙うことに関してもだ。どうしたら釣れるのかは真剣に悩んできたが、行為自体の意味や重要性は考えていなかった。西山の言うように思い付きと勢いで空回りしていただけだ。
 祐希は櫂に向き直り、ロッドと腰から外したヒップバッグを差し出した。
「これ、ありがとうございました」
「それで、いいのか?」
「60センチそこそこのシーバスだって散々苦労して、やっとのことで釣りあげたのに、その倍近い大物を夏休み中に仕留めるなんて、いま思えば無謀な素人考えだった。それに、友達に嘘つき呼ばわりされたとか、お祖父ちゃんの思い出話を証明するとか、ちっぽけなことだと分かったんだ」
 櫂と出会って祐希はルアーフィッシィングの奥深さを知った。いや、釣りに対する概念が相転移(/そうてんい)したといっても過言ではない。環境規模で状況を把握し、対象魚の動向を推理し、自然科学の理論に裏付けられたテクニックと、先端技術の粋を集めたタックルでアプローチする。流れに身を潜める狡猾なプレデターとの駆け引きは、釣りというよりは、むしろハンティングに近い。一手先を読むことに成功し、まんまとルアーに食いつかせることに成功しても油断はできない。一瞬でも隙を見せれば相手は複雑なファイトを展開して鮮やかに口から針を外してみせる。ニュートン物理学のあらゆる応用問題を、脊椎(/せきつい)反射でこなさなければならない。無事に魚を手にできたら時間をかけて体力を回復させ、ダメージを最小限に抑えて川に戻してやる。全てにおいて洗練された高尚なゲームを、祐希は知ってしまった。
「期限を切るなんてもったいない。もっと、じっくりと取り組みたいんだ。それには先生の言うように、先に片付けたほうがいい問題もあるのかも・・・・・・」
「わかった。また来ればいいさ。1メートル20センチのシーバスは、来年の夏まで釣らずに取っておいてやる」
 櫂の言葉に、祐希は曖昧にうなずいた。実際にシーバスを釣ってみると、図鑑が保証した1メートルというサイズすら想像を絶する。それを20センチも上回る大きさは、やはり現実的ではない。祖父が大物を仕留めたことまで疑いはしないが、1メートル20センチという数字は孫を驚かせるための誇張ではないか―――祐希はそんなふうにも思い始めていた。
「ま、お前が真剣に考えて決めたことなら、俺も文句はねえよ」言って西山が封筒を差し出す。「やるよ。選別だ。新学期になってもお前を嘘つき呼ばわりするウスラバカがいたら、これを突き付けてやれ」
 受け取って封筒を開いた途端、全身を鳥肌が駆け抜けた。
 入っていたのは写真が1枚。カラー写真ではあるが、発色が乏しいため比較的古いものだと分かる。見覚えのある人物が写っていると思えば、祖父だった。髪は黒く、顔つきも体格も(/たくま)しい、祐希が知る以前の若い祖父がそこにいた。両腕をいっぱいに広げて抱えたモノが、魚だと気付くのに手間取った。それほど巨大だった。
「―――見つけたのか」櫂が写真を覗き込み、珍しく上ずった声をあげる。「これは確実にメーターオーバーだ・・・・・・いや、本当に1メートルを20センチ上回っているぞ」
 我に返った祐希が大きく息をつく。呼吸を忘れていた。写真に集中して視覚以外の感覚も遮断していたらしい。夏草の匂いや、額を汗が流れ落ちる感触も戻ってきた。聴覚も復活し、子供がはしゃぐ遠い声を捉える。土手の上で、2台の自転車が競争していた。
「いやー、苦労させられたぜ」西山が得意気に胸を反らす。「その写真どこにあったと思う? 隣町の、しかも旅館だよ」
「料亭じゃなく旅館か・・・・・・しかも隣町の・・・・・・この街にだって料亭や旅館があるのに、なぜだ?」
「俺が知るか。恐山のイタコに聴け。とにかく約束は果たしたぜ、櫂。新作ルアー、責任を持って速やかに仕上げろや」
 櫂は新作ルアーの製作に同意する交換条件として、祐希の祖父、道太郎が大物のスズキを釣った証拠―――写真なり、魚拓なり、領収書などの販売証明なり―――を、西山に探させていたらしい。
「道太郎爺さんはプロの川魚漁師だ。キャッチ&リリースなんて鼻で笑ってた。せっかくの獲物を逃がすはずがない。かといって、自宅や隣近所で消費するには大きすぎる。およそ50人分の刺身が造れるサイズだからな。だとすれば料亭に売ったと考えるのが自然だ」そう櫂は種明かしした。
 写真を覗き込んで感嘆の溜め息を漏らしながらも、真衣と涼香先が祐希を祝福した。
「祐希君のお祖父さんってスゴイ!」
「こんな大きな魚、本当に日本の川にいるのね!」
 ようやく祐希は写真から顔をあげた。櫂と西山が、何かを試すように見つめている。考えるより先に体が動いて、涼香先生へ向き直った。
「ごめんなさい。僕やっぱり帰りません」
「いまさら何言い出すの。写真という動かぬ証拠も手に入ったじゃない。これで何の気兼ねもなく帰れるのよ」
「逆だよ・・・・・・こんな写真見せられちゃったら、帰れるワケないよ」
 背後から忍び笑いの気配が伝わる。櫂も西山も、写真を見た祐希のリアクションは予測済みだったらしい。
