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第56話。

やばい―。

原山の危機察知アンテナが反応していた。吉沢と楢山が手玉に取られただけでなく、広範囲をカバーする峯田までもワンツーでかわされてしまった。自慢の中盤が崩されかかっている。今こそ、ピンチになる前に危険を摘み取らなければいけない。スピードとジャンプ力のある湘南学苑の3バック左の一角、薮田が関井に一気に距離をつめる。それをみた原山は横から関井へすこしずつプレスをかけることを決める。おそらくプレスをかけられた関井は横パスを出すに違いない。そこを睨みつつプレスをかけて、ドリブル突破にも横パスにも対応出来るよう、横からプレスを少しずつかける。ドリブルでもパスでも来い!

そのとおり、関井は中央方向へ短い横パスを出した。さあ、これをつめるのが自分の役割だとパスの行先を見る。そこには有馬がいた。

 

しまった―。

有馬へのプレスの一歩を踏み出した自分を愚かだと思った。有馬ならボールが渡る前に距離をつめるか、逆に有馬からのパスの行先へ方向転換をしなければならなかった。有馬には、中途半端なタイミングのプレスは無意味だ。なぜなら、有馬には伝家の宝刀、左足のロングパスがある。ロングパスを出させないか、出す先を潰してパスコースを消すのが有効だ。逆に、半端なプレスは後ろにスペースを生み出す致命的なプレーになる。ロングパスのフォームに入った有馬を見た原山はすぐさま、パスの出す先を潰す思考へ切り替えた。

アイツはどこだ、どこにいる。有馬がここでパスを出すのはアイツしかいない。アイツに自由にボールを持たせてはいけない。それなのに、中央に陣取っているはずのアイツが見つからない。どこだ。どこにいる。

 

「オーライ!」

関井から来たボールをトラップせず、その勢いを生かしたまま自分の前を通過させ、自身もそれにあわせ身体を反転する。ボールの勢いを殺さずに反転し、ボールを自分の左側に置くことに成功する。センターサークルの中から、そのキック力と精度を合わせ持つ左足を振り抜いた。「ウチの10番だって、成長してるんだ―」

 

ボールは少し弧を描くライナー性の質で、ピッチを斜めに切り裂いた。

そのボールに合わせるように、左サイドをタッチラインギリギリに沿って疾走する男がいる。全速力で駆け上がるそのスピードに、攻撃を意識していた竹井は全く追いつけていなかった。もとい、本来そのスペースを埋めるべき竹井でなくとも、湘南学苑の誰もサイドいっぱいに待ち構えていたその存在に気づいていなかった。本来、彼はそこにいる選手ではなかったのだから。

 

 

全員をあざむき左サイドを全力で駆け上がるのは、松ノ瀬中10番、川崎翔―。


第57話。

翔は危険を感じていた。良い形でパスが回せない現状に。

ボールがなかなか奪えず、マイボールになっても今度は湘南学院のプレスがきつく、また低い位置からボールを運ばなければいけないため、なかなか攻撃につながらない。自分も、良い形でボールが持てないし、ボールを持っても原山につぶされてしまう。

「このままではやられる」

危機感が襲ってくる。

攻撃は大事だが、ボールが来ない、来ても繋げないでは意味が無い。そんなことをしている間に追加点を奪われてしまう。自分も守備に加わるべきだ。ともかくまずボールを追い回し、敵の攻撃を食い止め、もっと高い位置でボールを奪わなければ、攻め手も無ければ危険もどんどんと増していく。

動こう、下がろう。

そう判断を下し、センターサークルを超えようとした瞬間、左肩に重みがかかる。

重み・・・いや、これは重みじゃない。引っ張られている。左腕を引っ張られている。

 

「だめだ、待て。お前は下がるな」

振り返ると、そこには自分の左腕をガシっとつかみ、少し息を切らせながら話しかける関井がいた。

「なんだよ。だってこのままじゃ―」

翔が言い終わる前に関井が反論をする。

「お前が下がったら誰が攻撃をするんだ」

翔は話を続けろとばかりに、黙って聞いている。

「お前が守備に下がったら攻撃陣にボールを供給するやつがいなくなる。それじゃたとえ守れたとしても攻撃にならなくなる。ラインをあげられなくなる。ゴール前にはりつけだ」

