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自尊感情と遊び - 2012.07.19 Thu

 自尊感情と遊び
Seibun Satow
Jul, 19. 2012

「逃げるが勝ち」。

 神谷栄司京都橘大学教授編纂の『子どもは遊べなくなったのか』(2011)によると、最近、ルールの下で勝ち負けを競う遊びをできない子どもたちが目につくようになっています。「遊びの根幹であるルールをめぐって、異変は起きている。遊びグループの中で比較的に力の強い子どもが、自分の負けがはっきりする直前に、負けないようにルールを勝手に変更してしまう。その結果遊びは崩壊していく。他方、種々の発達障害の疑いのある幼児たちも独特な形で『遊びにくさ』のなかにある」。

 ところが、そんな子どもであっても、ごっこ遊びは楽しめるのです。ままごとのようなイメージの遊びは3歳児ぐらいから見られます。想像力を働かせて、対象を見立てたり、場面を設定したり、役割を演じたりすることで、行動ルールや表現力が身に付きます。こうしたごっこ遊びは時代が変わっても、人気は依然として維持されているのです。

 しかし、そうなると、このアンバランスさが不可思議です。勝負事の遊びもごっこ遊びも人間の文化にはどちらも必要ですし、優劣もありません。遊んでいる子どもの光景に一方では破綻した有様、他方で昔と変わらぬ姿も見られるのです。なぜと問わずにはいられません。

 最近の子どもの傾向や特徴に関する報道や指摘には注意が必要です。特定イデオロギーに基づく教育改革を行いために、問題化されることが少なからずあるからです。権威主義者が教育改革の理由として社会混乱を挙げるのは常套手段です。

 遊びに関する古典的分類としてシャロッテ・ビューラー(Charlotte Buhler)による次の四種類がよく知られています。

機能遊び(Functional Play)
がらがらなどの感覚遊びとブランコなどの運動遊び
想像遊び(Imaginative Play)
ごっこ遊び
受容遊び(Receptive Play)
読み聞かせや人形劇などの鑑賞遊び
創造遊び(Creative Play)
積み木や織り紙などの構成遊び

 この分類には勝負事の遊びが入っていません。発達の際、人間は真似ることを競うことより先に始めます。模倣は社会的学習の基礎です。真似るには自分と他者の違いが意識されていなければなりません。競争するには、そこからさらに基準に照らし合わせて自分と他者を比べる認識が必要です。遊びも真似るものが先で、当然、競うものは後です。乳幼児の遊びを対象にした場合、競争は優先されません。

 共通のルールに従って勝敗を競うゲームも基準が主観的なのか客観なのかという点から分類できます。前者の代表がにらめっこ、後者はじゃんけんです。

 「にらむ」が相手を威圧する行為であるにもかかわらず、笑ってしまうという遊びには、精神的発達が不可欠です。表情の記号としての意味が理解できていないと成り立ちません。ただ、何をもって笑ったと判断するかは客観的ではなく、曖昧です。

 アメリカの黒人文化に「ダズンズ」という遊びがあります。二人向かって、悪口を言い合う言葉のボクシングです。怒り出したり、言葉につまったりしたら負けです。通常は観客が周りにいて、審判の役も兼ねています。これなどはにらめっこと同様の基準に基づく遊びです。

 一方、じゃんけんの勝ち負けの基準は客観的です。グーはチョキより強く、チョキはパーより強く、パーはグーより強いのです。これは誰にとっても不可侵です。

 こうした勝敗の基準が客観的な遊びは相手の裏をかくゲームです。勝負事では、実際には、心理戦の占める割合が高いものです。相手の手の内を読み、自分をどう考えているか推察する必要があります。こういった心理戦はじゃんけんだけでなく、広く遊戯やスポーツ全般に見られます。のみならず、娯楽を超えて、政治・経済・社会の広範囲で相手の裏をかくことが行われています。それを体系化したゲーム理論も発展しています。

 ヨハン・ホイジンガは、『ホモ・ルーデンス』において、人間の本質を遊ぶことに見出しています。彼の想定したのは一人遊びよりも、むしろ、こういった心理戦の伴う遊びです。遊びの持つ想像力の作用が人間をここまで進化させてきたというわけです。

 余談ですが、心理戦はコンピュータにとっても難問です。チェスや将棋、囲碁の電脳名人の開発が進んでいます。かつてコンピュータは心がないので心理戦に有利だとされてきましたが、実際には逆の結果が出ています。コンピュータは相手が押せば引くし、引けば押します。盤面が有利であるのに、相手がわざと引いたとします。すると、コンピュータはそれをミスと判断し、罠に引っかかってしまうのです。

 勝敗を競う遊びができない子どもたちは共通のルールに従って相手の裏をかくゲームを楽しめないということなのでしょう。

 ルールの実践と意識の発達はジャン・ピアジェが提示した段階論が知られています。このスイスの心理学者はルールの実践に関して次の四段階を見出しています。

運動的個人的段階
自分の思うままに遊ぶ
自己中心的段階(2~5歳)
規則の例を模倣して自分流に利用する
協同が生まれる段階(7~8歳)
友だちに勝とうとする
規則の制定化の段階(11~12歳)
規則を尊重する

 なた、意識については次の三段階を想定しています。

個人的な規則しかない段階
規則は強制力を持たないもの
規則を絶対と捉えている段階(4~9歳)
規則は大人から与えられるもの
規則を変えられると考える段階(11歳以降)
規則は相互の合意に基づくもの

 勝負事ができない子どもは、こう考えると、実践と意識の発達段階がずれていることがわかります。友だちに勝とうとする段階では、ルールを絶対視するはずですが、強制力を持っていないと意識しているのです。

 こうした現象の理由はさまざまに考えられます。大人社会の変化もその一つです。子どもの心理には、カウンセリングの報告が伝えているように、思っている以上に、大人の影響が大きいのです。グローバル化に伴う国際競争の激化により、成果主義やルール違反の傾向も目立つようになっています。ここから子どもの規範意識の低下の理由を探ることも可能です。

 いい大人であれば、ゲームで負けた場合、相手をほめるか、自分を責めるかが通常の反応でしょう。その時は確かに悔しくても、成長上の途中結果と考えるものです。相手の裏をうまくかけずに今回は負けたけど、次回はそれを生かして勝ってみせる。そんな思いで工夫して勝ち負けを繰り返しているうちに、技能が上達していくものです。初心者であれ、上級者であれ、手順や操作がルール上共通ですから、成長具合もよくわかるものです。とは言うものの、ゲームに強い人もいれば、弱い人もいます。しかも、それは人格全体を表わしているわけではないのです。勝ち負けよりも、その場を楽しむことに意義を見出します。こうした心のゆとりが大人の作法というものです。

