閉じる


<<最初から読む

9 / 49ページ

試し読みできます
(2)
 図書館の帰り道、釣具店『マスヤマ』に寄った。
 店頭に自転車を停め、片開きの自動ドアをくぐる。すぐ左手がショーケースを兼ねたL字カウンターとなっており、内側で二人の店員が作業していた。一人は五十代の男性で、老眼鏡ごしにリールの分解掃除に余念がない。おそらくは店主だろう。もう一人は二十代半ばの女性で宅配便の伝票に記入している。両者とも小柄で(/)せており、釣り餌メーカーのロゴが入ったエプロンを身に着けていた。親子かもしれない。二人は顔を上げると「いらっしゃい」と微笑んだ。店の広さは教室ほどか。ドアを入って左側、店舗の六割ほどが餌釣りのコーナーらしく、様々な釣竿や魚籠(/びく)、餌の袋やウキ、仕掛け、ハリ、オモリなどの小物類が棚ごとに並んでいた。奥には簡単な応接スペースがあり、常連らしい老人がくつろいでいる。
 対してドアの右側、残り四割ほどがルアー用品のコーナーになっている。ロッドスタンドには光り輝くシーバスロッドが何本も陳列されているが、値札を見れば安い品でも2万円台。とてもじゃないが、祐希の財布でどうにかできる値段ではない。溜息をついて目を背けると、壁際にスライド式の棚が設置され、パッケージに収まった色とりどりのルアーが隙間なくディスプレイされいた。
「探してるものがあったら、何でも聞いてください」
 壁一面を覆うルアーの数々に見惚れていると、背後から店主に声をかけられた。いましがた図書館のルアー解説書で読んだ「ルアーは餌釣りよりも大物が釣れる」との記述が、祐希の脳裏をよぎる。
「あの・・・・・・スズキ、いやシーバス用のルアーって、ありますか?」
 店主は「当然」とばかりに頷き、カウンターを出るとルアーコーナーに歩み寄る。
「釣り場はどのあたりかな?」
「利根川の、走馬落しです」
 答えながらも、「まともな釣り具店はまず場所を聴く」という青年の言葉を思い出し、なるほどと感心した。
「利根川のリバー・シーバスなら、このあたりのルアーが適している」店主が棚の隅、幅1メートルほどの範囲を指でなぞる。
 勧められたルアーはいずれも12センチ前後の「プラグ」と呼ばれるルアーだった。
 ルアーは大きく分類すると、金属板を加工したスプーン、回転する羽を持つスピナー、軟質プラスチックのワーム、金属ボディーのジグ、そして木やプラスチックで小魚や虫などの小動物を模したプラグなどの系統がある。釣り好きのクラスメイトである久や良司からの受け売りだ。
 棚に並んだ数々のルアーは、魚よりはむしろ人間を誘惑するように作られたようで、しばし商品の並ぶ棚に目が釘付けとなった。
「シーバスロッドは持ってるんだろうね?」
 だしぬけに店主から声をかけられ、祐希は反射的に「ハイ」と返答してしまった。「シーバスロッド」がシーバス用のルアー竿だと気付くのに少し手間取った。図書館で目を通した解説書によると、ルアーフィッシィングでは釣り竿を「ロッド」と呼ぶ。同様に釣糸は「ライン」、釣り針は「フック」、オモリがが「シンカー」など、横文字の専門用語を多用する。なかでも「釣り人」を意味する「アングラー」という表現が祐希のお気に入りだ。
「ならいいが・・・・・・」祐希の返答に、店主は納得したように頷く。「いやね、シーバス用のルアーはブラックバス用よりサイズも大きく重いものも多い。同じルアーフィッシィングだからとブラックバス用のロッドを流用するお客もいるけど、長さやパワーが足りないため、思うように投げられないことが多いんだ」
 さっきは考えもなしに返事をしてしまったが、ある意味「シーバスロッドを持っている」と言っても嘘ではない。祐希がなけなしの小遣いをはたいて買った3,6メートルの投げ竿は、半分騙されたようなものとはいえ、「スズキ用の釣竿」として釣具店の店員が選んだ品だ。川で出会った青年が使用していた“本物のシーバスロッド”よりも長く、頑丈なのは一目瞭然だった。
(つまり、シーバス用のルアーを使うには差し支えないってことだよね)苦しい言い訳を承知で、自分に言い聞かせた。
 ルアー購入の方向に、祐希の心は急激に傾いていた。洗練されたデザイン、繊細な造形、鮮やかな発色と輝きにも目を奪われたが、何より魅力的だったのは値段である。どのルアーも値段は2000円前後で、決して安価とは言えない。だがカウンター内側の壁に掛けられた「生餌一覧表」のホワイトボードによれば、スズキ釣りの餌となるゴカイや青イソメは1パック500円である。生餌であれば日持ちはしないだろう。一日でどれほどの量を使用するか定かではないが、仮に1パックと限定しても祐希の財布には十日分ほどの予算しかない。だがルアーを購入すれば後は一切餌代がかからない。
 さんざん迷ったあげく―――迷いさえ至福のひと時だったが―――祐希は11センチ・15グラムのミノープラグを選んだ。小魚を模した造形で下顎(/したあご)にあたる部分から突き出た「リップ」と呼ばれる潜行板(/せんこうばん)に水を受け、泳いだり潜ったりする。水に浮く「フローティング」と沈む「シンキング」の一種類があったが、なんとなくシンキングを選んだ。色は目に鮮やかな、ボディーが光り輝くホログラムで背が蛍光の黄色、腹がオレンジ―――パッケージには「ホロチャートバッグレッドベリー」という呪文のようなカラー名が記してあった。
 レジに持っていくと、なぜか店主の顔が一瞬こわばった。的外れなルアーを選んだかと動揺する祐希に、店主は「きみは、中学生?」と問いかける。小学6年生であると告げると、感心したように微笑んだ。
