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前編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   河        普聞 隆         

 

 

 

 ――友よ。

 

 初めて聞く響きでした。

 誰がいるのかを確かめたくて、その声のしたほうに思わず眼を向けました。

 まだ明るくなりきっていない森の奥――じっと目を凝(こ)らすと、大きな菩提樹(ぼだいじゅ)の根元に人のような影がぼんやりと感じられます。

 それでも、それが人だと気がついたのは、木立(こだち)の間を通りぬけていく微風(そよかぜ)が楚々(そそ)と私の顔を幾度となく撫(な)でまわしたあとでした。風は、ほんとうに微(かす)かな動きでしたのに、ずっと高いところからも木の葉の擦(す)れ合う音が聞こえてくるほど、そのあたりは静寂でした。

 ――その方(かた)でした。

 その方が、ひとり静かにお座りになっていたのです。

 もう一度、重なり合った木の葉が触れあう音が聞こえてきました。

 風は今度は少しは強かったのでしょう、小枝までもがそよぎました。音とともに上から大小さまざまの光の粒が形を変え、入り乱れて、地上にふりそそぎます。その粒が漆黒(しっこく)の闇を照らしだすと――お姿がくっきりと浮かび上がってきたのです。

 彫りの深い、端正な顔立ちでした。言わずもがな、その方がいかなる人であるのかを無言のうちに物語(ものがた)っておりました。

 どぎまぎしている私に、声の主であるその方がお尋ねになったのです。自分の名を訊(たず)ねられていることに気づいた私は、弾んでいる息を抑えつつ、慌てて返事をしました。

 ――するとその方はこうおっしゃったのです。

「ヤサよ、来るがよい。ここに来るがよい。ここには苦しいことはない。厭(いや)なことはない」

 

 ――道は河で途切(とぎ)れていた。

 老いた沙門(しゃもん)は、目の前で猛(たけ)び声をあげている濁流の勢いになす術(すべ)もなく立ちつくしていた。いつもならばどれほど深くてもせいぜい膝までの穏やかな流れが、昨夜来(さくやらい)の豪雨でいまや両岸を呑み込まんばかりに高さを増した水流はすでに白い牙(きば)を剥(む)き出してあらん限り荒れ狂っていた。

 老人は深い溜息(ためいき)をついた。

 丸めた頭。面長(おもなが)の、見ようによっては逞(たくま)しささえも感じられる顔だった。そこからは若者にも劣らぬ気力が並々ならぬ覚悟とともに読み取ることができた。それでも、さすがに額には隠しようもない深い皺(しわ)が数条刻まれている。濃い眉には意志の強さがあった。しかし、その下の、二つの瞳の内には逆にその強烈さを恥じ入るような、どこか内向的な光が点(とも)っているのだった。そして体の奥から出てきたこの光は、ほかの誰もが気づいていない遠くの景色にまで届いているようだった。

 老人は痩(や)せていた。

 痩せてはいたが、今の今まで、この五体は使命感で満ち溢れんばかりにいっぱいだったのである。それがここにきて、急に萎(な)え、衰えていくのを感じていた。

 老沙門は、張りつめていた気持ちの中に、しだいに忍び寄ってくる疲れを覚えだした。疲れは失望を呼び、それは諦(あきら)めに変わろうとしていた。

 

 轟(ごう)――。

 

 単調な響きが老人の両の耳をしだいに痺(しび)れさせていった。

 やがて沙門(しゃもん)の頭に、苦しい声がじわじわと聞こえだした。もうだめだ、もうだめなのだ…という、それは同じ言葉の繰り返しだった。崩れ落ちそうになった身体は眠りの物憂(ものう)い流れの中に溶けだし、目の前にある濁流は土色の巨大な壁のようにも思われてきた。

 もはやあるべき姿と化した水の音は、久遠(くおん)以来、それが大気の一部であったかのように、そのまま悠久(ゆうきゅう)の奥深くに吸い込まれていった。

 突然、苦しい声がひそひそと語る甘い囁(ささや)きに変わった。

 …これでよいではないか。

 これ以上やれば死んでしまうぞ。

 お前はここまで十分につくしたのだ。

 ――その声を聞いているうちに、老沙門の前からは濁流が消え、これまでその身を包んでいた疲労も消えようとしていた。あとはただ二つの目蓋(まぶた)を閉じるだけで一切の失望も不安も、これまでの焦(あせ)りも解消されてしまうはずだった。

 

 どこかで声がした。

 

 とたんに、老沙門は身震いした。

 激しい羞恥(しゅうち)の思いが修行を重ねた身を苛(さいな)めた。沙門は大きく息を吸い込んだ。ひんやりとする朝の空気に混じってどこか魚臭い水の臭いが鼻をついた。

 その瞬間だった――。

 これまでとぎれとぎれに現れては消えていたその方との邂逅(かいこう)の情景がくっきりと浮かんできたのは。

 

 「僕が何を悩んでいるのかなんて…あんたに分かるとでも言うのかい」

 若かった私は物怖(ものお)じせずに答えました。話しかけてきた相手が誰なのかということさえも確かめず、また訊(たず)ねようともせずに、ただ胸のうちの怒りをその人にぶつけたのでした。実際、私は同情などはされたくなかったのです。

 その方は静かに答えられました。

 今ではそれがどういう言葉であったのか忘れてしまいましたが、しかし私がその答えにさらに憤(いきどお)りを覚えたことは確かでした。

 「いや、そうじゃない…僕のは、特別なんです。いったい、あんたがどういう人なのか、僕にはわかりませんが、でも、こんなところにいらっしゃるのですから、恐らくは世間で〔苦行者〕と呼んでいる一人でしょう。そんな人が、ただ宇宙とか神々のこととかを考えてばかりの人が、こんな醜い、どろどろした苦しみが分かるものか…」

 その方の答えはこの時も静かでした。

 …そうなのです。その方はそれから後も、誰に対しても――いつも静かに語られたのでした。それでこの時も私が喋(しゃべ)っているあいだも、落ち着いてそこに座っておいでだったのです。

 「僕ですか。この身なりを見てもうお分かりでしょう。家は豊かで、父の名は遠くマカダ王国にまで響いている商人ですよ。皆が父のことを誉めそやします。それを幼い時からまるで自分に向けられた讃辞のように僕は受け止めてきたのです。いい気持ちでした。でも、もう駄目なのです…僕は自分の本当の姿を知ってしまったのです」

 

 濁流の音。

 …人の声がした。

 

 「家には何でも揃っていました。着る物は全て極上の絹でした。食べ物はといえば、捨てる方が多いくらいでした。それこそ屋敷の裏手には物乞いの列が続き、父は町中から施しをする人として尊敬されていたのです」

 

 濁流の音。確かに人の声がする。

 

 「たとえば、僕が肉を食べたいと、それこそ一言でも言おうものなら下男や召使たちが競って鳥肉や獣の肉、遠く離れた海の獣の肉まで用意しようと大騒ぎになるのです。酒を飲むときはもっとすごくて、金や銀の大きな杯に珍しい外国からの酒をなみなみと淹(い)れ、そいつを友達と一気に飲み干して酔いつぶれるのです。訪れる客の誰もがこれ以上の話はないとばかりに、僕の前でわいわいがやがやとお喋りをするのです…」

 

 その人は黙って、ただそこに座っておられました。

 意気込んで語りかけてくる私を意識するでもなく、そうかといって無視されるというわけでもありませんでした――その方は私が現れる前の静けさの中におられたのです。私の語ることをお聞きになっていないというのではありませんが、耳を傾けて聞きほれていると言うのでもありませんでした。その人はただそこに自然のままにお座りになっていただけなのでした。

 

 濁流の音に混じり、男の声が聞こえた。

 男の声が二つ、三つした。

 

 ――こういうこともありました。何者をも恐れないと思っていた父にも、やはり心配事はあったらしく、ある時、高名のバラモンを屋敷に招きました。噂ではそのバラモンは遠くヒマラヤの奥で修行したお方で、すばらしい霊力を身につけられているというのです。触れずに金貨に穴を開けたり、水の中で何時間も息が出来るばかりか、あの世に行った人々とも直接に話ができるというのです。父の心配は死後の平安でした。そこで父はこう訊ねたのです

 「尊者よ。私ももはや齢(よわい)を重ねました。若いときから身を汗にして働き、どうやら子孫に残す財産も出来ました。この上はさらに善根を積み、願わくば死して後、かの天宮に生まれ変わりとうござりまする」

 この言葉に、バラモンはじっと、穴の開くほど父の顔を見つめました。父はその鋭い目つきにいささか躊躇(ちゅうちょ)しておりました。やがてバラモンは酷(ひど)く悲しそうな表情で首を横に振りました。父は意味が分からずに途惑っておりましたが、恐る恐るお尋ねしたのでした。するとそのバラモンは気難(きむずか)しげに、キワメテ困難ナリ、と呟いたのです。父は哀願しました。

 「尊者よ、この私がいったい何をしたと言うのでしょう。ほかの誰よりも働き、ほかの誰よりも人に親切にしたというだけではありませんか。その私がどうして最期にこうも惨めな思いを味わうわけになるのでしょう…」

 バラモンは答えました。

 「ああ、長者よ。これがあなたの前世の業(かるま)なれば」

 父はなおも哀願いたしました。

 「おお、ならば尊者よ。あなた様の偉大なお力でこの悪しき業(かるま)をお断ち下され。いかようにもお礼を差し上げましょう」

 