 規範意識の低下も重要ですが、自尊感情の低下から考えることも必要です。林泰成上越教育大学大学院教授は、心理カウンセラーと道徳教育の専門家としての経験から、自尊感情の弱い子が増えたと指摘しています。「自尊感情(Self-esteem)」は「自尊心(Pride)」と違います。両者を分かつのはフリードリヒ・ニーチェの言う「ルサンチマン」の有無です。

 前者はルサンチマンなく、ありのままの自分を受け入れる心情です。他方、後者は他との比較によって自分の優越感、あるいは自意識の優位性を感じようとするルサンチマンです。自分自身を大切に思う気持ちが弱く、「どうせ自分なんかダメさ」と投げやりです。ところが、それと反対に、自尊心の方がやたら強いのです。自尊感情の不足を自尊心で補っているとも言えます。自尊心がパンパンに膨れ上がり、ちょっとした刺激で破裂しそうな小さな風船能のようになっています。自尊感情が育まれて、自己理解・他者理解・相互理解が促進されれば、ルール尊重の態度も育つものです。

 林教授の研究は小学生以上を対象にしています。神谷教授等のそれとはフィールドが違いますので、一概に直結することはできません。林教授は、最近の子どもたちの特徴として、他に「規範意識の低下」や「人間関係力の低下」を挙げ、それも「自尊感情の低下」から派生していると指摘します。小学生以上のこうした特徴が入学から突然生じるとは考えにくく、神谷教授等の研究と関連させることは十分意義あることです。

 負けを認めないとはあるがままの自分を受け入れられないということです。ルール破りの子でもごっこ遊びができる理由にも自尊感情の低さから説明できます。その想像された世界である役を演じているのであって、それは自分自身ではありません。あるがままとして現われた自分を受容しなくてすむのです。

 ごっこ遊びの意義を否定しているわけではありません。ごっこ遊びには、すでに述べた通り、重要な教育的作用があります。また、その延長線上にあるロール・プレイングは道徳教育や心理臨床の場で広く用いられています。ごっこ遊びやロール・プレイングは、社会性の発達や他の人の気持ちの理解などの教育的効果が認められているのです。他者の心の動きを体験して感性を耕すわけです。ロール・プレイングはコンテクストを認識したり、相手の気持ちを察したりしなければ、続けられません。勝負事よりも繊細な気配りが要ります。

 ただ、相手の裏をかく必要はありません。日本の「テレビ・ゲーム(Video Game)」は、他国と違い、ロール・プレイング・ゲームの人気が高いことで知られています。携帯端末も含めてモニター型のゲーム市場では真似る遊びのニーズが北米よりはるかに大きいのです。勝負事では合理的思考が不可欠で、理性が求められます。一方、RPGは、感性を磨き、社会的もしくは個人的な価値観を体験します。価値観の共有が成立条件で、それはコミュニティづくりを意味します。そこは自分の価値観が守られる「心の居場所」となり得ます。

 もちろん、これはあくまでも作用で、RPGの日本の愛好家は自尊感情が低いと言っているわけではありません。また、ウルティマを始めとして道徳性の向上を加味したRPGも多数あります。テレビ・ゲームに対する世間の風当たりは強いですから、公序良俗に反することには業界も敏感です。

 一方、勝負事はルールの共有に基づいています。そのルールを守りさえすれば、価値観は問われません。異なった価値観が共存するトラフィックを形成できるのです。勝負ゲームは勝者と敗者を生み出しますが、別々の価値観が共生することを探る際には示唆を与えてくれるのです。

 現代社会における最重要の理念として「公正と寛容」が挙げられます。今の世の中には、ルールが特定の価値観に利用され、参加者をそれに従わせることができるのだから、その制作者が優越していると考える風潮もあります。神になれると思うわけです。価値観の確保にルールを悪用する動きがあり、不公正が溢れているので、人々は「公正さ」を求めてコミュニティを形成します。けれども、それを過度に追及すると、その内外でコンフリクトが生じます。そこで必要になるのが「寛容さ」です。異なった価値観同士が寛容さを尊重して共存するのです。

 子どもたちの遊びをめぐる異変は、彼らだけでなく、大人も含めて自尊感情のありようがどうなっているのか考える契機と捉えるべきでしょう。自尊感情を自虐や負け犬根性と誤解していたり、自尊心と混同していたりする歪みが大人の間にはびこっていては、子どもたちの精神の発達を病的にしかねません。自尊感情を健康的に育むこととは何であり、どうしたらいいかについて真摯に向き合う姿勢が大人に必要なのです。
〈了〉
参照文献
神谷栄司編、『「子どもは遊べなくなったのか」、三学出版、2011年
林信二郎他、『幼児の教育と保育』、放送大学教育振興会、2004年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
ヨハン・ホイジンガ、『ホモ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中公文庫、1973年
佐藤清文、『自尊感情と自尊心』、2012年
http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/sep.html


決断する政治 - 2012.07.15 Sun

 決断する政治
Seibun Satow
Jul, 14. 2012

「われわれは、総統の高い意志についていくだけでいい」。
マルティン・ハイデガー『国家社会主義教育』

 ナチズムはまさに決断する政治である。フライブルク大学総長マルティン・ハイデガーは、1933年、決断する政治であるがゆえに、ナチスに支持を表明し、教職員や学生にもその決断を求めている。

 ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただし党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
 (『アドルフ・ヒトラーと国家社会主義体制を支持する演説』)

 ワイマール共和国は急激なインフレと証券市場の崩壊、激化する政治闘争など困難な状況に陥る。32年7月の総選挙で、行動力と演説力を売り物にした42歳の元陸軍伍長を党首に冠する国家社会主義ドイツ労働者党が第一党に躍進、翌年の1月、アドルフ・ヒトラーを首班とする内閣が発足する。ナチスは憲法で保障された基本的人権を停止したのを皮切りに、数々の権威主義・人種差別政策を実施し、民主主義体制を崩壊させる。

 『存在と時間』により国際的な名声を得ていたマルティン・ハイデガーは、32年末、フライブルク大学総長選挙に立候補し、翌年の4月に選出される。断固として決断と行動によって可能性をつかむことを主著で展開した彼は、同年のメーデー、ナチスに公式入党している。新総長は大学の民主的なシステムを解体、哲学に基礎を置くカリキュラム改革を提唱する。さらに、公開講演では、ナチスへの忠誠を呼びかけ、強力なリーダーシップに率いられたドイツ国民のアイデンティティの回復を熱狂的に叫んでいる。

 ドイツ国民は自らの未来を選択する決断の時に来ている。アドルフ・ヒトラーは決断する指導者である。その選択は自由主義的な投票行動ではない。拍手喝采によって決断を表明することである。その時、「民族の全体」が「その本来の在りよう」を「自分自身の未来」として選びとる。ドイツ国民がそのような意志を示すなら、恒久さと偉大さが約束される。