「いいセンスしてるね・・・・・・このカラーは昼でも夜でも、水が濁ろうが澄んでいようが通用する。それにシンキングなら沈め加減であらゆる水深を泳がせることが可能だ。サイズも大きすぎず小さすぎず、様々なシチュエーションに対応可能なルアーだよ」
 価格は1650円。料金を払い、包装されたルアーを握りしめて店を出る。頬が自然に緩んでいた。見た目優先の勘まかせで選んだ商品だったが、センスを(/)められれば悪い気はしない。結果オーライだ。何より嬉しいのは、購入したルアーが「応用範囲が広い」とのお墨付きが得られたのは心強い。
 このルアーで、夏いっぱい勝負しなければならないのだから。

 伯父の家へ戻り、自家製トマトソースを使ったナポリタンとコンソメスープの昼食をとった。
 食事中も買ったばかりのルアーが気になり、早く試したくて午後一番で川へ行こうと目論(/もくろ)んでいたが、その気配が伝わったらしい。絹代に「熱中症になるといけないから、外出は夕方の涼しい時間帯にしなさい」と釘を刺されてしまった。仕方なく祐希は勉強部屋として与えられた奥座敷で宿題の漢字ドリルを広げる。
 図書館で読んだルアーフィッシィングの解説書によれば、シーバスはどちらかと言えば夜行性に近く、釣りに適する時間帯は日の出と日没前後―――俗に言う“朝マズメ”と“夕マヅメ”―――そして夜間だ。
「だから、日中に釣りができないのはむしろ効率的なのだ」
 無理矢理自分に言い聞かせて漢字の書き取りを始めるが、ドリルの横に未練がましく買ったばかりのルアーを置いた状態で集中力が続くわけもなく、四字熟語をいくつか記しただけで鉛筆を投げ出し、畳に寝そべる。鴨居に飾られた額縁が、逆さまに怠惰(/たいだ)な祐希を見下ろしていた。そこは生前の祖父が寝起きしていた部屋で、祐希は心の中で「手形の間」と呼んでいた。おそらくは道太郎本人が手のひらに墨を塗り、色紙に写し取ったと思われる拓本が額縁に飾られている。見るたびに祐希は「生まれた赤ちゃんや力士でもあるまいに」と違和感を覚える。手形に刻まれた生命線は太く深く、150歳まで生きそうな勢いだ。80に手が届く前に世を去ったのは早すぎる。
 寝そべったままで祐希は釣り雑誌を広げた。釣具店の帰り道、思いついて立ち寄った商店街の書店でルアーフィッシィングの専門誌を購入したのだ。都市部に展開するフランチャイズの大型書店とは規模も品揃えも比べ物にならない「小さな町の本屋さん」だったが、それでも「釣り・アウトドア」のコーナーは予想外に充実しており、沖釣り、ヘラブナ釣り、防波堤釣りの専門誌に混ざってルアーフィッシィングの専門誌も四種類あった。三誌はバスフィッシィングの専門誌だったが、あとひとつはソルトウォーター・ルアーフィッシィング―――要するに海のルアー釣り専門誌だった。清流域から沖合までと行動半径の広いスズキは「ソルトウォーター」の対象魚として扱われるようだ。完全な淡水である河川の中流域を舞台とする「リバーシーバス」もそちらに含まれるからややこしい。
 リバーシーバスの特集は数ページだったが、他の記事も無意味ではなかった。港湾や砂浜、磯のシーバスフィッシィングも、舞台と道具立てが異なるだけで、対象魚は同じだ。共通点はさほど多くないが、それでも情報に飢えている祐希にはありがたい。記事の間には様々なメーカーの広告もあって、ロッドやリール、ルアーの鮮やかな写真は活字を追う眼を(/なぐさ)めた。買ったルアーのパッケージ裏に記された説明文を読んだり、そのルアーを紹介した雑誌の記事をみつけて興奮してみたり・・・・・・夢中でそんな事をしているうちに午後4時を回り、涼しげな風が吹き始めた。
「よし、出撃だ」
 絹江が出してくれたオレンジジュースを飲み干して、祐希はクロスバイクにまたがり伯父の家を飛び出す。土手上の道を疾走(/しっそう)し、今日も利根川の走馬落しへと向かう。

試し読みできます
(3)
 ルアーフィッシィングは準備が簡単だ。仕掛けを作る必要がない。糸の先にルアーを結ぶだけ。ウキもオモリもいらないし、ハリはルアーについている。もちろんエサも必要ない。
 走馬落しに着いて昨日と同じポイントに釣り座を占め、自分でも惚れ惚れするような手際のよさで準備を整え、買ったばかりのルアーをキャスト。
 これが、全然飛ばない。
 目の前に叩きつけられるか、あるいは頭上高くフライとなって、やはり目の前に落ちるかだ。
「どうして? “投げ竿”のはずなのに・・・・・・」
 祐希はグリップのすぐ上にプリントされた「ロングキャストDX360」のシャープな字体を何度も確認した。それでも飛距離は一向(/いっこう)に伸びない。ルアーが水面に叩きつけられる音と飛沫は盛大だが、飛距離は直接手で放ったほうがマシなほどだ。
「何をしている?」
 今度こそはと意気込んで竿を振りかぶる祐希の背後から声が飛ぶ。振り向けば、前日ここで出会った青年が(/あき)れ顔でたたずんでいた。
「俺は投げ込み釣り用の仕掛けを用意しろと忠告したはずだ。なぜルアーを買った?」
 青年は前日同様に無表情だが、結果的にアドバイスを無視した祐希は叱られたような気がして、背後に向けた目を再び川へ戻した。それでも青年の声は途切れず届く。
「投げ竿は竿を担ぎ、比重の高いオモリの遠心力を利用して飛ばす。それに対してルアーロッドは、バックスイングによる竿の反発力を利用して比重の軽いルアーを飛ばす―――キャスティングの力学(/りきがく)が根本的に違うんだ。投げ竿でルアーを投げて、飛ぶはずがない」