「それにお前がいま守備に下がるのは相手の思うツボだ。ここぞと言わんばかりに、原山も攻撃参加をしてくる」

翔は関井の真剣な眼差しに応えるように、じっと目を見つめた。

「いいか、俺が絶対お前までボールを届ける。絶対なんとかしてみる。だからお前は下がるな。そのあいだにお前はボールをもらう準備をしておけ。原山をなんとかしろ」

「お前ならできる。俺はお前を信じてる。だからお前も俺を、皆を信じろ」

翔は、ひととき黙ったあと答えた。

「―わかった」

 

目の前では関井が、須山が、有馬が敵のパス回しに翻弄されながら走り回っている。自分も守備に参加したい。自分もボールを追って、なんとかチームに貢献したい。今すぐにでも―。頭の中をぐるぐるとめぐる言葉を、何度も、何度も打ち消し、その思いに抗った。皆が、自分を信じて戦っている。下がって自分も守備に加われば、いとも簡単にチームで仕事をこなしているという感覚を手に入れてホッとすることができるだろう。しかし、それは見せかけの感覚でしか無い。自分の本来の仕事は必要最低限の守備と、なによりも攻撃だ。いま下がれば、皆の信頼を裏切ることになる。だから、下がってはいけない。このチームの主将を、守備陣を信じろ。そう、自分に言い聞かせていた。

 

しかし、事態は好転しなかった。

とうとう、松ノ瀬守備陣にほころびが出てきた。

パスを受ける吉沢の表情、立ち姿を見て、翔はすぐに気づいた。

 

「違う、サイドへのパスじゃない!」

 

ノールックダイレクトヒールパスで、ボールはぽっかりと空いたバイタルエリアに転がる。吉沢とコンビを組んできた、パスを受けてきた翔にはもう何度も見てきた光景だった。

居ても立ってもいられなかった。

もうダメだ、このままではやられる。追加点を取られたら元も子もない。翔は、自陣に向かって走りだした。

いそげ、いそげ、いそげ。なんとしても止めるんだ。

センターサークルを超えようかという、その時だった―。

 

「まだだ!来るな!」

 

それは、翔に向けられた、翔だけが理解できる言葉だった。


第58話。

それは、翔に向けられた、翔だけが理解できる言葉だった。

湘南学院の誰も、ましてやチームメイトの誰も、その言葉が何を指しているのかを理解できていなかったに違いない。ほんの一瞬、ほんの一言、ピンチの時に主将がただ叫んだだけなのだ。深く考えることもなければ、そんな余裕もない。しかし翔には、届いた。

 

「まだ、まだ下がるなっていうのか」

迷った。翔は迷った。下がるべきか、留まるべきか。そして、後者を選択した。いや、能動的に選択したというより、思考を巡らせたまま答えが出せずに、そのまま次第に歩き出したという方が正しい。それほどに迷い、考えあぐねていた。

そうこうしているうちにも、松ノ瀬守備陣はどんどん崩されていた。ボールは原山の絶妙なパスで右サイドの竹井に渡り、竹井はエンドライン沿いをドリブルで切れ込んでいく。佐藤と渡辺が湘南学院の2TOPに引っ張られて出来たペナルティエリアのスペースには、吉沢が走り込んでいた。

 

危ない。

そう思ったが、もう見ているしかなかった。もう祈るしかなかった。ここまで来たらもう自分が追っても間に合わない。山井が吉沢のシュートを止めることを祈るしかない。

しかし、やはり吉沢は役者が1枚も2枚も上手だった。山井の鋭い飛び出しにも臆さず、チップキックでボールを浮かして、吉沢は倒れたもののボールは山井の突進をくぐる。1バウンド、2バウンド。ボールは確実にゴールに迫り、ゴールマウスの下にあるラインの向こうへと進もうとしていた。

