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後編

 「…あなたは先ほど、ここには厭なことはないと、そうおっしゃいましたね。どうしてここには厭なことがないのでしょうか」

 その方にうちとけた僕はおずおずと尋ねました。その方はゆっくりと僕のほうをごらんになられました。穏やかな眼差しでした。

 「あなたのように、そうやっていれば神秘的な境地に達するのでしょうか。そうすれば厭なことはなくなるのでしょうか」

 その方は静かに微笑まれました。包みこまれるようなやわらかな笑顔でした。

 「神秘的なものなどないのだよ」

 僕はびっくりしました。

 それではこの方はいったい何のためにこうやっておられるのか…。

 「でも、それでは…」

 その方は、わかっているよと言わぬばかりに頷かれました。

 「ヤサよ」

 と言う声に、僕は、は、はい…と答えるだけでした。

 「お前の心はどこを向いていたのだろう。父の姿を追い、周りの取り巻きからの世辞や追従を受け止め、愛しい女の肉に触れ、その匂いを楽しんできただけではないかね」

 僕は黙るしかありませんでした。この方は何を言いたいのだろうかという不安と、それがどうしたのだという反発が同時に起こりました。

 「お前の心はいろいろなものをみようとさまざまに乱れ、あちらこちらに散らばってしまったのだ」

 僕の心が、そんなふうに動いていたとは…。

 「だが、お前は一度も自分の中を見ようとはしなかった」

 自分の中?

 「心をうちに向けてごらん。そうすればその奥にどうしようもない思いこみがあることがわかるだろう」

 どういうことでしょうか…。僕にはどういう思いこみがあるというのでしょうか。

 「それは、愛するものを失いたくないという嫉妬となり、ほしいもの全てを手に入れたいという欲望にもなる。人々から賞賛をあびたいという気持ちに変わることもあろう。これが思いこみだ」

 それではそういう思いこみを無くすように修行すればよいのでしょうか、と僕はわかったように答えました。

 「そうではない」

 とその方はきっぱりとおっしゃられました。

 「そうではなく、自分の心がそういうものであるということを完全にわかることなのだ。そうすればそのような心で生きていくことがどれほどの苦しみであるかがわかるだろう」

 人生が苦しみだということ、そんなことを知ってどうなるのでしょうか…。僕はわけがわからなくなりました。

 「それではお前は、何が苦しくて厭だ厭だと叫んでこの森に逃げてきたのだろう」

 そうでした、僕はなにかが苦しくて厭だ厭だと叫びながら夜の表に駆け出したのでした。

 「苦しがっていたのはお前の心なのだよ。お前の心は自分の思い通りにならない現実に苦しんでいたのだ。苦とは目の前に現われる現実を思い通りにしたいというお前の思いこみから生まれたのだ。お前の心が落ち着き、目の前の現実が変わっていくにつれ、その苦しみが消えていったのだ」

 確かにこの方はしばらく話しかけられただけでしたのに、あれほど苦しんでいた僕はもうどこにもおりませんでした。

 「あなたは…どなたさまなのでしょうか」

 僕は自分の心が明るくなっていくのを感じました。

 

 誰かが体をひっぱっている。

 やがて、柔らかい草が頭に当たり、それから徐に上半身が水の中から土の上に引き上げられていく感触が伝わってきた。足の皮膚に砂やら小石やらが引っかくような感じがしたとき、沙門を引き摺っていた手が身体から離れた。

 遠くで鳥が鳴いた。

 幼い女の声が頭の上から聞こえてきた。

 沙門は自分が生きていることを知った。首から提げていた袋が枕代わりに使われていた。沙門はうっすらと眼を開けた。少女の顔が真ん前にあった。沙門は身を横たえたまま、にっこり微笑んだ。

