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第1章 伯父の家、祖父の川

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第1章 伯父の家、祖父の川

 

(1)

 電車を降りた祐希は、暑さに次いで異様な感覚を味わう。

 思わず足を止めても通行の妨げにはならない。他に乗客は制服姿の女子中学生が二人と老婆が一人だけだ。違和感の正体はすぐ判明した。終点の駅舎は平屋で、しかも階段という駅には必須の設備が見当たらない。

「そうか、これでいいんだ」

 乗り換えた私鉄は単線で、終点のホームは1本だけだから階段がなくとも不都合はないのだ。終点と言っても、JRの連絡駅の間には無人駅がひとつあるだけで、車両は1両編成だった。オモチャのような路線を初めて見た時、祐希は本気でなにかのアトラクションだと思ったものだ。普段は1輌だが、朝夕の「ラッシュ時」には2輌編成になるらしい。

 ホームを端まで歩くと「自動」ではない改札があって、祐希は初めて駅員に切符を渡すという行為を体験した。続く薄暗い駅舎は教室ほどの広さで、切符売り場と待合室と売店がコンパクトに融合していた。コンクリートの床に設置されたベンチに人影はなく、掲示板の横に設置されたブラウン管式のテレビが投げやりに昼のニュースを報じている。駅舎を抜けて直射日光の支配下へ踏み出すと、懐かしい声が響いた。

「祐希君よく来たね。こっち、こっち」

 目を向ければ、すぐそばに見慣れた軽自動車が停まっている。かたわらに立つ伯父の桐丘義史(/きりおかよしふみ)は、吹き出る汗をタオルでせわしなくぬぐっていた。ロータリーのない駅前は、何の計画性も感じられないアスファルト敷き広場だ。周囲には駐輪場とつぶれた書店。シャッターの閉じた居酒屋は閉店しているのか準備中なのか判断がつかない。まだ目が慣れないせいか、景色は光であふれ、やたらとコントラストが強い。義史の車は、堂々とバス停のまん前に停車している。挨拶も忘れ、祐希は伯父に走り寄った。

「義史伯父さん、出迎えは嬉しいけど、こんなとこに車を停めたら交通の妨げですよ。バスの運転手に叱られる・・・・・・」

「心配ないよ。バスはさっき出たばかりさ。あと2時間は来ない」

 笑い飛ばした伯父の言葉に嘘はなかった。停留所に取り付けた時刻表を確認すると、空白の枡目が目立つ。駅前とは思えない交通事情だ。そんな田舎にあって、伯父の風貌は浮いている。長めの髪にツーポイントの眼鏡、ゆったりした麻のシャツに白のチノパン。地元の高校で数学の教師をしており、普段から生徒と触れ合っているためか、妙に都会的で若作りなのだ。

 義史がドアを開けてくれた後部座席にデイパックとリール竿を積み込んで、祐希は助手席に収まる。車はアイドリング状態で待機していたらしく、心地よくエアコンが効いている。にもかかわらず、わざわざ外で待っていた伯父が微笑ましくもあり、ありがたくもあった。シートベルトを締めながら祐希は、運転席へ乗り込んだ義史へ改めて一礼する。

「今回は僕のわがままで突然押し掛けてしまい、申し訳ありません。いろいろとお世話になります」

「何をいまさら他人行儀なこと言ってる」義史は祐希の肩を軽く小突いて笑い飛ばすと、サイドブレーキを解除して車を出した。「むしろ嬉しいよ。次に来るのは来年の夏って予定だったろ。いままで毎年会っていただけに、今年の夏は寂しくなるって、絹江(/きぬえ)さんと話してたんだ」

 義史の妻は絹江という。料理好きで、納得がいく食材を確保するために自分で有機栽培の野菜を作り始めた。専業主婦とは思えないバイタリティーの持ち主だ。

「祐希君、ちゃんとお腹は空かせてきた? 絹江さん、張り切って朝から昼食の仕込みをしていたから、覚悟しておいたほうがいいよ」

「ええ、伯母さんの料理を楽しみにしてきましたから。電車の中でもおやつを我慢したんで、かなり空腹です」

 駅前の五叉路を通過して、車は商店街に入った。相変わらず、開いている店よりも閉まっている店のほうが多い。行き交う人も、自転車もバイクも車も、不自然なほど少ないのは陽射しと気温のせいだけではない。地方都市では定番の「シャッター通り」と呼ばれる現象だろう。通りの中ほどで、交差点を南へ折れる。商店街の裏側に密集する、さほど幅のない住宅地を通過し、用水路に架かる橋を渡ると風景が一気に開けた。

 見渡す限りの水田。

 緩やかな南風に波打つ稲を隙間なく湛えた緑の平原。深みのある青に硬質の雲を浮かべたコントラストの強い夏空。その狭間(/はざま)、地平が不均衡に隆起したような黒っぽい(/かたまり)が彼方に横たわる。集落だ。防風を主な目的とした屋敷林(/やしきりん)を擁する農家が寄り添って、濃い緑色の要塞を形成している。

 伯父の家も、その集落にあった。緑の絨毯を一直線に切り裂いて伸びる農道は、集落へ入ると途端に曲がりくねって分岐が増える。塀や生け垣に挟まれて視界は制限されるものの、樹木に守られている印象もあって不思議と閉塞感がない。

