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(4)

 勉強もスポーツもほどほど。友達は多からず少なからず。成績も体格も性格も中程度。ごく一般的な小学6年生男子。それが学校での祐希の立ち位置である。何事にも努力は怠らないし姿勢だって前向きだ。なのに全てにおいて平均に甘んじ、伸び悩んでいる。多くの場合、努力の方向性が微妙にずれ、的が外れて行動の歯車が空回りしてしまうせいだ。

(また、的外れなことをしてるんじゃないだろうか?)

 流れの狭間でもまれ、頼りなく揺れるウキが自分自身と重なって、祐希は不安に駆られる。

 風がやむと河川敷は、陽射しと水面の照り返しと湿気の三重苦で、座っているだけで汗が止まらない。2リットルのペットボトルは急速に中身が減っていく。絹江に渡されたときは「大袈裟(/おおげさ)な」と思ったが、彼女の判断は正しかった。

 太陽の反射で瞬く水面で不規則に揺れるウキを見つめていると、催眠術でもかけられたように意識が朦朧(/もうろう)とする。

 不意に笑い声が響き、祐希は反射的に周囲を見渡す。高校生だろうか、対岸に若い二人組の釣り人。キャップにサングラス、片手で扱えるリール付きの短い竿、対岸まで届く陽気な気配、典型的なバス釣りだ。

(考えてみれば、すべての始まりはバス釣りだった・・・・・・)

 祐希のクラスにブラックバスのルアー釣りを趣味とする二人の友人がいる。関内久(/せきうちひさし)田辺良司(/たなべりょうじ)だ。祐希も彼らに誘われて道具を借り、一緒にバス釣りをしたことがある。言われるままに「ワーム」と呼ばれる塩化ビニール製のルアーを何も考えず投げては巻いていると、20センチほどのブラックバスが釣れた。久も良司も「ビギナーズラックだ」とからかいながらも自分のことのようにはしゃいだ。彼らによれば、「一匹釣ったらルアーにはまる」とのことだったが、そんなことはなかった。父親にアウトドアの趣味がない影響だと祐希は思う。良司は小学校低学年から家族でマスの管理釣り場へ通っていたし、久の父は昔からルアーフィッシィングにのめり込んでいたと聞く。

 その久が、最近父親に連れられて芦ノ湖(/あしのこ)へ遠征し、見事52センチのブラックバスを仕留めた。小学生にとっては快挙と言える釣果だ。デジタルカメラで撮影した画像をプリントアウトして学校へ持ち込み、教室で披露した彼は一躍ヒーローになった。山並みを背景に湖水へ浮かぶボートの上、魚というよりは子犬を抱くように、右手で巨大なブラックバスの下顎を掴み、左手で腹を支えた写真に、祐希をはじめクラスメイトが見惚れた。久の笑顔も、(/つや)やかなブロンズに輝く魚体も、夏を待つ山上湖の風景も、鮮やかで躍動感に溢れていた。そこまではよかったが、クラスメイトの興奮が冷めるにつれ、話が微妙に(/)れていった。

「あたし近所の魚屋さんで、同じぐらいの大きさのヒラメ見たことあるよ。やっぱり幅ならヒラメよね」

「だったら長さはタチウオだね。この前、アメ横に売ってた。ホント、日本刀みてーの」

「スーパーでやってた解体ショーのマグロ、でかかったぜ! 2メートル近くあったな」

「私の叔父さん、ワニガメ飼ってる。甲羅が教室の机ぐらいあるんだよ」

 ルアーフィッシィングの大物自慢のはずが、いつしか「私の見た大きな魚」へ会話がズレていた。しかも亀にまで話が飛んでいる。久にしてみれば、さぞ不本意な展開であろう。心中を察すべきだったと、いまも後悔しきりだ。久本人も気づかぬままに積もった苛立ちが崩れ落ちる直前、まさに最悪のタイミングで祐希は口を滑らせたのだ。

「僕のお爺ちゃんが昔、家の前を流れる川で1メートル20センチのスズキを釣り上げたって」

「自慢すんなよ! お前が釣ったワケじゃねーだろ?」

 腹に据えかねたらしく久が声を荒げ、教室が静まり返った。彼はクラスで一番背が高く、運動神経にも秀でている。成績優秀者やイケメンと並んで一目置かれる存在なのだ。

「その話、おかしくないか? スズキって海の魚だろ」

 冷静な問いを発したのは久の釣り仲間、良司だった。彼は、「情熱的で体力勝負」の久に対して頭脳明晰で冷静な理論家だ。良司にとっては純粋な知的好奇心からの質問だったが、クラスメイトたちは彼の尻馬に乗って過剰に反応した。そして「証拠を見せろ」の大合唱となり、祐希は一方的に「嘘つき」呼ばわりされることとなる。急な展開に、一時(/いっとき)は感情的になった久さえ引いてた。久も良司も、祐希が孤立するのを喜んではいなかった。何度かともに釣りをした程度には仲のいい友人なのだ。だが大勢で一人を糾弾(/きゅうだん)する幼稚な快楽は本能的なもので、久や良司がフォローしたところで止まるものではない。孤立した以上、周囲が糾弾に飽きるまで沈黙する以外に成す術はない。だが、孤立はしなかった。たった一人、陰ながらではあるが、祐希を信じたクラスメイトがいた。しかも、以前から密かに思いを寄せていた少女。

「真衣ちゃん・・・・・・」

 思わず呟いた声に風を切る音が重なって、祐希は我に返った。鋭く空気を裂く音は思いのほか大きく、河川敷に腰を下ろした祐希のすぐそばで聞こえた気がする。あたりを見回すと、数メートル上流に人影があった。二十代半ばと思しき青年が、風を切る音を響かせて釣り竿を振っている。

(いつの間に?)