 言われてみれば、祐希は肩で竿を担ぐ姿勢で投げていた。今度はバックスイングをして竿をしならせ、反発力を利用して投げてみる。風を切る音が響き、低い弾道で飛んだルアーが水面を叩いて派手な水音と飛沫をあげる。流芯よりは手前だが、いままでで一番遠くへ飛んだ。思わず笑みを漏らした祐希が、リールを巻くことも忘れて再び青年を振り返る。
「大丈夫ですよ。確かに専用の道具に比べれば投げにくいかもしれないけど、大切なのは慣れでしょう。練習を重ねれば飛距離だってもっと・・・・・・」
「何が『練習を重ねれば』だ・・・・・・餌釣り用の投げ竿はルアーロッドと違い、頻繁(/ひんぱん)なキャストを前提として作られていない。だから重く、空気抵抗も大きい。そんな竿で繰り返しルアーを投げれば筋肉に過剰な負担がかかる。五回も投げれば腕が動かなくなる」
 図星だった。確かに投げ竿は重く太く、バックスイングの反動は肘の関節をきしませた。たった一度のキャストでさえ、上腕部の筋肉が強張(/こわば)る感覚がある。見透かされた動揺で、祐希は(/)れたように青年へ向き直った。
「竿が重くても投げづらくても腕が動かなくても、みんな僕ひとりの問題です。誰かに迷惑をかけてるワケじゃないし、放っておいてください」
「迷惑をかけてないだと? 無自覚ってのは救いようがないな」
 鼻で笑うと青年は、祐希の上流側へ並んで竿を振る。無駄な動きが一切ない、シャープなキャスティング。ルアーは低く放物線を描いて飛ぶ。たったいま祐希が投げた、ゆうに三倍の飛距離が出た。にもかかわらず、ルアーは水面へ吸い込まれるように落ちる。着水音もなければ飛沫もたたない。
「この程度の着水音でも、キャストを繰り返すルアーフィッシィングでは、一投ごとに魚へプレッシャー、つまり警戒心を与える。さっきのお前みたいに派手な音と飛沫を蹴立(/けた)ててルアーを水面に叩きつければ、その1投でポイントが潰れかねない。道具の用途を間違えれば、釣りをすること自体が迷惑行為になる場合もあるってことだ」
 祐希には言い返す言葉がなかった。水音も飛沫もほとんどたたない魔法のようなルアーの着水に、そんな理由があったとは想像もできなかった。ふと、竿を持つ手に微かな負荷を感じた。釣糸が流され、張っている。ルアーを投げっぱなしにしていたことを思い出して、力なくリールを巻き、回収にかかる。その背後で、青年の話は続く。
「少々高価でも、ひとつルアーを買ってしまえば以降の餌代が節約できる―――そう考えたんだろうが、甘いな。そのうち思い知ることになるだろうが・・・・・・」
 不意に、祐希の手が止まった。重量感。そして竿のしなり。
「掛かった、釣れた!」
 叫び、竿を立てる。張りつめた糸が鳴り、竿はグリップのすぐ上から大きくたわんだ。重い。リールが巻けない。
「早速、思い知る時が来たか」祐希の興奮とは裏腹に、青年は冷やかに言い放つ。「針に掛かったのは魚じゃない。地球だ。根掛(/ねが)かりだよ」
「・・・・・・ネガカリ?」
「川底は平らじゃないってことだ。流れを調整する捨石(/すていし)や杭があるし、流木が沈んでいるかもしれない。魚は、そういった障害物に好んで定位する。流れを避けて休憩するため。あるいは餌を待ち伏せするため。シェルターの役割を果たすわけだ。だから釣りに根掛かりはつきものだ。ルアーフィッシィングも例外じゃない。下手をすれば大切なルアーを3個、4個と失うことも珍しくはない」
「・・・・・・そんなに、たくさん?」
 今日買ったルアーが1650円、それが3個と換算すれば、およそ5000円の損害だ。眩暈(/めまい)を感じながら祐希は根掛かりを外そうと竿をあおる。ルアーを1個失うだけでも大ダメージだ。
「無駄な抵抗だ。諦めてラインを切ったほうがいい。ルアーフィッシィングが決して餌代の節約にならないってことが、これでよく分ったろう。悪いことは言わない。昨日教えたエサ釣りの投げ込み仕掛けに変更しろ。中型の数釣りが楽しめるはずだ。だが、その竿とリールでルアーを投げ続ける限り、シーバスを釣るのは難しい」
「でも、エサよりルアーのほうが大物が釣れるって・・・・・・」
「確かに、その傾向(/けいこう)はあるが・・・・・・おまえ、大物狙いだったのか?」
「狙いは―――1メートル20センチ」うなずいて、祐希は言った。
 笑われるのは覚悟していたが、青年は笑わなかった。静かに祐希を見据える無表情に、わずかな感情を見出すとすれば、それは対抗だった。「お前になど渡さない」と言わんばかりの敵愾心(/てきがいしん)。思いがけない反応に、呆気にとられ、それでいてどこか嬉しく、祐希はこれまでのいきさつを問わず語りに、呟くように、青年へ伝えた―――幼いころから祖父に聞かされた「目の前の川で1メートル20センチを超えるスズキを釣った」という自慢話。それを教室で喋ったためにクラス中から「嘘つき」呼ばわりされたこと。自分の、そして祖父の言葉が嘘ではないと証明するには、この手で超大物のスズキを釣り上げるしかないという決意。そのために夏休みを利用し、伯父の家をひとり訪れたこと。そしてその家は、いまは亡き祖父が川魚漁師として暮らした家であること―――行動のきっかけとなった、密かに思いを寄せる女子、真衣の存在については照れくさくて黙っていた。
「お前の祖父って、道太郎(/じい)さん・・・・・・あの桐丘道太郎か?」
「お祖父ちゃんを知ってるの?」