 生け垣越しに、存分に枝を張ってそびえる青桐(/あおぎり)の木。それが伯父の家の目印だ。生垣の切れ目から敷地に入ると、庭を隔てた正面が母屋。瓦ぶきの2階建てで、比較的近代的なデザインの和風建築。車は庭の右手に建つ、ガレージを兼ねた物置に入った。母屋に引けを取らない大きさで、昔は様々な農機具を収納した、この地方で「マデヤ」と呼ばれる建築物だ。車を降りて庭を通り、玄関へ向かう。青桐の木陰を通り過ぎるとき、大人の顔ほどもある葉が微風にそよいで触れ合い、(/ささや)くように出迎えるのもいつも通りだった。

 開けっ放しの玄関で伯母の絹江が出迎える。Tシャツにジーパンというラフな格好の上からチェック柄のエプロンを着けていた。セミロングの髪は襟足で無造作に結わえている。微笑んだ顔が程よく日に焼けて、真っ白な歯が際立つ。手足の長い、健康的な女性だ。

「すぐに昼御飯の支度ができるからね。手を洗って待ってて」

 それだけ言うと絹江は台所へ引き返す。あらたまった挨拶は何もない。それもいつも通り。

(僕はこの家を訪れたのではなく、帰ってきたのかもしれない)

 祐希の脳裏(/のうり)を、ふとそんな思いがよぎる。下駄箱の上で会津若松の郷土玩具「赤べこ」が微かに首を揺らす。絹代が福島出身で、結婚当初から飾ってあるという。義史とは東京の大学で知り合い、在学中から付き合い始めたらしい。地元の県立高校に職を得て卒業と同時に帰郷した義史を追いかけるようにこの家へ嫁いだと聞くが、全ての事情を知っているわけではない。結婚して10年以上たつが、二人の間に子供はなかった。それだけに祐希がこの家を訪れるとき、伯父夫婦は全身で歓迎し、思いの限りもてなすのだ。今回の急な訪問を半ば思いつきで決行してしまったのも、寛容な伯父夫婦に付け込む気持ちがなかったと言えば嘘になる。

 車のキーを手にした伯父と並んで玄関に上がると、祐希はささやかな後ろめたさを振り切るように言った。

「僕、お爺ちゃんに挨拶してきます」


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(2)

 玄関から茶の間を通り抜けて奥の間に入る。と言っても障子や襖は開け放してあるので、畳の上を数メートル歩いて移動したに過ぎない。奥の間は八畳の和室。仏壇のある部屋で、長押(/なげし)鴨居(/かもい)にはご先祖様の遺影を納めた額縁が並んでいる。そのほとんどは白黒で、カラー写真は二つだけ。一つは祖母の写真で、亡くなったのは祐希が生まれて間もない頃だったため記憶にない。もう一つの写真には見覚えがある。いや、あるなんてもんじゃない。祐希が今回、単身この家を訪れる原因となった、祖父の道太郎である。

 かつてこの家で、伯父夫婦以上に祐希の訪問を歓迎してくれた祖父は、もうこの世にいない。

 長い時代、供養の数だけ線香の煙に燻されて鈍い光沢を放つ仏壇は、天井の一角に影を映すほど大きい。祐希は背伸び気味で線香に火を(/とも)し、(/りん)を打ち、手を合わせる。

 昨年の年明け、道太郎は脳溢血(/のういっけつ)で命を落とした。明け方に起きだして川に仕掛けた寒鮒(/かんぶな)を獲るための網を上げようと玄関を出たところで倒れた。絹江が起床したばかりで発見が早く、すぐに救急車を呼んだため病院への搬送に費やした時間は最短で済んだが、それでも祖父は三日間眠り続け、意識を取り戻すことがないまま息を引き取った。

 近年の習慣にもれず、一周忌は初七日と合わせて済んでいる。昨年の夏に新盆で訪れてから、次の法要は年明けの3回忌。孫の来訪を楽しみにしていた祖父が亡くなり、祐希の父親も毎年実家へ帰省する理由はなくなった。本来であれば今年は、この家を訪れる予定はなかったのである。

(お爺ちゃんのせいだからね・・・・・・)

 内心で(/つぶや)き、横目で遺影を見上げる。額縁の中の祖父はいたずらっぽく笑っているように見えた。

「祐希君おまたせー。できたよー」

 絹江の声に茶の間へ目を向ければ、和式テーブルに昼食の用意が整いつつあった。早くも義史は定位置についている。

 メインは祐希の大好物であるハヤシライス。スープはジャガイモの冷たいポタージュのようだ。サラダボールの中身は色の濃いキュウリとトマトが主役。どちらも絹代が育て、さっきまで畑に生っていたものだろう。テーブルの中央では、やはり採れたてと思われるトウモロコシが金笊(/かなざる)の中で湯気を立てていた。濃厚な料理の気配が、微かに漂っていた線香の香りを圧倒する。蘇った空腹にせかされて祐希がテーブルに着くと、三人が申し合わせたように「いただきます」を唱和し、庶民的ながらも贅沢(/ぜいたく)な昼食を始めた。

「そういえば、いつもお爺ちゃんが言ってたよね。この家の目の前で1メートル20センチを超えるスズキを釣り上げたって」

 食欲に任せ、ハヤシライスを一気に半分ほど吸収し、麦茶で喉を潤してから祐希は用意してあった問いをさりげなく投げかけた。伯父夫婦は一瞬顔を見合わせると隣の仏間を振り返る。開け放った襖越し、道太郎の遺影に目を向けたのだろう。

