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(5)
 よく冷えた夏野菜の揚げびたし、胡瓜(/きゅうり)茄子(/なす)(/ぬか)漬け、インゲン豆の味噌汁、冷奴の薬味は茗荷(/みょうが)だ。
 野菜中心の食卓は育ち盛りの祐希にとって多少軽めではあったが、それだけに箸は軽快に動き、料理は流れるように喉を通過していく。
(伯母さんの作る凝った洋食もおいしいけど、こーゆーシンプルな和食も捨てがたい)
 食欲で翼竜の存在を忘れかけたころ、祐希の聴覚が能天気な気配を捉えた。場違いに勇ましい音楽が、庭に鳴き込めるアオマツムシの音を圧倒して急速に迫り来る。ワーグナーの『ワルキューレ騎行』だ。ほどなくワンボックスを従えて黒塗りのセダンが長屋門をくぐり、庭へ乱入してきた。アロハシャツ姿の西山である。車を降りる彼の手には本物かレプリカか散弾銃が見て取れた。後続のワンボックスからは数名の若い男たちが降り立つ。いずれも迷彩服姿の強面(/こわもて)でボウガンをたずさえている。
「組員引き連れて何の騒ぎだ? 出入りでもするつもりか」夕食を中断した櫂は縁側へ出ると、呆れて庭を見渡した。
「組員じゃねえ、ウチの社員だ! それより櫂、翼竜が出没したって本当か?」
「なぜ・・・・・・その話を知ってる?」
「サダ爺さんがメールで知らせてくれたぞ」
 櫂が舌打ちして茶の間を睨むと、サダ老人は糠漬けを小刻みに噛んで知らない顔をした。
「いやー、それにしても地下水脈が磁場を作って時空を歪めていたとは知らなかったよなー」
 感心する西山に、連れの若者たちが「押忍(/オス)」と真顔で頷く。その様子に櫂が頭を抱えた。
「小学生ならまだしも、大のオトナが揃いも揃って、あんな与太話(/よたばなし)を信じるとは(/なげ)かわしい・・・・・・」
「ヨタバナシって・・・・・・じゃあ、さっきの話は嘘?」
「いや、(/だま)そうとしたわけじゃいが・・・・・・」祐希に顔を覗きこまれ、櫂が気まずそうに眼をそらし、呟いた。「まったく、たまに気を利かせて子供に夢を与えてやろうとすればこのありさまだ・・・・・・」
「せっかくだから西山さんたちもご飯食べていきなよ」
 唯の勧めに従って、目的を失った西山と配下の若者たちは座敷へ上がり込み、卓袱台についた。いつものことなのだろう。一連の行動に遠慮は微塵(/みじん)もない。
 ひと足先に食事を終えた櫂は、やはり満腹して箸をおいた祐希を食後の散歩に誘い出した。行き先は集落を出てすぐ。土手を越えた河川敷。櫂は夜の川面を見下ろす土手の中段で、家を出るさいマデヤから持ち出した双眼鏡を三脚にセットした。何かを探して角度やピントを調整していたが、やがて祐希に場所を譲る。
「覗いてみろ。これが、味気ない真実だ」
 双眼鏡は割と視野が明るかった。大人の背丈を越えて生い茂るススキの原を割り、軽トラック1台分の(/わだち)が道を作って、水辺が一部見通せる。古びた木製の桟橋に寄り添い、和船が浮いている。船を(/もや)った太い竹杭の先に、何かがいた。
「・・・・・・鳥?」
「見えるか? あの竹杭は水面から約150センチ弱、お前の身長と同じぐらいだ」
 だとすれば、杭の先端にとまっている鳥はズングリした体形で、鶏よりひと回り大きい程度だ。
「あの鳥が僕の見た翼竜の正体だって言うの? 違うよ、似ても似つかない。あの怪鳥はもっと大きいかったし、だいいち首が蛇みたいに長くて・・・・・・」
 櫂を振り返ろうとしたが、祐希の目は双眼鏡に引き戻される。切り絵のような動きの乏しい景色に変化が起きた。小魚でも発見したのだろう、問題の鳥は竹杭から川面へダイブ。その瞬間、巨大化した―――器用にたたまれていた首は体長と同じ長さほどに伸び、広がった両翼の幅はその三倍ほどになった。
「アオサギだ。翼を広げた長さが1メートルを超える大型の水鳥だ。夜行性で、小魚やエビ、カニなど水辺の小動物を捕食する」
「あれだよ! さっき僕を襲ったヤツと、大きさも形も一緒だ」
「襲ったわけじゃない。多分、川辺に立つお前を手ごろな杭とでも勘違いして、とまろうと舞い降りただけさ」
 巨大な鳥は鋭いくちばしに20センチ余りのボラを捕え、止まり木呼ばわりされてむくれる祐希の頭上で獲物を自慢するごとく旋回(/せんかい)し、ススキの原を滑空して彼方の闇へ消えた。
「お前、明日も走馬落しへ行くつもりか?」
「もちろん。翼竜がいるかと思うと死ぬほど怖かったけど、おかげでただの水鳥だってわかったし」
「ここ数日雨がない。水量が少なく、流れも弱まっているから、あまり期待できないかもな」
「流れって、そんなに重要なのかな?」
 祐希が首を傾げる。確かに入門書にもルアー雑誌にも、海なら潮がよく動き、川なら適度な流れの利いたポイントがよく釣れると書いてあったが、いまひとつ実感できない。櫂は大きくうなずいて解説する。
「魚は『走流性(/そうりゅうせい)』といって、上流に頭を向ける性質がある。体型もエラも、ヒレもウロコも、進行方向つまり頭から受ける水の抵抗が最小限になるようにできているため、姿勢の維持に余計な体力を使わずに済むんだ。小魚の群れも流れがあれば揃って上流に頭を向ける。シーバスをはじめとする魚食魚は下流側から近付けば気付かれることなく効率的な捕食ができる。しかし流れが弱いと群れはバラバラの方角を向いている」
「そうか、死角がなくなるんだ。どの方向から近付いても見つかってしまう」
「そう。小魚は臆病だ。1匹の警戒が瞬時に群れ全体に伝わり、逃げられてしまう」
「追いかけて食べちゃえば?」
「体の大きな魚は水の抵抗も大きい。急な加速は体力を消耗する。たとえ捕食に成功したとしても、追いかけ回してやっと食べたエサが小魚1匹では割に合わない。捕食によって得るカロリーよりも捕食行動で消費するカロリーが大きければ意味がないだろ」
