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(3)

 昼食を済ませた祐希は早速、川へ向かうことにした。祖父が大物を仕留めた場所を特定できないからには、広範囲にポイントをリサーチする必要がある。ゲームソフトを諦め、全財産をはたいて購入した釣り竿やリールの操作にも慣れておきたい。とにかく時間が惜しかった。

 初日から見通しの立たない状況で、移動手段が確保できたのは嬉しい誤算だった。

「祐希君、ウチに滞在するあいだ、この自転車を自由に使うといい」

 そう言って義史がマデヤから出したのは新品のクロスバイクだった。

「ありがとうございます! でも、いいんですか?」

「遠慮することないわよ」感激しながらも戸惑う祐希に、絹代が意味ありげに微笑む。「祐希君が来るまで、その自転車はマデヤで無用の長物と化していたんだから」

 説明によればクロスバイクは義史がこの春、「健康のため」と衝動買いした品らしい。

「マイカー通勤は運動不足になるとか、排気ガスを出すからエコじゃないとか、色々と理屈をつけて買ったはいいけど、その自転車通勤も二日で頓挫(/とんざ)よ。まったく、三日坊主にもなりゃしないんだから」

「仕方ないだろう絹江さん。三日目が雨だったんだから。健康のために始めた自転車通勤なのに、雨の中無理して自転車に乗って風邪をひいたら本末転倒だよ」

「その日から毎日雨が降ってるわけでもないでしょーに。せめて天気のいい日は自転車通勤すればいいじゃない。せっかく買ったんだから」

「教え子に不登校気味の生徒がいてね、雨が降ると学校を休むんだ。で、月曜が雨だとその勢いで一週間欠席してしまう。おかげで私は最近、彼の気持ちがよく理解できるようになったんだ。うん」

 義史はワケの分からない自慢話で誤魔化(/ごまか)した。なにはともあれ“アシ”を確保できたことは心強い。どちらかといえば小柄な義史の乗っていたクロスバイクは、サドルを調整すると祐希も両足がついた。見届けた義史が満足気に頷く。

「くれぐれも、安全運転でな」

「熱中症にならないように、こまめに水分補給しなさいね」

 新品のリール竿がはみ出たディーパックに、絹江は麦茶を詰めた2リットルのペットボトルを押し込んだ。ショルダーハーネスが肩に食い込む。

「それじゃあ、行ってきます」伯父夫婦に一礼すると、祐希は自転車をこぎ出した。

 生垣の切れ目から、集落を巡る道路へ出る。アスファルトで舗装されてはいるものの、センターラインも路側帯(/ろそくたい)もない道路は、軽自動車がやっとすれ違えるだけの幅しかない。家々から張り出した木の枝が頭上を覆い、路面に影を落として熱気を和らげていた。降り注ぐ木漏れ日をぬって走り抜け、記憶をたどっていくつか角を曲がると、やがて木陰の保護下を抜け出た。容赦ない夏の陽射しが照りつけるその前方に緑の壁が立ちはだかる。

土手(/どて)だ!」懐かしい光景に、思わず声をあげた。

 視界の下半分が堤防にはびこる草の緑、上半分は澄み渡った夏空の青。土手を斜めに走る砂利道を立ちこぎで最上段まで駈け上ると一気に視界が開ける。右には堤防のなだらかな曲線を一辺とした集落の密集した木々と、その向こうに果てしなく広がる田園地帯。左には広大な河川敷を擁し、穏やかな流れが鏡となって空と雲を映す利根川の水面。地球の丸さを実感できそうなほどのパノラマ。陽射しを遮るものは一切ないが、(/あし)の群落を揺らして川を渡る風は思いのほか涼しく、祐希の額に浮いた汗を間歇(/かんけつ)的に拭ってくれる。懐かしい感覚を全身に感じながら、堤防の最上段で自転車を走らせていると、この地を訪れた目的や不安もしばし忘れた。堤防は3段で、1段目が舗装された車道。2段目は未舗装で草刈り機や工事車両を一時的に置いておくスペースらしい。刈られた草の束もこの中段に等間隔でまとめられていた。そして最上段が簡易舗装された遊歩道になっている。乾いた草の香りが濃厚に満ちていた。