「そうそう。あたしがこの家へ嫁いできて以来、ことあるごとにそんな話をしてたわねえ」

「絹江さんはまだいいさ。私なんて物心ついた頃から耳にタコができるほど自慢話を聞かされたんだから」

「伯父さんが物心つく頃って・・・・・・それじゃあ、お祖父ちゃんの話って、そんな大昔の出来事だったの?」

 祐希が漏らした純粋な反応に、義史が引きつった笑みを浮かべて反論した。

「おーい、大昔はないだろ。原始人じゃあるまいし・・・・・・まあ、40年ぐらい前の出来事なのは事実だけどね」

「この家の前を流れる利根川の、どの辺りで釣ったのか、具体的なポイントとか覚えてないかな、伯父さん?」

「覚えてない―――というより聞いていないな。確かだ。父さんは川魚漁師としのプロ意識が高かった。大物を獲った具体的なポイントは誰にも教えない。たとえ実の息子にもね」

「そういえば自慢話は数え切れないほど聞いたけど、お義父さんが場所に触れたことは一度もなかったわ」

 初めて気づいたように絹江が大きく(/うなず)いた。義史は機械的にハヤシライスのスプーンを口に運びながらも茶の間の隅に置いた祐希の荷物―――デイパックと立てかけられたリール竿―――に目を走らせ、数学教師らしく祐希の質問から目的への逆算を試みた。

「ひょっとして祐希君、今回うちへ来たのは大物のスズキを釣るためかい?」

「まさか。そんな大それたこと、考えてないよ!」

 図星を突かれ、反射的に否定した。隠し事をするつもりはないが、妙に気恥かしい。プロの川魚漁師が成し遂げた栄光をなぞる―――小学6年生には高すぎるハードルだと祐希も自覚している。それに今回のひとり旅の理由を、両親には自由研究のためだと説明してあったし、「久しぶりに伯父さんたちに会いたい」の一言も忘れずに付け加えていた。両親を通じて伯父夫婦に伝われば、急な訪問でも寛容な心で受け入れてもらえると考慮してのこと。健気(/けなげ)にも大人に気を使い、狡猾(/こうかつ)に策略を練ってもいるのだ。

「夏休みの自由研究で農村の川に棲む生物を調べる必要があるからさ。その釣り竿は単なる調査の道具だよ」

 いつの間にか止まっていたスプーンの運動を復活させる。複雑な事情を伏せた後ろめたさと一緒に、残り半分のハヤシと夏野菜のサラダ、スープを均等なペース配分で消費した。絹江がハヤシの「お代わり」を勧めたが、祐希は丁重に辞退し、金笊の茹でたトウモロコシに手を伸ばす。これも大好物だ。まだ温かな黄色い粒を1列ずつ齧りとる感触と、口に広がる甘みに集中する。

「結局、お義父さんが大物のスズキ釣った場所の特定は難しいってこと?」

 言いながら絹江が食事の手を止め、麦茶を注ぎ足す。食べ終えた義史がグラスを手にして頷いた。

「ひと口に『家の前を流れる川』と言っても利根川は広いからね。200キロ以上上流の源流付近も、100キロ近く下流の河口も、広義に解釈すれば『家の前を流れる川』には違いない。それは極端な話としても、軽トラックや船外機付き和船を使いこなしていた父さんの行動半径は、かなり広かったのは事実だ」

 やはり担任の言った通り、祖父は河口で釣ったスズキを拡大解釈して「家の前を流れる川で釣った」と表現したのだろうか。だとすれば、突発的に伯父の家を訪れたこの計画自体が空回りに過ぎない。そんな祐希の不安をよそに、義史は麦茶で口を湿らせながら思いつくままに客観的事実を口にする。

「40年ほど前と言えば、ずっと下流に河口堰が建設されたのは、その頃じゃなかったかな?」

「・・・・・・カコーゼキ?」

「別名を潮止(/しおど)め水門とも言う。その名の通り海水の逆流を防ぐ水門だよ」祐希の何気ない問いに、義史が教師の本領を発揮して説明を始めた。「基本的に川の水は淡水だけど、河口付近は海水と混ざって汽水になっているのは知っているだろう。この塩分を含んだ水は潮の満ち引きや低気圧による高潮などで、農地があるような上流まで逆流することがある。すると塩分に弱い作物に被害が出る。塩害(/えんがい)という現象だ。この塩害を防いで農地を広げるために河口堰が建設されたんだ」

「プロジェクトX的でカッコいいけど、なんか『河口堰』って悪いイメージがあるんだよね。新聞とかニュースとかでは」

「確かに。物理的に川を堰き止めることになるため、水がよどんで富栄養化(/ふえいようか)しやすくなり水質が悪化したといわれる。また、サケやアユ、ウナギ、そして問題のスズキなど、海と川を行き来する魚類にとっては移動の妨げになる」

「じゃあ、もう利根川にスズキはいなないの?」

「そんなことはないさ」一瞬、青ざめた祐希の動揺を、すぐに義史が笑い飛ばした。「水量や潮の干満によって水門を開閉するし、建設当時は形ばかりだった魚の通り道“魚道(/ぎょどう)”も近年、より遡上(/そじょう)しやすいように整備された。確かに、利根川の河口堰は生物の移動を制限する障壁となっているが、完全に遮断されてはいない」