 「ありがとう。命拾いをしたようだ」

 沙門はへとへとになった体を起こそうと試みた。だが、体はぐったりと伸びきったまま、河原にのめり込んだかのように動かなかった。両腕には力が入らなかった。

 「すまんが、体を起こしてくれないか」

 少女は言われるままに沙門の体を支えた。それは妙に手馴れていた。沙門はどっかと座り込んだ姿勢で、改めて少女にお礼を言った。少女はおずおずと沙門の顔を覗いた。

 「ありがとう」

 それが自分への感謝の言葉であるとわかった時、少女の顔がぽっとあかくなった。

 「名前を教えてくれるかな」

 少女は緊張しているのか、黙っていた。沙門はにこっと歯を見せた。

 「おや?命の恩人の名を訊ねてはいけないのかな」

 沙門が優しい口調でもう一度訊ねると、少女は羞恥(はにかみ)ながらもおずおずと答えた。

 「ローヒニイ…」

 「ローヒニイか、本当にありがとう」

 少女は無表情にこくんと頷いた。沙門はさらに訊ねた。

 「ところでローヒニイ、ここからバラナシイまでは遠いだろうか」

 「バラナシイ…」

 少女は頭をかたぶけた。

 「そうだ、バラナシイだよ。どっちだろう」

 「どっち?…」

 少女は沙門の言葉を繰り返した。沙門は苦笑した。

 「街だよ、大きな街だよ」

 急にローヒニイは自分の指を河の反対側に向けて指した。それを見た沙門の顔に明らかに落胆の色が浮かんだ。

 「…結局、河を渡れなかったわけか」

 沙門が溜息混じりに呟くと、少女は不意にはっきりした声で言った。

 「いかだ、あるよ」

 なに?沙門はローヒニイの指す草叢に目を投げた。まだ体はふらふらしているようだったが、ともかくも立ち上がった。沙門が立ち上がると少女は転がるように岸辺の草叢に向かって駆けていった。沙門はよたよたとその後を追った。大きな木の根元に朽ちたような筏が無造作に捨ててあった。

 「ないよりましだ」

 沙門はしかし明るい表情でローヒニイに言った。

 「ありがとう。用事が済んだらもう一度戻ってこよう」

 するとローヒニイは人懐っこい顔で叫んだ。

 「ほんと?もう一度くるの…」

 沙門も思わず微笑んだ。

 「ああ、本当だよ。お家はどこかな」

 少女は無造作に指さしたまま

 「あっち…」

 とだけ言った。沙門はその顔を覗き込みながら優しい声で尋ねた。

 「何という村かな」

 そのとたんだった。ローヒニイの目が恐怖に怯えた。村という言葉がこの少女に何かを思い出させたことは確かだった。少女は泣き出しそうな顔に変わると、少しずつ沙門の前から後ずさりし始めた。沙門は慌てて手を横に振った。

 「違う、私は村の者ではない!」

 少女にはもはや聞く耳を持たなかった。早口に喚きながら木切れといわず、小石といわず、手に触れるもの全てを沙門に投げつけだした。沙門は両腕で自分の顔を覆った。少女はいよいよ恐怖に顔を引き攣らせ、興奮を増して無抵抗の沙門に投げつけてくる。そのうちに手元に小石がなくなったらしく、新しく石を拾い上げて投げつけようとした 

 「やめなさい!」

 沙門の一喝に、ローヒニイの体が一瞬止まった。すると急にへなへなと崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。それからいきなり、声を立てて泣き出した。

