閉じる


<<最初から読む

7 / 49ページ

試し読みできます

(5)

「あ! もったいない」

 思わず声をあげると、青年が初めて祐希を振り返った。物欲しげな発言をとがめられた気がして言い訳が口をつく。

「いえ、あんまり大きな魚だったんで・・・・・・写真を撮るとか、せめて大きさを測ったりしないのかって・・・・・・」

「大きくはないさ。シーバスとしちゃ中型ってとこだ」青年は独り言のように答える。「それでも60センチを超えてたから、一応『スズキ』と呼べるサイズかな」

「えっ、いまのがスズキ! ここにスズキがいるんですか?」

「ああ。だから狙ってるんだし、事実たったいま釣った。なぜ、そんな当たり前のことを聴く?」彼はそっけなく言い捨て、祐希が護岸に置きっぱなしにしたリール竿に目を向ける。「お前だってスズキを狙ってたんだろ」

「どうして分かるんですか?」

「道具と仕掛けを見ればスズキ狙いなのは一目瞭然だ。ただし、かなり的外れの仕掛けだがな」

「そんな・・・・・・釣具店で教えてもらった仕掛けなのに?」

「その釣具店、最初に予算を聴かなかったか?」

 祐希が言葉に詰まる。図星だった。手持ちの全財産を聴かれるままに申告すると、店員は手早く必要な品物を揃えてくれた。祐希の戸惑いに応え、青年は話を続ける。

「その仕掛けはな、波の穏やかな内湾の岸壁で、夜釣りをするためのものだ」

「夜釣り・・・・・・ああ、だから電気で光るウキが付いてるのか」

「やっぱり知らないで使ってたのか。まあ、一昔前の入門書には『スズキ釣りの仕掛け』として載っているから、けっして間違いではない。だが、ここのような流れの速い川には不向きだ」

「どうりで、すぐにウキが流されて釣りづらいと思った」

「シーバス―――つまりスズキの釣り場は大雑把(/おおざっぱ)に分類しても、河川、砂浜、岸壁、磯、船釣りと様々だ」溜息をつく祐希に苦笑して、青年は釣りを再開しながらも説明してくれた。「釣り場が違えば、釣り方も変わる。釣り方が変われば、道具や仕掛けも別物だ。だから初心者に対して、まともな釣り具店なら、まず客が釣りをする場所を尋ねる。最初から所持金を聴く店には要注意だ。運が悪かったな。お前は初心者で、子供で、フリの客だったため足元を見られたんだ」

 青年の話では、祐希が買った「特価品! 定価の二割引き」の竿とリールもメーカー品ではあるが、廉価(/れんか)版の型遅れのため量販店では定価の四割引きが普通らしい。デイパックに立てかけたリール付きの竿へ、祐希は恨めしげに眼を落とし、呟いた。

「困ったな・・・・・・このリールと竿で資金の大半を使っちゃったし・・・・・・川用の道具を新たに揃える余裕はない・・・・・・」

「安心しろ、竿とリールは川でもそのまま使えるよ。オモリなどの小物を買い足すだけでいい。ただし、人工餌よりは生き餌のほうが有利だ。イソメかゴカイも買っておけ。それで胴突き仕掛けの投げ込み釣りをすれば、今よりはスズキと出会える確率が飛躍的に上がる」

「あ、ケータイにメモします・・・・・・えーと、ドウヅキ仕掛けの、ナゲコミ釣り・・・・・・」

「メモする必要はない。商店街に『マスヤマ』という釣具店がある。信頼できる店だ。そこで利根川の『走馬落し』でスズキが釣りたいと言えば、必要な小物を揃えてくれる。エサと合わせても1000円前後で済むはずだ」

「助かったー!」祐希の財布には、まだ千円札が数枚は残っていた。

 青年は必要なことをすべて伝えたと判断したらしく、再び川との会話に集中した。祐希は「的外れ」の仕掛けを回収し、今日の釣りをあきらめて帰り支度を始める。落胆はなかった。むしろ初日にしては上出来だ。現在でも利根川にスズキは遡上し、釣れる事実を確認したのだ。

(間違いはない。ついさっき、目の前で60センチを超えるスズキが・・・・・・え? 60センチ・・・・・・)

 川風が吹き抜け、祐希の背筋を冷たく撫でた。青年が釣りあげた60センチのスズキでも、かなり巨大に見えた。だが、かつて祖父の道太郎が釣りあげた超大物は―――そしてこれから祐希が狙おうとするスズキは、ほぼ倍のサイズであると、いまさらながら気付いた。夕日でオレンジ色に染まる川を見つめながら、鳩尾(/みぞおち)を裏側からくすぐられるような感触を覚える。それが不安なのか期待なのか、判断はできない。

(無理だって・・・・・・いくらなんでも無謀だって・・・・・・)

 内心で呟きながらも、祐希は無意識に笑っていた。


試し読みできます

第2章 空回り、振り出しに戻る

 

(1)

 朝食を済ませると、祐希は伯父の家を飛び出した。

「今日は忙しいぞ」呟いて、クロスバイクを駆る。

 図書館で調べ物をして、釣具店で必要な道具を揃え、夏休みの宿題もノルマをこなし、夕方までに走馬落しへ到着し、万全の態勢でスズキ釣りを始めなければならない。

 昨夜は、よく眠れなかった。夕暮れの河原で出会った見知らぬ青年の釣ったスズキの暴れまわる姿―――水面を爆発させ、全身で怒りを表現した筋肉質の、それでいて金属的な魚体が、閉じた(/つまぶた)の裏でちらつき、まどろみと覚醒を繰り返した。寝不足気味で少しふらつくが、悪い気分ではない。むしろ高揚している。