「伝説の川魚漁師だよ。このあたりの釣り師や川魚漁師で『道太郎』の名を知らなきゃモグリさ」言って、青年の表情が微かに曇った。「確か、去年の年明けだったな。惜しい人を亡くしたよ」
 祐希に対してか、祖父に対してか、川に対してか、背筋を正して青年が黙礼する。的外れな釣り方を非難していた冷やかさはすでになく、穏やかな声で続けた。
「話はよく分かった。だが、俺がしてやれるアドバイスはたったひとつ―――諦めろ―――それだけだ」
「やっぱり、そんなに大きなスズキは、シーバスは、もういなくなってしまったんですか? 河口堰とか、環境悪化の影響で・・・・・・」
「いることはいる。昔よりは減ったとはいえ、1メートル以上の個体も少なからず遡上しているはずだ。ただ、支流も含めた利根川水系は広い。遡上してくる途中、1匹また1匹と散っていく。河口から何十キロも離れたこのあたりまでたどり着く大型はごくわずかだ。釣り上げられるのは、さらにごくわずか。利根川全体でも、メーター・オーバーを獲ったって報告は年に一度あるかないかだ」
 言って青年は憐みの目を向けたが、祐希に悲観の色はない。むしろ笑っている。
「じゃあ、可能性はある。ゼロじゃない」
「物分かりの悪いヤツだな。確率でいえば宝くじの一等をあてるよりもっと低い。専門で狙っても一生で1匹獲れれば幸運だろう。小学生が夏休みの宿題代わりに釣れる獲物じゃないんだよ」
「・・・・・・でも、ゼロじゃない」
 祐希にとって、1メートルを超えるシーバスは絶滅危惧種、もしくはUMAかエイリアンに近い存在だった。だが実際にはまとまった数が川を遡上し、たった1匹とはいえ毎年のように釣りあげられていたのだ。「諦めろ」と迫る青年の説得は、祐希に希望を与えただけだ。力を得て、再び竿をあおる。どうにか根掛かりしたルアーを回収し、釣りを続行しなければならない。
「まだラインを切ってなかったのか。物分かりだけじゃなく、諦めも悪いようだな」
 青年は溜息をつき、「貸してみろ」と祐希の手から投げ竿をひったくり、リールをフリーにして糸を繰り出した。流された糸が下流側に大きくたるんだ頃を見計らい、1度だけ鋭く、大きく竿をあおる。糸が水を切って「ピシッ」と小気味いい音がするはずだったが、耳には届かなかった。河川敷にクラクションが響き、水辺の音をかき消したのだ。振り向けば堤防の上では黒塗りの車が、青年のものと思しき赤い軽四駆へ接触寸前で停車している。車種までは分からないが磨き抜かれた高級セダン。運転席からは短めの髪を逆立てたサングラスの若い男が降り立ち、腕を組んで河川敷を睥睨(/へいげい)する。
「面倒なヤツが現れた」
 ガラの悪い男に目をくれた青年が軽い溜息をもらした。投げやりに祐希へ竿を返すと、背を向けて男の待つ堤防へ向かう。ルアーを数回投げただけで、釣りはあっさり諦めたらしい。
「ヤクザみたいな人だ・・・・・・何か、弱みでも握られてるのかな」
 まだ出会って一日だが、冷徹な理論家として認識しただけに、クラクションひとつで条件反射のようにに(/きびす)を返した青年の後ろ姿は、どこか別人に見えた。見送りながらも祐希の手は無意識にリールのハンドルを巻く。
「あれ? 巻ける」
 ラインは素直に回収され、諦めかけたルアーは無事に戻ってきた。祐希があれほど力任せに糸を張り、何度も竿をあおって外れなかった根掛かりを、青年は竿を軽く一振りしただけで外していたのだ。手品でも見せられた気がして祐希は放心し、青年を振り返る。彼は土手の上、サングラスの男と並んで何か話し合っているらしい。表情までは見えない。すでに日は暮れかけていた。


試し読みできます
(4)
 翌日も祐希は日が傾くと利根川へ向かった。
 青年の忠告を信じないわけではなかった。確かに、12歳の子供が夏休み期間内に巨大魚を仕留めるなど無理な話なのだろう。だが彼はこうも言った―――数こそ少ないが、1メートルを超えるスズキは確実にいると。いるのなら、たとえ釣れなくとも行かずにはいられない。耳に冷やかな青年の忠告も、裏には好意が隠れていると知っている。だから昨夜も寝床で真剣に検討した。だが枕元に置いたルアーを眺めているてと鳩尾のあたりが騒いで落ち着かない。たとえ飛ばなくとも、ルアーを投げずにはいられない。取り憑かれでもしたかのように。
 忠告を無視する罪悪感を振り切って、土手上の道でクロスバイクを飛ばす。ペダルを漕ぐたびにデイパックからはみ出した重く使いづらい投げ竿がカタカタ鳴る。それは多分、例によって行動の歯車が空回りする音だ。薄々気づいてはいるがどうにもならない。空回りを始めた歯車は、そう簡単に止まらない。

 走馬落しに到着すると、見覚えのある軽の四駆が停まっていた。古ぼけた赤い車体の後ろ姿。幌を外してオープンにした運転席に人影。数歩分の距離をとって祐希はクロスバイクを停めた。運転席から降りてきたのは、やはりあの青年だった。
「今日はちゃんとエサ釣りの用意をしてきたんだろうな?」
 青年の問いに、祐希が無言でかぶりを振る。
「大きなシーバスの釣れる確率が高いなら、エサ釣りよりもルアー釣りがしたい」
「無理だと言ったろう、メーターオーバーは諦めろ」
「諦めない。まだ、始めたばかりだ」
 青年の冷やかな目を正面から見返して祐希は言った。道々考えた末、文句を言われたら別の場所を探せばいいと割り切っていた。釣れる確率は極端に低いが、この広大な水域に目指す獲物は確実にいると分かった。それだけでも(/もう)けものだ。
「わざわざここで待ってたんですか・・・・・・僕が釣りすると、そんなに迷惑?」