「うん。食べれば食べるほどお腹が減るよね。そんな食事してたら、あっという間に飢え死にする。だから捕食が困難な流れの弱いときは餌を追わずに体力を温存し、流れが強くなってから効率よく捕食するわけか」
 納得しながら祐希は、シーバスが本能的ながらカロリー計算をして食事をとることに感心し、同時に親しみを覚えた。
「なあ祐希、明日は俺たちと一緒に違う場所に行ってみないか」
 河川敷を後にして土手を上りながら、櫂が提案する。祐希に異存などあるはずはない。
「別なポイントを教えてくれるの? 行く、行きます!」
 シーバスのみならず、外野(/がいや)のレンギョやアオサギまで1メートルを超える利根川で、他にどんなポイントがあるのかと思いをはせると、翼竜騒ぎの恐怖も瞬時に100キロ先の海まで流れ去り、際限ない期待ばかりが湧いて出た。

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第4章 試練、初めての獲物

(1)
 夕方に外出し、暗くなってから帰宅する日が続いていた。それでも伯父夫婦は少しも(/とが)めず、心配する気配さえ見せない。
 子供が標的となる痛ましい事件の影響で、祐希の住む地域でも登下校時は自警組織「子供巡回パトロール」が辻ごとに立ち、日々警戒を怠らない。塾で帰宅が遅れる子供には父兄が送迎にあたる。子供だけで夕暮れまで遊び呆けていればパトロールの目にとまり帰宅を余儀(/よぎ)なくされる。
 ここでは、そんな警戒や緊張とは無縁だ。
 人間関係が濃密なため不審者が入り込む余地がない。見知らぬ者を見かけると、どこの誰かを問いかけずにはいられないのだ。ただし猜疑(/さいぎ)や警戒からではない。人間に対する純粋な好奇心からだ。祐希のような子供でも対象外ではない。伯父夫婦の家の周辺を、独りで探索する楽しみを覚えた当初は、行き合う人々から「どこから来たのか? 誰を訪ねてきたのか?」と、質問の猛攻を受けた。(/さいわ)い2年ほどで周辺住民は顔と名前を覚えてくれたが、当初は(/わずら)わしく思い、戸惑いもした。
 自然発生的に危機管理が機能した結果、むしろ地域の防犯意識は(/ゆる)い。祐希が知る限り伯父夫婦も生前の祖父も、外出時に戸締(/とじま)りというものをしたことがない。ちなみに洗濯物も干しっぱなしで、急な雨のさいは在宅のご近所様が留守宅の洗濯物を取り込むという不文律(/ふぶんりつ)が遠い昔から生き続けている。

 さほど帰宅時間を気にしなくていい祐希が、その日の夕方、クロスバイクで瓜生家に乗り付けると、櫂と西山はジムニーにタックルを積み込み、出発の準備をしていた。
「今日はよろしくお願いします。で、どこへ出かけるんですか?」
「それはお前が決めろ」
 挨拶を返す代わりに、櫂は関東地方のロードマップを投げてよこす。付箋(/ふせん)のついたページを開くと、周辺の利根川流域が表示されていた。
「おいおい、マジでこんな素人のガキにポイント決めさせるつもりかよ。酔狂にもほどがあるぜ、櫂」
 西山がぼやく。祐希は地図をひと目見て途方に暮れる。
「釣り場ガイドならまだしも、道路地図で釣りのポイントを探すなんて無理だよ」
「いいか祐希、シーバスに限らず釣りのポイントを開拓するには、とにかく変化を探すことだ。川幅の変化、岸辺の変化、川底の変化、流れの変化、明暗の変化―――様々な変化がひとつで多く重なる場所に魚は集まる」
 櫂のアドバイスに、祐希は仕方なく地図に目を戻した。
「そう言われても、川幅や岸辺の形ならともかく・・・・・・地図に水の流れや川底の状態は記されてないし、ましてや明暗の変化なんて・・・・・・夜の河川敷に明かりが灯る場所のあるはずも・・・・・・」地図を上滑りする祐希の目が、不意に動きを止めた。「いや、ある・・・・・・そうだ橋だ。橋なら欄干(/らんかん)に常夜灯が並んでいる。それに橋脚を固定するための補強工事をしてるはずだから川底も変化してる。その影響で流れにも変化ができる。それに・・・・・・やっぱりだ、橋の架かる地点は川幅が狭い・・・・・・そりゃそうだ、川幅の広い場所に橋を架けても資材や工期がかさむだけだ」
「見事だ。橋脚周りはナイトゲームの代表的なポイントだよ。やるじゃねーかクソガキ」西山が祐希の肩を小突いて推理を讃える。
「僕だって必死だよ。広大な利根川で、まだ“走馬落し”しかポイントを知らないんだ。もっとほかの場所を回って、お祖父ちゃんが1メートル20センチのシーバスを釣ったポイントを探さなきゃ」
「まったく厄介(/やっかい)な話だ。道太郎爺さん、超大物が釣れた場所の情報を墓場まで持ってっちまったんだからな」
「プロの漁師にとって見つけた穴場は財産だ。秘密にするのが当然さ。だから確証はないんだが・・・・・・」言い淀んだ櫂が、やがて考えを口に出す。「俺は、やっぱり走馬落しが怪しいと(/にら)んでる。魚にも力関係が存在して、大きな魚ほど条件のいいポイントへ優先的に定位する。その条件とは、“ベイト”の種類が豊富なことだ」
 ベイトとは、シーバスをはじめとする魚食魚が餌とする小魚や虫などの小動物を意味する。祐希が首を傾げた。
「ベイトの種類・・・・・・量じゃなくて?」
「以前、スペシャリストとゼネラリストの説明をしたとき、最適捕食理論に触れたと思う」
「うん、覚えてる。捕食者―――プレデターは、その場所にいる最も数が多い種類のベイトを選んで、集中的に捕食する」
「そうだ。しかし環境の変化で捕食しているベイトがいなくなった場合、(/すみ)やかに別のベイトに捕食を切り替える必要がある。ならば選択肢は多いほうが有利だ」
 確かに走馬落しは生息する魚種が多様だ。流れのある本流はルアーでシーバスを狙う祐希たちしかいないが、合流する小河川は流れも緩やかで、多彩なエサ釣り師を目にする。祐希も何度か、生前の祖父と雑魚釣りに興じたことがあった。コイ、フナ、ボラ、ヤマベ、モロコ、ヌマチチブ、テナガエビなど、様々な魚が釣れた。
