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プロローグ

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プロローグ

 

 周囲から理不尽に「嘘つき」呼ばわりされた場合、ことさら自分の正当性を主張するのは反感の火に油を注ぐことになりかねず、むしろ逆効果だ。不本意ではあるが沈黙し、ほとぼりの冷めるまで待つのが無難な戦略である。

 その程度の処世術は、たとえ小学6年生といえど桐丘祐希(/きりおかゆうき)もわきまえていた。だが12歳といえば、もう異性の視線が気になるお年頃でもある。

「わたしは信じてるよ。祐希君の話」

 秘かに想いを寄せる女子にそんなことを言われてしまったら、たとえ大半の級友に敵視されようが、自分の言葉に嘘はないと証明しなければならない。

 で、祐希は小金井(/こがねい)の自宅を遠く離れて常磐線(/じょうばんせん)に揺られている。

 伯父の家へ行くのは1年ぶりだった。父親の実家でもあるその家へは、物心つく以前から両親に連れられ、自家用車で毎年訪れていた。父親にとっては先祖の墓参りを兼ね、祐希の成長を祖父の道太郎(/みちたろう)に見せるための、盆休みにおける恒例行事である。祐希にしてみれば、伯父の家は祖父の思い出が詰まった場所だ。その地へ、(/ひと)り電車を乗り継いで向かうのは初めての経験だった。

「お爺ちゃんは昔、家の前を流れる川でな、1メートル20センチのスズキを釣り上げたんだ」

 川魚漁師だった祖父は、ことあるごとに祐希を相手に自慢話をした。自分の歳を忘れても、時代劇の再放送を見忘れても、漁協の大切な会議を忘れても、その自慢話を忘れたことはない。祖父の自慢は幼い祐希の記憶に繰り返し刷り込まれた。そして休み時間の教室で、無意識のまま最悪のタイミングで口を突いたのだ。

「僕のお爺ちゃんが昔、家の前を流れる川で1メートル20センチのスズキを釣り上げたって」

 罪のない発言は思いがけず同級生の敵意を煽ったらしく、祐希は反論の集中砲火を浴びた。

「その話、おかしくないか? スズキって海の魚だろ」

「どーして海の魚が川で釣れるんだよ!」

「そんな大きな魚が家の前にいるなんて都合がよすぎると思いまーす」

「サメやマグロならまだしも、1メートルを超える魚なんている?」

「証拠見せてよ、ショーコ!」

 休み時間が残りわずかとなった教室は「ショーコ」の大合唱に沸いた。やがて響くチャイムも祐希の救いにはならなかった。クラスに一人はいる、余計なことだけに気が利くお調子者が、教卓に立った担任に祐希の発言をご注進におよんだのである。次の時間がホームルームで比較的自由度が高かったのも裏目に出た。担任の篠田涼香(/しのだすずか)は子供の知的好奇心を尊重する若く真面目な女性教師だった。彼女は迷惑なことに出さなくてもいい“ヤル気”を出し、祐希に祖父の家がある地域を確認して図書室へ走った。数分後、彼女は魚類図鑑と教材用の地図を抱えて教室へ戻る。

「スズキ―――スズキ科。最大で1メートル。北海道から中国南部へ分布。沿岸の瀬のある岩礁にすむ。夏には海水のまじる河口へも入ってくる。成長するにつれてセイゴ、フッコ、スズキと名前が変わる出世魚」

 指を挟んでいたページを開いて解説文を棒読みし、教え子の好奇心に応えた気になったらしく、涼香先生は満足げに教室を見渡した。生徒たちの反応はない。当然だ。みんなは祐希への「有罪」が聞きたいのだ。気付きはしないが気を取り直した担任は、用意してあった関東地方の地図を開き、マグネットで黒板に留め、一点を指差す。祐希は頭を抱えたくなった。関東平野のほぼド真ん中。鹿島灘、九十九里浜、東京湾、どの海からも遠く見える。問題の川の河口など、茨城県南部と千葉県北部が共謀して無理矢理延長したように海へ突出している。これには担任も困ってしまったようだ。