「本当にいたんだ。この川に。1メートル20センチのシーバス。いまだって同じぐらいの・・・・・・いや、もしかしたらもっと大物がいるかもしれない。もちろん、仮にいたとしても僕に釣れる可能性はごく僅かだ。一生かけても、ほとんどゼロに等しい。でもゼロじゃないんだ。それならば・・・・・・」うわ言のように呟く祐希が、夕闇せまる川の流れに目を向けた。「僕は時間の許す限り、この川の側にいたいんだ」
 束の間、誰もが声を失った。涼香先生は教え子の予想外の反応で思考停止状態。櫂と西山は満足げに微笑む。真衣は視線でうなずき、祐希へエールを送った。川のせせらぎと、土手ではしゃぐ子供たちの声だけが響く。
「祐希君、きっと自分を見失ってしまったのね」涼香先生が職業意識に支えられ、なんとか余裕を取り戻した。「あんなすごい写真を見た直後だもの、無理もないわ。先生もビックリしちゃった。お互い、もう少し落ち着いたほうがいい。陽も暮れるし、一緒に伯父様夫婦の家へ行きましょうか。先生、挨拶もしたいし。お二人の意見も聞いて、よく話し合ったほうがいいと思うの」
「それは・・・・・・ダメ、ダメだよ」祐希がかぶりを振る。
 伯父と伯母は祐希の味方をしてくれるだろうか―――話し合いのテーマが進路がらみであれば、その可能性は低い。特に教師の伯父は、同業者である涼香先生と価値観の大部分を共有していると考えて差し支えない。涼香先生は同じ教育者として伯父を利用する作戦に出たのだ。恐るべし大人。このままでは説き伏せられるのは時間の問題だ。いますぐ、なんとかして、涼香先生にはお帰りいただきたい。でも真衣にはもう少しいて欲しい。
 この場を、どう切り抜ける―――祐希の脳がフル回転するが、例によって空回りだ。土手で騒ぐ子供の声が思考をかき乱す。
「もう、うるっさいなあ・・・・・・」思わず土手を振り返った。
 二人の子供は、流れ込みの水門近く、西山の車の側で自転車を降りると、ハイタッチして叫んだ。
「利根川にっ、キターッ!」
 声に、聞き覚えがある・・・・・・祐希と真衣が唖然として呟いた。
「・・・・・・久?」
「良司君もいる」
「コラーッ! あなたたちドーシテここにいるの?」
 よく通る涼香先生の声に、久と良司が河川敷の祐希たちに気付いた。
「おーっ、祐希じゃねーか。やってるな!」
「あれ、なんで先生と真衣ちゃんもいるの?」
 笑いながら土手の斜面を下り、河川敷を駆け寄る二人は、祐希の前で立ち止まると表情を引き締めた。
「祐希、1学期はあんな終わり方になっちまって本当に不本意だったよ。お前がクラスのみんなから嘘つき呼ばわりされた日、シーバスに関する情報をネットで検索した。すぐに見つかったよ。鮎が住む清流まで遡上すること、1メートルを超える個体も多数確認されていること・・・・・・」スポーツでは校内で無敵を誇る久の体格が、一回り小さく見えた。
「でもクラスの流れがお前を(/さら)す方向だったから・・・・・・祐希の話は生物学的に矛盾しないという事実を伝えそびれちゃって、そのまま夏休みに入っちゃって、いいとこナシだね、俺たち・・・・・・」知性派の良司が、おどけながら自分を責めた。
 謝るよ。本当にゴメン―――二人は心から謝罪したものの、意地でも頭は下げない。いかにも彼ららしく、思わず祐希は噴き出した。
「もういいよ、気にしてないし。それに二人とも、謝るためにはるばる、ここまで来たわけじゃないんだろ?」
「そのとーり! 祐希、悪いが1メートル20センチのシーバスは俺が釣らさせてもらう」
「あれ、久、もう釣った気になってる? 悪いけど俺、抜け駆けする気満々だからね」
「ところで久君と良司君・・・・・・自転車でここまで来たの? もうすぐ陽が暮れるけど、宿泊先は?」
 真衣が問いかけると、久と良司は得意げに答えた。
「さすがにチャリでここまでは無理だよ。分解した自転車を電車で最寄りの駅まで運んだんだ。『輪行』ってやつさ」
「テントはあるし食料も充分持ってきた。ここにベースキャンプを設置すれば、じっくり利根川で釣りができる」
「冗談じゃありません! 小学生だけで野宿するなんて危険です。先生、絶対に許可しませんからね」
 ハイテンションな久と良司を、涼香先生が叱りつけた。その間に入り祐希は提案する。
「だったらさ、二人とも僕が世話になってる伯父さんの家の庭にテントを張ればいいよ。それなら先生も安心でしょ? 同じ教育者として」
 今度は祐希が伯父の教育者としての立場を利用する番だった。目論見通り、涼香先生は言葉に詰まる。真衣も加勢して、担任に手を合わせた。
「ねえ先生、祐希君たちの好きなようにさせてあげようよ」
「真衣ちゃん、あなたまで・・・・・・」
「だってさ、祐希君ひとりならまだしも、久君と良司君まで一緒になったら、もう説得は無理だと思う」
「・・・・・・もう、勝手にしなさい」
 涼香先生が猫背になって、大きな溜め息をついた。

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