「生息する魚種が豊富な走馬落しには大型の魚が優先的に居着く。当然、大物のシーバスが釣れる確率も高い」
 櫂の意見に、西山もうなずく。
「その説には俺も賛成だ。いろいろなポイントでルアーを投げたが、道太郎爺さんを一番多く見かけたのが走馬落しだった。大物を釣ったポイントには、無意識に足が向いちまうからな」
 埋蔵金を探索するような気分で故人を語りながら、三人はジムニーの後部座席へそれぞれの荷物を積み込んで、ナイトゲームへと出発した。

 荷物と一緒に詰め込まれた後部座席のベンチシートは窮屈(/きゅうくつ)だが、オープンにしたジムニーでのドライブは快適だった。まともに受ける風も、ツーストロークの乾いたエンジン音も心地よい。ハンドルは櫂が握り、西山は助手席でふんぞり返っていた。
 夕日を受けた土手を右手に見ながら、川沿いの道を30分ほど走ると橋が見えてきた。鉄骨がアーチを描く赤い橋。思った通り、常夜灯が等間隔で並んでいる。
 土手のてっぺんに車を停め、タックルを組んで河川敷へ下りる頃には日も暮れた。河川敷も川面も、常夜灯のナトリウムランプに照らされ、橋の下だけ底なしのような漆黒(/しっこく)の影が落ちている。コントラストが強い、オレンジ色のモノトーン。初めてのナイトゲームのために祐希は、ホームセンターでLEDヘッドランプ買っておいた。早速、キャップの上から装着。点灯すると頼もしい白色光が水面を撫でる。同時に、頭部へ衝撃が走った。不具合で漏電(/ろうでん)したかとも思ったが、すぐに西山が平手で殴ったのだと気付いた。
「このクソガキ! 一投もしねえうちにポイント潰しやがって」
「痛いなあ・・・・・・僕が何したって?」
「テメエのしでかしたことも理解できねーのか? たったいまライトで水面照らしたろーが!」
「そんなことでポイントが潰れるなんて・・・・・・そもそもヘッドランプより強い常夜灯の明かりが水面を照らしてるのに・・・・・・」
「定位置で長時間灯る明かりと、不安定に動く人為的な明かりでは性質が違うんだよ」騒ぎを聞きつけて櫂も歩み寄り、説明に加わった。「街灯がともった夜道を歩くのは平気でも、いきなり懐中電灯の光で照らされたら驚くだろ。魚だって同じように警戒する。夜釣りで水面にライトを向けないってのは、昔から常識なんだ」
「そうだったの・・・・・・知らなかった。ごめんなさい・・・・・・せっかく新しい場所へ案内してくれたのに、僕のせいでポイントが潰れちゃって、本当にごめんなさい」
 櫂の説明が分かりやすいぶん、祐希の胸で自責の念が急激に膨れる。だが櫂も西山も、その場所に未練を残していないのは救いだった。
「なーに、橋はここだけじゃないさ。上流にも下流にもある。他のポイントを回っている間に、いま魚に与えた警戒心も解けるさ」
「はい・・・・・・すみません・・・・・・」
「謝罪は一回でいいんだ。何度も謝ると詫びの言葉が軽くなる。それよりホレ、移動の準備だ」
 西山に促され、(/)いだ竿を外し、再び車に乗り込んだ。移動の途中、祐希は櫂と西山から、ナイトゲームにおけるライトの使用法に関してアドバイスを受けた―――明かりの必要なタックルのセットは川から離れた場所で行い、水辺へのエントリーは必要に応じて足元を照らすだけにとどめ、可能な限り闇にまぎれる。ルアーを交換するさいは川に背を向けて手元を照らすが、練習すれば暗闇でも手探りで交換が可能となる。唯一水面を照らしてもやむを得ないのは、大物が掛かって取り込みのさい、暗くて魚体が確認できない場合だ。こればかりは仕方がない―――いずれも入門書やルアー雑誌には載っていなかった。テクニック以前の常識なのかもしれない。多少は手荒だったが、二人の指導を得たのはありがたい。下手をすれば自分自身の行為が魚を追い散らしていることにも気付かず、馬鹿みたいにライトで暗い水面を照らしながら「釣れない、釣れない」と嘆き、夏休みを棒に振るところだった。
 15分ほどで下流の橋に到着した。アーチのない構造で、色は薄いブルー。それ以外は照明の色も、河川敷や水面の光と影の具合も、さきほどの橋と同じだった。今度は慎重にエントリーする。充分に水辺から離れた土手のたもとで、川に背を向けてタックルをセットした。ライトを消して、大袈裟とは思ったが忍び足で水辺へ向かう。やはり大袈裟だったらしく、櫂と西山が苦笑した。
「祐希、橋脚周りの攻略法、わかってるのか?」
 護岸された岸辺で立ち位置を物色していると、背後で西山が問いかけた。
「えーと・・・・・・橋げたの上流側と下流側、そして明暗の境目を狙う・・・・・・だったかな」
「ここは岸沿いにゴロタ石が敷かれた浅場だが、10メートルほど先で急に深くなってる。俗に言うブレイクラインだ。明暗の境とブレイクラインがクロスする場所が、シーバスの捕食ポイントと考えて間違いない」さりげなく櫂が補足する。
 それだけのやり取りで、申し合わせたように三人の立ち位置は決まった。祐希は上流側の明暗部とブレイクとのクロスライン。櫂は橋脚に流れが当たる上流部。西山は、その下流に発生する水ヨレ。橋脚の周囲は飛距離とキャスティングの精度が要求されるため、初心者の祐希には荷が重い。
 キャストを開始する。ルアーをポイントの向こう、上流側に投げ、流しながら泳がせてくる。シーバスは上流を向き、流れに負けて漂う小魚や甲殻類や水生昆虫などのベイトを、影に身を潜めて待ち受けている。
 ルアーを通すコースが、一投目は上流よりとなり、二投目は下流すぎた。三投目、ようやく満足のいく軌道に乗って、ルアーが流れ、泳いでいく。橋の影に入った瞬間、リールを巻く手が押さえ込まれるように動きを阻まれた。同時に見えない手がロッドを激しく叩くような衝撃が二度、三度と走る。
 そして水面が割れた。
