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第29話。

「先生!」
湘南学苑との決戦前々日の金曜、ベンチコートをはおりパイプ椅子に座って、一年生の練習を見守る大湊を呼びかける声が響いた。無言で声の発信元の方向へ顔を向けた大湊の目に映ったのは中肉中背、というよりは多少筋肉の混じる中年としては申し分のないプロポーションを持つ男だった。黒縁、というよりは紺に近い色の眼鏡に、顎ヒゲを携えた身長170半ばの程よく大男なその男は、のしのしと歩いて大湊に近づいてくるが大湊にその男の記憶は無い。客人にも関わらず相変わらずの仏頂面で迎えてしまう自分に多少の呆れを感じつつ、見ず知らずの訪問者なのだから仕方ない、というより今さら治るものでもないとある意味で達観した結論から導き出されたゆるぎない表情を、その男は懐かしそうに確認した。

「おー、やってるやってる」
自分の、客人に対するという点ではどう見積もっても相対しづらい乏しい対応力を、身を持って受けているにも関わらず、目の前の男は一向に意に介さないといわんばかりの笑顔を崩さない。

「相変わらず先生は怖い顔ですねえ(笑)お久しぶりです。翔や柳橋は元気にやってますか?」
川崎と柳橋。その名前をこの男がなぜ発したのか。その問いを自らに投げかけ、そしてその回答が即座に自らに提示される。滅多に大きく見開くことの無い常に細い瞳を、他人が見れば気持ちばかり、しかし大湊にとっては大きく開いたその瞳を男に向け、返事をした。


「相変わらず先生は怖い顔ですねえ(笑)お久しぶりです。翔や柳橋は元気にやってますか?」
川崎と柳橋。その名前をこの男がなぜ発したのか。その問いを自らに投げかけ、そしてその回答が即座に自らに提示される。滅多に大きく見開くことの無い常に細い瞳を、他人が見れば気持ちばかり、しかし大湊にとっては大きく開いたその瞳を男に向け、返事をした。

第30話。

「鮫島か」
「あはは。お久しぶりです。」
「何年ぶりだ」
「中学の時に一度顔を出して以来なので、もう20年ぶりですか」

目を閉じ首を横に振りながら、分からないのも仕方ない、という大湊の仕草を見た鮫島はその解を説くように続けた。

「あれから、ずっとサッカーを続けて高校時代は県予選準決勝までいったんですけど、ダメでしたよ。」

笑いながら、大湊に伝える鮫島は後悔など微塵もなかったのだろうと思わせるに充分な笑顔を見せた。

「大学を出て、今は市役所で働いています。まあ、アフターをサッカーに使うタメですが」

少しバツが悪そうに頭をポリポリと掻きながら、そして照れくさそうに笑いながら鮫島はそう答えた。この人間性、前向きそうな性格や人懐っこい姿勢、確かに鮫島だった。よく見れば面影もある。本来生業とするべき職業においても、選択の判断材料にサッカーが入り込むあたり、この男も自分と同じ穴の狢か、と小さく笑った。同時に、本当にサッカーを続けていたのかということが、嬉しくもあった。

「先生、日曜は湘南学苑とあたるんでしょう?親御さんから話を聞いてきたんですよ」

少年サッカーか。大湊のその問いに、声を出さない頷きで返した鮫島は、そのまま話を続けた。

「今年は良い子達が集まったでしょう先生。ウチの山井や翔に、有馬や関井、渡辺大紀。皆、他から誘いが来てたり、サッカーがしたくて私立を受けようとしていたのを僕らが止めたんです」

なぜそんなことを、という問いを投げられることを予め把握していたかのように、鮫島が続けて口を開く。

「湘南学苑のやり方は、僕ら地域少年サッカーの間でも評判は良くないんです。全国から金で選手を集めることは致し方ありませんが、あの学校に”サッカーへの愛”というものがあるようにはどうしても見えないんです。」

確かに、それは大湊にも異論はなかった。というより、湘南学苑という組織に身をおいていた大湊からすれば、学園のサッカーに対する意識というものは誰よりも感じていたという自負すらある。

「勝つことは大事です。けれど、まだ中学生の段階で大事なのは必ずしも勝つことじゃない。幼いうちから勝つことだけを義務付けられた子供達に未来があるとは僕は思えないのです。」

