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コンクラーベ(枢機卿会議)

四月も後半にかかろうというのに、ローマはまだ冷たい空気に包まれていた。コンクラーベ(枢機卿会議)の会場に向かう枢機卿たちの列から白い息が立ち上っている。
九日間にわたる葬儀が終わり、それに引き続き新教皇を決めるための枢機卿会議が開催されようとしている。会場となるシスティナ礼拝堂に、教会の高位聖職者である枢機卿たちが集められ、枢機卿間の選挙によって新教皇が決められるのだ。会場となるシスティナ礼拝堂は新教皇が決まるまで封印され、誰一人として会場への出入りは許されない。この間ヴァチカンは、自国の枢機卿を新教皇にという各国の思惑や個人の野望が入り乱れ、祈りの場から政治的掛け引きの場へと一変する。

この日、アレッサンドロ枢機卿も、コンクラーベ会場に入ろうとする枢機卿たちの列の中にいた。
彼が会場へ入ろうとしたときだ。目の前で一人の老枢機卿が激しく咳き込み、思わず扉の前でしゃがみこんでしまった。アレッサンドロはその老人の背中を撫でながら、
「フェリーチェ様、しっかりしてください。死ぬには早すぎますぞ。」
老人は、アレッサンドロに顔を振り向けると、苦しそうに、
「おー、アレッサンドロ殿か。やさしいお言葉じゃが、ご覧のとおり、もういつお呼びがかかっても不思議はない状態でな。また準備もできております」
老いたフェリーチェには、それだけ言うのがやっとだったのか、そこまで言うと、また苦しそうに咳き込み始めた。
コンクラーベに集まる投票権のある四十二名の枢機卿のすべてが、この様子を見ていた。そして、皆が皆、彼が今にも血を吐いて倒れしまうのでは……そんな思いを持った。と同時に、ある一つの思いを胸に抱いた。グレゴリオ十三世の死があまりにも急すぎたのだ。日本の少年使節たちの謁見――ローマはその行事に沸きかえり、教皇は、あの華やかさ、あの明るさを、まるで一人で享受しているような喜びようだった。それが、こうもあっさり死んでしまうとは……。各国の思惑も、個人の野望も、形にするには今少しの時間と調整とが必要だった。そこで誰もが思った。
「フェリーチェなら、もう永くはないだろう。政治的な色も背景もなく、時間稼ぎには格好の存在だ……」と。

教皇選挙が開かれている間、サン・ピエトロ広場は新教皇の誕生を待つ人々であふれかえる。そこには会場内を支配したと同じ野心や思惑があり、少しの毒を含んだ無責任な好奇心があり、そして大小さまざまな信仰心があった。そんな中に、メスキータ神父に率いられた日本の少年たちの姿もあった。
メスキータは思う。最悪の場合、この選挙の結果で、イエズス会のこれまでの努力が水泡に帰すかも知れない。イエズス会の東洋布教独占に対する他修道会の批判の声は高い。特にフランシスコ会やドミニコ会の修道士たちは、布教権をめぐって何かとイエズス会と対立するところが多い。もしフランシスコ会やドミニコ会の人間が新教皇に選出された場合、イエズス会の東洋布教独占にヒビが入ることは間違いないだろう。
そんなメスキータの思惑をよそに、「教皇様はどんな風に選ばれるんだろう」「会場の中はどうなっているのだろう」「どんな方が教皇様に選ばれるんだろう」と、五人の少年たちの心の中は、そんな素朴な好奇心で溢れかえっていった。
少年たちの物問いたげな眼ざしに押され、ため息とともに、メスキータ神父が口を開いた。
「教皇様の選挙では、枢機卿お一人お一人が一票の投票権を持ち、投票用紙に思い思いの名前を書かれます。記入された用紙は、会場の前に置かれた投票壷の中に入れられます。得票数が三分の二になるまで投票は繰り返され、その都度、投票用紙は暖炉にくべられるのです。決まらなかった場合は黒い煙を、新教皇様が決まった場合には白い煙が……ほら、あの辺りに煙抜きがあって、そこから出るように工夫されているのです。」
メスキータ神父の指さす方向を見ながら、
「アレッサンドロ様も、あの会場の中におられるのですか?」
唐突に、中浦ジュリアンが口を開いた。教皇葬儀のとき、病を押して密かに参加したジュリアンをかばい、誰にも知られることのないよう、馬車でイエズス会まで送るよう手配してくれたのがアレッサンドロ枢機卿だった。騒乱の引きがねにもなりかねなかったのに、そのことをとがめる訳でもなく、表ざたにする訳でもなく、ただ「体を大事にするように」と熱に震える体にローブを羽織らせてくれた。
「もちろん、アレッサンドロ様もおられます。」
「新しい教皇様には、アレッサンドロ様になってほしいなあ。」
「ジュリアン……それは神様の決められることですよ。」
そのときだ。「メスキータ様、メスキータ様」と呼ぶ声がある。声のほうを見ると、一人の修道僧が一通の手紙を手に「メスキータ様、リスボンのロヨラからです。リスボンからです」と、人ゴミをかき分けながら近づいてくる。
手紙は、リスボンにあるサン・ロケ修道院から、日本人修道士ロヨラにより出されたものだった。
ロヨラも天正遣欧使節の随員としてヨーロッパの土を踏んだのだが、彼には使節の少年たちとは別の役割があった。リスボンにとどまり、その地で印刷術を習得すること。それと共に、日本へ持ちかえるべき印刷機の選択に当たること、それがロヨラに与えられた役割だった。
メスキータ神父が封を開けると、印刷術習得の成果を示すべく、日本語をローマ字に置き換えて印刷したロヨラの手紙が出てきた。恐らくは練習のために組んだ版を刷り上げたものだろう。
「これはロヨラさんが印刷したものです。」
メスキータは、それを広げてみんなに見せた。
みんなは、呆然としてそれを見つめた。有馬のセミナリオでローマ字は習ったものの、それを同じ仲間が、自分の伝えたい思いを活字として印刷している。
「なんて書いてあるんですか?」
「マルチノ、読んでごらんなさい。」
メスキータの差し出す手紙を、原マルチノが受け取った。

読み進めるにつれてマルチノの目が輝きだした。
「マルチノ、なんて書いてあるんだ。早く話せよ。」
「印刷機購入の目処が着いたようです。手紙によると、商売がうまくいかずリスボンを逃げ出した印刷商がいるようで、その残された印刷機を安く買うことができるようになったとあります。それも二台、おまけに活字のセットまで三セットも手に入るようです。」
「もう手に入ったのか?」
「まだのようです。裁判所の手続き的なものがあるようで……それでも、私たちがリスボンに帰ってくるまでには何とかなりそうだって……。」
「俺にも見せてくれよ。」
千々石ミゲルが手紙を取ろうとしたときだ。あたりが騒然とし、集まった人々の中から喚声があがった。
「白い煙が上がっています。」
「新しい教皇様が決まったんだ……!」