 集落を抜け、一直線の田んぼ道へ出た。辺りはまだ夏の陽に焼かれる前の、ひんやりとした空気が沈殿している。両側に果てしなく広がる稲の海を横目に自転車を走らせていると、僅かばかりこびりついていた眠気もいつしか消えた。

 田園を走り抜け、用水路の橋を渡り、薄い住宅地の層をぬって商店街へ出る。やはり、シャッターの閉まった店舗が目立つ。町がまだ目覚めきっていないのか、あるいは永眠した店が多いのかは、陽がもっと昇ってみないと分からない。ありがたいことに、青年が紹介してくれた釣具店『マスヤマ』は早くも店を開けていた。店頭には客のものらしき自転車やスクーターが停められて、シャッター通りには珍しく朝っぱらから繁盛している。すぐにでも飛び込みたかったが店の場所を確認しただけで素通りした。お楽しみは後に取っておいて、まずはお勉強だ。

 市立中央図書館は旧市街の商店街と、丘の上の新興住宅地との中間、丘陵地帯のふもとに位置する。広大な駐車場を共有する形で、文化ホールや歴史民族館が併設されていた。いずれも、商店街の寂れ具合や周囲に広がる田園ののどかさとは場違いに、近代的で贅を尽くした建物だった。

 駐輪場にクロスバイクを停めて入館する。早くも太陽は本格的に照り始め、自転車を飛ばして汗ばんでいた祐希にとって、程よい照明と空調が快適だった。真っ先に「趣味・実用」のコーナーに直行し、釣り関係の書籍を物色する。一般的な入門書と、ルアーフィッシィングの解説書を手にし、続いて「自然科学」のコーナーで魚類の雑学本を追加する。受験勉強の学生たちでテーブル席が予約制になっていたため、祐希は空いているベンチシートに陣取って本を広げた。

 入門書は見るからに初心者向けで、川釣りはフナやヤマベ、海釣りならアジやウミタナゴなど簡単な小物釣り重視の構成だ。コイやクロダイなどある程度の技術を必要とする大物釣りは道具、仕掛け、釣り場などの漠然とした解説があるだけで、「スズキ釣り」のページを開いても、祐希が以前、釣具店の店員から教えられた的外れな電気ウキ仕掛けを中心にページを埋めていた。一方で、ルアーフィッシィングの解説書では、予想通りブラックバスがメインの構成だが、次にページの多くを費やしてスズキのルアー釣りを紹介している。ルアーの対象魚といえば、久や良司の話に出てくるブラックバスやブルーギル、そしてマス類と思い込んでいた祐希にとって、前日の夕暮れに目撃した、見知らぬ青年がルアーで当たり前のようにスズキを釣り上げた場面は一時的にルアーフィッシィングの概念が崩壊するほど衝撃的だった。だがこうして調べてみれば何のことはない。スズキは、ことに海のルアーフィッシィングでは一番メジャーなターゲットらしい。寝不足になるほど考え込むことはなかったのだ。ちなみにルアーで狙う場合、スズキは「シーバス」の名称で呼ばれる。ポイントは青年も言ったように港湾、砂浜、磯、河川、ボート釣りなど多彩である。さらに、それぞれのシーンで竿の長さや強さ、糸の太さ、リールの大きさ、ルアーのサイズなど、使用する道具も微妙に違ってくるらしい。様々な解説の中でも、「ルアーは餌釣りよりも大物が釣れる」との記述が妙に印象深く残った。

 もう一冊、魚類の雑学本は直接釣りに役立つ情報はなかったものの、スズキという生物について興味深い知識を得ることができた。食性は貪欲で完全な肉食―――イソメやゴカイなどの環形動物、アサリなどの貝類、エビ、カニ、シャコなどの甲殻類、イカ、タコなどの頭足(/とうそく)類、魚類全般―――およそ目に付いた生物は、口に入るものならば何でも丸呑みにする。70センチほどもあるスズキの胃から30センチ近いボラが見つかったとの記録もあり、場合によっては自分の体長と比較して半分ほどの生物までが捕食対象となるらしい。

 行動範囲も広い。外洋の深みで産卵と越冬をしたスズキは春の訪れとともに沿岸に回遊。一部は海から川を遡る稚アユの群れを追って河川へ入り、堰などの障害物がなければ最大で200キロほど遡上するらしい。前日、祐希が試し釣りをした利根川の通称「走馬落し」は、地図で調べると、河口から100キロ弱だった。あの青年がスズキを釣り上げたとしても不思議ではなく、伯父が心配していた河口堰の魚道も一応は機能していたということになる。

 スズキの遡上を調べる過程で分かったことがもうひとつある。魚が川と海を行き来するのは、人間が―――少なくとも祐希が考えるより大変なことらしいのだ。魚の細胞を満たす体液の塩分濃度は淡水と海水の中間らしい。細胞膜は、水分を通すが塩分は通さない半透膜(/はんとうまく)であるため、海水では脱水状態の、淡水では水ぶくれの危険にさらされている。そこで魚類は腎臓の腎小体(/じんしょうたい)とエラの塩類細胞(/えんるいさいぼう)によって浸透圧(/しんとうあつ)を調整している。海水魚は大量の水を飲んで余分な塩分を尿と塩類細胞で排出し、淡水魚はほとんど水を飲まずに低塩分の尿を排泄して塩類細胞から必要な塩分を吸収する。多くの魚類はどちらか一方の機能しか持たないが、スズキのように川と海を行き来する魚は両方の機能を持ち、季節によって切り替わるらしい。

 高学年とはいえ小学生では「浸透圧」も「半透膜」も習っていなかったが、場所が図書館だけに辞書や参考資料は自分の体重より充実していた。魚を釣るうえでは直接関係ない生物学的な知識にすぎないが、少しでも魚に近付けた気がして心が躍った。