 轟々(ごうごう)――。

 水の音に交じって大勢の男の声がする。

 

 「それでは長者よ、」

 とバラモンが言った。

 「お急ぎなされ。家中で一番大きな甕(かめ)に隙間(すきま)なく黄金を敷き詰めるのです。このとき少しでも黄金で出来ていないものがあってはなりません。それでも出来るわずかな隙間には砂金を埋め込むのです。その前で私が祈りましょう。聖なる章句を唱え続けましょう。しかし祈った後はこの甕に触れてはなりませぬ。甕があなたの身代わりに悪業を背負い込むのですから」

 やがて大人が五人も両手をつなげなければ一回りできないほどの胴回りの甕に黄金が投げ込まれ、砂金が流し落とされました。

 

 「――僕のうちは全てがこんな具合でした」

 その人に向かって、このように話しているうちに私の胸に奇妙な思いが湧き起こってきました。

 それはなんともいえない懐かしさでした。

 まだ言葉もよく分からない幼い頃、母の両手につつまれた温(ぬく)もりの懐かしさだったのです。だからと言って、その方が私の話を真剣に聞いておられるとはとても信じられなかったのです。この方はきっと森の中で道に迷った一人の男にただ声をかけられただけなのでしょう。

 いや、それどころか、聖なる修行の場所にのこのこ紛れ込んできた俗人に注意を促しただけかもしれません。それというのも、炎が明るく燃えれば燃えるほど周りの闇がいっそう深くなるように、この方も私が意気ごめば意気ごむほど、ますます沈黙されていったからでした。

 「僕は全てに恵まれていました」

 私にはわかっておりました。この人に話したところでどうにもならない事くらいは。それでもここに座っておられる方にこれだけ話をしただけでもう私の苦しみの半分は消えかかっておりました。ただ肝心の残り半分をどう切り出してよいものやら、新しい悩みが出てきたのです。ひとつには、この時には私がすでに冷静さを取り戻していたからかもしれません。もうこれでよい、このまま静かに屋敷に戻ろうと思いました。

 ところがこの時です。

 急にその方が口を開かれたのでした。

 「――それで?」

 突然、私の両眼に涙が溢(あふ)れました。どうしてそうなったのか、なぜ涙が出てくるのか、私には予想もつかないことでした。私はもはや涙声で、話すことさえできなくなりました。

 「それで…どうしていやなのかね?」

 その人はもう一度お尋ねになりました。私の頭は真っ白になりました。そうなのです。世の中の人たちから見たら私ほど恵まれた者はいなかったのかも知れません。でも私にはそんな生活が恵まれているとか、まして幸福な人生だとはとても思えなかったのです。

 「いやです!」

 私は叫んだのでした。

 

 ――おきまりの乱痴気騒ぎの後でした。

 僕たちはぐでんぐでんに酔っ払ったまま、そのまま寝入ってしまったのでした。真夜中過ぎだったと思います、喉が渇いて、とても息苦しくなり、僕は眼を覚ましました。気がつくと、僕の肩から腕にかけては、反吐(へど)がべっとりと付いて、汚れ、異臭をはなっておりました。辺りにはいつもの仲間たちが延びるように倒れていました。臭くてどうにも胸がむかつき、気持ちも悪かったので、起き上がるそのまま庭園に降りました。

 池の水で体を洗いました。

 肩を、腕を、そして顔を洗ううちに意識がはっきりとし、その時に部屋の明かりが全て消えていることに気がついたのです。それで、庭から戻ると自分で一本の灯に火を点(つ)けました。酔いつぶれた者たちの姿が壊れた石像のように浮かび上がりました。

 僕はふと悪戯(いたずら)をしてやろうと思い、手に燭(しょく)を持ったまま、すっかり寝入り込んでいる仲間の顔を一人一人照らしはじめたのです。これで明日の朝には物笑いの種が出来ますし、もしもそれで眼を覚ました奴がいたらそれこそまた飲みなおしたらいいのですから。幸いすぐ足下に、いつもからかっては笑い者にしている太っちょのヴィタが、だらしない寝息をたてて横になっているのに気がつきました。ヴィタは仲間内でも一目置くほどの剽軽者(ひょうきんもの)でした。

 (ヴィタか、こいつはいいや。なんと言っても幼馴染(おさななじみ)だから、何かをしたところで笑い飛ばせるあいだだもの…)

 僕はヴィタの顔に炎を近づけました。ところが、その顔を覗(のぞ)き込んだ時、思わず手に持った灯を落としそうになったのです。揺れ動く炎に照らし出されたヴィタの顔は苦しそうに眉根を寄せ、目を堅く閉じていました。そして何かを噛みしめるように唇を堅く閉じ、悲しみと怒りを決して外には漏らすまいという強い決意を表わしていたのです。昼間、みんなの前で見せるあの陽気さはどこにも見当たりませんでした。一緒に遊んだ子供時代の楽しい思い出が、今となっては同い年の主人から受ける悔しさと苦痛の基(もと)になっているのだという事実を悟られまいと必死に耐えている顔でした。

 僕は思わず眼を逸(そ)らしました。

 (きっと悪い夢でもみているのだろう。こんな酷(ひど)い顔は初めてだ。)

 僕は相手を変えようと思いました。向こうでだらしなく酔いつぶれているもう一人の男、パンチェラの顔を照らしました。パンチェラは道化でした。この男は、宴会の場になると絶妙の皮肉と諧謔(かいぎゃく)とでいつも座の人気者になる気のおけない奴でした。僕に対するときはいつも卑屈すぎるほど遜(へりくだ)った態度で、この宴会でも酔いつぶれるまでは、若様、若様とまるで下へもおかぬ扱いでした。僕はその時のことを思い浮かべながら、どれどれとこの面白い男の顔を照らし出しました。その時、僕はなんともいえない複雑な思いを抱いたのです。そこには誰にも心のうちを覗かせない強い意志と、不気味な傲慢さとが寝顔の相に滲み出ておりました。何重にも包んだ真綿の奥深くにそっと隠してあった鋭利な刃物の先がふっと見えたように、僕はこの道化の本心を垣間(かいま)見たような気がしたのです。

 僕は、まるで神々の隠された秘密を探り当てる神官のように、この大きな部屋いっぱいに雑魚寝(ざこね)している男女の顔を次々に、しかし恐る恐る照らしだしました。頑固で強情な顔。不実な表情。無知と愚かさ。傲慢と卑屈。さまざまな男女の寝顔が闇の奥から明かりの輪の中に次々に浮かんでは消え、消えてはまた現われてきました。そしてそのどれもが一様に悲しそうな表情をしておりました。

 僕は気が違ったにちがいないと思いました。

 これは夢なのだと思ったのです。

 誰もが寝静まった真夜中に、こうやって他人の寝顔を覗き回る行為そのものが現実離れした光景ではないか。それは墓場を一人でさ迷い歩くことと同じくらいに不気味なことなのだ…。こう、無理にも思い込もうとしました。もしもこの時、冷たい夜の風が頬を撫でなかったならば、僕はそのまま、また寝入ってしまい、朝になってきっと悪い夢を見たと大騒ぎしたことでしょうが、風のおかげですっかり眼が覚めてしまったのです。

 僕は愛するアハルヤの姿を探しました。

 美しいアハルヤ。

   夕方、宴の始まる前に僕とアハルヤは人気のない庭を散策しました。僕はアハルヤの手をひいて、真っ赤な花びらの零(こぼ)れおちる木の下にすわりました。二人は唇を合わせ、頬をすりよせ、首筋から耳たぶまで愛撫(あいぶ)しあいました。僕はアハルヤの豊かな胸に顔を埋め、やわらかい絹の下に手を差し入れると体の内より溢れ出る液の温もりを楽しみました。やがてアハルヤの口から吐息が漏れ、やわらかい腕と滑(なめ)らかな手が強く僕を抱きしめました。堪りかねたように腰が大きく揺れ動き、そのつど首や手足の飾りが微妙な音をたて、二人はますます夢中になりました…。暗い部屋の隅にアハルヤは侍女と横になっておりました。侍女はだらしなく口を開け、涎(よだれ)をたらして寝息を立てていました。僕は思わずくすっと笑い、それからお目当てのアハルヤに、この大切な宝物に、そっと光を投げかけました。僕はこれでこの地獄から救われたと確信したのでした。しかし、光に浮かんだのは、昼間、木の下で戯れた時のあの明るく美しいアハルヤではありませんでした。それは神経質そうな苛々(いらいら)した表情を、美しく整った青白い顔の上に描いたアハルヤの顔だったのです。眼を閉じたその顔は血の気を失い、まるで死んだ者のように凍っていました。

 ――僕は恐怖のあまり、おもてに駆け出していました。

 

 どこをどう歩いたものか…。

 あの時、私は何時間も森の中を歩き続けた。ああ、厭だ、厭だ、と、ぶつぶつ呟きながら闇に閉ざされた木々の間をうろつき回っていた。その時、あそこで、その方に出会ったのだった。その人は、友よ、と呼びかけてくれた。〔坊ちゃん〕や〔若様〕ではなく、ただ〔友〕という新鮮な呼び方で私に声をかけてくれたのだ。

 それから私が何も答えないうちに、ここには何も苦しいことはないと仰った…。

 