リスボンの印刷業者は、商売がうまくいかず逃げ出したわけではなかった。異端の密告で工房が捜索され、印刷原稿の中からルターの著「キリスト者の自由」のラテン語原稿が発見されたのだ。七十年前、宗教改革の発端となった問題の書であり、このため印刷の親方や逃げ遅れた職人たちが捕らえられ、厳しい拷問の末、異端のかどで火あぶりにされた。
ところで日本の少年たちが喜んでいる問題の印刷機は、このとき、工房から没収された印刷機で、親方や職人たちと共に燃やされる筈だったのを、イエズス会の働きかけで日本に渡ることになったものだ。
もちろん日本の少年たちは、そんなことは知るよしもない。今の少年たちにとって大事なことは、一体、誰が新教皇としてあのバルコニーに顔を出すのか……そのことだけだった。サン・ピエトロ広場に集まった人たちの好奇心の渦の中では、それ以外のことはすべてが無意味に思われた。

しかし、煙が出始めてもう一時間近くにもなるというのに、中央バルコニーはまだ固く閉ざされている。あの煙は間違いだったのか。ひょっとして黒い煙が光の加減で白く見えただけなのかも。
長い一日が終わろうとしている。陽もようやく翳りだし、同じように人々の好奇心にも陰りが差しだした頃、やっとサン・ピエトロ大聖堂の中央バルコニーの窓が開かれた。
皆の視線が中央バルコニーに集まる。
「アレッサンドロ様だ!」
中浦ジュリアンが、うれしそうに声をあげた。
バルコニーに現れたのは、アレッサンドロ枢機卿だった。彼は集まった人たちを見渡し静寂が訪れるのを待つ。
やがて静まり返ったサン・ピエトロ広場に、アレッサンドロのよく通るラテン語の声が響き渡った。
「良い知らせがあります。第二二七代の教皇が生まれました。」
その瞬間、座っていた人々は立ち上り、拍手がわき起こった。修道女たちは互いに喜びの抱擁を交わし、歓声が広場いっぱいにこだました。そして七時二十三分、赤いマントをまとった枢機卿団と、儀典長の司教に付き添われて、新教皇がバルコニーに姿を現わした。
フランシスコ会のフェリーチェだ。
今にも死ぬかと思われていたフェリーチェが新教皇に選ばれた。時間稼ぎに選ばれたことは誰の目にも明らかだった。ところが……である。新教皇に選ばれた瞬間、今にも死にそうに腰を屈めていたフェリーチェが、背筋を伸ばし大きな声を張りあげ「テ・デウム」を唄い神に感謝しはじめた。先程までの様子とは打って変わって、水を得た魚のように、死にそうなはずのフェリーチェ枢機卿が、活力に満ちあふれた新ローマ教皇としてよみがえったのだ。
集まった枢機卿たちは思った。フェリーチェにいっぱい食わされたと……。

真新しい白の帽子と白のマントも鮮やかに、フェリーチェは、新教皇シクストゥス五世として、やさしい微笑を浮かべながら集まった人々に教皇として最初の祝福を与えた。大聖堂の鐘が鳴り始め、それを合図のようにローマ市内の約四〇〇近くの教会の鐘がいっせいに喜びを知らせ、祝った。
聖なるつむじ風と呼ばれたシクストゥス五世の改革が、今、始まろうとしていた。



あれはフェリーチェ(シクストゥス五世)が、まだ二十二才の頃だ。彼がシチリアの田舎道を、他のフランシスコ会士たちと列をなして歩いていると、正面から一人の男が近づいてくる。男は列をかき分けるようにして進んでくると、いったい何事かといぶかるフェリーチェの前にひざまずき、
「あなたは、フェリーチェ・ペレッティ・ダ・モンタルト、アンコー村の近くで生まれ、羊飼いをしておられた方……」
フェリーチェは、男が、てっきり自分の子供の頃を知る故郷の人間だと思った。
「どなただったでしょうか? でも、どなたにせよ、まずは自分のような若輩の修道士にひざまずくのはやめてください。」
「いいえ、聖下の前ではひざまずかないわけにはまいりません。あなた様は、やがてローマ教皇の座にお就きになる方……」
「………………」
「いぶかるのもごもっともです。私の名は、ミッシェル・ド・ノストラダムス、やがてわが名も聖下の御前に届くでありましょう。」
男は、それだけ言うと、うやうやしくその場から離れていった。
ノストラダムスが、トゥールーズの異端審問所からの出頭命令を無視し、フランスからイタリアへと放浪している最中の出来事であった。これが、ノストラダムスとシクストゥスの、最初で最後の出会いである。
……が、この日から、フェリーチェの心に大きな野心の灯がともることとなり、その野心が疼くたびにノストラダムスの顔が浮かび上がってくることともなった。
一つの予言によって、フェリーチェの心の中にノストラダムスが住み着いてしまったのかも知れない。
そして今、その野心がかなえられた。
ノストラダムスの名もまた、世に現れ始めていた。メディチ家からフランスへと嫁いだカトリーヌ・ド・メディチスの信任あつい予言者として……。

戴冠式も無事終わり、今日は日本の少年たちが別れの挨拶にくることになっている。シクストゥスは思った。
「こうしてローマ教皇になれたのは、この私が神に選ばれたからだ。決してあの男の予言のせいなどではない。神が私を必要としたからこそ、私は、ローマ教皇の座に就いた。まして異端の臭いをぷんぷん漂わす、あのノストラダムスとは関係のないことだ」と。
「私は神に選ばれたのだ。神は、私に仕事をせよとおっしゃっている。おまえにしかできない仕事をやり遂げるのだと語っておられる。神が私を必要としておられるのだ……」

「教皇様」
「…………」
「教皇様、日本の使節たちが別れの挨拶に参上いたしました。」
侍従の言葉が、シクストゥスの思いに終止符を打った。


聖なるつむじ風

ローマのもう一つの顔をご存じだろうか。
我々がカトリックの聖地として、円形闘技場に代表される古代ローマの遺跡都市として、 はたまたファッションやショッピングの聖地として知る以外に、ローマは、その地下にとんでもない世界を抱えている。
たとえば「ローマの休日」で有名な「真実の口教会」。その前柱廊壁に紀元前四世紀頃の下水口の蓋と思われるものが埋め込まれている。このレリーフの顔は、嘘をついた人間の手を噛み切るといわれ、中世に、妻や夫の貞節を試すために使われていた。
正式には、サンタ・マリア・イン・コスメディアン教会というが、この地下に古代ローマの地下遺跡が広がっている。もともと地下にあったのでなく、古い都市の上に新しい都市が造成されたため、時代が層を成すことになってしまった。
コロッセオの西に位置するサン・クレメント教会に至っては、その地下が三層になっており、下へ降りる都度、時代も下っていくという。
まるで歴史の百貨店――地下二階はミトラ教神殿跡および古代住居跡、地下三階は、ネロ皇帝によって放火されたローマの都市跡でございまーす、と言ったところか。
ローマには、我々が知らないそんな地下世界が無数に広がっており、そのいくつかが公開されているが、むろん観光ガイドには紹介されていないし、その全貌が明らかになっているわけでもない。
ローマで地下鉄工事が進められないのは、このためだといわれているし、工事の際に、そんな遺跡にポッカリ出くわすこともあるという。
ローマの地下迷宮、それは空間的な迷宮を意味するだけでなく、時間的な迷宮を意味するのかもしれない。
康男が迷い込んだのも、そんな時間の迷宮だったのかも――。

