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秋も深まりを見せ始めた肌寒い朝。城田は海風に吹かれて小刻みに揺れる黄色の規制線を前にして、ホットコーヒーの缶を片手に、岸壁の先に広がる群青の海を見ていた。十年落ちの古いセダンを走らせて、埠頭へたどり着いたのはつい先程の事だ。嫌な事件が続く。規制線の前に立つ警察官の無表情な顔を横眼に、黒いボンネットに尻を載せて、寝覚めのコーヒーを飲みながら、自分を呼び出した沢村が現れるのを待つ。警視庁捜査一課の管理官。事件の現場へ出る立場には無いはずの男が、捜査官に交じって陣頭指揮に当たる。部下の捜査官には煙たい存在に思えるが、不思議と人望の厚い男だった。赤灯を回転させたまま停車する多くの捜査車両の中で、一際目を惹くマイクロバスは、指揮車両として沢村が使う捜査一課の名物だ。城田は、捜査官が慌ただしく出入りするマイクロバスに向かうか迷ったが、車のボンネットに腰掛ける方を選んだ。自分が捜査に参加している事件では今のところ無い。沢村と朝の挨拶を交わせば、自分の事件になる事は分かっていたが、気の乗らない厄介な事件に関わるタイミングは遅い方が良い。大所帯の捜査一課へ特別捜査班の自分が応援を命ぜられるには、いつもそれなりの理由がある。経験豊かな捜査官が多数顔を揃える捜査一課に、捜査員の増員を目的とした応援は必要ない。通常の捜査から切り離された厄介な事件。暫く港の風景に眼をやりながら、潮風に当たっていたかった。
 近年、稀に見る凄惨な連続殺人事件。この一週間で三人が殺害され、一人が意識不明の重体。手口は同じで殺害された被害者の遺体はどれも目を覆う酷い状態だった。当初は猟奇殺人として扱われていた事件だったが、解決の糸口は掴めぬまま被害者は瞬く間に増え、この現場で五人目。犯人は急ぎ過ぎていた。手口は猟奇的だったが、殺人を趣向とする許しがたい犯行として片付けるには、腹に落ちない違和感がある。それが、事件に関わる捜査官の間では、共通する認識になっていた。嫌な匂いのする事件。現場慣れした捜査一課の捜査官が、一様に口を揃える事件への感触は、警視庁内でも興味深く受け取られていた。
「もう来られてましたか」

規制線の向こう側から、小柄な痩せた男が城田に声を掛けた。グレーの着古したスーツを潮風に靡かせながら、岸壁沿いを向かってくる。白い物が目立つ坊主頭に大きな目が印象的な男。警視庁捜査一課の名物管理官、沢村修司だった。人材交流の名目で防衛省から出向する城田を、敬遠する管理官は多い。着任直後から、階級が警視正である城田は自分より階級が上にあたる管理官も多く、おのずと煙たい存在になる。捜査経験の少ない城田を、目障りな客と捕らえる者が大半で、歓迎する雰囲気は捜査官達にも無かった。そんな中で城田が着任直後に捜査班に加わった縁もあって、親しく接する数少ない管理官が沢村だった。缶コーヒーを軽く掲げて挨拶する城田に、手を挙げて挨拶を返すと規制線を跨ぐ。敬礼する制服警官の肩を軽く叩くと城田の座る車のボンネットにもたれた。
「通報で最初に駆け付けた警官です。午前四時からあそこに立ちっぱなしで気の毒な奴です」

管理官特有のどこか見え隠れするプライドや、刑事ならだれもが持つ無骨な印象が一見感じ取れない男。くったくの無い、穏やかな口調の話し口は人情味さえ感じさせる。捜査本部で報告を待つだけの、エリート意識の高い管理官が多い中で、異彩を放つ現場主義が似合う男だった。
「捜査本部でお会いするつもりが、こんな場所で申し訳ありません」
「捜査本部で会えるとは最初から期待していませんでしたから。現場に出られている時間の方が長い」
「性分でね。本部詰めは好かないんですよ。事務方に任せれば済む話でね」
沢村は、ハイライトのパッケージをジャケットの胸元から取り出すと、一本咥えて城田にも勧めた。使い古したオイルライターで火を点けると城田の煙草にライターを向ける。

「五人目ですね」
ライターの火に煙草を寄せながら尋ねる城田に、沢村がしかめた顔で答えた。
「どれも残忍な殺しです。今度は係留ロープで岸壁に吊るされてた。拷問に近い殺し方で遺体を見える場所に放置する。遺体は検視に回しちまいましたが、拝んだら当分の間は夢に出る。酷いもんでね」
「大沢部長からの応援命令ですが、具体的な指示はありません。詳細は沢村さんにとの事です」
警視庁刑事部長の大沢圭吾は、城田の直属の上司に当たる。副総監の腹心として重用され、特別捜査班を統括していた。
「課長から昨晩話がありましてね。矢先の事件だったんで早朝にお呼び立てしちまいました」
坊主頭を掻きながら、警視庁の文字が背中に躍る規制線の向こうの捜査官に大声で指示を飛ばす。
「全裸で放置されていて、被害者の遺留品はまるで無い。初動に力を注いでますが、身元も割れない遺体ばかり」
うながす沢村と肩を並べて規制線を越える。捜査車両の先で鑑識のブルゾンを着た捜査官が集まり、岸壁を覗き込んで作業していた。亀裂の走るコンクリートの路面に多量の血痕が残る。

「殺害場所は別でしょう。運んで岸壁に吊るした。複数犯の可能性もあるが、こんな手口の殺しは何人もでやるもんじゃない」

岸壁の向こうの海で黒いタグボートが白波を立てる。周辺の岸壁では係留されたコンテナ船からの荷役作業が始まっていた。岸壁を覗き込む鑑識の背後から海面を覗く。血に染まった壁面と黒い海面の、ショッキングなコントラストが城田を迎えた。

「水先案内人を乗せた船が、海面側から発見して水上警察へ通報しました。東京湾周辺で水死体は幾つも揚がりますが、吊るってのはまず無い。人相が判らない程殴られ、両目とも潰されている。両腕と両足には深さ一センチ程の裂傷が無数。両手の指は根元から全て切り落とされてました。動脈や静脈は避けて刻み込み、指を切り落とした後は、傷口を焼く念の入れ様。出血死を避けている」

「酷いもんだ」

猟奇的な殺人犯は、殺害後に遺体を痛めつけるケースが目立つ。生かしたまま苦痛を執拗に与える事は、生半可な神経では行えない。専門的な訓練を受けた者が、犯行に及んだ可能性が高い。捜査官が嫌な印象を抱えるのも理解できた。

「粗暴で挑発的。意図的に乱暴な方法を選んでいるが、プロの犯行ですね」

沢村が城田の言葉に頷く。

「一人目のガイシャと一緒だった被害者の女性が、意識を取り戻しましてね。錯乱状態でまともに聴取できないんですが、本人の身元は判明しました。ガイシャの通うクラブのホステスで、一緒の所を巻き込まれたらしい。ガイシャの殺しを手伝わされたらしく、気がふれちまってます。その線から幾つか情報が出たんですが、捜査を止められまして。特捜にお願いする事案になった様です」

「止められたとは?」

沢村が周囲を気にしながら小声で囁く。

「公安の連中の動きがおかしい。それで勘を頼りに奴らの縄張り周辺で捜査を進めた。幾つか手口や遺体の共通点もあります。昼に捜査本部で逢いましょう。詳しくご説明します」

公安警察の関わる事案。一般の組織犯罪や凶悪犯罪とは一線を挟んだ、深い闇が広がる事件が多い。同じ警察組織ながら公安部は別組織の様相で、静かな影の様なその存在はベールに包まれていた。政治的な色彩の強い様々な組織を対象に、捜査や情報収集を行う公安が興味を示す事件。犯行の手口や公安の動き。特殊な指揮権を必要とする事件に間違いは無い。城田は、刑事部長の大沢が自分を捜査に組み入れた理由を理解していた。捜査官の輪に戻る沢村と別れ、規制線を越える。海面を舐める様に飛ぶ海鳥を横眼に、捜査本部の置かれた所轄警察署へと車を向けた。

 

 

 

「酷いもんでしょう」

沢村は、出前の丼を掻き込みながら、城田の前に並べた写真を顎で示した。お茶を運んで来た女性警察官が離れるのを見計らって広げた無数の現場写真の一枚に、目を覆いたくなる惨殺遺体が写し出されていた。捜査本部の置かれた会議室。長机が整然と並べられた広い空間に捜査官の姿は無く、パソコンのキーを叩く数人の事務官が壁際の一角でこちらに背を向ける。署に到着後、応接室へ通された城田は警察署長と副署長の肩通りの挨拶を受け、この会議室で今までの捜査資料に目を通していた。昼を過ぎて捜査本部へ戻った沢村は、昼飯を取りながら城田に捜査状況を話し始めた。

「遺体は見慣れないでしょうが、ここまで酷いのも滅多にありません。列車事故なんかじゃ酷いのもありますが、殺しですからね」

飯を頬張りながら箸で写真を指して沢村が言った。沢村は、城田を防衛省の上級幹部と想像している様子だった。特別捜査班の概要を知る立場にも無く、捜査指揮が役割りと捕えている節もある。防衛省からの出向として、自治体警察である警視庁へ着任する事自体が異例である事も事実で、通常は国家警察の警察庁へ出向する。警備局に配置される特殊部隊の教官など、実戦部隊へ関わる場合が多く、現場捜査へ携わるケースはまず無い。城田の本当の身分を知るのは、刑事部長の大沢や副総監など一握りの人間だけだった。

陸上自衛隊の特務部隊。一般には知られない、防衛省統合幕僚監部直属の秘密部隊で、首都圏を中心に部隊を展開する、東部方面隊と帯同している。全国の野戦部隊やレンジャー部隊の精鋭五十名で組織される第一から第七までの特務部隊が展開し、その中から選抜された精鋭三十名が、第七十三特務部隊として必要時に編成される。通常は七つの特務部隊に配属されている第七十三特務部隊員について、その身分は伏せられており、本人以外の隊員は、通常の特務部隊所属と理解している。いわば機密部隊の中に隠れた極秘部隊だった。陸上自衛隊第七十三特務部隊一等陸佐。将官クラスの階級は形ばかりで、出向前の在任時は実戦対応の特殊訓練に明け暮れる毎日を過ごして来ていた。

「最初のガイシャの身元は割れたんですか?」

「意識を取り戻した被害者の店で名前は割れたんですが、詳しくは判っていません。飲み屋ですから、本名を名乗っていたかも疑問でね。たまに一緒に訪れる客がいて、そちらは身元が判りました。そいつを勘で公安筋の情報とぶつけてみたら、引っ掛かる男でしてね」

湯呑みの茶を啜りながら、城田にも昼飯の天丼を勧める。遺体の映る現場写真に目を留めると机の端に集めて伏せた。

「これじゃ飯も喰えませんね」

箸を手に取る城田に湯呑みを勧めながら身を乗り出す。

「公安が対象にしそうな左系の仕事屋です。労働争議なんかを飯の種にしてる奴で、その筋じゃ名前が売れてる。中国系の連中とも親しい男で、横浜や池袋辺りを出歩いてます。そいつが消息不明になってましてね。二人目のガイシャと背格好が似てます」

「その男が二人目の被害者って事ですか?」

「遺体に指は無いし、顔も判らない。歯形で当たってますが治療痕で確定できるか疑問です。だが可能性は高い」

「中国系の連中が抗争」

「マル暴は首を傾げてます。公安の動きも気になる」

中国系組織の抗争は残忍で凄惨を極める。城田は警視庁着任後の三件目の事件で、その実態を目の当たりにした。みせしめの為に被害者の身元が判る様に放置するのが通例で、マスコミ報道などを好む。身元不明の遺体が量産されている今回の事件の様相とは、一線を画している印象を受ける。

「公安は昨日、横浜の中国系日本人を成田で押さえてます。消息不明の男と頻繁に会ってた男でしてね。気になります」

「その中国系日本人の素情は?」

「冴えない男でしてね。都内で、中華食材を販売する小さな店をやってます。それ以上は判っていません。だが、この男と消息不明の男が、それぞれ定期的に会っている同じ男が一人居まして、その男を洗おうとしたら、課長から城田参事官の話がありました」

