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アルメーニの最期

図書室の中央をまっすぐに走る廊下が、入り口に突き当たるや、三つの流れに分かれて下っていく。ミケランジェロの設計になるその階段には、川の流れが、まるで緩やかな落差をなめらかにすべり落ちていくような優雅さがあった。
トマス、ミゲル、それにバルトロメオの三人が、流れに逆らうようにその階段をあがっていく。深夜のこととてはばかられたものか、トマスとミゲルが、右端から入り口に向かって弧を描く支流をそっとあがっていくのに対し、バルトロメオは一番広い中央の階段を堂々とあがっていこうとしている。昼間であれば、巨大な壁に穿たれた小さな入り口から、まっすぐ奧へメディチ家の紋章を配した格子天井の連なりが見え、威圧感とともに何ともいえない心地よいシンメトリーをつくり出しているのだが、この時間では入り口の扉は閉ざされている上に、照明といえば三人の持つ手燭の灯りしかない。
トマスは、手燭の灯りに浮かびあがる扉の装飾の見事さに息を飲んだ。昼間、気にも留めなかったものが、かすかな灯りの中で真っ正面から自分に語りかけてくる。
「トマス、はやく開けろ!」
ミゲルが押し殺した声で訴えてくる。
トマスは預けられている図書室の鍵を取り出した。滞在中は、いつでも資料類が閲覧できるようにと預けられたものだ。修道院長の破格の計らいであった。
「向かって左、一番手前から六列目の閲覧台」
バルトロメオが、先頭に立ち、手燭で一つひとつの閲覧台を照らしながら慎重に進んでいく。
「ウノ、ドゥーエ、トゥレ、クアットゥロ、チンクエ、セイ……」
燭台の灯りが、閲覧台の端に埋め込まれた一覧表を照らし出す。
普通の図書館では書庫と閲覧室が別になっており、利用者は書庫から目的の図書を借り出し閲覧室で目的の本を読んだり調べたりすることになる。しかし、このサン・ロレンツォでは、閲覧台に本がセットされている。それぞれの閲覧台の通路側の側面には、そこにどんな本がセットされているのか、そのリストが埋め込まれている。つまり利用者は、本を運ぶのではなく、自分が目的の本のある閲覧台へ体を運ぶことになる。
「HISTORIARVM……クイ(ここだ)。」
トマスが、バルトロメオの差し示すリストの一角に目を凝らした。
「HISTORIARVM ET ANNALIVM LIBRI……」
ローマ時代、歴史の第一人者と言われたタキトゥスの表した『歴史』と『年代記』。その二冊が一五七四年、アントワープで『タキトゥス/現存する歴史と年代記』というタイトルで出版されている。
三人は目的の本を閲覧台に見つけた。
「C.CORNELII TACITI……間違いない。」
「一二八ページだ、このページが解読コードになっている。ミゲル、書き写してくれ。」
トマスがページを繰りながら、ミゲルに指示した。
「よし、席を替わってくれ。」
書写にかけては、ミゲルは独特の才能を持っている。一字一句間違いがないばかりか、その書体や一行一行の字の配列などページ構成まで写し取ってしまう。それは肉筆本ばかりか印刷本の場合でも、まるでコピーを取ったかのような正確さであった。
「内容じゃないぞ、字の配列が重要なんだ。」
「心得ているよ。」
そういいながらも、ミゲルはその几帳面な仕事を開始していた。
トマスは、そんなミゲルをよそ目に修道服から一枚の紙片を取り出した。エレオノーラが、ビアンカ大公女から託され今まで保管していたものだ。
二組の数字の組み合わせがスラッシュとスペースで区切られながら、紙片を埋めている。
バルトロメオがその紙片を覗き込み、
「スラッシュで組み合わされた数字の組み合わせの中で、最初の数字が行の位置、二番目の数字が列の位置を表している。スペースは単語の区切りを表す。簡単な換字式暗号だが、キアーヴェ(鍵)となる文書が何であるか分からない限り、絶対に解くことはできない。」
「とすると、行を表す頭の数字のうち一番大きな数字は二八だから、二八行以降は写し取る必要はないということだ。」
「ご親切さま。でも、この本は二八行取りだ。二九行目はないよ……」
ミゲルがやり返しているそのときだ。
図書室のドアが開いた。
「やはり、ここにおられましたか。日本という国に信仰の種をまく。若さと使命感がもたらすその熱心さはうらやましい限り、私めも、もう少し若ければ……しかし、お体には十分注意召されませ。体があってこそのお仕事……」
トマスらの世話を命じられている召使いの老人がそこにいた。
「あ、ありがとうございます。ところで、なんのご用でしょうか?」
「……おお、そうじゃ。いかんいかん、歳をとると忘れっぽくなって。いや、そんなことを言っておる場合ではない。大変なのじゃ。お供のアルメーニ殿が亡くなられた! 酷い有り様でアルノ川から引き上げられた。」
聞けば、遺体は十字架に打ち付けられ、アルノ川の上流から流されたようだ。アルノ川はポンテ・ヴェッキオ橋のあたりで川幅が一番狭くなっている。そのポンテ・ヴェッキオ橋の橋脚に十字架が引っかかり、流れに抗して十字架の端が何度も何度も橋脚をたたいていた。まるで自分の存在を主張するかのように、ある間隔を置いて、
「ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン」と。
ポンテ・ヴェッキオ橋には、スゥポルトと呼ばれる金細工師の工房が並んでおり、そのいくつかは木枠で支えられ橋から張り出した状態にある。元々は、肉屋や革なめし屋、それに鍛冶屋などが、作業場をここに置き、川をゴミ箱代わりにしていたのだが、今のフェルディナンド一世がその騒音と悪臭を理由に追放し、金細工師に貸し与えることとした。
そんな金細工師の住人が時ならぬ騒音に、ある者は夜なべ仕事の手を止められ、ある者は心地よい眠りを妨げられることとなった。
騒音の正体は、十字架に張り付けられた人の死骸だった。
両眼はつぶされ、膝は砕かれ、両手の指も、おそらく指締め器の拷問にかけられたのだろう、十本ともにつぶされていた。
知らせを受けて三人がポンテ・ヴェッキオに駆けつけたとき、アルメーニの血で黒ずんだシャツが、郡警察の警官の手で引き裂かれた。その裸の胸には、刃物で刻まれたものであろう、くっきりと「ダヴィデの星」が刻みこまれていた。
すがすがしい朝の空気とは、いかにも不釣り合いな光景であった。