試し読みできます
(2)
 図書館の帰り道、釣具店『マスヤマ』に寄った。
 店頭に自転車を停め、片開きの自動ドアをくぐる。すぐ左手がショーケースを兼ねたL字カウンターとなっており、内側で二人の店員が作業していた。一人は五十代の男性で、老眼鏡ごしにリールの分解掃除に余念がない。おそらくは店主だろう。もう一人は二十代半ばの女性で宅配便の伝票に記入している。両者とも小柄で(/)せており、釣り餌メーカーのロゴが入ったエプロンを身に着けていた。親子かもしれない。二人は顔を上げると「いらっしゃい」と微笑んだ。店の広さは教室ほどか。ドアを入って左側、店舗の六割ほどが餌釣りのコーナーらしく、様々な釣竿や魚籠(/びく)、餌の袋やウキ、仕掛け、ハリ、オモリなどの小物類が棚ごとに並んでいた。奥には簡単な応接スペースがあり、常連らしい老人がくつろいでいる。
 対してドアの右側、残り四割ほどがルアー用品のコーナーになっている。ロッドスタンドには光り輝くシーバスロッドが何本も陳列されているが、値札を見れば安い品でも2万円台。とてもじゃないが、祐希の財布でどうにかできる値段ではない。溜息をついて目を背けると、壁際にスライド式の棚が設置され、パッケージに収まった色とりどりのルアーが隙間なくディスプレイされいた。
「探してるものがあったら、何でも聞いてください」
 壁一面を覆うルアーの数々に見惚れていると、背後から店主に声をかけられた。いましがた図書館のルアー解説書で読んだ「ルアーは餌釣りよりも大物が釣れる」との記述が、祐希の脳裏をよぎる。
「あの・・・・・・スズキ、いやシーバス用のルアーって、ありますか?」
 店主は「当然」とばかりに頷き、カウンターを出るとルアーコーナーに歩み寄る。
「釣り場はどのあたりかな?」
「利根川の、走馬落しです」
 答えながらも、「まともな釣り具店はまず場所を聴く」という青年の言葉を思い出し、なるほどと感心した。
「利根川のリバー・シーバスなら、このあたりのルアーが適している」店主が棚の隅、幅1メートルほどの範囲を指でなぞる。
 勧められたルアーはいずれも12センチ前後の「プラグ」と呼ばれるルアーだった。
 ルアーは大きく分類すると、金属板を加工したスプーン、回転する羽を持つスピナー、軟質プラスチックのワーム、金属ボディーのジグ、そして木やプラスチックで小魚や虫などの小動物を模したプラグなどの系統がある。釣り好きのクラスメイトである久や良司からの受け売りだ。
 棚に並んだ数々のルアーは、魚よりはむしろ人間を誘惑するように作られたようで、しばし商品の並ぶ棚に目が釘付けとなった。
「シーバスロッドは持ってるんだろうね?」
 だしぬけに店主から声をかけられ、祐希は反射的に「ハイ」と返答してしまった。「シーバスロッド」がシーバス用のルアー竿だと気付くのに少し手間取った。図書館で目を通した解説書によると、ルアーフィッシィングでは釣り竿を「ロッド」と呼ぶ。同様に釣糸は「ライン」、釣り針は「フック」、オモリがが「シンカー」など、横文字の専門用語を多用する。なかでも「釣り人」を意味する「アングラー」という表現が祐希のお気に入りだ。
「ならいいが・・・・・・」祐希の返答に、店主は納得したように頷く。「いやね、シーバス用のルアーはブラックバス用よりサイズも大きく重いものも多い。同じルアーフィッシィングだからとブラックバス用のロッドを流用するお客もいるけど、長さやパワーが足りないため、思うように投げられないことが多いんだ」
 さっきは考えもなしに返事をしてしまったが、ある意味「シーバスロッドを持っている」と言っても嘘ではない。祐希がなけなしの小遣いをはたいて買った3,6メートルの投げ竿は、半分騙されたようなものとはいえ、「スズキ用の釣竿」として釣具店の店員が選んだ品だ。川で出会った青年が使用していた“本物のシーバスロッド”よりも長く、頑丈なのは一目瞭然だった。
(つまり、シーバス用のルアーを使うには差し支えないってことだよね)苦しい言い訳を承知で、自分に言い聞かせた。
 ルアー購入の方向に、祐希の心は急激に傾いていた。洗練されたデザイン、繊細な造形、鮮やかな発色と輝きにも目を奪われたが、何より魅力的だったのは値段である。どのルアーも値段は2000円前後で、決して安価とは言えない。だがカウンター内側の壁に掛けられた「生餌一覧表」のホワイトボードによれば、スズキ釣りの餌となるゴカイや青イソメは1パック500円である。生餌であれば日持ちはしないだろう。一日でどれほどの量を使用するか定かではないが、仮に1パックと限定しても祐希の財布には十日分ほどの予算しかない。だがルアーを購入すれば後は一切餌代がかからない。
 さんざん迷ったあげく―――迷いさえ至福のひと時だったが―――祐希は11センチ・15グラムのミノープラグを選んだ。小魚を模した造形で下顎(/したあご)にあたる部分から突き出た「リップ」と呼ばれる潜行板(/せんこうばん)に水を受け、泳いだり潜ったりする。水に浮く「フローティング」と沈む「シンキング」の一種類があったが、なんとなくシンキングを選んだ。色は目に鮮やかな、ボディーが光り輝くホログラムで背が蛍光の黄色、腹がオレンジ―――パッケージには「ホロチャートバッグレッドベリー」という呪文のようなカラー名が記してあった。
 レジに持っていくと、なぜか店主の顔が一瞬こわばった。的外れなルアーを選んだかと動揺する祐希に、店主は「きみは、中学生?」と問いかける。小学6年生であると告げると、感心したように微笑んだ。
「いいセンスしてるね・・・・・・このカラーは昼でも夜でも、水が濁ろうが澄んでいようが通用する。それにシンキングなら沈め加減であらゆる水深を泳がせることが可能だ。サイズも大きすぎず小さすぎず、様々なシチュエーションに対応可能なルアーだよ」
 価格は1650円。料金を払い、包装されたルアーを握りしめて店を出る。頬が自然に緩んでいた。見た目優先の勘まかせで選んだ商品だったが、センスを(/)められれば悪い気はしない。結果オーライだ。何より嬉しいのは、購入したルアーが「応用範囲が広い」とのお墨付きが得られたのは心強い。
 このルアーで、夏いっぱい勝負しなければならないのだから。