「その男の捜査を、私がお引き受けするという事で宜しいのでしょうか?」

沢村は頷くと自分の丼と湯呑を片付けて、先程まで城田が目を通していた捜査資料のファイルを城田の前に広げた。

「慌ただしくてすみません。飯の早食いだけが取り柄でね。喰える時に慌てて掻きこむ」

人懐っこい笑顔を浮かべながら、捜査資料のページをめくる。

「喰いながら聞いて下さい。これが一人目のガイシャの左手首です」添付された写真を示すと、今度は別のファイルのページを探した。

「こいつは三人目のガイシャです。今朝の遺体にも同じものがあった」

左手首の写真。手首の内側に丸い痣の様な輪が写し出されていた。直径は一センチ程の小さな物で、一見すると痣に見えるが中央には肌の色が浮いている。

「司法解剖した監察医が言うには入れ墨だそうです」

「三人は関連がある被害者」

「そう思われます。入れ墨は肌や墨の状況で入れた時期が判定できますが、そう古い物じゃないそうです。公安の連中がこいつを見て顔色を変えたらしい」

暴力組織などの入れる墨は、気風の良さや威嚇を目的とした派手な物が主流だ。城田の知るコマンドやゲリラなど戦闘員の入れ墨は、逆に色の入らない地味な物が多い。数字や頭文字、部隊の印など、死亡時に遺体の身元判定や所属部隊の特定などに利用する目的で意図的に入れる場合も多く、派手さは必要無い。構成員のマーキングとして入れた墨。手首の裏側と言う目立たない場所を選ぶ理由も理解できる。

「随分と遠慮がちだ。構成員のマーキングが目的でしょう。三人は公安が興味を示す何かしらの組織に所属していた」

「暴力団関係や左翼系、右翼系組織、カルト系の宗教団体と対象は広い。捜査は進めますが時間はかかる」

捜査資料の写真を剥がすと城田に渡す。一人目の被害者の左手首。

「参考までにお渡しします。捜査する男の手にもあるかも知れません。聴取ができれば、組織特定の手間も省けるんですが……」

城田は、湯呑みに手を伸ばして茶を啜る。城田が食事を終えたのを見計らった沢村が、ハイライトに火を着けた。署内は禁煙のはずだが、あちこちの長机に灰皿が置いてある。沢村は捜査資料のページをめくって自分の手帳に書き留めると、破り取って城田へ差し出した。

「男の情報です」

辻村亮平という名前と勤務先の住所が書かれていた。

「捜査が進めばご連絡します」

「宜しくお願いします。朝のガイシャの検視が始まってます。これから向かって様子を見て来ます」

「お忙しそうですね」

「ここでじっとしてるのも苦痛でね。捜査が進む訳でも無い。うちの連中も良くやってますが、ガイシャがあっと言う間に五人ですから。これ以上増えない事を願ってます」

城田と肩を並べて沢村も会議室を後にする。一階の玄関口で沢村と別れて、城田は捜査本部を後にした。


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 視線。西新宿の雑居ビルにある辻村亮平の勤務先は、監視されていた。沢村のメモにあった住所を頼りに、勤務先の歴史民俗研究会を訪れた城田は、そのあからさまな監視で辻村の不在を確信していた。狭い路地を入った場所にある雑居ビルを見通せるファーストフード店で、三十分程辺りの様子を観察する間に、迎車の表示を出したタクシーの巡回や向かいのビルの一室からの監視、城田と同じ様にファーストフード店に陣取り週刊誌を広げる中年の男など、複数の監視を確認できた。成田で身柄を押さえた男と繋がる辻村を監視するのは公安の捜査官と考えるのが順当だが、あまりに雑な監視体制にその確証が持てないままファーストフード店を出た城田は、雑居ビルの階段を上って歴史民俗研究会のドアの前に立っていた。成田で身柄を押さえた男と同時に拘束したかったに違いない。泳がせるならこんなあからさまに、包囲網を敷く様な監視は行わない。外廊下に立つ城田は、向かいの雑居ビルからの双眼鏡越しの視線を痛い程感じながら、表札も無い歴史民俗研究会のインターホンを押した。あきらかに実態の無い、ペーパーカンパニーの様相を示す事務所。応答が無い事を半ば決め付けていた城田の耳に女の声が届いた。

「はい」

「歴史民俗研究会さんですね?」

「そうです……」

「辻村さんはいらっしゃいますか?」

「お約束ですか?」

落ち着いた雰囲気の声。周辺の監視体制にはまるで気が付いていない様子だった。

「清輝神社の島原さんですか?」

少し間を置いた城田にインターホンの声が再び訪ねた。

「そうです」

とっさに答えた城田に女の声が言った。

「今週はお会いできないとの伝言です。申し訳ありませんと申しておりました」

「そうですか。それではまた改めてお約束させて頂きます」

ドアを離れて急な外階段を降りながら、ブルゾンから取り出した手帳に清輝神社の島原の名を書き留める。思わぬ収穫だった。毎週のように定期的にコンタクトを取っている様子の男。城田の声から人違いした事を考えれば、城田と同年代の男と想像もできる。雑居ビルを離れて、車を停めた場所と逆の方角へ路地を進む。監視が張り付くのは間違い無い。古いアパートや住宅が並ぶ一角を過ぎて次の路地を曲がる。横目にラフな格好をした長身の男が見えた。アパートの階段の脇に身を滑り込ませる。長身の男が通り過ぎたのを見計らってから路地に戻り、男の数歩後ろを歩く。城田に気付いて素知らぬ顔を決め込む長身の男に、背後から声を掛けた。

「監視が雑だぜ」

匂い。警察官特有のどこか堅い雰囲気を感じさせる男。公安の捜査官に間違いはない。振り返った男に、胸元から取り出した警察手帳をさりげなく見せる。

「台無しにしやがって。警察を名乗っただろう」

「そんな下種な真似しないさ。公安だな」

長身の男は黙っていた。認めるはずは無い。それが公安警察の掟だ。

「辻村は戻らないぜ。何を追ってるのか聞かせろよ」

「何も追ってないさ。ただの監視だ」

「成田で押さえた奴の身柄はどこだ。顔を拝ませろ」

「そんな男は知らない」

「男とは言ってないぜ。男を押さえたのは認めたな。話をさせろよ。お互い手間が省けるかも知れないぜ」

長身の男が口元で笑う。

「あんた面白い奴だな」

「刑事部の城田だ。戻ったらそう伝えろ。尾行は無用だぜ。すぐに巻く。嫌いだからな」

長身の男はしばらく城田の顔を眺めると、黙って来た道を帰って行った。男が路地を曲がるまで見届けると城田も車を停めた駐車場へと向かう。夕方に本庁で、刑事部長の大沢へ状況報告を行う約束だった。

 

 

 

 午後四時を過ぎた本庁五階の会議室には、落陽の西陽が射し込む。ブラインドを降ろして、革張りのソファーを勧める刑事部長の大沢圭吾は、明らかに疲れ切っていた。いつも仕立ての良さそうなダークスーツに身を包み、新品の様なドレスシャツとイタリアブランドのネクタイを愛用する伊達男が、ネクタイをガラステーブルの上に放り投げ、シャツの胸元を大きく開けてソファーに身を沈めていた。足元に黒光りする革靴は、オーダーメイドのイタリア製と聞いた事がある。足を組んで腕を組み、不機嫌そうに天井を見上げる。六十前の年齢を感じさせない体格の良い大男が、今日は少し小さく見えた。

「捜査一課の沢村管理官と、捜査打ち合わせは行いました。その足で辻村亮平と言う男の勤務先を当たりましたが不在です。飛んだと思われます」

「警察庁の警備局から、公安に頻繁に指示が飛んでる様子だ。副総監もかなり神経を使っている」

「辻村亮平と言う男はそんなに神経を使う男ですか。公安の連中が勤務先を完全に封鎖する監視を行っています」

「歴史民俗研究会は財団法人だな。所管するのは君の古巣の防衛省だ。だが、実態は公安の連中が使っている」

「公安のダミー団体という事ですか」

大沢は、会議室のドアの前に立つ城田に、自分の前のソファーを勧めながら、ガラステーブルの内線電話に手を伸ばした。刑事部長専用の会議室。革張りの黒いソファーが壁際に並び、毛足の長い漆黒の絨毯が敷き詰められた空間は、高級感溢れる応接室の様相だ。警視庁の実質ナンバースリーの地位にある大沢と、この場所で直接話しができる人間は数少ない。会議室のドアがノックされる。大沢が入室を促すと男が現れて、手にした厚手のファイルをテーブルの上に置くと、大沢に一礼して立ち去って行った。

「以前、別の捜査で歴史民俗研究会を洗った事がある。辻村亮平の調査も行ったが結局は謎だ」

大沢が開いたファイルのページに貼られている写真には、小太りな中年の男が写し出されていた。丸顔に細い目。サラリーマン風のスーツ姿の写真は、繁華街で撮影された様子だった。身長は百七十センチ程度だろう。くたびれた中間管理職と言った風体で印象は薄い。公安関係の人間には打ってつけの雰囲気である事も事実で、実際に社会に溶け込み、捜査を行う捜査官などにも多いタイプだ。

「ダミー団体かも不明だが、出入りする人間に公安関係の捜査官と確認できる者が数名いた。防衛省の管轄を考えれば、防衛省の情報本部関連組織とも考えられるが、国内のインテリジェンスに興味は無いだろう」

「辻村亮平も公安の捜査官、もしくは協力者と言う事ですか?」

「身元や現住所などが結局判らなかった事を考えれば、その可能性も高いと言う事だ」

公安関係の団体を、公安の捜査官が監視する構図。五人の被害者が発生している凶悪事件が、内輪の揉め事なら異様な展開だ。城田の考えを察するように大沢は言った。

「公安の組織が神経質になっているのは間違い無い。関連する内部事情があるのだろうが、俺達はあくまで連続殺人の捜査だ。公安の捜査を妨害するつもりも無いが、遠慮する気も無い。だが適任者は君しかいないだろう」

大沢は公安警察の裏側をある程度知る立場にあるだけに、通常の捜査官の手には負えない相手を警戒していた。軍事的な訓練を受けた者が加わる場合も十分想定できる。被害者の遺体を見れば、明らかに警戒を必要とする相手だった。城田は、捜査本部で沢村から預かった遺体の左手首が写った写真を取り出して大沢に見せた。

「三人の被害者には、左手首に共通してこの入れ墨があったそうです。清輝神社の島原と言う男の名が、辻村亮平の繋がりから出ました」

大沢は写真を手に取ると、暫く眺めて城田へ差し出した。

「清輝神社は前回の捜査でも名前が挙がっている。同じ団体だろうが注意が必要だ。山梨県の宗教法人で裏稼業は国粋清進会。筋金入りの民俗団体だ。右翼だよ。五年前に引退した参議院議員の斉藤清吾朗が主宰で、政治的な影響力も未だに絶大だ」

「公安の連中が神経を尖らす理由でしょうか?」

「分からんな。警察庁の警備局から、かなり圧力を受けている。捜査を公安に引き継げとの事だが俺は奴らが嫌いでね。文民警察って言葉を、世の中から抹殺したい連中だからな。この一連の事件のキーマンらしい辻村亮平を君が押さえてくれ。捜査一課も継続して捜査に当たらせる。上手く連携を頼む」

大沢はテーブルの上のファイルを閉じる。

「渋谷の分室で情報を揃えさせてくれ。この資料より詳しい内容の捜査情報が集まるはずだ」

城田は、大沢に一礼すると会議室を後にした。警察庁から直々に捜査に関する要請がある事は、半ば指揮権発動を意味する。全国の都道府県警察を統括する警察庁は、警視庁にとっても上部組織だ。もっとも、事務方の集まりである警察庁の実行部隊は警視庁なわけで、どちらも一体である事は間違い無い。城田は警視庁を離れて、特別捜査班の分室がある渋谷へと足を向けた。

 

 

 

 このスロープは勾配が急すぎる。地下駐車場からのスロープを上りながら思う、いつもの感想だ。渋谷の猿楽町にあるマンション。築十数年は間違いない古いマンションながら、レトロモダンな雰囲気の個性的な外観は、道行く人々の目を惹く。渋谷駅前の喧騒から離れた住宅街。代官山にも程近い立地にある、居住用のマンションだった。大理石張りのエントランスを抜けたエレベーターホールから、三階にある特別捜査班の事務所を目指す。エレベーターの扉が開くと、カーペットが敷かれた廊下が伸びる。左右に部屋が並ぶ廊下の突き当たりが、警視庁渋谷猿楽町分室だった。

