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ブルーノとの再会

トマスが目を覚ましたのは、暗闇の中だった。
背中に冷たい土の感触がある。
部屋の隅のほうにほんの幽かな明かりが射し込んでいる。
(いったい、どこなんだろう?)
体を起こそうとすると、後頭部にひどい痛みがはしった。思わずその部分に手をやると、生ぬるい血がべっとりと付いてきた。
「やっと帰ってきたな……」
暗闇の中に懐かしい声が響いた。
トマスはしばらくの間、自分が今どこにるのか分からなかった。
(懐かしい声だ……でも誰なんだろう? イタリア語……いや違う。ラテン語で「お帰り」と言っているんだ。この声は、ブルーノ……ジョルダーノ・ブルーノの声だ。)
「そう、君はサンタンジェロ城の牢獄へ帰ってきたという訳だ。牢獄の中と外という違いはあるが……まあ、君も今や立派な囚われ人という訳だ。」
「……………」
「と言っても、これもアレッサンドロ枢機卿の計らいの一つだ。君はやがて釈放されるだろう。君はイタリア各地への遊学からローマへ帰ってきたところ、あの暴動に巻き込まれた。そして暴徒と間違って逮捕された……という筋書きだ。」
(そうだ、僕はチェンチ一族の処刑に出くわしたんだ。)
「ミゲルやバルトロメオは、どうなったんでしょう?」
「君がこの牢獄へ放りこまれ、しばらくしてからのことだ。アレッサンドロ枢機卿の息のかかった看守を通じて、この手紙が届けられた。」
トマスは、ブルーノの差し出す手紙を、幽かな明かりにかざしてみた。
「…………?」
「換字式の暗号で書かれてある。ラテン語に置き換えられた上に、アルファベットが一字ずつずらして書かれている。慣れていなければ、この薄明かりでそれを解読するのは至難の業だろう。要するに、君がチェンチ一族の処刑に立ち会っている間、ミゲルやバルトロメオは、君たちがフィレンツェで知った『シクストゥス聖書』の隠し場所──チェンチ家の礼拝堂を探しに行ったというのだ。皆の目が処刑に向けられ、今なら誰にも怪しまれずに探し出せると思ったのだろう。」
「……で、見つかったのですか?」
「いや、見つからなかった。祭具室はもぬけのカラ。何一つとして残されていなかった。すべて没収された後だった。」
「そうですか……」
残念というより、なぜか安心感がトマスを包んだ。
「……しかし、トマス、君はすでに見つけているとも言える。『シクストゥス聖書』を探す過程の中で、君は、キリスト教世界について、ずいぶん様々なことを知った。普通では知り得ないことばかりだ。それはキリスト教の闇の部分と言えるだろう。
そうとも『シクストゥス聖書』を探すということは、キリスト教の闇と出会うということなのだ。その闇の中で、一つの宗派や宗教にとらわれず、本当のことを知ろうとする流れがあることも知ったはずだ。それは遠い過去から今にいたり、さらに果てしない未来へと続いていく。真実はいつもスルリスルリと人間の手から逃げていく。それを人は、生まれ変わり死に変わりして、どこまでもどこまでも追いかけていくことだろう。いつか人は、自分の中に本当のものを見つける日が来るかも知れない。それまでは、自分の進む道が闇と分かっていても、進まざるを得ない。私自身、何も分かっていない。分かっているのは今のキリスト教は間違っているということ、ただそれだけだ。
アレッサンドロ枢機卿が伝えてくれた情報に依れば、私が火刑にされることも決まったようだ。もう言い逃れする必要もなくなった。自分が主張してきたことがすべて正しい、これこそが真実だなどとは思っていない。しかし、私は自分の考えを訂正するつもりはない。キリスト教は間違っている、真実に至る道ではないことを伝えるためにも、私は自分の思想に殉じるつもりだ。火刑が決まった今、自分に残された道はそれしかない。たとえ、それが闇を行く道だと分かっていても……。」
「……………」
「トマスよ、アレッサンドロ枢機卿によろしく伝えてくれ。君を送り込んでくれたことが何よりの餞だったと。そしてベラルミーノ枢機卿には気を付けるようにと。彼は私たちが思っているより、多くのことを知っているようだ。トマス、君自身も、これ以降、彼の監視下に置かれることになるだろう。君は生きて日本へ帰ってくれ、そして日本で何があろうと生き抜いてほしい。それが『シクストゥス聖書』を探すものの宿命だ。
バルトロメオにも、ミゲルにも……君とも、もう会うことはないだろう。次に会うことがあるとすれば、それは私の処刑のときかも知れない。」