 伯父の家へ戻り、自家製トマトソースを使ったナポリタンとコンソメスープの昼食をとった。
 食事中も買ったばかりのルアーが気になり、早く試したくて午後一番で川へ行こうと目論(/もくろ)んでいたが、その気配が伝わったらしい。絹代に「熱中症になるといけないから、外出は夕方の涼しい時間帯にしなさい」と釘を刺されてしまった。仕方なく祐希は勉強部屋として与えられた奥座敷で宿題の漢字ドリルを広げる。
 図書館で読んだルアーフィッシィングの解説書によれば、シーバスはどちらかと言えば夜行性に近く、釣りに適する時間帯は日の出と日没前後―――俗に言う“朝マズメ”と“夕マヅメ”―――そして夜間だ。
「だから、日中に釣りができないのはむしろ効率的なのだ」
 無理矢理自分に言い聞かせて漢字の書き取りを始めるが、ドリルの横に未練がましく買ったばかりのルアーを置いた状態で集中力が続くわけもなく、四字熟語をいくつか記しただけで鉛筆を投げ出し、畳に寝そべる。鴨居に飾られた額縁が、逆さまに怠惰(/たいだ)な祐希を見下ろしていた。そこは生前の祖父が寝起きしていた部屋で、祐希は心の中で「手形の間」と呼んでいた。おそらくは道太郎本人が手のひらに墨を塗り、色紙に写し取ったと思われる拓本が額縁に飾られている。見るたびに祐希は「生まれた赤ちゃんや力士でもあるまいに」と違和感を覚える。手形に刻まれた生命線は太く深く、150歳まで生きそうな勢いだ。80に手が届く前に世を去ったのは早すぎる。
 寝そべったままで祐希は釣り雑誌を広げた。釣具店の帰り道、思いついて立ち寄った商店街の書店でルアーフィッシィングの専門誌を購入したのだ。都市部に展開するフランチャイズの大型書店とは規模も品揃えも比べ物にならない「小さな町の本屋さん」だったが、それでも「釣り・アウトドア」のコーナーは予想外に充実しており、沖釣り、ヘラブナ釣り、防波堤釣りの専門誌に混ざってルアーフィッシィングの専門誌も四種類あった。三誌はバスフィッシィングの専門誌だったが、あとひとつはソルトウォーター・ルアーフィッシィング―――要するに海のルアー釣り専門誌だった。清流域から沖合までと行動半径の広いスズキは「ソルトウォーター」の対象魚として扱われるようだ。完全な淡水である河川の中流域を舞台とする「リバーシーバス」もそちらに含まれるからややこしい。
 リバーシーバスの特集は数ページだったが、他の記事も無意味ではなかった。港湾や砂浜、磯のシーバスフィッシィングも、舞台と道具立てが異なるだけで、対象魚は同じだ。共通点はさほど多くないが、それでも情報に飢えている祐希にはありがたい。記事の間には様々なメーカーの広告もあって、ロッドやリール、ルアーの鮮やかな写真は活字を追う眼を(/なぐさ)めた。買ったルアーのパッケージ裏に記された説明文を読んだり、そのルアーを紹介した雑誌の記事をみつけて興奮してみたり・・・・・・夢中でそんな事をしているうちに午後4時を回り、涼しげな風が吹き始めた。
「よし、出撃だ」
 絹江が出してくれたオレンジジュースを飲み干して、祐希はクロスバイクにまたがり伯父の家を飛び出す。土手上の道を疾走(/しっそう)し、今日も利根川の走馬落しへと向かう。