城田がこの分室を訪れるのは久しぶりだった。本庁に特別捜査班の部屋も用意されているが、城田には警視庁へ出勤する義務はない。勤務時間の制約もこれと言ってなく、捜査命令が下りるまでは、好きなように時間を過ごす事ができる。特別捜査班に所属する捜査官も城田のみで、特別捜査班の部屋は扉が閉ざされた不在の時間の方が長く、捜査官達の間では幽霊捜査班と揶揄されていた。

エレベーターの扉を潜って、長い廊下を進む。天井に並ぶダウンライトには、目立たないように設置された小さなレンズが見て取れる。埋め込み式監視カメラ。幾つもの監視カメラの静かな視線が、城田に注がれていた。この廊下でマンションの住人と顔を合わせた事はまだ一度も無い。生活感の無いフロアの雰囲気は独特だった。警視庁がフロア全てを借り上げているのではないか。城田はこのマンションを訪れる度に、いつも勝手に想像していた。城田は、左右に整然と並ぶ部屋の扉の前を抜けながら、部屋の扉が自然と分室の場所を隠すカモフラージュになっている事に気がついていた。表札もない同じ扉が並ぶ中で、分室の場所を知らない者は戸惑いを覚えるはずだ。場所を確かめずに初めて訪れた者は、分室に簡単にたどり着けないだろう。城田は廊下を突き当たりまで歩くと、分室のインターホンを短く三回押した。間隔を開けてもう一度短く押すと男の声で応答があった。警視庁渋谷猿楽町分室を訪れる時のルール。インターホンのボタンを決まり通りに押さないと応答は無い。城田が名前を告げると、機械音と共に施錠が外れた。扉の向こう側には、黒いスーツに身を包んだ警備の私服警官が立っていた。顔なじみの城田に、厳しい表情をほころばせる。数人の警察官が交代で警備に当たっているが、所属は警備局のはずだ。今回の捜査が公安関連の事案である事を考えれば、あまり歓迎できない事実だった。玄関口からリビングルームに向かうと、場違いな大型モニターが城田を迎える。パソコンが数台並ぶ横長のデスクに向かうのが、分析官の湯島香奈枝だった。大柄のドレスシャツにタイトスカート。ボディラインが強調された後姿を見つめる城田に振り向いた香奈枝は、相変わらず魅力的だった。胸元を大きく開けたシャツに覗く胸の谷間に眼をやりながら、城田は香奈枝に言った。

「君は本当に警察官なのかね」

「自覚は無いわね」

足を組みながら短いタイトスカートの裾を整える。笑うと口元に覗く八重歯が整った顔に愛嬌を加える。香奈枝も、城田と同じく民間からスカウトされて警視庁に出向する分析官だった。二十代後半の年齢ながら、分析官としては一流だ。警視庁の様々なデータベースから的確に情報を収集して、城田の捜査を支援する。応接ソファーに腰を降ろした城田にコーヒーを持ってきた香奈枝は、長い髪を掻き上げながら城田の向かいに腰掛けた。マグカップのコーヒーを飲むと、縁のルージュを指で拭う。短いタイトスカートから伸びる長い足を折り曲げる様に、前かがみに城田の顔を覗き込むと、無邪気な笑顔で言った。

「そろそろかと思ってた。ついにお出ましね」

「いつにも増して厄介なヤマだな」

「昨日連絡をもらって、今朝からここで事務所開きよ。大沢さんから色々話しが出て、一応あちこちから集めてる」

香奈枝も城田と同様に捜査命令で召集される。城田との再会は、手荒い手口で首都圏を震撼させていたアジア系強盗団の摘発以来、約一ヶ月ぶりだった。

「辻村亮平と歴史民俗研究会、清輝神社の島原、色々と糸口は出てるんだが、深刻な方向に向かっていそうだ」

「公安部の捜査も進んでるみたいよね」
「そいつもまた気になる。面倒な連中だからな。昼間に挨拶だけはしておいた。成田で身柄を押さえた男ってのはどんな男だい?」

香奈枝はデスクから数枚のレポートを持ってくると、目を通しながら言った。

「さすがに公安部って感じね。拘束してからの情報は一切無いわ。木村信也。年齢は四十六歳で中国人の母親と日本人の父親の間に生まれたハーフ。逮捕歴は無し。道路交通法違反が五回。中国への渡航歴が月に数回あるのが目立つけど、仕事上の関係とも言える。中華食材を販売する店舗の経営者ね。年商は一千万弱の個人商店だけど、創業は二十年前。若くして創業って感じね」

「二十代半ばで中華食材の販売で起業するってのも気になるな。家業を継いだって訳でもないのか」

「創業してるみたいね」

「公安が身柄を押さえているなら、中国の情報工作員だろう。日本でスカウトして事業を用意した。自由に動けて個人商店は都合が良いからな。中華料理店なんかに潜って活動する連中も多い。日本人じゃ無い工作員でも目立たないからな」

「身柄を押さえるなんて本気ね。海外の諜報機関は自由にさせてばかりいるのが公安部の印象」

「本気になるだけの理由がありそうだ」

城田は、香奈枝の持ってきたレポートに目を通しながら、コーヒーカップを手に取った。歴史民俗研究会のレポートには、活動内容や刊行物の詳細などが記載されていた。四年前に左翼活動家の殺人事件に絡んで捜査対象に挙げられている。辻村亮平は理事として名前を連ねており、刑事部長の大沢が言う通り経歴や住所は不明のまま捜査が打ち切られている。殺人事件について、犯人が自首し捜査終了となった為だが、歴史民俗研究会が捜査対象に挙げられた直後の自首も気になる。

「遺体の状況は知っているか?」

「酷い遺体らしいわね」

香奈枝が眉をひそめる。

「どの遺体も両手の指を全て切り落としている。意図的に切り落とす理由が気になってね」

全ての指を切り落とされる苦痛に耐えられる人間などいない。数本を切断された時点で、外傷性ショックで死亡する事も十分に考えられる。検視でどこまで判明しているか定かでは無いが、死亡後に残っている指の全てを切断しているはずだ。

「指紋を残したく無いって事じゃないかしら」

「逆を言えば、指紋で身元が確認できる被害者って事だよな」

「良い読みだと思う。身元が指紋で判明する人間って結構限られて来ると思うわ」

犯罪歴がある場合や身分調査が行われている場合、身元は簡単に判明する。身元を判らなくしてまで放置する意味。犯罪組織の見せしめや警告の手法と共通する。

「遺体の放置場所は東京湾の晴海周辺に集中している。中国関連の情報を探してみてくれないか。被害者の身元特定も頼む」

「分かった。やってみるわ。清輝神社の島原って人の資料はこれよ」

清輝神社のある山梨県の住所が記載されていた。島原勝は、事務官として清輝神社の対外的な仕事を取り仕切る男のようだった。年齢は三十四歳。神主は大沢の言う通り、元参議院議員の斉藤清吾朗で、民族団体である国粋清進会の会長でもある。国粋清進会についての活動内容は、街宣活動は控えめで政治的な影響力の行使が中心との分析だ。インテリ右翼。俗っぽく一言で言えばそうなる。

「辻村亮平をもう一度洗ってみてくれ。立ち回り先の見当が付かない。俺は島原勝を洗ってみる」

レポートを片手に、ソファーから立ち上がる城田を、玄関口まで見送る香奈枝が、城田の背中に声を掛けた。

「気を付けてね。終わったら食事を楽しみにしてるわ」

捜査が終了すると、二人で食事に出掛けるのが約束になっている。立てた親指で警護官を指さして冗談まじりに城田が言った。

「手が早い色男に気を付けろよ」

香奈枝は笑って手を振る。頬を緩めた警護官に片手を挙げて挨拶すると、直立不動の敬礼が返って来た。


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 湖畔を渡る風に襟元を立てる。東京より明らかに冷たい空気が流れる湖畔に車を停めた城田は、ハーフコートに両手を突っ込んで静かな湖面を眺めていた。東京から中央自動車道を経由して約二時間。富士山を見上げる湖畔の街までは、思いのほか近い道のりだった。午前十時を過ぎた腕時計に目をやりながら、湖の対岸にある街並みに目を向ける。右手の湖畔にあるボートハウスから手漕ぎボートが一艘、湖を進んで行った。湖畔の周遊道路が周辺の幹線道路らしい。車の通りもまばらな静かな湖畔を、大型のダンプカーが時折通り過ぎる。背後の山並みから射し込む陽射しは、湖面をエメラルドグリーンに映し出す。透明度の高い美しい湖の風景が目の前に広がっていた。清輝神社は、街並みから外れた高台に立地する様子だったが、城田の位置からは確認できなかった。城田は踏み固められて自然に出来た湖畔への細い道を下って、ボートハウスに向かって歩き出した。釣り座を構える釣人が竿先に真剣な目を向けている。小さな砂利石の広がる浜を歩く城田の足音が、静かな湖畔に響いた。係留されたボートを覗き込む若い男に声を掛ける。

「島原勝さんはこちらですか?」

島原ボート。係留されたボートの腹に書かれた手書きの文字が湖面に映る。島原勝の実家が経営するボートハウスだった。振り向いた男は、資料にあった島原勝の顔写真と良く似ている。細身の精悍な顔立ち。城田の顔を見つめる切れ長の眼も同じだ。

「あんたは誰だい?」

「東京から勝さんに会いに来た者です。弟さんですね?」

身分は名乗らない。特別捜査班たる捜査方法だ。通常の聞き込みをするなら捜査一課の腕利き連中に任せれば良い。島原勝の弟。ボートハウスで仕事をしているとは想像していなかったが、島原勝には弟が一人いる。写真と似た雰囲気の顔立ちや年恰好から、弟に間違いない。

「ここには居ないよ。社の詰所から帰って来る事は滅多に無い。神社の関係ならそっちに行きな」

「今日は神社にいらっしゃいますかね?」

「どうかな。あちこち出掛けてるからな。約束してわざわざ東京から来たんじゃないのかよ」

島原の弟が、不審そうな表情を浮かべる。切れ長の目の奥に冷たい光が宿るのを城田は見過ごさなかった。国粋清進会の青年隊所属。兄の島原勝は青年隊長のはずだ。傷害致死を初めとして複数の前科があり、街宣活動で中心に立つ危険な男だった。礼を言って背を向けた城田は、刺す様な視線を背中に感じていた。緊張感ある空気は嫌いではない。湖畔を歩きながら、アフガニスタンの戦場を思い出す。肌を刺す緊張感の中で、荒々しい岩肌の続く山中や渓谷を進んだ時期。世間には知られていない事実だが、実戦経験の無いと言われる自衛隊の中で、特務部隊の隊員は数多くの実戦経験を積んでいる。米軍と連携して作戦に当たる民間軍事企業へ秘密裏に出向する形で実戦に加わる方法が取られ、戦地で砲火を潜る。イラクやアフガニスタン、朝鮮半島の軍事境界線周辺での従軍など、城田も多くの実戦経験を積んでいた。湖畔へ下りた狭い道を戻って車に乗り込む。ボートハウスの脇で、島原の弟が城田の車へ視線を向けていた。ボートハウスの先に見える瓦屋根の平屋が、島原勝の実家らしい。相手のプライベートな部分を掌握する。家族や実家への接触は、相手を警戒させる半面、牽制にもなる。自分の周囲を巻き込みたくない心情は誰にでもある。非協力的な対応に終始すれば、迷わずにその心情を刺激する。捜査対象者には迷惑な話だが、捜査手法としては有効だ。城田は湖畔の道へ車を向けると、湖の対岸に見える街の中心部を目指した。

 

 

 

 足の軋む古机に向かって、ボールペンを片手に過ごす一日。山梨県警の警部補、安田慎平は、この退屈な状況に置かれた自分の身上にうんざりしていた。湖畔の道路沿いにあるプレハブ小屋で、日の出から日没まで過ごす日々が既に一週間。目の前の道路を通り過ぎるダンプカーのナンバープレートを、デジタルカメラに収めてノートに書き留める。定点カメラでも設置すれば良いものを、費用が掛かるとの理由で張り込みの様に自分が派遣されている。せめて所轄署の交通課にでも任せれば良いと張り込みの初日から考えていた。山から湖畔へ降りる道路の脇に、以前から放置されていたプレハブ小屋が監視場所として選ばれた。肌寒いこの時期ながら暖房器具の設置も認められず、朝晩は底冷えする小屋の中でダンプカーの通過をひたすら待つ。山を上がった場所にある砂利採石場へ残土を運び込み、帰り荷に砕石を積み込んで帰っていく大型ダンプカー。砂利砕石場を運営する戌井組は近隣で幅を利かす建設業者で、実態はいわゆる暴力団だった。県警本部が捜査した殺人事件に絡んで、死体を引き受けて埋める便利屋として浮かんだ組織。闇から闇に消された人間の引き受け先として暗躍する組織の内偵は、出入り業者の確認から始まっていた。