 やがて土手は緩いカーブを描く。支流との合流点に到達したのだ。進行方向に塔のような建築物が見えてくる。大きな水門だ。水門の開閉を操作する「上屋(/うわや)」と呼ばれる設備が三つ、整列したキリンの首のように伸びている。利根川本流に小河川が流れ込むポイントだ。

「たしか『走馬落(/そうまおと)し』だっけ」

 必殺技を連想させる地名の由来は不明だが、祖父をはじめとする地元の人々は、この釣り場をそう呼んでいた。

 祖父が大物のスズキを釣った場所は特定できなかったが、その日の目的地は決まっていた。走馬落しは生前の祖父に何度か連れてきてもらった場所だ。この日は初めて使う釣り道具の操作に慣れることが最優先で、釣りはついでのようなもの。水のある場所ならどこでもよかったが、どうせなら過去に訪れたことがあり、フナやヤマベなどの小物とはいえ、魚を釣った思い出のある場所のほうが心強い。

 祐希は水門の側にクロスバイクを停めてチェーンロックを掛けると、整備された階段を河川敷へと降りていく。流れ込み一帯は親水(/しんすい)性と安全性を考慮して、煉瓦(/れんが)を模したタイルを敷き詰め、緩やかな階段状に護岸整備されている。水門から本流までは100メートルと少し。多くの釣り人が竿を出している。

(前に、お祖父ちゃんと釣りをしたのも、この流れ込みだった)

 護岸を歩きながら、祐希はかつての自分と祖父の姿を探すように、釣り人たちの背中を眺めた。

(いろんな魚が釣れたっけ・・・・・・)

 フナにヤマベにウグイにニゴイ。ハスやワタカ、コイやナマズの稚魚、テナガエビにヌマチチブという淡水産のハゼ。小さいのは親指程度、大きくても20センチほどで、気楽な小物釣りだが魚種は豊富だった。いま見渡しても護岸に並んだ釣り人たちの竿は細く、リールの付いていない「のべ竿」である。水面の浮きも小さく仕掛けも繊細だ。彼らは数メートルの間隔を空けて釣り座を定めていたので祐希が間に入るのも難しくはなかったが、小物釣りを楽しむ人々に割り込んで大物釣り用の厳ついリール竿を出すのは気が引ける。釣り座を決めかねて流れ込みの護岸を進めば、すぐに利根川との合流点に達した。護岸はアールを描きながらも直角に折れ、上流へ伸びる。階段状の護岸は50メートルほどで、そこから上流は複雑にテトラポットが入っている。流れ込みの角から先には、なぜか誰もいない。階段状の護岸を中程まで進んだ場所で、祐希は釣り竿を出すことにした。

「ここなら新品の釣り具を試すにはもってこいだ。暴投して周りに迷惑をかけることもないし」

 カーボンファイバー製の投げ竿3,6メートルに中型のスピニングリールをセットし、仕掛けを作る。道具はすべて自宅付近の釣具店で揃えた。住宅地から少し離れた場所で、ファミリーレストランやホームセンターなどと並んで店を構える釣具店。家族で食事や買い物に出掛けるとき、父親の運転する車から見て場所は知っていた。自転車でも行けない距離ではない。店舗は個人経営にしては大きく、チェーン店にしては小さく中途半端な印象があるものの、店主と思われる中年男性の商品選択には年季が入っているらしく、祐希の「スズキ釣りの道具を探してる」という漠然(/ばくぜん)とした要求に頼もしく頷き、予算を聞いて手早く店内を一巡するや、竿やリールからウキ、オモリ、ハリなどの小物類まで、5分とかからずに揃えて見せた。エサはイソメやゴカイなどの環形(/かんけい)動物―――海に棲むミミズと考えて間違いない―――とのこと。生き餌ならば現地調達せねばならず二度手間かと溜め息をつけば、店主は心配無用とばかりに「釣り餌」の棚からペンケース大のパックを取り出して見せた。偏平で青白いミミズ状の物体が十数本、整然と並んで怪しい液体とともに真空パックされている。パッケージには「ケミカルイソメ」なる商品名が踊っていた。店主の説明によれば偉大なる「ケミカルイソメ」は形も食感も本物のイソメに限りなく近づけるとともに魚の好むアミノ酸を濃縮して練り込んだ人工の餌で、常温で1年以上保存が利き、しかも生分解素材で環境にも優しい最先端の釣り餌だという。祐希はハイテクに感動した勢いで購入。すべての合計金額は見事、あらかじめ祐希が提示した予算にぴったり納まった。しかも、売り物の「釣り入門」からスズキ釣りの仕掛け解説のページをコピーして持たせてくれるという行き届いたサービスぶりだった。