やがて看守の足音が近づいてきた。そして牢獄の扉が開かれた。
「トマスアラキ! 釈放だ。」

開けられた扉の向こうに、朝の光が石の階段を滑り落ちるように広がっていた。
トマスは屈むように扉をくぐると、今一度振り返り、ブルーノの顔を見た。そして訳もなくただ頷きあった……。

再び闇が帰ってきた。
その闇の中で、ブルーノはノストラダムスという男のことを思った。今回のことは、すべてあの男の言葉から始まった。
「将来、ローマ教皇になられるお方……」
その言葉が、フランチェスコ会の若い修道士フェリーチェに向けられたときから、この物語は始まったと言える。ノストラダムスの言葉がフェリーチェを縛った。
「猊下の耳に、この私、ノストラダムスの名声もいつか伝わっていくことでしょう。」
その言葉通り、フェリーチェの耳には、予言者としてのノストラダムスの名声が次から次へと伝わってくる。それに伴い、自分に向けられた予言も重きをなし、ますますフェリーチェを縛ることになる。この予言に縛られるようにフェリーチェはローマ教皇となり、シクストゥス五世として即位した。ローマ教皇になった日から、シクストゥスの新たな懊悩が始まった。それは、ノストラダムスは、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディチの庇護がなければ、異端審問で火炙りにでもにかけられるような男だということだ。
「あんな異端者の予言によって、私はローマ教皇になったのではない。神が私を必要としたからローマ教皇となった。私は神に選ばれた者だ。」
これがシクストゥスの思いの中核となった。そして、ノストラダムスを否定する中で、彼は、いつしかノストラダムスの影響を受けていたと言える。カトリックの庇護者と自他共に認める「シクストゥス五世」こそ、ノストラダムスやルネサンスの影響を、誰よりも受けた者だったのかも知れない。
シクストゥスは、カトリックの庇護者である自分を内外にアピールすべく、必死に働き、そして、カトリックの看板である「ラテン語聖書」の改訂を目指したのである。
その思いが天正少年使節を通じて、海を越え日本に伝わり、日本のキリスト教信者をも縛ることとなった。ノストラダムスの見えない言葉の魔力が、トマスという日本人青年にキリスト教世界の闇を伝えることともなったのだ。
「ノストラダムスよ、あなたはあの日本の青年に、とんでもない重荷を背負わせたのですぞ。あなたは、トマスのこれからの人生をも分かっていたとでも言う積もりでしょうか。すべては、星の世界に預言されていたこととでも言うのでしょうか?」


ベアトリーチェの亡霊

千代は、まだ「サントスの御作業」の暗唱を続けていた。
「……然れば武士どもは方々を尋ね申せども、逢ひ奉らざる故に、ある童二人を召し捕り、拷問して、その御すみかを知り、サント(聖人)のしのび居給ふ御宿所に乱れ入るものなり。サントは逃がれんと思し召さば、もつともやすきことなれども、既にデウス(神)の御定めの時節は今なりと知ろしめして、彼等が迎ひに出で給ひ、内に請じて好膳を供奉し給ひ、その間にデウスヘオラシヨを申し上げ給ふものなり。武士どもこれを見て、さてもこれほどの善人に縄をかけんことはと猛き心にもいたはり申すなり……」
「サントスの御作業」は、ヨーロッパから運び込まれた印刷機で、一五九一年に加津佐でローマ字本として印刷された。印刷機を持ち帰った天正遣欧使節の人たちや、コレジオ、セミナリオの教師等を中心に、この出版作業が続けられたのだが、その作業を手伝った学生の中に、トマスや兄のミゲルもいた。幼い千代も、コレジオによく遊びに行っては、刷り上がった紙片を教材に、トマスからローマ字の手ほどきを受けたものだ。
千代の暗唱は、そんな「サントスの御作業」の中、ポリカルボ伝にまでおよんでいた。
耳を傾けていたトマス、いや了伯から、ポツリとその後の句が漏れた。
「……そのオラシヨの終りに思し召し出ださるるほどのキリシタンのためにデウスを頼み給ひ、御回向も終りぬれば、武士どもサントを驢馬に乗せたてまつて、糺し手の前に引き奉るなり……」
千代の暗唱が止まった。
そして涙を拭おうともせず、トマスの顔を見つめ直した。
トマスは、その問いかけるような眼差しに向かって言葉を続ける。