県警でも早い出世で知られ、三十前で警部補に昇進した自分が与えられたこの任務に、安田は不満だった。強行犯係の捜査官を志望して刑事部へ所属したはずが、湖畔のプレハブ小屋で退屈な時間を過ごしている。交代の警察官は、所轄署から応援に出された年配の巡査長で、安田とはまるで馬が合わない。夜間の張り込みはこの巡査長に任せて、街の飲み屋で憂さ晴らしするのがせめてもの抵抗だった。

ここ数日の間に見かける、二人組みの男達が安田は気掛かりだった。プレハブ小屋の先の林道から下って来る二人組みを見かけたのが最初で、地元の人間とは明らかに違う風貌が印象に残った。カーキ色の上下に黒いブーツ姿。服と同色のキャップを目深に被り、ナップザックを背中に背負う姿はまるで戦闘員だった。ハイカーが訪れる散策路ならまだしも、山林を管理する林道から下って来る事にも違和感がある。次に見掛けたのは町の定食屋で、別の男も二人加わって夕食を取っていた。言葉少なく食事を取ると、瓶ビールを飲みながら、つまみに箸を伸ばす安田の脇を帰って行った。四人ともブルゾンを着込んだラフな格好ながら、漂わせる雰囲気は安田の気を惹いた。戌井組に出入りする裏稼業の連中にしては、緩い雰囲気が感じられない。酒でも呑んで騒いでいれば印象も違った。街の外れにある清輝神社が、右翼団体の国粋清進会を組織している事は安田も把握していた。戌井組との関係もある右翼団体だが、戌井組が格下の組織で国粋清進会の顔色を伺っているのが現状だった。国粋清進会に出入りする、右翼関係者に見立てればまだ納得も行くのだが、林道から下る姿は一般人とは思えない。県警本部へ報告するにも安田の印象だけで報告は出来ない。任務はダンプカーのナンバープレート確認だ。安田は気掛かりなまま、ここ数日を過ごしていた。  

黒いセダンがプレハブ小屋の前を通り過ぎる。路肩に停車するセダンから降りた男に、安田は再び興味を覚えた。黒いハーフコートにスラックス姿の長身の男。細面の顔は穏やかだが、無表情な眼と硬く結ばれた口元が印象に残る。街で見掛けた四人にも共通する、周囲と一線を画す雰囲気がどこか漂っていた。安田が一番興味を覚えたのは、男が手にする小さな黒い筒だった。筒を右手にして湖の先を覗いている。双眼鏡では無い。ライフル銃の照準の様なスコープ。トレッキング用品にあるような代物とは、一風違った物に思えた。バードウォッチャーや観光客とも思えない風貌の男が、一体何を見ているのか安田は興味を覚えていた。しばらく湖を路上から見た男は、セダンへと乗り込む。古い型の黒いセダンも一般車両からは特異な車種に見える。安田は、ダンプカーの撮影用に用意されたデジタルカメラで、セダンのナンバープレートを撮影した。湖畔の道路を走り去るセダンを目で追いながら、安田はこの退屈な任務から開放される夕刻が、早く訪れる事を願っていた。

 

 

 

昭和の雰囲気を漂わせる路地に、飲食店が軒を連ねる。城田は路地の一角に見つけた小料理屋で、小鉢の煮物を肴に焼酎を呑んでいた。カウンターでは地元の男達が集まり、女将を交えて賑やかに酒を酌み交わしていた。美人の女将は人気の様子だった。女将の歓心をかおうとする男達が盛んに話し掛ける。涼しげな笑顔でカウンター越しに男達をあしらっていた女将が、コップ酒を片手に漬物の並んだ皿を持ってきた。

「これ食べて」

「ありがとう」

「どちらから?」

城田の前に腰掛けた女将は、コップ酒をテーブルの上にある城田のグラスに寄せて乾杯した。

「東京から。仕事でね」

「そう。私も去年、東京から来たのよ。祖母がこっちで暮らしてたから」

女将がコップ酒を片手に漬物に手を伸ばす。アップにした髪に色気が漂う。年齢は三十代前半といったところだ。東京でも水商売をしていたのだろう。客のあしらい方は上手いものだった。カウンターの男達が、面白くなさそうな顔で城田を見る。気付いた女将が冗談を言って男達を笑わせた。

「田舎に来たって訳だ」

「そうなの。祖母が一人で可哀そうだったし、私も疲れてたから。暫くしてからお店を開けたのよ。」

「料理が上手だ」

小鉢の煮物の味付けを城田は気に入っていた。女将が嬉しそうに笑顔を浮かべる。

「お仕事はいつまで。しばらく街にいるのかしら」

「そうだな。まだ予定は分からないんだ。何日かいると思う」

湖畔にある古いホテルに部屋を取っていた。島原のボートハウスを訪れてから、湖畔の周辺を車で走り一日過ごした。周辺の地理や環境を確認するのが城田の流儀だった。清輝神社を訪れるのは明日にしていた。民俗団体も組織する宗教法人。訪問前に入念に準備をしておくのは悪い事では無い。

「街にいる間は寄ってね。待ってるから。もう一杯作りましょうか?」

「そうだな。頼むよ」

首を傾げる仕草が可愛い女だった。男達が放って置かないのも頷ける。角の席で、城田と同じ様に一人でグラスを傾ける若い男も、女将にグラスを掲げて酒を頼んだ。店を訪れた時から、男が無関心を装いながら城田を観察している事には気付いていた。女将との会話の雰囲気からすると、地元の馴染み客ではない。興味半分に観察している様子で、城田の監視が目的では無い事も分かっていた。初めて訪れたこの店で、先客として席にいた男と顔を合わせたのは、明らかに偶然だ。女将は、新しい焼酎を持ってくるとグラスの脇に店の名刺を置いた。

「来る前に電話くれると嬉しいわ。気が乗らないと休みにしちゃうのよね」

「人気者じゃないか。客が悲しむぜ」

「お誘いばっかりで疲れちゃう。あなたなら大歓迎よ」

悪戯っぽい笑顔を浮かべて声を潜める。名刺の裏には携帯電話の番号が書かれていた。カウンターに戻った女将は、酔い客の輪に加わると、目が合う城田に微笑んだ。若い男からの視線。無関心を装うのが下手だ。焼酎を片手にしばらく時間を過ごす。城田は、テーブルの上に札を置くと、カウンターの女将に声を掛けて店を後にした。 

路地に出ると冷たい夜風が城田を包んだ。コートの襟を立てて路地の奥へと歩く。街の中心部を歩いて、地理を頭に入れておきたかった。昼間の散策は人目を惹く。地元の人間はよそ者に敏感だ。素知らぬ顔でいても、城田の事を必ず覚えている。観光地ではあるが、季節外れのこの時期に町を訪れる人間には興味を覚えるはずだ。飲食店が途切れると、明かりが極端に少なくなる。路地から大通りへ出て通りの先を見渡した。シャッターを閉めた商店が数軒並ぶと、その先には民家の明かりが点々と闇に浮かんでいた。午後十時を過ぎた時刻だったが、街燈もまばらな通りを行き交う車は無い。城田は通りをしばらく歩いてから路地へと戻って来た。路地を抜けて湖畔へ歩けば、ホテルまではそう遠くない距離だった。客を見送るホステスの背中でスナックのカラオケが響く。居酒屋から出てきた二人の男が城田の後ろを歩く。小料理屋の前を過ぎて路地を抜けると、街燈の下に一人の男が立っていた。小料理屋のカウンターで酒を呑んでいた男。居酒屋から出て来た二人の男が、城田の背後を塞いでいた。

「顔貸せよ」

両脇を挟まれたまま、街燈の先の薄暗い路地を進む。男達は路地から雑木林へ続く脇道に入ると城田を取り囲んだ。薄明かりの中でカウンターにいた男の眼が光る。角刈りの頭に黒いブルゾン姿。スラックスの足元には黒いエナメルの靴が光る。この寒空の下で大きく開けた派手なシャツの胸元に、太い金のネックレスがぶら下がっていた。時代遅れのファッションに身を包んだ田舎のチンピラ。両脇のまだ若い二人は男の舎弟だろう。薄笑いを浮かべて城田の様子を見ていた。

「お前何しにこの街へ来た」

「あんたには関係ねえな」

角刈りの男が一歩前へ踏み出す。

「言葉に気をつけろよ。俺を誰だと思ってやがる」

「田舎のチンピラさ」

若い男の一人が城田の脇腹に蹴りを入れた。これで正当防衛だった。警察官が先に手を出す訳には行かない。男の蹴りをいなしながら受けると、踏み込んで男の顎に右の拳を入れた。よろける男の顔と脇腹に拳を続けて叩き込む。もう一人の若い男の拳が、城田の顎に入った。重い拳に一瞬、視界が揺れる。ファイティングポーズを取った男は、城田の胸元に入って来ると、左右の拳を使って素早い連打を放った。城田より小柄な男の拳が胸元に刺さる。本格的なトレーニングを積んだボクサー。三発の拳をもらって、城田は悟っていた。素早いステップでの胸元への踏み込みと、絶妙な距離感での体重を乗せた拳。小柄ながらに重い拳は、体の芯を使った高い技術を物語っている。面倒な相手。これ以上、拳をもらいたく無かった。城田は、男のベルトを掴んで男の体を引き寄せた。拳が使えない距離が必要だった。男の顔面に頭突きを入れて、ベルトを離しながら、今度は突き飛ばす。よろける男の側頭部を狙い澄まして、力任せに廻し蹴りを入れた。男は崩れ落ちる様に路上に倒れると、そのまま意識を失った。

「死んだかもな」

角刈りの男を睨み据えてそう言うと、男に一歩踏み出す。最初に手を出した若い男は、明らかに戦意を失っていた。先ほどまでの薄笑いの代わりに、引きつった顔をして路上に座り込んでいる。鼻を押さえた手は血で染まっていた。

「戌井組を相手に事を構えて、ただじゃすまねえぞ」

角刈りの男の右手に匕首が握られていた。脅し。片手で振り回そうとする刃物を相手にするのは簡単だ。時間を与えない事。怯んで睨み合う時間は間合いを与える。距離を詰める城田に怯んだのは角刈りの男だった。城田が、匕首が握られた手首を掴んで、素早く後手に締め上げると、男は苦痛に声を上げながら匕首を路面に落とした。落とした匕首を雑木林の中に蹴ると、そのまま手首をねじ上げて男を路上に腹這いにさせる。掴んだままの腕を両手で力任せに締め上げると、男の腕から鈍い音がした。叫び声を上げる男の背中を踏みつける。路上に投げ出された右手は、肘から不自然に折れ曲がっていた。

「もう一本も折るぜ」

口に溜まった血を路面に吐き出しながら城田は言った。ボクサーから顎にもらった拳で口の中が切れていた。ボクサーの拳が、まだ効いている。並の人間なら、路上に倒れているのはこちらの方だっただろう。

「誰に頼まれた」

呻き声を上げる角刈りの男の脇腹を蹴り上げる。

「ボートハウスに行ったろう」

搾り出す様な声で角刈りの男が言った。

「島原の弟か。お前らと組んで悪さしてるらしいな。俺の事は放っておけ」

路地から走る靴音が聞こえた。城田は何事も無かったように男達に背中を向けて路地へ歩き出した。間も無く、腰の警棒を押さえながら走って来る警察官に前を塞がれた。

「何してるんだ」

「何も」

背後で、男達が路上に倒れたボクサーを抱え起こして、雑木林の闇へ向かって走り去るのが分かった。

「派出所まで来い」 

中年の警察官は、息を切らしながら興奮した声で言った。腕を取る警察官と仕方なしに路地へ戻ると、街燈の下に若い男が立っていた。小料理屋で無関心を装って城田を観察していた男。