 護岸が敷かれているのは川沿いだけだ。水辺へ下りる階段状の斜面と、幅2メートルほどの遊歩道。それ以外の河川敷は子犬さえ通れないほどに芦が密生している。青年が上流で釣りをしているということは、祐希のすぐ背後を通ったはずである。暑さに朦朧とし、今回の無謀な挑戦の発端を回想していたとはいえ、足音がすれば気付くはずだ。

(しなかったのか? 足音・・・・・・)

 振り向くと堤防の上で、いかにも古そうな赤い軽四駆が停まっていた。ホロを外してオープンにしている。来た時にはなかった車だ。青年が乗ってきたのかもしれない。

 彼の釣りは見たところルアーフィッシィングのようだが、バス釣りにしては竿が長い。一般的なバスロッドは長くとも2メートルだが、青年の操る竿は3メートル近い。ルアーは小魚を模した「ミノープラグ」と呼ばれるタイプだが、サイズはやはりバス用に比べてやや大きい。

 いつしか夏の陽は傾き、川を渡る風が復活して火照った祐希の頬を撫で、集中力を呼び覚ます。逆光気味の青年は、ルアーを投げては巻く動作を繰り返していた。なぜか奇妙な違和感を覚えて、祐希は目が離せない。やがて違和感の正体に気付いた。

(着水音がしない)

 青年のルアーは目測で50メートルを越え、気持よく飛んでいく。キャスティングは鋭い。肉体的な“りきみ”は見て取れないのに竿は(/むち)のようにしなり、空気を裂く音が辺りに響く。背後の草原で(/さえず)るヨシキリの声にかき消されたのかとも思ったが、水飛沫(/しぶき)もあがらないので、やはりルアーの着水を意図的に消しているのだろう。神業を操るの青年は麻のシャツにジーンズというラフな格好で、頭には涼しげなストローのハンチングを乗せていた。他に持ち物は小さなショルダーポーチだけで、機動性を重視した釣りなのだと判断できる。ルアーを泳がせながら彼は時折、首を傾げたり、うなずいたりしている。水面は流れにきらめいて西日を照り返しており、水中を泳ぐルアーが目視できるとは思えない。なのに視線はルアーの動きを追っているようだ。まるで釣り糸を介し、川と会話しているようにも見えた。

 不意に、青年が鋭く竿をあおった。逆らうように竿先が断続的に絞り込まれる。張りつめた糸の鳴る音を耳にした次の瞬間、祐希の斜め前方で水面が割れた。

「でかっ・・・・・・」一瞬だったが、その光景は祐希の目に焼きついた。

 磨き抜かれたような銀鱗(/ぎんりん)を身にまとう巨大な魚が、飛沫をあげて水面に全身を躍らせ、宙を舞う。空洞のように開いた口に、ルアーの針が食い込んでいた。広げたエラから血のように赤い鰓弁(/さいべん)を覗かせ、魚体をS字にくねらせて、ちぎれんばかりに首を振る―――再び水に戻った魚は力任せに尾鰭(/おびれ)で水を蹴り、リールから釣糸を引きずり出して走る。にもかかわらず青年に(/あせ)りは見られない。むしろ涼しげな笑みすら浮かべている。魚は跳ね、もがきながら、めまぐるしく方向を変えて走る。青年は左右に竿を倒して走りをいなし、ときに竿先を水中に突き入れて暴れを制する。そのたびに、魚は確実に寄せられていた。魚が好き放題に暴れているようにしか見えないが、主導権は始終青年が握っていたのだ。次第に抵抗を弱め、銀色の大きな魚は腹を見せて足元に寄せられる。青年はベルトに下げた皮のシースからフィッシュグリップを抜いた。口が大きく歯の鋭い魚を取り込むためのツールである。ステンレスなどの金属製で、全長は30センチほど。グリップ部にレバーが設置され、人差し指で操作すると先端のアームが開閉する、マジックハンド状の器具だ。魚の下顎をフィッシュグリップで掴んで取り込むとプライヤーで針を外し、水から上げないまま惜しげもなくリリースした。魚影が流れを横切って深みへ消えていった。


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(5)

「あ! もったいない」

 思わず声をあげると、青年が初めて祐希を振り返った。物欲しげな発言をとがめられた気がして言い訳が口をつく。

「いえ、あんまり大きな魚だったんで・・・・・・写真を撮るとか、せめて大きさを測ったりしないのかって・・・・・・」

「大きくはないさ。シーバスとしちゃ中型ってとこだ」青年は独り言のように答える。「それでも60センチを超えてたから、一応『スズキ』と呼べるサイズかな」

「えっ、いまのがスズキ! ここにスズキがいるんですか?」

「ああ。だから狙ってるんだし、事実たったいま釣った。なぜ、そんな当たり前のことを聴く?」彼はそっけなく言い捨て、祐希が護岸に置きっぱなしにしたリール竿に目を向ける。「お前だってスズキを狙ってたんだろ」