私自身、糺し手の前に何度か引き出されることになりました。その最初は、日本のお役人の前ではなく、ローマで、しかも、キリスト教の良心とまで言われたベラルミーノ枢機卿の前に引き出されたのです。私がフィレンツェから帰り、ベアトリーチェ・チェンチ処刑後の暴動が一段落を見せた頃でした。ベラルミーノ師は言われました。「シクストゥス聖書は見つかったのか」と。
私が何と答えてよいか分からず黙っていると、「チェンチ家の礼拝堂を探しに行ったのは分かっている』と言われ、『……何も見つけられなかったであろう」とも言われました。
「シクストゥス聖書は、異端者たちの影響を深く受けたものだ。だからこそ、教皇の死後、そのすべてを消滅させねばならなかった」。事実、ヨーロッパ中に配された優秀で仕事熱心な異端審問所の活躍によって、すべての『シクストゥス聖書』は回収され焼却された。ただの一冊といえど、ヴァチカンの作りだしたこのネットワークから逃れることはできなかったはずだ。それが、トマス、遠く東の果てから来た君たちが『シクストゥス聖書』のことを知っていた。そればかりか、底本にこの『シクストゥス聖書』を使って、日本語版の『新約聖書』をつくりたいなどと言う。
あれから、すべてが狂いだした。わしの警告にも関わらず、君たちはは『シクストゥス聖書』について嗅ぎまわりはじめた。まあ、そのおかげで異端の組織の存在が浮かび上がってきたわけだ。おそらくヴァチカン内部にも、その勢力は入り込んでいるのだろう。」
静かにうつむき加減で話すベラルミーノの顔がそっと持ち上げられ、そのするどい目がトマスに向けられた。
「だからこそ、『シクストゥス聖書』にあのような細工をすることができたのだ。
トマス、誰のことか分かるかな?」
「……シクストゥス様の秘書官のことでしょうか?」
「そればかりではない。おまえも現にその目で処刑を目撃したであろう。あのチェンチ一族にしたところで間違いなくこの組織の人間だ。彼等に口を割らせられればよかったのだが、あるところまで以上は追いかけることができぬ。部分部分は分かっても、その全貌を知る人間はいない。チェンチの娘ベアトリーチェにしたところで、自分が無実の父親殺しの罪で捕らえられたとしか思っておらぬ。」
「やはりローマの人々が言うように、ベアトリーチェは無実だったのですね。」
「奴らは何も分かっておらぬ。何も知らぬくせに『ベアトリーチェは無実だ。彼女の言い分にヴァチカンはもっと耳を傾けるべきだ』などと騒ぎ立てる。」
「……無実ではないのですか。」
「無実だ。フランチェスコ・チェンチを殺させたのは、他でもない、この私だ。チェンチ家は、代々ヴァチカンの会計係をしておったが、カタリ派の流れを汲む異端をも信奉しておったようじゃ。私はあの『シクストゥス聖書』については、あれは教皇一人でやったことではないと思っておった。確かに教皇は頑固で、ルネサンス期のユマニスト(人文主義者)たちに反発するあまり、逆にその影響を受けていたと言えなくはない。しかし、聖書の中に、あのような文言を挿入する人物ではない。そこで、私は当時のシクストゥス教皇の周辺を調べだした。そうしたら、フランチェスコの奴、何を怯えたのか、一族をあげてローマから逃げ出してしまった。