「俺が話を聞くよ」

警察官に声を掛けた男の手には、警察手帳が握られていた。

「県警本部の安田だ」

警察官に開いた手帳を見せる。手帳を覗き込んだ警察官は、男に敬礼すると城田の腕を離した。

「そこで喧嘩してた奴でして、相手の連中は逃げました」

「傷害になる訳じゃないだろう。俺が引き受けるよ」

警察官を促して立ち去らせると、安田は胸元から取り出した煙草を咥えた。背中を丸めて、ライターを手の平で覆いながら火を点けると城田に向き直った。

「あんた喧嘩強いな」

「見てたなら通報する前に止めるべきだぜ」

「ちょっと事情があってね。戌井組の連中だ。俺が顔出す訳には行かないんだよ」

「奴らには災難だ。手加減しないでやっちまった」

「刃物出されちゃ仕方無いな。だが相手はヤクザだぜ。ここらで飲み歩くのはご法度だな」

風に吹かれて煙草の火が輝きを増す。安田が、コートの襟を立てて口元を拭う城田の顔を覗き込む。

「一応、職務質問だ。あんた何しにこの街へ来た?」

「同じ質問で喧嘩になったぜ」

安田が苦笑いを浮かべる。

「これでも警部補だぜ。あんたと喧嘩は御免だが、正直に答えてもらおうか」

「ただの観光客さ」

「そうは見えないがな。最近、あんたみたいな連中がうろついててね。勘が働くのさ。騒ぎは許さないぜ。」

口の中の血を吐き出す城田を見据える眼は刑事のものだった。

「俺の事は放っておけよ」

「今日のところは見逃してやるよ。口の周りが血だらけだぜ」

手の甲に拭った血がこびり付いていた。安田は飲食店の並ぶ路地へ向かって立ち去って行った。城田は安田の言葉が引っ掛かっていた。自分の様な連中がうろついている。湖畔へ向かって歩き出す。初日から退屈しない夜だった。


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 ベッドのサイドテーブルで携帯電話が鳴っていた。デジタル表示の古い置時計が午前九時を示している。携帯電話へ手を伸ばした城田は、胸の痛みに顔をしかめた。ベッドで天井を見上げながら電話を受けると、相手は渋谷分室の湯島香奈枝だった。

「遅いお目覚めのようね」

城田の寝ぼけ眼を見透かしたように香奈枝が言った。

「昨晩は寝着けなくてね」

昨晩、ホテルへ辿り着いた城田を見たフロントの老人は、慌てていた。腫れ上がった顎を冷やす氷を届ける様に頼んで、部屋へ向かう城田に、怪我の理由をしきりに尋ねた。痛みで寝着けなかったのは事実で、ボクサー崩れの拳には感心していた。電話で香奈枝と話しをしていても顎や口が痛む。昨晩より胸の痛みも強くなっていた。肋骨を痛めている。経験から骨折していない事は判るが、ひびは入っているかもしれない。胸元に喰らった数発の拳も力はあった。

「今朝、公安部が歴史民俗研究会の捜索に入ったわ」

「辻村亮平が戻らないんで監視を諦めたんだろう」

同じ公安関連の組織を捜索してまで辻村亮平を追うのは、それだけ重要人物と言う事だ。

「辻村の足取りは相変わらず掴めない」

「辻村亮平もたぶん公安筋の人間だ。潜るのは得意だろうが身内にも追われている状況からすれば通常の準備は使えないはずだ。島原勝が辻村に一番近いかも知れない」

昨晩、県警の安田が言った言葉が気になっていた。自分のような、よそ者連中がこの町をうろついている。

「公安の動きは島原勝に向かってないか?」

「情報は入って無いわね」

「そうか。少し気になる事があってね。何か分かったら教えてくれ」

電話を切って起き上がるとバスルームへ向かう。洗面台の鏡に映る自分の顔にうんざりしながら熱いシャワーを浴びた。顎から頬にかけて、薄紫の痣が広がっていた。胸元にも拳の跡が浮き上がっている。黒いタートルネックのセーターを着込んで襟元を隠してみたが、痣はやはり目立った。

あのボクサー崩れの男は、死んだかも知れない。城田が所属する通称七三部隊の格闘訓練は過酷を極めるが、城田の成績は常に優秀だった。ボクサー崩れの男への廻し蹴りに、手加減は無かった。足技への意識が薄いボクサーらしく、用意の無いまま受けた城田渾身の廻し蹴りは、男の命を奪う可能性もあった。野外演習場で一昼夜行われる実戦を想定した本格的な訓練では、一撃での決着を求められる。素手での格闘を条件に、ブッシュや雑木林に潜伏する相手をお互いに探し出して格闘する。相手が意識を失うまでの格闘が求められるので、お互いに一撃での決着を目指す事になる。知った顔の人間と、手加減無しの格闘は気持ちの良いものではない。いつの間にか部隊の中では、一撃での決着が暗黙のマナーとなっていた。格闘訓練やサバイバル訓練など、過酷な訓練が日常の特務部隊では、訓練中に死亡する者や廃人同然となる者も多いが、七三部隊ではその現状を意にも介さない。戦地で従軍中の死を含めて、事故として闇から闇へ葬り去られた死を数えれば切りが無かった。

襟や袖口に血が着いたハーフコートを諦めて、厚手のブルゾンを着込む。一階の食堂へ降りてトーストとコーヒーを頼むと、フロントにいた老人が城田の傷を気使って声を掛けて来た。無理に浮かべた笑顔で老人に言葉を返す。ホットコーヒーを口に含むと、傷口がまだ痛んだ。食堂の隅では、場違いな雰囲気の若い女が、コーヒーカップを前にしてファッション雑誌を広げていた。カジュアルな服装ながら、膝の上にはブランド物の高級バックを抱えている。都会的なファッションに身を包み、コーヒーカップを皿ごと持ち上げて、田舎町にはおよそ似つかわしくない振る舞い方でコーヒーを飲む。若い女は、厨房から現れた老人が差し出す紙袋を受け取ると、食堂から立ち去って行った。女を目で追う城田を見た老人が、城田に話し掛けた。

「綺麗な娘でしょう。清輝神社のお嬢さんですよ」

「華がある娘だね」

「この街じゃ一番綺麗な娘です。だが、町の連中には高嶺の花でね」

老人がコーヒーカップを片付けながら顔を崩した。

「最近、弁当を頼まれるんですよ。朝、昼、晩と一つずつ。自分で料理は苦手だそうでね。自然と腕を奮っちまいます」

「料理が苦手なくらいでちょうど良い。非の打ちどころがなくなるからね」

城田のカップにコーヒーを注ぎながら老人が笑った。城田は、厚手のトーストを食べ終えると食堂を後にして駐車場へと向かった。清輝神社の島原勝を訪ねるつもりだった。辻村亮平の消息を知る可能性の高い男。城田より先に、県警の安田が言っていた男達が訪ねているかも知れない。ボートハウスの弟が、城田を警戒した理由とも考えていた。車に乗り込んでフロンタガラス越しに湖に目を向ける。駐車場から見える湖は、今日もエメラルドグリーンに輝いていた。

 

 

 

 重厚感ある調度品に囲まれた広々とした空間で、城田は時間を持て余していた。壁に掛けられた多数の絵画はどれも水墨画で、目を見張る大きさの大作が揃う。ドアの脇に掛けられた一際大きな水墨画の中で、城田を見据える虎と龍の見開いた眼は、来客者を威圧する以外の何者でも無い。神社の応接室と言うよりは、右翼団体の事務所と言った方がよほどしっくりとする。清輝神社の管理棟にある応接室。管理棟の小窓から、受付の女性に用件を伝えると、しばらく外で待たされ、挙句にこの応接室で小一時間、島原勝が来るのを待っていた。テーブルの上にある、手を付けずに置いたままの湯呑みの茶が、すっかり冷め切っている。

駐車場から石畳の参道を暫く上って赤い鳥居を潜ると、玉砂利が敷き詰められた敷地の中央に清輝神社の真新しい本堂があった。資料によれば、斉藤清吾朗が五年前に建立した歴史の浅い神社で、どの宗派、宗門にも属さない神社らしい。靖国神社の英霊供養に習って、戦没者の供養を目的としており、建立した斉藤清吾朗は終戦で命を拾った特攻隊の生き残りだった。城田は受付の女性に、歴史民俗研究会の監査を行う、監査法人の調査官を名乗っていた。香奈枝が考えた身分。数年前に歴史民俗研究会に対して、財団法人の監査が実際に行われていた。

応接室のドアが開く。革張りのソファーから立ち上がった城田の前に大柄な男が立っていた。島原勝。ボートハウスで会った弟より体格の良い男だった。切れ長の涼しげな眼の奥にある冷徹な輝き。ダークスーツに身を包んでネクタイをした姿は、一見すると働き盛りのビジネスマンを想像させるが、その眼の奥にある冷たい輝きを城田は見逃さなかった。落ち着き払った表情で、城田を警戒する素振りは感じさせないが、弟からの連絡を受けているはすだ。自然な振る舞いで、何も悟らせないその技量に感心しながら、城田は意識的に左手を差し出して握手を求めた。

「お忙しいところ恐れいります。調査官の城田です」

島原勝の差し出した左手を握りながら、さり気なく手首に眼を向ける。捜査一課の沢村がいう、被害者の遺体にあった刺青を期待したが、残念ながら島原勝の手首には無かった。島原は、城田にソファーを勧めると、胸元から取り出した名刺を差し出す。縦書きの筆文字で清輝神社、事務官、島原勝とあった。城田は、用意していた身分証を島原に差し出した。偽造した名刺を手渡すのは、後で面倒のもとだ。おとり捜査の手法に近いやり方だった。

「歴史民俗研究会の件でご用件とか」

落ち着き払った声で島原勝が口を開いた。目線は城田の顎へ向かっている。

「昨晩、トラブルに巻き込まれましてね。酒の呑み方が悪かったらしい」

作り笑い。顎を撫でながら話す城田に島原勝は目元を緩めた。昨晩の出来事も知っているはずだ。

「歴史民俗研究会の監査を行っています。こちらから多額の寄付をお受けしている様子だったので、ご関係を知りたくてお伺いしました」

「歴史民俗研究会は、当神社の斉藤清吾朗が設立時から尽力している財団法人です。議員在職中に設立に携わっておりまして、その後もその活動に賛同して支援しています。戦時中の記録保存や、戦没者の遺骨収集などの活動は当神社の建立精神とも重なります」

抑制の効いた落ち着き払った声。城田の顔から視線を外す事なく言葉を返す。三十代半ばの男の言葉にしては、申し分無い答えだった。

「設立時からのご関係ですか。神主の斉藤清吾朗さんは、参議院議員を長年務めていらっしゃいましたね。理事の辻村亮平さんですが、お伺いしたい点が幾つかあるのですが、連絡も取れずに困っています。島原さんと頻繁にお会いされていたとの事ですが、どちらにいらっしゃるかご存知無いですか?」

「お会いして無いですね」

「毎週お会いされているとお聞きしましたが」

畳み掛ける城田に初めて島原勝が動揺した。視線が一瞬宙を泳ぐのを城田は見逃さなかった。

「こちらへ訪ねて来る事もあります。斉藤清吾朗とも気心の知れた仲ですから。ただ、斉藤清吾朗の体調が思わしく無いので最近は会っていません」

「島原さんが代わりにお会いしている訳ですね」

「対外的な仕事は私が受け持っていますから。ただ、辻村さんとはご無沙汰です」

「ご連絡を取って頂く事はできませんか?」

城田は有無を言わせぬ雰囲気で一歩踏み込んで見た。芝居はもう十分だった。島原勝が黙ったまま城田の顔を見つめた。悟っているはずだ。城田は辻村亮平を追っている。歴史民俗研究会と神社の関係など電話で問い合わせれば済む話だ。島原勝が理解した時の反応に興味があった。

「私が連絡を取れるのは、歴史民俗研究会だけです。個人的に連絡を取る方法は知りません」

落ち着きを払っていた島原勝の雰囲気は、民俗団体である国粋清進会の青年隊長へと変わっていた。丁寧な言葉使いは変わらぬままだが、硬い表情の中には射す様な視線があった。辻村亮平をかばっている。この神社は辻村亮平との間に特別な事情を抱えている。城田は確信していた。歴史民俗研究会と国粋清進会の事情なのか、歴史民俗研究会と清輝神社の事情なのか。島原勝と辻村亮平との個人的な事情とは考えにくい。いずれにしても、島原勝は辻村亮平の周辺で起きた連続殺人事件にも近い位置にいる男である事は間違い無い。事件をきっかけにして失踪している辻村亮平を庇う男だ。

「お忙しいところをありがとうございました。辻村さんとお会い出来る事を願っています。いずれまたお伺いします」

立ち上がって応接室のドアに手を掛ける。別れ際の握手はもう必要無かった。島原勝はソファーに深く腰掛けたまま、意味深な言葉を預ける城田を黙って見送った。

 

 

 