もう、ダメだ。追加点を取られてしまった。

やはり、自分も守備に下がればよかった―。

 

諦めかけたその時、翔の視界にも彼が映った。

背番号7が、猛然とボールを追いかける主将の姿が、映った。

 

「宏和!」

思わず叫んでいた。

あいつは、守った。本当に守った。もうダメだと思った。でも、まだ終わってなかった。あいつはずっと走り続けていた。

「すごい奴だ―」

翔は誰に伝えるでもなく、一人つぶやいた。

 

「約束、守ったな」

チームメイトにもみくちゃにされた関井に近づいて、翔は声をかけた。

「ああ、当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだ」

コーナーフラッグにあるボールに視線を預けたまま関井は答えた。

「頼りになる主将だよ」

翔はそう答えて肩をたたき、自分のマークする敵のところへ走った。

 

CKを山井の鋭い飛び出しによるキャッチでしのいだ松ノ瀬中だが、苦しい状態に変わりはなかった。しかし数分前と違うのは、マイボールであること。なんとかかんとか、自分たちでボールを保持していた。

今度は自分の番だ。

翔は、周囲を見渡す。セーターサークルを少し超えたあたりの中央に位置する自分には、両脇に原山と峯田の敵ボランチ、敵ゴールに背を向けた正面には吉沢がいる。ともかく、ここをなんとかしなければいけない。次にボールを貰うとき、このまま安直にここでボールを受ければ即座に囲まれてつぶされる。前を向いて、できればマークがいないフリーの状態でボールを受けるべきだ。

 

翔は、少しずつ歩き出した。それは、まるで無意識に身体が動いているかのように、適当にボールに合わせて動いているかのように、なにげなく。走ってはいけない。原山も峯田も自分に注意をくばっている。走れば必ず今よりさらに注目する。やる気の無い様に、ボールを受けるつもりなどまったくないかのように、トボトボと歩く。チラチラとこちらを目で確認する原山の死角へ、意識の外へ。視線を外した時に少し、視線を外すたびにまた少し。

 

ボールは、有馬が竸ったこぼれ球を須山が拾った。吉沢にプレスをかけられ、今にもボールを取られそうだ。

我慢だ―。

翔はぐっとこらえた。ここで走り出したら全てが水の泡になる。

まだだ、まだその時じゃない。

そんな翔の視界に関井の姿が見えた。翔は関井の表情を見てピンときた。

 

なにか狙っている。

 

あいつがあの位置にいるのはおかしい。パスを貰うならあんな斜め後ろじゃ中途半端だ。もらった瞬間に囲まれてしまう。そんなヘマをするやつじゃない。何か、何かを狙ってる。

なんだ。何を狙ってる?

直後、須山がボールと吉沢の間に入り、自分の身体から少しボールを遠ざけた。ちょうど、自分がボールとの壁になるように。

 

―わかった。

関井と須山はアレを狙っている。

だとしたら、必ず湘南学院の守備体型にギャップが生じる。

 

どこだ、どこにできる―。

 

翔は周囲を見渡した。

須山と関井があのトリックプレーに成功すれば、関井は中央右寄りに抜け出すはずだ。そうすれば、敵もそちらに集まる。もし、有馬がそれに気づいて少しでも中央に絞っていたら、関井からのパスを中央付近で受けたら、どうなる。

 

翔のなかに鮮明なイメージが流れこむ。

あそこが空く。きっと空くはずだ。

翔は、走り出したい気持ちをおさえ、また少し歩を進める。

 

イメージ通り、関井は須山とのスイッチで抜けだした。

いける。チャンスだ。

翔は、歩きから少しペースを上げる。軽いジョグ程度にトコトコと移動しはじめた。身を潜める様に、準備をするように。

そして、中央に視界を移す。

 

 

有馬がセンターサークルに入ろうとしている姿を確認する。

 

 

今だ―。

そう自分に言葉をかけ、自らの足にエンジンをかけた。

 