 ハイデッガーは反ユダヤ計画には賛同していなかったと見られるが、それを除くと、ナチズムとの親和性が高い。ハイデガーは、同時代的な気分をつかみ、奥深いことを語っていると思わせ、スターとなれる個性的な文体を持った思想家である。彼のナチス賛美の文章はその本質をよく物語っている。ナチズムは、右からの全体主義であるファシズムの極限形態であり、それを知るためにも、今後ともハイデガーの著作は読まれねばならない。

 全体主義は第一次世界大戦という総力戦の経験なしにあり得ない。戦場は固着し、消耗戦・補給戦・生産戦・封鎖戦となり、全国民の総力が戦争の結果を左右する。ドイツは、中でも、官民協力が促進されている。陸軍省に設けられた戦時原料局の監督下、各産業ごとに原料の生産・調達を管理する国策会社が設立される。この戦時原料企業の母体は既存の利益団体・シンジケートであり、国家統制と民間の自主管理を組み入れるシステムである。公的統制に民間を組みこむ手法は工業部門にとどまらず、農業や商業にも及んでいる。第一次世界大戦前まで欧州では自由主義がスタンダードであり、政治と経済を分離していたが、政経混合システムの経験は戦後にも影響を与えることになる。

 機関銃や戦車、毒ガス、飛行機などが新たに戦場に投入され、兵士たちは塹壕の中で過酷な体験を強いられる。こうした経験を共有する復員兵の間には英雄崇拝と連帯感が生まれている。動員解除されても、彼らの中には市民生活になじめないものも少なくない。アドルフ・ヒトラーもその一人である。

 死線から戻ってみれば、議会は政局に明け暮れて、企業は拝金主義にまみれ、人々は消費にうつつを抜かしている。みんな自分勝手なことばかりしている。軍は上意下達の秩序立った組織である。彼らは部隊全体で腕時計の時間を合わせ、上官の決断した命令に従い、祖国のために、戦友と共に突撃する。そんな自分たちこそが真に国家の未来を考えている。堕落した社会の根性を叩き直さねばならない。ファシズムはこういった復員兵の反自由主義・反個人主義・反合理主義のイデオロギーである。

 第一次世界大戦後、大衆の政治参加が一層進む。元軍人の右翼勢力は社会不安や政治的停滞、経済的混乱を欧州のスタンダードの議会制民主主義や自由主義のせいにし、それを打倒し新たな体制の構築を希求する。中でも、敗戦国の場合、敗北の責任を国内における裏切り者に見出す動きが見られる。不純物を極度に嫌う潔癖性がここから生じる。彼らはあらゆるメディアを駆使した新たな動員を図り、非合理性や美意識に訴え、感情の共同体の形成をもくろむ。理性を超えた崇高なるもの、偉大なるもの、神聖なるものへの歓喜と熱狂を通じて民族の統合を目指す。19世紀から国民国家は国民主義としてのナショナリズムに立脚しているが、ファシズムは民族主義や人種主義に依拠する。民族や人種は主観的であり、それを共有するものに適用される。その民族の大義を具現する指導者に率いられたファシズムは、その主観性を共通理解する彼らにとって、真の民主主義である。

 ナチズムはこうしたファシズムの急進主義であり、議会制民主主義と自由主義を完全に否定する。共産主義も両者を批判したが、ナチズムとは異なっている。ファシズムが右からの全体主義であるなら、スターリニズムは左からの全体主義である。

 古典的な自由主義は政治と経済を分離する。それに対し、共産主義は政治と経済を一体化させ、資本主義と別の体制を構築しようとする。市場経済が利己的動機を重要な原動力としているのに対し、共産主義は階級闘争にそれを求める。労働者階級が資本家階級から権力を奪取し、その前衛党の指導の下、官僚機構が経済を計画・統制する。

 一方、ナチズムにおいて歴史の原動力は政治的決断と頑張りである。決断して頑張ることが経済問題を解決するという反合理主義は他の政治思想には見られない。資本主義も共産主義も乗り越えなければならない。欲望にも階級闘争に動因を見出さないので、すべての階層に根拠のない経済的成果を約束し、それらを民族の名の下に統合する。弱者は頑張れない劣等として排除される。滅私奉公が説かれて自由は極限まで抑制、利害対立・調整の場である代議政治も否定、政治動員が体制に組みこまれる。

 ナチズムでは、経済は政治に従属しなければならない。歴史的使命に身を捧げ、国家のために額に汗して働くことこそ尊い。目指すは生産至上主義の自給自足経済である。英雄的な経営者・企業家の賛美もここから派生する。ナチスがケインズ主義を実践したという意見は正しくない。ケインズ主義の需要が供給を生み出すという前提とは逆に、ナチスは生産偏重の禁欲主義を信じていたからである。しかも、戦争準備や戦時動員に熱中する彼らの経済運営や政策の優先順位は著しく合理性を欠いている。

 われわれを脅かすのは政治的敵対者である彼ら、すなわち誹アーリア人である。われらの政治的・経済的・社会的な伝統・制度・文化などは血と地を通じて共有されている。その基準に照らしてそぐわないものは非アーリア人である。崇高で、偉大、神聖なものがその穢れた連中の危機にさらされている。この人種主義は国民主義とは違う。極めて主観的であるからこそ、内部に基準を設けられ、外部との相違が認知できる。ナチスはこうした人種主義に駆られて非アーリア人の絶滅計画を実行、さらに対外戦争を仕掛け、19世紀以来の国民国家体制に基づく欧州の秩序を破壊しようと企てる。

 市民生活になじめなかった復員兵のイデオロギーであるファシズムはナチズムとして、最終的に、社会を戦争状態に変えることに帰結する。しかも、カタストロフを招いても、この思想には反省や後悔の契機も持たない。滅亡の美学だと言ってもよい。決断する政治においてそれを尊厳ある運命として受け入れることも正当化するからである。

 経済が混乱、政治が混迷し、社会不安が増大すると、決められることをメディアを始め世論も求めたくなる。けれども、そんな時には、「決断する政治」の経験を思い出した方がよい。それは誰かが決めたことに追随する態度を選んだ滅亡の美学にすぎない。

 この未曾有の意思をもった人、われらが総統アドルフ・ヒトラーの勝利に──「ジークハイル」三唱!
(ハイデガー『国家社会主義教育』)
〈了〉
参照文献
平島健司他、『改訂版ヨーロッパ政治史』、放送大学教育振興会、2010年
マルティン・ハイデガー、「アドルフ・ヒトラーと国家社会主義体制を支持する演説」、石光泰夫訳、『現代思想』1989年7月号


児童文学のために - 2012.06.16 Sat

 

児童文学のために

Seibun Satow

Jun, 15. 2012

 

「子どもを過大評価する危険よりも、過小評価する危険のほうがはるかに大きい」。

ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』

 

 ある対象がそれに属さない人たちの願望の反映として歴史的に形成されたことを明らかにします。最初にこうした方法論を提示したのがフリードリヒ・ニーチェの系譜学です。彼は道徳で展開しましたが、20世紀後半、それが広範囲に見られるようになります。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949)やエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978)がその代表でしょう。前者はフェミニズム、後者はポスト植民地主義に決定的に影響を与えています。