 ――村人が追いかけていたのはこの娘だったのか…。

 沙門は泣き喚いている少女のそばに屈みこんだ。

 「どうして、お前を村の人は追いかけるんだね」

 小刻みに肩を震わせながら、ローヒニイは頭を何度も振った。

 「わかんない…」

 沙門はもう一度訊いた。

 「ローヒニイはどうして逃げるんだね」

 するとローヒニイは顔を上げて、はっきり答えた。

 「恐いよ。みんなでおれを捕まえようとする」

 沙門は驚いて聞き直した。

 「みんなで?」

 その言葉に、おどおどした目つきで、少女は答えた。

 「そう。村の人…みんな…」

 わからなくなった沙門はつい声を発した。

 「なぜだ。なぜ、そんなことを…」

 しかしその沙門の問いに答えたのは背後からの声だった。草叢(くさむら)の陰(かげ)から沙門を追いかけてきた長が姿を現した。

 「―そいつはな、道の人。…あんたをこう呼ばさせてもらうよ。そいつは、母親を殺しちまったんだ」

 突然現れた長の姿を見て、あわててローヒニイは沙門の背に隠れた。長はその姿を一瞥(いちべつ)すると苦々(にがにが)しく顔を歪(ゆが)めた。

 「このローヒニイが、母を殺したというのか」

 沙門は長の目をきっと見た。長は一瞬、目をそらした。だが、それからもう一度沙門の顔を見て、独り言のように話し出した。

 「まったく…これが因果なんじゃろうが、あんたもそいつの母親の名前を聞いたらびっくりするぞ」

 沙門は怪訝(けげん)そうに長の言葉を待った。長はにんまりと笑った。

 「道の人よお、そいつの母親の名前はな、〔チンチャー〕だ」

 「チンチャー?」

 沙門は長の真意がわからなかった。

 「あんたも仏陀の弟子ならば、チンチャーという女の名前ぐらいは聞いたことがあると思うんだがな…」

 その時、長の後ろの草叢から村人たちが、がやがた言いながら姿を現してきた。

 「おっ、こいつはローヒニイじゃねえか!」

 「このガキ。こんなところに隠れていやがって」

 彼らは沙門の背後に小さくなって隠れている少女を見つけると、と口々に罵りはじめた。少女はますます怯えて沙門の腕を硬く握った。長は一同を制した。

 「ちょうどいい機会だ。一つ話しておいてやろう。こいつがまだ生まれたばかりの頃だ…」

 そういいながら長は周りの村人たちを見回した。なすすべなく立っていた村人は持っていた棒をゆっくりと杖の代わりにした。

 「仏陀の国、シャカ王国が滅ぼされた時だ――道を間違えたコーサラの軍隊がわしらの村を通った。もともとこの戦争は傲慢なシャカ一族がコーサラ王を騙して、召使の一人をシャカ族の王女と偽って結婚させたからだ。その女の産んだ子供が王子になったときに、シャカ族の宮廷で笑い者になったというのじゃ。」

 「そいつは気の毒に…あたしゃその人の気持ちは分かるよ。」

 いつの間にか来ていた村の女の一人がそういいながら、どっこいしょと腰を下ろした。するとそれまで突っ立っていた者もつられるように腰を下ろし始めた。

 「王子は自尊心が高い男だった。笑い者にしたシャカ一族を激しく呪った。その後、王になった時に、シャカ国に攻め入った…」

 「それがローヒニイとどう関係があるのだ」

 沙門の問いに長は苦笑した。

 「あわてなさんな」

 と長は言った。

 「帰り道を間違えたコーサラ軍の部隊がわしらの村を襲ってきた」

 長の言葉に村人が頷いた。

 「おう、おらぁ覚えてるよ。酷(ひど)いもんだったなあ、あっという間に象が村を潰していったんだもんなあ」

 「そういやあ、あん時だっけ。ローヒニイの親父が象に踏み潰されたのは。」

 その言葉に長が頷いた。

 「そうじゃ、そうだとも。この娘の父親は象に踏み潰された。だが、その苦しみは母親のチンチャーに比べればまだ楽だったろうよ…チンチャーは乳飲み子を抱いて、朝から晩まで、乾いた大地の上を耕した。けれどもそのうちにチンチャーは体を壊し、とうとうその日の食にも事欠くようになった」