自分は間違ってない。この映像通りに進んでボールがやってくる。一気に左サイドタッチライン沿いへダッシュし、そのままサイドをかけあがる翔。

有馬と目が合う。

有馬から、腰の高さドンピシャリでライナー性のボールが届く。

さぁ、ここから自分の出番だ―。

やってやる。見てろ湘南学苑。見てろ原山。見てろ吉沢。

 


第59話。

ライナー性のボールがピッチを斜めに切り裂く。

湘南学苑3バックの右側を担う三島が反応する。ボールが出た瞬間に松ノ瀬中のFW林原をリベロの井本に預け、右サイドに侵入してきた、ボールの届くであろう先にいる翔へアプローチする。

(トラップする瞬間を狙ってやる―)

ボールは強いライナーで少し高かった。全速力でこのボールに走る敵の10番はこのボールをおそらくタッチライン側の足、つまり左足の”もも”か足先インサイド”でトラップするだろう。この強いボールをトラップするためには丁寧なボールコントロールを要する。そこで距離をつめれば、相手はスピードを落とさざるをえない。スピードを落とさせつつ中の方向を切る。最悪、縦には行かせてもいい。そのまま、川崎翔の後ろを追う竹井と挟み込めばいい。

 

さあ、ボールがきた。

気を抜くな。トラップの瞬間一気に距離をつめる。

しかし、なぜか違和感がある。なぜだろう。何かが自分の思い描いている映像と違う。なんだ。なにが違う。気を抜くな、集中しろ。トラップのタイミングを―。そこで一つの事実が三島の脳を直撃する。速い。スピードが落ちてない。このままではぶつかる。自分と翔がぶつかる。二人がぶつかったあとにボールが転がるが、そうなれば竹井、原山、井本が飛び出てくる。ファウルにはならない。この位置をとったのは自分が先だ。ファウルになるとすれば翔の方になる。いずれにせよ、このまま身体をはって止める!


しかし、翔は三島の想像を超えた。

 

翔は、飛んだ。

全速力で走りこんだまま左足で踏み切りジャンプ。

右足の外側でボールを捉え、丁寧に柔らかく右前方へ、文字通り置くようにボールを返した。

 

迫り来る翔に身体をぶつけるつもりで気を張っていた三島は、一瞬何が起きたのかわからなかった。自分よりずっと小さい敵の10番が、自分よりずっとずっと大きく見えた。高いジャンプは、小さな翔を三島が見上げる状態をつくりだし、三島に少しのあいだ劣等感を抱かせた。はるかに小さな翔に、である。

そうこうしているうちに、翔は三島の右を、翔から見て左のタッチラインと三島の間を抜けていく。

ボールは自分の左を、翔は右を。もうわけがわからなくなっていた。

 

完全に翔を迎え撃つ体勢をとっていた三島は、自分の背中に流れたボールにすぐに反応出来なかった。裏街道―。スピードや相手の逆をつくイマジネーションを生かし、敵の裏へボールを出して自分は反対側からそのボールに追いついて敵を抜き去るテクニックだ。

 

ペナルティエリアの角付近に転がるボール。

(追いつく!)

原山がその転がるボールへ全速力で向かっていた。自分のスピードならあのボールに追いつける。最悪自分のボールにならなくとも、同じくこのボールに迫る翔と競って弾き返すことは出来る距離だ。

 

そのとき、原山には何か機械的な音が聞こえた。

いや、試合中にそんな音は鳴らない。ただ、聞こえた気がした。それほどに、変わったのだ。その速度が。三島の背後を弧を描くように走り左サイドからあらわれた男の速度が。翔のギアが一段あがる音がした、そんな気がするほどに、翔が速い。正確には最高速度はおそらく1年前と大差はない。しかし、三島の背中から現れ、走る角度をボールの方向へ変えた時、キュッと軽く身体を切り替え、まるでボールが吸い寄せているように翔がぐいぐいと迫る。

やばい―。

しかし、そう思った時にはすでに遅かった。

翔と競るつもりで、一刻も早くボールに触れるためにスライディングの形態で右足を放り出していた自分は、地べたに滑り込み徐々に身体は万有引力に吸い寄せられていく。下がる視界の目の前を、間一髪ボールをかっさらった翔が走り去っていく。その映像を、なすがままに、絶望のなか街中の大ビジョンに流れるCMを眺めるときのように受け取る原山は、その瞬間に有馬の言葉がフラッシュバックした。