――金縛りから解放された康男は、思わず闇雲に走り出してしまった。
(あれは何だったんだろう。)金縛りで身動きのとれなくなったとき、まるでモザイクがかかったような映像が、康男の心の中をぎこちなく動いていった。
棺をこの地下墓地へ運び込んでくる人たちの行列。
聖職者と思われる人たちが、両脇に並んだテーブルに向かい合って座っている。
顔は見えないのだが、なぜか日本人と分かる子供たちの顔。
そんな映像が、因果関係もなく、康男の脳裏をフラッシュしていく。
意味のない恐怖が康男にのしかかってくるのだが、身体は硬直状態で逃げることもできない。
だから、金縛りが解けたとき、何の考えもなく思わず走り出してしまった。
どれぐらい走ったのか分からない。
思わず何かにつまずいた。
低い仕切状の塀にぶつかり、その向こう側に転がり落ちたようだ。
そこで我に返った。
(落ち着こう。こんな闇の中を走り回ったら、どこへ行ってしまうか分からない。)
康男は、しばらく動かずその場に座り込んでいたが、
やがて、仕事用にとペンライトを持ち歩いていることを思い出した。
胸ポケットへ手をやるが――
(ない! どこへ行ったんだろう。)
転んだとき、落としたに違いない。康男は手探りで当たりを探すが、見つからない。
次第に焦る気持ちが高じ、またパニック状態に陥ろうとしたとき、手が小さな冷たい感触を探し当てた。
ペンライトがこんなに明るいと思ったことはなかった。
しかし、そのペンライトの明かりに照らし出された世界は、さきほどの観光客のために明るく装われた地下通路とは一変していた。



そこは、地下牢のような閉ざされた空間――正面に、腐りかけた木の扉。右手横に、石の階段が上へと延びている。
階段を上ってみると、石畳の狭い空間がひろがっており、階段はそこから直角に曲がる格好で更に上部へとつながっている。
どうしてこんな空間に落ち込んだのかは全く見当がつかないし、つじつまも合わない。でも、この階段を上がっていきさえすれば、なんとか地上へ出られそうだ。
そう思って上り詰めた石の部屋には、やはり、重い木の扉が立ちふさがっていた。
押してみた。引いてみた。叩いてみた。
そして、叫んでみたが、扉はビクともせず、当たりは物音一つせず静まりかえっていた。
いや、違う。耳を澄ますと、かすかに水の流れる音がする。
康男は、水音に誘われるように、最初の部屋まで降りてきてしまった。
音は、あの腐りかけた木の扉の向こう側から聞こえてくる。
近づいてみると、木の扉には引き手もついていない。中から開けるようにはできていないようだ。指の差し込める隙間はないかと探すのだが、
――あった。
扉の一番下の角が腐っていて、そこから手を差し込める。手を差し込んでおいて、指をかけ、引っ張ってみた。力を更に入れると、バキッと音がし、いきなり扉が内側に開いた。
水音がいきなり大きくなった。
下水道だろうか。水が流れる片側に一人がやっと通れるような狭い通路が付いている。
康男は、ためらいがちに、その通路を水の流れる方向に沿って歩き始めた。
水はテヴェレ川に向かって流れていると思った。なぜか、テヴェレ川に出る直前に地上へ出られるような気がしたのだ。



シクストゥスは新教皇就任に際し、日本の使節たちに拝謁を許し、その席上、日本の教会に対しては全面的な援助を約束した。これによってイエズス会総長アクアヴィーバやメスキータ神父の危惧は、ようやくその一端が拭われたことになる。
四人の使節はローマの市民権を与えられ、その日の午後には教皇から勲章をいただく叙勲式も無事終了した。
そしてローマを離れる前日、教皇への暇乞いの謁見が許された。
シクストゥスは、使節に対し、金銀仕立ての刀剣やビロード制の帽子等の贈答品と共に大友・有馬・大村の九州諸大名への正式返書を託し、更に二十年に限り日本の教会やセミナリオに、年額六千クルザードの援助を約束した。
いよいよ別れ際になって、日本の少年たちを代表して伊東マンショが教皇の数々の好意に礼を述べると共に、リスボンから持ち帰る印刷機と活字セットのことを語った。
「教皇様、おかげで、私たちは印刷機を手に入れることが出来そうです。また仲間の者がリスボンで印刷術も修得しました。これで神の言葉を日本に広めていきます。いつか日本の言葉で、聖書を──イエス様の御生涯を伝えられればと思うのです。」
その言葉が、シクストゥスの心に一つの衝撃となって走った。
少し前まで、「聖書」はラテン語以外の言葉に翻訳されてはならなかった。それどころか、聖職者以外の者が「聖書」を書き写すことさえ禁じられていた。
それが宗教改革を経て、ルターをはじめとするプロテスタントたちによって、「聖書」はドイツ語に翻訳され出版された。一部の人にしか伝わらないラテン語でなく、誰にでも分かる母国語で書かれた「聖書」──この「聖書」の翻訳によって、「聖書」が誰にでも読まれるようになったことはもちろんだが、それはドイツ語自体の完成にもつながっていった。
これに引き替え、カトリック側のラテン語聖書、つまり「ウルガタ」と呼ばれる聖書は、写字生たちの誤写や写し漏れが積み重なり、それが改善されないまま今に至っており、プロテスタントたちへの対抗上からも、早急に改訂版の発行が要求されていたのだ。
しかし他国語への翻訳ということになると、まだまだ抵抗は多い。そんな中で、シクストゥスは、少年たちの言葉から神の声を聞いたように思った。日本の少年たちの印刷にかける夢を聞きながら、シクストゥスには、その言葉の中に自分のなすべき使命を見いだせたように思えた。
「君たちは神の言葉を日本の言葉に移したいという――
立派な志だ。世界に神の言葉を伝えるためには、神の言葉をいつまでもラテン語だけの世界に縛っておいてはいけないのかもしれない。
しかし、だからこそ、その元となる立派なラテン語の聖書を、今こそ完備しなければならない。完全な聖書を世に残しておくことこそ、私に与えられた仕事のように思う。
君たち日本の少年が、その使命に気付かせてくれた。」
そう言ってシクストゥスは、少年たちを一人ひとり抱きしめ、必ず立派な聖書を完成させることを約束したのだった。
こうして使節一行はローマを離れた。

それからのシクストゥスは、無我夢中だった。まるで自分の中にある何かの影を追い払うかのように、必死で働いた。
(私は神に選ばれたのだ。ノストラダムスに選ばれたのではない――。)
シクストゥスは、五年間という在位期間に、サンピエトロ大寺院のドーム建設を完成させ、数百人もの人足を使いオベリスクを現在のようなサンピエトロ広場の中央に移動させ、ヴァチカン図書館を建て、更にはローマの町への給水のため、はるか二十マイルものかなたから谷と丘を抜ける水道を建設するなど、五十年分の仕事をしたと言われている。
その中で最大の仕事が、ウルガタ聖書、つまり教会が拠り所とするラテン語版聖書の改訂作業であった。
四世紀、ヒエロニムスの労作とされるウルガタ聖書は、時代が下るにつれ、写字生の写し違い、読み違いが増え、印刷機が登場すればしたで、印刷するごとに、版を重ねるごとに誤字誤植が多くなってきた。宗教改革が始まるや、プロテスタントは自らの改訂版聖書を持つようになり、カトリックにとっても、信頼に値するウルガタ聖書を持つことが至上命令となっていたのである。
これをたった一人で行おうとしたのが、このシクストゥスだった。
在位三年目、学者たちが提出した決定稿が気に入らず、シクストゥスは三百語からなる勅書を発し、学者たちを退け
「教会が拠り所とすべき聖書に関する問題を決定するにふさわしい唯一の人間は、教皇、すなわち私である」と宣言した。
要は学者たちの仕事が気に入らず、シクストゥスは、ほとんど一人でこの仕事に没頭し、わずか八ヶ月で改訂版を仕上げてしまった。
こうしてできた初稿だったが、フォリオ版(全紙二つ折り版)の初校を受け取った教皇は愕然とした。今までより誤植が多くなり、しかも、聖書の章と句の配列において、おそらく不注意から、すべての章句を落としてしまっていたのだ。
シクストゥスは時間の浪費を避けるため、みずから訂正作業にとりかかった。インクで小さな紙切れに訂正個所を書き付け、誤植の上に貼り付けていく。印刷業者は次から次と出てくる訂正に、夜を日に継いで働く竜巻スタイルを余儀なくされ、初稿完成から更に六ヶ月を要してこの聖書の改訂作業は一段落を見た。
シクストゥス五世の大勅書は言う。
「充溢せる使徒の力により、ここに宣告し、宣言する。この版は――主からわれわれに与えられた権威によって認可されたものであり、したがって真実かつ合法的なるものとして受け入れられねばならず、公共的ならびに私的な論争、説教、解釈において、疑問の余地なく拠り所とされねばならない」と。