 沙門は黙っていた。そして長の語ることに耳を傾けた。

 「暮らしに困ったチンチャーはローヒニイを連れてわしのところにやってきた。しばらくこの娘を預かってくれと頼んだ。

 『長さま。ほんのちょっとの間、この子をお願いしますよ。サヴァッティという街にいらっしゃる偉いバラモンの方があたしを憐れんで仕事をくださるというんですよ』

 『馬鹿なことだぞ、チンチャー。あいつらにわしらの苦しみが分かるはずもない。うまい酒は鉄を溶かし、甘い言葉は身を滅ぼす、ともいうぞ』

 『でも、長さま。このままでは親子ともども飢え死にいたしますから…』

 ――いや。やはりあの時、わしは止めるべきだった。」

 「長よ、チンチャーにどうしてバラモンからの仕事が…」

 沙門の言葉に長は己(おのれ)の白い髪を掻き毟(むし)って叫んだ。

 「おお、道の人  恐ろしいことだった!」

 今度は村の者も固唾(かたず)を呑んで長の顔を見た。長の声は震えていた。

 「チンチャーの仕事と言うのは…誰に頼まれたものか、こともあろうに、仏陀の子を身ごもったと言い触らすことだったのだ」

 沙門は目を瞠(みは)った。

 

 「ほほほ、シッダルタ様。どうなさいましたの。  まさかこのお腹の子を知らないと仰るんじゃないでしょうね」

 私はチンチャーと名のる女の顔をまじまじと見つめました。面長で鼻筋の通った容貌は、たしかに濃い化粧で隠されてはおりましたが、美人の面影を残しておりました。しかしその顔全体から受ける印象はどことなく虚無的で、生きていくことに何か疲れきっているような、どこかなげやりな感じでした。

 (この女は嘘を言っている。なのになぜ仏陀はこの女を責めないのだろう…)

 私は長老と言われる方々のお顔をそっと拝見いたしました。知恵第一とうたわれたサーリプッタ様はまったく平然とこの女をご覧になっております。超能力を持つと噂されたモッガラーナ様はそこに誰もいないかのように、静かに瞑想をされているようでした。その他、ウパリー様もアヌルッダ様もまるで何事もなかったかのように静かに座しておられるのでした。ただお一人、アーナンダ様だけがむっとした表情を浮かべて女を睨んでおいででした。

 このように長老たちがみな静かになさっておいででしたので、自然に、日の浅い弟子たちも落ち着かざるを得ませんでした。ところがこの静けさが、ますますチンチャーという女を興奮させたようでした。

 「ふん、あくまでしらを切るつもりなんだね。それならそれでいいんだよ!」

 チンチャーは吐き捨てるようにそう言うと、急に甘ったるい声で

 「ねえ、あなたは、ほんのりとほのかな炎のなかで私の胸をさぐって、かわいい女と言ったじゃない。それからその手をもっと下に持っていって、ふふ、どうしたっけ?指を巧みに動かしぴちゃぴちゃとうるおいの音をたてたわ。そのたびにあたしは恥ずかしくて、気持ちがよくって、何度も何度も身を捩ったのよ。…喘(あえ)いだわ。あたしの息が苦しくなるほど触ってくれたあなたは、それから体を少しずつゆり動かして…」

 未熟な弟子たちにとって、この女の語り散らす内容は興味深いものでありました。若い沙門の中には、股間を手で押さえ興奮を抑えつけるものもおりました。降魔(ごうま)じゃ、降魔じゃと小さな声で呟きながら瞑想の姿勢をとる老沙門もいました。私には、さまざまな苦行を経(へ)られた仏陀にこのような出来事などあるはずがなく、この女の話が出鱈目(でたらめ)であることは十分に分かってはおりました。しかしそれにもかかわらず、やってきた女の舌があまりに巧みに動くものですから、弟子たちの脳裏には、もしかしたら仏陀にも、という疑いが次第に生じてきたのでした。

 「…肌と肌とを合わせ、あたしは顔をあなたの顔に寄せて、口と口をおしつけ舌を吸いあったのに、」

 恥ずかしながらこの私も、仏陀とて人間なのだ…、人間なんて所詮こんなものかもしれないな、という思いにいつの間にかなっていたのです。女が話すたびに私の脳裏には戯れる女の白い肌だけが艶(なまめ)かしく動き、微妙に変わる手や足の形がいよいよ鮮明に見えてきたのです。他の弟子たちも同じだったのかもしれません。初めは小さな疑いでした。こそこそとした囁きが、知らぬ間に、静けさを否定する響(どよ)めきへと変わろうとしていました。それは仏陀に対する声なき声の批判でした。その批判はいまや仏陀に裏切られたのだという怒りになろうとしていたのです。その雰囲気にチンチャーは勝ち誇った足取りでほくそえみながら、高まりつつある騒(ざわ)めきの中をゆっくりと歩みを進めていきました。