 

“だったら、ウチの10番もなめないほうがいいよ。もう原山の知ってる川崎翔じゃない”

 

確かに―。

こいつはもう俺が知っている川崎じゃない。運動量とテクニックだけじゃなく、そうそうお目にかかれないクイックネスを身につけてきた。ピッチを動きまわり敵陣のギャップでテクニックを発揮するこの手の選手に敏捷性が備わるというのはまさしく鬼に金棒、危険な選手そのものだ。なるほど、相手もただこの1年を過ごしてきたわけではないということか。どうやら、たまたまタレントが揃っただけではなく、あちらにも優秀な監督がついているらしい。慢心していたつもりはないが、しかし相手の値踏みをあやまっていた。油断はどこに眠っているかわからない。

と、そんなことを言っている場合ではない。滑り込み寝そべった自分の身体を即座に叩き起こし、視界をペナルティエリア正面に移す。翔がいた。当然、自分をかわしたあとなのだからフリーだ。トップ下がフリーでボールを持ち、前を向いている。危機以外の何者でもない。


原山をかわし、ちょうど左サイドからペナルティエリアのラインをなぞるように進行した翔は、ペナルティエリアの少し手前、中央でフリーになる。前には柳橋と林原の2トップ。ここで少しキープして味方の上がりを待つか。否。そうしている間に敵まで戻ってきてしまう。

 

しかし、そこで翔はピタっと止まってしまった。

チャンスのはずである。湘南学苑は戻りきれておらず、状況はDF二人に対してこちらは柳橋、林原、自分の三人。ゴール手前で数的有意な状況だ。セオリー通りなら積極的にしかけていくところである。しかし、完全に止まってしまったのである。それは、誰が見ても“棒立ち”という言葉がすぐに出てきそうなほどに。

並の選手たちであれば、そして翔が並の選手であれば、すぐさま翔に人が群がり、激しい当たりで身体を吹き飛ばされボールを奪われていただろう。

しかし、そうはならなかった。

守りに走ってきたボランチの峯田、右サイドの竹井ともに翔との距離を詰めつつも、最後の最後、そこにはまだ距離があった。彼らは本能で感じ取っていた。翔が、恐ろしい敵であることを。翔が、ただそこにつったっているだけではないことを。

一見すれば、どんな方向であろうと前へスピードにのって動かれる方が、追いつくという観点でも、前を塞ぐという観点でも脅威である。止まっているのなら強烈なシュートは打てないし、スピードも速度メーターで言えばゼロなのだからスペースもできない。立っている時点では前を塞げばシュートコースもなくなる。

しかし、それは“その時点での展開”の話である。

 

サッカーとは文脈である。

単発のプレー自体にはさほど大きな意味を持たないことが多い。シュート一つとっても、強烈なシュートを打つためには少なくとも数歩は踏み込まなければいけない。そのためにスペースも時間も必要になる。逆にいえば、それを見越したその前の走りこみやドリブル、ボールの持ち方、そしてパスの質が必要になる。できる限り早くFWにボールが渡れば良いわけではない。FWがワンタッチ出来るだけのボールのほうが、ゴールに入りやすかったりするのもまた事実である。シュートのためのラン、ドリブル、パスの質。一つ一つの小さな“意味”はそれらが文脈として繋がり大きな“意味”を持つ。


峯田、竹井、原山は敵の10番からその“意味”を感じ取っていた。

確かに、あのフリーだった瞬間にドリブルで仕掛けられたり、左右どちらかに流れて中央を空けられそこに誰かが走りこんだら、そこから更なるドリブルによる突破から決定的なシュート、FWへのパス、中央に走りこんできた選手へのパスと、危険な状態であった。しかし、そこには意図がある。中央から斜めへドリブルで仕掛けてきたのなら、ドリブルを止められるように前へ入り、中央を埋め、そのまま挟み込めばいい。間に合うかどうかは時の運だとしても、対処の方法は見えてくる。前へ進んだ以上、一気に後ろへ方向転換することはできないのだから、遮る方向も方法も見えてくるということだ。