おかしいと思い、残されたチェンチ宮を異端審問所に命じ徹底的に調べさせた。結果、チェンチ家の礼拝堂から、書き写された『マリアの福音書』が見つかった。イエスの身近に居たというマグダラのマリアが、イエスの言葉を書き残したものだといい、カタリ派の信者に大事にされておったものだ。もちろん偽りであり、異端の書であることに間違いはない。これがフランチェスコ一人にとどまらず、調べていくに連れ、シクストゥス教皇の秘書を含め、教皇の周囲にいる人間や枢機卿にまで異端者が及んでいることが分かってきた。
しかし、彼等以外に具体的な人物が特定できないばかりか、証拠がない。おおっぴらに騒げばヴァチカンの威信を傷つけることになるし、そこから『シクストゥス聖書』のことに及ばないとも限らない。そこでフランチェスコ・チェンチの逃亡先の城代を買収し、彼等の周辺を探らせることにしたのだが、そのことがフランチェスコにばれ、争ううちにやむなくフランチェスコ・チェンチを殺す羽目になってしまったという。」
「ではチェンチの残された一家を親殺しの罪で裁くのは……」
「一族こぞって異端を信奉しているように思われる。かといって、それを表面に出すことはできない。センセーショナルな事件をでっち上げ、目をそちらに向けさせる。
派手で悲劇的なことほど人は信じやすい。その間に、ヴァチカン内部にどれほど異端が浸食しているか、一族を徹底的に調べ上げ、そのうえで親殺しの罪で死んでもらった。」
「惨いことを……」
「今、この時期、ヴァチカンはユマニストやプロテスタントたちを相手に戦っている。ヴァチカンの威信が地に堕ちれば、この世界は、巨大な闇の支配するところとなろう。もっと惨い世の中が訪れる。」
ベラルミーノは、思った。
「教皇が私のことをあれほど嫌っていなければ、『シクストゥス聖書』のことは事前に阻止することはできたはずだ。しかし、教皇は私のことを病的なまでに毛嫌いしていた。かねてから自分の考えに何かと意見がましいことを言う私に対し、教皇は何度も怒りを爆発させ、シクストゥスが教皇職にある間、私は任務にことよせイタリアを離れるという避難措置さえとらなければならなかった。
しかし、ことここに至った上は致し方ない。今は、ヴァチカンに巣くう異端の根を一掃せねばならない」
「では、私たちはそのために……」
「そうとも、『シクストゥス聖書』のことを嗅ぎまわるおまえたちを囮にして、この際、ヴァチカン内部にまで入り込んだ異端の根を摘んでしまおうと思った。トマス、そのために君たちには重荷を背負わせることになるだろうが、それも自分の選んだ道……ただ、どうしてもアレッサンドロ枢機卿の尻尾をおさえることができなかった。まあ、それも時間の問題だろうがな。
……で、どうであった? これが君たちが知りたかったことのすべてだ。何か収穫があったのかな。キリスト教の闇の部分をその胸にドッサリと抱え込んで、おまえはそれでもキリスト教を信じていけるというのか。日本人とは、よけいな苦労を背負い込むのがとことん好きな人種のようだな。
……安心したまえ。シクストゥス聖書がないと分かった今、おまえたちを罰しようとは思っていない。それどころか君たちが望む教区司祭にも叙任されるようにしてやろう。かえって苦しみを背負うことになるだろうが、それも君たちの選んだ道だ……」