 銀鱗に身をまとった魚体が飛沫をあげ、ナトリウムランプの光を浴びて躍り出る。エラを広げ、首を振る。大きく開いた口元には、見覚えのあるルアー。ようやく、シーバスがヒットしたと気付いた。あわててリールを巻くが、すでに生体反応は消え失せ、ルアーは単体で戻ってきた。見間違いかと何度も確認したが、魚は付いていない。水面で首のひと振り、その動作で針を外されていたのだ。俗に言う「バラシ」である。
(初めてのヒットだったのに・・・・・・大きかった。50センチは確実にあった。いや、60センチを超えてたかも・・・・・・ひょっとして70センチ・・・・・・)
 「逃がした魚は大きい」のことわざ通り、記憶の魚体を加速度的に膨張させていると、上流から櫂の声が飛んだ。
「ギリギリ50センチってとこか。惜しかったな」
 次いで、下流側から西山が冷やかす。
「おい祐希、シーバスの口ってのは意外に固いんだ。バイトがあったらロッドを大きくあおって合わせを入れないとフッキングしねーから針が外れすくなる。ジャンプやエラ洗いもバラシの原因になる。、ヒットしたらロッドを寝かせて魚を低い位置に抑え込め。それから・・・・・・」
「わかってるよ! そんなこと・・・・・・」
 延々と続きそうな西山のアドバイスを、祐希は思わず声を荒げ、遮った。魚を掛けてから、やり取り、そして取り込みの流れまで、みんな入門書に載っていた。何度も読んで暗記した。繰り返しイメージトレーニングした。だが初めてのことで、突然のことで、ヒットの瞬間、頭が真っ白になってしまった。
 何もできなかった。
 目に見えて落胆した祐希を、櫂が珍しく気遣って言葉をかける。
「そんなに気にすることはない。シーバスはもともとバラしやすい魚なんだよ。他の魚に比べると、フックを外すのが呆れるほど上手い」
「だったらなぜ、わざわざ返しのないフックを使うのさ・・・・・・」
 櫂が祐希に与えたルアーは全て、フックのバーブ、つまり「返し」をペンチで潰した、いわゆるバーブレス・フックだった。
「安全のために決まってんだろ」当たり前のことを聴くなとばかりに西山が言い放つ。「バーブのついたフックが魚じゃなく、自分や周囲の釣り人に刺さったら大変だ。高確率で病院行き。手術しなきゃ外せない。外れたルアーが反動で飛んできたり、フックを外すときに魚が暴れて手に刺さったり、そういう事故は多いんだ」
 そんなことは分かっていた。以前、同級生の久や良司とバス釣りに興じたとき、二人からバーブレスフックの必要性をくどいほどに説かれた。その理由はキャッチ・アンド・リリースのため、事故防止のため、ゲーム性の追求と多彩だったが、どちらかといえばノリ重視で、意義を理解しているとは思えなかった。念願の初シーバスを逃がしたばかりの祐希ならなおさらだ。スポーティーなゲーム・スタイルより、目の前の魚のほうが重要だ。納得しかねる様子を察したか、櫂が声をかけた。
「フックに返しがついていれば魚が逃げないと思ったら大間違いだ。バーブのついたフックを想像してみろ。横から見た場合、返しの部分が太くなっているはずだ」
 言われるまでもない。フックが刺さった後の抜けを防止するため逆立つ(/とげ)状のバーブは、構造上どうしても部分的に太くなる。同じ太さでは「返し」としての意味がない。櫂の説明は続く。
「その太さが抵抗になって、返しのあるフックは返しのないフックよりも、フッキングには大きな力が必要だ。竿には弾力があるし、風や流れで糸は(/ゆる)んでショックを吸収する。いくら大きく竿をあおっても、返しのあるフックは刺さりきれていない場合も多い。刺さりきっていなければ、返しがあっても意味はない。逆に刺さり切ってしまえば、返しがなくてもラインテンションを緩めさえしなければ滅多なことでは外れない。バラしに針の返しがあるなしは関係ない。だったら安全で魚へのダメージが軽く、手返しが速いバーブレスフックのほうがメリットが多い―――というのが俺の個人的な意見だ」
 理論的な解説に、祐希はようやく納得した。
 それから、二か所ほど橋回りのポイントを探ったが、興奮と後悔は後の釣りに響いた。櫂と西山は50センチ半ばの平均サイズを1本ずつキャッチしたが、祐希のロッドが曲がることはなかった。脳裏でヒットからバラシの瞬間がエンドレスで展開し、キャスティングのコントロールもままならないほど集中力を欠き、いいところがないまま、午後10時前後に竿をたたんだ。祐希はひと晩中でもルアーを投げていたかったが、河川敷にスクーターで乗り付けた若者たちが大騒ぎで花火を始めたため、櫂と西山が申し合わせたように帰り支度を始めた。
 車で瓜生家へ戻り、預けてあったクロスバイクで帰宅したが、上の空で記憶はあいまいだ。寝床へ入ってからも、「バイトがあった瞬間、ロッドを大きくあおってフッキングしていれば・・・・・・ジャンプの瞬間、とっさにロッドを寝かせてエラ洗いを押さえていれば・・・・・・もっと落ち着いて対処していれば・・・・・・油断していなければ・・・・・・」
 様々な後悔が渦巻き、まどろみかけては飛び起きた。そのたびに脳内シュミレーションを幾度となく繰り返す。
(次は絶対、同じ失敗をしない)
 明け方、雨が降り始めた。

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(2)
 雨は次第に激しさを増し、起床して朝食の座に着いたころは雷をともなう土砂降(/どしゃぶ)りとなった。
「予報では今日いっぱいこの調子で降り続くってさ。川が増水するだろうから、釣りには行けないぞ。今日ぐらい家でゆっくりしなさい」
 伯父の言葉に、祐希は素直にうなずく。ナスとオクラを使ったラタトゥイユにオムレツ、メープルシロップをかけたパンケーキでゆっくりと朝食をとりながら、むしろ釣りが中止になったことに安堵していた。次にシーバスがヒットしたとき失敗しないだろうか、シュミレーション通りに体が動くだろうか―――そのプレッシャーから解放される。
