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第1話。

「瀧河!」
大湊は睨みつけるような視線をピッチに向けたまま、隣に座るサブメンバーが飛び上がるのではないかというほどの大声で叫んだ。

「はぁ~い」
瀧河耀太(タキガワヨウタ)はけだるそうな声で返事をし、ピッチの脇で行っていたアップを切り上げ大湊のもとへ向かった。所属するサッカー部の監督である大湊に対し、耀太はそのストレート過ぎる表現や、いつ何時も緩むことの無い目付きと表情に、相対しづらい苦手とする感情を抱いていたが、しかし一方でその優れた戦術眼に一目置いているのもまた事実だった。むしろ、耀太にとって大湊は接しづらい人間だったとしても、煙たがるような扱いは毛頭する気にはなれない人物。それが耀太の中での大湊であった。

耀太にとって大湊を無視できない存在になったのはそう遠い昔のことではない。12歳の誕生日を間近に控えた時期に、交通事故で生死をさ迷う経験をした耀太は、命の確保と引き換えに利き足である右足に大きな怪我を負った。若さもあり、複雑骨折を起こしていた耀太の右足は半年という長い期間を経て無事完治したものの、皮肉にも小学生低学年から続けていたサッカーへの情熱を奪われる結果となった。

体も小さく筋力の元々弱い耀太にとって、半年ものブランクを開けた体を駆使して打ち込むほどの価値は見出だせないもの。それが耀太にとって自分とサッカーとの位置付けだった。結局、多少の名残を感じながらも、耀太は「まあいいか」というなんとも意気込みの無い自分に驚きながら、自らの意思で中学のサッカー部には入らなかった。

誕生日の遅い耀太は、半年という文字通り骨休めという時間を過ごせば、自ずとその
間に中学へ進学することになる。自分の足が完治した頃には、既に新入部員という組
織が出来上がっていており、転校生の自分がそこに後から入るのも億劫だと感じたのも、入部をためらった一つの要因だった。

しかし、そんな耀太に目を付けたのが松ノ瀬中で体育教師の傍らサッカー部の顧問を任されていた大湊だった。

第2話。

神奈川県湘南地区に位置する市立松ノ瀬中が、そのサッカーが盛んな藤沢市の子供達が一手に集まるサッカー強豪校だったのはもう20年以上昔の話となっている。松ノ瀬中に集まっていた地域の才能ある子供達は姿を消した。同じ湘南地区にサッカー強豪校が「誕生」したためだ。Jリーグがはじまり、空前のサッカーブームが生まれた昨今、その初期の(後に大不況となる)第一次サッカーブームが93年の出来事だった。1993年当時、Jリーグ発足に睨みをつけた松ノ瀬中と同じ湘南地区に巨大な敷地を持つ湘南学苑は、サッカー推薦を90年より取り入れる事を決定する。サッカー強豪校となり、より生徒数を増やす事が目論みだと後に湘南学苑サッカー部を解雇された大湊は聞いている。

91年より日本リーグで活躍経験のあるMF田辺宗一を監督に迎えいれる事が決定していた湘南学苑は「大昔の県一部リーグ程度の肩書きではこれ以上我が校では雇えない」という理由で、素質も何も無い生徒しか与えられなかった大湊はその実力を試されることもなくサッカー部監督を解雇される。教員としての大湊には何の不満もなかった湘南学苑は、教員としての将来を大湊に約束したが、齢57を迎える大湊にとってそれは魅力的な打診ではなく、またそれ以上に教育の現場である学苑の教育方針の不一致を感じた大湊は、生涯を共にしたサッカーよりも教育者として学苑に籍を置くことを嫌い、迷いなく学苑を去る。

そんな大湊を拾ったのが、皮肉にもサッカー古豪校の松ノ瀬中だったのだから、芸は身を助けるものだと自らの人生を省みて苦笑いを浮かべながら呟いた。

第3話。

生涯をサッカーと共に過ごして来た自分にとって、仕事でサッカーに携わることが出来るというのは、意欲を掻き立てられるものであったが、松ノ瀬中を選んだのはサッカー古豪だからという意識はなく、またサッカー強豪校にしようなどという野心もない。単純に家からの距離が近く、また空気の良い高台に閑静な住宅街の中で最も高い位置に校舎を構えるその環境が気に入ったからだ。もっとも、より近い所にも中学校があったのにも関わらず、無意識に松ノ瀬中を選んだ事は、やはりどこかで自分の選択の中にはサッカーという要素が入り込んでいるのだろう。