 安田慎平は、プレハブ小屋での監視任務を放棄していた。体調不良を理由に、所轄署の刑事部に交代要員を要請して、所轄署の刑事に監視任務を交代させた。昨晩の喧嘩が頭から離れない。小料理屋で偶然に見掛けた昼間の男が、戌井組の連中に囲まれて歩くのを興味半分で追った。長身の男の落ち着き払った態度は、戌井組の連中を圧倒していた。男の廻し蹴りを受けたチンピラは、地元でも有名な喧嘩屋で、プロボクサーとして二度のタイトル防衛を果たした輝かしい成績も持つ。戌井組のボディガードを自認していた男を、廻し蹴りの一撃で沈めた長身の男。背後で男の喧嘩を見ていて、身が竦む殺気を感じていた。喧嘩上手と言う次元の話では無い。明らかに場慣れしたプロの喧嘩だった。警察官から引き継いで男と話もしたが、落ち着き払った態度に舌を巻いた。警察官など気にも留めない態度。裏稼業の人間は、相手が警察官と知ればそれなりにしおらしい態度に出るものだが、あの男の態度は素っ気無い。監視任務を放棄した最大の理由は、昨日撮影した男が乗る車の照会結果だった。該当車両無し。偽造プレートで乗り回しているとしか思えなかった。戌井組との昨晩のトラブルを考えれば、自分が携わる内偵捜査にも関連する。退屈な張り込みから開放されたい安田が、勝手に考えた無理筋の理由だった。県警本部へ報告しても、ダンプカーの監視から外してくれる望みは無い。体調不良で二、三日稼ぐ。後ろめたさが残る決断だが、退屈な張り込みから開放される単独捜査は魅力だった。強行犯係の自分が捜査するべきだ。安田はそう自分に言い訳をしながら、道路脇の細い林道に車を入れて、男の黒いセダンが戻って来るのを待っていた。

シーズンオフのこの時期に、男の姿を探すのは簡単だった。街のホテルや旅館の駐車場を覗いて廻ると、四軒目に訪れた湖畔のホテルに、あの黒いセダンがあった。少し離れた釣り人用の駐車場で暫く待つと、ホテルを出た男は湖畔の道路を走ってこの山道へ向かった。清輝神社。この道の先には神社しか無い。安田は男の行き先が分かると自分の勘が間違っていなかった事を確信した。戌井組とトラブルを起こし、今度は事実上その上部団体である清輝神社、右翼団体の国粋清進会へ向かっている。国粋清進会へ出入りする身内なら、戌井組とトラブルを起こすはずがない。あの男はこの町で何か騒ぎを起こす。男が戻って来れば尾行を続けるつもりでいた。以前から気になっていた四人と合流するかもしれない。男達の目的が見えてくれば、騒ぎが起こる前に任意の事情聴取を行うつもりだった。戌井組への捜索を行う口実も見えて来るかもしれない。出入り業者の内偵などしなくとも、自分の関わる死体遺棄の捜査が進む可能性もある。安田はそう考えていた。男の車を見送ってから既に二時間近く経っていた。清輝神社へ向かって様子を探ろうかと考えていると、安田の前をあの黒いセダンが走り抜けて行った。一呼吸置いてエンジンを掛ける。見失っても男を探す自信はあった。狭い街だ。距離を置いて尾行するのが得策だった。林道から舗装された山道へ出ると男のセダンを追う。消えかけたセンターラインがかろうじて見て取れる、荒れた路面の山道を下る。車が擦れ違うには、神経を使う狭い道幅だった。左の山側から張り出す樹木の枝が作り出すアーチを潜りながら、ステアリングを切る。右側には塗装の色褪せたガードレールが続いていた。下り坂と上り坂が交互に続く山道。道路の右側は湖への川が流れる渓谷だった。緩いコーナーが幾つか続くと、急なコーナーが現れる。安田はステアリングを巧みに操りながら、コーナーを抜けて行った。

ドライビングテクニックには多少の自信がある。県警の交通課に配属されていた時期もあり、高速道路の交通機動隊で腕を磨いた。機動隊基地にある教習コースで、安田が作ったパトカーを操るタイムトライアルの新記録は未だに破られていない。白バイ隊員の訓練も厳しいが、四輪担当の安田にも高いハードルが用意されていた。タイヤを鳴らさずに規定時間以内でコースを周回するトライアル。朝から晩まで教習コースを走り、コースを丸暗記した体が自然に車を操る様になる頃には二ヶ月が経過していた。このトライアル試験に合格する事が、交通取り締まりでパトカーを運転する最低条件だった。クランクや車幅に近い狭いS字カーブ。一般の自動車教習所の比では無い難コースに悪戦苦闘したが、ドライビングテクニックは確実に上達した。

タイヤを鳴らさない訓練のおかげで、車が横滑りする寸前のタイミングを感じ取る事が出来る様になっていた。急なコーナーも、ブレーキを踏まずに抜けられる感覚。横滑りの寸前にシフトダウンして、エンジンブレーキで減速する。男の黒いセダンには、無理をしなくても簡単に追いついた。コーナーの先にテールランプが見える。山道の道幅が広がり、コーナーが少なくなっていた。真新しい舗装の道を暫く下れば、間もなく湖畔だった。安田は黒いセダンと距離を取る。行き交う車の無い直線道路での尾行は、すぐに気付かれる。急なコーナーが二つ続くとトンネルが現れる。暗いトンネルの先には直線の道路が伸びていた。コーナーの手前まで見え隠れしていたセダンのテールが消えていた。戸惑いながらトンネルを抜ける安田の横目に、黒いセダンが見えた。トンネルを出た直後の路肩に停車していた。安田が走り抜けるとタイヤを鳴らして急発進した黒いセダンは、安田の車の背後に迫っていた。見覚えのある昨夜の男の顔がバックミラーに浮かぶ。車線から車を半分はみだして安田の車の背後に迫る。あおられている。安田は、緩いコーナーへ対向車線も一杯に使ってステアリングを切り込む。タイヤを鳴らしながら尻滑りを始める車を、逆ハンドルでカウンターを当てて抑え込む。ブレーキを踏まずにコーナーを抜けた。突き離すつもりで減速せずに飛び込んだコーナーを抜けても、セダンは背後から離れなかった。男は運転も上手い。安田と同じ様に巧みに車を操りながらコーナーを走り抜けている。安田は車の速度を落とすと、路肩に車を寄せた。尾行に気付かれたのでは仕方無い。黒いセダンも路肩に停車していた。

「あんたか」

黒いセダンに歩み寄る安田を見た男は、残念そうに口を開いた。顎に派手な痣を浮かべている。男は車から降りると、腕を組んでボンネットにもたれた。長めの髪を無造作に掻きあげながら、呆れ顔で安田に言った。

「運転はそこそこだが、尾行はなっちゃいないな。素人同然だ。神社の連中が追って来たかと思ったぜ」

「騒ぎは許さないって言っただろう」

男は鼻で安田を笑う。相変わらず、刑事を相手にする態度では無かった。

「まあ、いい。俺もあんたを探しに、街に出ようかと思っていたところだ」

「県警本部の警部補だと言ったはずだ。警察を相手にでかい態度は感心しないぜ。免許証と車検証を見せてもらおうか」

男は、しばらく安田の顔を見据えると、ボンネットから腰を上げて、助手席のドアからダッシュボードを開けた。取り出したのは携帯式の赤色灯だった。言葉の無い安田の顔を見ながら、セダンの屋根に赤色灯を置く。黒いブルゾンの胸元から取り出した警察手帳を安田へ放った。安田は、この男の取る警察官を気にも留めない態度の意味を理解していた。男も捜査官だ。

「この車は捜査車両。免許証の代わりに手帳だ」

警察手帳を開いた安田に男が言った。

「警視庁の城田だ。警部補なんだろ。階級にこだわるたちじゃ無いが階級は俺の方が上だぜ」

「警視正が単身で現場捜査ですか」

「肩書きだけだ。俺は警視庁でも変わり種でね。厄介なヤマの専従捜査係だ。あんたは戌井組を狙っているらしいな」

「県警案件の内偵捜査で派遣されてます」

捜査官とは思いもよらなかった。安田は昨晩からの態度を悔いていた。階級は警視正だ。警視庁の警視正と言えば安田には雲の上の人間だった。山梨県警と警視庁では格がまるで違う。現場の指揮を行う管理官より階級が上の立場で、現場捜査を行うこの捜査官は、一体何者なのか。昨晩の喧嘩も頭を過る。捜査官にしても、明らかに行き過ぎた暴力行為だった。

「俺は人捜しだ。昨晩、よそ者連中がうろついてると言ってたな」

「一般人とは思えない四人を確認しています」

「一般人と思えない理由ってのは何だ?」

安田は返事に困っていた。人相や風貌の他に、これと言って理由は見つからない。

「勘ってやつか」

城田が口元で笑った。警視正の肩書きを持つ捜査官とは思えない、くだけた印象の男。不思議な魅力を持った男だった。

「捜査協力と行こうぜ。隠してる訳でも無いが、俺が捜査官って事は内密にするんだ。俺もお前の事は伏せておく。内偵中らしいからな。四人の居場所が掴めたら連絡をよこせ。戌井組の情報があったら俺も教えてやる」

城田は、ボンネットの上で胸元から取り出した名刺にペンを走らせると安田へ差し出した。筆文字の名刺には、清輝神社の事務官、島原勝の名前があった。裏には携帯電話の番号が走り書きされている。

「神社でその男に喧嘩を売って帰って来たところだ。お前の予想通り、街は、たぶん賑やかになるが邪魔するなよ」

セダンの屋根から赤色灯をしまいながら城田が言った。安田は名刺を胸元へ収める。走り去る黒いセダンのテールを見送りながら、あの男が捜査官である事に内心安堵を覚えていた。相手にするには正直言って荷が重い。あの喧嘩を見れば誰しもが思う印象だろう。車に戻ってアクセルを踏み込む。安田は街へ戻って、四人の男達を捜す事にしていた。


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湖畔に車を停めてボートハウスに目を向ける。昨日と同じロケーション。湖畔を渡る風は相変わらず冷たかった。城田は島原勝の弟を尋問するつもりで、清輝神社からの帰りに弟のいるボートハウスへ来ていた。島原勝の周囲を掻き回す。黙っていられなくなった島原が動き出す事を期待していた。辻村亮平はこの街にいる。城田には確信に近い勘が働いていた。県警の安田が、城田につきまとうのも同じ感覚だろう。刑事の勘は意外に当たるものだ。捜査協力を持ち掛けたのは、その感覚が気に入った事もあったが、付きまとわれるのが面倒だったからだ。まともな捜査手法を取るつもりもない。安田が邪魔をするのは目に見えていた。身分を明かして、城田の捜査に協力させるのが得策だった。

湖畔へ下りて人影の無いボートハウスへ足を向ける。シーズンオフのこの時期に、湖へボートで出るのは釣り客くらいだろう。昨日から散策する観光客の姿を見掛ける事はなかった。ボートが係留される桟橋を渡って、ボートハウスの引き戸を開ける。コンクリートの土間に、古びた丸椅子とテーブルが置かれていた。ボートハウスの中にも人影は無い。城田は土間の奥にある敷居を跨いで、板張りの部屋へ土足で上がり込んだ。壁際には、小さなテレビと灰皿が置かれた、手作り風の低いテーブル。テーブルの上には、缶ビールの空き缶が散乱していた。つまみにしたらしい、煮魚の缶詰めの空き缶と、雑に折り畳まれたスポーツ新聞。散らかった部屋。辻村亮平が身を寄せる場所としては、最初から期待はしていなかった。湖畔と言うロケーションや客が訪れる環境は目立ち過ぎる。土間へ戻った城田は、丸椅子に腰掛けて島原の弟を待つ。しばらく待って戻らなければ引き揚げるつもりでいたが、昨晩の出来事を理由に揺さぶりを掛けるには時間を置かない方が良い。城田は丸椅子に片足を載せると、湖畔に目を向けながら捜査一課の沢村修司へ電話を入れる。新しい被害者が発生していないか気になっていた。

「山梨の清輝神社に来て島原勝を洗ってます」

「清輝神社ですか。遠くまで御苦労さまです」

辻村亮平が清輝神社の島原勝と親密な関係である事は、沢村の耳にも入っている様子だった。

「島原勝に会って来ましたが、手首に例の入れ墨はありませんでした。被害者と清輝神社の関係は今のところ見つかりませんね」

「そうですか……」

電話口で沢村が落胆するのが分かった。捜査の進展が思わしく無い様子だった。

「新しい被害者は出ていませんか?」

「先日の五人目以降は発生していません。被害者の身元特定が進まなくて捜査が手詰まりです。二人目の被害者の血液を、背格好が似ている左系の仕事屋の線でDNA鑑定に回しています。結果が出るには、まだ時間が掛かります」