トマスの話に耳を傾けていた千代の亭主・九介がたまらずに口を挟んだ。
「トマス様、シクストゥス聖書が見つからなかったというなら、そこにある聖書は一体……? トマス様はたしか……」
「チェンチ家の礼拝堂にはなかったということです。だが、シクストゥス聖書は思わぬ場所に隠されていました。私たちが暮らすコレジオ・ロマーノの図書室に堂々と置かれていたのです。」



コレジオ・ロマーノ、それはトマスらが寄宿生活を送る場所。フィレンツェへ旅立つ前、トマスは、ベラルミーノ師にこの図書室へ連れてこられ、一冊の聖書を託されたことがあった。
「シクストゥスの聖書は誤植が多すぎるため廃版になりました。次のクレメンテ教皇のとき、シクストゥス=クレメンテ聖書として改訂版が出されました。今ここに用意したものがそうです。イエス様のご生涯を日本語に訳されるには、この版をテキストに使われるとよいでしょう。」
そう言って託された聖書、妙にそのことが気になって仕方がなかった。ベラルミーノ師の言葉が、トマスの心の中で反響し、それが何か大きな不安となって、重たく自分にのしかかってくる。
その声を思わず振り払おうとして、目が覚めた。
そこはコレジオ・ロマーノのトマスらの寄宿部屋。
トマスの目覚めるのを待ちあぐねていたかのように、ドアのところに一人の少女がこちらを見つめていた。
(チェンチ……、ベアトリーチェ・チェンチ。)
恐怖心はなく、トマスは心の中で、その名を呼んでみた。
ベアトリーチェは、軽く頷くと、うながすようにドアの外へと消えていった。そして、彼女に導かれるようにして着いたのが、コレジオ・ロマーノの図書室だった。
シクストゥス=クレメンテ聖書。その聖書は、ベラルミーノ師に勧められたときのまま、閲覧台の上に置かれてあった。
トマスのもの問いたげな目に、ベアトリーチェの目が大きく頷いたかのように感じられた。


 
「実はシクストゥス聖書は、表紙だけを取り替えられたうえで、ベアトリーチェの手で持ち出され、彼女が捕らえられていたサンタンジェロ城の祭具室にある予備の聖書とすり替えられていたのです。それがどんな経緯からか、コレジオ・ロマーノの図書室に移され、それをあろうことか、シクストゥス聖書をこの世から消滅させようとしたベラルミーノ枢機卿本人の手で、私どもに手渡されていたのです。表紙を換えられてしまえば、もう何も分からない。私自身、ベアトリーチェの亡霊に導かれることがなければ、容易に見つけることは出来なかったでしょう。でも見つけてしまえば、あとは、翻訳のためのテキストとして日本に持ち帰らせてほしいと依頼するばかりでした。」
千代と九介の目が、目の前にあるシクストゥス聖書に釘付けとなった。
そんな二人にかまわず、トマスは話し続ける。
「話を戻しましょう。ベラルミーノ師は、師のもとを辞そうとする私に最後にこう言われました。」
「ブルーノの処刑は来年の二月に決まった。カンポ・デ・フィオーレで火炙りとする。そのときは、トマス、君にも立ち会ってもらう積もりだ」と。
「……分かってはいましたが、ひょっとしてアレッサンドロ枢機卿の働きでブルーノ様も助かるのでは、そんな思いもありました。しかし、その希望も絶たれてしまいました。
ブルーノ様の処刑が決まったということは、それは同時にアレッサンドロ枢機卿に代表されるカトリックの革新を目指す勢力が、ベラルミーノ師に代表される保守勢力に破れたことを意味していました。ブルーノ様の処刑を機に、反動の嵐が吹き荒れるのは目に見えていました。
しかし、アレッサンドロ様の巻き返しも激しく、クレメンテ八世猊下が一六〇五年三月に崩御されるや、メディチ家の力やフランスの力を背景にして、師は、第二三三代ローマ教皇レオ一一世として即位なされたのです。師は、フランス王妃マリー・ド・メディチの姻戚だったから、師の即位が決まるや、トスカーナ公国やフランスは喜びの渦に包まれました。トスカーナ大公も、堅物のベラルミーノより、やはりメディチ家出身の教皇のほうが扱いやすいと思ったのかも知れません。フィレンツェやフランスばかりだけではなく、ローマの市民もその寛大な性格を愛し、ローマ中、喜びでわきかえるようでした。そして我々もまた大喜びだったのです。
これですべてが変わる。そう思ったものです。ところが、その喜びの行幸の中であの事件は起こりました。乗られた馬の腹帯が切れ、教皇が落馬されたのです。
以来、教皇は寝込まれるようになり、回復に向かうどころか感冒にまでかかり、遂にはお亡くなりになってしまいました。
一六〇五年四月一日から二七日までのわずか四週間足らずのご在位でした。
今でも私は、レオ教皇様の死は企まれたものだと思っています。馬の腹帯が切れたのも計画されたものなら、その後の病状が悪化したのも、毒を盛られたものに違いない、そう思っているのです。こうして我々の夢も消えました。レオ一一世猊下の後は、保守派の代表株とも言えるパウルス五世が即位することになったのですから。」
「ブルーノ様のお最期はどのようなものだったのですか?」
千代が思わず言葉をはさんだ。いつしか頑なな表情にも、いつもの暖かさが少し戻ってきているように思えた。