 

 この方法は汎用性が高いものです。そのため、インフレになり、ボーヴォワールやサイードの持っていたインパクトはありません。流通している言説批判が主眼ですので、その対象の真の姿はその検討から導き出されることはないのです。不可能性が結論として提示されるのがお決まりです。功績は、むしろ、いかなる対象にもこうした認識を前提にすべきだという点でしょう。この発想を内包した上で、発展性をもたらす論考が求められるのです。

 

 ところが、残念ながら、それに気づかず、生産性を欠く考察もあります。既存の言説を相対化して、建設的な議論の発展を促進するのではなく、それを阻む嫌味なアイロニーでしかありません。結局、社会と文化の相互関係の堂々巡りを物語るのです。ジャクリーン・ローズ(Jacqueline Rose)の『ピーター・パンの場合─児童文学などありえない?(The Case of Peter Pan, or the Impossibility of Children's Fiction)(1984)がその典型でしょう。

 

 この論考はフィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960)の延長線上にあります。ジャクリーン・ローズは同書で「児童文学の不可能性」を指摘します。「子ども」は大人の願望の反映によって歴史的に形成されたイメージにすぎません。作品に登場する子どもは純真無垢などそれに沿っています。けれども、その背後には、精神分析を用いるなら、「性としての子ども」や「商品としての子ども」が潜んでいます。それらと実際の読者の子どもとの間にはギャップがあるため、児童文学は不可能だというわけです。

 

 児童文学が近代社会の産物であることは確かです。近代以前、子どもどころか、大人の識字率も高くありません。読み書きができるのは一部の聖職者や貴族、知識人などです。児童文学という産業が誕生したのは19世紀半ばの欧州です。20世紀初頭までが形成期と見なすことができます。産業革命の進展に伴い、中産階級が出現します。すでにロマン主義者が子どもを汚れなき存在として崇拝していましたが、ヴィクトリア朝の抑圧的な通俗道徳と社会進化論が子どもに具現化され、中産階級に認知されるのです。子どもは純真無垢であり、救いをもたらすと同ときに、進歩するこれからの社会を担います。当ときの子どもに関する認識をよく示しているのがチャールズ・ディケンズの小説でしょう。この国民作家は子どもを大人を救済する存在として登場させ、読者はその健気さに涙せずにはいられません。『オリバー・ツイスト』(1838)が好例です。

 

 こうした変化により、児童労働の制限や義務教育の開始などの社会改革が進みます。と共に、子どもをめぐる産業も急成長していきます。子ども向けの玩具や衣服が現われ、ジョン・テニエルなどの挿絵が入った児童文学書が次々に出版されます。子ども部屋が出現したのもこのとき期です。この新たなジャンルは教訓物語ではなく、ルイス・キャロルを始め、狭量な社会のもたらす認識を広げさせる想像力の冒険です。また、ハンス・クリスチャン・アンデルセンのように、民話や童話にアイデアを求めた作品も流通しています。こうして児童文学は欧州に定着し、近代化の世界的拡大に伴い、その外部でも見られるようになっていきます。

 

 こうして登場した児童文学は、今日、一つのジャンルとして確立しています。児童文学を定義すると、それは思春期以前の子どもを主要読者層に想定した文学ジャンルです。セグメント化されていますが、主な区分は発達段階、すなわち年齢です。散文でも詩でも作品内の文は短く、その構造も単純、語彙も少ない特徴があります。日本語の書籍では、概して、敬体が用いられます。登場人物は、読者と同じ年齢の場合は等身大が多く、そうでないときは、何らかの象徴として描かれます。舞台は、主人公が等身大の作品では日常世界のこともありますが、たいていは非日常的・空想的です。

 

 構成は定型的です。散文では昔話や物語の構造や規則を踏襲し、詩も伝統的な定型ないしそのヴァリエーションが中心です。ある世界から出発して、別のそれを渡り歩き、最後は元に戻るという円環構造がよく見られます。散文の描写は詳細さに欠け、隙間が多い傾向があります。

 

 執筆者はたいてい大人です。児童文学は、その意味で、子どもによる、子どものための、子どもの文学ではありません。作品上の子どもの扱い方や描き方も、作家の個性だけでなく、とき代や社会の影響を受けています。

 

 子ども向けの書籍は非常に幅広いのです。読み書きができない幼児を対象にしたカラフルな絵本から白黒のペン画が数枚挿入されただけの小学生高学年向けの物語までが含まれます。内容もナンセンスな言葉遊びから道徳的なジレンマまでと多岐に亘ります。大人向けとの内容の違いは、教育的配慮を除けば、さほど認められません。また、読まれ方も、大人が読み聞かせる場合もあれば、一人で黙読する場合もあります。学校や地域の図書館も児童文学に接する機会を提供しています。そこでは全国学校図書館協議会図書選定基準などに即した蔵書が多いですが、教科書ではありませんから、読まなければならない本ではありません。児童文学は子どもとの間にアフォーダンスの関係があります。児童文学は子どもに読み聞かせる行為もしくは読む行為をアフォードするわけです。

 

 このように、児童文学は何らかの形で大人が介在しています。子どもを受動的に見ているから、児童文学の不可能性という結論に至るのです。文学を楽しむ際に、読み書き能力が必要になります。識字能力の学習には総合的・段階的なカリキュラムが不可欠です。それを習得したのが大人、その途上にあるのが子どもになります。読み書きの力が大人と子どもをわけるわけです。能動的な大人がとりしきり児童文学を受動的な子どもに提供するのだから、それは不可能ということなのです。

 

 けれども、子どもを受動的と決めつけるべきではないでしょう。黒澤明監督は、『スター・ウォーズ』について、音楽が多すぎるとジョージ・ルーカス監督に意見を述べています。このクロサワ・チャイルドが「子どもが見るのでわかりやすくしました」と答えると、「子どもを侮辱しちゃいけない。子どもはそんなことをしなくてもちゃんとわかるんだ」と反論しています。日米の映画でBGMのつけ方が違うことは確かです。米映画は主題曲がさまざまなシーンに合わせた変奏で流れます。一方、日本映画はシーンの転換の際に挿入されます。ジブリは同じ映画であっても日米で異なるサウンド・トラックを使っています。それはさておき、黒澤監督は子どもを決して受動的とは捉えていません。子どもは十分に能動的であり、自分の思いこみで映画の可能性を狭めるべきではないというわけです。

 

 黒澤監督のように、むしろ、子どもを能動的と捉えるべきでしょう。児童文学は、そうであるなら、子どもと大人が相互作用して成り立っています。それが児童文学の可能性です。児童文学を通じて大人と子どもが物語を共有するのです。読書の環境がない場合、子どもがその意義を見出すことは難しいことは否定しません。でも、その習慣があるなら、そうした共有があり得るのです。

 