 その瞬間でした――。

 チンチャーの体が前屈みになったと思ったら、膨らんだ腹が急に消えたのです。腹から急に鈍い音をだして木の半球が転がり出たのでした。周囲から一斉に怒号が湧き起こりました。ころころと転がり出た木球の動きを目で追っていた弟子たちは、それが仏陀の座の前で倒れたとき、まるで暗示から解かれたようにわれに返ったのでした。たとえ一刹那(せつな)でも仏陀を疑ったことが全てこの女のせいであったかのように、私たちは憎しみをこめて、チンチャーめがけて石を投げ、土塊(つちくれ)をぶつけ、唾をかけ、足蹴にし始めたのでした。静寂な精舎(しょうじゃ)はたちまち怒声と喧騒の埃(ほこり)に巻き込まれました。長老の一人が驚いて立ち上がると、真っ青な顔で混乱の渦の中に走り込んできました。アーナンダ様でした。アーナンダ様が真っ先に群れの中に割ってこられたのでした。続いて、あの冷静なサーリプッタ様が―この時ばかりは私たち未熟な弟子どもを落ち着かせようと――急ぎ足で中に入ってこられました。モッガラーナ様もやってきました。アヌルッダ様も、ウパーリ様も、スブゥーティ様も夢中になって止めようとなさりました。この時、仏陀が初めて座から立ちあがられました。そして大声で叫ばれたのです、あの仏陀が  

 

 長は話を続けた。

 「  村に帰ってきたのは、それから十何日もたってからじゃったよ。チンチャーの体はまだ紫色の腫(は)れがひいてはおらんかった。顔と言わず、背中と言わず、そりゃあ酷いもんだった」

 沙門が口をはさんだ。

 「長よ、あなたはどうしてその事件をご存知なのです。あれは仏陀の弟子以外には知らないものと思っていましたが、」

 「聞いたのじゃよ、チンチャーにな。寝床で泣きながら、チンチャーはこう言いおった、仏陀様だけが私を助けてくれたと。あの後、バラモンは傷だらけの女などには見向きもせず、何を聞かれても知らぬ存ぜぬの一点張りだったそうだが、仏陀様だけが介抱をされ、手当てをしてくれたというのじゃよ。仏陀様だけが身をもって弟子どもの憎しみの炎からチンチャーを護ったということだった」

 それは私もよく存じております、と沙門は思わず口に出しそうになった言葉を呑み込んだ。仏陀が善なるものをいつも人知れず行っていることを思い出したからだ。

 「しかし、このローヒニイが、母親であるチンチャーを本当に殺したのでしょうか…」

 沙門は話を戻した。長はその言葉を聞くと傍らにいた男に何かを告げた。男は後ろの群れから三十がらみの一人の男を探し出した。長はその男に二言三言、話しかけた。

 「…へえ、見たのはこのわしで、こいつは太いあまっ子で、へえ、」

 沙門は急いで尋ねた。

 「どうやって…、この娘はどうやって母親を殺したのです」

 男は困ったような表情で、答えた。

 「どうやってって…こう…」

 男は突然腕を振り落とす格好をした。長が苦々しい顔で怒鳴った。

 「ええい、何をしているのだ。わしに言うたように言え!」

 男は慌てて長に謝った。

 「へ、へえ。チンチャーはそん時、ずっと病気で寝ておりました。で、こいつが、その娘です、ちょうどおっかさんの頭のところにおりまして、ええ、わたしゃ覗いておりましたから、――それでもって、この娘が、置いてあった杵(きね)で母親の頭を叩いたわけで」