 

しかし、翔のその行動に彼らは先を見ることが出来なかった。彼らが感じ取ったのはつまり“文脈がわからない”という“意味”を感じ取ったのである。

止まっているということは言い換えれば、そのときはどの方向どの展開にもメーター0であると同時に、次にどの方向にでも即座に動けるということである。どちらにもプラスに振れない代わりに、どちらにもマイナスではない。

 

ここに、一人の“ファンタジスタ”が覚醒した―。

翔にテクニックが無ければ、守備陣はすぐさま距離をつめていただろう。そして、翔が先ほどのプレーでその敏捷性を見せてなければこれもまた距離をつめ、そしてチャンスを潰していただろう。

有馬の強いライナー性のボールを柔らかいタッチで抑え、そのほんの少し先の地へ“置いた”プレー、その後に高いクイックネスで守備の大黒柱である原山を手玉にとったプレー。この2つのプレーで、3人の守備陣はその勢いを殺された。この男にはパスも、ドリブルもある。簡単に飛び込めばその敏捷性とテクニックですぐにパスコース、シュートコースをつくられる。それでも、動いていればまだ良かった。迫り来る危険に対して最善の方法で対処すればよかったのだから。しかし、完全に動きを止められてしまって、その“危険”が判明しない以上、手が出せない。


第60話。

「すごい」

有馬は、翔の背中を見て素直にそう感じた。

まるで、すべての時間が一瞬だけ止まったような、そんな錯覚すら覚えた。ただ、なぜか、自分は止まらなかった。明らかに周りの選手たちは驚いて一瞬止まった。有馬も、完全に動きを止めた翔に驚きはしたものの、身体は勝手に動いていた。チャンスだ、動け、翔をサポートしろと。

 

有馬は、楽しかった。

この1年、この仲間とピッチに立ってサッカーができたことが。

小学生時代、松ノ瀬KCでのサッカーがつまらなかったわけではない。彼にとってサッカーとは、苦しい悩みも含めていつでも楽しいものであった。もとい、小学生のサッカークラブにおいて、ボールを蹴ることの楽しみを感じることが重視される年代なのだから当然といえば当然なのだが、有馬は松ノ瀬中にあがりこのメンバーでサッカーをすることで、これまでに出会ったことのない楽しさを感じていた。

正直なところ、入部当初はまだ迷いがあった。

似たような境遇にある翔に誘われたとはいえ、その他の選手は存在としてもサッカーの実力としても未知数だったのだ。地域クラブJrユースのセレクションを受ける道もあったし、湘南学苑とはいかずとも、サッカーの強い私立中学に行く道もあった。事実、全く声がかかっていなかったわけではない。実は翔にはだまっていたが、ツテがつながり私立中学のサッカー部の練習に体験参加することになり、そこで中学生との差を感じながらも、やっていける手応えを掴んでいた。結果としては、遠距離通学になることもあり、そして翔の誘いを断ることをためらった有馬は松ノ瀬中に進学する。ゆえに、翔にはわざわざそれを伝えてはいない。しかし、やはり一介の公立中学サッカー部に進むのこと自体にはまだ悩んでいた。

 

しかし、そんな迷いは、すぐに消え去っていった。

松ノ瀬中でのサッカーが、彼は楽しくてしょうがなかった。

何がそう感じさせるのかは、自分でもよくわからない。けれども、ワクワクする、必死になれる、何かがそこには確かにあった。無論、そこには翔だけではなく、全国大会へ出場した富士見FCの面々、岡山県選抜の林原など選手個々の能力の高さがあったことは間違いない。しかし、それであればきっと私立高校でもクラブJrユースでも同じことであっただろう。そうではない、何かがあった。