「どうして分かるんですか?」

「道具と仕掛けを見ればスズキ狙いなのは一目瞭然だ。ただし、かなり的外れの仕掛けだがな」

「そんな・・・・・・釣具店で教えてもらった仕掛けなのに?」

「その釣具店、最初に予算を聴かなかったか?」

 祐希が言葉に詰まる。図星だった。手持ちの全財産を聴かれるままに申告すると、店員は手早く必要な品物を揃えてくれた。祐希の戸惑いに応え、青年は話を続ける。

「その仕掛けはな、波の穏やかな内湾の岸壁で、夜釣りをするためのものだ」

「夜釣り・・・・・・ああ、だから電気で光るウキが付いてるのか」

「やっぱり知らないで使ってたのか。まあ、一昔前の入門書には『スズキ釣りの仕掛け』として載っているから、けっして間違いではない。だが、ここのような流れの速い川には不向きだ」

「どうりで、すぐにウキが流されて釣りづらいと思った」

「シーバス―――つまりスズキの釣り場は大雑把(/おおざっぱ)に分類しても、河川、砂浜、岸壁、磯、船釣りと様々だ」溜息をつく祐希に苦笑して、青年は釣りを再開しながらも説明してくれた。「釣り場が違えば、釣り方も変わる。釣り方が変われば、道具や仕掛けも別物だ。だから初心者に対して、まともな釣り具店なら、まず客が釣りをする場所を尋ねる。最初から所持金を聴く店には要注意だ。運が悪かったな。お前は初心者で、子供で、フリの客だったため足元を見られたんだ」

 青年の話では、祐希が買った「特価品! 定価の二割引き」の竿とリールもメーカー品ではあるが、廉価(/れんか)版の型遅れのため量販店では定価の四割引きが普通らしい。デイパックに立てかけたリール付きの竿へ、祐希は恨めしげに眼を落とし、呟いた。

「困ったな・・・・・・このリールと竿で資金の大半を使っちゃったし・・・・・・川用の道具を新たに揃える余裕はない・・・・・・」

「安心しろ、竿とリールは川でもそのまま使えるよ。オモリなどの小物を買い足すだけでいい。ただし、人工餌よりは生き餌のほうが有利だ。イソメかゴカイも買っておけ。それで胴突き仕掛けの投げ込み釣りをすれば、今よりはスズキと出会える確率が飛躍的に上がる」

「あ、ケータイにメモします・・・・・・えーと、ドウヅキ仕掛けの、ナゲコミ釣り・・・・・・」

「メモする必要はない。商店街に『マスヤマ』という釣具店がある。信頼できる店だ。そこで利根川の『走馬落し』でスズキが釣りたいと言えば、必要な小物を揃えてくれる。エサと合わせても1000円前後で済むはずだ」

「助かったー!」祐希の財布には、まだ千円札が数枚は残っていた。

 青年は必要なことをすべて伝えたと判断したらしく、再び川との会話に集中した。祐希は「的外れ」の仕掛けを回収し、今日の釣りをあきらめて帰り支度を始める。落胆はなかった。むしろ初日にしては上出来だ。現在でも利根川にスズキは遡上し、釣れる事実を確認したのだ。

(間違いはない。ついさっき、目の前で60センチを超えるスズキが・・・・・・え? 60センチ・・・・・・)

 川風が吹き抜け、祐希の背筋を冷たく撫でた。青年が釣りあげた60センチのスズキでも、かなり巨大に見えた。だが、かつて祖父の道太郎が釣りあげた超大物は―――そしてこれから祐希が狙おうとするスズキは、ほぼ倍のサイズであると、いまさらながら気付いた。夕日でオレンジ色に染まる川を見つめながら、鳩尾(/みぞおち)を裏側からくすぐられるような感触を覚える。それが不安なのか期待なのか、判断はできない。

(無理だって・・・・・・いくらなんでも無謀だって・・・・・・)

 内心で呟きながらも、祐希は無意識に笑っていた。


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第2章 空回り、振り出しに戻る

 

(1)

 朝食を済ませると、祐希は伯父の家を飛び出した。

「今日は忙しいぞ」呟いて、クロスバイクを駆る。

 図書館で調べ物をして、釣具店で必要な道具を揃え、夏休みの宿題もノルマをこなし、夕方までに走馬落しへ到着し、万全の態勢でスズキ釣りを始めなければならない。

 昨夜は、よく眠れなかった。夕暮れの河原で出会った見知らぬ青年の釣ったスズキの暴れまわる姿―――水面を爆発させ、全身で怒りを表現した筋肉質の、それでいて金属的な魚体が、閉じた(/つまぶた)の裏でちらつき、まどろみと覚醒を繰り返した。寝不足気味で少しふらつくが、悪い気分ではない。むしろ高揚している。

 集落を抜け、一直線の田んぼ道へ出た。辺りはまだ夏の陽に焼かれる前の、ひんやりとした空気が沈殿している。両側に果てしなく広がる稲の海を横目に自転車を走らせていると、僅かばかりこびりついていた眠気もいつしか消えた。

 田園を走り抜け、用水路の橋を渡り、薄い住宅地の層をぬって商店街へ出る。やはり、シャッターの閉まった店舗が目立つ。町がまだ目覚めきっていないのか、あるいは永眠した店が多いのかは、陽がもっと昇ってみないと分からない。ありがたいことに、青年が紹介してくれた釣具店『マスヤマ』は早くも店を開けていた。店頭には客のものらしき自転車やスクーターが停められて、シャッター通りには珍しく朝っぱらから繁盛している。すぐにでも飛び込みたかったが店の場所を確認しただけで素通りした。お楽しみは後に取っておいて、まずはお勉強だ。