「それでもお父さん、ことあるごとに『魚が減った』って嘆いてた・・・・・・増えたのは外国の魚ばっかりだって・・・・・・」

 絹江の回想に頷いて、義史が説明を続けた。

「河口堰の建設、生活排水による水質の悪化、護岸工事や浚渫(/しゅんせつ)による河川の均一化、ブラックバスをはじめとする外来魚の繁殖―――この40年、利根川も変わった。“昔はよかった”的な感傷を割り引いても『魚が減った』という父さんの言葉は真実だろう」

 もうこのぐらいにしておこう―――祐希はそう思った。まだ聞きたいことはあったが、悪い話ばかりが出そうな気配だ。小学生が1メートルを超えるスズキを釣ろうなど最初から無謀な目標であることは百も承知だが、スタートしてもいない段階で出鼻をくじかれるのはあまりにも悲しい。なにより、その程度の話であれば現地へ足を運ばずとも電話で確認できたのだ。来てしまったからには余計なことに悩まず挑戦し、何度も挫折し、心が折れて、それからでも(/あきら)めるのは遅くない。

(・・・・・・って、いつの間にか諦めるの前提になってるし)

 祐希の勇み足をあざ笑うように、軒先で風鈴が鳴った。


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(3)

 昼食を済ませた祐希は早速、川へ向かうことにした。祖父が大物を仕留めた場所を特定できないからには、広範囲にポイントをリサーチする必要がある。ゲームソフトを諦め、全財産をはたいて購入した釣り竿やリールの操作にも慣れておきたい。とにかく時間が惜しかった。

 初日から見通しの立たない状況で、移動手段が確保できたのは嬉しい誤算だった。

「祐希君、ウチに滞在するあいだ、この自転車を自由に使うといい」

 そう言って義史がマデヤから出したのは新品のクロスバイクだった。

「ありがとうございます! でも、いいんですか?」

「遠慮することないわよ」感激しながらも戸惑う祐希に、絹代が意味ありげに微笑む。「祐希君が来るまで、その自転車はマデヤで無用の長物と化していたんだから」

 説明によればクロスバイクは義史がこの春、「健康のため」と衝動買いした品らしい。

「マイカー通勤は運動不足になるとか、排気ガスを出すからエコじゃないとか、色々と理屈をつけて買ったはいいけど、その自転車通勤も二日で頓挫(/とんざ)よ。まったく、三日坊主にもなりゃしないんだから」

「仕方ないだろう絹江さん。三日目が雨だったんだから。健康のために始めた自転車通勤なのに、雨の中無理して自転車に乗って風邪をひいたら本末転倒だよ」

「その日から毎日雨が降ってるわけでもないでしょーに。せめて天気のいい日は自転車通勤すればいいじゃない。せっかく買ったんだから」

「教え子に不登校気味の生徒がいてね、雨が降ると学校を休むんだ。で、月曜が雨だとその勢いで一週間欠席してしまう。おかげで私は最近、彼の気持ちがよく理解できるようになったんだ。うん」

 義史はワケの分からない自慢話で誤魔化(/ごまか)した。なにはともあれ“アシ”を確保できたことは心強い。どちらかといえば小柄な義史の乗っていたクロスバイクは、サドルを調整すると祐希も両足がついた。見届けた義史が満足気に頷く。

「くれぐれも、安全運転でな」

「熱中症にならないように、こまめに水分補給しなさいね」

 新品のリール竿がはみ出たディーパックに、絹江は麦茶を詰めた2リットルのペットボトルを押し込んだ。ショルダーハーネスが肩に食い込む。

「それじゃあ、行ってきます」伯父夫婦に一礼すると、祐希は自転車をこぎ出した。

 生垣の切れ目から、集落を巡る道路へ出る。アスファルトで舗装されてはいるものの、センターラインも路側帯(/ろそくたい)もない道路は、軽自動車がやっとすれ違えるだけの幅しかない。家々から張り出した木の枝が頭上を覆い、路面に影を落として熱気を和らげていた。降り注ぐ木漏れ日をぬって走り抜け、記憶をたどっていくつか角を曲がると、やがて木陰の保護下を抜け出た。容赦ない夏の陽射しが照りつけるその前方に緑の壁が立ちはだかる。

土手(/どて)だ!」懐かしい光景に、思わず声をあげた。

 視界の下半分が堤防にはびこる草の緑、上半分は澄み渡った夏空の青。土手を斜めに走る砂利道を立ちこぎで最上段まで駈け上ると一気に視界が開ける。右には堤防のなだらかな曲線を一辺とした集落の密集した木々と、その向こうに果てしなく広がる田園地帯。左には広大な河川敷を擁し、穏やかな流れが鏡となって空と雲を映す利根川の水面。地球の丸さを実感できそうなほどのパノラマ。陽射しを遮るものは一切ないが、(/あし)の群落を揺らして川を渡る風は思いのほか涼しく、祐希の額に浮いた汗を間歇(/かんけつ)的に拭ってくれる。懐かしい感覚を全身に感じながら、堤防の最上段で自転車を走らせていると、この地を訪れた目的や不安もしばし忘れた。堤防は3段で、1段目が舗装された車道。2段目は未舗装で草刈り機や工事車両を一時的に置いておくスペースらしい。刈られた草の束もこの中段に等間隔でまとめられていた。そして最上段が簡易舗装された遊歩道になっている。乾いた草の香りが濃厚に満ちていた。