「ああ、迷惑だね。昨日も言ったが、的外れなタックルで雑なキャストをされたら魚を警戒させるだけだ」
 祐希は他のポイントを探そうとクロスバイクを方向転換する。その背中を、さらに青年の声が追う。
「だから―――このタックルを使え」
 意味を(/はか)りきれずに振り返ると、青年は車のバックスペースから細長い透明のプラスチックケースを取り出し、突き付けた。ロッドケースだ。2本継ぎのルアーロッドが透けて見える。
「それって、シーバス用のロッド?」
「俺のスペアタックルだ。貸すよ。こっちに滞在する間は、好きに使っていい」
「どうして、僕に?」
「道太郎爺さんの孫なら、放っておくわけにもいくまい。ミンゲーの甥でもあるワケだし・・・・・・」
「ミンゲー? 僕が甥ってことは伯父さんのこと? 知り合いなの?」
「田舎は狭い社会だ。いろいろとシガラミも多い。説明すると長くなる。そんなことより、このロッド、使うのか使わないのか」
 自分の親切に照れたか、青年は面倒くさそうに言い放って詳しい事情を省いた。祐希に異存はない。予算の都合で諦めたシーバスロッドをタダで使える。専用の道具なら快適な釣りができるし、青年に文句を言われることもない。いいことずくめだ。
「ありがとうございます。遠慮なく、お借りします」
 青年が貸してくれたのはロッドだけではなかった。ロッドとバランスのとれた小型軽量のリール。魚の下顎を掴んで取り込むためのフィッシュグリップ。いくつものルアーが詰まったプラスチックケース、ハリを外すためのプライヤー、ルアーの接続するスナップなど、様々な小物が収められたヒップバッグ。そっけない態度とは裏腹に、細やかな心遣いだ。
 早速、借りたタックルを試すことにした。
 二人で河原へ下りる。ロッドにリールをセットする祐希を横目に、青年は道具の説明をした。
「ロッドの長さは8フィート。川で使うにはやや短めだが、お前の体格にはそれぐらいがちょうどいい」
 リールに巻かれているのはPEラインのようだ。釣糸は素材によってナイロン、フロロカーボン、PEの三種類に分類できる。それぞれ特徴があり、ナイロンはしなやかで伸縮性があるため扱いやすく、フロロカーボンは透明度が高く比重があり摩擦(/まさつ)に強い。ポリエチレン樹脂(/じゅし)素材のPEラインはナイロンやフロロカーボンに比べ、およそ三倍の強度を誇る。細いラインを使用できるため空気抵抗が減ってルアーの飛距離が伸びる。また、ほとんど伸びないので小さなバイト―――ルアーに対する魚のアタック―――も感じることが可能だ。反面、張りがなくルアーにからみやすい、摩擦に弱いなどの理由から、先端に1メートルほど、3倍ほどの太さのフロロカーボンラインをリーダーとして(/つな)ぐ。
 リーダーの先端にルアーを結び、投げてみる。
「うわっ、軽い!」
 ロッドを振った祐希が感動の声をあげる。いままで使っていた投げ竿が野球のバットだとすれば、シーバスロッドはバトミントンのラケットのように鋭いスイングが可能だ。祐希の腕力でも余裕を残して振り抜ける。ルアーの重みやロッドの反発も実感できるため、指で押さえたラインを放すタイミングも微調整できる。投げ竿に大型リール、太いラインでルアーを投げる行為がいかに的外れだったかが一瞬で理解できた。青年が専門の道具にこだわったのも当然だ。
最初の二、三投こそフライ気味になったり目の前に叩きつけたりのミスをしたが、すぐにタイミングを把握し、思い通りのキャスティングができるようになった。青年ほどではないにしても飛距離は流芯まで届き、着水音も投げ竿を使ったキャスティングに比べて明らかに静かだ。感度もいい。ルアーは青年から託されたボックスから小魚を模した水に浮くフローティングミノーをチョイスしたが、水面下を小刻みに震えて泳ぐ振動がラインを介して手元までに伝わってくる。
次のキャストに入るため、投げたルアーを鼻歌まじりに回収する祐希の動きが不意に止まった。リールが巻けない。ロッドが曲がる。水中でルアーが踏ん張って動こうとしない。
「え、どうして?」
 一瞬、嫌な予感がよぎる―――また根掛かりか―――いや、そんなはずはない。投げたのは水に浮くフローティングミノー。よほど浅い場所でない限り川底には届かない。戸惑っていると、竿先が徐々に絞り込まれる。
「ヒット!」隣で青年が声をあげる。「根掛かりじゃない。魚だ」
「え? だって、キャスティングの練習をしていただけなのに・・・・・・」
「練習だろうが本番だろうが、水中でルアーが泳いでいるのは変わらない。魚が掛かってもても不思議じゃないさ」
 魚は流れに乗ったらしい。下流へと加速度的にスピードを増し、止まる気配を見せずに走る。大きくしなったロッドを、祐希は必死で保持する。リールが巻けない。むしろ(/うな)りをあげてラインが出ていく。リールにはラインブレイク―――糸切れを防止するため、あらかじめ設定した以上の負荷がかかると糸が滑り出る「ドラグ」という機能がある。ドラグの調整は適切なようで、切られる心配はない。
「これはデカいぞ。1メートル超えてるんじゃないかな」
 隣で呟く青年の声を耳にして、ロッドを支える祐希が狼狽(/ろうばい)する。狂喜乱舞と拍子抜け―――感情が両極に分離する。青年の声に緊迫感はないが、からかっているとも思えない。なにせ魚の走りは祐希にとって想像を遥かに超えている。釣糸の先端で原付バイクが走っているかのようだ。