 市立中央図書館は旧市街の商店街と、丘の上の新興住宅地との中間、丘陵地帯のふもとに位置する。広大な駐車場を共有する形で、文化ホールや歴史民族館が併設されていた。いずれも、商店街の寂れ具合や周囲に広がる田園ののどかさとは場違いに、近代的で贅を尽くした建物だった。

 駐輪場にクロスバイクを停めて入館する。早くも太陽は本格的に照り始め、自転車を飛ばして汗ばんでいた祐希にとって、程よい照明と空調が快適だった。真っ先に「趣味・実用」のコーナーに直行し、釣り関係の書籍を物色する。一般的な入門書と、ルアーフィッシィングの解説書を手にし、続いて「自然科学」のコーナーで魚類の雑学本を追加する。受験勉強の学生たちでテーブル席が予約制になっていたため、祐希は空いているベンチシートに陣取って本を広げた。

 入門書は見るからに初心者向けで、川釣りはフナやヤマベ、海釣りならアジやウミタナゴなど簡単な小物釣り重視の構成だ。コイやクロダイなどある程度の技術を必要とする大物釣りは道具、仕掛け、釣り場などの漠然とした解説があるだけで、「スズキ釣り」のページを開いても、祐希が以前、釣具店の店員から教えられた的外れな電気ウキ仕掛けを中心にページを埋めていた。一方で、ルアーフィッシィングの解説書では、予想通りブラックバスがメインの構成だが、次にページの多くを費やしてスズキのルアー釣りを紹介している。ルアーの対象魚といえば、久や良司の話に出てくるブラックバスやブルーギル、そしてマス類と思い込んでいた祐希にとって、前日の夕暮れに目撃した、見知らぬ青年がルアーで当たり前のようにスズキを釣り上げた場面は一時的にルアーフィッシィングの概念が崩壊するほど衝撃的だった。だがこうして調べてみれば何のことはない。スズキは、ことに海のルアーフィッシィングでは一番メジャーなターゲットらしい。寝不足になるほど考え込むことはなかったのだ。ちなみにルアーで狙う場合、スズキは「シーバス」の名称で呼ばれる。ポイントは青年も言ったように港湾、砂浜、磯、河川、ボート釣りなど多彩である。さらに、それぞれのシーンで竿の長さや強さ、糸の太さ、リールの大きさ、ルアーのサイズなど、使用する道具も微妙に違ってくるらしい。様々な解説の中でも、「ルアーは餌釣りよりも大物が釣れる」との記述が妙に印象深く残った。

 もう一冊、魚類の雑学本は直接釣りに役立つ情報はなかったものの、スズキという生物について興味深い知識を得ることができた。食性は貪欲で完全な肉食―――イソメやゴカイなどの環形動物、アサリなどの貝類、エビ、カニ、シャコなどの甲殻類、イカ、タコなどの頭足(/とうそく)類、魚類全般―――およそ目に付いた生物は、口に入るものならば何でも丸呑みにする。70センチほどもあるスズキの胃から30センチ近いボラが見つかったとの記録もあり、場合によっては自分の体長と比較して半分ほどの生物までが捕食対象となるらしい。

 行動範囲も広い。外洋の深みで産卵と越冬をしたスズキは春の訪れとともに沿岸に回遊。一部は海から川を遡る稚アユの群れを追って河川へ入り、堰などの障害物がなければ最大で200キロほど遡上するらしい。前日、祐希が試し釣りをした利根川の通称「走馬落し」は、地図で調べると、河口から100キロ弱だった。あの青年がスズキを釣り上げたとしても不思議ではなく、伯父が心配していた河口堰の魚道も一応は機能していたということになる。

 スズキの遡上を調べる過程で分かったことがもうひとつある。魚が川と海を行き来するのは、人間が―――少なくとも祐希が考えるより大変なことらしいのだ。魚の細胞を満たす体液の塩分濃度は淡水と海水の中間らしい。細胞膜は、水分を通すが塩分は通さない半透膜(/はんとうまく)であるため、海水では脱水状態の、淡水では水ぶくれの危険にさらされている。そこで魚類は腎臓の腎小体(/じんしょうたい)とエラの塩類細胞(/えんるいさいぼう)によって浸透圧(/しんとうあつ)を調整している。海水魚は大量の水を飲んで余分な塩分を尿と塩類細胞で排出し、淡水魚はほとんど水を飲まずに低塩分の尿を排泄して塩類細胞から必要な塩分を吸収する。多くの魚類はどちらか一方の機能しか持たないが、スズキのように川と海を行き来する魚は両方の機能を持ち、季節によって切り替わるらしい。

 高学年とはいえ小学生では「浸透圧」も「半透膜」も習っていなかったが、場所が図書館だけに辞書や参考資料は自分の体重より充実していた。魚を釣るうえでは直接関係ない生物学的な知識にすぎないが、少しでも魚に近付けた気がして心が躍った。