 その日は雨音を聞きなが思いつくままに夏休みの宿題をこなした。合間にテレビを見たり、スナック菓子をつまんだり。そんなありふれた夏休みの一日が、なぜかとても懐かしい気がして、身も心も休まる思いだった。
 夕食は具がゴロゴロ入った田舎風カレーだ。熱さと辛さで大汗を流しながらテレビを見ていると、天気予報が深夜に雨はあがると告げた。
(走馬落しはここ数日、雨がなく流れが弱まったためシーバスの活性が落ちた・・・・・・でも、この雨で増水すれば流れも強くなり、(/にご)りも入って活性が上がるはず)
 頭が戦闘モードに切り換わった。宿題はもうやめだ。祐希は夕食を済ませてから寝るまでの時間を、すでに何度も目を通したルアー関係の入門書や雑誌の復習に費やした。
 休息など、ありふれた夏休みなど、一日でも多すぎた。

「雨がやんでも、土砂崩れなどに注意してください。また、危険ですので増水した川を見に行ったりしないでください」
 翌朝の天気予報で気象予報士が呼びかける。大雨や台風に見舞われた後の常套(/じょうとう)句だ。「わざわざ増水した川を見に行く人なんていないでしょ?」などと常々テレビに突っ込みを入れていただけに、自分が張本人となって少なからず動揺した。
「ごめんなさーい!」
 テレビの画面で引きとめる気象予報士を振り切って、祐希はクロスバイクにまたがり、走馬落しへとダッシュする。どれぐらい川の水が増えたか、流れが強まったか、濁りが入ったか、もう気になって気になって仕方なかった。

 一瞬、場所を間違えたかと思った。それほど走馬落しは様変わりしている。コーヒー色に染まった水は濁流(/だくりゅう)と化し、河川敷を呑み込んで、川幅は見たところは五割増しだ。土手の上に2台、見覚えのある車が停まっている。櫂と西山も川の様子を見に来たらしい。自転車で乗り付けて声をかけた。
「流れも濁りもすごいね、シーバスの活性も上がったかな?」
 道具一式を詰めたデイパックを下ろし、ロッドを出してタックルのセットを始めると、西山に後頭部をはたかれた。
「釣りする気か、このバカ? 死ぬぞ! 確かに濁りや流れのあるほうが条件はいいが、限度ってもんがあんだろ」
「これほどの激流、濁流だと、遊泳力の強いシーバスも、さすがに餌を食わずにじっとしている。たとえルアーを投げても、あっという間に流されて釣りが成立しない。明日か明後日には、流れも濁りも適度に治まるだろう」
 櫂のアドバイスに従い、祐希は素直にタックルをしまった。
「・・・・・・やっぱり、無理だよね」
 なにせ一昨日までルアーを投げていた護岸は深く水没しているのだ。

 その日の釣りは中止と決まり、土手の上で「解散」となったが、伯父夫婦のもとに直帰する気にはなれなかった。意気込んで家を飛び出しただけに、その興奮を全く消費しきれていない。無意識に自転車は、田んぼ道を商店街方面に進路をとる。陽はすでに高い。雨上がりで湿度の過剰な空気が(/あぶ)られて不快指数は加速する。
 釣具店『マスヤマ』の前には、さっき見たばかりの車が2台、路上駐車していた。櫂と西山だ。
(釣りができない日の釣り人は、自然と釣具店に引き寄せられるらしい)
 そんなことを考えながらほくそ笑んで自動ドアをくぐると、エアコンの爽やかな冷気とともに、言い争う声が溢れ出た。
「どうして俺に断りもなく勝手なことをするんだ!」
「こーでもしねーとモノグサなテメーは動きださねーじゃねーか!」
 睨みあう櫂と西山。店内に漂う、ただならぬ緊張感。自動ドアを入りかけて固まっている祐希に、初老の店主が取り(/つくろ)うような笑みを投げかけた。
「いらっしゃい。どうぞ。アレは、気にしなくていいから・・・・・・」
 来店に気付かないのか毛ほども気にしていないのか、二人は祐希に目もくれず互いの主張をぶつけ合っている。その内容と店主が耳打ちする補足説明から、次のような事情が知れた。
 櫂がルアーを作り、それを西山がネットで売るという、友情に裏打ちされた微笑ましいビジネスモデルは以前聞いた通りだ。ただ、クオリティーを追及するあまり、櫂の作るルアーはユーザーの信頼は高いが、慢性的に生産が(/とどこお)っている。商才に長けた西山はリピーターを確保するために新作のリリースをことあるごとに提案していたが、オーダーを消化するだけで手一杯の櫂がとりあうはずもない。思い余った西山は櫂に無断で、ネット販売のページに「新作リリース」を告知してしまったという。
「下品な商業主義だな。新作ルアーなんてものは無理矢理作るものじゃない。必要に迫られて自然にできるものなんだ」
「いまがその必要に迫られた時なんだよ。理屈を言う暇があったらアイデアを考えろ。仕事場へ戻って手を動かせ」
 二人の言い合いは終わる気配を見せない。ルアーを投げられないならせめて釣りの話でも聞きたかったが、とてもそんな雰囲気ではない。とばっちりを食わないよう、彼らから離れて店内を物色した。必要な物があるわけではない。小遣いにも余裕はない。それでもルアーやリール、ロッドを見て回るのは楽しい。ルアー用品ばかりではない。餌釣り用のウキやハリやオモリも多種多様で、祐希の目を楽しませた。いつしか櫂と西山の言い争いも、無意味なノイズとして祐希の耳を左から右へ通り抜けていく。夢中で店内を見物していると、店主の娘と思しき女性の店員が冷たい麦茶のグラスを手渡してくれた。炎天下に自転車を飛ばしてきたことをいまさらながら思い出し、急に喉の渇きを覚える。グラスをあおって麦茶を飲み干せば、上を向いた視線が二次元の魚影を捉えた。
「・・・・・・魚拓?」