試し読みできます
(3)
 ルアーフィッシィングは準備が簡単だ。仕掛けを作る必要がない。糸の先にルアーを結ぶだけ。ウキもオモリもいらないし、ハリはルアーについている。もちろんエサも必要ない。
 走馬落しに着いて昨日と同じポイントに釣り座を占め、自分でも惚れ惚れするような手際のよさで準備を整え、買ったばかりのルアーをキャスト。
 これが、全然飛ばない。
 目の前に叩きつけられるか、あるいは頭上高くフライとなって、やはり目の前に落ちるかだ。
「どうして? “投げ竿”のはずなのに・・・・・・」
 祐希はグリップのすぐ上にプリントされた「ロングキャストDX360」のシャープな字体を何度も確認した。それでも飛距離は一向(/いっこう)に伸びない。ルアーが水面に叩きつけられる音と飛沫は盛大だが、飛距離は直接手で放ったほうがマシなほどだ。
「何をしている?」
 今度こそはと意気込んで竿を振りかぶる祐希の背後から声が飛ぶ。振り向けば、前日ここで出会った青年が(/あき)れ顔でたたずんでいた。
「俺は投げ込み釣り用の仕掛けを用意しろと忠告したはずだ。なぜルアーを買った?」
 青年は前日同様に無表情だが、結果的にアドバイスを無視した祐希は叱られたような気がして、背後に向けた目を再び川へ戻した。それでも青年の声は途切れず届く。
「投げ竿は竿を担ぎ、比重の高いオモリの遠心力を利用して飛ばす。それに対してルアーロッドは、バックスイングによる竿の反発力を利用して比重の軽いルアーを飛ばす―――キャスティングの力学(/りきがく)が根本的に違うんだ。投げ竿でルアーを投げて、飛ぶはずがない」
 言われてみれば、祐希は肩で竿を担ぐ姿勢で投げていた。今度はバックスイングをして竿をしならせ、反発力を利用して投げてみる。風を切る音が響き、低い弾道で飛んだルアーが水面を叩いて派手な水音と飛沫をあげる。流芯よりは手前だが、いままでで一番遠くへ飛んだ。思わず笑みを漏らした祐希が、リールを巻くことも忘れて再び青年を振り返る。
「大丈夫ですよ。確かに専用の道具に比べれば投げにくいかもしれないけど、大切なのは慣れでしょう。練習を重ねれば飛距離だってもっと・・・・・・」
「何が『練習を重ねれば』だ・・・・・・餌釣り用の投げ竿はルアーロッドと違い、頻繁(/ひんぱん)なキャストを前提として作られていない。だから重く、空気抵抗も大きい。そんな竿で繰り返しルアーを投げれば筋肉に過剰な負担がかかる。五回も投げれば腕が動かなくなる」
 図星だった。確かに投げ竿は重く太く、バックスイングの反動は肘の関節をきしませた。たった一度のキャストでさえ、上腕部の筋肉が強張(/こわば)る感覚がある。見透かされた動揺で、祐希は(/)れたように青年へ向き直った。
「竿が重くても投げづらくても腕が動かなくても、みんな僕ひとりの問題です。誰かに迷惑をかけてるワケじゃないし、放っておいてください」
「迷惑をかけてないだと? 無自覚ってのは救いようがないな」
 鼻で笑うと青年は、祐希の上流側へ並んで竿を振る。無駄な動きが一切ない、シャープなキャスティング。ルアーは低く放物線を描いて飛ぶ。たったいま祐希が投げた、ゆうに三倍の飛距離が出た。にもかかわらず、ルアーは水面へ吸い込まれるように落ちる。着水音もなければ飛沫もたたない。
「この程度の着水音でも、キャストを繰り返すルアーフィッシィングでは、一投ごとに魚へプレッシャー、つまり警戒心を与える。さっきのお前みたいに派手な音と飛沫を蹴立(/けた)ててルアーを水面に叩きつければ、その1投でポイントが潰れかねない。道具の用途を間違えれば、釣りをすること自体が迷惑行為になる場合もあるってことだ」
 祐希には言い返す言葉がなかった。水音も飛沫もほとんどたたない魔法のようなルアーの着水に、そんな理由があったとは想像もできなかった。ふと、竿を持つ手に微かな負荷を感じた。釣糸が流され、張っている。ルアーを投げっぱなしにしていたことを思い出して、力なくリールを巻き、回収にかかる。その背後で、青年の話は続く。
「少々高価でも、ひとつルアーを買ってしまえば以降の餌代が節約できる―――そう考えたんだろうが、甘いな。そのうち思い知ることになるだろうが・・・・・・」
 不意に、祐希の手が止まった。重量感。そして竿のしなり。
「掛かった、釣れた!」
 叫び、竿を立てる。張りつめた糸が鳴り、竿はグリップのすぐ上から大きくたわんだ。重い。リールが巻けない。
「早速、思い知る時が来たか」祐希の興奮とは裏腹に、青年は冷やかに言い放つ。「針に掛かったのは魚じゃない。地球だ。根掛(/ねが)かりだよ」
「・・・・・・ネガカリ?」
「川底は平らじゃないってことだ。流れを調整する捨石(/すていし)や杭があるし、流木が沈んでいるかもしれない。魚は、そういった障害物に好んで定位する。流れを避けて休憩するため。あるいは餌を待ち伏せするため。シェルターの役割を果たすわけだ。だから釣りに根掛かりはつきものだ。ルアーフィッシィングも例外じゃない。下手をすれば大切なルアーを3個、4個と失うことも珍しくはない」
「・・・・・・そんなに、たくさん?」
 今日買ったルアーが1650円、それが3個と換算すれば、およそ5000円の損害だ。眩暈(/めまい)を感じながら祐希は根掛かりを外そうと竿をあおる。ルアーを1個失うだけでも大ダメージだ。