 魚は一気に50メートルほど走ったろうか。ようやく抵抗が断続的になった。引き出されたラインを少しずつ回収する余裕も得たが、、リールを巻いては走られるの繰り返しで一進一退だ。
 いつしか両腕の筋肉が悲鳴を上げ、時折痙攣(/けいれん)する。流れる汗が目に入って視界が滲むが、ぬぐう余裕がない。だが疲れているのは祐希だけではなかった。魚も弱っているらしい。徐々にだが寄せられている。腹を見せて川面に浮いた魚体が見えてきた。傾きかけた夏の陽を反射して、大魚が銀色に輝く。
「・・・・・・で、でかい!」思わず祐希が呻く。
 青年の言葉は決して大袈裟ではなく、確かに1メートル以上ありそうだ。魚体を目にした途端、祐希は限界に近い両腕の疲労を忘れた。狙った獲物と一本の糸で繋がっている高揚によって、ロッドを支えリールを巻く力が(/よみがえ)る。銀色の巨体は着実に寄ってくる。時折大きく暴れて子供が溺れているかのような飛沫と水音をたてるが、ヒレにはすでに水を蹴って走るだけの力は残っておらず、いたずらに水面を叩くだけだ。近付くと、長さだけでなく太さが際立つ。胴回りは祐希より太いかもしれない。圧倒されて後ずされば、はからずもトドメの寄せとなり、魚はやや下流の護岸に打ち寄せられた。その下顎を、落ち着き払った青年がフィッシュグリップで掴み、振り返る。
「ランディング成功。お疲れさん」
「やった・・・・・・これが、1メートルの・・・・・・シーバス!」
 祐希が声を震わせて魚を覗きこむと、青年は待っていたように笑い出す。
「違うよ」
「エッ?」
「これはシーバスじゃない。レンギョだ」
「レ―――レンギョ?」
 釣れたのは狙っていない魚―――俗に言う「外道(/げどう)」だ。緊張から一挙に解き放たれた祐希は、全身の力が抜けて護岸に尻もちをつく。
 レンギョは標準和名を「ハクレン」というコイ科の魚だ。中国原産で1メートル以上に成長する。卵は川面を浮遊しながら孵化(/ふか)するが、海まで流されると死んでしまうため、かなり長い川でなければ生息できない。日本で自然繁殖が確認されているのは利根川、霞ヶ浦水系だけだ。1878年に初めて持ち込まれた外来魚で、太平洋戦争勃発(/ぼっぱつ)の翌年、1942年から食糧増産の目的で本格的に移入された。
「大昔、日本が戦争をした歴史は授業で習ったけど、その影響をこんな形で実感できるとは思わなかった・・・・・・」ちなみに祐希の想像で、大国であるアメリカに無謀な喧嘩を売った日本人は限りなく原始人に近い。
 移入したはいいが、レンギョは日本の食卓に普及することはなかった。四方を海に囲まれた日本はもともと水産資源に恵まれており、そのうえ肉質が日本人の味覚や調理方法に合わなかったのだ。漁師や釣り人から相手にされず、幸か不幸か天敵を失って、いまでは釣りの邪魔になるほど繁殖している―――そんな事情を説明する青年は、どこか楽しげに見える。
「レンギョは主にプランクトン食性で、水面を流れるエサを探して表層に群れていることが多い。油断しているとルアーに引っ掛かってしまうことがあるんだ」
 なるほど、ルアーのフックは背びれの付け根に刺さっていた。口以外の部位に針掛かりする「スレ」という状態だ。青年は無造作にプライヤーを手にするとフックを外し、魚体を流れへと戻した。けだるそうにヒレを揺らし、巨大なレンギョが深みへ帰っていく。
「あーっ! どうして逃がしちゃうんです?」祐希はとがめるような声をあげた。「確かに狙ってたシーバスじゃないけど、あんなに大きな魚を釣ったんだから、写真ぐらい撮っておきたかったのに・・・・・・」
「そう嘆くな。またすぐに釣れるさ。シーバスは首を振ったり水面をジャンプしたり激しく暴れるが、レンギョはひたすら走るだけだ。慣れればヒットの瞬間に区別できる」
 青年の言葉に嘘はなかった。次のキャストで、またレンギョが掛かった。確かに走るだけなのですぐわかる。正体が知れた以上1匹目の興奮はなく、ありがたくない大魚との力比べは無駄に体力を消耗した。
「ゲームでいえば、ドレイン攻撃をかけてくるデカいだけのウザい雑魚キャラか・・・・・・」
 ぼやきながらも、苦労して寄せた魚からフックを外すと、祐希は念願の写真撮影も忘れてリリースし、その日の釣りを断念する。すでに両腕は筋肉疲労で震えが走り、満足なキャスティングができる状態ではなかった。
「まあ無理もない。大人でもレンギョを立て続けに釣ると疲労で心が折れ、帰りたくなる」そう青年は慰めてくれたが、やはりどこか楽しげだ。
 他人が外道を釣って困っている様子は、釣り人にとって心温まる光景らしい。
試し読みできます
(5)
 その夜、夕食の席で伯父夫婦に川での顛末(/てんまつ)を報告した―――青年との出会い、見事なルアーフィッシィングのテクニック、冷徹な理論家ぶり、皮肉まじりのアドバイス、頑固(/がんこ)にルアーへこだわる祐希にタックル一式を貸してくれた好意―――二人とも食事をとりながら口を挟まずに聞いていたが、青年が乗っていた車に話がおよぶと、義史がチンジャオロースの大皿へ伸ばしかけた箸を止め、遠くを眺めるように目を細めた。
「その車、ひょっとしてジムニーSJ30じゃないか? 古びて赤い、軽の四輪駆動車だ」
「間違いない、その車です。伯父さん、知ってるの?」
「教え子だよ。瓜生君(/うりゅう)だ、瓜生(/かい)。隣の集落に住んでる。彼が高校3年のとき、私が担任をしていた」
「そういえば、お祖父ちゃんのこと知ってたな。それから伯父さんのことも、確か『ミンゲー』とか何とか・・・・・・」