 そのコピーを参考に、LED内蔵の電気ウキをセットした仕掛けを組み、セイゴ針12号にケミカルイソメを刺して準備完了。リールの操作は、クラスメイトに誘われてブラックバス釣りをした経験があるため覚えている。リールの固定部で竿を握った右手人差し指に釣り糸をかけ、糸を巻き取るためのベールアームを起こしてリールをキャスティング体勢に整える。肩に担ぐように構えた釣り竿を、斜め上前方―――10時の位置まで振ったタイミングで指にかけた糸を放す。思いのほか竿がしなってフライ気味になったが、仕掛けは緩やかに放物線を描き、やや右にズレながらも距離にして20メートルほど飛び、派手な水音を立てて着水した。

「第一投目にしては、まあまあかな」祐希は余分に出た糸を巻き取って護岸に腰を下ろし、釣り竿を保持する。「後はウキにアタリが出るまで、じっくり待てばいい・・・・・・」

 じっくり待つ暇などなかった。前方やや右手に着水したウキは見る間に流され、水面で弧を描き、下流の岸辺に打ち寄せられてしまった。釣り人が流れ込みに集中し、合流先の利根川には誰もいない理由を祐希は理解した。本流は流れが強いのだ。仕掛けを回収して再び投げてみたが結果は同じだった。仕方なく合流部の角まで移動して仕掛けを投入。やはり仕掛けは流されたものの今度は打ち寄せられる岸がない。ウキは利根川の強い流れと流れ込みの弱い流れがせめぎ合う水のヨレで不安げに漂った。小さく頷いて祐希はデイパックに竿を立てかけ、護岸に置く。

 とりあえず釣りの形にはなったが、出だしから状況に翻弄(/ほんろう)されているのは明らかで、まったく魚が釣れる気がしなかった。


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(4)

 勉強もスポーツもほどほど。友達は多からず少なからず。成績も体格も性格も中程度。ごく一般的な小学6年生男子。それが学校での祐希の立ち位置である。何事にも努力は怠らないし姿勢だって前向きだ。なのに全てにおいて平均に甘んじ、伸び悩んでいる。多くの場合、努力の方向性が微妙にずれ、的が外れて行動の歯車が空回りしてしまうせいだ。

(また、的外れなことをしてるんじゃないだろうか?)

 流れの狭間でもまれ、頼りなく揺れるウキが自分自身と重なって、祐希は不安に駆られる。

 風がやむと河川敷は、陽射しと水面の照り返しと湿気の三重苦で、座っているだけで汗が止まらない。2リットルのペットボトルは急速に中身が減っていく。絹江に渡されたときは「大袈裟(/おおげさ)な」と思ったが、彼女の判断は正しかった。

 太陽の反射で瞬く水面で不規則に揺れるウキを見つめていると、催眠術でもかけられたように意識が朦朧(/もうろう)とする。

 不意に笑い声が響き、祐希は反射的に周囲を見渡す。高校生だろうか、対岸に若い二人組の釣り人。キャップにサングラス、片手で扱えるリール付きの短い竿、対岸まで届く陽気な気配、典型的なバス釣りだ。