「無駄な抵抗だ。諦めてラインを切ったほうがいい。ルアーフィッシィングが決して餌代の節約にならないってことが、これでよく分ったろう。悪いことは言わない。昨日教えたエサ釣りの投げ込み仕掛けに変更しろ。中型の数釣りが楽しめるはずだ。だが、その竿とリールでルアーを投げ続ける限り、シーバスを釣るのは難しい」
「でも、エサよりルアーのほうが大物が釣れるって・・・・・・」
「確かに、その傾向(/けいこう)はあるが・・・・・・おまえ、大物狙いだったのか?」
「狙いは―――1メートル20センチ」うなずいて、祐希は言った。
 笑われるのは覚悟していたが、青年は笑わなかった。静かに祐希を見据える無表情に、わずかな感情を見出すとすれば、それは対抗だった。「お前になど渡さない」と言わんばかりの敵愾心(/てきがいしん)。思いがけない反応に、呆気にとられ、それでいてどこか嬉しく、祐希はこれまでのいきさつを問わず語りに、呟くように、青年へ伝えた―――幼いころから祖父に聞かされた「目の前の川で1メートル20センチを超えるスズキを釣った」という自慢話。それを教室で喋ったためにクラス中から「嘘つき」呼ばわりされたこと。自分の、そして祖父の言葉が嘘ではないと証明するには、この手で超大物のスズキを釣り上げるしかないという決意。そのために夏休みを利用し、伯父の家をひとり訪れたこと。そしてその家は、いまは亡き祖父が川魚漁師として暮らした家であること―――行動のきっかけとなった、密かに思いを寄せる女子、真衣の存在については照れくさくて黙っていた。
「お前の祖父って、道太郎(/じい)さん・・・・・・あの桐丘道太郎か?」
「お祖父ちゃんを知ってるの?」
「伝説の川魚漁師だよ。このあたりの釣り師や川魚漁師で『道太郎』の名を知らなきゃモグリさ」言って、青年の表情が微かに曇った。「確か、去年の年明けだったな。惜しい人を亡くしたよ」
 祐希に対してか、祖父に対してか、川に対してか、背筋を正して青年が黙礼する。的外れな釣り方を非難していた冷やかさはすでになく、穏やかな声で続けた。
「話はよく分かった。だが、俺がしてやれるアドバイスはたったひとつ―――諦めろ―――それだけだ」
「やっぱり、そんなに大きなスズキは、シーバスは、もういなくなってしまったんですか? 河口堰とか、環境悪化の影響で・・・・・・」
「いることはいる。昔よりは減ったとはいえ、1メートル以上の個体も少なからず遡上しているはずだ。ただ、支流も含めた利根川水系は広い。遡上してくる途中、1匹また1匹と散っていく。河口から何十キロも離れたこのあたりまでたどり着く大型はごくわずかだ。釣り上げられるのは、さらにごくわずか。利根川全体でも、メーター・オーバーを獲ったって報告は年に一度あるかないかだ」
 言って青年は憐みの目を向けたが、祐希に悲観の色はない。むしろ笑っている。
「じゃあ、可能性はある。ゼロじゃない」
「物分かりの悪いヤツだな。確率でいえば宝くじの一等をあてるよりもっと低い。専門で狙っても一生で1匹獲れれば幸運だろう。小学生が夏休みの宿題代わりに釣れる獲物じゃないんだよ」
「・・・・・・でも、ゼロじゃない」
 祐希にとって、1メートルを超えるシーバスは絶滅危惧種、もしくはUMAかエイリアンに近い存在だった。だが実際にはまとまった数が川を遡上し、たった1匹とはいえ毎年のように釣りあげられていたのだ。「諦めろ」と迫る青年の説得は、祐希に希望を与えただけだ。力を得て、再び竿をあおる。どうにか根掛かりしたルアーを回収し、釣りを続行しなければならない。
「まだラインを切ってなかったのか。物分かりだけじゃなく、諦めも悪いようだな」
 青年は溜息をつき、「貸してみろ」と祐希の手から投げ竿をひったくり、リールをフリーにして糸を繰り出した。流された糸が下流側に大きくたるんだ頃を見計らい、1度だけ鋭く、大きく竿をあおる。糸が水を切って「ピシッ」と小気味いい音がするはずだったが、耳には届かなかった。河川敷にクラクションが響き、水辺の音をかき消したのだ。振り向けば堤防の上では黒塗りの車が、青年のものと思しき赤い軽四駆へ接触寸前で停車している。車種までは分からないが磨き抜かれた高級セダン。運転席からは短めの髪を逆立てたサングラスの若い男が降り立ち、腕を組んで河川敷を睥睨(/へいげい)する。
「面倒なヤツが現れた」
 ガラの悪い男に目をくれた青年が軽い溜息をもらした。投げやりに祐希へ竿を返すと、背を向けて男の待つ堤防へ向かう。ルアーを数回投げただけで、釣りはあっさり諦めたらしい。
「ヤクザみたいな人だ・・・・・・何か、弱みでも握られてるのかな」
 まだ出会って一日だが、冷徹な理論家として認識しただけに、クラクションひとつで条件反射のようにに(/きびす)を返した青年の後ろ姿は、どこか別人に見えた。見送りながらも祐希の手は無意識にリールのハンドルを巻く。
「あれ? 巻ける」
 ラインは素直に回収され、諦めかけたルアーは無事に戻ってきた。祐希があれほど力任せに糸を張り、何度も竿をあおって外れなかった根掛かりを、青年は竿を軽く一振りしただけで外していたのだ。手品でも見せられた気がして祐希は放心し、青年を振り返る。彼は土手の上、サングラスの男と並んで何か話し合っているらしい。表情までは見えない。すでに日は暮れかけていた。