フィオーレ広場の火刑

ブルーノの処刑は一六〇〇年二月十七日と決まった。
この日、牢獄から引き出されたブルーノは、サンタンジェロ橋を渡るや、ヴィア・ディ・コーダ、つまり縄尻通りとよばれる小道を、その名前にふさわしく縛りあげられた縄尻をとられながら、カンポ・デ・フィオーレへと引き立てられていった。
現在、カンポ・デ・フィオーレ(花の広場)は、その名の示す通り、花や果物・野菜を商う露店でにぎわっているが、当時は陰惨な処刑場として恐れられ、この地で異端者の烙印を押された多くの人たちが生きながら焼かれていった。

ジョルダーノ・ブルーノは、一五四八年、ナポリ近くのノラという町に生れた。ブルーノ自身、自らのことを常に「ノラ人」と称しているように、十四の年にナポリに出て以来、ノラの町は、自らが帰るべき故郷として彼の中に定着していったようだ。
以後、ブルーノは十四歳で人文学や弁証法を習い、十七歳にはドミニコ派修道院に入る。しかしブルーノは、この修道院時代に、神学以上に記憶術や幾何学・天文学につよい興味を示し、更にはテレシオの自然学に親しみ、当時すでに焚書となっていたエラスムスの書物まで隠れて読んだりするようになった。そして、このようなひろい探究は、キリスト教教義に対する批判的態度を早くから生み出し、修道院当局からは次第に不審の眼をもって見られるようになった。そのあげく、一五七六年、キリストの神性を否定するアリウス説を支持した疑いでローマに告発された。
時に二十八歳、これよりブルーノの十六年にわたる放浪生活がはじまる。
以後、パリで、ロンドンで、著述活動・講演活動を続け、その名声は上がっていくが、最後に舞い戻ったイタリアのヴェネツイアにおいて、異端者として告発され捕らえられるに至った。
ヴェネツイアの獄では、「修道僧の身分を脱して一哲学者として生きたい」という希望を持ち続け、法王庁が彼の思想の価値をみとめて、それにふさわしい扱いをしてくれることを期待していたようだ。それは故なき希望ではなく、その背景にはメディチ家出身のアレッサンドロ枢機卿の理解と援助があり、その活動もあって、一年後、ブルーノはローマに引きわたされることとなった。しかし、ブルーノが喜んだのも束の間のことであった。
反動宗教改革の嵐の中で、ベラルミーノ枢機卿を中心とするブルーノを弾劾する声が次第に力を得、ブルーノの釈放は思うに任せず、七年におよぶ訊問と拷問のなかで、その希望も次第に萎んでいった。
この頃だ、ブルーノが日本から来たトマスという青年にあったのは。
ブルーノは、トマスにキリスト教の闇の部分を伝えながら、己の態度をも固め、ローマの牢ではもう幻想をすて、自らの哲学的態度を守り通す道を選んだ。ブルーノを告発する最後にまとめられた八ヶ条の異端には、三位一体の教義と聖餐の秘蹟とを疑ったこと、またキリストの神性を疑ったこと、人の輪廻を説き、宇宙の無限を主張したことがふくまれており、審問官はブルーノの著書の主張を前後の連関からきりはなして異端を責めたてたが、彼は「それは曲解であって、哲学というものをみとめぬことである。信仰においては自分に何の異端もない」と、教皇庁に真っ向から対立した。