 読み聞かせを考えてみましょう。もちろん、子どもが聞きたがっていることが前提です。大人は自らの解釈で読み始めます。子どもの反応を見ながら、読み方を修正します。時々、子どもは物語について大人に話しかけます。大人は子どもが納得できるように答えようとします。理解して話に戻るときもあれば、さらに質問するときもあるでしょう。そういうことが繰り返されているうちに、物語が終わりを迎えます。その後も、しばらく感想や意見を子どもと大人は語り合うのです。その作品を次に読むとき、それはもう以前のままではありません。大人は子どもの解釈に、子どもは大人の解釈にそれぞれ影響されます。この二人で過ごした時間が思い出になり、それもまた作品を構成する要素です。作品は読者から影響を受けるのです。

 

 読書の主導権はあくまで子どもにあります。自分で読めるようになってもそれは変わりません。ですから、児童文学は、一般書籍と違い、読者研究が欠かせません。子どもはどのように本を読むのかという問いに、経験詩学だけでなく、発達・認知心理学や保育・教育学の成果も参考にしています。読書が嫌いな子どもがいたとしても、それをその子のせいにしたり、「活字離れ」や「娯楽が多すぎる」などとき代や社会のせいにしたりすることは大人には許されません。それは読書を強制したり、十分な選択肢を与えなかったりしたためかもしれません。読書の魅力はテレビやマンガのそれと違うのです。

 

 少なからずの人にとって最初に出会う文学は児童文学でしょう。児童文学は文学のすそ野を広げる役割を持っています。それは文学の定型を示します。設定やキャラクターが奇抜であっても、物語の構成が定型的です。また、内容はナンセンスな詩でも、文学の形式が安定しています。安心して読めるのです。児童文学の魅力としてしばしばワクワクしたり、ドキドキしたりする想像性が挙げられます。それも確かです。けれども、構成の定型が安定して支えているからこそ、それが効果的に働くのです。この定型によって大人と子供が児童文学を共有できるのです。児童文学が定型の大切さを忘れ、先鋭的なったとき、文学の土壌はやせ細ってしまうでしょう。児童文学は今日において文学の原点であると共に、その広がりをもたらすものなのです。

 

 忘れていますが、大人は子どもからのプロセスを経てその姿があるのです。児童文学を読み、子どもと語り合うとき、自分自身のたどってきた過程を思い出します。それを確認するなら、自分の考えが相対化されて見方が広がり、成長していきます。確かに、児童文学は子どもによる、子どものための、子どもの文学ではないのです。

〈了〉

参照文献

安達まみ、『くまのプーさん 英国文学の想像力』、光文社新書、2002

西村雄一郎、『黒澤明と早坂文雄』、筑摩書房、2005

日本児童文学者協会編、『子どもと本の明日』、新日本出版社、2003

ピーター・ハント編、『子どもの本の歴史』、さくまゆみこ他訳、柏書房、2001

ピーター・ホリンデイル、『子どもと大人が出会う場所』、猪熊葉子監訳、柏書房、2002

-マーガレット・ミーク、『読む力を育てる』、こだまともこ訳、柏書房、2003

ジャクリーン・ローズ、『ピーター・パンの場合─児童文学などありえない?』、鈴木晶訳

ジャンニ・ロダーリ、『幼児のためのお話のつくり方』、窪田富男訳、作品社、2003

ヴィクター・ワトスン&持ラグ・スタイルズ編、『子どもはどのように絵本を読むのか』、谷本誠剛監訳、柏書房、2002


脱構築主義と建築 - 2012.06.08 Fri

 

脱構築主義と建築

Seibun Satow

Jun, 07. 2012

 

「茶室であるから和服でなければいけないというなどというのは伝統ではない。ジーンズでもさまになってしまうのが茶室の伝統というものである」。

森毅『ジーンズでもさまになるのが茶室の伝統』

 

1章 モダニズムを超えて?

 本来の意味とその用法が乖離している概念がしばしば見られる。しかも、それが建設性を欠く事態に至っている場合もある。建築における「脱構築主義(Deconstructivism)」がその一例である。

 

 脱構築主義建築はポストモダン建築の一派で、1980年代後半から2000年代まで世界的に広がりを見せている。ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)やフランク・ゲーリー(Frank Gehry)、ザハ・ハディッド(Zaha Hadid)、コープ・ヒンメルブラウ(Coop Himmelb(l)au)、レム・コールハース(Rem Koolhaas)、ダニエル・リベスキンド(Daniel Libeskind)、バーナード・チュミ(Bernard Tschumi)などの名が挙げられる。彼らは実際の設計ではなく、建築思想家として先に知られている。1988年、ニューヨーク近代美術館においてフィリップ・ジョンソン監修で開催された「脱構築主義者の建築(Deconstructivist Architecture)」展に取り上げられた後、事業に携わるようになっている。「脱構築主義」という流派もこのMOMAの会で生み出されたと言ってよい。

 

 脱構築主義建築は退潮した主流のポストモダニズム建築に取って代わる形で流行する。ポストモダニズムはモダニズムの機能主義の反動として登場し、その克服を試みる。共通理解とされている合理的に住みやすい建築物は近代主義の呪縛である。しかも、それは歴史が一方向に進歩していくという進歩主義史観に基づき、過去の様式を抑圧している。合理的で機能主義的、進歩主義的なモダニズム建築に対し、装飾性や折衷性、過剰性などの回復を目指した建築様式である。1970年代後半から出現し、1980年代に流行する。磯崎新による筑波センタービル(1983)は日本におけるポストモダニズムの代表作の一つである。古い様式の型が引用され、懐かしさに新しさを求めている。脱構築主義はこうしたポストモダニズムの折衷主義を批判し、さらに複雑な構造の様式を追及している。

 

 脱構築主義は、異化効果のある建物を示して、共通了解がモダニズムのイデオロギーにすぎないことを暴露する。モダニズムに慣れきったために、閉塞感が蔓延している認識に違和感のある構築物によって喝を入れねばならない。形状が機能に従ったり、素材を忠実に生かしたりする必要などない。しかし、主流のポストモダニズムの折衷主義は中途半端な実験にすぎない。建築を本質的に純化すべきだ。脱構築主義者は、CADを利用するなどして設計過程から非線形的手法を導入し、構造や形状、表層、要素などに非ユークリッド幾何学を応用する。こうしたカオスを具現した設計によって、モダニズムの解体と共に、機能性・合理性・進歩性に代わる新しい価値観を生み出す。

 

 脱構築主義建築は、フランスの哲学者ジャック・デリダが60年代に提唱し、7080年代にそれを採用した「脱構築(Déconstruction)」に由来する。しかし、脱構築主義建築に「脱構築主義」の名称はふさわしくない。彼らは脱構築を理解していないからだ。

 