 やがて土手は緩いカーブを描く。支流との合流点に到達したのだ。進行方向に塔のような建築物が見えてくる。大きな水門だ。水門の開閉を操作する「上屋(/うわや)」と呼ばれる設備が三つ、整列したキリンの首のように伸びている。利根川本流に小河川が流れ込むポイントだ。

「たしか『走馬落(/そうまおと)し』だっけ」

 必殺技を連想させる地名の由来は不明だが、祖父をはじめとする地元の人々は、この釣り場をそう呼んでいた。

 祖父が大物のスズキを釣った場所は特定できなかったが、その日の目的地は決まっていた。走馬落しは生前の祖父に何度か連れてきてもらった場所だ。この日は初めて使う釣り道具の操作に慣れることが最優先で、釣りはついでのようなもの。水のある場所ならどこでもよかったが、どうせなら過去に訪れたことがあり、フナやヤマベなどの小物とはいえ、魚を釣った思い出のある場所のほうが心強い。

 祐希は水門の側にクロスバイクを停めてチェーンロックを掛けると、整備された階段を河川敷へと降りていく。流れ込み一帯は親水(/しんすい)性と安全性を考慮して、煉瓦(/れんが)を模したタイルを敷き詰め、緩やかな階段状に護岸整備されている。水門から本流までは100メートルと少し。多くの釣り人が竿を出している。

(前に、お祖父ちゃんと釣りをしたのも、この流れ込みだった)

 護岸を歩きながら、祐希はかつての自分と祖父の姿を探すように、釣り人たちの背中を眺めた。

(いろんな魚が釣れたっけ・・・・・・)

 フナにヤマベにウグイにニゴイ。ハスやワタカ、コイやナマズの稚魚、テナガエビにヌマチチブという淡水産のハゼ。小さいのは親指程度、大きくても20センチほどで、気楽な小物釣りだが魚種は豊富だった。いま見渡しても護岸に並んだ釣り人たちの竿は細く、リールの付いていない「のべ竿」である。水面の浮きも小さく仕掛けも繊細だ。彼らは数メートルの間隔を空けて釣り座を定めていたので祐希が間に入るのも難しくはなかったが、小物釣りを楽しむ人々に割り込んで大物釣り用の厳ついリール竿を出すのは気が引ける。釣り座を決めかねて流れ込みの護岸を進めば、すぐに利根川との合流点に達した。護岸はアールを描きながらも直角に折れ、上流へ伸びる。階段状の護岸は50メートルほどで、そこから上流は複雑にテトラポットが入っている。流れ込みの角から先には、なぜか誰もいない。階段状の護岸を中程まで進んだ場所で、祐希は釣り竿を出すことにした。

「ここなら新品の釣り具を試すにはもってこいだ。暴投して周りに迷惑をかけることもないし」

 カーボンファイバー製の投げ竿3,6メートルに中型のスピニングリールをセットし、仕掛けを作る。道具はすべて自宅付近の釣具店で揃えた。住宅地から少し離れた場所で、ファミリーレストランやホームセンターなどと並んで店を構える釣具店。家族で食事や買い物に出掛けるとき、父親の運転する車から見て場所は知っていた。自転車でも行けない距離ではない。店舗は個人経営にしては大きく、チェーン店にしては小さく中途半端な印象があるものの、店主と思われる中年男性の商品選択には年季が入っているらしく、祐希の「スズキ釣りの道具を探してる」という漠然(/ばくぜん)とした要求に頼もしく頷き、予算を聞いて手早く店内を一巡するや、竿やリールからウキ、オモリ、ハリなどの小物類まで、5分とかからずに揃えて見せた。エサはイソメやゴカイなどの環形(/かんけい)動物―――海に棲むミミズと考えて間違いない―――とのこと。生き餌ならば現地調達せねばならず二度手間かと溜め息をつけば、店主は心配無用とばかりに「釣り餌」の棚からペンケース大のパックを取り出して見せた。偏平で青白いミミズ状の物体が十数本、整然と並んで怪しい液体とともに真空パックされている。パッケージには「ケミカルイソメ」なる商品名が踊っていた。店主の説明によれば偉大なる「ケミカルイソメ」は形も食感も本物のイソメに限りなく近づけるとともに魚の好むアミノ酸を濃縮して練り込んだ人工の餌で、常温で1年以上保存が利き、しかも生分解素材で環境にも優しい最先端の釣り餌だという。祐希はハイテクに感動した勢いで購入。すべての合計金額は見事、あらかじめ祐希が提示した予算にぴったり納まった。しかも、売り物の「釣り入門」からスズキ釣りの仕掛け解説のページをコピーして持たせてくれるという行き届いたサービスぶりだった。

 そのコピーを参考に、LED内蔵の電気ウキをセットした仕掛けを組み、セイゴ針12号にケミカルイソメを刺して準備完了。リールの操作は、クラスメイトに誘われてブラックバス釣りをした経験があるため覚えている。リールの固定部で竿を握った右手人差し指に釣り糸をかけ、糸を巻き取るためのベールアームを起こしてリールをキャスティング体勢に整える。肩に担ぐように構えた釣り竿を、斜め上前方―――10時の位置まで振ったタイミングで指にかけた糸を放す。思いのほか竿がしなってフライ気味になったが、仕掛けは緩やかに放物線を描き、やや右にズレながらも距離にして20メートルほど飛び、派手な水音を立てて着水した。