広場の中ほどに、今まさに火を放たれようとする薪が堆く円形状に積まれている。その中央には、ポンペイ劇場を背にして高く立てられた一本の十字架があった。
罪状を読み上げる聖職者に、ブルーノは言った。「私に宣告を下しているあなたがたのほうが、宣告をうける私よりも、もっと怖れているのではないか」と。
そんな暴言が二度と吐けないよう、ブルーノは舌伽をかまされ、裸にされたうえで、その十字架に縛り付けられた。
そのブルーノの目の前に長い棒にくくりつけた十字架が差し出された。
ブルーノは、十字架をかかげ自分を見上げるその若い修道僧の顔を見て驚いた。
目深にかぶった修道着のフードの奥に、涙に濡れた懐かしいトマスの顔があった。
トマスは、まるでブルーノからの答えを待っているようにじっと動くことがなかった。
(トマスよ、自分をキリスト教に縛っているかぎり本当のものは見つけられない。)
トマスの心の中にはっきりとブルーノの声が響いた。ブルーノはその思いがトマスに届いたことを感じたのか、軽く首を振ると十字架から顔を背けた。
(十字架は、何の解決にもならない……)
呆然と立ちつくしているトマスを、役人が邪険に押しやると、積み上げられた薪に火が放たれた。たちまち炎は毒蛇の舌のように薪を嘗め廻り、やがて紅蓮の焔となって十字架を呑みつくし、ブルーノの肉体を取り巻くや、渦巻く煙を噴きあげながら広場の空へと登っていった。
時に一六〇〇年二月十七日、多くの識者は、このブルーノの処刑をもってルネサンスが終わったと捉えている。

 


キリシタン転び証文

西勝寺の門前を立ち去ろうとしている、男女二つの影があった。
男は九介、寺の門の中に向かって盛んに頭を下げている。女は千代、ただ呆然と立ちつくすのみ。そんな千代をかばうように、九介は、彼女の肩を抱えるようにしてその場から立ち去っていった。門の中に、奉行所の役人が残された。彼もまた今受け取ったばかりの「キリシタン転び証文」を懐にねじ込むと、西勝寺を離れ、西役所へと足を向けた。
振り向けば、西勝寺の庭先あたりから焚き火でもしているのか、一本の細い煙が青空に向かって吸い込まれていく。

その西勝寺の中庭では、トマス、いや荒木了伯が焚き火に向かって、何かを投げ込んでいる。
「シクストゥス聖書」を焼いているのだ。
ページをちぎりとっては、火の中へとくべていく。
その炎の中に、了伯は、ブルーノの声を聞いていた。
「キリスト教に縛られているかぎり、本当のものを見つけることは出来ない……」
キリスト教に関わらず、仏教でも、およそ宗教という形にとらわれるかぎり、人間は本当のものを見つけることは出来ない。そのことを了伯は、イヤと言うほど思い知らされた。しかし、そのことを盾にして、死が怖くて逃げ回っている自分がいることも否定できないのでは……。
ブルーノばかりでなく、日本でもたくさんの人が、あの炎の中に命を捨てていった。
今、千代や九介をキリスト教から転宗させたが、自分は本当に正しいことをしたと言えるのだろうか。ベラルミーノ枢機卿の言うように、何も知らなければ、自分も西坂刑場で多くのキリシタンたちと共に死ねたのかも知れない。
「シクストゥス聖書を探して見つけたものは、地獄でしかなかった。この地獄を抱えて生きていくしかないのだろうか……」
了伯の心はいつまでも晴れることがなかった。