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(2)
 図書館の帰り道、釣具店『マスヤマ』に寄った。
 店頭に自転車を停め、片開きの自動ドアをくぐる。すぐ左手がショーケースを兼ねたL字カウンターとなっており、内側で二人の店員が作業していた。一人は五十代の男性で、老眼鏡ごしにリールの分解掃除に余念がない。おそらくは店主だろう。もう一人は二十代半ばの女性で宅配便の伝票に記入している。両者とも小柄で(/)せており、釣り餌メーカーのロゴが入ったエプロンを身に着けていた。親子かもしれない。二人は顔を上げると「いらっしゃい」と微笑んだ。店の広さは教室ほどか。ドアを入って左側、店舗の六割ほどが餌釣りのコーナーらしく、様々な釣竿や魚籠(/びく)、餌の袋やウキ、仕掛け、ハリ、オモリなどの小物類が棚ごとに並んでいた。奥には簡単な応接スペースがあり、常連らしい老人がくつろいでいる。
 対してドアの右側、残り四割ほどがルアー用品のコーナーになっている。ロッドスタンドには光り輝くシーバスロッドが何本も陳列されているが、値札を見れば安い品でも2万円台。とてもじゃないが、祐希の財布でどうにかできる値段ではない。溜息をついて目を背けると、壁際にスライド式の棚が設置され、パッケージに収まった色とりどりのルアーが隙間なくディスプレイされいた。
「探してるものがあったら、何でも聞いてください」
 壁一面を覆うルアーの数々に見惚れていると、背後から店主に声をかけられた。いましがた図書館のルアー解説書で読んだ「ルアーは餌釣りよりも大物が釣れる」との記述が、祐希の脳裏をよぎる。
「あの・・・・・・スズキ、いやシーバス用のルアーって、ありますか?」
 店主は「当然」とばかりに頷き、カウンターを出るとルアーコーナーに歩み寄る。
「釣り場はどのあたりかな?」
「利根川の、走馬落しです」
 答えながらも、「まともな釣り具店はまず場所を聴く」という青年の言葉を思い出し、なるほどと感心した。
「利根川のリバー・シーバスなら、このあたりのルアーが適している」店主が棚の隅、幅1メートルほどの範囲を指でなぞる。
 勧められたルアーはいずれも12センチ前後の「プラグ」と呼ばれるルアーだった。
 ルアーは大きく分類すると、金属板を加工したスプーン、回転する羽を持つスピナー、軟質プラスチックのワーム、金属ボディーのジグ、そして木やプラスチックで小魚や虫などの小動物を模したプラグなどの系統がある。釣り好きのクラスメイトである久や良司からの受け売りだ。
 棚に並んだ数々のルアーは、魚よりはむしろ人間を誘惑するように作られたようで、しばし商品の並ぶ棚に目が釘付けとなった。
「シーバスロッドは持ってるんだろうね?」
 だしぬけに店主から声をかけられ、祐希は反射的に「ハイ」と返答してしまった。「シーバスロッド」がシーバス用のルアー竿だと気付くのに少し手間取った。図書館で目を通した解説書によると、ルアーフィッシィングでは釣り竿を「ロッド」と呼ぶ。同様に釣糸は「ライン」、釣り針は「フック」、オモリがが「シンカー」など、横文字の専門用語を多用する。なかでも「釣り人」を意味する「アングラー」という表現が祐希のお気に入りだ。
「ならいいが・・・・・・」祐希の返答に、店主は納得したように頷く。「いやね、シーバス用のルアーはブラックバス用よりサイズも大きく重いものも多い。同じルアーフィッシィングだからとブラックバス用のロッドを流用するお客もいるけど、長さやパワーが足りないため、思うように投げられないことが多いんだ」
 さっきは考えもなしに返事をしてしまったが、ある意味「シーバスロッドを持っている」と言っても嘘ではない。祐希がなけなしの小遣いをはたいて買った3,6メートルの投げ竿は、半分騙されたようなものとはいえ、「スズキ用の釣竿」として釣具店の店員が選んだ品だ。川で出会った青年が使用していた“本物のシーバスロッド”よりも長く、頑丈なのは一目瞭然だった。
(つまり、シーバス用のルアーを使うには差し支えないってことだよね)苦しい言い訳を承知で、自分に言い聞かせた。
 ルアー購入の方向に、祐希の心は急激に傾いていた。洗練されたデザイン、繊細な造形、鮮やかな発色と輝きにも目を奪われたが、何より魅力的だったのは値段である。どのルアーも値段は2000円前後で、決して安価とは言えない。だがカウンター内側の壁に掛けられた「生餌一覧表」のホワイトボードによれば、スズキ釣りの餌となるゴカイや青イソメは1パック500円である。生餌であれば日持ちはしないだろう。一日でどれほどの量を使用するか定かではないが、仮に1パックと限定しても祐希の財布には十日分ほどの予算しかない。だがルアーを購入すれば後は一切餌代がかからない。
 さんざん迷ったあげく―――迷いさえ至福のひと時だったが―――祐希は11センチ・15グラムのミノープラグを選んだ。小魚を模した造形で下顎(/したあご)にあたる部分から突き出た「リップ」と呼ばれる潜行板(/せんこうばん)に水を受け、泳いだり潜ったりする。水に浮く「フローティング」と沈む「シンキング」の一種類があったが、なんとなくシンキングを選んだ。色は目に鮮やかな、ボディーが光り輝くホログラムで背が蛍光の黄色、腹がオレンジ―――パッケージには「ホロチャートバッグレッドベリー」という呪文のようなカラー名が記してあった。
 レジに持っていくと、なぜか店主の顔が一瞬こわばった。的外れなルアーを選んだかと動揺する祐希に、店主は「きみは、中学生?」と問いかける。小学6年生であると告げると、感心したように微笑んだ。
「いいセンスしてるね・・・・・・このカラーは昼でも夜でも、水が濁ろうが澄んでいようが通用する。それにシンキングなら沈め加減であらゆる水深を泳がせることが可能だ。サイズも大きすぎず小さすぎず、様々なシチュエーションに対応可能なルアーだよ」
 価格は1650円。料金を払い、包装されたルアーを握りしめて店を出る。頬が自然に緩んでいた。見た目優先の勘まかせで選んだ商品だったが、センスを(/)められれば悪い気はしない。結果オーライだ。何より嬉しいのは、購入したルアーが「応用範囲が広い」とのお墨付きが得られたのは心強い。
 このルアーで、夏いっぱい勝負しなければならないのだから。