チェンチ一族の処刑

1599年9月11日
この日、トマスら一行が、フィレンツェから戻りローマへと入った。
その日は、秋らしいよく晴れわたった土曜日であったが、空には異常に真っ赤な朝映えがたなびいていた。
ローマを離れて既に五ヶ月が過ぎている。
トマスらは、エレオノーラから教えられた暗号表で、「シクストゥス聖書」がローマにあることを知った。それもチェンチ家の礼拝堂にあるという。
チェンチ家と聞いたとき、トマスの中の康男が反応した。大阪のテレスタの美術室で知ったベアトリーチェ・チェンチのこと。そしてローマロケで、はたまたローマの地下をさまようなかで、そのベアトリーチェ自身にあった。
今、自分がここに居るのも、ベアトリーチェに導かれたとも思えてくる。そんなことを考えると、一刻も早くローマへ戻りたかったのだが、アルメーニの殺害を知ったアレッサンドロ枢機卿は、危険回避のため、一行をフィレンツェとローマから遠ざけようとした。
資料収集と研修を兼ねて、ミラノとヴェネチア、更にはシエナの図書館を回ってくるようにという。
焦る気持ちを抑えての五ヶ月だった。
そして今、やっとローマへと帰った。
ローマを発ったのが春。それがもう秋の入り口にかかっている。おかげで、ローマの猛暑を避けることが出来たわけだが、ローマへ戻ってみれば、町は異様な雰囲気に包まれていた。険しい顔をした男や女達がテヴェレ川に沿う川岸通りの道をサンタンジェロ城の方角へと流れていく。人の波は、次第に増え、ついにはおびただしい群衆となってトルディノーナ監獄を目指して動いていた。
聞けば、この日、チェンチ一族が公開処刑されることになっているという。
チェンチ一族のうち、ジャコーモとベルナルドの男兄弟が、テヴェレ川を挟んでサンタンジェロ城と向かい合うトルディノーナ監獄に収監されている。やがて二人の兄弟は引き出され、主犯とされるベアトリーチェとその継母ルクレツィアが収監されているサヴェッラ法廷へと向かう。ここでチェンチ一族は合流し、処刑場となっているサンタンジェロ広場へと向かうことになっているというのだ。
トマスは、自分がベアトリーチェの処刑の日、このローマに戻ってきたことが偶然とは思われなかった。でも、自分はすべてを知っていながら何も出来ない。いっそ知らなければよかった。シクストゥス聖書のことも、インクナブラのことも……。何も知らず、崇高で汚れのないキリスト教を信じていくことができれば、どんなに幸せだったろうか。
(俺がローマに来たのは、何のためだったんだろう……)