試し読みできます
(4)
 翌日も祐希は日が傾くと利根川へ向かった。
 青年の忠告を信じないわけではなかった。確かに、12歳の子供が夏休み期間内に巨大魚を仕留めるなど無理な話なのだろう。だが彼はこうも言った―――数こそ少ないが、1メートルを超えるスズキは確実にいると。いるのなら、たとえ釣れなくとも行かずにはいられない。耳に冷やかな青年の忠告も、裏には好意が隠れていると知っている。だから昨夜も寝床で真剣に検討した。だが枕元に置いたルアーを眺めているてと鳩尾のあたりが騒いで落ち着かない。たとえ飛ばなくとも、ルアーを投げずにはいられない。取り憑かれでもしたかのように。
 忠告を無視する罪悪感を振り切って、土手上の道でクロスバイクを飛ばす。ペダルを漕ぐたびにデイパックからはみ出した重く使いづらい投げ竿がカタカタ鳴る。それは多分、例によって行動の歯車が空回りする音だ。薄々気づいてはいるがどうにもならない。空回りを始めた歯車は、そう簡単に止まらない。

 走馬落しに到着すると、見覚えのある軽の四駆が停まっていた。古ぼけた赤い車体の後ろ姿。幌を外してオープンにした運転席に人影。数歩分の距離をとって祐希はクロスバイクを停めた。運転席から降りてきたのは、やはりあの青年だった。
「今日はちゃんとエサ釣りの用意をしてきたんだろうな?」
 青年の問いに、祐希が無言でかぶりを振る。
「大きなシーバスの釣れる確率が高いなら、エサ釣りよりもルアー釣りがしたい」
「無理だと言ったろう、メーターオーバーは諦めろ」
「諦めない。まだ、始めたばかりだ」
 青年の冷やかな目を正面から見返して祐希は言った。道々考えた末、文句を言われたら別の場所を探せばいいと割り切っていた。釣れる確率は極端に低いが、この広大な水域に目指す獲物は確実にいると分かった。それだけでも(/もう)けものだ。
「わざわざここで待ってたんですか・・・・・・僕が釣りすると、そんなに迷惑?」
「ああ、迷惑だね。昨日も言ったが、的外れなタックルで雑なキャストをされたら魚を警戒させるだけだ」
 祐希は他のポイントを探そうとクロスバイクを方向転換する。その背中を、さらに青年の声が追う。
「だから―――このタックルを使え」
 意味を(/はか)りきれずに振り返ると、青年は車のバックスペースから細長い透明のプラスチックケースを取り出し、突き付けた。ロッドケースだ。2本継ぎのルアーロッドが透けて見える。
「それって、シーバス用のロッド?」
「俺のスペアタックルだ。貸すよ。こっちに滞在する間は、好きに使っていい」
「どうして、僕に?」
「道太郎爺さんの孫なら、放っておくわけにもいくまい。ミンゲーの甥でもあるワケだし・・・・・・」
「ミンゲー? 僕が甥ってことは伯父さんのこと? 知り合いなの?」
「田舎は狭い社会だ。いろいろとシガラミも多い。説明すると長くなる。そんなことより、このロッド、使うのか使わないのか」
 自分の親切に照れたか、青年は面倒くさそうに言い放って詳しい事情を省いた。祐希に異存はない。予算の都合で諦めたシーバスロッドをタダで使える。専用の道具なら快適な釣りができるし、青年に文句を言われることもない。いいことずくめだ。
「ありがとうございます。遠慮なく、お借りします」
 青年が貸してくれたのはロッドだけではなかった。ロッドとバランスのとれた小型軽量のリール。魚の下顎を掴んで取り込むためのフィッシュグリップ。いくつものルアーが詰まったプラスチックケース、ハリを外すためのプライヤー、ルアーの接続するスナップなど、様々な小物が収められたヒップバッグ。そっけない態度とは裏腹に、細やかな心遣いだ。
 早速、借りたタックルを試すことにした。
 二人で河原へ下りる。ロッドにリールをセットする祐希を横目に、青年は道具の説明をした。
「ロッドの長さは8フィート。川で使うにはやや短めだが、お前の体格にはそれぐらいがちょうどいい」
 リールに巻かれているのはPEラインのようだ。釣糸は素材によってナイロン、フロロカーボン、PEの三種類に分類できる。それぞれ特徴があり、ナイロンはしなやかで伸縮性があるため扱いやすく、フロロカーボンは透明度が高く比重があり摩擦(/まさつ)に強い。ポリエチレン樹脂(/じゅし)素材のPEラインはナイロンやフロロカーボンに比べ、およそ三倍の強度を誇る。細いラインを使用できるため空気抵抗が減ってルアーの飛距離が伸びる。また、ほとんど伸びないので小さなバイト―――ルアーに対する魚のアタック―――も感じることが可能だ。反面、張りがなくルアーにからみやすい、摩擦に弱いなどの理由から、先端に1メートルほど、3倍ほどの太さのフロロカーボンラインをリーダーとして(/つな)ぐ。
 リーダーの先端にルアーを結び、投げてみる。
「うわっ、軽い!」
 ロッドを振った祐希が感動の声をあげる。いままで使っていた投げ竿が野球のバットだとすれば、シーバスロッドはバトミントンのラケットのように鋭いスイングが可能だ。祐希の腕力でも余裕を残して振り抜ける。ルアーの重みやロッドの反発も実感できるため、指で押さえたラインを放すタイミングも微調整できる。投げ竿に大型リール、太いラインでルアーを投げる行為がいかに的外れだったかが一瞬で理解できた。青年が専門の道具にこだわったのも当然だ。
最初の二、三投こそフライ気味になったり目の前に叩きつけたりのミスをしたが、すぐにタイミングを把握し、思い通りのキャスティングができるようになった。青年ほどではないにしても飛距離は流芯まで届き、着水音も投げ竿を使ったキャスティングに比べて明らかに静かだ。感度もいい。ルアーは青年から託されたボックスから小魚を模した水に浮くフローティングミノーをチョイスしたが、水面下を小刻みに震えて泳ぐ振動がラインを介して手元までに伝わってくる。
次のキャストに入るため、投げたルアーを鼻歌まじりに回収する祐希の動きが不意に止まった。リールが巻けない。ロッドが曲がる。水中でルアーが踏ん張って動こうとしない。
「え、どうして?」