「第一投目にしては、まあまあかな」祐希は余分に出た糸を巻き取って護岸に腰を下ろし、釣り竿を保持する。「後はウキにアタリが出るまで、じっくり待てばいい・・・・・・」

 じっくり待つ暇などなかった。前方やや右手に着水したウキは見る間に流され、水面で弧を描き、下流の岸辺に打ち寄せられてしまった。釣り人が流れ込みに集中し、合流先の利根川には誰もいない理由を祐希は理解した。本流は流れが強いのだ。仕掛けを回収して再び投げてみたが結果は同じだった。仕方なく合流部の角まで移動して仕掛けを投入。やはり仕掛けは流されたものの今度は打ち寄せられる岸がない。ウキは利根川の強い流れと流れ込みの弱い流れがせめぎ合う水のヨレで不安げに漂った。小さく頷いて祐希はデイパックに竿を立てかけ、護岸に置く。

 とりあえず釣りの形にはなったが、出だしから状況に翻弄(/ほんろう)されているのは明らかで、まったく魚が釣れる気がしなかった。


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(4)

 勉強もスポーツもほどほど。友達は多からず少なからず。成績も体格も性格も中程度。ごく一般的な小学6年生男子。それが学校での祐希の立ち位置である。何事にも努力は怠らないし姿勢だって前向きだ。なのに全てにおいて平均に甘んじ、伸び悩んでいる。多くの場合、努力の方向性が微妙にずれ、的が外れて行動の歯車が空回りしてしまうせいだ。

(また、的外れなことをしてるんじゃないだろうか?)

 流れの狭間でもまれ、頼りなく揺れるウキが自分自身と重なって、祐希は不安に駆られる。

 風がやむと河川敷は、陽射しと水面の照り返しと湿気の三重苦で、座っているだけで汗が止まらない。2リットルのペットボトルは急速に中身が減っていく。絹江に渡されたときは「大袈裟(/おおげさ)な」と思ったが、彼女の判断は正しかった。

 太陽の反射で瞬く水面で不規則に揺れるウキを見つめていると、催眠術でもかけられたように意識が朦朧(/もうろう)とする。

 不意に笑い声が響き、祐希は反射的に周囲を見渡す。高校生だろうか、対岸に若い二人組の釣り人。キャップにサングラス、片手で扱えるリール付きの短い竿、対岸まで届く陽気な気配、典型的なバス釣りだ。

(考えてみれば、すべての始まりはバス釣りだった・・・・・・)

 祐希のクラスにブラックバスのルアー釣りを趣味とする二人の友人がいる。関内久(/せきうちひさし)田辺良司(/たなべりょうじ)だ。祐希も彼らに誘われて道具を借り、一緒にバス釣りをしたことがある。言われるままに「ワーム」と呼ばれる塩化ビニール製のルアーを何も考えず投げては巻いていると、20センチほどのブラックバスが釣れた。久も良司も「ビギナーズラックだ」とからかいながらも自分のことのようにはしゃいだ。彼らによれば、「一匹釣ったらルアーにはまる」とのことだったが、そんなことはなかった。父親にアウトドアの趣味がない影響だと祐希は思う。良司は小学校低学年から家族でマスの管理釣り場へ通っていたし、久の父は昔からルアーフィッシィングにのめり込んでいたと聞く。

 その久が、最近父親に連れられて芦ノ湖(/あしのこ)へ遠征し、見事52センチのブラックバスを仕留めた。小学生にとっては快挙と言える釣果だ。デジタルカメラで撮影した画像をプリントアウトして学校へ持ち込み、教室で披露した彼は一躍ヒーローになった。山並みを背景に湖水へ浮かぶボートの上、魚というよりは子犬を抱くように、右手で巨大なブラックバスの下顎を掴み、左手で腹を支えた写真に、祐希をはじめクラスメイトが見惚れた。久の笑顔も、(/つや)やかなブロンズに輝く魚体も、夏を待つ山上湖の風景も、鮮やかで躍動感に溢れていた。そこまではよかったが、クラスメイトの興奮が冷めるにつれ、話が微妙に(/)れていった。

「あたし近所の魚屋さんで、同じぐらいの大きさのヒラメ見たことあるよ。やっぱり幅ならヒラメよね」

「だったら長さはタチウオだね。この前、アメ横に売ってた。ホント、日本刀みてーの」

「スーパーでやってた解体ショーのマグロ、でかかったぜ! 2メートル近くあったな」

「私の叔父さん、ワニガメ飼ってる。甲羅が教室の机ぐらいあるんだよ」

 ルアーフィッシィングの大物自慢のはずが、いつしか「私の見た大きな魚」へ会話がズレていた。しかも亀にまで話が飛んでいる。久にしてみれば、さぞ不本意な展開であろう。心中を察すべきだったと、いまも後悔しきりだ。久本人も気づかぬままに積もった苛立ちが崩れ落ちる直前、まさに最悪のタイミングで祐希は口を滑らせたのだ。