「ああ、ソレ、義史さんのニックネームよ」言って絹江が笑った。「学校で生徒たちからミンゲーって呼ばれてんのよね」
「ひとごとみたいに・・・・・・もとはと言えば絹江さんが玄関に郷土玩具なんて置くから妙なあだ名をつけられたんじゃないか」
 絹江の生まれ故郷、福島の伝統工芸品「赤べこ」の話である。もう何年も前、担任の家に遊びに来た生徒が、玄関の下駄箱の上で首を振る見慣れない民芸品にいたく心を奪われて、友人たちに触れ回った。以来、義史は教え子から「ミンゲー」と呼ばれ、そのあだ名は先輩から後輩に語り継がれ、現在に至るというわけだ。
「祐希君がお世話になったんなら、なにかお礼しないといけないわね。ちょうどいいわ。昨日、ネットで夏野菜を使ったスイーツのレシピを見つけたの。早速試しましょう」
「お礼はいいけど、また張りきって作りすぎないようにね」
 義史が諦めたように力なく笑う。無愛想な青年が改まった礼を喜ぶかどうかは疑問だし、ましてスイーツは似合わないと思ったが、すっかりパティシエ気分の伯母には何も言えなかった。

 夕食を済ませ、勉強部屋兼寝室として割り当てられた奥座敷―――「手形の間」に納まった後も、祐希は落ち着くどころか神経が(/たかぶ)るいっぽうだった。
 畳の上に、青年、瓜生櫂から授かったタックル一式―――ロッド、リール、ルアー等の小物を並べて、飽きることなく眺める。ロッドとリールは使い込まれて全体的にくすんで見えるが、さほど古い製品ではないらしく手入れも行き届いている。プラスチックのケースに入ったルアーはいずれも、表面に引っ掻いたような細かい傷が無数についていた。しばらく観察し、それが魚の歯形だと気付いた瞬間、祐希は自分が噛みつかれたように身をすくめ、大きく息を吐いた。
(今日になって、というより夕暮れの2時間ほどで、ひと足跳びに目標へ近づいた)
 そんな感覚が胸に満ちる。昨日までは的外れな道具しかなかった。その前日は、目指す魚がいるかどうかさえ定かではなかった。だが櫂青年は目の前で、たやすくシーバスを釣って見せた。その彼が選んだタックルが、今日から自由に使える。狙った魚ではないが、レンギョという大魚も釣った。
(なんか、いろんなことがサクサク進み始めた。一気にレベルが10ぐらい上がると同時に必殺の隠しアイテムをゲットした感じ。この調子なら、もしかしたらメーターオーバーのシーバスも夢じゃないかも・・・・・・)
 希望は加速度的に根拠のない自信へと変換されていく。ルアーの表面を走る歯形に暗示をかけられたかのようだ。この高揚を誰かに伝えたくてじっとしていられなくなり、祐希は半ば無意識に携帯電話を手にしていた。
(父さんと母さんか・・・・・・いや、やっぱり釣り友達の久や良司がいいかな・・・・・・)
 登録番号をスクロールする祐希の指が、不意に止まった。
 液晶画面に、「文倉真衣」の名が表示されている。
 忘れかけていたが、真衣の携帯番号とメールアドレスは登録済みだった。といっても、クラスメイト以上の親しい間柄ではない。6年生になって同じクラスになったとき、彼女は携帯電話を買ってもらったばかりで少しでも登録件数を増やしたかったらしく、ほとんどのクラスメイト相手に番号とアドレスを交換したのだ。
 嘘つき呼ばわりされ、クラスで孤立した祐希に、真衣だけは「信じている」と言ってくれた。その一言が、今回の無謀ともいえる挑戦の原動力だった。近況報告ならば真っ先に彼女へ連絡をとるのがスジというものだろう。
(でも・・・・・・)祐希の胸に一抹(/いちまつ)の不安がよぎる。(ひょっとして真衣ちゃん、言ったこと忘れてたりして・・・・・・)
 笑い飛ばそうとして、失敗した。真衣の言葉に深い意味はなく、単なる気まぐれにすぎなかったのかもしれない。もしそうなら、勝手に盛り上がって無謀ともいえる単独遠征と大魚への挑戦を決行したあげく、頼まれもしないのに状況報告する祐希を彼女はどう思うだろう―――ウザい。キモい。恩着せがましい―――釣りに対して希望的観測歩が先走った反動か、ネガティブなリアクション候補が次々と脳内に響く。
(いや、真衣ちゃんはそんふうに考える子じゃない。優しくて思いやりにあふれた少女だ。でも、だからこそ嘘つき呼ばわりされた僕に同情して気軽に元気づけた可能性も大いにあるワケで・・・・・・)
 どっちに転んでも不本意な結論。マイナス思考のパラドックスから脱出するため電話したいが、確認するのが怖い。真衣の携帯番号を呼び出して、通話ボタンに触れる。あと1ミリ、指を動かすだけで電波が繋がる。でも、押せない。わずか1ミリが、真衣と祐希を隔てる数十キロの直線距離よりも遠い。テレビのコマーシャルは言う―――携帯電話さえあれば何時でも何処でも誰とでも気持ちが繋がる―――だけど違った。繋がるのは電波だけ。音声はともかく、気持は周波数に変換できない。
「大嘘つき」
 繋げられない携帯電話を片手に夜具の上で苦悶しながらも、祐希はいつのまにか寝た。
試し読みできます
第3章 楽園、生き物たちの暮らし

(1)
 青年の家、瓜生家を見つけるのに少々手間取った。
 義史に地図を描いてもらったし、「隣の集落で一番大きな家だから」と教えられたのですぐ見つかると考えていたが、甘かった。生け垣と屋敷林をぬって走る曲がりくねった細い道路は、伯父の家がある集落と似ているようでまったく違う。微妙な錯覚に方向を見失わないよう注意しながら、慎重にクロスバイクを進める。肩にかけた保冷トートバッグが不規則に揺れる。中には絹代が昨夜から仕込んで冷やしておいた夏野菜のスイーツが、保冷剤とともに詰まっている。周囲の様子を地図と照らし合わせ、いつの間にか目的地を通り過ぎてしまったと気付く。引き返して表札を確認するまで、そこが瓜生家とは思わなかった。