こうして聖書が完成した四カ月後の一五九〇年八月二十七日、シクストゥスは、カピトールの丘の鐘に送られ、この世を去った。天正遣欧使節の少年たち(もう少年とは言えないだろうが)が長崎に帰着した一月後のことである。

その夜、ローマの町の人々の多くは、突然巻き起こった猛烈な嵐に、眠れぬ長い一夜を明かしたという。まさに、つむじ風と呼ばれた教皇にふさわしい幕切れではあった。


転びバテレン了伯

1645年 長崎
九介は不思議に思った。捕らえられてもう一月になるというのに、ろくに取り調べもされない。捕らえられてすぐ絵踏みの場に引き出されたものの、絵踏みをさせられたわけでもない。
事の発端は、長崎で一人の盗賊が捕らえられたことから始まった。男は観念したものか、四年にわたって重ねてきた盗みの数々を神妙に答えはじめた。記憶は驚くほどに鮮明で、どこで何を盗んだのか、細かな明細まではっきりと覚えており、取り調べの人間が舌を巻くほどだった。そんな盗みの記憶の中に、南蛮菓子を商う店から盗み出した奇妙な書物の記憶があった。屋根裏に隠されていた包みを、何かいわく付きのお宝だと盗み出したまではよかったが、開けてみれば南蛮文字が描かれた分厚い書物。
「あれは南蛮の伴天連のもんに違いなか。どだい、あげなもんを盗んだのが間違いのはじまりじゃった。」
男は伴天連の魔法をおそれ、処分に困って諏訪大社へ捨てた経緯を事細かに語った。
この申し述べによって、詮議は、男が盗みに入った南蛮菓子屋「加津佐」におよび、店の主人九介と、その妻千代がキリシタンの疑いで捕らえられるに至ったのだ。

お白州では、ぐるぐる巻きに縛られた九介と妻の前に、一枚の銅板が置かれた。そこには、幼な子イエスを抱くマリアの姿が彫られている。その時、九介は、
「これで終わった。もう逃げ隠れしなくてもいいんだ」と腹をくくった。
「お姿を踏めない以上、どんなきびしいお取り調べを受けるか知れたものではない。自分にどこまで耐えられるか分からないが、女房と共に、頑張れるだけ頑張ってみよう……」
そう思った。
ところが不思議なことに、その日は絵踏みを強要されることもなく、そのまま牢へと移された。それも桜町の牢屋敷ではなく、立山役所の座敷牢に二人して入れられたのだ。きっと他の囚人に教えを説くのを警戒しているのだろう、それぐらいに思っていたが、あれから一月あまり、ずっとそのままなのだ。役人が取り調べに来るわけでもなく、朝夕二度の食事が運ばれてくる以外は、接触してくる者とてない。
自分でも張りつめた気持ちが次第にゆるんでくるのが分かる。もしや、捕らえられたこと自体が何かの間違いではなかったのか……。
しかし、妻は言う。
「お役人方は、こちらの気持ちのゆるむのを待っておられるのです。安心させておいて、急にきついお取り調べをされるに違いありませぬ。おまえ様、何があっても教えを捨ててはなりませぬぞ。夫婦して見事こらえきり、共にパライソへ参りましょうぞ。」
こんな話をするとき、妻の口調はいつになく厳しくなる。
九介は南蛮菓子を作らせれば、長崎でも彼の右に出る者はいない。長崎代官村山当安の家に奉公していた頃、当安から戯れにカステラづくりを教えられた。
村山当安と言えば、持ち前の機知と南蛮菓子いわゆるカステラづくりの技で、肥前名護屋滞陣中の秀吉に取り入り、長崎外町代官の地位まで手に入れた男だ。九介は、そんな当安から手ほどきを受け、持ち前の器用さも幸いして、たちまち南蛮菓子づくりに精通するようになった。以来、当安からも重宝がられ、当安の肝いりで店を構えるまでになった。
そのとき、「一家を構えるのに女房なしでは」と紹介されたのが、今の妻というわけだ。名は千代、洗礼名をカタリナという。彼女を慕う信徒衆は、「カタリナ様、カタリナ様」と、彼女のことを呼びならわしたものだ。しかし、九介にはそれが何か面はゆく、今も「千代」としか呼ばないし、自分のことも「ドミンゴ」などと呼ばれるのを嫌う。
彼女の父は後藤宗因、町年寄り後藤家の縁戚に当たる。キリシタン全盛の頃は、南蛮渡りの印刷術を習得し、長崎にキリシタン版の印刷所を開いていた。あの頃は、長崎外町の代官から内町の乙名衆まで、町中こぞってキリシタンという状態だったが、それだけにキリシタン版の印刷をしているということで、人からは一目置かれていた。それもイエズス会の宣教師たちが、その複雑さゆえにあきらめたという日本語の活字化を、日本人の手で成功させたというのだから、いきおい宗因に長崎中の熱い目が向けられたのも当然のことだった。娘の千代も、幼い頃からキリスト教に親しみ、日本語版の「ドチリナキリシタン(公教要理)」や「サントスの御作業」などは空で暗じているほどで、このため禁教令以降は、ある日本人パードレの薦めもあって殉教の道を選ばず、夫婦共々に隠れとして密かに教えを説いた。
九介は、そんな千代を嫁にしたのだ。後藤家という名家の出の上に、菓子屋の女房にしておくにはもったいないような美人だった。今でも五十を越えたというのに、何か若やいだ空気を漂わせ、生活を感じさせるところがない。家柄を笠に着ることもなく、普段は至って慎ましやかな質だが、ことキリシタンの教えのことになると人が変わったようになる。このことに関しては九介も頭が上がらなかった。
たしかに千代の言うように、井上筑後守様が宗門改め役となって以来、キリシタンに対しても、かつてのような目を覆うようなお仕置きはなくなった。パードレが捕らえられても、奉行所では拘禁するだけで好きにさせておくという。殉教を覚悟していたパードレたちも次第に気がゆるみ、「ひょっとして助かるのでは」、そんな希望さえ持つようになる。そんな折りを見計らい責められると、人というものは弱いもので、少しの拷問でもまいってしまう。
千代のいうように、二人を自由にさせているのも、そのためかも知れない。キリシタンに関しては、殉教者をつくらないこと、それこそ井上筑後守様が長崎奉行所に与えた最優先にするべき方針だった。
「心しなければ……」と、九介は思った。