 濁流の音に混じって灌木(かんぼく)の陰(かげ)から、

 「いたか?」

 と、今度は男のはっきりとした声で確かめ合うのが聞こえてきた。

 どうやら大勢で人を探しているらしい。老沙門はその声が灌木とその周りの草を掻き分けて自分の方に近づいてくるのがわかった。

 沙門は思った――

 この人たちの探す相手は自分でない、このまま眼を瞑ったままでいよう。

 ――沙門は疲れていたのだ。

 この河の岸辺で、こうやってただ眼を閉じるだけで、若かりし頃の自分と生涯の師であるあの方、仏陀との最初の出会いが鮮明に思い出されてきた…。

 (あの時、私は森の中に何を期待していたのだろうか)

 沙門がそう思ったとき、だしぬけにバラモンの祈りの言葉が頭の中に響いてきた。

 

 …千年を経たであろう重々しい聖句が独特の抑揚(よくよう)を伴った節回(ふしまわ)しをもってバラモンの口から発せられました。頭の芯(しん)をも貫くような祈りのリズムが参会者を陶然と酔わせる中で、父は恭(うやうや)しく両手を床につけると、額をその中に埋めんばかりにひれ伏しました。僕はその傍(かたわ)らで、同じような格好で祈り続けました。バラモンが何かを告げるたびに目の前に置かれた新しい甕(かめ)に金貨が投げ込まれます。

 この甕は先に用意した大きな甕の周りに柱のように並べてありました。屋敷の召使たちから選ばれた者だけがこの祈りの場に参列しておりました。祈りの章句のたびにこの者たちは用意された甕にやつぎばやに金貨を投げ込むのです。その瞬間、ざあっという驟雨(しゅうう)のような音がいっせいに響き渡ったのです。そのとき、甕(かめ)の口からはずれた金貨がぱらぱらと小石のように床に落ちると、きぃーん、きぃーんと奇妙な音を立て、くるくると転がり、倒れました。

 

 老沙門はそおっと眼を開けた。

 話し声が近づいてきた。

 相当の人手を繰り出しての人捜(ひとさが)しらしい。太い男の声に纏(まと)わりつくように甲高い女の声も混じって聞こえる。てんでんばらばらの声が全体として大きなうねりを作りあげていた。そうだ、と沙門は思った。

 (あの連中に訊ねてみよう。きっとこの辺りの村人に違いない。この河の渡し口がどこにあるのかくらい教えてくれるだろう)

 村人の声は老沙門がその中心であるかのように円を縮めてきた。小枝がそよいだ。声はすぐそこまで近づいてきた。先頭を歩いて来た男が目の前にいる老人をみて驚いて棒立ちになった。みるみるうちに村人が沙門の周りに集まってきた。

 「この人はなぜこんな襤褸(ぼろ)を纏(まと)っているのだろう」

 「ふん。どうせ乞食だろう」

 「バラモンじゃないのか」

 「いや、苦行者らしいが…どうも森の中にいるバラモンとは違うようだな」

 「バラモンよりずっと明るい感じだわ」

 ざわめきが一頻(ひとしき)り続いた。沙門は人の壁のなかにしばらく黙って立っていた。痩(や)せぎすの頭を丸めた老人がそこに立っているだけだった。着ている物は襤褸(ぼろ)だけだ。しかしこの老いたる人の、知性に満ちた穏やかな眼差しで見つめられると村人たちのだれもが大きな威圧感を覚えた。いつしか彼らは沙門の静けさの前に自然に口を噤(つぐ)まざるをえなくなっていた。黙って見詰め合っている村人の後ろから押し出されるように、長い鬚(ひげ)をもった、いかつい赤茶けた顔に、醜く染みの浮き出た大柄の老爺が現れた。

 村の長(おさ)だった。

 「バラモンのお方とは違うようじゃな」

 長はおずおずと訊ねた。

 「バラモンではありません。私は仏陀ゴータマの弟子です」

 村人の間に新しい響(どよ)めきが起こった。畏(おそ)れと疑いの顔つきでひそひそと互いに顔を寄せあった。

 〈ぶつだ〉だって?と一人が囁いた。

 〈ぶつだ〉がこの世に現れていたのかい、ともう一人が訊いた。

 馬鹿いうなよ。ぶつだが出ていたらもっと良くなってるさ、と揶揄(やゆ)する声がした。

 でもちゃんと仏陀と言ったぜ。後ろの方から反論が出た。

 ねえ、ブッダのお弟子様というのはぼろを着ているの、と女が無邪気に尋ねた。

 にせものよ、きっと、と訊かれた別の女が答えた。

 「――その仏陀様とやらは…」

 長が躊躇(ためら)いがちに訊ねる。

 「まさか、昔、滅ぼされたというシャカ族の、シッダルタという王子様のことでは」

 そのように伺っております、と沙門は手短に答えた。長は黙った。村人の目がいっせいに長に集まった。なんだ、長爺(おさじい)、しってるのか。シッダルタって、誰だ。ちょいと、ブッダっていうのはお話の上だけじゃないの?

 うるさい!

 長は大声を出して周りの音を消した。それからぼそっと呟いた。

 本当にいるのじゃ、あんなことが出来たのは仏陀様だったからだ…。

 何かを聞こうとした村の男に、長は無言のまま何度も頭を振った。老沙門は当惑している村人を見ているうちに嘗(かつ)て経験した同じような光景を思い出していた。

 (そうだ、あれはジェータの森の中だった…)

 

 「ほほほ。シッダルタ様、まあ、みなさま、初めまして。何をそんなに驚いておいでなのかしら。」

 仏陀の教えを聞く集いの中に、断りもなく、ずかずかと入り込んできたその女は勝ち誇ったように笑い声を上げて一座のものを睥睨(へいげい)しました。誰が見てもこの女が春を鬻(ひさ)ぐ者であることは明らかでした。ごてごてと塗りたくった顔で媚(こび)を含んだ甘ったるい声で仏陀にこう話しかけてきたのです。

 「ねえ、ありがたい教えも結構ですけれどね、このお腹の子はどなたが食べさせてくれるのかしら?あたしとシッダルタ様の子ですものね」

 そう言いながら、女は両方の手で丸くはちきれんばかりに膨(ふく)らんだ自分のお腹を撫で回しました。

 仏陀の子?  私たちはお互いに顔を見合わせました。勿論、そんなことは絶対にあるはずのないことでしたが、ほんの一瞬、もしかしたらという微かな動揺が私たちの心におきたのでした。急に静かになった周囲を睨(にら)みつけながら、女はさらに甲高い声をあげた。

 「おほほ。みなさま、驚きのようね。でも、これは本当の話よ。あたしだって、こんなところでお腹の子の父親に恥をかかせたいとはおもわないけどさ、でも、産まれてくる子が父なし子だったら可哀想。わたしだって、母親ですものね。それなのにこの人ときたら、いつまでも恍(とぼ)けてばかりいるんですもの。なにさ、わたしを抱いた時には、可愛いやつだとか何とかうまいことばかり言って、子供が出来たとたんに、このざまだよ。嘘だと思うんだったら、そこに偉そうにして座っている男に訊くがいいさ!  ねえ、あ・な・た。」

 私たちは師に対する女の悪態が早く終わるように苛々(いらいら)しておりました。ところが仏陀は静かにお座りになったままなのです。実はこういうことはこれまでもたびたび起こっておりました。そのたびに師は機知にとんだすばらしい弁舌で相手を屈服させてきたのでした。たとえば、ある時には怒りに狂ったバラモンが集いに怒鳴り込んできたことがありました。

 バラモンの罵声を一通り聞き終えた仏陀は穏やかな声で一言だけ、あなたにお客がきたらどうするだろう、とお聞きになりました。

 「なにっ?」

 と、そのバラモンは聞きかえしました。仏陀はさらに訊ねました。

 「お客がきたら、あなたはご馳走をするだろうか」

 「そ、それくらいはするわい。来た客にご馳走ぐらい  」

 バラモンは仏陀の真意がわからずにどぎまぎして答えました。

 「それでもその客がせっかくのもてなしを受けなかったら、そのご馳走は誰が頂くのだろうか」

 仏陀は静かに尋ねました。

 「その時は…うーん、その時は仕方がないから、わしらが食べるしかないではないか」

 その言葉に仏陀はにっこりと微笑(ほほえ)まれました。

 「それでは私もあなたの罵(ののし)りを受けずにおこう。それは持って帰りなさい」

 だからこの女に対して、仏陀がどう言われるのか、私ならずとも弟子の誰もが固唾(かたず)を飲んで見守っておりました。ところが仏陀はまるで女の言葉に鞭打たれたかのようにただ黙っておられるだけでした。私たちには仏陀の沈黙の意味が測りかねていたのです。

 女は自慢げに鼻先をつんと上げ、一歩、また一歩と仏陀のお座りになられているところに近づいていきました。弟子の間から微かなざわめきが起こりました。最初、ざわめきは女への非難だったのですが、女が仏陀に近づくにつれ、その非難は女に対するものから次第に仏陀その人へと変わっていきました。それでも仏陀は黙っておられるだけでした。女は勝ち誇ったように高らかに笑いながら、周囲を威圧しつつ、ふんぞり返るように歩いていきました。