「えー・・・・・・祐希君のお祖父さんが住んでいたのはこの辺りですね・・・・・・日本で二番目に長く、面積が一番広い利根川(/とねがわ)の中流域に臨む農村です。海から100キロ近く離れているので完全に淡水でしょう。うーん、海の魚が棲む環境ではありませんねえ・・・・・・1メートル20センチというサイズも図鑑の情報に照らし合わせると少し大きすぎるかなあ?」涼香先生はしばし首を傾げていたが、やがて切り替えたような笑顔を見せた。「だからといって嘘と決めつけてはいけません。おそらく祐希君のお祖父様は、河口で大きなスズキを釣り上げ、少し大げさに言ったのでしょう。それは些細なことです。大切なのは、そのような大きな魚が育つだけの自然が、身近に残っていることです」

 話を環境問題にすり替えて、担任は強引に話をまとめたが、何の救いにもならなかった。クラスに一人はいる広報担当児童によって、すでに祐希の発言は他のクラスまでメールが発信済みで、放課後までには同級生の大半に「嘘つき」呼ばわりされるはめになった。だからといって必用以上に悲観はしない。学校は短縮授業に入っており、あと二日登校すれば夏休だった。

(ちょうど欲しかったゲームソフトが2本ほどある。誰とも会わず、部屋にこもってゲームを攻略していればいい。最初の登校日には誰も1メートルを超えるスズキの話なんて覚えていない)

 口を滑らせるのならば、むしろいいタイミングだった。そう前向きに考え、ひとりで下校しようと目立たぬように昇降口を抜けた直後、クラスの気になる女子にして片思いの相手、文倉真衣(/ふみくらまい)とぶつかるように顔を合わせた。

「わたしは信じてるよ。祐希君の話」

 彼女は祐希を真っ直ぐに見て言った。その一言で、小学生最後の夏休みが決まったのだ。

(なんか、面倒なことになっちゃったなあ・・・・・・)

 思わず溜め息が漏れ、視線は落ちる。真新しいスニーカーに七分丈のカーゴパンツ。プリント柄Tシャツに、上から羽織った半袖コットンシャツも買ってまだ間もない。よそ行きの装いは日常と平穏からの追放を象徴するようで不安をあおる。

 車内は比較的空いていた。学生は夏休みだが、世間にしてみれば単なる平日の日中だ。対面するシートに歯抜け状態で背を預けた見知らぬ客たちの頭越し、窓の外で流れる景色を見るともなしに見る。小金井の自宅を出て2時間ほど、上野駅を発って30分以上が経過した。(/すす)けたビルの谷間を出発した電車は、やがて安っぽい住宅地を抜け、田園地帯に入ろうとしている。

(考えようによっては、ノリ的にファンタジーっぽくていいかも―――姫の信頼に応えるために魔物退治に旅立つ勇者―――ってな感じ? ただし、ゲームソフト買おうと貯めていた小遣いを投げ打ったのは大きな出費だ。それにしても伯父さん夫婦と会うのも1年ぶりか。元気かな。押しかけて迷惑じゃなかったかな・・・・・・)

 祐希の思考は、窓の外を流れる風景よりもめまぐるしく変化する。

 シャツのポケットから携帯電話を取り出して時間を確かめた。乗り換えの駅はもうすぐのはずだ。電車は利根川に(/)かる鉄橋を渡る。途中、何本か大きな川を渡ったが、ひときわ広大な河川敷を(/よう)する川だ。

(もう、引き返せない)

 川面を見下ろしていたら、迷走する意識が収斂(/しゅうれん)した。やがて車内アナウンスが祐希の乗り換え駅の名を告げる。声に出さず気合を入れてシートから腰を上げ、背伸びをして網棚の荷物を下す。デイパックを背負い、ほぼ全財産を費やして買った“武器”を両の掌で握った。カーボンファイバー製の頑丈なリール竿。それでも、1メートルを超える大魚と渡り合うには頼りなく思えた。


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