そんなある日のことだ。役人が二人の着替えを持参し、「後刻、迎えにくるので着替えておくように……」という。
やがて、町着に着替えた二人は牢から出され、役人に導かれるまま、奉行所の裏門を出、近くにある西勝寺という寺へと連れてこられた。役人は若い僧に二人を託すと、あろうことか奉行所へ引き返していってしまった。その僧も、事態が飲み込めず唖然としている二人を庫裡へ案内すると、「しばらくここでお待ちなされ。後ほど、了伯殿からお話があるそうです」と、言い置き去っていった。


どちりなきりしたん

「お久しぶりです」
男は静かに二人の前に座ると、千代を見つめ深々と頭を下げた。
千代は、頭をあげようとする男の顔を覗き込むように見つめた。七十近くにもなるのだろうか、真っ白になった髪は後ろで束ねられ、ひどく老い込んではいるが、穏やかな眼差しにたしかに見覚えがある。右のこめかみに残る引きつったような傷痕は、かつて穴吊りの拷問にかけられたことを物語っている。
穴吊りとは、身体をぐるぐる巻きに縛り付け、汚物を入れた穴に頭を下に吊り下げるという拷問だ。その際、こめかみや耳の後ろに刀で切り傷を付け、血が鬱血して死なないようにする。井上筑後守がキリシタンを転ばすために考え出した責め方で、これにかけられると全身の血が頭に下がり、次第に意識が朦朧とし、やがて頭が割れるように痛みだす。意識が混濁し正常な判断が下せなくなる頃を見計らって、穴の上では鉦を叩くなど大きな音を立て、「転べ」「転べ」とがなりたてる。
「この拷問にかかって転ばなかったやつはおらんぞ。」
「おまえが転んだところで、誰も意気地なしだとは思わん。」
「身体を揺すれ、さすればここから上げてやるぞ。身体を揺さぶるだけでいい。それが転んだ合図じゃ!」
「揺すれーッ、揺すれーッ……」
「転べ、転べーッ」

「トマスさまですか……?」
その声に、おぞましい記憶がぬぐい去られ、了伯はハッと我に返った。あれ以来、昼といわず夜といわず、あの穴吊りの様子が浮かんできては了伯を苦しめる。
「はい、そう呼ばれたこともございました。……が、今では荒木了伯と呼ばれております。」
「了伯さま……?」
「如何にも、転び伴天連の荒木了伯でございます。」
三十年まえ、千代に、「死ぬことだけが教えを貫く道ではない、生きて為すことがあるはずです」と、形だけでも絵踏みをするよう勧めた日本人宣教師、それがトマス荒木であった。
あれから千代の苦しみが始まった。千代は、父やコレジオの人たちが出版したキリスト教書物の何冊かを諳んじていた。「どちりなきりしたん(公教要理)」「サントスの御作業」「ぎゃどぺかどる(罪人の導き)」「こんてむぷつすむんぢ(世のさげすみ)」……私が死ねば、これら書物と共に、この日本からキリストの教えは絶える。隠れとして生きる人たちは、私が諳んじる教えを必要としているのだ。
そのことが千代を支えていた。でも自分は、ただ命が惜しかっただけではなかったろうか。それを――生きて教えを伝える――そんな使命感でごまかしてきただけではなかったろうか。その思いにどれだけ悩まされたか知れない。捕らえられたとき、「やっと苦しみから解放される」、だから、今度こそ決して転ぶまいとかたく心に決めていた。
千代の表情が思わず厳しくなった。
「トマス様は生きて教えを伝えるよう私を諭されました。教えに殉ずる道は死ぬことだけではないと……。トマス様は一体どのような道を見つけられたのでございますか?」
「…………」
「千代、了伯殿が選ばれた道だ。私たちがそれをどうこう言うべき筋合いではない。」
九介があわてて千代をたしなめようとする。
そんな千代と九介の前に、了伯は黙って重そうな油紙の包みを置いた。千代が驚いたように了伯の顔を見る。了伯は大きくため息を付くと、静かにその包みをほどきにかかった。何重にも包まれた油紙がほどかれると、中から大きな文字で「BIBLIA SACRA」と記された一冊の書物が現れた。それは、九介の店の屋根裏から見つけだされたラテン語聖書だった。
「千代殿は憶えておいででしょうか。四十七年前、私がローマへ渡った目的の一つが、このシクストゥス聖書を日本へ持ち帰ることでした。」
天正遣欧使節の少年たちがヨーロッパから持ち帰った二台のグーテンベルグ印刷機。以来、この印刷機は、最初は加津佐のコレジオに、後には天草のコレジオに置かれ、この印刷機によって、日本語に訳されたキリストの教えが、またパードレたちの日本語の学習用にと「平家物語」や「太平記」などの日本の古典が、次々とローマ字印刷物として世の中に送り出されていった。やがてローマ字ばかりか日本の文字そのものを活字にしようという動きが、コレジオの教師や印刷に携わる日本人学生たちの中から起こった。
日本語の複雑さ故に活字化は無理だとするポルトガル人やイタリア人宣教師たちの忠告をよそに、日本人スタッフやコレジオの学生たちは必死になって、この目論見にのめり込んだ。
印刷機を持ち帰った遣欧使節の面々、なかでも原マルチノ、中浦ジュリアン、それにローマで金属活字の製造を学んだドラードが懸命に日本語で神の言葉を伝える重要性を説いた。そして西洋印刷物の美しさに魅せられ、コレジオに通い詰め、その習得に当たった千代の父、後藤宗因が中心となってその開発に心血を注いだ。彼らに従う学生の顔ぶれの中に、トマス荒木がいた。千代の兄ミゲルもいた。学生ばかりでなく、日本語と日本文学の教師である不干斎ファビアンや、ポルトガル人修道士ペレイラもいた。
ペレイラは人一倍トマスをかわいがった。トマスには、彼がまだ五十を越えたばかりだというのに、もう七十過ぎの老人のように見えた。日本人より巧みに日本語を話すと言われた人物で、子供の頃、リスボンの捨て子院から、東方布教に働くパードレの雑務を助けるためインドへ送られた孤児の一人だった。
ペレイラは、刷りあがった印刷紙片を整理しながらトマスによくそのときのことを話して聞かせた。リスボンの港に、見送る孤児たちが一列に並び、インドへ旅立っていく仲間のためにわずかな楽器を奏で、束の間の別れを惜しむ。送る者も、送られる者も、二度と会えないことは分かっていた。分かっていながら、「無事に帰ってこいよ」と、秘かに言葉を交わしあった。
ペレイラは、「今でもあの光景がありありと目に浮かぶ」と、よくトマスを相手に語った。そして、その話をするとき、いつも涙ぐんでいた。その後、急に「いかん、こんなことをしている暇はないぞトマス。ラテン語じゃ、おまえはラテン語を覚えねばならん。日本人の誰より、いや世界中の誰よりうまくラテン語を話すようにならねば……」
いつも、こうして唐突にラテン語の個人教授が始まった。活字を拾いながら、また印刷紙片を整理しながら……。トマスが仲間の誰よりラテン語に通じていたのも、このペレイラの教えがあったからだし、その結果として、日本語版のテキストを収集する目的も兼ねて、トマスがローマへ送られることとなったのだ。
彼らは日本語の活字化を模索しながら、日本語に翻訳するためのテキストとなる原本を求めていた。その第一番は、なんと言っても「聖書」である。彼らは、原マルティノや中浦ジュリアンを通じ、ローマで完全なウルガタ聖書(ラテン語聖書)の改訂が行われていることを知っている。シクストゥスの聖書だ。これを日本語に訳し、日本人の手で造った活字で出版する。
夢は膨らんでいく。
が、イエズス会自体は、このことに対し消極的と言うより否定的でさえあった。日本人の能力を評価し絶賛したザビエルやバリニャーノの時代は終わろうとしていた。むしろ日本人を油断できない野蛮人とする見方がイエズス会の主流となりつつあった。日本人は宣教師とするより、イルマン(同宿)として教会の下働きをさせることが向いている。彼らは野心的でキリストの教えを自らの出世のために利用する。宣教師になりたがるのもそのためであり、彼らには高邁なキリストの教えを理解できない。むしろその奥義を教えれば、野心的な彼らは、キリストの教えをゆがめ伝え、別の宗旨を創りだすことであろう。
これは極端な考え方であり、一方でイタリア人宣教師に見られるように日本人への好意的な態度もあるにはあるが、イエズス会日本布教区自体が日本人への厳しい風潮の中にあり、日本人会員の不満が常に存在し、ポルトガル系会員と日本人会員の間に軋轢があったことも、また事実である。
したがって彼らの夢に一役買ったのも、イエズス会ではなく裕福な日本人信徒の一人であり、長崎の朱印船貿易家でもある末次興善だった。彼は、ヨーロッパでの情報収集とその情報提供を条件に、イエズス会ではなく、末次家として、ローマへ私費留学生の派遣を申し出たのだ。