 ――とその時、女の足が何かに躓きました。

 女の体が急に前のめりになったのです。

 すると突然、私たちの目の前で自慢の腹が消えてしまったのです。それから鈍い音を立てて女の腹部から木製の半球がごろごろと転がり出てきたのです。

 この光景に弟子たちの怒りが頂点に達し、みなが起ちあがるや、その女に殴りかかりました。

 この時、仏陀が初めて声をあげられたのです。

 「やめよ!」

 女の悲鳴が弟子たちの中に消えました。

 

 鳥が鳴いた。

 長(おさ)は、ちらっと鳴き声のした木を見た。鳥の姿は見えなかった。ここかしこで同じ鳥の鳴き声がしたが、姿はやはり見えなかった。長は沙門に話しかけようとしたが、沙門の厳粛な表情の前に口を噤(つぐ)んでしまった。しかし沙門のほうがその視線に気がついた。

 「何か…」

 と沙門は訊いた。長は焦(あせ)るように早口になった。

 「ぜんたい、あんたはここで何をしていなさる」

 「バラナシイへ行きたいのです」

 沙門の落ち着いた返事に長はいらついた。

 「お気の毒さまだ。ほれ、ご覧の通りのありさまだ。バラナシイどころか、あんたにはこの河を渡ることさえもできめえ」

 しかし沙門は信ずるとおりに言った。

 「どうしても行きたいのです」

 長は鼻で笑った。その時、女の声が――若い女の声が草の中からした。長の窪(くぼ)んだ目が大きく見開いた。

 いたぞ!

 村人たちがにわかに色めきたった。

 「あっちだ!」

 「今度こそ捕まえろ」

 「逃がすな!」

 真っ先に鎌や棒を持った男たちの群れが走り出した。次に村の中堅とも言うべき初老の男たちが後を追いかけた。最後にべちゃくちゃ喋っていた女たちがついていった。

 ――二人の老人だけが残った。

 村人の声が遠ざかるにつれ、濁流の音がふたたび二人を包み始めた。どくん、どくんと胸の鼓動が耳を刺した。長はゆっくりと腰を落として、その場に屈(かが)んだ。

 沙門が訊(たず)ねた。

 「何かあったのですか」

 「あんたにゃ関係ない」

 長の言葉はそっけなかった。沙門は空を見上げた。大きな鷲(わし)が一羽、ゆっくりと円を描いている。鷲は風をつかむとゆっくりゆっくりと上にあがっていった。

 (そういえば、あの時、〔鷲の山〕と言うところで、仏陀は妙なことを仰った…)

 

 そこは誰もが〔鷲の山〕と呼んでおりました。山全体の形が鷲が羽を広げているように見えたからです。

 仏陀はこの山の中ほどにある大きな岩の上によくお座りになり、さまざまなお話をしてくださいました。しかしいかに仏陀とて、お齢(とし)を召されますとしばしば長老アーナンダ様の介添えを必要とされました。そんな時にはどなたも質問などはなさりません。誰もがただ仏陀のお体だけを心配していたのです。

 

 鷲が鳴いた。鷲は二度も三度も上空から大きな弧を描きながら降りてきては、またもとの高さに舞い上がっていった。

 

 「友よ」

 その時、仏陀は、誰も訊ねていないのに自ら語られ始めました。

 「サーリプッタよ、どうしてお前は聞こうとしないのだ」

 私たちは思わず顔を見合わせました。サーリプッタと呼ばれたお方はずいぶん前にお亡くなりになっていたからです。先生、とアーナンダ様がお訊ねになりました。先生にはお亡くなりになったサーリプッタ様がお見えになるのでしょうか。

 「どうしてお前たちはこの世界の本当の姿をしろうとしないのだ」

 仏陀はアーナンダ様にお答えになったのでしょうか、それとも私たちには見えていないサーリプッタ様にお訊ねになったのでしょうか。

 「先生、私どもはすでに目にみえるものが実体ではなく、全ては関係しあって成り立っているということを伺いました」

 アーナンダ様がこうお答えになると、

 「それにも捉われてはならないのだ」

 仏陀は冷たく言い放されたのでした。

 「私どもの理解の浅さをお許しください。しかしこの教えさえもいまだ分からぬ者が多いのです」

 アーナンダ様はついこのようにお述べになりました。私にはそれは口答えのようにも思われたのですが、アーナンダ様はもともと仏陀のお身内であられたのでそのような言い方も許されたのでしょうか。

 「私は自らを仏陀と呼んだ…。どうしてそう呼んだのか、お前は仏陀になりたいと思わないのか」

 このお言葉に私たちは驚愕(きょうがく)しました。仏陀は後にも先にもこのお方だけなのですから。

 「先生はお疲れです。どうして私どもが仏陀になれましょうか」

 アーナンダ様はまるで今お聞きになった言葉が恐ろしいものであるかのように慌てて打ち消されました。

 「私の命はいつまでも続くものではないのに、お前たちは自分が何者であるのかさえもわかろうとしないのか」

 仏陀はまるで叱るように仰りました。

 

 「…で、どうなさる?」

 村の老人がもう一人の老人である沙門に訊ねた。

 「どうする、とは…」

 沙門は怪訝(けげん)そうに聞き返した。

 「ええい、じれったい。あんたのことじゃ」

 長(おさ)は沙門を指差しながら言う。ああ、と沙門は微笑んだ。

 「私は今日中にバラナシイに行きたいのです」

 長は再び呆れた顔で沙門を見つめた。それから軽い溜息をつきながら

 「頑固なお人じゃ…。商人でもないあんたがなぜそう急ぎなさるのか、とんと見当もつきませんわい」

 沙門は答えなかった。濁流の傍らで、一人は突っ立ったまま、もう一人はあいかわらず座り込んだままの姿勢で水の音に包まれていた。

 「――どうやって、渡るつもりじゃ…」

 長がぽつりと聞いた。

 「やってみるしかあるまい」

 「この中を歩くのか」

 沙門は頷いた。長は声を立てて笑った。沙門は長の返事などどうでもよかったらしく、そそくさと衣を脱ぎ終わると、それを首から提げていた袋の中に丸め込み、今度はその袋を頭の上に載せ、紐を顎のところでぎゅっと結んだ。長はふんと鼻を鳴らして、

 「溺れるぞ」

 と言った。その時は、と沙門は口を開いた。

 「――やむを得まい」

 「馬鹿な…、死ぬと言うことだぞ。」

 長は怒ったように言った。沙門は何も言わなかった。長はさらにこう言った。

 「それほどの急用があるのか」

 「ある」

 今度は長が黙った。老沙門は長に合掌すると、何の躊躇(ためら)いもなく濁流の方へ歩きだした。

 ――これだから仏陀の弟子どもは…。どうせ途中から戻ってくるに決まっている。こんな濁流を行けるわけがない。

 河は初めから白い牙を向けて沙門に襲い掛かってきた。沙門は巧みにその牙をかわしては少しずつ河の中ほどに向かって行った。足の裏で川底の石を一つ一つ確かめては恐る恐る一歩を進めた。水の勢いが腰の上にまで及んだときだった。沙門の足は小さな石の上で安定を失った。どうやら浮石だったらしい。身体が川底にすいこまれていくのがわかった。とたんに沙門は自分が猛烈な勢いで流されていくのを感じた。鼻につんと激痛が走った。頭の芯が麻痺して、やがて暗くなった。

 

 暗闇の中でその人がお訊ねになりました。

 「お前が見たもの、それを語るがよい」

 「僕が見たもの…」

 部屋の隅にアハルヤは寝ておりました。微かな寝息をたてて寝入っているその顔を灯に照らし出したとき、僕は思わず声を呑みこみました。アハルヤの寝顔は…死んだ者のようでした。その瞬間、僕は、もしも自分がこのまま死んでしまったら…と想像したのです。すると、つい先ほどまでの華やかな生活が急に虚しく感じられてきたのです。そればかりか、酔いつぶれて寝込んでしまった仲間の姿がまるで死体のように見えてきました。僕が見たのは生きている死体だったのです。

 風に小枝がそよぎました。僕は改めて自分の前におわします方のお顔を仰ぎました。

 「死が怖いか」

 僕はあせって答えました。

 「は、はい。自分がどうなるのか分からないのが怖いのです」

 するとその方は穏やかな口調で、こう語られました。

 「死はすべての者に差別なくやってくる。富んでいる者にも、貧しき者にも、強者にも、弱者にも、男にも女にも、老いたる者にも,若き者にも、誰にでも分け隔てなくやってくる」

 「僕にも…」

 その先は言えませんでした。死は僕にもやってくるのだとわかった時、僕の体に鳥肌がたちました。するとその方はちょっと微笑まれました。

 「私にも、やがて死はやってくるのだよ」

 先生!僕は思わずひれ伏して叫びました。

 「僕は  まだ、死にたくはありません。でも、いつかは死ぬことでしょう。ですから、」

 僕はその人の顔をじっと見つめました。半ば伏せられていたその方の眼が初めて僕の顔を見据えました。僕はごくんと唾を呑みこみました。

 「ですから、僕に死後の世界がどうなっているのかを教えてください。本当のことが知りたいのです。死んだら僕はどこに行くのでしょうか、天宮なのでしょうか、それとも恐ろしい地獄なのでしょうか」

 その方はゆっくり頷かれました。

 「よく見ることだ。死をよく見れば恐怖はなくなる。死後の世界などない。そこには生があるだけだ」

 