 「杵で」

 思わず沙門はローヒニイを見た。ローヒニイはぽかんと口を開けたままだった。男はそんなことにはお構いなしに続ける。

 「それも突然ですよ。驚いたなあ、それまではこいつ笑いあって話していたんですからね」

 男の自慢げな話しぶりに、長が睨みつける目で、いじわるそうに言った。

 「ついでに、どうして覗いていたかも言ったらどうだ」

 男は明らかにうろたえたようだった。

 「そんな…。チンチャーだって、それで食ってるようなもんでしたから、何しろ、あんないい女いませんし…」

 ばかもん。長の一言に男は頭をかいた。

 「ご覧の通りですわい。さあ、ローヒニイをこちらへお渡しくだされ」

 長の言葉に沙門も答えた。

 「だがこの子は溺れかけた私を助けてくれたのですぞ。あなた方はこのような筏(いかだ)のあるところさえも教えてくれませんでした」

 「それは十分わかっている」

 長はきまり悪そうに下を向いた。

 「しかし親殺しとそれとは関係ない」

 と、長はきっぱりと言った。

 「それでは一つだけこの娘に尋ねたいことがあるのだが、」

 沙門の言葉に長は無言で頷いた。沙門は屈みこんで目を少女の高さにして、やさしく訊ねた。

 「ローヒニイはお母さんが好きだね」

 少女は大きく首を縦に振った。

 「どうしてお母さんを叩いたのかな」

 すると少女は激しく頭を振った。先ほどの男が、嘘言うでねえと怒鳴った。すかさず長がその声を止めた。村人たちは沙門と少女のやりとりに耳を傾けた。

 「いまお母さんは、どこにいるの?」

 ローヒニイはよく通る声で答えた。

 「お家(うち)だよ」

 ざわめきが周りから起きた。少女はさらに言った。

 「早く帰らないと、おっかさんが、苦しいって、」

 ば、ばかいうでねえ、おめえが殺しちまったんだぞ、と男が叫んだ。

 「ばかか、おめえは。おまえのおっかさんは、お前が、殴り殺しちまったんだぞ」

 村の女が叫んだ。周りから罵りの声と怒号がとんだ。ローヒニイの顔は恐怖で真っ青になり、唇がぐるぐる震えだし、ひくひくと泣き出した。長がゆっくりとローヒニイのところにやってきて、沙門と同じように屈みこんだ。

 「のう、ローヒニイ。このじいさまに言うのじゃ。お前が杵(きね)を手にしたのは本当か。」

 少女はしゃくりながらも、頷いた。

 「なぜそんなものを手にしたんだ」

 長の声が思わず荒くなった。

 「だって、おっかさんが、」

 しゃくりあげながら、少女は答えた。

 「持ってこいって…」

 なぜだ、と長が今度は鋭く聞いた。少女はその声でとうとう声をあげて泣き出した。

 「蝿(はえ)、追っぱらってくれって…いったんだ!」

 「蝿だとぉ?」

 長が叫んだ。少女は沙門に抱きついたまま、泣き顔で答えた。

 「顔中に蝿が、いっぱいだったんだよお」

 少女の甲高い声に周りが静かになった。少女は泣きながらも言葉を続けた。

 「おっかあ、蝿、はらうでな。おっかあが、――ああ、たのむよ、って、言ったんだよ」

 沈黙が少女の声をいっそうはっきりとさせた。

 「そしたらおじさんが来て、大声で、叱るんだ」

 たった今、村人たちにはこの娘が何をしたのかがわかった。この娘は蝿を追っ払うために杵(きね)をつかったのだった。母親の顔に群がっていた蝿を打つために持ってきた杵で思い切り叩いたのだ。長は悄然(しょうぜん)として言った。

 「ローヒニイ、お前のおっかあはな、この世にはいないんだぞ」

 少女は首をかしげた。

 「嘘だよ。お家でねてるよ」

 長はローヒニイの肩を両手で揺すりながら叫んだ。

 「ばか。死んじまったんだぞ」

 「しぬ?」

 それから少女は沙門に訊ねた。

 「しぬって、なあに。おっかあ、どこかにいったの?」

 沙門は少女に、そうじゃないんだ、おっかさんは、と言いかけて口を噤(つぐ)んだ。

 