「私と、あなたの兄上ミゲル殿が、ローマへの留学生として選ばれました。私はラテン語に精通しているという理由から、ミゲル殿は、お父上から印刷術を習得しているという理由からです。
中浦ジュリアン殿は私に言われました。何としてもシクストゥス教皇様の聖書を日本に持ち帰ってほしいと。」
「……ひょっとして、今まで何も分からずお預かりしておりましたが、これがその聖書でございましょうか?」
今まで黙っていた九介が口をはさんだ。
「そうです。私と、千代殿の兄上がローマへ渡った目的の一つが、このシクストゥス聖書を持ち帰ることでした。しかし、それは嫌でもキリスト教世界の現実と向き合うことを意味していたのです。」
「……トマス様、ご自分の弱さを、キリスト教世界のせいにされるおつもりですか。トマス様の信は、そのようなものに動くような浅いものだったのですか。」
千代の言葉が急に厳しいものに変わった。
やがて長い間、諳んじてきた教理入門書「どちりなきりしたん」の一説が、涙と共に彼女の口からこぼれ始めた。
「デウスパーテレの真の御子にておはします神の子、貴きビルゼンマリアの御胎内において、我らが肉体に変わらざる真の色身と、真のアニマ(魂)を受け合わせ給いて、真の人となり給うといえども、デウスにておわします御所は、変わり給うことなく、いつも同じきデウスにておわします也。このビルゼンサンタマリアより生まれ給うを名付けてゼズキリシトと申し奉る也。またこの御出世は人の業をもてのことにあらず。ただスピリツサント(聖霊)の御奇特をもて計らいたもうことなればスピリツサントより宿され給うと申し奉る也……」
「神の子」であると同時に「人の子」でもあるイエスの誕生こそ、「父」と「子」と「聖霊」の三位一体というキリスト教独自の教義の根拠であり、これを過去のこととしてでなく現在の指針として思い浮かべ自分の生活の根拠とすること、そこからキリスト教の信仰は始まる。それはキリスト降誕を紀元〇年とし、彼の殉教と復活を通して「最後の審判」に至る世界観と時間的観念を受け入れることに他ならなかった。この思想を定着させるために、「言葉によって伝えられる教義」が必要とされ、「降誕祭(クリスマス)」や「復活祭」さらには「洗礼」や「告悔」という儀式が必要とされた。