前線へ向けて走りながら、彼はつぶやいた。

「みんな、いいやつだ」

元来性格がおとなしくいわゆる“いいひと”に分類される有馬は、小学生時代から特段“きらいなやつ”がいたわけではない。良き仲間であり、笑い合えるチームメイトだった。しかし、松ノ瀬中のイレブンはそれだけではなかった。松ノ瀬KC時代の大黒柱:原山のような飛び抜けた存在がいないからかもしれないが、全員が声を出し、全員がさぼらず、そして仲間を信頼していた。それぞれ個性はあるし、好き嫌いも違う。しかし、互いが互いを想い合っていた。周りは有馬の特徴を理解し、有馬のロングパスをみんなが信じ、有馬は林原の、関井の、山井の、それぞれの魅力を信じていた。

するとどうだろう、身体が勝手に動く。今までは、チームの決まりごとであったり、戦況を見た危険察知であったり、辛いなと思いながらも走っていた。いわば、意識的に“仕事”にあたっていた。しかし、このチームにはまるでそれを感じなかった。ピンチでもチャンスでも、身体が勝手に動いた。ピンチを助けたい、仲間を助けたい。自然とそう想い、自然と身体が動いた。そして、周りからもそれが感じられた。自分がミスをしても、周りが必死に助けてくれた。自分が抜かれても、その後ろで広山は必ず身体をはって凌いでくれた。凌いで、自分が戻るのを信じて待ってくれていた。だから、有馬も走った。広山を助けたい、チームに恩を返したい。そう思うと、力が湧いてきた。いつまででも走れるような気がした。ロングパスだけじゃない、ボールキープだけじゃない、サッカーの全てが楽しかったのだ。試合開始すぐの左サイドにおける守備のシーンはなにもこの試合への気持ちの高さではない。有馬にとっては当然のことをしたまでで、身体がいつもどおりに動いた結果なのだ。

 

有馬は、このチームへ引き入れてくれた翔に感謝をしていた。自分は、まさか公立の中学に行って湘南学苑と戦おうなんてことはほんの少しも思っていなかった。そんな未来は描けていなかった。私立に進むとしても湘南学苑とは違う地区の学校に進むことになり、湘南学苑いや原山などはいまのところ戦う相手ではなく、まずは強豪校でスタメンを、少しでも自分の実力を伸ばすことを・・・と、考えうる中でも割と自然で誰も否定をしない道しか描けていなかった。

そして同時に、翔に惹かれた。

何に惹かれたのかは自分でも今ひとつわかっていない。その人間性なのか、同じ境遇の友達として仲良くなれたことなれたことなのか、サッカーの実力に対してなのか。彼に代わって結論を述べるとすれば、世の中の多くのことがそうであるように、それら全てが答えである。敵として“吉沢の横にいる男”として対峙している時には気づかなかった、翔のサッカー選手としての実力、決して多弁ではないが、ひたむきなサッカーに対する想い、そして仲間を信頼する心、その全てである。ただ、もう少し真実に迫るとすれば、有馬は翔のが持つそれらの上に、復号することで存在する何かを感じていた。それは、人がときに“違い”を持った選手にファンタジスタと名付けるそれなのかもしれないし、それとは違うものなのかもしれない。そのどちらにせよ、彼は翔とそのサッカーに人とは違う何かを感じていた。

 

ボールを止めて姿勢よくまっすぐ立つ翔の背中に、その向こうで峯田とそしてあの原山を怖気付かせる背番号10を見て、有馬は心底思った。

 

「すごい・・・翔は本当にすごいやつだったんだ」

自分も負けていられない。大丈夫。身体は止まってない。楽しくて楽しくてしょうがないこのチームのサッカーは、まだ自分を走らせる。走らせてくれる。自分が走りこめば、ボールを落としてくれればミドルも狙えるし、両サイド奥へロングパスも出せる、前進した翔、すでに構えているFWの二人にスルーパスを出すこともできる。もし、自分にパスが出なくても囮にだってなれる。自分を囮に翔ならまた新たに何かを仕掛けられる。さあ、声をだそう。前で待つ、自分を呼んでくれた彼を、今度は自分が呼ぼう。



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