それは、他の誰でもない大湊のサッカーに対する哲学そのものだった。自分の教え子にプロ選手はいない。もとい、Jリーグが創設されたのが今年なのだからそう簡単に出てくるものでもない。しかし、自分の思いを受け止め次に伝える人間が確実に育ち、そして今目の前に同じ指導者として現れている。大湊にとって、それこそが指導者としての最大の喜びであった。

第31話。

「先生、僕はこのまま湘南学苑に神奈川を牛耳らせて良いことは無いと思っているんです。だから、近隣の少年サッカーチームの監督さんや親御さんに話を持っていったんです。”松ノ瀬中に良い先生がいる”と。」

無論、それが自分のことだということは話の流れで把握できたものの、俄かには信じがたい話だった。川崎と柳橋の会話から、自分のもとへ才能豊かな子供達を送り込んでくる力が存在することは頭では理解していたが、ともかく目の前の子供達のサッカーの実力のみならず、人間的成長を促すことのみを考えてきた自分は、周囲の話などこの何十年というもの意識したことはない。見ず知らずの自分へわざわざ子供を預けるなど、そう簡単に叶うものではないはずだ。大湊の自分に対する評価と、現実とのギャップに大湊自身が翻弄されていた。

鮫島の発言を理解するために頭をフル回転させていた大湊は、知らず知らずのうちに鮫島から目線を外していた。
「先生、結構有名人なんですよ(笑)」
鮫島の発した言葉に、大湊は我に返る。
大湊の意識が再び自分に向いたことを確認した鮫島は、まるで謎解きを解説する探偵の様に大湊へ話を続けた。

第32話。

「この辺でサッカーに携わっている人間なら、”あのコワモテの大湊先生”といえば分かる人はわかるんです。決して、有馬や関井は僕が先生の教え子だからというだけで集まったわけではないんです。隣の小学校のクラブの監督さんも、先生の事をいたく買っていたり、卒業したOBの親御さん方からのお話もあって、彼ら松ノ瀬中一年生の親御さん達もすんなり納得したという部分もあるんです。小畑、井上、松原。名前わかるでしょう?」

湘南学苑には長年勤めていたが、大湊の記憶に定かではないがその名前は自分の教え子として指導した覚えがある。
「湘南学苑か」

「そうです。小畑さんはその隣の小学校の出身で、時折監督さんが湘南学苑の試合を観に行っていたんです。『トラップもロクにできず、サイドバックでしか使えなかったあの小畑が中盤を所狭しと走り回って、いっちょ前にパス出しをしている。おどおどしながらプレーしていたあの子が、自信を持って楽しそうにボールを追いかけ、チームメイトと供に汗を流している。とても驚いた』と、先日飲みながら僕にそんな話をしてくれました。井上さんも松原さんも、同じように親御さんから話を聞いてます。」

自分への評価が自分の知らないところで話に出ているなど夢にも思わなかった大湊は、あっけにとられ返す言葉が出てこない。そんな大湊を確認した鮫島は、今度は声のトーンをさげて大湊に嘆くように再び話し始めた。

「先生。翔、うまいでしょう?僕のあの頃に比べたら、とんでもなく上手ですよ。けれど、ウチには同じ歳に吉沢もいた。翔も放っておけば才能も手伝ってああいう スタイルの選手になってたと思います。それで勝負させても良かった。そこは指導者の分かれ道かもしれません。けれど、現段階ではどうしても吉沢の方が上 で、このままじゃ翔は表舞台には立てないままかもしれない。そう思った時、僕はスタイルを変えさせました。吉沢が常にピッチに立つことを前提として、翔に は走らせました。走って走って、その走るライン、走ることの意図、そして全てのプレーを動きながらこなすことを翔には徹底させました。翔は、初めは嫌がり ましたよ。翔だって充分うまいんですから。走らなくたってパスは来るし、良いプレーも出来るんです。でもね、翔が泣いて腐っているたびに、吉沢と同じ事を していてはいけない、それじゃいつまでたっても勝てないぞと伝えたら、翔はいつも強い心を取り戻して立ち上がる。」

川崎の冷静で飄々とした表情の裏に流れる、あの強い決意からくる燃えるような闘志は、なるほどこの男から受け継いだものなのかと、大湊は自らの教え子の指導者としての力に関心した。大湊の視線が川崎に移るのを確認した鮫島は、なおも翔の話を続ける。