トマスいや了伯は、千代の声を聞きながら母を思った。母に連れられ行った高槻の教会を思った。そして自分にとってキリスト教とは何だったのかと思った。


有岡城の攻防

トマスは生まれたときからキリシタンだった。
父、荒木忠通は摂津を支配する荒木村重に仕えていた。同じ荒木姓と言っても血筋がつながっているわけではない。元は池田姓を名乗っていたが、祖父久左衛門のとき、荒木村重に望まれて有岡城の家老となった。その折り、荒木姓まで賜ったということだが、池田家二十一人衆の筆頭だったという実力と、その温厚実直な性格のためか古参の家臣衆の嫉妬をあおることもなかったという。
トマスの父忠通は、そんな久左衛門が、若い頃、池田の百姓の娘に生ませた子供だという。
父忠通がキリシタンとなったのは、同じ荒木家配下にある高槻城主高山右近の影響によるものだった。忠通は、同じ年輩ながら右近を自らの茶の師と仰ぎ、築城術の達人と賞賛し、その潔癖さがやや煙たくはあるものの右近の人となりにかねてより敬服していた。
その右近から、自らの婚姻の儀式に立ち会ってほしいと、忠通ばかりか妻の時子までが招待された。結婚の相手は古田織部の妹ジュスタ。織田信長の薦めを荒木村重が取り持っての話であり、いささか政略的なにおいもないではないが、それより何よりジュスタが熱心なキリシタンであることが右近の心を動かしたようだ。婚姻の秘蹟は新たに完成した高槻の天主堂で行うという。
教会といっても、当時は神社や仏寺をそのままキリスト教会に転用する場合が多く、そんな中にあって高槻天主堂は小規模ながらも、右近と飛騨守父子が心血を注いだ司祭館まで備えた本格的天主堂だった。しかし忠通は天主堂よりも、右近の修築した高槻城に興味があった。高槻城は久米路山に築かれた城だ。久米路山と言っても小さな丘のような小山で、平城にも等しく守るに難しい城である。右近は修築に際し、この欠点を濠を深く広くすることによって解決した。そればかりか内濠外壕のまわりにまだ一つの壕を巡らし、まるで湖に浮かぶ島のような城に仕上げてしまった。
人は、右近とキリシタンの関係から、それを南蛮わたりの技術であるかのように思う。が、実際は右近が堺に滞在中、上泉秀綱に教授された築城術に依っていた。
右近にはこういった誤解がつきまとう。右近と付き合っていれば、南蛮の技術や産物、いや何かの折りには南蛮の援助さえ得られるのでは……そんな思惑から右近に接近する者も多くあった。主筋にあたる荒木村重しかり、織田信長またしかりである。右近を友とも師とも思う忠通にしてからが、右近を見る目にそういう思いがないとは言い切れなかった。
忠通は、右近の説くキリシタンの教えは「たしかに道理にかなっている」とは思うのだが、自ら進んでキリシタンになる気はない。特にキリスト教の説く一夫一婦制、しかも一度娶れば離縁できないという教え……このことだけは日本にはあわないと思う。道義的な意味からばかりでなく、政治的にも子孫を残すことを、すべてに優先させなければならなかった時代なのだ。
「右近の説くキリストの教えとやらは潔癖に過ぎる。これではわしのような男は近づくこともできん。」
しかし、高槻を訪れこの思いが一変した。理屈ではなかった。思想でもなかった。今まで目や耳にしたことのない、南蛮の色彩と音に包まれ、キリスト教に魅了されてしまったというのが本当のところであろう。
一五七四年(天正二年)の暮れ、右近とジュスタの結婚の秘跡が高槻の天主堂で厳かに執り行われた。新築された天主堂の祭壇。オルガンティーノ神父の深紅のマントの鮮やかさ。純白の打ち掛けに身を包んだジュスタの清楚さ。黒いアビタ(修道服)に身を包んだ右近の凛々しさ。オルガンの響き……そこへ賛美歌がかぶさり、やがてよく通るオルガンティーノ神父のラテン語が響きわたる……忠通等夫婦ばかりでなく、列席者のすべてが体験する初めてのキリシタンの結婚式であった。ラテン語の意味は分からなくとも、その簡素さと厳粛さに列席者は感動しため息をついた。特に政略の道具として扱われてきた女たちにとって、キリスト教の示す夫婦の姿は、まさに彼女らが渇望して止まなかったものであったに違いない。
そんな雰囲気に飲まれるように、忠通夫婦はキリシタンとなった。右近の結婚から一月後のことである。そしてその半年後、忠通夫婦に待望の男児が生まれ、高槻の天主堂で洗礼が施された。
洗礼名はトマス、名付け親はジュスト高山右近、洗礼をほどこしたのは、後に安土セミナリオの校長となるイタリア人ニエッキ・オルガンティーノ神父だった。
キリスト教に改宗してからというもの、忠通にとってすべてが順調に進んだ。織田信長はキリスト教を厚く遇した。村重もまたキリスト教を厚遇し、キリシタンに改宗した忠通を重く用いた。村重の場合、それはただ単にキリスト教に利用価値を見いだしたというばかりでなく、高山右近を押さえておくというさし迫った問題を抱えていたからでもあった。このため忠通は、何かにつけ高槻の右近のもとへ使いに出された。右近を友とも師とも仰ぐ忠通にとって、それは願ってもないことであったが、その裏に隠された村重の意図に気付くことはなかった。
村重は、信長への謀反の思いを心の奥に秘めていたのだ。その思いが一五七八年(天正六年)秋、具体的な形となった。村重が突如、石山本願寺や毛利勢と通じ、信長に反旗を翻したのである。
トマスが三歳を迎えたばかりの頃であった。
「村重謀反」の報に接するや、右近は直ちに有岡城へ赴き、村重に対し、何よりこの戦いが不正であり忘恩であることを弁じ、その不利と無謀さを説いた。そのうえで信長への赦しを請うべきだと主張したのだ。右近はこのとき、二心なきことを誓うため三才になる一人息子を人質として村重に差し出した。この右近の誠意に村重は動かされた。たしかに信長自身、この時期、腹背に敵を有しており、摂津という重要な地点を敵に回すことはできない。右近の主張には説得力があり、説得は効を奏したかに見えた。しかし村重は、謝罪に安土へ赴くという土壇場になって「信長が自らへの反逆を赦すはずがない」という恐怖感にとりつかれ、強硬派中川清秀に勧められるまま、有岡城へと帰城してしまったのだ。
こうして、右近も村重と共に信長と戦う羽目に陥った。
村重謀反の報を受けるや、信長は、まず高槻に兵を進めた。しかし高槻城を一目見るなり、その堅固さに驚嘆すると共に、この城をここまでにした高山右近という人物に驚嘆した。まともに攻めれば攻める側にも莫大な損失を覚悟しなければならない。それにもまして戦いが長期化すれば、こちらの自滅にもつながりかねない。本願寺攻めにも、西国の動きを牽制するにも、摂津はその要となる重要な地点である。
信長にとって、早期の紛争解決こそが最重要課題であった。
このため信長が真っ先に手を打ったのが、右近の懐柔である。信長は右近の動きを封じるため、キリシタン宣教師を人質に取った。右近が村重に味方するようであれば、「日本のキリシタンを根絶やしにする」と脅しつけたのだ。言葉だけの男ではない。
かと言って、村重のもとには二心なきことを誓うため、自ら息子と妹を人質に出している。どちらにも動けない右近であった。思いあまったあげく、父ダリオ飛騨守は村重に味方し、右近はキリシタンとしてすべてを捨て出家するという捨て身の道を選んだ。
信長にとっては、それで十分だった。出家し中立を守ろうとする右近を却って重く用い、その仲介に当たったイエズス会宣教師をも、今まで以上に厚遇した。そうすることで荒木側に右近の寝返りを強く印象づけ、その士気を阻喪させることをねらったのである。
信長は、高槻城に次いで茨木城を守る強硬派中川清秀を懐柔するや、いよいよ有岡城への総攻撃を開始した。降伏の勧告はなく攻撃は熾烈を極めた。それだけに守り手も死に物狂いで防戦につとめ、堅固な城塞と相まって、寄せて側に多大な被害を与えた。
信長は持久戦への変更を余儀なくされた。兵糧攻めにしようという作戦だが、町屋までも城郭に包み込んだ有岡城は兵糧攻めに強く、籠城戦は長期にわたる様相を呈し始める。そんな中、高山右近も封鎖網の一翼を担わされることとなり、やがて有岡城を包囲する旗印の中に、右近のクルスの旗印が翻ることになった。
右近が寝返った……。少なくとも籠城側にはそう映ったし、結果として事実はその通りでもあった。有岡城を守る側にもかなりの数のキリシタンがいる。そして、そのほとんどが右近の勧めで教えに入った者たちだ。
右近が包囲網の一翼を担ったのは昆陽口の砦であり、有岡城からは北西の方角に当たるが、この一角に翻るクルスの旗を見たとき、忠通は何を思ったろうか。「右近だけは」と信じていた思いがぐらつきはしなかったろうか。この戦いへの疑問を大きくふくらませはしなかったろうか。この戦いは本願寺に加勢しての戦いである。キリシタンにしてみれば異教徒に加勢しての戦いであり、戦いの義が立たない。聞けば右近は、宣教師やキリシタン信徒たちを守るために信長側に寝返ったという。しかし、なぜか釈然としない……
右近は、すべての立場を捨てキリスト教に生きようとしたのではなかったのか。武士というしがらみを捨て、信長にも村重にも組みしない道を選んだのではなかったのか。その男が、なぜ、信長の一武将としてこの有岡城を包囲するのか。
俺はいったい何のために戦っているんだろう。そんな思いに責めさいなまれる日が続いた。そんな矢先、今度は、城主村重が逃走した。「夏には……」と言っていた毛利の援軍は十月に入っても来る気配はない。「かくなるうえは」と、村重自ら「毛利へ救援を求めにいく」と有岡城を脱出したのだが、その村重も尼崎城に逃げ込んだまま動こうとしない。聞けば村重の大事にしていた名物茶器がすべて有岡城からなくなっている。「青磁の花入れ」「高麗茶碗」「立桐筒」「小豆鎖」……何一つ残っていない。
村重に戻ってくる気はなかったのだ。
十月も終盤に入るや、荒木側には裏切りや逃亡が相次いだ。最前線の上臈塚砦も、中西新八郎や宮脇平四郎の裏切りのため、寄せ手の滝川一益の軍兵を戦わずして迎え入れた。
ほぼ一年にわたって頑強な抵抗を示した防衛線も、一角が崩れるや一気に崩れ始める。町に火がかけられ、各砦は本城との連絡が絶たれ混乱に陥る。降伏は赦されず、惨酷な殺戮が繰り返され、悲惨な報せだけが次々と有岡城へ押し寄せてくる。
こうして三の丸までが信長勢の手に落ちてしまった。
そんな頃、包囲軍の一翼を担う高山右近から忠通へ秘かに一通の書状が届けられた。
忠通とその家族に有岡城脱出を勧める書状であった。
それによれば、村重が尼崎城に逃れたことにより、包囲軍もその半数が尼崎城に振り向けられ、右近も信長の命により、尼崎城を望む塚口の砦へ移動したという。村重の城抜けにより、信長の怒りは並々ではなく、今降伏しなければ、信長は誰一人として生かしておく気はないだろう。こうなったからには、せめて奥方とトマスだけでも脱出させるようにというのだ。
幸い明日は、忠通の父荒木久左衛門に率いられた一隊が、尼崎にいる村重を説得し、尼崎・花隈城を開城させるとの条件で降伏勧告のため城を出ることが許されている。その間は、織田勢の攻撃もストップされるばかりか、久左衛門率いる一隊に注意が注がれ城内の味方の監視さえ手薄になるだろう。この混乱に乗じてトマスと時子を猪名川から舟で逃がすように……猪名川の警戒は右近の手の者が行っているので、舟で迎えに出るというのだ。
その夜、忠通は二人の部下を伴い、時子のもとを訪ねた。
「俺は、明日、親父殿について尼崎城へ向かう。荒木の殿を説得し、尼崎、花隈の城を明け渡して降伏し、残された者たちの命乞いをしていただくためだ。もし、かなわぬときは、荒木の殿と戦うことになるやも知れぬ。また逆に荒木の殿に合して戦うことになるやも知れぬ。そうなれば、信長殿はこの城に残された者たちを赦しはしないだろう。どんな苛酷な刑を科してくるか知れたものではない。俺はキリシタンである前に武士だ。今となっては、どのような立場におかれようと見苦しくない死だけを願っている。ただトマスやそなたには、自分に果たせなかったキリシタンとしての一生を全うしてもらいたい。」
忠通は、妻時子と三才になるトマスを部下に託した。