サンタンジェロの新たな伝説

その頃、通訳の青年を伴った藤プロデューサーが、サンタンジェロ城の事務室で係の人間と押し問答をしていた。藤は、大阪の伊牟田と清花から「康男はサンタンジェロ城で見つかるはずだ」との連絡を受け、押っ取り刀で駆けつけてみたものの、半日、探し回っても見つけることができない。そのうち閉館時間も近づき、思いあまって事務室へ駆け込んだ。しかし、なかなか話がかみ合わず、「そんな日本人はここにはいない」「サンピエトロで行方不明になった人間が、なぜここにいると思われたのですか?」と逆に質問され、あげくに「ここへこられるより警察へ行くべきです」と反撃される始末。
その間にも閉館時間が迫ってくる。
サンタンジェロ城は、冬期は午後四時で閉まってしまうが、四月を迎えると夜の七時まで延長される。
この日、六時にチケットの販売は終了されたが、最後の見学者は、ドイツから来ているボーイスカウトの一団だった。少年たちは、入り口で注意事項を聞くや、大急ぎで薄暗いサンタンジェロの穴蔵の中へと消えていった。
大人の観光客と違い、少年たちは照明を浴びた美術品には興味がない。城壁に並べられた大砲や、中庭に据え付けられた投石機が人気の的だ。
……が、それにも増して、牢獄として機能していた巨大な迷路状の穴蔵に心を奪われた。三人組の少年たちも、ペンライトを武器に、光の届かない闇の世界に果敢に挑戦していた。
彼らは、地上へ向かう地下通路の左手に頑丈そうな扉を見つけて驚喜した。
その壁面には、左手三メートルぐらいの高さのところに鉄格子に覆われた二十センチ程度の窓状の穴が穿たれている。
「ここじゃないだろうか?」
「間違いないよ、ここに違いないよ」
かつてサンタンジェロの地下牢独房から人骨や頭髪が数多く発見されたという。
少年たちは思った。こここそ悪名高いサンタンジェロの地下牢独房に違いない。少年たちは、怖いモノ見たさの誘惑に抗しきれず、扉の下の隙間にペンライトを突っ込み、その中に何があるか覗き込もうとした。
しかし、扉が厚すぎるためほとんど何も見えない。少年たちは交互に地面に顔をこすりつけ、いろいろと角度を変えてやってみるのだが、どうしても何も見えない。
一人の少年が扉の下の隙間に手を突っ込んでみた。
「床は乾いた土みたいだ……」
そんなとき、後ろの少年の一人は、唐突にサンタンジェロに伝わる美貌の幽霊の話を思い出していた。サンタンジェロ城のテヴェレ川に面した入り口には、サンタンジェロ橋が架けられているが、この橋のたもとにベアトリーチェという、ローマで最も美しいという幽霊が現れるという。彼女は父親殺しの罪で、このサンタンジェロ城に幽閉され、厳しい取り調べの末、兄弟たちと共にサンタンジェロ広場で処刑された。
時にベアトリーチェは二十二歳の若さであり、その美貌とその毅然とした最期に、ローマっ子たちは同情を禁じ得ず、サンピエトロに運び込まれた遺骸にすがって夜中まで泣きくれたという。
人々は、無罪を訴えるベアトリーチェを死へ追いやったローマ教皇クレメンテ八世を罵り、後には、クレメンテ八世がチンチェ家の財産横領をねらった陰謀説まで登場した。
以来、このサンタンジェロにはベアトリーチェ・チンチェの幽霊が現れるといい、その話は現代に至っても、未だに後を絶たない。
「ウワーッ!」
背後の少年の叫び声に、手を突っ込んでいた少年がパニックを起こした。手が引っかかって抜けない。「ウワーッ!」この少年も叫びだした。
少年は、痛みも忘れて、手を無理やり引っこ抜き、怒ったように、振り返った。
後ろで少年が怯えたように、背後の闇を指さした。

地下の通路が緩い下りの階段になって、大きく右に曲がり下っていっている。
少年たちは、この道を上ってきた訳だが、そのちょうど曲がり角のところに壁に背をもたせかけるようにして一人の男が気を失っていた。
子供たちの叫び声に、閉館の準備をしていた守衛が駆けつけ、こうして康男の蒸発事件は終止符を打つこととなった。
サンピエトロで康男が姿を消してから三十時間あまりが経過していた。

ところで叫び声を発した少年は、康男を見つけた訳でなく、若い女性の幽霊を見たのだと言ってきかなかった。康男は康男で、若い女性に導かれるようにしてここまで来たといい、サンタンジェロの幽霊話に新しいエピソードを残すこととなった。



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