 暗くなった頭の芯のずっと奥のほうから、幾度も幾度も呼ぶ声がした。突然、目の前が明るくなった。白い波が沙門の横顔を思い切り叩いた。

 「おおーぃ、大丈夫かぁ」

 岸の上から狂ったように長の声が聞こえる。

 「その木を、その木をはなすなよおぉ。すぐに流れが大きく曲がるから、その時に岸に上がるんだぞお!」

 いつのまにか、沙門の腕には流木が抱かれていた。濁流は沙門を木の葉のように翻弄し、やがて大きな曲がり角にさしかかった。

 鷲が上空に大きな輪を描いていた。

 

 アーナンダ様が仏陀にお訊ねになりました。

 「先生。どうして私どもが仏陀になることが出来ましょうか」

 仏陀がお答えになりました。

 「仏陀になるには言葉の束縛を取り去る事だ。言葉は今まで経験してきたことだけしか表せない。経験なき仏陀の知恵の深さを伝える言葉はない」

 アーナンダ様の表情には明らかに困惑が浮かんでおりました。

 「それでも、先生はこれまでは言葉をお使いになって説明されてこられました。それらは仏陀の知恵ではなかったのでしょうか。もしそうでなければ、先生は私どもに嘘をお述べになったことになるではありませんか」

 アーナンダ様のいささか非難めいたお言葉に私たちは鼻白みました。この方は才知溢れるお方でしたので、時々、このように言わずもがなのことを仰ることがありました。

 仏陀はその言葉にもいささかも表情を変えることはありませんでした。

 「巨大な邸宅があったとしよう――」

 仏陀の語りは今思い出しても奇妙なお話でした。

 四方を塀で囲まれた広大な屋敷が火事になったというのです。そこには門が一つしかなく、煙に追われて主人も召使も慌てふためいてその門から外へ出て行きました。ところがどうしたわけか、大勢いた子供たちが一人も出てこないのでした。主人が真っ青になって燃え盛る屋敷の中を覗きますと、子供たちは無心になって遊んでいたというのです。逃げ延びた大人たちがいくら大声で呼んでも、これまで火事というものを経験したことのない子供たちにはその恐ろしさがまったく分からないのでした。

 そこで主人は一計を案じました。

 「子供たち。おもてには鹿や山羊(やぎ)や牛の引く車があるよ。車には誰でも乗って遊べるんだよ」

 この呼びかけに子供たちはそれまでの遊びをいっせいに止めて、大喜びで門から外に出てきたと言うのです。

 「――どうだろう、主人は嘘を言ったことになるだろうか」

 仏陀は静かにアーナンダ様にお聞きになりました。

 「いいえ、その場合には、やむをえないのではないでしょうか。もし主人がそう言わなければ子供たちは助からなかったでしょうから」

 当然だと言わぬばかりにアーナンダ様は仰りました。

 「それならば、私がこれまで話してきたことも嘘ではあるまい」

 仏陀こう言われた時、アーナンダ様の顔がはっと変わりました。

 「それでは、子供と言うのは――」

 「身近に死と言う炎が近づいてきているのに、つまらない知的な、あるいは霊的な遊びに夢中になっていたのがお前たちではないか。世界が何から出来ているのかとか、本当の自分とは何かとか、あるいは死後の世界だとか、人間の運命とかいう、答えのないものを夢中になって捜し求めてきたのがお前たちの姿ではないのか。私が全ては変化し、全ては関係によって成り立っていると教えると、今度はそれを金科玉条にしてあたかも真理のようにもてあそんできたのがお前たちの姿ではないか」

 しんとした厳粛さが一座を覆いました。アーナンダ様の唇がわなわなと小刻みに震えているのが分かりました。

 「仏陀とは生と死の真実の姿を思い出した者をいうのだ。生は絶え間なく死を迎えている。今のお前は先ほどのお前ではない。常に変化をすることが変わらざる法則なのだ。死は次の瞬間には生を迎えるのだ」

 

 「もっと、もっと岸によれ!――あ、あぶない!」

 長の叫びが終わらないうちに、流れてきた大きな木が沙門の背をしたたかに打った。沙門は思わず腕に抱えていた木を離した。濁流がふたたび沙門を呑みこんだ。長の叫び声が聞こえなくなり、急に大きな車輪の回転する音が耳元で起きた。途端に、誰かに頭をぐいと下向きに押されたように巨大な力が加わった。悲鳴をあげる前に水が口の中に雪崩れ込んで来た。ぐるぐると沙門の体は水中で回りだし、水に揉まれてうちにやがて気を失ってしまった。霞んではっきりしなくなった意識の中に小さな点が光った。点はだんだん大きくなり、光の洞窟になった。それを見ているうちに沙門は自分の身体から苦痛が消えていくのを感じた。かわりに和やかな気分が全身を満たしていくのを覚えた。光の洞窟が自分を呼んでいた。

 ――あの光に入ろう…。

 沙門がこう思った時、洞窟は泣きじゃくる若者の顔に変わった。それは若い頃の沙門の顔だった。若者は泣きながら許しを乞うていた。

 ――もういいではないですか。

 老沙門は取り乱している若い自分に驚いた。

 ――何をうろたえている!

 老人は若い自分を叱った。だが、若者は叫ぶのを止めようとはしなかった。

 ――この人は努力をしてきました。もう許してあげてください。僕の犯した過ちを十分に償ってくれました。

 誰に向かって叫んでいるのか、必死になって哀願する声が老沙門の体に響いた。沙門はその時、老いてしまった自分の顔を闇の中空に見た。けれどもそれはなんと悲しげな顔なのだろう。それは死を迎える老人の顔だった。突然、凛(りん)とした声が闇を裂いた。

 ――死を見ることは生を生きることだ。

 闇に現れた仏陀が手を振りかざして中空の顔を叩き壊した…。


後編

 「…あなたは先ほど、ここには厭なことはないと、そうおっしゃいましたね。どうしてここには厭なことがないのでしょうか」

 その方にうちとけた僕はおずおずと尋ねました。その方はゆっくりと僕のほうをごらんになられました。穏やかな眼差しでした。

 「あなたのように、そうやっていれば神秘的な境地に達するのでしょうか。そうすれば厭なことはなくなるのでしょうか」

 その方は静かに微笑まれました。包みこまれるようなやわらかな笑顔でした。

 「神秘的なものなどないのだよ」

 僕はびっくりしました。

 それではこの方はいったい何のためにこうやっておられるのか…。

 「でも、それでは…」

 その方は、わかっているよと言わぬばかりに頷かれました。

 「ヤサよ」

 と言う声に、僕は、は、はい…と答えるだけでした。

 「お前の心はどこを向いていたのだろう。父の姿を追い、周りの取り巻きからの世辞や追従を受け止め、愛しい女の肉に触れ、その匂いを楽しんできただけではないかね」

 僕は黙るしかありませんでした。この方は何を言いたいのだろうかという不安と、それがどうしたのだという反発が同時に起こりました。

 「お前の心はいろいろなものをみようとさまざまに乱れ、あちらこちらに散らばってしまったのだ」

 僕の心が、そんなふうに動いていたとは…。

 「だが、お前は一度も自分の中を見ようとはしなかった」

 自分の中?

 「心をうちに向けてごらん。そうすればその奥にどうしようもない思いこみがあることがわかるだろう」

 どういうことでしょうか…。僕にはどういう思いこみがあるというのでしょうか。

 「それは、愛するものを失いたくないという嫉妬となり、ほしいもの全てを手に入れたいという欲望にもなる。人々から賞賛をあびたいという気持ちに変わることもあろう。これが思いこみだ」

 それではそういう思いこみを無くすように修行すればよいのでしょうか、と僕はわかったように答えました。

 「そうではない」

 とその方はきっぱりとおっしゃられました。

 「そうではなく、自分の心がそういうものであるということを完全にわかることなのだ。そうすればそのような心で生きていくことがどれほどの苦しみであるかがわかるだろう」

 人生が苦しみだということ、そんなことを知ってどうなるのでしょうか…。僕はわけがわからなくなりました。

 「それではお前は、何が苦しくて厭だ厭だと叫んでこの森に逃げてきたのだろう」

 そうでした、僕はなにかが苦しくて厭だ厭だと叫びながら夜の表に駆け出したのでした。

 「苦しがっていたのはお前の心なのだよ。お前の心は自分の思い通りにならない現実に苦しんでいたのだ。苦とは目の前に現われる現実を思い通りにしたいというお前の思いこみから生まれたのだ。お前の心が落ち着き、目の前の現実が変わっていくにつれ、その苦しみが消えていったのだ」

 確かにこの方はしばらく話しかけられただけでしたのに、あれほど苦しんでいた僕はもうどこにもおりませんでした。

 「あなたは…どなたさまなのでしょうか」

 僕は自分の心が明るくなっていくのを感じました。

 

 誰かが体をひっぱっている。

 やがて、柔らかい草が頭に当たり、それから徐に上半身が水の中から土の上に引き上げられていく感触が伝わってきた。足の皮膚に砂やら小石やらが引っかくような感じがしたとき、沙門を引き摺っていた手が身体から離れた。

 遠くで鳥が鳴いた。

 幼い女の声が頭の上から聞こえてきた。

 沙門は自分が生きていることを知った。首から提げていた袋が枕代わりに使われていた。沙門はうっすらと眼を開けた。少女の顔が真ん前にあった。沙門は身を横たえたまま、にっこり微笑んだ。