 天井に接する壁にぐるりと、様々な釣魚の墨痕(/ぼっこん)鮮やかな魚拓が飾られている。前回はルアー選びに夢中で気付かなかった。ヘラブナ、コイ、ヤマベ、イワナ、アユ、ニジマス、クロダイ、ヒラメ、シロギス、メバル―――順繰りに見回す祐希の目が、レジの上部に釘付けとなった。他の魚とはスケールの違う獲物。姿形を写すのは半紙や和紙ではなく、畳ほどもある布だ。面積いっぱいに墨汁で表現された魚体は、口を大きく開き、エラもウロコも輪郭(/りんかく)(/きわ)立たせ、ヒレを(/ほこ)らしく広げていた。シーバスを魚拓にしたら、このような形になるかもしれない。余白には参考データが筆文字で記入されている。釣り人、釣り場、釣った日付など。だが最も目を引くのはその大きさ―――「体長150センチ」の筆文字である。
 汗ばんだ肌が、粟立(/あわだ)った。
 もしも魚拓の巨大魚がシーバス―――スズキであるなら、生前の道太郎が仕留めた1メートル20センチのスズキより30センチも大きいことになる。祖父の栄光は常に「前代未聞の最大級」であり、「化け物」であり「伝説」であって欲しかった。そうでなければ貴重な夏休みを賭けて挑戦する価値はない。
「どうだい。見事なオオニベだろう」
 いつの間にか店主も、祐希と並んで巨大な魚拓を見上げていた。
「オオニベ?」
「南日本から東シナ海に生息する海水魚で、『ニベ』の仲間では最も大きく育つ。九州に住む友人が釣った獲物だよ」説明しながら初老の店主は自分の手柄のように胸を張る。
 なるほど―――魚拓に付記された釣り場は「一ツ葉(/ひとつば)海岸」という見慣れない地名だ。シーバスではなかったことに安堵すると、記憶をたどる余裕も出た。
「そういえばニベって魚の名前、図書館にあった釣り入門で見たような気がする」
「ニベの仲間は関東で『シログチ』がポピュラーだね。地方名を『イシモチ』と言って、海釣りの入門に適した釣魚だよ」
 その後もしばらくイシモチの釣り方やポイント、料理法など店主の説明は続いたが、祐希は魚拓のオオニベに圧倒され、櫂と西山の言い争い同様、耳を右から左に素通りした。

 釣具店で油を売ってから伯父夫婦の家に帰ってもまだ昼前だった。仕方なく夏休みの宿題を広げたものの、気付けば櫂が貸してくれたルアー・ボックスを物色するありさまだ。
(そういえば、アレがないな・・・・・・)
 以前、瓜生家のマデヤを改造した工房で見た、櫂のハンドメイド・ルアーが見当たらない。確認も兼ねて調べてみようと思い立つ。デイパックにしまったままだった携帯電話を引っ張り出し、「ハンドメイド」「ルアー」「西山」のワードで検索する。さほど苦労せず『西山総合企画』のサイトは見つかった。不動産取引の仲介や各種ローンのご案内、工事の受注、そして様々な(フィギュアから車まで!)通信販売。本当かどうかは知らないが、櫂に「元ヤクザ」と評されるだけあって手広く事業展開しているようだ。通信販売の「その他」のカテゴリに櫂の作るルアーが紹介されている。以前、工房で見た同じリップレスタイプのフローティングミノーは「フラクタル」というルアー名らしい。商品説明によれば、「カオス理論の応用によって流れの揺らぎへ敏感に反応するウッド製リップレスミノー」とのことだが、祐希には「凄そうだ」ぐらいの意味しか伝わらない。なにより目を引いたのはその価格だ。
「な・・・・・・7000円!」
 思わず声を漏らした。一つひとつ手作りされたものが大量生産品より高価なのは当然だ。だが市販のメーカー品が1500円前後で買えることを考えれば割高感は否めず、祐希の財布では到底まかい切れない。
「こんな高価なルアーなら、タダで貸してくれるわけもないか・・・・・・」
 携帯電話を放り出し、祐希は仕方なく夏休みの宿題に戻った。
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(3)
 その翌日が凄かった。
 まだ水位は高いが、昨日水没していた足場の護岸は水面に顔を出している。流れは速いが、濁流からは回復した。泥濁りも、ささ濁りの状態に落ち付いている。入門書で得た知識に照らし合わせれば、いずれも好条件である。夕マズメの時間帯には、まだ少し間があった。
 河川敷に下りた祐希を出迎えたのは派手なライズだった。跳ねた魚は割と大きい。シーバスかもしれない。はやる気持ちを抑えつつタックルをセットし、第一投。気持が先走りすぎたか、ラインを離すタイミングがわずかに早く、フライ気味になった。水に落ちたルアーはすぐさま下流へ向かう。やはり流れは速い。リールを二、三回巻いたところでルアーが水を掴んで泳ぎ出す。直後、ロッドを持つ手に衝撃。
「エッ?」
 祐希が戸惑った一瞬のうちに、水面を割ってシーバスがエラ洗いし、流れに乗って下流へ走る。予想外のスピード。ロッドは下流方向へのされた―――と思う間もなく重量感を失い、竿先が反動で上流側へ跳ねる。それでも遮二無二(/しゃにむに)リールを巻くと、ルアーだけが返ってきた。
「油断した・・・・・・まさか一投目で食ってくるなんて・・・・・・数少ないチャンスを逃した・・・・・・」
 魚がルアーにアタックした感触を察知したらロッドをあおって針掛かりさせる「合わせ」を入れなければならない。何度も脳内シュミレーションを繰り返して分かっていたはずなのに、また何もできなかった。焦れながらルアーを投げる。着水。無意識にリールを巻く手が速くなる。ルアーが水を掴んで泳ぎ出す、プルプルと小気味いい感触を捉えたと思う間もなく、再びひったくるような手ごたえ。
「えっ、連発?」予想外ではあったが、さきほどのバラシで神経は研ぎ澄まされている。「そ、そうだ・・・・・・合わせ!」
 反射的にロッドをあおる。とたんに重量感が消え、ルアーだけが宙を舞って水際に落ちる。
「ああっ・・・・・・またバレた!」
「いまみたいなのを『ビックリ合わせ』って言うんだ」
 背後で声がした。タックルをセットした櫂がたたずんでいる。その横で西山がさも愉快そうに笑う。