(考えてみれば、すべての始まりはバス釣りだった・・・・・・)

 祐希のクラスにブラックバスのルアー釣りを趣味とする二人の友人がいる。関内久(/せきうちひさし)田辺良司(/たなべりょうじ)だ。祐希も彼らに誘われて道具を借り、一緒にバス釣りをしたことがある。言われるままに「ワーム」と呼ばれる塩化ビニール製のルアーを何も考えず投げては巻いていると、20センチほどのブラックバスが釣れた。久も良司も「ビギナーズラックだ」とからかいながらも自分のことのようにはしゃいだ。彼らによれば、「一匹釣ったらルアーにはまる」とのことだったが、そんなことはなかった。父親にアウトドアの趣味がない影響だと祐希は思う。良司は小学校低学年から家族でマスの管理釣り場へ通っていたし、久の父は昔からルアーフィッシィングにのめり込んでいたと聞く。

 その久が、最近父親に連れられて芦ノ湖(/あしのこ)へ遠征し、見事52センチのブラックバスを仕留めた。小学生にとっては快挙と言える釣果だ。デジタルカメラで撮影した画像をプリントアウトして学校へ持ち込み、教室で披露した彼は一躍ヒーローになった。山並みを背景に湖水へ浮かぶボートの上、魚というよりは子犬を抱くように、右手で巨大なブラックバスの下顎を掴み、左手で腹を支えた写真に、祐希をはじめクラスメイトが見惚れた。久の笑顔も、(/つや)やかなブロンズに輝く魚体も、夏を待つ山上湖の風景も、鮮やかで躍動感に溢れていた。そこまではよかったが、クラスメイトの興奮が冷めるにつれ、話が微妙に(/)れていった。

「あたし近所の魚屋さんで、同じぐらいの大きさのヒラメ見たことあるよ。やっぱり幅ならヒラメよね」

「だったら長さはタチウオだね。この前、アメ横に売ってた。ホント、日本刀みてーの」

「スーパーでやってた解体ショーのマグロ、でかかったぜ! 2メートル近くあったな」

「私の叔父さん、ワニガメ飼ってる。甲羅が教室の机ぐらいあるんだよ」

 ルアーフィッシィングの大物自慢のはずが、いつしか「私の見た大きな魚」へ会話がズレていた。しかも亀にまで話が飛んでいる。久にしてみれば、さぞ不本意な展開であろう。心中を察すべきだったと、いまも後悔しきりだ。久本人も気づかぬままに積もった苛立ちが崩れ落ちる直前、まさに最悪のタイミングで祐希は口を滑らせたのだ。

「僕のお爺ちゃんが昔、家の前を流れる川で1メートル20センチのスズキを釣り上げたって」

「自慢すんなよ! お前が釣ったワケじゃねーだろ?」

 腹に据えかねたらしく久が声を荒げ、教室が静まり返った。彼はクラスで一番背が高く、運動神経にも秀でている。成績優秀者やイケメンと並んで一目置かれる存在なのだ。

「その話、おかしくないか? スズキって海の魚だろ」

 冷静な問いを発したのは久の釣り仲間、良司だった。彼は、「情熱的で体力勝負」の久に対して頭脳明晰で冷静な理論家だ。良司にとっては純粋な知的好奇心からの質問だったが、クラスメイトたちは彼の尻馬に乗って過剰に反応した。そして「証拠を見せろ」の大合唱となり、祐希は一方的に「嘘つき」呼ばわりされることとなる。急な展開に、一時(/いっとき)は感情的になった久さえ引いてた。久も良司も、祐希が孤立するのを喜んではいなかった。何度かともに釣りをした程度には仲のいい友人なのだ。だが大勢で一人を糾弾(/きゅうだん)する幼稚な快楽は本能的なもので、久や良司がフォローしたところで止まるものではない。孤立した以上、周囲が糾弾に飽きるまで沈黙する以外に成す術はない。だが、孤立はしなかった。たった一人、陰ながらではあるが、祐希を信じたクラスメイトがいた。しかも、以前から密かに思いを寄せていた少女。

「真衣ちゃん・・・・・・」

 思わず呟いた声に風を切る音が重なって、祐希は我に返った。鋭く空気を裂く音は思いのほか大きく、河川敷に腰を下ろした祐希のすぐそばで聞こえた気がする。あたりを見回すと、数メートル上流に人影があった。二十代半ばと思しき青年が、風を切る音を響かせて釣り竿を振っている。

(いつの間に?)