「なんか、小さい家・・・・・・」
 そう思って通過した、古びた表札の掛かった建造物は、よく見ると“家”ではなく“門”だった。祐希は自転車を押して、やけに奥行きのあるトンネルのような門をくぐる。
 確かに大きな家だ。まず庭が広い。テニスコートが1面、余裕で入りそうだ。正面奥の母屋は、時代劇に登場する庄屋の家か代官屋敷を思わせる大きな平屋で、屋根は萱葺(/かやぶ)きだった。両側には伯父夫婦の家にもあるような板葺きの物置、「マデヤ」がある。向かって右手には田植機やコンバインなどの農機具が収納され、左手は何かの作業場になっているらしい。広く、長く張り出した庇の下には縁台やベンチ、(/すのこ)などが置かれ、作業や休憩に利用されるらしい。
 午前9時に伯父夫婦の家を出て30分以上が過ぎ、夏の陽は高い。白く焼かれた庭に家と木々が濃い影を落とし、屋敷中に蝉の声が立ち込めて人の気配を消していた。母屋もマデヤも、戸や窓が開け放たれているものの、住人が在宅か留守か分からない。田舎の人間は半日程度なら、戸締りをせず平気で外出するのだ。
 不意に、七分丈のカーゴパンツを履いたふくらはぎに柔らかく湿った何かが触れて、祐希は小さく悲鳴をあげた。
「・・・・・・イヌ?」
 足元で中型犬が祐希を見上げている。雑種犬で全体的に薄茶色だが、背中一帯がつややかに黒い。額に浮いた一対の模様は描いたような「たれ眉毛」にしか見えず、威厳の欠片も感じられない。外見通りに性格も温和なようで吠える気配もなく、口を半開きにしてゆくりと尻尾を振っている。暑さのせいか動作も緩慢だ。
「なにか用かね?」
 犬に気をとられていると、背後からかすれた声が飛ぶ。振り向けば、初老の痩せた男が立っていた。作業着姿で長靴をはき、鎌を手にしている。そのいでたちよりも祐希の眼は、彼の背後に釘づけとなった。通りからは気付かなかったが、庭から見た門の内側には窓や戸がある。開け放った引き戸越しに玄関が垣間見え、座敷へと続いていた。老人はそこから出てきたらしい。呆気にとられて祐希が間の抜けた問いを発した。
「も、門に住んでるんですか?」
「住んでちゃ悪いのかよー」声はかすれているが、老人の受け応えは子供と大差ない。「それとも知らないのか? 長屋門」
「・・・・・・ナガヤモン?」
「こんなふうに、門の両側へ部屋が作られた大きな門のことだよ。江戸時代に武家屋敷の門として始まったが、時代が下ると庄屋や地主などの農家にも造られた。両側の部屋は、門番を兼ねた使用人が寝起きするためのものだ」
「じゃあ、おじさんって、この家の使用人なんですか?」
「そのトウリ。明治の昔から先祖代々、この瓜生家に使用人として仕えている。アタシで四代目だ」
 明治時代と言われても、祐希にとっては江戸時代と大差ない。明治維新や文明開化を知識としては知っていても、脳内ではモーニング姿の紳士と着飾った花魁が葛飾北斎の富岳三十六景を背にランデブーと洒落込んでいたりする。外国人が撮影したインチキ時代劇のような空想を展開していると、右手のマデヤから声が飛んだ。
「なにが先祖代々だ。使用人だったのは先代までで、サダさんは息子夫婦と折り合いが悪くなったから、ウチヘ押し掛け居候(/いそうろう)しているだけだろう」
 開け放った引き戸の外、庇が落とす濃い影の下、櫂青年が首に下げたタオルで額の汗を拭っている。もう一方の手には細身の切り出しナイフ。何かの作業中だったらしく、Tシャツの上から身に着けたデニムの前掛けに細かい木屑がついていた。老人は櫂の声に振り向くと、手にした鎌を振り回してわめきたてる。
「居候とは人聞きが悪いですぞ。アタシがこの瓜生家の田畑を管理しているからこそ、櫂さんはそうやって道楽にうつつを抜かしていられるというもの」
 名字なのか名前なのか不明だが、「サダ」と呼ばれた老人は櫂青年の家族ではないらしい。
「お前はこんな所まで何しに来た?」
 櫂が視線を老人から転じる。祐希は弾かれたように保冷トートバッグを肩から外し、差し出す。
「あの、これどうぞ。伯母さんが作った夏野菜のスイーツです。シーバス用のロッドやリールを貸してくれた、せめてものお礼に・・・・・・」
「俺はそんなものが欲しくてタックルを貸したわけじゃない。持って帰れ」
 やはりそうきたか―――門前払いを望んだわけではないが、祐希は無意識に青年の冷ややかな反応を予測してもいた。淡々として感情を表に出さない彼に、やはり改まった謝礼など似合わない。櫂が祐希に背を向け、マデヤに戻ろうとした時、今度は母屋の方向から透明感のある華やかな声が響いた。
「スイーツ! いま誰か、スイーツって言った?」
 見れば、開け放った玄関から若い女性がサンダルをつっかけて駆け出るところだった。エプロンを身につけているが、年齢は女子高校生ほどか。細身だが健康そうだ。無造作にふたつ縛りにした真っ直ぐで柔らかな髪が、わずかな所作に反応して機敏に揺れる。調理中でもあったか、菜っ切り包丁を手にしている。
(・・・・・・なんでこの家の人々は、みんな刃物を所持しているんだ)
 祐希の的外れな疑問をよそに、庭の真ん中で平和な雑種犬が物憂(/ものう)げに尾を振っていた。

読者登録

大城竜流さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について