「このヘタクソ! そんな急激に力を加えたらスッポ抜けるか、口の皮が切れるかするのがオチだ。もっとバット―――つまりロットの中央からややグリップ寄りの部分に魚の重みをのせるように、確実に長いストロークで竿をあおるんだよ」
「そんなこと、わかってるよ」言い返しながらも祐希は西山の言葉を頭と体に叩きこむ。
 櫂と西山はそれぞれ10メートルほどの距離を取って祐希の上流側へ立ち、キャストを始める。
「珍しく活性が高いようだな」
「久しぶりに楽しませてもらうか」
 二人の会話に、祐希は首を傾げた。確か昨日は釣具店『マスヤマ』で、新作ルアーをやるのやらないので大喧嘩していたはずだ。いつ和解したのだろう。
(いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない)
 気を取り直し、キャストを再開した。焦りは隠せない。このポイントには確実に活性の高いシーバスが群れている。独り占めできるものとほくそ笑んでいたところに、強力なライバルが二人一緒に現れた。先を越されてなるものか―――そう考えたそばから、西山がロッドを曲げた。
「ヨッシャ、一発だぜ!」
「ずるい! それ僕の魚・・・・・・」
 思わず本音の漏れた祐希の手元に衝撃が走る。三度目のバイト。胸は懲りずに跳ね上がるも、頭は少し慣れたようだ。素早くリールを巻き、ロッドに魚の重みを乗せ、全身でのけぞって合わせを入れる。今度は確実にフッキングした。魚は流れに乗って走る、走る。リールのドラグはあらかじめ調節してある。過度な負荷がかかる前にラインが滑り出る。切られる心配はない。祐希はロッドを立て、シーバスの走りに耐え、踏ん張る。魚は疾走から跳躍(/ちょうやく)に作戦を変え、水面を蹴散らして暴れ始めた。二度、三度とシーバス特有のエラ洗いを繰り返すうちにルアーが弾き飛ばされ、竿先がテンションを失って空に向いた。
「・・・・・・また、バレた!」
 目の前の状況が信じられなかった。いくら針を外すのが上手な魚とはいえ、三回も連続でバラした己の不甲斐(/ふがい)なさにロッドを振ることも忘れて放心した。気付けば隣では櫂がヒットさせていた。竿を寝かせ、魚の跳躍を抑え込むファイトを目にし、自分がロッドを立てすぎていたことにいまさらながら気付く。なんとか立ち直って数投後、本日四回目のヒット。合わせも決まり、ロッドを寝かせてエラ洗いを抑えるやりとりにかろうじて成功し、初めてシーバスを足元まで寄せた。後はフィッシュグリップで下顎を掴むだけだ。魚を見据えたままヒップバッグを探るが、気持が上ずってなかなか見つからない。ようやく手に取ったはいいが、不規則に暴れる魚の下顎を道具を使って掴むのは想像以上に難しかった。何度か空振りを繰り返すうち、シーバスは最後の力を振り絞って派手に首を振り、その拍子にフックは外れた。自由を取り戻した獲物がスローモーションで流れに帰っていく様を、祐希は術もなく見送るしかなかった。力が抜け、護岸に尻もちをつく。
「どうしてバレるんだ!」思わず弱音がもれた。
「おいおい、2匹や3匹バラしたからって腐るなよ。まだまだ魚はいるぜ」そう言っている間にも西山が再びヒットさせ、ロッドを曲げた。
「西山の言う通りだ。こんなに大きな、しかも活性の高いシーバスの群れに出くわすのは年に一度あるかないかだ。座り込んでいる暇はないぞ」普段冷静な櫂さえ僅かながら興奮して見える。
 確かに滅多にない数釣りのチャンスなのだろう。でも、そんなとき自分は何もできない。この先、何度シーバスがヒットしても途中で逃げられてしまう気がしてならない。魚を手にする自分がイメージができない。あまりにも未熟(/みじゅく)で情けなくて、泣きたくなった。だが泣いてしまったら、恥ずかしくて二度とこの川辺に立てない。対岸の浅瀬で、シラサギが見せつけるように小魚をついばむ。
 涙を流す代わりに、立ち上がってロッドを振った。
 本当にシーバスの活性は高い。心の折れかけた祐希でも間もなくヒットに恵まれた。反射的に合わせを入れながら、祐希の頭がフル回転を始めた―――ロッドとラインの角度は90度。魚が走ったら強引に寄せようとしない。でも絶対テンションを緩めてはならない。ジャンプしたらロッドを倒して魚を抑え込む―――ファイトにおける注意点を完璧に確認しかけて、やめた。
 試しに何もしなかったらどうなるのだろう。
 馬鹿なことと思いつつ、リールを巻く手を止め、掛かった魚を水中で放置し、観察する。バラし続けた照れ隠しと開き直りだった。意外にも寄せる動作を中断すると、それまで必死に暴れ続けたシーバスの動きも(/しず)まった。ラインのテンションを保持しているためか時折戸惑うようにもがく程度だ。だましだましリールを巻くと暴れずにじわじわ寄ってくる。強引に寄せようとすれば激しく抵抗するが、弱い負荷でやりとりすればさほど抵抗しない。だが、あと2メートルという距離で急に、全力を振り絞って暴れ出し、見事にフックを外して逃げ去った。
(なるほど、寄せるまでにある程度暴れさせて体力を消耗させたほうがランディングしやすいな)
 小さくうなずいて、すかさず次のキャスト。バラしても不思議と悔しくない。自分自身の思考錯誤によって得るものがあったからだろうか。そう思う間もなく、またヒット。今度は強引に寄せてみた。その力を利用してシーバスはジャンプした。もっと強引に寄せると、ジャンプした勢いで水面を滑り、急速に寄ってきた。障害物のあるポイントでは、こんなファイトも必要かもしれない。調子に乗ってさらに強引に寄せたら、さすがにバレた。
(このへんが強引さの限界なワケだ)
 次のキャスト。今度はヒットしても、あえて合わせを入れなかった。シーバスは走って、もがいて、また走って、ジャンプして、針が外れた。つまり、合わせは最初のジャンプまでに入れればいい。時間的には2、3秒としても、体感的にはかなり余裕がある。つまり焦る必要はない。