 「ありがとう。命拾いをしたようだ」

 沙門はへとへとになった体を起こそうと試みた。だが、体はぐったりと伸びきったまま、河原にのめり込んだかのように動かなかった。両腕には力が入らなかった。

 「すまんが、体を起こしてくれないか」

 少女は言われるままに沙門の体を支えた。それは妙に手馴れていた。沙門はどっかと座り込んだ姿勢で、改めて少女にお礼を言った。少女はおずおずと沙門の顔を覗いた。

 「ありがとう」

 それが自分への感謝の言葉であるとわかった時、少女の顔がぽっとあかくなった。

 「名前を教えてくれるかな」

 少女は緊張しているのか、黙っていた。沙門はにこっと歯を見せた。

 「おや?命の恩人の名を訊ねてはいけないのかな」

 沙門が優しい口調でもう一度訊ねると、少女は羞恥(はにかみ)ながらもおずおずと答えた。

 「ローヒニイ…」

 「ローヒニイか、本当にありがとう」

 少女は無表情にこくんと頷いた。沙門はさらに訊ねた。

 「ところでローヒニイ、ここからバラナシイまでは遠いだろうか」

 「バラナシイ…」

 少女は頭をかたぶけた。

 「そうだ、バラナシイだよ。どっちだろう」

 「どっち?…」

 少女は沙門の言葉を繰り返した。沙門は苦笑した。

 「街だよ、大きな街だよ」

 急にローヒニイは自分の指を河の反対側に向けて指した。それを見た沙門の顔に明らかに落胆の色が浮かんだ。

 「…結局、河を渡れなかったわけか」

 沙門が溜息混じりに呟くと、少女は不意にはっきりした声で言った。

 「いかだ、あるよ」

 なに?沙門はローヒニイの指す草叢に目を投げた。まだ体はふらふらしているようだったが、ともかくも立ち上がった。沙門が立ち上がると少女は転がるように岸辺の草叢に向かって駆けていった。沙門はよたよたとその後を追った。大きな木の根元に朽ちたような筏が無造作に捨ててあった。

 「ないよりましだ」

 沙門はしかし明るい表情でローヒニイに言った。

 「ありがとう。用事が済んだらもう一度戻ってこよう」

 するとローヒニイは人懐っこい顔で叫んだ。

 「ほんと?もう一度くるの…」

 沙門も思わず微笑んだ。

 「ああ、本当だよ。お家はどこかな」

 少女は無造作に指さしたまま

 「あっち…」

 とだけ言った。沙門はその顔を覗き込みながら優しい声で尋ねた。

 「何という村かな」

 そのとたんだった。ローヒニイの目が恐怖に怯えた。村という言葉がこの少女に何かを思い出させたことは確かだった。少女は泣き出しそうな顔に変わると、少しずつ沙門の前から後ずさりし始めた。沙門は慌てて手を横に振った。

 「違う、私は村の者ではない!」

 少女にはもはや聞く耳を持たなかった。早口に喚きながら木切れといわず、小石といわず、手に触れるもの全てを沙門に投げつけだした。沙門は両腕で自分の顔を覆った。少女はいよいよ恐怖に顔を引き攣らせ、興奮を増して無抵抗の沙門に投げつけてくる。そのうちに手元に小石がなくなったらしく、新しく石を拾い上げて投げつけようとした 

 「やめなさい!」

 沙門の一喝に、ローヒニイの体が一瞬止まった。すると急にへなへなと崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。それからいきなり、声を立てて泣き出した。

 ――村人が追いかけていたのはこの娘だったのか…。

 沙門は泣き喚いている少女のそばに屈みこんだ。

 「どうして、お前を村の人は追いかけるんだね」

 小刻みに肩を震わせながら、ローヒニイは頭を何度も振った。

 「わかんない…」

 沙門はもう一度訊いた。

 「ローヒニイはどうして逃げるんだね」

 するとローヒニイは顔を上げて、はっきり答えた。

 「恐いよ。みんなでおれを捕まえようとする」

 沙門は驚いて聞き直した。

 「みんなで?」

 その言葉に、おどおどした目つきで、少女は答えた。

 「そう。村の人…みんな…」

 わからなくなった沙門はつい声を発した。

 「なぜだ。なぜ、そんなことを…」

 しかしその沙門の問いに答えたのは背後からの声だった。草叢(くさむら)の陰(かげ)から沙門を追いかけてきた長が姿を現した。

 「―そいつはな、道の人。…あんたをこう呼ばさせてもらうよ。そいつは、母親を殺しちまったんだ」

 突然現れた長の姿を見て、あわててローヒニイは沙門の背に隠れた。長はその姿を一瞥(いちべつ)すると苦々(にがにが)しく顔を歪(ゆが)めた。

 「このローヒニイが、母を殺したというのか」

 沙門は長の目をきっと見た。長は一瞬、目をそらした。だが、それからもう一度沙門の顔を見て、独り言のように話し出した。

 「まったく…これが因果なんじゃろうが、あんたもそいつの母親の名前を聞いたらびっくりするぞ」

 沙門は怪訝(けげん)そうに長の言葉を待った。長はにんまりと笑った。

 「道の人よお、そいつの母親の名前はな、〔チンチャー〕だ」

 「チンチャー?」

 沙門は長の真意がわからなかった。

 「あんたも仏陀の弟子ならば、チンチャーという女の名前ぐらいは聞いたことがあると思うんだがな…」

 その時、長の後ろの草叢から村人たちが、がやがた言いながら姿を現してきた。

 「おっ、こいつはローヒニイじゃねえか!」

 「このガキ。こんなところに隠れていやがって」

 彼らは沙門の背後に小さくなって隠れている少女を見つけると、と口々に罵りはじめた。少女はますます怯えて沙門の腕を硬く握った。長は一同を制した。

 「ちょうどいい機会だ。一つ話しておいてやろう。こいつがまだ生まれたばかりの頃だ…」

 そういいながら長は周りの村人たちを見回した。なすすべなく立っていた村人は持っていた棒をゆっくりと杖の代わりにした。

 「仏陀の国、シャカ王国が滅ぼされた時だ――道を間違えたコーサラの軍隊がわしらの村を通った。もともとこの戦争は傲慢なシャカ一族がコーサラ王を騙して、召使の一人をシャカ族の王女と偽って結婚させたからだ。その女の産んだ子供が王子になったときに、シャカ族の宮廷で笑い者になったというのじゃ。」

 「そいつは気の毒に…あたしゃその人の気持ちは分かるよ。」

 いつの間にか来ていた村の女の一人がそういいながら、どっこいしょと腰を下ろした。するとそれまで突っ立っていた者もつられるように腰を下ろし始めた。

 「王子は自尊心が高い男だった。笑い者にしたシャカ一族を激しく呪った。その後、王になった時に、シャカ国に攻め入った…」

 「それがローヒニイとどう関係があるのだ」

 沙門の問いに長は苦笑した。

 「あわてなさんな」

 と長は言った。

 「帰り道を間違えたコーサラ軍の部隊がわしらの村を襲ってきた」

 長の言葉に村人が頷いた。

 「おう、おらぁ覚えてるよ。酷(ひど)いもんだったなあ、あっという間に象が村を潰していったんだもんなあ」

 「そういやあ、あん時だっけ。ローヒニイの親父が象に踏み潰されたのは。」

 その言葉に長が頷いた。

 「そうじゃ、そうだとも。この娘の父親は象に踏み潰された。だが、その苦しみは母親のチンチャーに比べればまだ楽だったろうよ…チンチャーは乳飲み子を抱いて、朝から晩まで、乾いた大地の上を耕した。けれどもそのうちにチンチャーは体を壊し、とうとうその日の食にも事欠くようになった」

 沙門は黙っていた。そして長の語ることに耳を傾けた。

 「暮らしに困ったチンチャーはローヒニイを連れてわしのところにやってきた。しばらくこの娘を預かってくれと頼んだ。

 『長さま。ほんのちょっとの間、この子をお願いしますよ。サヴァッティという街にいらっしゃる偉いバラモンの方があたしを憐れんで仕事をくださるというんですよ』

 『馬鹿なことだぞ、チンチャー。あいつらにわしらの苦しみが分かるはずもない。うまい酒は鉄を溶かし、甘い言葉は身を滅ぼす、ともいうぞ』

 『でも、長さま。このままでは親子ともども飢え死にいたしますから…』

 ――いや。やはりあの時、わしは止めるべきだった。」

 「長よ、チンチャーにどうしてバラモンからの仕事が…」

 沙門の言葉に長は己(おのれ)の白い髪を掻き毟(むし)って叫んだ。

 「おお、道の人  恐ろしいことだった!」

 今度は村の者も固唾(かたず)を呑んで長の顔を見た。長の声は震えていた。

 「チンチャーの仕事と言うのは…誰に頼まれたものか、こともあろうに、仏陀の子を身ごもったと言い触らすことだったのだ」

 沙門は目を瞠(みは)った。

 

 「ほほほ、シッダルタ様。どうなさいましたの。  まさかこのお腹の子を知らないと仰るんじゃないでしょうね」

 私はチンチャーと名のる女の顔をまじまじと見つめました。面長で鼻筋の通った容貌は、たしかに濃い化粧で隠されてはおりましたが、美人の面影を残しておりました。しかしその顔全体から受ける印象はどことなく虚無的で、生きていくことに何か疲れきっているような、どこかなげやりな感じでした。