 護岸が敷かれているのは川沿いだけだ。水辺へ下りる階段状の斜面と、幅2メートルほどの遊歩道。それ以外の河川敷は子犬さえ通れないほどに芦が密生している。青年が上流で釣りをしているということは、祐希のすぐ背後を通ったはずである。暑さに朦朧とし、今回の無謀な挑戦の発端を回想していたとはいえ、足音がすれば気付くはずだ。

(しなかったのか? 足音・・・・・・)

 振り向くと堤防の上で、いかにも古そうな赤い軽四駆が停まっていた。ホロを外してオープンにしている。来た時にはなかった車だ。青年が乗ってきたのかもしれない。

 彼の釣りは見たところルアーフィッシィングのようだが、バス釣りにしては竿が長い。一般的なバスロッドは長くとも2メートルだが、青年の操る竿は3メートル近い。ルアーは小魚を模した「ミノープラグ」と呼ばれるタイプだが、サイズはやはりバス用に比べてやや大きい。

 いつしか夏の陽は傾き、川を渡る風が復活して火照った祐希の頬を撫で、集中力を呼び覚ます。逆光気味の青年は、ルアーを投げては巻く動作を繰り返していた。なぜか奇妙な違和感を覚えて、祐希は目が離せない。やがて違和感の正体に気付いた。

(着水音がしない)

 青年のルアーは目測で50メートルを越え、気持よく飛んでいく。キャスティングは鋭い。肉体的な“りきみ”は見て取れないのに竿は(/むち)のようにしなり、空気を裂く音が辺りに響く。背後の草原で(/さえず)るヨシキリの声にかき消されたのかとも思ったが、水飛沫(/しぶき)もあがらないので、やはりルアーの着水を意図的に消しているのだろう。神業を操るの青年は麻のシャツにジーンズというラフな格好で、頭には涼しげなストローのハンチングを乗せていた。他に持ち物は小さなショルダーポーチだけで、機動性を重視した釣りなのだと判断できる。ルアーを泳がせながら彼は時折、首を傾げたり、うなずいたりしている。水面は流れにきらめいて西日を照り返しており、水中を泳ぐルアーが目視できるとは思えない。なのに視線はルアーの動きを追っているようだ。まるで釣り糸を介し、川と会話しているようにも見えた。

 不意に、青年が鋭く竿をあおった。逆らうように竿先が断続的に絞り込まれる。張りつめた糸の鳴る音を耳にした次の瞬間、祐希の斜め前方で水面が割れた。

「でかっ・・・・・・」一瞬だったが、その光景は祐希の目に焼きついた。

 磨き抜かれたような銀鱗(/ぎんりん)を身にまとう巨大な魚が、飛沫をあげて水面に全身を躍らせ、宙を舞う。空洞のように開いた口に、ルアーの針が食い込んでいた。広げたエラから血のように赤い鰓弁(/さいべん)を覗かせ、魚体をS字にくねらせて、ちぎれんばかりに首を振る―――再び水に戻った魚は力任せに尾鰭(/おびれ)で水を蹴り、リールから釣糸を引きずり出して走る。にもかかわらず青年に(/あせ)りは見られない。むしろ涼しげな笑みすら浮かべている。魚は跳ね、もがきながら、めまぐるしく方向を変えて走る。青年は左右に竿を倒して走りをいなし、ときに竿先を水中に突き入れて暴れを制する。そのたびに、魚は確実に寄せられていた。魚が好き放題に暴れているようにしか見えないが、主導権は始終青年が握っていたのだ。次第に抵抗を弱め、銀色の大きな魚は腹を見せて足元に寄せられる。青年はベルトに下げた皮のシースからフィッシュグリップを抜いた。口が大きく歯の鋭い魚を取り込むためのツールである。ステンレスなどの金属製で、全長は30センチほど。グリップ部にレバーが設置され、人差し指で操作すると先端のアームが開閉する、マジックハンド状の器具だ。魚の下顎をフィッシュグリップで掴んで取り込むとプライヤーで針を外し、水から上げないまま惜しげもなくリリースした。魚影が流れを横切って深みへ消えていった。


