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体験記

 皆さんもご存知のとおり、昨年の3月11日東日本大震災が起こった。山形に住んでいる私たちは、地震の影響も原発の影響も限定的で、現在、普通の生活を送ることができている。隣県に住んでいる私には、募金や節電以外に何ができるのだろうと考えるようになった。

 まず行ったことは、情報収集である。これまでも新聞やテレビから流れる報道を見聞きしていたが、当事者意識が足りず、文字や映像として流れていくだけだった。そのため、3月11日からの記録集を買い求め、じっくりと記事を読んでいくと、改めて震災の大きさに気づいたとともに、震災当初から活動している様々な団体を知ることができた。続いて、山形で活動している団体について調べた。調べる時期が遅かったこともあり、山形大学や芸術工科大学で行われていたボランティア活動は縮小傾向にあり、募集の有無が確認できなかった。市報に載る公共団体のボランティアバスは連絡をとっても満席、途方にくれていたところ「yamagata1」というサイトを知り、そのサイトに載っていた「災害ボランティア活動説明会」に参加することにした。その説明会では、被災地でのボランティア活動の紹介、一人からでも乗れるボランティアバスの紹介、活動中の健康管理について、夏の災害ボランティア等の説明があり、求めていた情報を得ることができ、「私にも何かができそうだ」と思うことができた。

 説明会を受け、被災地に行くためには準備が必要だということがわかった。自分の物は全て自分で持っていき、全て持って帰ってくることが前提で、当然「電気・ガス・水道」のライフラインが使えないことを想定しての準備が必要。これらの準備を整え、ボランティアバスの乗車日を迎えた。

 当日の天候は晴れ、早朝は寒い日だった。大きなリュックと鉄板入りの長靴を手に山形駅へ。ドキドキの受付を終え乗車。参加者は、ボランティアバスが始まってからほぼ毎回参加しているような人もいれば、私と同じく初めての人もいて、バス2台、総勢80名位が参加した。バスの中では、現地での説明や軽い自己紹介が行われ、行き先は石巻と昨年台風15号で再び水害に遭った女川とのこと。石巻の拠点とされている場所で、2~10名程度の小グループにわかれ、事前に打ち合わせの済んでいる場所へと向かう。私が向かった先は、津波の被害を受けた、とある民家。民家までは拠点から歩くことになっていたため、リーダーと呼ばれる人が地図を片手に案内してくれたのだが、あるべきはずの目印の建物が津波の影響で壊さざるを得ない状況だったらしく、さら地になり目印のない中、右往左往しながら民家へと向かった。民家に向かう途中の道路はきれいになっていたが、両脇にはまだまだ瓦礫の山があったり、地震直後の時刻のまま止まってしまった時計があったり、テレビで見たようなボコボコになった車の山など、まだまだ人手の必要な場所なのだということを痛感させられた。写真に収めようと試みたが、なんともいえない心境で撮影することができなかった。

 歩くこと15分位で民家に着いた。盆地育ちの私にとっては、ここまで津波が来たのかと疑いたくなるほど海から離れていると思われる場所(海から2キロ位の場所?)で、今回の津波の大きさや規模が想定を超えていたのだという報道に納得がいった。民家での作業は、津波によって漬かってしまった1階部分の壁はがし、床板はがし、床下のヘドロ除去を行うというものだったが詳細には触れないこととする。初めから熱心に頑張りすぎて、時間が経つにつれてボディーブローのように疲れが蓄積し、終わりが近づくにつれて休憩ごとの水分補給が待ち遠しくなるほど、肉体的に疲れた。しかし、私が行ったのは1日だけで、この家の保有者はこれまでもこれからも肉体的にも精神的にも大変なのだと思うと、弱音を吐けるような場所ではなかった。お願いされた内容をほぼ終え、充実感を覚えたとともに一人の人間の無力さも感じた。

 帰りのバスでは、活動の振り返りが行われた。メンバーによっては、泥を被った食器類をひたすら洗浄したり、カキの養殖のためにホタテの貝殻に穴をあけてワイヤーを通す手伝いをしたり、米や水などの物資を整頓したり、すべきことはたくさんあるようだった。「今、私にできることをできた。」と言えるだろうか。色々考えている内に睡魔に襲われ思い瞼が閉じた。

 数日後、ボランティアバスへの参加申し込みを終え、再び被災地へ。前回とは異なる民家へ赴き作業にあたる。作業の休憩時のとあるおっちゃんの言葉が記憶に残る。「復興は今年だけでは終わらない。」 

 


この本の内容は以上です。


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