 デリダによれば、西洋形而上学は理性中心主義である。しかし、理性に対する批判は内部においてしか効果を持たない。乱暴に外部に身を置こうとすれば、まやかしの展望にとらわれてしまう。それはより内部に閉じこめられる結果に終わりかねない。内部にとどまりつつ、その領域特有の見方を背かせて、矛盾を露わにし、その囲いに破れを顕在化させる。これにより体系が不安定化して、外部に向かって囲いを解放する。脱構築は解釈にとどまらない。伝統的思考と実践への社会的批判を企て、従来排除されてきた異質なものの救出を目指している。それは静的で固定化した支配的なテキスト解釈を相対化し、その克服の可能性を模索する作業である。脱構築は古い哲学の構造を解体し、新しい哲学の生成に再利用する動的な営みである。

 

 脱構築の受容は70年代以降の欧州の状況と無縁ではない。70年代、エコロジーやフェミニズム、エスニック、マイノリティ、コミュニティ運動など新たな社会的ムーブメントが台頭し、価値観が相対化する。ロックやインディーズ映画、アングラ演劇、環境芸術、マンガといった新しい表現の自由や文化施設へのアクセス権の拡大要求が活発化、ハイカルチャーとローカルチャーの区分を解体し、現在で言う「サブカルチャー」が生まれる。それは権利としての文化の認知と言える。

 

 こうした脱構築を建築に導入する際、従前の流行だけをみているだけでは不十分であろう。建築とは何かを問い直す必要がある。

 

2章 建築のリテラシー

 慣れや飽きが生じると、建築において様式や型の見直しが始まる。「様式」は洗練・形成された共通了解、その記号化が「型」である。建築の歴史にはこうした様式の革新や型の更新が見られる。様式は建築における文法であり、構成要素は単語である。語と語が組み合わさって文が構成される。文と文が組み合わさって文章が構成される。語や文にはそれぞれ組み立てから生じる役割があり、その意味を決定するのは文脈である。ポストモダニズムは過去の様式を無視して、その構成要素を引用している。それは文法と切り離して古い単語だけを復活させたようなものだ。慣れや飽きの打破と共通了解の破壊を混同してはいけない。

 

 建築は、目的に立脚して、人間関係を形成する物理的枠組みを提供する。その基本構造は梁と柱であり、フックの法則によって維持される。どういった寸法の中で人々に働きかけ、そこに居る人々の行動や関係をいかに導くのかが建築家の念頭にある。2畳の茶室と2万人収容の室内競技場を同じように考えて設計することはできない。中にいる人に構築物は話しかける。アフォーダンスの実践だ。空間と人間のつながりを促し、場の雰囲気をつくる。建築物は、もちろん、個々の人とのかかわりについては多義的である。建築家と人々のとの間の共通了解に基づいて、特定の建築物の使用目的が規定される。ある建物が学校なのか、モスクなのか、裁判所であるのかはそれに依存する。それが建築のコミュニケーションであり、そこにリテラシーがある。建築は価値の共有、すなわち共通了解のために取り組まれるのであって、自己表現などない。

 

 建築事業は受注生産が主である。費用も高額、携わる人数も多く、自然環境の下で作業が行われ、工期も長い。こうした条件で進められるため、品質の保障は最高水準ではなく、最低限度が目指される。また、構築物は完成後も保守・修理が欠かせない。補修がしやすく、そのコストがかからないことも現実的な要請である。

 

 建築は空間に区切りをつける。その際、収容人数や行為目的によって求められる空間の大きさが可変する。しかも、出入り口のない建築空間はない。連続していながら、区切りがあるから、外から入ってくることを関連づけて考える必要がある。駅の通路や学校の廊下、劇場のホワイエなどいずれも異なっている。

 

 また、広場や市場が示しているように、公共空間も建築の様式によってもたらされる。構築物が秩序立って都市が生まれる。その都市は集合として連続体を持っている。集合を無視して、ある建造物をそれだけでデザインをすることはできない。建物内から見える風景と外から見えるその建物を含む光景を融合して考慮しなければならない。その構築物は時間を超えて見られ、使われる。そのようにして建築は過去=現在=未来をつなぐ。建築は人々の願いや価値などに基づく共有された物語を形作るものである。

 

 モダニズムの機能性が具体的と言うよりは、抽象的な居住者を想定していたり、建築様式の歴史性を無視したりしたことは確かである。けれども、その点ではポストモダニズムも脱構築主義も同類である。高齢者や障害者、病人、子どもなど社会的弱者を考慮していないし、自然・社会環境との調和も軽視している。

 

3章 オルセー美術館

 建築における脱構築は、こう見てくると、新奇な自意識過剰のデザインで反モダニズム運動を展開することではない。建築は目的に基づいて設計される。時代的・社会的背景に応じて、その目的を変え、別のコンテクストを与えて構築物を再利用し、新たな共通了解と風景、人のつながりをもたらすことと考えるべきだろう。建築家は気欲的であらねばならない。

 

 時代や社会の変化に伴い、古びてしまった構築物を別の目的で再利用する。内外双方から見える風景も一新される。国内の政治・経済・社会状況がある構築物を生み出す。それが変化すると、その建物はかつての意義を失う。しかし、新たな文脈を与えることでそれは復活する。共通理解も内外双方からの風景も人のつながりも、それによって、刷新される。

 

 しかも、使い古された構造物はそれ自体にさまざまな使用履歴があるので、非常に個性的である。前加工をした無個性な処女材を使う新規事業のようにはいかない。再利用する際に、その固有さを熟知するため、内部にとどまりつつ、詳細な診断=読解が不可欠である。さらに、建築基準の規制も組み入れる必要がある。

 

 その一例がオルセー美術館である。1986年に開館したオルセー美術館は。駅舎兼ホテルを再利用した構造物である。1900年のパリ万国博覧会開催に合わせ、オルレアン鉄道はヴィクトル・ラルーの設計によるオルセー駅を開業する。オルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルとして位置づけられ、10線以上のホームと宿泊施設も備えている。けれども、1939年に近距離列車専用駅へと変更され、施設も大幅に縮小する。その後、さまざまな目的で使われ、取り壊し案も浮上する。1970年代からフランス政府が保存活用策を検討した結果、19世紀美術を展示する美術館として再出発することが決定される。展示品の描かれた時代の雰囲気が欲しいので、できる限り、原型を生かす考えがとられている。美術館の中央ホールには地下ホームの吹き抜け構造がそのまま活用されている。

 

 これは、目的をそのままに、古い建物をリフォームしながら使い続けることではない。建築は目的論的であり、その変更が極めて重要である。そもそも、その用途では経済性から維持ができず、文化事業の文脈で古びた構造物を再利用するもことである。80年代、欧州は第2次石油ショックを契機に長期不況に陥る。失業のみならず、不足した労働力として受け入れた移民の増加も社会問題化する。特に都市の政策担当者は文化事業を都市の活性策として打ち出す。文化の香りや高いアメニティなどが都市のイメージを決める。文化への支出は補助ではなく、都市再生のための投資へと変わる。こうして文化と経済の思惑が一致する。