 一瞬、嫌な予感がよぎる―――また根掛かりか―――いや、そんなはずはない。投げたのは水に浮くフローティングミノー。よほど浅い場所でない限り川底には届かない。戸惑っていると、竿先が徐々に絞り込まれる。
「ヒット!」隣で青年が声をあげる。「根掛かりじゃない。魚だ」
「え? だって、キャスティングの練習をしていただけなのに・・・・・・」
「練習だろうが本番だろうが、水中でルアーが泳いでいるのは変わらない。魚が掛かってもても不思議じゃないさ」
 魚は流れに乗ったらしい。下流へと加速度的にスピードを増し、止まる気配を見せずに走る。大きくしなったロッドを、祐希は必死で保持する。リールが巻けない。むしろ(/うな)りをあげてラインが出ていく。リールにはラインブレイク―――糸切れを防止するため、あらかじめ設定した以上の負荷がかかると糸が滑り出る「ドラグ」という機能がある。ドラグの調整は適切なようで、切られる心配はない。
「これはデカいぞ。1メートル超えてるんじゃないかな」
 隣で呟く青年の声を耳にして、ロッドを支える祐希が狼狽(/ろうばい)する。狂喜乱舞と拍子抜け―――感情が両極に分離する。青年の声に緊迫感はないが、からかっているとも思えない。なにせ魚の走りは祐希にとって想像を遥かに超えている。釣糸の先端で原付バイクが走っているかのようだ。
 魚は一気に50メートルほど走ったろうか。ようやく抵抗が断続的になった。引き出されたラインを少しずつ回収する余裕も得たが、、リールを巻いては走られるの繰り返しで一進一退だ。
 いつしか両腕の筋肉が悲鳴を上げ、時折痙攣(/けいれん)する。流れる汗が目に入って視界が滲むが、ぬぐう余裕がない。だが疲れているのは祐希だけではなかった。魚も弱っているらしい。徐々にだが寄せられている。腹を見せて川面に浮いた魚体が見えてきた。傾きかけた夏の陽を反射して、大魚が銀色に輝く。
「・・・・・・で、でかい!」思わず祐希が呻く。
 青年の言葉は決して大袈裟ではなく、確かに1メートル以上ありそうだ。魚体を目にした途端、祐希は限界に近い両腕の疲労を忘れた。狙った獲物と一本の糸で繋がっている高揚によって、ロッドを支えリールを巻く力が(/よみがえ)る。銀色の巨体は着実に寄ってくる。時折大きく暴れて子供が溺れているかのような飛沫と水音をたてるが、ヒレにはすでに水を蹴って走るだけの力は残っておらず、いたずらに水面を叩くだけだ。近付くと、長さだけでなく太さが際立つ。胴回りは祐希より太いかもしれない。圧倒されて後ずされば、はからずもトドメの寄せとなり、魚はやや下流の護岸に打ち寄せられた。その下顎を、落ち着き払った青年がフィッシュグリップで掴み、振り返る。
「ランディング成功。お疲れさん」
「やった・・・・・・これが、1メートルの・・・・・・シーバス!」
 祐希が声を震わせて魚を覗きこむと、青年は待っていたように笑い出す。
「違うよ」
「エッ?」
「これはシーバスじゃない。レンギョだ」
「レ―――レンギョ?」
 釣れたのは狙っていない魚―――俗に言う「外道(/げどう)」だ。緊張から一挙に解き放たれた祐希は、全身の力が抜けて護岸に尻もちをつく。
 レンギョは標準和名を「ハクレン」というコイ科の魚だ。中国原産で1メートル以上に成長する。卵は川面を浮遊しながら孵化(/ふか)するが、海まで流されると死んでしまうため、かなり長い川でなければ生息できない。日本で自然繁殖が確認されているのは利根川、霞ヶ浦水系だけだ。1878年に初めて持ち込まれた外来魚で、太平洋戦争勃発(/ぼっぱつ)の翌年、1942年から食糧増産の目的で本格的に移入された。
「大昔、日本が戦争をした歴史は授業で習ったけど、その影響をこんな形で実感できるとは思わなかった・・・・・・」ちなみに祐希の想像で、大国であるアメリカに無謀な喧嘩を売った日本人は限りなく原始人に近い。
 移入したはいいが、レンギョは日本の食卓に普及することはなかった。四方を海に囲まれた日本はもともと水産資源に恵まれており、そのうえ肉質が日本人の味覚や調理方法に合わなかったのだ。漁師や釣り人から相手にされず、幸か不幸か天敵を失って、いまでは釣りの邪魔になるほど繁殖している―――そんな事情を説明する青年は、どこか楽しげに見える。
「レンギョは主にプランクトン食性で、水面を流れるエサを探して表層に群れていることが多い。油断しているとルアーに引っ掛かってしまうことがあるんだ」
 なるほど、ルアーのフックは背びれの付け根に刺さっていた。口以外の部位に針掛かりする「スレ」という状態だ。青年は無造作にプライヤーを手にするとフックを外し、魚体を流れへと戻した。けだるそうにヒレを揺らし、巨大なレンギョが深みへ帰っていく。
「あーっ! どうして逃がしちゃうんです?」祐希はとがめるような声をあげた。「確かに狙ってたシーバスじゃないけど、あんなに大きな魚を釣ったんだから、写真ぐらい撮っておきたかったのに・・・・・・」
「そう嘆くな。またすぐに釣れるさ。シーバスは首を振ったり水面をジャンプしたり激しく暴れるが、レンギョはひたすら走るだけだ。慣れればヒットの瞬間に区別できる」
 青年の言葉に嘘はなかった。次のキャストで、またレンギョが掛かった。確かに走るだけなのですぐわかる。正体が知れた以上1匹目の興奮はなく、ありがたくない大魚との力比べは無駄に体力を消耗した。
「ゲームでいえば、ドレイン攻撃をかけてくるデカいだけのウザい雑魚キャラか・・・・・・」
 ぼやきながらも、苦労して寄せた魚からフックを外すと、祐希は念願の写真撮影も忘れてリリースし、その日の釣りを断念する。すでに両腕は筋肉疲労で震えが走り、満足なキャスティングができる状態ではなかった。
「まあ無理もない。大人でもレンギョを立て続けに釣ると疲労で心が折れ、帰りたくなる」そう青年は慰めてくれたが、やはりどこか楽しげだ。
 他人が外道を釣って困っている様子は、釣り人にとって心温まる光景らしい。

読者登録

大城竜流さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について