「辻村亮平は島原勝を頼っていますね。この街に潜伏している可能性があります」

「足取りがありましたか」

「辻村亮平はどうやら公安筋の人間らしい。足取りはありませんが身内の公安からも追われている様子で、この街にも捜査が伸びている気配があります。歴史民俗研究会を捜索した公安が、捜査をしているのであれば、辻村亮平の潜伏先として目星を付けた、それなりの理由があるはずです。島原勝を揺さぶれば足を出すかも知れません」

湖畔に目を向ける城田の視界に、湖面をボートハウスへ向かって来るボートが映っていた。手漕ぎボートに船外機を取り付けている。城田は沢村に再度の連絡を約束して電話を切ると、土間の奥にある散らかった板張りの部屋へ姿を隠した。島原勝の弟がボートを操ってボートハウスへ戻って来ていた。

ボートを桟橋に係留した島原の弟が、ボートハウスの引き戸を開けた。城田は、小屋の隅のダルマストーブに火を入れようとしている島原の弟に、背後から声を掛けた。

「競馬好きらしいな」

居間にあったスポーツ新聞の競馬欄に、赤鉛筆の印があった。スポーツ新聞を土間のテーブルに投げる。意表を突かれて慌てて振り向いた島原の弟が、土足のまま居間へ上がり込んでいる城田を見据えた。

「何してやがる」

動揺を隠せない顔に怒りの表情が浮かんでいた。

「家捜しさ」

島原の弟が、足元にあった丸椅子を城田に向かって投げつけた。払い除けた椅子がトタンの壁に当たって派手な音を立てる。土間へ降りた城田が、錆びたパイプ足のテーブルを蹴り上げる。今度は、テーブルが引き戸に当たって派手な音を出すと腹を見せて倒れた。睨み合い。島原の弟の眼の奥に、昨日も見た暗い輝きが宿っていた。

「俺に興味があるんだろう。昨晩そんな事を言っている奴がいた。俺に興味がある奴に、俺も興味を持ってね。待たせてもらったぜ」

島原の弟は、黙って城田を見据えていた。昨晩の喧嘩を知っている。殴り合いにならない理由だろう。一目置かれているのは歓迎だ。

「友好的に行こうじゃないか」

城田は倒れた丸椅子を起こすと、腰掛けて島原の弟を見上げた。倒れたテーブルを起こした島原の弟は、テーブルにもたれて城田の様子をうかがっていた。

「土足で上がり込んで何のつもりだ」

「家捜しだって言ったろう。俺は辻村亮平って名の中年男を捜していてね。お前の兄貴にも、挨拶しに行って来たところだ」

腕を組んで城田の顔を見据える島原の弟の表情に、変化は無い。城田が期待した反応は返って来なかった。兄の島原勝から連絡を受けている可能性もある。

「ここに居るだろうって家捜しか。ふざけた真似しやがる」

「昨晩、何で連中に俺を狙わせた?」

「気に入らなかっただけさ」

城田がテーブルの足を蹴飛ばした。挑発。土間の上で嫌な音を立てたテーブルから、島原の弟が立ち上がって、城田に詰め寄った。椅子に座ったままの城田を見下ろしながら睨みつける。手は出して来ない。昨晩の喧嘩を知ってかなり警戒している。

「国粋清進会って右翼やってるらしいな」

「それがどうした。喧嘩ならいつでも買うぜ」

「なら買えよ」

島原の弟からの答えは無かった。戌井組の組員も構成員に含まれている国粋清進会の総勢は約八十名。香奈枝が創った資料には、詳細に実態が書かれていた。暴力団が右翼団体を組織するケースは多い。存在さえも否定される組織暴力とは違い、政治団体は合法的に活動が認められている。

「喧嘩を買うのは戌井組の役目って訳だ。元参議院議員がヤクザを喰わせてるってのは感心しないぜ」

「お前に関係ねえ話だ」

「関係あるさ。俺は曲がった事が嫌いでね」

挑発を続ける城田の態度に、島原の弟は苛立ちを隠せない。眼の奥にある暗い光が輝きを増していた。

「辻村亮平をお前らが匿ってる事は分かってるんだせ」

誘い。根拠の無い言い掛かりで反応をさぐる。島原の弟は意外にもあっさりと言葉を返した。

「名前と顔くらいしか知らねえよ。神社の関係で顔出す男だ」

「最近、神社に顔出してから姿を消してる」

「知らねえな。最近は顔見てねえ」

「とぼけるのも今のうちだ。見つけるまで街に居座るからな。また来る」

城田は丸椅子から立ち上がると、ボートハウスの引き戸を開ける。テーブルがぶつかった引き戸の硝子に、真新しいひびが走っていた。揺さ振りを掛けるには十分だった。辻村亮平を隠していれば必ず動き出す。城田の後姿を目で追う島原の弟を尻目に桟橋を渡る。湖畔を歩いてセダンに乗り込むと、湖畔の道を暫く走って路肩に車を寄せた。雑木林の間から、遠目にボートハウスが見えるロケーション。昨日のうちに見つけておいた場所だ。小型のスコープでボートハウスを監視すると、桟橋で携帯電話を片手にする島原の弟の姿があった。揺さ振りの効果はあったようだ。そのまま監視を続けるが、携帯電話を切っても島原の弟はボートハウスから動かなかった。城田は監視を切り上げて路肩の車に乗り込む。遅い昼食を取ってから監視を再開する事にしていた。

 

 

 

 携帯電話のバイブレーション。湖を見下ろす雑木林の中でボートハウスを監視中の城田は、スコープを地面に置くとパンツのポケットから携帯電話を取り出した。昼食を取ってからホテルへ戻り、防寒ブルゾンとカーゴパンツの作戦用スタイルに着替えて、この場所へ戻って来ていた。カーキの目立たない色合いの作戦服の足元には、防寒のハーフブーツを履く。鉄板が爪先に入れられた作業用ブーツの特注品だった。街中を歩くには逆に目立つが、城田はこのスタイルの方が居心地が良い。七三部隊で着慣れた戦闘服と似たスタイルだった。木の根元に腰を下ろしたまま耳元に当てた電話の向こうから香奈枝の声が届く。

「忙しいかしら?」

「退屈していたところだ」

三時間余りの監視中に、島原の弟がボートハウスから顔を出したのは一度だけだった。ボートハウス脇の草むらに立小便をすると小屋へ戻って行った。

「晴海周辺の中国関連企業を当たっていたら、気になる情報を見つけたのよね」

「どんな情報だ」

「中国企業に買収された老舗の倉庫会社があって、関連の島根県にある貿易会社が、精密機器の不正輸出で送検されてる。中国経由で北朝鮮に医療機器を輸出したらしいわ。書類送検で済んだのが不思議なんだけど、中国領事館からの横槍らしくて、買収した中国企業の実態は人民開放軍管轄の国営企業」

「総参謀部第二部か」

中国の情報機関を代表する国家安全部と並んで、人民解放軍が組織する情報機関が総参謀部第二部だ。領事館に駐在する駐在武官への指揮権も持つ情報機関として知られている。

「辻村亮平や身柄を拘束された木村信也とも繋がれば、公安部の相手は中国人民解放軍総参謀部第二部だろう」

「大沢部長にも報告は入れたわ」

「捜査一課の沢村管理官にも資料を送ってくれ。俺からも捜査を頼んでおく」

「もう一つ、被害者の身元の件で話があるの。指紋の話が気になって前科者と遺体の照合を進めていたら、三人目の被害者の特徴から近い人間を見つけた。肩から背中にある特徴的な長い傷跡が、網走刑務所の元受刑者と重なったの。遺体の身長や推定年齢、体格も一致するのよね。でも、二年前に死刑が執行されている」

「それなら別人だろう」

「そう思ったんだけど、背中の傷跡が同じ人間なんてそういないわ。刃物の長い傷跡が二本重なっていて、殺害された時に負った新しい傷じゃない」

分析官として一流である香奈枝の言葉が意味する事。その通りであれば、北海道の網走刑務所で死刑が執行されたはすの受刑者が、二年後に東京で惨殺された事になる。

「遺体のDNA鑑定が可能ならやってみるんだ。沢村管理官にも伝えておく」

「気味が悪い事件ね」

「公安がらみってだけで、うんざりだったんだが、かなり厄介な雰囲気だな」

城田は電話を切ると、捜査一課の沢村に連絡を入れる。香奈枝の情報のどちらにも強い興味を示した沢村は、電話の向こうで捜査を約束した。望遠スコープでボートハウスの監視を再開する。陽の傾いた湖畔に晩秋の冷気が忍び寄る。ブルゾンのフードを被り、襟元を締める。湖面を跳ねる夕陽の輝きが波に揺られていた。

捜査本部で読んだ資料を頭の中で整理する。一人目から三人目の被害者は、連日遺体で発見されていた。四人目の被害者は、意識を取り戻したホステスで、惨殺は免れたが全身打撲で重症だった。一人目の殺害に関わったと話したのは捜査一課の沢村だったが、犯人と共謀した印象は薄い。一人目の遺体発見から三日後に発見されたホステスは、犯人からの逃亡中に高層階から転落して大怪我を負ったのが捜査関係者の見立てだった。三日間拘束されて、殺害されなかった意味。犯人は、不特定の人間を猟奇的に殺害しているのでは無い。何かの目的を持って犯行を行い、無関係のホステスは殺害する事無く監禁する。無用な殺人を避ける犯人の行動に、城田は玄人臭さを感じていた。監禁したホステスの逃走後も、危険を冒してまで五人目の殺害を行った事にも強い意思を感じる。六人目の被害者がもし発生すれば、その被害者も無関係に被害を受けた訳では無いはずだ。

香奈枝が見付けた中国企業と被害者の関係が見つかれば、事件の解決に大きく前進するが、城田は中国人民解放軍総参謀部第二部が操るだろうその企業が、犯行を行ったとは考えていなかった。自分の庭先に、自ら惨殺遺体を放置する理由など見当たらない。その企業が事件に関係していると仮定すれば、企業への警告や見せしめを目的とした可能性の方が高い。もう一つの情報にも、城田は強い興味を惹かれていた。三人目の被害者が、死刑を執行されたはずの受刑者であるのが事実だとすれば、事件の背後には大きな闇が広がっている事は確実だった。国家権力が加担しない限り、架空の死刑執行など行う事が出来るはずも無い。城田は、公安が本気で動き出した気配のあるこの事件には、探ってはいけない真相がある様に思えていた。

望遠スコープの中のボートハウスから、島原の弟が現れた。桟橋を渡って湖畔を歩く。ボートハウスが店仕舞いするには、まだ少し早い時間に思えた。湖畔から道路への小道を上がる。島原の弟は昼に城田が車を停めた場所に立って、道路の先に目を向けていた。城田は、雑木林を抜けて湖畔の道路を車へと走る。車は、雑木林から離れた脇道に乗り入れて隠していた。スコープを覗かなくても、島原の弟の姿は遠く確認できる。道路際に立って、迎えを待っている様に見えた。城田は脇道の木立に隠れてスコープを覗く。車に乗り込んでしまえば、島原の弟の姿が確認できなかった。

白いスポーツカーが、湖畔の道路をボートハウスへ向かって来る。ハザードを出すと島原の弟の前で停まった。アウディのスポーツクーペ。運転している若い女の顔に見覚えがあった。今朝、老人が清輝神社の娘と言っていた、ホテルの食堂で見かけた女だった。車から降りずに島原の弟と言葉を交わしている。しばらくして白いアウディーは再び走り出すと、城田の前を走り抜けて湖畔の道路を去って行った。同乗者はいない。木立の陰から見送る城田には、気が付かない様子だった。

道路脇に立って女を見送っていた島原の弟が、道路を渡って歩きだす。城田は、ホテルの老人が話していた弁当の事を思い出していた。女が弁当を届けに来たのかとも想像したが、島原の弟の手に弁当は無かった。島原の弟は、道路脇に停めてあった古いランドクルーザーへ乗り込むと、女のアウディとは逆の方向へ走り出した。動き出した。城田は、車へ乗り込むと島原の弟を追った。車の少ない湖畔の道路を、距離を置いて追走する。緩いコーナーが続く道路の先に、ランドクルーザーのテールが見え隠れしていた。ランドクルーザーは湖畔の道路を暫く走って、街の手前で湖畔から山道へ入る。大型のダンプカーが下りてくる山道へ入ると、城田は路肩に車を停めてランドクルーザーを見送った。戌井組の砂利採石場へと続く道だった。昨日のうちに、砂利採石場の様子は確認していた。採石場のゲートの手前に、戌井組の事務所がある。島原の弟が向かう先は戌井組だろう。夕闇が迫る時刻だ。城田は、時間を置いて夕闇の中で様子をうかがう事にしていた。