 鷲が空の上で大きな輪を描いておりました。

 「人はなぜ死なねばならないのか」

 と仏陀が口を開かれました。アーナンダ様は黙って次のお言葉を待っておいででした。

 「それは生きる楽しみをしるためだ。もし人が永遠に生きていたならば、それは何とつまらない人生になるだろう」

 「どうしてでしょうか。死は終焉であり、この上もない恐怖ではありませんか」

 と、アーナンダ様が問われました。

 「生が変わらないものならば退屈ではないか。それこそ恐怖であり、生と死という変化こそが幸せなのだ。死は不幸ではない。それはむしろ幸福なのだ。何も知らずに死を迎えねばならない人生こそが恐怖なのだ」

 

 この娘は、死ということがわかっていない…。

 沙門は思った。

 (だが、誰がこの娘を笑うことが出来ようか)

 「私も、死を知らなかった…」

 沙門はそっと呟いた。

 そしてやっと今、ローヒニイの姿を見たときに、あの明け方の白くなりかけた闇の中での仏陀の言葉を理解できたと思った。ここには苦しいことはない、という仏陀の言葉が四十年以上も立ってやっと実感できたのだった。いまや老人となってしまった沙門の胸に、もう一度あの場所に戻って、その人の膝元で思い切り泣き出したいような懐かしさが湧き上がってきた。

 

 「のう、道の人」

 沙門は異様な静けさが自分を取り巻いていることに驚いた。その沈黙を破ったのは長だった。長の顔にはあきらかに困惑と戸惑いの色が浮かんでいた。しかしそれは長ばかりではなかった。村人の誰にも同じような色が浮かんでいた。

 ――娘は、いわば親の苦しみを助けるつもりで杵を振り下ろしたのだ。たとえそれが異常であったとしても、杵で打てば人が死ぬと言うことを知らなかったこの娘をどう裁けと言うのか。

 長は途方にくれた。

 ――ローヒニイを助けるのは簡単だが、だがそうすれば村の掟はどうなる…。

 長が沙門に声をかけたのもその答えが知りたいからだった。

 「あんたならば、何かいい考えもあるじゃろう。どうだ、この娘をどうすればいい」

 沙門は頷いた。全員が沙門の言葉を待った。

 「友よ――」

 と沙門は言った。この言葉に老人は目を見張った。

 ――友だって、このわしが。友、だって。

 バラモンを頂点に、クシャトリヤ、ヴァイシャ…と何百年も続いてきた厳しい身分制の社会の中で、最下層に近い我々をこの人は〔友〕と呼んでくれた。長の目に涙が滲んだ。

 「友よ、私にもわかりません。ですが、仏陀ならば、」

 「は、はい」

 長は沙門を仰ぎ見た。

 「仏陀ならばきっとこう仰せでしょう。『殺すなかれ』と」

 「しかしそれでは、村の掟が」

 長は食い下がった。沙門はそれには答えずにこう言った。

 「『怨みを捨ててこそ止む』ともおおせでした。」

 水の音がよみがえってきた。

 単調な響きがそこにいる全員をつつみ始めた。

 二人の老人はふたたび水の音に潰されそうになった。

 ……

 叫び声がした。

 少女が逃げ出した。

 少女は、まるで狂ったように、叫び声をあげると、一気に濁流の中へ走り込んでいった。

 叫び声を、ある者は母を呼ぶ声とも聞いたという。またある者は恐怖に満ちた声だとも言った。

 ほんの束の間の、息をすることさえも出来ないほどの時間だった。

 河は白い腕を幾本も出してローヒニイを抱きかかえるとそのまま静かに底の方に連れて行った。

 