「僕のお爺ちゃんが昔、家の前を流れる川で1メートル20センチのスズキを釣り上げたって」

「自慢すんなよ! お前が釣ったワケじゃねーだろ?」

 腹に据えかねたらしく久が声を荒げ、教室が静まり返った。彼はクラスで一番背が高く、運動神経にも秀でている。成績優秀者やイケメンと並んで一目置かれる存在なのだ。

「その話、おかしくないか? スズキって海の魚だろ」

 冷静な問いを発したのは久の釣り仲間、良司だった。彼は、「情熱的で体力勝負」の久に対して頭脳明晰で冷静な理論家だ。良司にとっては純粋な知的好奇心からの質問だったが、クラスメイトたちは彼の尻馬に乗って過剰に反応した。そして「証拠を見せろ」の大合唱となり、祐希は一方的に「嘘つき」呼ばわりされることとなる。急な展開に、一時(/いっとき)は感情的になった久さえ引いてた。久も良司も、祐希が孤立するのを喜んではいなかった。何度かともに釣りをした程度には仲のいい友人なのだ。だが大勢で一人を糾弾(/きゅうだん)する幼稚な快楽は本能的なもので、久や良司がフォローしたところで止まるものではない。孤立した以上、周囲が糾弾に飽きるまで沈黙する以外に成す術はない。だが、孤立はしなかった。たった一人、陰ながらではあるが、祐希を信じたクラスメイトがいた。しかも、以前から密かに思いを寄せていた少女。

「真衣ちゃん・・・・・・」

 思わず呟いた声に風を切る音が重なって、祐希は我に返った。鋭く空気を裂く音は思いのほか大きく、河川敷に腰を下ろした祐希のすぐそばで聞こえた気がする。あたりを見回すと、数メートル上流に人影があった。二十代半ばと思しき青年が、風を切る音を響かせて釣り竿を振っている。

(いつの間に?)

 護岸が敷かれているのは川沿いだけだ。水辺へ下りる階段状の斜面と、幅2メートルほどの遊歩道。それ以外の河川敷は子犬さえ通れないほどに芦が密生している。青年が上流で釣りをしているということは、祐希のすぐ背後を通ったはずである。暑さに朦朧とし、今回の無謀な挑戦の発端を回想していたとはいえ、足音がすれば気付くはずだ。

(しなかったのか? 足音・・・・・・)

 振り向くと堤防の上で、いかにも古そうな赤い軽四駆が停まっていた。ホロを外してオープンにしている。来た時にはなかった車だ。青年が乗ってきたのかもしれない。

 彼の釣りは見たところルアーフィッシィングのようだが、バス釣りにしては竿が長い。一般的なバスロッドは長くとも2メートルだが、青年の操る竿は3メートル近い。ルアーは小魚を模した「ミノープラグ」と呼ばれるタイプだが、サイズはやはりバス用に比べてやや大きい。

 いつしか夏の陽は傾き、川を渡る風が復活して火照った祐希の頬を撫で、集中力を呼び覚ます。逆光気味の青年は、ルアーを投げては巻く動作を繰り返していた。なぜか奇妙な違和感を覚えて、祐希は目が離せない。やがて違和感の正体に気付いた。

(着水音がしない)

 青年のルアーは目測で50メートルを越え、気持よく飛んでいく。キャスティングは鋭い。肉体的な“りきみ”は見て取れないのに竿は(/むち)のようにしなり、空気を裂く音が辺りに響く。背後の草原で(/さえず)るヨシキリの声にかき消されたのかとも思ったが、水飛沫(/しぶき)もあがらないので、やはりルアーの着水を意図的に消しているのだろう。神業を操るの青年は麻のシャツにジーンズというラフな格好で、頭には涼しげなストローのハンチングを乗せていた。他に持ち物は小さなショルダーポーチだけで、機動性を重視した釣りなのだと判断できる。ルアーを泳がせながら彼は時折、首を傾げたり、うなずいたりしている。水面は流れにきらめいて西日を照り返しており、水中を泳ぐルアーが目視できるとは思えない。なのに視線はルアーの動きを追っているようだ。まるで釣り糸を介し、川と会話しているようにも見えた。

 不意に、青年が鋭く竿をあおった。逆らうように竿先が断続的に絞り込まれる。張りつめた糸の鳴る音を耳にした次の瞬間、祐希の斜め前方で水面が割れた。

「でかっ・・・・・・」一瞬だったが、その光景は祐希の目に焼きついた。

 磨き抜かれたような銀鱗(/ぎんりん)を身にまとう巨大な魚が、飛沫をあげて水面に全身を躍らせ、宙を舞う。空洞のように開いた口に、ルアーの針が食い込んでいた。広げたエラから血のように赤い鰓弁(/さいべん)を覗かせ、魚体をS字にくねらせて、ちぎれんばかりに首を振る―――再び水に戻った魚は力任せに尾鰭(/おびれ)で水を蹴り、リールから釣糸を引きずり出して走る。にもかかわらず青年に(/あせ)りは見られない。むしろ涼しげな笑みすら浮かべている。魚は跳ね、もがきながら、めまぐるしく方向を変えて走る。青年は左右に竿を倒して走りをいなし、ときに竿先を水中に突き入れて暴れを制する。そのたびに、魚は確実に寄せられていた。魚が好き放題に暴れているようにしか見えないが、主導権は始終青年が握っていたのだ。次第に抵抗を弱め、銀色の大きな魚は腹を見せて足元に寄せられる。青年はベルトに下げた皮のシースからフィッシュグリップを抜いた。口が大きく歯の鋭い魚を取り込むためのツールである。ステンレスなどの金属製で、全長は30センチほど。グリップ部にレバーが設置され、人差し指で操作すると先端のアームが開閉する、マジックハンド状の器具だ。魚の下顎をフィッシュグリップで掴んで取り込むとプライヤーで針を外し、水から上げないまま惜しげもなくリリースした。魚影が流れを横切って深みへ消えていった。