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(5)

「あ! もったいない」

 思わず声をあげると、青年が初めて祐希を振り返った。物欲しげな発言をとがめられた気がして言い訳が口をつく。

「いえ、あんまり大きな魚だったんで・・・・・・写真を撮るとか、せめて大きさを測ったりしないのかって・・・・・・」

「大きくはないさ。シーバスとしちゃ中型ってとこだ」青年は独り言のように答える。「それでも60センチを超えてたから、一応『スズキ』と呼べるサイズかな」

「えっ、いまのがスズキ! ここにスズキがいるんですか?」

「ああ。だから狙ってるんだし、事実たったいま釣った。なぜ、そんな当たり前のことを聴く?」彼はそっけなく言い捨て、祐希が護岸に置きっぱなしにしたリール竿に目を向ける。「お前だってスズキを狙ってたんだろ」

「どうして分かるんですか?」

「道具と仕掛けを見ればスズキ狙いなのは一目瞭然だ。ただし、かなり的外れの仕掛けだがな」

「そんな・・・・・・釣具店で教えてもらった仕掛けなのに?」

「その釣具店、最初に予算を聴かなかったか?」

 祐希が言葉に詰まる。図星だった。手持ちの全財産を聴かれるままに申告すると、店員は手早く必要な品物を揃えてくれた。祐希の戸惑いに応え、青年は話を続ける。

「その仕掛けはな、波の穏やかな内湾の岸壁で、夜釣りをするためのものだ」

「夜釣り・・・・・・ああ、だから電気で光るウキが付いてるのか」

「やっぱり知らないで使ってたのか。まあ、一昔前の入門書には『スズキ釣りの仕掛け』として載っているから、けっして間違いではない。だが、ここのような流れの速い川には不向きだ」

「どうりで、すぐにウキが流されて釣りづらいと思った」

「シーバス―――つまりスズキの釣り場は大雑把(/おおざっぱ)に分類しても、河川、砂浜、岸壁、磯、船釣りと様々だ」溜息をつく祐希に苦笑して、青年は釣りを再開しながらも説明してくれた。「釣り場が違えば、釣り方も変わる。釣り方が変われば、道具や仕掛けも別物だ。だから初心者に対して、まともな釣り具店なら、まず客が釣りをする場所を尋ねる。最初から所持金を聴く店には要注意だ。運が悪かったな。お前は初心者で、子供で、フリの客だったため足元を見られたんだ」

 青年の話では、祐希が買った「特価品! 定価の二割引き」の竿とリールもメーカー品ではあるが、廉価(/れんか)版の型遅れのため量販店では定価の四割引きが普通らしい。デイパックに立てかけたリール付きの竿へ、祐希は恨めしげに眼を落とし、呟いた。

「困ったな・・・・・・このリールと竿で資金の大半を使っちゃったし・・・・・・川用の道具を新たに揃える余裕はない・・・・・・」

「安心しろ、竿とリールは川でもそのまま使えるよ。オモリなどの小物を買い足すだけでいい。ただし、人工餌よりは生き餌のほうが有利だ。イソメかゴカイも買っておけ。それで胴突き仕掛けの投げ込み釣りをすれば、今よりはスズキと出会える確率が飛躍的に上がる」

「あ、ケータイにメモします・・・・・・えーと、ドウヅキ仕掛けの、ナゲコミ釣り・・・・・・」

「メモする必要はない。商店街に『マスヤマ』という釣具店がある。信頼できる店だ。そこで利根川の『走馬落し』でスズキが釣りたいと言えば、必要な小物を揃えてくれる。エサと合わせても1000円前後で済むはずだ」