 「それでは、私たちが生きているのは、静かに死を迎えるためにだけ生きているのでしょうか」

 アーナンダ様が絶望したようにおっしゃられました。

 「アーナンダよ」

 と仏陀がお答えになりました。

 「死には、静かな死も慌しい死もない。お前にはまだ人が生きるということがわかっていないようだ」

 アーナンダ様は黙って仏陀のお言葉を待っていました。仏陀は静かに微笑まれました。

 「人が形あるものを感じる。美しく感じたり、醜く感じたりする。柔らかく感じたりざらざら感じたりする。さまざまな感じ方がやがて頭のなかにある定まった像を作り出す。その像は何度も何度も反復されては次第に形を整えていく…」

 アーナンダ様は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けておられました。このような時の仏陀はぽつり、ぽつりと、まるで自分自身に語っておられるのではないかと勘違いするほど、ゆったりと話されるのが常でした。その場にいた弟子たちすべてが息をのんで次の言葉を待っておりました。

 「…やがて、その像は人の頭のなかに鮮やかな姿となって定着する。すると、アーナンダよ、お前たちはそれが実際にそこにあると錯覚するのだ」

 アーナンダ様が、おそるおそる尋ねられました。

 「そんなこと…、確かにそうかもしれませんが…、でも信じられません。それではたとえば私の目の前にいる先生は、私の記憶が作ったお姿ということになります」

 仏陀は静かに答えられました。

 「その通りだ、アーナンダよ、その通りだ。お前の見ている私の姿はお前が作ったものだ。仏陀という姿はない。世界を救う全能の神もいない。また、これが私である、というものはない。こういうものは、すべて人が作り上げたものなのだ。それと同じように、これが死であるとか、これが生であるとか、そういうものもないのだ」

 アーナンダ様は何度も、小刻みに首を振られました。それは信じたくもない事実を見せつけられた人のようでした。

 「…それでは、人が真実、生きているということがわからなくなります。生きているとは、どういう時に言うのでしょうか」

 苦しそうな声でアーナンダ様はお尋ねになりました。仏陀はかわらぬ静けさのまま、お答えになりました。

 「頭で作った像が消えた時、人は何を感じるだろう。それは正しいとか誤りとかではなく、快と不快、平安と不安ではないだろうか。生きるとは、瞬間瞬間に、自分が何を感じて存在しているかということだ」

 

 濁流は相変わらず単調な音を立てていた。

 沙門は静かに踵を返した。

 それから先ほどの筏の方へ歩き始めた。

 村人の囲みが自然に二つに分かれた。その中を沙門は象のようにゆったりと進んだ。

 「仏陀の弟子どの」

 長が呼び止めた。沙門は歩みを止めた。

 「河を渡られるのならば、わしらの筏(いかだ)を使いなされ。そこにあるのは危険じゃ。」

 長は親しみを込めた笑顔で沙門に近づいてきた。

 「なぜそうまで急がれる。明日になれば流れもおさまるものを。それよりも、今晩はわしらの村に来てもらえぬだろうか。あの娘はご覧のとおりの結果になった。これも運命じゃろう…」

 沙門は振り返って長を見た。長は泣くような声で叫んだ。

 「わしは仏陀さまの教えをもっと聞きたいのじゃ。」

 だが、沙門は何も答えなかった。悲しい目で黙って長を見つめた。長は今度は少し怒ったような口調で言った。

 「どうして答えてくださらんのじゃ。先ほどはわしのことを、友とも言うてくださったではないか。」

 沙門の目に涙が光った。長は驚いた。

 「いったいどうなさった。どうしても今日中にバラナシイまで行きなさるおつもりか。」

 沙門は強い調子できっぱりと言った。

 「そうです。是非にも今日中に行かねばなりません。」

 長は沙門の強い意志に、おどおどしつつも訊ねた。

 「それほどの急用とは、いったい何が…」

 このとき沙門は長に合掌の礼を捧げた。それから、静かに答えた。

 「友よ」

 長は沙門の突然の態度の変化に驚きつつも黙って次の言葉を待った。ヤサの両眼に涙が溢れた。

 「友よ。――仏陀が滅せられました」

                                                                      【了】


奥付



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著者 : 普聞 隆
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