「僕なんかよりずっとずっと上手い翔が、こんな所であきらめちゃいけない。こんな下手くそな僕がこんなにサッカー好きなのに、才能のあるアイツがサッカーを嫌いになっちゃいけないと思ったんです。そう思った時、先生に預けようと決めました。それは、隣の小学校のクラブだった有馬も同じです。あの世代では飛びぬけたものを持つボランチの原山相手に、苦しみながら確立したあのキープ力やロングキックはそうお目にかかれるものじゃないですよ。あちら方の監督さんにもその話をしましたし、有馬への説得を快く引き受けてくれました。」

有馬にも、苦しい過去があることは大湊も理解している。しかし、親御さんもクラブの監督も自分とは面識が無い。有馬であれば、他の有名私立でも充分に食い入る力はあったはずだが。そんな大湊の疑問を察したのか、鮫島は続ける。

「有馬は、実は僕や隣のクラブの監督さんの力じゃないんです」
苦笑をしながら鮫島は有馬の話をはじめた。

第33話。

「翔が誘ったんです。隣の小学校で翔にとって特別なつながりも無い有馬でしたが、同じU-12のライバルを抱える翔には、何か感じるものがあったのかもしれません。原山の湘南学苑進学が決まったという話を聞いてから、練習試合が終わるたびにアイツは有馬に話しかけていました。何度かお互いの家や、Jリーグ観戦にも行っていたみたいです。後で聞いたら『一緒に吉沢と原山を倒そう』と訴えていたらしいんですよ。」


「あれ?・・・監督!」

休憩に入った一年生達がぞろぞろと部室前に歩き出す中、翔は鮫島を確認し走り寄る。その後を柳橋や山井、市選抜トリオの二人、有馬と関井が追う。

「おー、翔。ちゃんと練習してるか?」

息子や弟に接するような、柔らかい笑顔で鮫島は元教え子とその新しい仲間を迎えた。

「うん。監督に言われた通り、先生の言うこと聞いて毎日練習してるよ」

意気込むでもなく、ふざけるでもなく、まるで宿題を与えられた子供のように、翔はたんたんと答えた。

自分の教えを信じ、そして自分の信じる師に、愛弟子が師事している。それが嬉しく、そしてまたおかしくもあった鮫島は、にやけながら翔を囲む仲間達全員に向けて返事をする。

「そうか。大湊さん怖いからな。そこに今いるだけでちゃんとやってるってわかるよ」

クスクスと笑いながら言葉を漏らした鮫島を、大湊は睨み付ける。横目にそれを確認した鮫島は、依然緩んだ口元をたださず大湊の視線をヒラリと交わすように次の台詞を発した。

「よう、有馬」

「こんちわっす」

「翔とはどうだ?ウマが合いそうか?」

有馬は、翔の方を見る。
翔も、それに合わせて視線を向けた。
ちょうど、二人が一瞬見つめあう形となり、一秒と待たずに目をそらした有馬は、再び鮫島に視線を向ける。

「翔、うまいです。よく走るから、パスも出しやすいし、今なら原山だって止めるのは難しいと思います」

「そうか。なかなか、良いコンビが出来たみたいだなぁ」

ニコニコと、愛好を崩さす、いやより一層の笑顔で鮫島は答えた。

「ちょっと待てって、鮫ちゃん!俺も入れてトリオで中盤だぜ!」

関井が割って入ってきた。

「おう、わりぃわりぃ。っていうかお前、相変わらずうるさいな」

笑いながら、鮫島は関井に返事をした。

「いいから、戻れ」

相変わらずの無表情、いや、敢えて厳しい声なのか、大湊は強い声で指示を出した。

「先生、日曜の試合観に行きます。どちらも自分の教え子ですからね」

「片側の教え子を贔屓することのないように」

かつての教え子に、まるで時間が戻ったかのように違和感無く大湊は言葉を与える。
応援困っちゃうな、と頭をポリポリと掻いている鮫島を見て大湊は、自分と同じイズムを持ちながらも、自分にはない力を持ち合わせた指導者になったようだと感じた。もしかしたら、いずれ自分を追い越していくのかもしれない。願わくば、自分のような一介の指導者ではなく、名を轟かせるような人物になって欲しい。そのためにも、預かった子供達をまた次の指導者へしっかりと繋ぎたい。そんな想いを馳せながら、部室に戻る一年生を眺めていると「あ、そうだ」と鮫島が独り言を発する。何かを思い出したらしい鮫島は、大湊に問いかけけるが、その質問に大湊は答えられない。

確かに、記憶にはなかったのだ。
その名前は―――――

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