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(5)

「あ! もったいない」

 思わず声をあげると、青年が初めて祐希を振り返った。物欲しげな発言をとがめられた気がして言い訳が口をつく。

「いえ、あんまり大きな魚だったんで・・・・・・写真を撮るとか、せめて大きさを測ったりしないのかって・・・・・・」

「大きくはないさ。シーバスとしちゃ中型ってとこだ」青年は独り言のように答える。「それでも60センチを超えてたから、一応『スズキ』と呼べるサイズかな」

「えっ、いまのがスズキ! ここにスズキがいるんですか?」

「ああ。だから狙ってるんだし、事実たったいま釣った。なぜ、そんな当たり前のことを聴く?」彼はそっけなく言い捨て、祐希が護岸に置きっぱなしにしたリール竿に目を向ける。「お前だってスズキを狙ってたんだろ」

「どうして分かるんですか?」

「道具と仕掛けを見ればスズキ狙いなのは一目瞭然だ。ただし、かなり的外れの仕掛けだがな」

「そんな・・・・・・釣具店で教えてもらった仕掛けなのに?」

「その釣具店、最初に予算を聴かなかったか?」

 祐希が言葉に詰まる。図星だった。手持ちの全財産を聴かれるままに申告すると、店員は手早く必要な品物を揃えてくれた。祐希の戸惑いに応え、青年は話を続ける。

「その仕掛けはな、波の穏やかな内湾の岸壁で、夜釣りをするためのものだ」

「夜釣り・・・・・・ああ、だから電気で光るウキが付いてるのか」

「やっぱり知らないで使ってたのか。まあ、一昔前の入門書には『スズキ釣りの仕掛け』として載っているから、けっして間違いではない。だが、ここのような流れの速い川には不向きだ」

「どうりで、すぐにウキが流されて釣りづらいと思った」

「シーバス―――つまりスズキの釣り場は大雑把(/おおざっぱ)に分類しても、河川、砂浜、岸壁、磯、船釣りと様々だ」溜息をつく祐希に苦笑して、青年は釣りを再開しながらも説明してくれた。「釣り場が違えば、釣り方も変わる。釣り方が変われば、道具や仕掛けも別物だ。だから初心者に対して、まともな釣り具店なら、まず客が釣りをする場所を尋ねる。最初から所持金を聴く店には要注意だ。運が悪かったな。お前は初心者で、子供で、フリの客だったため足元を見られたんだ」

 青年の話では、祐希が買った「特価品! 定価の二割引き」の竿とリールもメーカー品ではあるが、廉価(/れんか)版の型遅れのため量販店では定価の四割引きが普通らしい。デイパックに立てかけたリール付きの竿へ、祐希は恨めしげに眼を落とし、呟いた。

「困ったな・・・・・・このリールと竿で資金の大半を使っちゃったし・・・・・・川用の道具を新たに揃える余裕はない・・・・・・」

「安心しろ、竿とリールは川でもそのまま使えるよ。オモリなどの小物を買い足すだけでいい。ただし、人工餌よりは生き餌のほうが有利だ。イソメかゴカイも買っておけ。それで胴突き仕掛けの投げ込み釣りをすれば、今よりはスズキと出会える確率が飛躍的に上がる」

「あ、ケータイにメモします・・・・・・えーと、ドウヅキ仕掛けの、ナゲコミ釣り・・・・・・」

「メモする必要はない。商店街に『マスヤマ』という釣具店がある。信頼できる店だ。そこで利根川の『走馬落し』でスズキが釣りたいと言えば、必要な小物を揃えてくれる。エサと合わせても1000円前後で済むはずだ」

「助かったー!」祐希の財布には、まだ千円札が数枚は残っていた。

 青年は必要なことをすべて伝えたと判断したらしく、再び川との会話に集中した。祐希は「的外れ」の仕掛けを回収し、今日の釣りをあきらめて帰り支度を始める。落胆はなかった。むしろ初日にしては上出来だ。現在でも利根川にスズキは遡上し、釣れる事実を確認したのだ。

(間違いはない。ついさっき、目の前で60センチを超えるスズキが・・・・・・え? 60センチ・・・・・・)

 川風が吹き抜け、祐希の背筋を冷たく撫でた。青年が釣りあげた60センチのスズキでも、かなり巨大に見えた。だが、かつて祖父の道太郎が釣りあげた超大物は―――そしてこれから祐希が狙おうとするスズキは、ほぼ倍のサイズであると、いまさらながら気付いた。夕日でオレンジ色に染まる川を見つめながら、鳩尾(/みぞおち)を裏側からくすぐられるような感触を覚える。それが不安なのか期待なのか、判断はできない。

(無理だって・・・・・・いくらなんでも無謀だって・・・・・・)

 内心で呟きながらも、祐希は無意識に笑っていた。