 (この女は嘘を言っている。なのになぜ仏陀はこの女を責めないのだろう…)

 私は長老と言われる方々のお顔をそっと拝見いたしました。知恵第一とうたわれたサーリプッタ様はまったく平然とこの女をご覧になっております。超能力を持つと噂されたモッガラーナ様はそこに誰もいないかのように、静かに瞑想をされているようでした。その他、ウパリー様もアヌルッダ様もまるで何事もなかったかのように静かに座しておられるのでした。ただお一人、アーナンダ様だけがむっとした表情を浮かべて女を睨んでおいででした。

 このように長老たちがみな静かになさっておいででしたので、自然に、日の浅い弟子たちも落ち着かざるを得ませんでした。ところがこの静けさが、ますますチンチャーという女を興奮させたようでした。

 「ふん、あくまでしらを切るつもりなんだね。それならそれでいいんだよ!」

 チンチャーは吐き捨てるようにそう言うと、急に甘ったるい声で

 「ねえ、あなたは、ほんのりとほのかな炎のなかで私の胸をさぐって、かわいい女と言ったじゃない。それからその手をもっと下に持っていって、ふふ、どうしたっけ?指を巧みに動かしぴちゃぴちゃとうるおいの音をたてたわ。そのたびにあたしは恥ずかしくて、気持ちがよくって、何度も何度も身を捩ったのよ。…喘(あえ)いだわ。あたしの息が苦しくなるほど触ってくれたあなたは、それから体を少しずつゆり動かして…」

 未熟な弟子たちにとって、この女の語り散らす内容は興味深いものでありました。若い沙門の中には、股間を手で押さえ興奮を抑えつけるものもおりました。降魔(ごうま)じゃ、降魔じゃと小さな声で呟きながら瞑想の姿勢をとる老沙門もいました。私には、さまざまな苦行を経(へ)られた仏陀にこのような出来事などあるはずがなく、この女の話が出鱈目(でたらめ)であることは十分に分かってはおりました。しかしそれにもかかわらず、やってきた女の舌があまりに巧みに動くものですから、弟子たちの脳裏には、もしかしたら仏陀にも、という疑いが次第に生じてきたのでした。

 「…肌と肌とを合わせ、あたしは顔をあなたの顔に寄せて、口と口をおしつけ舌を吸いあったのに、」

 恥ずかしながらこの私も、仏陀とて人間なのだ…、人間なんて所詮こんなものかもしれないな、という思いにいつの間にかなっていたのです。女が話すたびに私の脳裏には戯れる女の白い肌だけが艶(なまめ)かしく動き、微妙に変わる手や足の形がいよいよ鮮明に見えてきたのです。他の弟子たちも同じだったのかもしれません。初めは小さな疑いでした。こそこそとした囁きが、知らぬ間に、静けさを否定する響(どよ)めきへと変わろうとしていました。それは仏陀に対する声なき声の批判でした。その批判はいまや仏陀に裏切られたのだという怒りになろうとしていたのです。その雰囲気にチンチャーは勝ち誇った足取りでほくそえみながら、高まりつつある騒(ざわ)めきの中をゆっくりと歩みを進めていきました。

 その瞬間でした――。

 チンチャーの体が前屈みになったと思ったら、膨らんだ腹が急に消えたのです。腹から急に鈍い音をだして木の半球が転がり出たのでした。周囲から一斉に怒号が湧き起こりました。ころころと転がり出た木球の動きを目で追っていた弟子たちは、それが仏陀の座の前で倒れたとき、まるで暗示から解かれたようにわれに返ったのでした。たとえ一刹那(せつな)でも仏陀を疑ったことが全てこの女のせいであったかのように、私たちは憎しみをこめて、チンチャーめがけて石を投げ、土塊(つちくれ)をぶつけ、唾をかけ、足蹴にし始めたのでした。静寂な精舎(しょうじゃ)はたちまち怒声と喧騒の埃(ほこり)に巻き込まれました。長老の一人が驚いて立ち上がると、真っ青な顔で混乱の渦の中に走り込んできました。アーナンダ様でした。アーナンダ様が真っ先に群れの中に割ってこられたのでした。続いて、あの冷静なサーリプッタ様が―この時ばかりは私たち未熟な弟子どもを落ち着かせようと――急ぎ足で中に入ってこられました。モッガラーナ様もやってきました。アヌルッダ様も、ウパーリ様も、スブゥーティ様も夢中になって止めようとなさりました。この時、仏陀が初めて座から立ちあがられました。そして大声で叫ばれたのです、あの仏陀が  

 

 長は話を続けた。

 「  村に帰ってきたのは、それから十何日もたってからじゃったよ。チンチャーの体はまだ紫色の腫(は)れがひいてはおらんかった。顔と言わず、背中と言わず、そりゃあ酷いもんだった」

 沙門が口をはさんだ。

 「長よ、あなたはどうしてその事件をご存知なのです。あれは仏陀の弟子以外には知らないものと思っていましたが、」

 「聞いたのじゃよ、チンチャーにな。寝床で泣きながら、チンチャーはこう言いおった、仏陀様だけが私を助けてくれたと。あの後、バラモンは傷だらけの女などには見向きもせず、何を聞かれても知らぬ存ぜぬの一点張りだったそうだが、仏陀様だけが介抱をされ、手当てをしてくれたというのじゃよ。仏陀様だけが身をもって弟子どもの憎しみの炎からチンチャーを護ったということだった」

 それは私もよく存じております、と沙門は思わず口に出しそうになった言葉を呑み込んだ。仏陀が善なるものをいつも人知れず行っていることを思い出したからだ。

 「しかし、このローヒニイが、母親であるチンチャーを本当に殺したのでしょうか…」

 沙門は話を戻した。長はその言葉を聞くと傍らにいた男に何かを告げた。男は後ろの群れから三十がらみの一人の男を探し出した。長はその男に二言三言、話しかけた。

 「…へえ、見たのはこのわしで、こいつは太いあまっ子で、へえ、」

 沙門は急いで尋ねた。

 「どうやって…、この娘はどうやって母親を殺したのです」

 男は困ったような表情で、答えた。

 「どうやってって…こう…」

 男は突然腕を振り落とす格好をした。長が苦々しい顔で怒鳴った。

 「ええい、何をしているのだ。わしに言うたように言え!」

 男は慌てて長に謝った。

 「へ、へえ。チンチャーはそん時、ずっと病気で寝ておりました。で、こいつが、その娘です、ちょうどおっかさんの頭のところにおりまして、ええ、わたしゃ覗いておりましたから、――それでもって、この娘が、置いてあった杵(きね)で母親の頭を叩いたわけで」

 「杵で」

 思わず沙門はローヒニイを見た。ローヒニイはぽかんと口を開けたままだった。男はそんなことにはお構いなしに続ける。

 「それも突然ですよ。驚いたなあ、それまではこいつ笑いあって話していたんですからね」

 男の自慢げな話しぶりに、長が睨みつける目で、いじわるそうに言った。

 「ついでに、どうして覗いていたかも言ったらどうだ」

 男は明らかにうろたえたようだった。

 「そんな…。チンチャーだって、それで食ってるようなもんでしたから、何しろ、あんないい女いませんし…」

 ばかもん。長の一言に男は頭をかいた。

 「ご覧の通りですわい。さあ、ローヒニイをこちらへお渡しくだされ」

 長の言葉に沙門も答えた。

 「だがこの子は溺れかけた私を助けてくれたのですぞ。あなた方はこのような筏(いかだ)のあるところさえも教えてくれませんでした」

 「それは十分わかっている」

 長はきまり悪そうに下を向いた。

 「しかし親殺しとそれとは関係ない」

 と、長はきっぱりと言った。

 「それでは一つだけこの娘に尋ねたいことがあるのだが、」

 沙門の言葉に長は無言で頷いた。沙門は屈みこんで目を少女の高さにして、やさしく訊ねた。

 「ローヒニイはお母さんが好きだね」

 少女は大きく首を縦に振った。

 「どうしてお母さんを叩いたのかな」

 すると少女は激しく頭を振った。先ほどの男が、嘘言うでねえと怒鳴った。すかさず長がその声を止めた。村人たちは沙門と少女のやりとりに耳を傾けた。

 「いまお母さんは、どこにいるの?」

 ローヒニイはよく通る声で答えた。

 「お家(うち)だよ」

 ざわめきが周りから起きた。少女はさらに言った。

 「早く帰らないと、おっかさんが、苦しいって、」

 ば、ばかいうでねえ、おめえが殺しちまったんだぞ、と男が叫んだ。

 「ばかか、おめえは。おまえのおっかさんは、お前が、殴り殺しちまったんだぞ」

 村の女が叫んだ。周りから罵りの声と怒号がとんだ。ローヒニイの顔は恐怖で真っ青になり、唇がぐるぐる震えだし、ひくひくと泣き出した。長がゆっくりとローヒニイのところにやってきて、沙門と同じように屈みこんだ。