着任後すぐにサッカー部の顧問を任されたが、松ノ瀬中サッカー部は古豪という名すら似つかわしくない惨状を自分の目に焼き付けてくれた。松ノ瀬中サッカー部のここ数年の成績といえば、湘南地区を突破するのがやっとで、県大会に名前すら入らないのが常の、単なる地域の中学校そのものだったのだから当然と言えば当然なのかもしれない。

しかし、自分にすらわからないことが世の中おこるもので、大湊は自らの人生においてこの時ほど驚かされた事はきっと数えるほどしかない。着任の翌年に入部してきた子供達はそれまでの上級生より才能という器が一回り大きく見える子供達だったのだ。無論、身体の発育時期であるこの時期にとって一年という差は埋めることの出来ない程の実力差を生むもので、新入生と二年生に試合をさせたところで、結果は常に目に見えたものだったが、それでも新入生の基礎能力の高さは充分に見てとれるものだった。

第4話。

GKの山井 勝は飛び出しのタイミング、ガッツ、そして番長とも言える自信に溢れた人間性も含め紛れも無く新入生の中でも際立つ才能を持ったGKだ。

センターDFの二人、渡辺大紀と佐藤洋介の二人は小学校時代からコンビを組むカバーリングマンと当たり屋のセンターバックコンビ。
サイドDFの和田一樹と広山隆は守備に計算の立つ卒なくこなすタイプのサイドプレイヤだ。

MFにはDF陣より一回り上のクラスの選手が集まっている。キャプテンシーに溢れひょうきんだがどこか周りの子達より大人びている関井宏和。フィジカルが強くしっかりと足元にボールを保持できる選手だ。
川崎翔は、フィジカルこそ弱いもののチーム1~2を誇るテクニックと豊富な運動量を持つ華麗な選手。
チームにアクセントをつけられる左利きの有馬幸人は、左のウイングもこなせるユーティリティプレイヤで、テクニックもある。

この関井、川崎、有馬は共に市選抜に選ばれていた選手だ。

このほかにも各チームでレギュラを張っていたであろう、パワー型の森田 司、地味だが黒子のようにボールを追える須山 慎吾、ムラさえ無くせば市選抜トリオにも張り合える萩野 健がいる。

FWにはこのチームにいることが奇跡とも言える林原 隆ノ介がいる。左利きのテクニシャンで瞬発力にも優れドリブル突破もお手のものの彼はなんと岡山県選抜というのだから大湊も驚いた。県選抜という逸材がなぜ松ノ瀬中に来たのかは、ご両親の転勤により藤沢市に越して来たが、まさか日本ジュニア選抜でも無いかぎり神奈川までその名が轟くわけもなく、名門校への入学は出来なかったという事情があった。

第5話。

当初こそサッカーに情熱を燃やす林原は松ノ瀬中のような「弱小校」に通うのを嫌っていたが、通うにつれ次第に文句を言わなくなったと親御さんから後に大湊は聞いている。ともにボールを追い掛けるうちに、仲間の「素材」に気付いたのかもしれない。

FWには右にチーム一の俊足ストライカー 柳橋 明に、センターでの立ち回りがうまい高橋 公樹、フィジカルは無いがパスと裏への飛び出しが持ち味の佐村 和隆がいたが、どの選手も一定の水準は保っている。

一定以上の水準を保った選手に加えGK山井や、関井 川崎 有馬の市選抜トリオ、県選抜林原という地域の中学にしてはハイレベルな選手が集まった背景には、その年の同世代の子にもっと優れた選手がいたというのが実情だった。

吸い付くようなボールコントロールと瞬発力を活かしたドリブルに、パスセンスもこの歳から備え始めた小学生とは思えないプレーを疲労していたナショナルトレセンのMF吉沢 智喜。 その吉沢と切磋琢磨するように育ったオールマイティーなボランチ原山 慎太郎。
抜群のスピードとテクニックでDFラインを掻き乱しゴールを量産するFW楢山 洋二。

このナショナルトレセンの三人に加え地域トレセンの選手も湘南地区には何人かいたうえ川崎、有馬はそれぞれ吉沢、原山と同じサッカークラブに所属していた。市選抜の川崎がテクニシャンとして充分に胸をはれる技術を持ちながら、運動量を身につける選択をしたのは、同じスタイルではどうしても打ち負かすことの出来ない吉沢がいた故であり、有馬が左足に固執しその一本でアクセントをつける意識を持ったのも、チーム内の1対1において原山が相手では断続的な活躍はさせてもらえないと考えた結果だった。

そう、彼等は市選抜という輝かしい経歴を持ちながら、所属していたチームのエースではなかったのだ。

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