「気持ち悪ぃーなー、このクソガキ! バラしまくっといて、なにヘラヘラしてんだ?」
 西山に言われて、祐希ははじめて自分が笑っていることに気付いた。
「なんか、嬉しくなっちゃってさ。いまになってやっと、自分が何をしたらいいのかが分かったんだ」
「分かったって、何が?」
 櫂が首を傾げた。うなずいて祐希が胸を張る。
「バラせばいいんだ。ヒットしたシーバスをバラしてバラしてバラしまくる。そうすれば、どんな状況でバラしたか、どんな行動が原因で魚を逃がしたかが身にしみてわかる。そんなバラシの条件を一つひとつ避けていけば、いつか必ず、ヒットしたシーバスをランディングに持ち込めるはずだから」
 馬鹿げた戦略だと、自分でも思う。滅多にない数釣りのチャンスをドブに捨てるのだ。だが、数はどうでもいいと祐希は気付いた。100匹の平均サイズより、狙いはたった1匹の超大物だ。祖父が自慢した、1メートル20センチのシーバスだ。
 櫂も西山も、黙ってた。反論はなかった。ならば正解なのだ。そう自分に言い聞かせ、川に問いかけるように、祐希はルアーを投げ続ける。多くの魚に逃げられた。だが得たものも少なくはなかった。
「なあ櫂、急に反応が鈍くなってないか? ベイトをあらかた食いつくしてシーバスの宴会もお開きかね」
「それに、ずいぶんと釣っては逃がしを繰り返したから、さすがにスレが進行したのかもな」
 キャストする手を休めて、西山と櫂は煙草に火を点け、うまそうに煙を吹いた。「スレ」とは魚の警戒心を意味する。この1時間で、二人はそれぞれ10匹ほどもシーバスを釣った。いずれも50センチ級の中型だ。同じぐらい祐希もバラした。シーバスが警戒しても不思議ではない。陽は暮れかけて夕マズメのいい時間だが、ひと足早く魚の食いは止まってしまったらしい。視界の隅で何かが動く。カワウのようだ。やや上流の水面に、黒いクエスチョンマークのような頭部を漂わせ、潜っては浮く動作を繰り返している。
(結局、今日も釣れなかった)溜め息が漏れたものの、不思議と悔しさは感じない。
「違う、ベイトはいなくなったんじゃない。沈んだだけだ」
 不意に櫂の声が飛んだ。祐希が振り返って問いかける。
「なぜ、そんなことが?」
「さっきまでは浅瀬で、泳げないサギが小魚をついばんでいた。だが今は遊泳力に優れたカワウが潜って小魚を追っている」櫂が浅瀬と流芯を交互に指差す。「ヒットが遠のいたのはベイトが沈み、それに合わせてシーバスのレンジも深くなったためだ」
 確かに、今までヒットが集中していたのは水深30センチほどの浅い泳層だった。すでに浅瀬からシラサギは消えている。すかさず祐希は水に浮くフローティングミノーから沈むシンキングミノーへルアーチェンジした。すかさず櫂のアドバイスが飛ぶ。
「カワウが泳ぎ回ればベイトは警戒して身を隠す。やがてシーバスも捕食行動を中止する。チャンスは短いぞ祐希、集中しろ」
 祐希が無言でうなずき、流芯の向こう、やや上流にキャストする。流れに乗せてルアーが沈むのを待つ。自然に笑いがこみ上げた。
「水中の魚を釣るのに空飛ぶ鳥の動きを読むなんて―――どこまで奥が深いんだ、ルアーフィッシィング!」
 リールを巻き始めるとすぐ、ロッドが違和感を伝えた。ひったくられる感触ではなく、力強い腕で瞬間的に押さえられたような感触だった。無意識にロッドをあおって合わせの動作をとる。一瞬、根掛かりと思うほどの重量感。すぐに魚が首を振ってもがく動きが伝わってきたが、いままでのシーバスとはどこか暴れ方の質が違う。どう違うかを考える間もなく魚が水面を割った。
「おいおい、でかくね? ナナジュー近くあんじゃねーの」西山が羨ましげに声を張り上げた。
「平均サイズの活性が一段落した後に、群れの最大サイズがヒットするのはよくあるパターンだ」櫂も感心して歩み寄る。「祐希、落ち着いてやりとりすれば捕れるぞ。バラしの一番の原因はシーバスの首振りだ。50センチ前後の個体はスピード、パワー共にバランスがとれている。そのため首振りが素早く複雑で、ロッドの弾力が追いつかず、テンションが抜けて針が外れる。だがサイズが増すほど首の振り幅は大きくなるが、その分スピードは落ちるからロッドの弾力も有効に作用し、ランディングの確率が高まる」
「ありがと。でも意外と落ち着いてるんだ」祐希が櫂にうなずいて見せた。「それに、たとえバラしても惜しくないよ。ナナジューでもハチジューでも、目標の1メートル20センチには程遠い(/ほどとお)いサイズだから」
 視界の隅で、櫂と西山が顔を見合わせて呆れた。祐希は早速、バラシの連発で学んだ技を実行に移す―――ランディングで手こずらないよう、なるべく沖で魚を暴れさせ、体力を奪う戦法―――ドラグ設定が比較的弱いまま、緩いテンションでプレッシャーをかけ、シーバスが抵抗したら好きに走らせる。やがて走り疲れたらリールを巻いて距離を詰める。それがまた緩いテンションとなり、シーバスが走る。走り疲れたらリールを巻いて―――その繰り返しで、騙し騙し距離を詰め、魚を寄せた。人影を見て暴れはしたが、口に掛かったルアーを弾き飛ばす勢いはなかった。足元まで寄ったシーバスに、祐希はフィッシュグリップを持った手を差し出した。最後のひと暴れをしようとエラを広げれば、自然に口も開く。その下顎をタイミングよくフィッシュグリップが捕えた。運がよかった。魚は祐希の手中に収まった。
(/)ったー、初めてランディングに成功だ!」
 バラしてもいいと覚悟してはいたが、実際に魚を手にすると祐希は辺りかまわず声を張り上げた。間近に見るシーバスは魚というより、むしろ動物に近い存在感があった。持ち上げると両腕に予想外の重さが伝わり、よろけそうになる。

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