 「のう、ローヒニイ。このじいさまに言うのじゃ。お前が杵(きね)を手にしたのは本当か。」

 少女はしゃくりながらも、頷いた。

 「なぜそんなものを手にしたんだ」

 長の声が思わず荒くなった。

 「だって、おっかさんが、」

 しゃくりあげながら、少女は答えた。

 「持ってこいって…」

 なぜだ、と長が今度は鋭く聞いた。少女はその声でとうとう声をあげて泣き出した。

 「蝿(はえ)、追っぱらってくれって…いったんだ!」

 「蝿だとぉ?」

 長が叫んだ。少女は沙門に抱きついたまま、泣き顔で答えた。

 「顔中に蝿が、いっぱいだったんだよお」

 少女の甲高い声に周りが静かになった。少女は泣きながらも言葉を続けた。

 「おっかあ、蝿、はらうでな。おっかあが、――ああ、たのむよ、って、言ったんだよ」

 沈黙が少女の声をいっそうはっきりとさせた。

 「そしたらおじさんが来て、大声で、叱るんだ」

 たった今、村人たちにはこの娘が何をしたのかがわかった。この娘は蝿を追っ払うために杵(きね)をつかったのだった。母親の顔に群がっていた蝿を打つために持ってきた杵で思い切り叩いたのだ。長は悄然(しょうぜん)として言った。

 「ローヒニイ、お前のおっかあはな、この世にはいないんだぞ」

 少女は首をかしげた。

 「嘘だよ。お家でねてるよ」

 長はローヒニイの肩を両手で揺すりながら叫んだ。

 「ばか。死んじまったんだぞ」

 「しぬ?」

 それから少女は沙門に訊ねた。

 「しぬって、なあに。おっかあ、どこかにいったの?」

 沙門は少女に、そうじゃないんだ、おっかさんは、と言いかけて口を噤(つぐ)んだ。

 

 鷲が空の上で大きな輪を描いておりました。

 「人はなぜ死なねばならないのか」

 と仏陀が口を開かれました。アーナンダ様は黙って次のお言葉を待っておいででした。

 「それは生きる楽しみをしるためだ。もし人が永遠に生きていたならば、それは何とつまらない人生になるだろう」

 「どうしてでしょうか。死は終焉であり、この上もない恐怖ではありませんか」

 と、アーナンダ様が問われました。

 「生が変わらないものならば退屈ではないか。それこそ恐怖であり、生と死という変化こそが幸せなのだ。死は不幸ではない。それはむしろ幸福なのだ。何も知らずに死を迎えねばならない人生こそが恐怖なのだ」

 

 この娘は、死ということがわかっていない…。

 沙門は思った。

 (だが、誰がこの娘を笑うことが出来ようか)

 「私も、死を知らなかった…」

 沙門はそっと呟いた。

 そしてやっと今、ローヒニイの姿を見たときに、あの明け方の白くなりかけた闇の中での仏陀の言葉を理解できたと思った。ここには苦しいことはない、という仏陀の言葉が四十年以上も立ってやっと実感できたのだった。いまや老人となってしまった沙門の胸に、もう一度あの場所に戻って、その人の膝元で思い切り泣き出したいような懐かしさが湧き上がってきた。

 

 「のう、道の人」

 沙門は異様な静けさが自分を取り巻いていることに驚いた。その沈黙を破ったのは長だった。長の顔にはあきらかに困惑と戸惑いの色が浮かんでいた。しかしそれは長ばかりではなかった。村人の誰にも同じような色が浮かんでいた。

 ――娘は、いわば親の苦しみを助けるつもりで杵を振り下ろしたのだ。たとえそれが異常であったとしても、杵で打てば人が死ぬと言うことを知らなかったこの娘をどう裁けと言うのか。

 長は途方にくれた。

 ――ローヒニイを助けるのは簡単だが、だがそうすれば村の掟はどうなる…。

 長が沙門に声をかけたのもその答えが知りたいからだった。

 「あんたならば、何かいい考えもあるじゃろう。どうだ、この娘をどうすればいい」

 沙門は頷いた。全員が沙門の言葉を待った。

 「友よ――」

 と沙門は言った。この言葉に老人は目を見張った。

 ――友だって、このわしが。友、だって。

 バラモンを頂点に、クシャトリヤ、ヴァイシャ…と何百年も続いてきた厳しい身分制の社会の中で、最下層に近い我々をこの人は〔友〕と呼んでくれた。長の目に涙が滲んだ。

 「友よ、私にもわかりません。ですが、仏陀ならば、」

 「は、はい」

 長は沙門を仰ぎ見た。

 「仏陀ならばきっとこう仰せでしょう。『殺すなかれ』と」

 「しかしそれでは、村の掟が」

 長は食い下がった。沙門はそれには答えずにこう言った。

 「『怨みを捨ててこそ止む』ともおおせでした。」

 水の音がよみがえってきた。

 単調な響きがそこにいる全員をつつみ始めた。

 二人の老人はふたたび水の音に潰されそうになった。

 ……

 叫び声がした。

 少女が逃げ出した。

 少女は、まるで狂ったように、叫び声をあげると、一気に濁流の中へ走り込んでいった。

 叫び声を、ある者は母を呼ぶ声とも聞いたという。またある者は恐怖に満ちた声だとも言った。

 ほんの束の間の、息をすることさえも出来ないほどの時間だった。

 河は白い腕を幾本も出してローヒニイを抱きかかえるとそのまま静かに底の方に連れて行った。

 

 「それでは、私たちが生きているのは、静かに死を迎えるためにだけ生きているのでしょうか」

 アーナンダ様が絶望したようにおっしゃられました。

 「アーナンダよ」

 と仏陀がお答えになりました。

 「死には、静かな死も慌しい死もない。お前にはまだ人が生きるということがわかっていないようだ」

 アーナンダ様は黙って仏陀のお言葉を待っていました。仏陀は静かに微笑まれました。

 「人が形あるものを感じる。美しく感じたり、醜く感じたりする。柔らかく感じたりざらざら感じたりする。さまざまな感じ方がやがて頭のなかにある定まった像を作り出す。その像は何度も何度も反復されては次第に形を整えていく…」

 アーナンダ様は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けておられました。このような時の仏陀はぽつり、ぽつりと、まるで自分自身に語っておられるのではないかと勘違いするほど、ゆったりと話されるのが常でした。その場にいた弟子たちすべてが息をのんで次の言葉を待っておりました。

 「…やがて、その像は人の頭のなかに鮮やかな姿となって定着する。すると、アーナンダよ、お前たちはそれが実際にそこにあると錯覚するのだ」

 アーナンダ様が、おそるおそる尋ねられました。

 「そんなこと…、確かにそうかもしれませんが…、でも信じられません。それではたとえば私の目の前にいる先生は、私の記憶が作ったお姿ということになります」

 仏陀は静かに答えられました。

 「その通りだ、アーナンダよ、その通りだ。お前の見ている私の姿はお前が作ったものだ。仏陀という姿はない。世界を救う全能の神もいない。また、これが私である、というものはない。こういうものは、すべて人が作り上げたものなのだ。それと同じように、これが死であるとか、これが生であるとか、そういうものもないのだ」

 アーナンダ様は何度も、小刻みに首を振られました。それは信じたくもない事実を見せつけられた人のようでした。

 「…それでは、人が真実、生きているということがわからなくなります。生きているとは、どういう時に言うのでしょうか」

 苦しそうな声でアーナンダ様はお尋ねになりました。仏陀はかわらぬ静けさのまま、お答えになりました。

 「頭で作った像が消えた時、人は何を感じるだろう。それは正しいとか誤りとかではなく、快と不快、平安と不安ではないだろうか。生きるとは、瞬間瞬間に、自分が何を感じて存在しているかということだ」

 

 濁流は相変わらず単調な音を立てていた。

 沙門は静かに踵を返した。

 それから先ほどの筏の方へ歩き始めた。

 村人の囲みが自然に二つに分かれた。その中を沙門は象のようにゆったりと進んだ。

 「仏陀の弟子どの」

 長が呼び止めた。沙門は歩みを止めた。

 「河を渡られるのならば、わしらの筏(いかだ)を使いなされ。そこにあるのは危険じゃ。」

 長は親しみを込めた笑顔で沙門に近づいてきた。

 「なぜそうまで急がれる。明日になれば流れもおさまるものを。それよりも、今晩はわしらの村に来てもらえぬだろうか。あの娘はご覧のとおりの結果になった。これも運命じゃろう…」

 沙門は振り返って長を見た。長は泣くような声で叫んだ。

 「わしは仏陀さまの教えをもっと聞きたいのじゃ。」

 だが、沙門は何も答えなかった。悲しい目で黙って長を見つめた。長は今度は少し怒ったような口調で言った。

 「どうして答えてくださらんのじゃ。先ほどはわしのことを、友とも言うてくださったではないか。」

 沙門の目に涙が光った。長は驚いた。

 「いったいどうなさった。どうしても今日中にバラナシイまで行きなさるおつもりか。」

 沙門は強い調子できっぱりと言った。

 「そうです。是非にも今日中に行かねばなりません。」

 長は沙門の強い意志に、おどおどしつつも訊ねた。

 「それほどの急用とは、いったい何が…」

 このとき沙門は長に合掌の礼を捧げた。それから、静かに答えた。

 「友よ」

 長は沙門の突然の態度の変化に驚きつつも黙って次の言葉を待った。ヤサの両眼に涙が溢れた。

 「友よ。――仏陀が滅せられました」

                                                                      【了】


奥付



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著者 : 普聞 隆
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