城田は、道路脇にある空き地に車を乗り入れて、夕闇が辺りを包み込むまでしばらく待つと、トランクを開けて上げ底の床板をスライドさせた。捜査道具が仕舞い込んであるスペースだった。暗視スコープを取り出して、ブルゾンのポケットに仕舞い込むとナイフを選ぶ。ガーバー社製のエアレンジャー。折り畳み式の手に馴染んだ愛用ナイフだった。七三部隊で使用していた、自衛隊が採用する軍用拳銃のシグザウエルP220、通称9ミリ拳銃もトランクに並ぶ。小型で護身用に人気の高い、オートマチック拳銃のコルト380ガバメントが一挺、スミス&ウエッソンのM649、通称ボディガードも一挺。M649はリボルバー式の小型拳銃で隠し持つには都合が良い。トランクの中には銃撃戦にも対応できる道具が揃っていた。  

城田は、銃の携帯許可など気にも留めていなかった。警察官の服務規定すら良く知らない。自分が求められる役割を考えれば、気に留める必要は無いと割り切っている。それが刑事部長の大沢には、頭の痛い問題になっている事も知っていたが、城田が大沢にとがめられた事はまだ一度も無かった。

城田は、スミス&ウエッソンのM649を選んで腰のベルトに挟みこむと、銃を使用する必要が無い事を願いながら、38口径用の弾を一掴みポケットへ入れる。銃の重みを背中に感じながら、道路を渡って雑木林の中を歩き出す。手入れのされていない雑木林に、悪戦苦闘しながらしばらく歩くと、土が踏み固められた林道が現れた。夕闇に馴染んだ目で足元を確かめながら、人が擦れ違えない程の道幅の中を、砂利採石場の方角へと進む。大型のダンプカーが通り抜ける舗装された山道が左側に見えていた。急な坂道が続く雑木林の中の小路は、道路沿いに延びている様子だった。砂利砕石場までは、歩いてもそう距離は無いはずだった。車で戌井組の事務所へ近付くのは目立ち過ぎた。事務所は周囲に山林が広がる人里離れた場所にある。不審に思われれば、昨晩と同じ様に立ち回る羽目になる。雑木林を包む静寂の中で、城田が踏み締める地面の音だけが靴音となって聞こえていた。いつの間にかダンプカーの行き過ぎる音も聞こえなくなっていた。夕刻を迎えて、今日の仕事を終えた様子だった。

枯葉の散る小道を進みながら、七三部隊でのサバイバル訓練を思い出す。約三十キロ近くの重装備を背負いながら、山中を一昼夜休み無しに行軍すると、そこからが訓練の本番だった。携帯式のナビゲーションを手渡されて、座標を頼りに目標地点まで単独での行軍を命じられる。埼玉県の秩父山系にある訓練区域は原生林の広がる広大なエリアで、七日間の期限以内での到達を求められながら、支給される食料は通常の二日分。おのずと自身での水や食料の調達が必要となる。手渡されるのは小型ナイフ一本で、行軍の邪魔になった小銃などの銃器は、携行を許されなかった。部隊への通信手段も持ち合わせぬまま送り出される隊員の中には、目標地点へ到着できずに訓練が終了する者も多く、そのうちの数名は精神障害や自殺などの理由で部隊から姿を消す。二十四時間行軍は、通常部隊の訓練でも行われるが、年に数回行われるこの訓練は、通常のレンジャーや野戦部隊の訓練とは比較にならない。七三部隊が行う訓練の中でも一番な過酷な訓練だった。

城田はこの訓練中に滑落事故を起こし、片足を骨折したまま山中を二週間さまよった経験があった。原生林の中で途切れかける意識。死の恐怖を背負いながらの行軍は、押しつぶされそうな孤独感も重なって判断力を失う。上空からの接近も不可能な険しい山中で、捜索部隊に発見された時に、城田が滑落した際に自分の位置を知らせる発信機を紛失していた事を伝えられた。部隊が訓練終了時点で送り込む救援部隊が、城田にたどり着けなかった理由だった。捜索部隊が派遣されただけでも救いだった。城田が七三部隊で思わしくない成績の隊員であれば、間違いなく見殺しだったはずだ。

夕闇の先に明かりが浮かび上がっていた。戌井組の事務所。足音に気を配りながら事務所に静かに近寄ると、事務所の裏手の急な山肌を注意深く登る。枯葉を踏む自分の足音が、やけに大きく聞こえた。枯葉の敷き詰められた地面に腹這いになると、取り出した暗視スコープで辺りをうかがう。三階建ての事務所を見下ろすロケーションだった。鉄柵に囲まれた屋上に人影は無い。事務所脇の駐車場には、島原の弟が乗るランドクルーザーがあった。駐車場の向こう側には、プレハブ造りの仮設事務所が二棟並ぶ。戌井組の事務所は一階だけ明かりが灯っていた。大型バスに拡声器や金網を取り付けた街宣車が三台停まっている。日章旗と国粋清進会の文字が横腹に大きく描かれていた。駐車場の隣にある資材置き場には、大型のシャベルカーが腕を伸ばして停められている。荷台を少し上げた大型ダンプカーが五台。運転席の横には、戌井組の飾り文字が目を惹く。戌井組と国粋清進会が同居する事務所。辺りは静けさに包まれていた。城田は、地面に腹這いになったまま、しばらく様子をうかがっていたが、事務所に人の出入りは無かった。事務所の中を捜索に向かう衝動を押さえ込む。手帳を片手に、事務所の正面から乗り込む事は簡単だったが、捜査令状も無しに捜索をすれば、騒ぎになる事は間違いない。辻村亮平が潜伏している確証も無いまま乗り込んで空振りに終れば、手の込んだ揺さ振りや監視も無意味になる。それも辻村亮平がこの街に潜伏していればの話しで、まだ可能性が高いと言うだけの事だ。

昼間に増して寒さが忍び寄る。城田はブルゾンのフードを被って襟元を絞めると、夜の冷気に包まれながら監視を続けた。地面と一体になって野外に溶け込むのは得意だった。身動ぎせずに長時間同じ場所に潜伏する事は、実戦での奇襲作戦や偵察行動での基本だ。熱感知スコープなどを使用すれば、潜伏する姿は一目瞭然だが、人の目から自然に溶け込んで姿を消す技術は持ち合わせていた。島原の弟が事務所から姿を現したのは、監視を始めてから三時間程経ってからだった。腕時計を覗くと、時刻は午後九時を過ぎていた。ランドクルーザーに乗り込むと、携帯電話を耳元に当てながら駐車場を走り去る。一階の事務所の明かりは、灯ったままだった。事務所にはまだ誰かいる。

城田は資材置き場に停められたシャベルカーの脇で動く人影に気がついていた。ダンプカーの後ろにも、もう一人の影がある。暗視スコープを向けると、黒い覆面をした男の姿があった。ブーツ姿の戦闘服。闇に紛れて忍び寄る姿からすれば、国粋清進会の構成員ではない。黒い覆面の中に目と口元だけが浮かんでいた。二つの人影は、資材置き場から事務所の敷地に忍び寄ると、駐車場にあるプレハブ小屋の裏で合流した。城田の方が先客のはずだったが、二つの影が、どうやって資材置き場へ現れたのか不思議だった。監視の間に通り過ぎた車は一台も無い。闇から湧いて来たかの様な影。資材置き場からプレハブ小屋へ進む身のこなし方も、素人では無かった。城田は、腹這いになったまま、急な山肌を斜めにゆっくりと下った。枯葉の音に気を配りながら移動するが、静寂の中で気配を殺せる自信は無かった。暗視スコープでプレハブ小屋を覗きながら、移動と静止を繰り返す。駐車場を挟んで向かい側の位置。プレハブ小屋までの距離だけが救いだった。時間を掛けて裏山を下ると、駐車する街宣車の影に隠れてプレハブ小屋を確認する。暗視スコープの中にある二つの影は、プレハブ小屋の影から事務所を観察していた。しばらくすると、一人の影が道路際を走り出すのが見えた。城田の位置とは反対側の事務所裏手へ向かっている。もう一人の影は、プレハブ小屋から城田の潜む街宣車へ向かって闇を走って来ていた。城田は、並んで駐車する街宣車の間に身を隠して息を潜めた。隣の街宣車の脇で、呼吸を整える影の気配を感じていた。城田は、ポケットのナイフを手で確認しながら街宣車の後ろへ神経を集中させた。闇に紛れて現れた人影は、丸腰では無いはずだ。腰の拳銃に手を伸ばすか迷いながら、背後の気配を慎重に探る。影がゆっくりと街宣車の脇を進み始めていた。地面を踏む、ゆっくりとした足音が聞こえて来る。

城田は、街宣車の後ろを進む影が、城田の脇を抜けようとした瞬間に、影の脇腹に拳を入れた。不意を疲れた覆面姿の影が地面に腰を落とす。覆面姿の影は、街宣車の間から現れた城田を見ると、城田の膝へ向かって、座ったまま蹴りを返して来た。無言。素早く立ち上がった影が、覆面に浮かぶ二つの眼で城田を見据える。表情の無い眼。不意を突かれながらも素早く向き合う相手。鍛え上げられた小柄な男。訓練を重ねたプロに間違いは無かった。覆面姿の男が、腰を落としながら力の乗った蹴りを飛ばす。左手で蹴りを払う城田へ向かって踏み込むと、顎へ向かって拳を入れて来た。拳の使い方で流儀が分かる。空手。直線的な突きで一撃での決着を狙う拳。昨晩のボクサー崩れより、相手にしやすい拳だった。城田が腹へ蹴りを飛ばす。覆面姿の男は、城田の蹴りをかわしながら一歩下がると、腰に伸ばした手をしなるように振った。ナイフ。素早く振り抜かれたナイフの刃が城田の左腕を舐める。切り裂かれたブルゾンの下で、ナイフの刃が腕を刻むのを感じていた。ポケットのナイフに手を伸ばす間もなく、二回目の一振りが向かって来る。半身になってナイフをかわした城田は、男の脇腹に拳を入れる。切り裂かれたブルゾンが血に染まっていた。男のナイフが向かって来る。城田は、右にかわしながらナイフを持つ男の手を取ると、体を預けて男の足にそのナイフを突き立てた。男がナイフを振り出した勢いを利用する。無言だった男の最初の声は呻き声だった。地面に倒れ込んだ男の脇腹を、力任せに蹴り上げる。左腕に焼ける様な痛みを感じていた。

背後の事務所で怒鳴り声が聞こえる。銃声。弾けた様な乾いた音が闇に響く。事務所の中から駐車場に飛び出して来た男の手には、散弾銃が握られていた。資材置き場へ向かって走る人影に向けた銃口から、再び銃声が放たれた。城田は、覆面の男に背を向けて裏山へ向かって走った。腰の拳銃に手を伸ばしながら、急な山肌を駆け上がると、闇の中の枯葉を踏み締めて雑木林を走る。左腕に走る痛みは激しさを増していた。銃声。少し遠くに聞こえる銃声は、城田を追ってはいなかった。手に持ったスミス&ウエッソンのM649を腰のベルトへ戻すと、足を止めて左腕の傷口を確かめる。沸き出る血に染まった傷口は、横に長く切り裂かれていた。ポケットのナイフでブルゾンの袖を切り落とすと、口も使って傷口をきつく縛り上げた。暗視スコープで周囲を探る。事務所へ向かった時の林道からは外れていた。

勘を頼りに雑木林の中をしばらく進むと、遠くに複数のサイレンが聞こえて来た。山中の銃声を聞きつけた警察車両が、戌井組へ向かっている様子だった。サイレンの方角を確かめながら、雑木林の中を進む。丸太で作った階段を見つけて雑木林を下ると、目の前は湖畔の幹線道路だった。雑木林に身を隠しながら、湖畔の道路を砂利採石場の方角へ進む。城田は道路際をしばらく歩いて、再び来た道を引き返した。砂利採石場へ上がる山道は、警察車両で封鎖されていた。山道の手前にあるプレハブ小屋にも、赤灯を回転させた警察車両が数台停まっている。城田は、雑木林の中に身を隠してしばらく考えると、携帯電話を取り出して電話を掛けた。電話口の向こうで女の弾んだ声がした。

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