 伯父の家へ戻り、自家製トマトソースを使ったナポリタンとコンソメスープの昼食をとった。
 食事中も買ったばかりのルアーが気になり、早く試したくて午後一番で川へ行こうと目論(/もくろ)んでいたが、その気配が伝わったらしい。絹代に「熱中症になるといけないから、外出は夕方の涼しい時間帯にしなさい」と釘を刺されてしまった。仕方なく祐希は勉強部屋として与えられた奥座敷で宿題の漢字ドリルを広げる。
 図書館で読んだルアーフィッシィングの解説書によれば、シーバスはどちらかと言えば夜行性に近く、釣りに適する時間帯は日の出と日没前後―――俗に言う“朝マズメ”と“夕マヅメ”―――そして夜間だ。
「だから、日中に釣りができないのはむしろ効率的なのだ」
 無理矢理自分に言い聞かせて漢字の書き取りを始めるが、ドリルの横に未練がましく買ったばかりのルアーを置いた状態で集中力が続くわけもなく、四字熟語をいくつか記しただけで鉛筆を投げ出し、畳に寝そべる。鴨居に飾られた額縁が、逆さまに怠惰(/たいだ)な祐希を見下ろしていた。そこは生前の祖父が寝起きしていた部屋で、祐希は心の中で「手形の間」と呼んでいた。おそらくは道太郎本人が手のひらに墨を塗り、色紙に写し取ったと思われる拓本が額縁に飾られている。見るたびに祐希は「生まれた赤ちゃんや力士でもあるまいに」と違和感を覚える。手形に刻まれた生命線は太く深く、150歳まで生きそうな勢いだ。80に手が届く前に世を去ったのは早すぎる。
 寝そべったままで祐希は釣り雑誌を広げた。釣具店の帰り道、思いついて立ち寄った商店街の書店でルアーフィッシィングの専門誌を購入したのだ。都市部に展開するフランチャイズの大型書店とは規模も品揃えも比べ物にならない「小さな町の本屋さん」だったが、それでも「釣り・アウトドア」のコーナーは予想外に充実しており、沖釣り、ヘラブナ釣り、防波堤釣りの専門誌に混ざってルアーフィッシィングの専門誌も四種類あった。三誌はバスフィッシィングの専門誌だったが、あとひとつはソルトウォーター・ルアーフィッシィング―――要するに海のルアー釣り専門誌だった。清流域から沖合までと行動半径の広いスズキは「ソルトウォーター」の対象魚として扱われるようだ。完全な淡水である河川の中流域を舞台とする「リバーシーバス」もそちらに含まれるからややこしい。
 リバーシーバスの特集は数ページだったが、他の記事も無意味ではなかった。港湾や砂浜、磯のシーバスフィッシィングも、舞台と道具立てが異なるだけで、対象魚は同じだ。共通点はさほど多くないが、それでも情報に飢えている祐希にはありがたい。記事の間には様々なメーカーの広告もあって、ロッドやリール、ルアーの鮮やかな写真は活字を追う眼を(/なぐさ)めた。買ったルアーのパッケージ裏に記された説明文を読んだり、そのルアーを紹介した雑誌の記事をみつけて興奮してみたり・・・・・・夢中でそんな事をしているうちに午後4時を回り、涼しげな風が吹き始めた。
「よし、出撃だ」
 絹江が出してくれたオレンジジュースを飲み干して、祐希はクロスバイクにまたがり伯父の家を飛び出す。土手上の道を疾走(/しっそう)し、今日も利根川の走馬落しへと向かう。