「助かったー!」祐希の財布には、まだ千円札が数枚は残っていた。

 青年は必要なことをすべて伝えたと判断したらしく、再び川との会話に集中した。祐希は「的外れ」の仕掛けを回収し、今日の釣りをあきらめて帰り支度を始める。落胆はなかった。むしろ初日にしては上出来だ。現在でも利根川にスズキは遡上し、釣れる事実を確認したのだ。

(間違いはない。ついさっき、目の前で60センチを超えるスズキが・・・・・・え? 60センチ・・・・・・)

 川風が吹き抜け、祐希の背筋を冷たく撫でた。青年が釣りあげた60センチのスズキでも、かなり巨大に見えた。だが、かつて祖父の道太郎が釣りあげた超大物は―――そしてこれから祐希が狙おうとするスズキは、ほぼ倍のサイズであると、いまさらながら気付いた。夕日でオレンジ色に染まる川を見つめながら、鳩尾(/みぞおち)を裏側からくすぐられるような感触を覚える。それが不安なのか期待なのか、判断はできない。

(無理だって・・・・・・いくらなんでも無謀だって・・・・・・)

 内心で呟きながらも、祐希は無意識に笑っていた。


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第2章 空回り、振り出しに戻る

 

(1)

 朝食を済ませると、祐希は伯父の家を飛び出した。

「今日は忙しいぞ」呟いて、クロスバイクを駆る。

 図書館で調べ物をして、釣具店で必要な道具を揃え、夏休みの宿題もノルマをこなし、夕方までに走馬落しへ到着し、万全の態勢でスズキ釣りを始めなければならない。

 昨夜は、よく眠れなかった。夕暮れの河原で出会った見知らぬ青年の釣ったスズキの暴れまわる姿―――水面を爆発させ、全身で怒りを表現した筋肉質の、それでいて金属的な魚体が、閉じた(/つまぶた)の裏でちらつき、まどろみと覚醒を繰り返した。寝不足気味で少しふらつくが、悪い気分ではない。むしろ高揚している。

 集落を抜け、一直線の田んぼ道へ出た。辺りはまだ夏の陽に焼かれる前の、ひんやりとした空気が沈殿している。両側に果てしなく広がる稲の海を横目に自転車を走らせていると、僅かばかりこびりついていた眠気もいつしか消えた。

 田園を走り抜け、用水路の橋を渡り、薄い住宅地の層をぬって商店街へ出る。やはり、シャッターの閉まった店舗が目立つ。町がまだ目覚めきっていないのか、あるいは永眠した店が多いのかは、陽がもっと昇ってみないと分からない。ありがたいことに、青年が紹介してくれた釣具店『マスヤマ』は早くも店を開けていた。店頭には客のものらしき自転車やスクーターが停められて、シャッター通りには珍しく朝っぱらから繁盛している。すぐにでも飛び込みたかったが店の場所を確認しただけで素通りした。お楽しみは後に取っておいて、まずはお勉強だ。

 市立中央図書館は旧市街の商店街と、丘の上の新興住宅地との中間、丘陵地帯のふもとに位置する。広大な駐車場を共有する形で、文化ホールや歴史民族館が併設されていた。いずれも、商店街の寂れ具合や周囲に広がる田園ののどかさとは場違いに、近代的で贅を尽くした建物だった。

 駐輪場にクロスバイクを停めて入館する。早くも太陽は本格的に照り始め、自転車を飛ばして汗ばんでいた祐希にとって、程よい照明と空調が快適だった。真っ先に「趣味・実用」のコーナーに直行し、釣り関係の書籍を物色する。一般的な入門書と、ルアーフィッシィングの解説書を手にし、続いて「自然科学」のコーナーで魚類の雑学本を追加する。受験勉強の学生たちでテーブル席が予約制になっていたため、祐希は空いているベンチシートに陣取って本を広げた。