 

 取り壊せば歴史性は消えてしまう。それは一朝一夕でつくれるものではない。可能な限り原型を生かしつつ、歴史的建造物を別目的で再利用する。それに伴い、共通了解・風景・人間交流が革新される。このような動きは、オルセー美術館に限ったケースではない。世界的な広がりを見せている。横浜赤レンガ倉庫もこうした際活用の例の一つである。新規事業の構造物に都市の活性化を期待することは、見栄っ張りの首長が示してくれているが、垢抜けない。利活用の試みこそ「脱構築主義」にふさわしい。建築と脱構築を本質から理解して問うならば、あのような用法をするはずもない。脱構築は方法論であるのに、なぜ潮流の名称に使われるのか理解に苦しむ。彼らには「ポストモダニズムラディカルズ(Postmodernist-radicals)」の方が合っている。

 

 311は無数の建物を破壊している。多くの避難者は避難所に身を寄せたものの、不自由な生活を余儀なくされる。中には、都心の閉鎖予定のホテルに受け入れられた人もいたが、概して、居心地の悪さを訴えている。せっかく助かったのに、仮設住宅での孤独死の犠牲所も出ている。住まいはたんなるねぐらではない。

 

 311は建築とは何かを改めて問い直させる。建築を通じた共有された物語の尊さを人々は再認識している。これを惰性として打倒しようと躍起になっていたのは真に観念的である。再利用としての脱構築は今後ますます重要性が認知されていくだろう。

 

 加えて、日常のありがたさを痛感し、建築に求められるのは、災害への強さだともつくづく思い知っている。災害がいつ襲ってくるかわからない。阪神・淡路大震災に関する各種のデータから自信の際には、建築物の耐震性が最大の防災であると明らかになっている。6000人の犠牲者のうち、約5000人が木造家屋の倒壊によって発生5分以内に亡くなったと見られている。また、中越地震では、高層建築の長周期地震動の課題が顕在化している。さらに、311では、液状化現象やオール電化の高層マンションの脆弱性なども露呈している。進化する災害と被害を考慮しない建築はあり得ない。既存の建物も、現代の文脈で、動的に再検討せざるを得ない。現実的に脱構築の発想が必要とされている。

 

 311を経験した建築家は日常性に依存し、非日常性を強調した設計をしていい気になっていることはもはやできない。共通了解・風景・人間交流を揺り動かすなど巨大地震・津波の前では場をわきまえない冗談でしかない。建築家の仕事は世間を驚かせることではない。人々と価値を協創し、過去=現在=未来の織り成す物語を共有しようとすることだ。

〈了〉

参照文献

岡本清正他編、『現代の批評理論第二巻』、研究社出版、1988

川崎賢一他、『アーツ・マネジメント』、放送大学教育振興会、2002

香山壽夫、『建築家の仕事とはどういうものか』、王国社、1999

香山壽夫、『人はなぜ建てるのか』、王国社、2007

宮内康他、『現代建築』、新曜社、1993

森毅、『みんなが忘れてしまった大事な話』、ワニ文庫、1996

Philip Johnson, “Deconstructivist Architecture”, Museum of Modern Art, 1988

 


文学とデータ - 2012.05.29 Tue

 

文学とデータ

Seibun Satow

May. 28. 2012

 

In the same way that past federal investments in information-technology R&D led to dramatic advances in supercomputing and the creation of the Internet, the initiative we are launching today promises to transform our ability to use big data for scientific discovery, environmental and biomedical research, education, and national security”.

John Holdren,

 

 一人殺されただけでも大変な問題で、数字に還元できない。しかし、人間を数字に還元しなければ政治の話が出来ない。私はその違和感がある。(略)科学といい、統計という発想の中には、個人を消去して特定のカテゴリーの中の番号に還元してしまうものの考え方が内在している。それは残酷です。私はそこにこだわるのです。

 

 加藤周一は『20世紀の自画像』においてこう述べている。具体性・個別性への志向が文学のあるべき姿だとしばしば文学者から主張される。世界を外部あるいは境界から把握する叙事詩的認識が後退し、内部より見る抒情詩的視線が近代の文学の傾向である。けれども、真の主役は社会である。ある具体的な個別対象を扱いながら。社会の一側面を浮き彫りにする。思考過程をトップダウンではなく、ボトムアップにしただけで、社会を取り扱うことには変わりはない。

 

 一般性・抽象性を理解していなければ、個別性・具体性を描くことは困難である。統計はある目的に基づいて収集される。しかし、その結果はたんなる数字の分類ではない。分析し、意味を読み取る必要がある。

 

 加藤周一は殺人を比喩にしている。その意見を読む限り、彼が日本の殺人の傾向を承知していない。日本における主な殺人は心中である。加害者と被害者が顔見知りで、犯行現場が生活の場ということも少なくない。特に、近年、介護疲れが原因と推測できる事件が見られる。殺人の統計データを丹念に読み解くなら、そこから抽出できるストーリーがある。個々の事件にはそれぞれのコンテクストがある。ある事件を個別性から見るか、一般性から捉えるかが重要ではない。そのコンテクスト読み取れるかどうかがその事件についての真の理解にほかならない。

 

 人々は実感を覚えて生きている。しかし、それが社会の実態を反映しているとは限らない。収集したデータを分析すると、実感と実態がずれていることも少なくない。実感に没入し、なぜそうした乖離が生じているのかまで問う文学作品は多くない。

 

 最近、具体性・個別性の取り込み、すなわちコンテクストへの目配りは、人文・社会・自然科学のいずれの分野でも常識的に見られる。加藤周一の出自でもある医学を例にしよう。

 

 医学では、証拠に基づいた医療、すなわち「EBMEvidence-Based Medicine)」の他に、90年代から語りを基盤とした医療、すなわち「NBM(Narrative-Based Medicine)」の重要性も認知されてきている。患者の語る病の体験の物語をそのまま拝聴・尊重する。医療従事者は、病に対する解釈・対処を患者の人生というコンテクストの中で展開される物語として把握し、その語り手を尊重する姿勢をとる必要である。この物語は複雑に織り成され、多様で、絶対的なものはない。患者と医師とのこうした対話も治療の重要な一部である。

 

 こう考えてくると、むしろ、文学は、数字に還元できない固有な事象を扱うと言いながら、自分の意識の優越さのためにそれを選んできたのではないかと疑問がわく。先に言及した介護疲れの心中のような典型的な殺人事件に寄り添う文学作品にお目にかかることは稀である。個別性・具体性への志向は科学の影響力の伸長に対するアイロニーにすぎず、自身のすべきことを吟味しない怠惰の言い訳にすぎない。

 