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(3)
 ルアーフィッシィングは準備が簡単だ。仕掛けを作る必要がない。糸の先にルアーを結ぶだけ。ウキもオモリもいらないし、ハリはルアーについている。もちろんエサも必要ない。
 走馬落しに着いて昨日と同じポイントに釣り座を占め、自分でも惚れ惚れするような手際のよさで準備を整え、買ったばかりのルアーをキャスト。
 これが、全然飛ばない。
 目の前に叩きつけられるか、あるいは頭上高くフライとなって、やはり目の前に落ちるかだ。
「どうして? “投げ竿”のはずなのに・・・・・・」
 祐希はグリップのすぐ上にプリントされた「ロングキャストDX360」のシャープな字体を何度も確認した。それでも飛距離は一向(/いっこう)に伸びない。ルアーが水面に叩きつけられる音と飛沫は盛大だが、飛距離は直接手で放ったほうがマシなほどだ。
「何をしている?」
 今度こそはと意気込んで竿を振りかぶる祐希の背後から声が飛ぶ。振り向けば、前日ここで出会った青年が(/あき)れ顔でたたずんでいた。
「俺は投げ込み釣り用の仕掛けを用意しろと忠告したはずだ。なぜルアーを買った?」
 青年は前日同様に無表情だが、結果的にアドバイスを無視した祐希は叱られたような気がして、背後に向けた目を再び川へ戻した。それでも青年の声は途切れず届く。
「投げ竿は竿を担ぎ、比重の高いオモリの遠心力を利用して飛ばす。それに対してルアーロッドは、バックスイングによる竿の反発力を利用して比重の軽いルアーを飛ばす―――キャスティングの力学(/りきがく)が根本的に違うんだ。投げ竿でルアーを投げて、飛ぶはずがない」
 言われてみれば、祐希は肩で竿を担ぐ姿勢で投げていた。今度はバックスイングをして竿をしならせ、反発力を利用して投げてみる。風を切る音が響き、低い弾道で飛んだルアーが水面を叩いて派手な水音と飛沫をあげる。流芯よりは手前だが、いままでで一番遠くへ飛んだ。思わず笑みを漏らした祐希が、リールを巻くことも忘れて再び青年を振り返る。
「大丈夫ですよ。確かに専用の道具に比べれば投げにくいかもしれないけど、大切なのは慣れでしょう。練習を重ねれば飛距離だってもっと・・・・・・」
「何が『練習を重ねれば』だ・・・・・・餌釣り用の投げ竿はルアーロッドと違い、頻繁(/ひんぱん)なキャストを前提として作られていない。だから重く、空気抵抗も大きい。そんな竿で繰り返しルアーを投げれば筋肉に過剰な負担がかかる。五回も投げれば腕が動かなくなる」
 図星だった。確かに投げ竿は重く太く、バックスイングの反動は肘の関節をきしませた。たった一度のキャストでさえ、上腕部の筋肉が強張(/こわば)る感覚がある。見透かされた動揺で、祐希は(/)れたように青年へ向き直った。
「竿が重くても投げづらくても腕が動かなくても、みんな僕ひとりの問題です。誰かに迷惑をかけてるワケじゃないし、放っておいてください」
「迷惑をかけてないだと? 無自覚ってのは救いようがないな」
 鼻で笑うと青年は、祐希の上流側へ並んで竿を振る。無駄な動きが一切ない、シャープなキャスティング。ルアーは低く放物線を描いて飛ぶ。たったいま祐希が投げた、ゆうに三倍の飛距離が出た。にもかかわらず、ルアーは水面へ吸い込まれるように落ちる。着水音もなければ飛沫もたたない。
「この程度の着水音でも、キャストを繰り返すルアーフィッシィングでは、一投ごとに魚へプレッシャー、つまり警戒心を与える。さっきのお前みたいに派手な音と飛沫を蹴立(/けた)ててルアーを水面に叩きつければ、その1投でポイントが潰れかねない。道具の用途を間違えれば、釣りをすること自体が迷惑行為になる場合もあるってことだ」
 祐希には言い返す言葉がなかった。水音も飛沫もほとんどたたない魔法のようなルアーの着水に、そんな理由があったとは想像もできなかった。ふと、竿を持つ手に微かな負荷を感じた。釣糸が流され、張っている。ルアーを投げっぱなしにしていたことを思い出して、力なくリールを巻き、回収にかかる。その背後で、青年の話は続く。
「少々高価でも、ひとつルアーを買ってしまえば以降の餌代が節約できる―――そう考えたんだろうが、甘いな。そのうち思い知ることになるだろうが・・・・・・」
 不意に、祐希の手が止まった。重量感。そして竿のしなり。
「掛かった、釣れた!」
 叫び、竿を立てる。張りつめた糸が鳴り、竿はグリップのすぐ上から大きくたわんだ。重い。リールが巻けない。
「早速、思い知る時が来たか」祐希の興奮とは裏腹に、青年は冷やかに言い放つ。「針に掛かったのは魚じゃない。地球だ。根掛(/ねが)かりだよ」
「・・・・・・ネガカリ?」
「川底は平らじゃないってことだ。流れを調整する捨石(/すていし)や杭があるし、流木が沈んでいるかもしれない。魚は、そういった障害物に好んで定位する。流れを避けて休憩するため。あるいは餌を待ち伏せするため。シェルターの役割を果たすわけだ。だから釣りに根掛かりはつきものだ。ルアーフィッシィングも例外じゃない。下手をすれば大切なルアーを3個、4個と失うことも珍しくはない」
「・・・・・・そんなに、たくさん?」
 今日買ったルアーが1650円、それが3個と換算すれば、およそ5000円の損害だ。眩暈(/めまい)を感じながら祐希は根掛かりを外そうと竿をあおる。ルアーを1個失うだけでも大ダメージだ。