 入門書は見るからに初心者向けで、川釣りはフナやヤマベ、海釣りならアジやウミタナゴなど簡単な小物釣り重視の構成だ。コイやクロダイなどある程度の技術を必要とする大物釣りは道具、仕掛け、釣り場などの漠然とした解説があるだけで、「スズキ釣り」のページを開いても、祐希が以前、釣具店の店員から教えられた的外れな電気ウキ仕掛けを中心にページを埋めていた。一方で、ルアーフィッシィングの解説書では、予想通りブラックバスがメインの構成だが、次にページの多くを費やしてスズキのルアー釣りを紹介している。ルアーの対象魚といえば、久や良司の話に出てくるブラックバスやブルーギル、そしてマス類と思い込んでいた祐希にとって、前日の夕暮れに目撃した、見知らぬ青年がルアーで当たり前のようにスズキを釣り上げた場面は一時的にルアーフィッシィングの概念が崩壊するほど衝撃的だった。だがこうして調べてみれば何のことはない。スズキは、ことに海のルアーフィッシィングでは一番メジャーなターゲットらしい。寝不足になるほど考え込むことはなかったのだ。ちなみにルアーで狙う場合、スズキは「シーバス」の名称で呼ばれる。ポイントは青年も言ったように港湾、砂浜、磯、河川、ボート釣りなど多彩である。さらに、それぞれのシーンで竿の長さや強さ、糸の太さ、リールの大きさ、ルアーのサイズなど、使用する道具も微妙に違ってくるらしい。様々な解説の中でも、「ルアーは餌釣りよりも大物が釣れる」との記述が妙に印象深く残った。

 もう一冊、魚類の雑学本は直接釣りに役立つ情報はなかったものの、スズキという生物について興味深い知識を得ることができた。食性は貪欲で完全な肉食―――イソメやゴカイなどの環形動物、アサリなどの貝類、エビ、カニ、シャコなどの甲殻類、イカ、タコなどの頭足(/とうそく)類、魚類全般―――およそ目に付いた生物は、口に入るものならば何でも丸呑みにする。70センチほどもあるスズキの胃から30センチ近いボラが見つかったとの記録もあり、場合によっては自分の体長と比較して半分ほどの生物までが捕食対象となるらしい。

 行動範囲も広い。外洋の深みで産卵と越冬をしたスズキは春の訪れとともに沿岸に回遊。一部は海から川を遡る稚アユの群れを追って河川へ入り、堰などの障害物がなければ最大で200キロほど遡上するらしい。前日、祐希が試し釣りをした利根川の通称「走馬落し」は、地図で調べると、河口から100キロ弱だった。あの青年がスズキを釣り上げたとしても不思議ではなく、伯父が心配していた河口堰の魚道も一応は機能していたということになる。

 スズキの遡上を調べる過程で分かったことがもうひとつある。魚が川と海を行き来するのは、人間が―――少なくとも祐希が考えるより大変なことらしいのだ。魚の細胞を満たす体液の塩分濃度は淡水と海水の中間らしい。細胞膜は、水分を通すが塩分は通さない半透膜(/はんとうまく)であるため、海水では脱水状態の、淡水では水ぶくれの危険にさらされている。そこで魚類は腎臓の腎小体(/じんしょうたい)とエラの塩類細胞(/えんるいさいぼう)によって浸透圧(/しんとうあつ)を調整している。海水魚は大量の水を飲んで余分な塩分を尿と塩類細胞で排出し、淡水魚はほとんど水を飲まずに低塩分の尿を排泄して塩類細胞から必要な塩分を吸収する。多くの魚類はどちらか一方の機能しか持たないが、スズキのように川と海を行き来する魚は両方の機能を持ち、季節によって切り替わるらしい。

 高学年とはいえ小学生では「浸透圧」も「半透膜」も習っていなかったが、場所が図書館だけに辞書や参考資料は自分の体重より充実していた。魚を釣るうえでは直接関係ない生物学的な知識にすぎないが、少しでも魚に近付けた気がして心が躍った。



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