翌早朝、久左衛門らが大手口に集結した。降伏勧告の使者として尼崎城へ向かうためだ。その数は三百におよんだと言う。その三百に及ぶ一隊の周囲を見送りの家族たちが取り囲んでいる。
忠通は久左衛門の隣にあって、幼い弟の自念が乳母に連れられ見送りに出ているのに気が付いた。忠通にとっては腹違いの弟に当たる。そっと父の横顔を見た。父久左衛門が幼い自念をどんなに可愛がっているかよく知っている。父はその幼い息子を残して出発しようとしているのだ。久左衛門にしても残された者の運命を考えると、できるものなら連れていきたいに違いない。しかし人質として残していく部下の家族たちのことを考えると、それだけはどうしてもできることではなかった。
そんな父の気持ちを思うと、忠通の心に、何か後ろめたいものが走った。
(時子やトマスは無事に城を抜け出したろうか。)
やがて大手門が開かれ久左衛門に率いられた一隊が、尼崎城へ向けて整然と出発していった。出発していく久左衛門と、自念の眠そうな目が合った。父久左衛門は何も言わない。苦渋に満ちた顔を背けると、まるで未練を振り切るように黙々と歩を進めていった。
外は嘘のように静まりかえっている。銃声も、雄叫びも、死を前にした男たちの叫び声もない。ただ一隊の行方を、敵と味方の眼差しだけが執拗に追っていた。
そんな有岡城を後目に、猪名川を舟で下る三つの人影があった。真ん中にはトマスを抱いた時子の姿があり、その後ろには甲冑に身を固めた老武者が刀を抱えてすわっている。そして舟の舳先では野良着に身を包んだ若い武者が棹をとっていた。

久左衛門らの一隊は、やがて尼崎の城へと到達した。しかし村重は、降伏を進める久左衛門等を前に、城の門を閉ざして出てこようとしない。そればかりか執拗に降伏を迫る一行にいきなり銃撃を開始したのだ。こうなっては逃げるしかなかった。久左衛門の一隊は、尼崎城を前に蜘蛛の子を散らすように四散していった。これを見守る織田勢も咄嗟のことで何が起こったのか分からない。見る間に久左衛門の一隊は散り散りに消えていった。
そしてこの後、ある者は淡路島に、ある者は高野山へ逃れ、一人の男を除いて有岡城へ帰った者はいなかったという。
一説には、この逃走劇は、荒木家再興のため、毛利の援軍が来るまで荒木勢の主だった者を温存しておこうという村重と久左衛門が共謀して打った大芝居だという。しかし、その見返りは大きかった。怒った信長の戦後処理は苛烈を極め、有岡城にとどまった者は、男女子供の区別なく、非戦闘員である賄いの女性に至るまでことごとく殺戮されてしまった……。

話を戻そう。
尼崎城を背景にした村重と久左衛門のやりとりに周りの目が集まっているとき、トマスを乗せた舟は、猪名川を塚口近くまで下って来ていた。……と、そのときだ。
棹を取る若者が注意を促した。あわてて筵をかぶり身を隠す二人。と、前方の薄もやの中から一隻の小舟が近づいてくる。若者は、すわ敵かと身がまえたが、こちらの様子を察したのか、いきなり一人の武将が白地に黒のクルスの旗を高々と掲げた。
「おお、右近様の迎えの方々だ!」
張りつめた気持ちが一気にゆるんでいく。
やがて二隻の舟は岸に接岸した。クルスの旗を持った男が岸に着くのを待ちきれずに舟を下り、こちらへ向かってくる。
男はクルスの旗を傍らの者に手渡し深々と頭を下げた。
見れば、それは高山右近自身であった。
時子は驚いた風もなく、右近に深々と頭を下げると、
「右近様のお導きで、私たち夫婦は短い間でしたが、真の夫婦としてよみがえることができました。夫忠通は、今朝、久左衛門様と共に尼崎へ向かいましたが、本心は有岡城へ戻るつもりでございます。トマスを右近様に託しました上は、この私も有岡の城へと戻り、夫と最後まで生死を共にし、夫への愛、ひいてはデウス様への愛を全うしとう存じます。つきましては、この子のことのみが気がかり。厚かましゅうはございますが、トマスのことくれぐれもお頼み申します。」
時子は、老武者に手を引かれて立つトマスの首に漆細工の小さな聖画入れをかけてやった。かけながら背をかがめると、
「母は、やはりそなたの父上の許へ帰ります。もし、生き長らえるようなことがあれば必ずそなたを迎えにまいります。……が、もう会えないかもしれませぬ。そのことは覚悟しておくのですよ。この中にはマリア様のお姿が描かれています。さびしくなったら、これを母と思うて生きていってくだされ。」
それは黒漆に金蒔絵で十字が描かれた楕円形の容器であり、蓋を開けると、中に小さな聖画が入っていた。そこには幼子イエスを抱くマリアの優しい姿が描かれていた。

やがて時子を乗せた小舟が有岡城へ向かい帰っていった。
トマスは、右近の手をにぎりながらその姿を見送った。
その胸に、「生きていれば必ずそなたを迎えにまいります」という母の言葉がいつまでも残った。



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