 今日、流通するデータが増加し、それらが社会を構成する重要な要素の一つになっている。政府も企業も法人もデータ・ベースを持っている。社会性を考慮するなら、デジタルデータと文学も向き合わざるを得ない。データを丹念に読み解き、そこから抽出できる過去・現在・未来の社会のある姿を具体的・個別的なストーリーに紡ぎ出す。それが今の文学のすべきことの一つである。そのために必要なのはコンテクストの多様性を読み取ることであって、統計上非常に稀なケースを無視することではない。

 

 『ネイチャー』誌は089月号で、特集「ビッグデータ ペタバイト時代の科学(Big data: Welcome to the petacentre)」を組んでいる。ペタはテラの1000倍のデータ単位である。もはや「ペタバイト」の時代が到来しているというわけだ。「ビッグデータ」は構造化されていない大容量のデジタルデータを効率的に解析し、各種の実用的な情報を導き出すトレンドの総称である。カーナビを通じた交通情報やポイント・カードによる消費者情報、塩基配列解析から得た遺伝子情報、粒子加速器の実験結果など多岐に亘る。

 

 ビッグデータはたんに量が巨大なだけではない。リアルタイムで収集・解析される速度、さまざまな種類のコンテクストを持つ多様性という特徴がある。

 

 政府を始め各種の機関が広範囲に及ぶ膨大な量のデータを毎日のようにネット上で公開している。米国のIT調査会社IDCは、116月、この年の世界の年間総データ量を1.8ZB(ゼタバイト)と予測している。これは4.7GBの標準的DVDにして約3800億枚に相当する。IDC1237日の発表によると、世界のビッグデータ市場は2010年の32億ドルから15年には169億ドルに成長すると見込まれる。また、同じく調査会社のガートナー(Gartner)は、116月のレポートで、ビッグデータが毎年少なくとも59%ずつ増加し続けるだろうと予想している。まさにデータ爆発である。

 

 ホワイトハウスは、12329日、総額2億ドル以上の「ビッグデータ研究開発イニシアティブ(Big Data Research and Development Initiative)」の概要を発表している。このイニシアティブでは、米国科学技術政策局(OSTP)、国防総省、国立衛生研究所(NIH)、国立科学財団(NSF)、エネルギー省、米国地質調査所(USGS)の6つの政府機関が主導し、巨大なデジタルデータの組織化や知識抽出等を行うための技術やツールの開発を担当するとされている。あわせて、議会図書館(LC)や国立公文書館(NARA)、国立医学図書館(NLM)によるプログラムにも活用される。

 

 とは言うものの、専門家でなければ、意味を読み取れないものも少なくない。けれども、データのチェックも新たな集合知、すなわち「クラウドソーシング(Crowdsourcing)」を用いて効率よく行うことができるようになっている。これは、不特定多数の人に業務を委託する手法である。自分でできなくても、公益性が高ければ、サイバー空間にいる専門家のサポートをお願いすればよい。

 

 専門的なデータであっても、ITの進化に伴い、直観的な理解が可能になっている。パソコンの処理能力が向上し、高性能のソフトウェアが登場、クラウドコンピューティングが進展したため、大量のデータを容易に可視化できる。このPBの大規模データを処理するために、「ハドゥープ(Apache Hadoop)」が考案されている。これは大量のパソコンをつないで分散処理をするJavaソフトウェア・フレームワークであり、フリーで配布されている。

 

 一般ユーザーでも、今ではデータを取り扱うことが簡単になっている。グーグルが提供する無料サービスだけで地理的にデータを見やすくすることができる。入手したデータを「Googleドキュメント」内の各種サービスで整理し、それをデータ・ベース・ソフト「Fusion Tables」を使って「Google Map」上で展開する。これにより生のデータだけではわからなかったインヴィジブル・マップがヴィジュアル化される。

 

 正直、地方・中央政府の予算もこうした可視化が実施されていてもおかしくない。ニセコなど一部の例外を除くと、財政学の専門家でもなければ意味が読み取れない。また、複雑怪奇なことで知られる国の特別会計は財務省の担当者くらいしかわからないとされている。政府の予算は共有情報であるにもかかわらず、それが有権者と分かち合えない。けれども、ソフトを用いて、これを直観的に理解できるようにすれば、市民の政治参加も促進される。

 

 哲学や文学も、1980年代に、高度消費社会を根拠にシミュレーションの時代が到来し、データ・ベースの重要性が増すだろうと予言している。ある現象にまつわる諸要素の数値を少しずつ変えて入力してコンピュータに計算処理させ、蓋然的な見込みの結果を直観的に理解可能なプレゼンテーションとして見せる。こうしたシミュレーションは真理ではなく、相対的なデータであって、その実用化は政治と経済、科学の間の駆け引きにすぎない。哲学や文学によるシミュレーション科学への批判を要約すればそうなる。

 

 蓄積されたデータ・ベースを利活用してリアルタイムの動向を表示したり、過去を再現したり、未来を予測したりする。こういう可視化がシミュレーションであり、データ・ベースはこのヴィジュアル化されて初めて人々の間で共有される。従来は扱うことにおできなかった大量のデータから今の物語を紡ぎ出す。現代社会はデータによって構成されている。それを無視することはできない。蓄積されたデータに基づくシミュレーションを通じて過去は未来を左右し、未来は現在を規定し、リアルタイムの動向が過去と未来に影響を与える。利活用の履歴に応じて、実用的にデータ・ベースは改変される。データを可視化して利活用することで、新たな文学を展開できる。

 

 これほど社会に浸透しているにもかかわらず、情報の世界と格闘する文学は、あまり見受けられない。最も素朴なデータ社会についての文学的対処はそれを小道具として作品に登場させるか、懸念を描くかのいずれかであろう。それは想像力の貧困さの現われでしかない。多くの企業は個人レベルでのビッグデータの収集・分析により細かな消費者像を抽出している。こうした状況下、文学における登場人物のプロファイリングは恣意的だと物笑いの種になりかねない。文学者も流通しているデータをソフトで可視化し、それが物語るストーリーを作品のモデルにする。データは作家の想像力を上回る社会の一側面を示すだろう。そうした時代が来ている。

 

 先に述べた通り、データについて考える際に重要なのは、どのようなコンテクストを見出せるかだ。データは文学者に多様なコンテクストの存在を教えている。コンテクストを読み取る方法を提供しているとも言える。ビッグデータ時代のもたらすコンテクストに真摯に向き合うなら、文学は大いに進化していく。

 

 19世紀、西洋の自然主義文学者は、近代という未知の社会を自然科学を援用して描こうとしている。データ爆発の現在、改めて彼らの試みを見直す必要があるだろう。今日の文学者は過去とその作品の思想を共有し、自らを体系に位置づけながら、言語コミュニケーションによって今を浮き彫りにしようとする表現者のことである。

〈了〉

参照文献

加藤周一、『20世紀の自画像』、ちくま新書、2005

Data journalism Handbook

http://datajournalismhandbook.org/

Gartner

http://www.gartner.com/technology/home.jsp

IDC

http://www.idc.com/

Nature

http://www.nature.com/nature/index.html




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