「無駄な抵抗だ。諦めてラインを切ったほうがいい。ルアーフィッシィングが決して餌代の節約にならないってことが、これでよく分ったろう。悪いことは言わない。昨日教えたエサ釣りの投げ込み仕掛けに変更しろ。中型の数釣りが楽しめるはずだ。だが、その竿とリールでルアーを投げ続ける限り、シーバスを釣るのは難しい」
「でも、エサよりルアーのほうが大物が釣れるって・・・・・・」
「確かに、その傾向(/けいこう)はあるが・・・・・・おまえ、大物狙いだったのか?」
「狙いは―――1メートル20センチ」うなずいて、祐希は言った。
 笑われるのは覚悟していたが、青年は笑わなかった。静かに祐希を見据える無表情に、わずかな感情を見出すとすれば、それは対抗だった。「お前になど渡さない」と言わんばかりの敵愾心(/てきがいしん)。思いがけない反応に、呆気にとられ、それでいてどこか嬉しく、祐希はこれまでのいきさつを問わず語りに、呟くように、青年へ伝えた―――幼いころから祖父に聞かされた「目の前の川で1メートル20センチを超えるスズキを釣った」という自慢話。それを教室で喋ったためにクラス中から「嘘つき」呼ばわりされたこと。自分の、そして祖父の言葉が嘘ではないと証明するには、この手で超大物のスズキを釣り上げるしかないという決意。そのために夏休みを利用し、伯父の家をひとり訪れたこと。そしてその家は、いまは亡き祖父が川魚漁師として暮らした家であること―――行動のきっかけとなった、密かに思いを寄せる女子、真衣の存在については照れくさくて黙っていた。
「お前の祖父って、道太郎(/じい)さん・・・・・・あの桐丘道太郎か?」
「お祖父ちゃんを知ってるの?」
「伝説の川魚漁師だよ。このあたりの釣り師や川魚漁師で『道太郎』の名を知らなきゃモグリさ」言って、青年の表情が微かに曇った。「確か、去年の年明けだったな。惜しい人を亡くしたよ」
 祐希に対してか、祖父に対してか、川に対してか、背筋を正して青年が黙礼する。的外れな釣り方を非難していた冷やかさはすでになく、穏やかな声で続けた。
「話はよく分かった。だが、俺がしてやれるアドバイスはたったひとつ―――諦めろ―――それだけだ」
「やっぱり、そんなに大きなスズキは、シーバスは、もういなくなってしまったんですか? 河口堰とか、環境悪化の影響で・・・・・・」
「いることはいる。昔よりは減ったとはいえ、1メートル以上の個体も少なからず遡上しているはずだ。ただ、支流も含めた利根川水系は広い。遡上してくる途中、1匹また1匹と散っていく。河口から何十キロも離れたこのあたりまでたどり着く大型はごくわずかだ。釣り上げられるのは、さらにごくわずか。利根川全体でも、メーター・オーバーを獲ったって報告は年に一度あるかないかだ」
 言って青年は憐みの目を向けたが、祐希に悲観の色はない。むしろ笑っている。
「じゃあ、可能性はある。ゼロじゃない」
「物分かりの悪いヤツだな。確率でいえば宝くじの一等をあてるよりもっと低い。専門で狙っても一生で1匹獲れれば幸運だろう。小学生が夏休みの宿題代わりに釣れる獲物じゃないんだよ」
「・・・・・・でも、ゼロじゃない」
 祐希にとって、1メートルを超えるシーバスは絶滅危惧種、もしくはUMAかエイリアンに近い存在だった。だが実際にはまとまった数が川を遡上し、たった1匹とはいえ毎年のように釣りあげられていたのだ。「諦めろ」と迫る青年の説得は、祐希に希望を与えただけだ。力を得て、再び竿をあおる。どうにか根掛かりしたルアーを回収し、釣りを続行しなければならない。
「まだラインを切ってなかったのか。物分かりだけじゃなく、諦めも悪いようだな」
 青年は溜息をつき、「貸してみろ」と祐希の手から投げ竿をひったくり、リールをフリーにして糸を繰り出した。流された糸が下流側に大きくたるんだ頃を見計らい、1度だけ鋭く、大きく竿をあおる。糸が水を切って「ピシッ」と小気味いい音がするはずだったが、耳には届かなかった。河川敷にクラクションが響き、水辺の音をかき消したのだ。振り向けば堤防の上では黒塗りの車が、青年のものと思しき赤い軽四駆へ接触寸前で停車している。車種までは分からないが磨き抜かれた高級セダン。運転席からは短めの髪を逆立てたサングラスの若い男が降り立ち、腕を組んで河川敷を睥睨(/へいげい)する。
「面倒なヤツが現れた」
 ガラの悪い男に目をくれた青年が軽い溜息をもらした。投げやりに祐希へ竿を返すと、背を向けて男の待つ堤防へ向かう。ルアーを数回投げただけで、釣りはあっさり諦めたらしい。
「ヤクザみたいな人だ・・・・・・何か、弱みでも握られてるのかな」
 まだ出会って一日だが、冷徹な理論家として認識しただけに、クラクションひとつで条件反射のようにに(/きびす)を返した青年の後ろ姿は、どこか別人に見えた。見送りながらも祐希の手は無意識にリールのハンドルを巻く。
「あれ? 巻ける」
 ラインは素直に回収され、諦めかけたルアーは無事に戻ってきた。祐希があれほど力任せに糸を張り、何度も竿をあおって外れなかった根掛かりを、青年は竿を軽く一振りしただけで外していたのだ。手品でも見せられた気がして祐希は放心し、青年を振り返る。彼は土手の上、サングラスの男と並んで何か話し合っているらしい。表情までは見えない。すでに日は暮れかけていた。



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