「来たぞー、処刑の行列が現れたぞ!」
その声に群衆のざわめきが途絶えた。
その沈黙の中から、低いがよく響く祈祷の声が沸き上がってくる。

天主なる御父 われらをあわれみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子 われらをあわれみ給え。
天主なる聖霊 われらをあわれみ給え。
唯一の天主なる聖三位 われらをあわれみ給え。
聖マリア われらのために祈り給え。
天主の聖母 われらのために祈り給え。
童貞のうちにていても聖なる童貞 われらのために祈り給え。
聖ミカエル  われらのために祈り給え。
聖ガブリエル われらのために祈り給え……

群衆が道をあける。
その先頭には、幡を押し立て灰色の修道服をまとったスティッマーテ信心会会員の一団。彼らは木製の十字架像をぶらさげた革ひもで腰をしっかり縛り、使徒ふうに素足に靴を履いている。その後には、兵士や憲兵がバラバラに群をなして続き、さらにその後には、頭巾をかぶったミゼリコルディア信心会の人たち、これまた幡を押し立てている。
最後に二台の馬車が続く。
一台目の馬車には、上半身が裸のジャーコモと死刑執行人、そして聴罪司祭や裁判所の助手たち。二台目の馬車には、黒のマントを被って顔を隠したベルナルドが乗っている。
さらにその後にも別の憲兵と兵士の一団がいて、増え続ける群衆を馬車に近づけまいとしている。
一台目の馬車が、トマスらの前に差し掛かった。
トマスは、馬車の中の光景に思わず叫び出しそうになった。
裁判所の助手たちが、判決の規定に従い、赤く熱したペンチでジャーコモの胸や背中の肉片をちぎっている。チェンチ家の長男ジャーコモは、叫び声一つたてずその拷問に耐えていた。
「ヤツは間違いなく阿片を与えられている。あの目を見ろ……」
バルトロメオが、トマスの耳元にささやいた。
トマスは、そんなバルトロメオの声も聞こえなかったかのように、茫然と馬車を見つめている。その目が、ジャーコモの視線と絡み合った。
何かを訴えるような悲しげな目が、トマスの前を通り過ぎていった。
信心会員たちは「諸聖人の連騰」を唱え、聖人の名を口にするたびに〈オーラ・プロ・エイス〉と祈願し続けている。

トマスは何かに憑かれたように、馬車の後を追って歩き出した。
ミゲルもその後を追おうとして、バルトロメオの腕に止められた。
「チェンチ家の礼拝堂を探すのなら、この機会を逃す手はない。ローマ全体が、ベアトリーチェの処刑に向いている。今なら誰にも邪魔されず礼拝堂を探せる。」
『シクストゥス聖書』も『マリアの福音書』も、チェンチ家の礼拝堂・聖具室に隠されているのだ。確かに今なら、誰にも見とがめられることなく、チェンチ家の礼拝堂に忍び込むことができるだろう。バルトロメオの言うように、千載一遇のチャンスだった。
「トマスはどうする。」
「トマスなら大丈夫だ。彼の好きなようにさせよう。」
トマスは、二人がついてこないことにも気づかず葬列の後を追い続けていた。

葬列は、アッポリナーレ広場からトール・サングィーニャを越え、ドゥーカ広場を通って、サンタ・マリア・ディ・モンセッラート街へと到着した。ベアトリーチェが囚えられているサヴェッラ法廷のある街区だ。葬列は、ここサヴェッラ法廷の前庭で、ベアトリーチェとルクレツィアの下りてくるのを待つ。
やがて、二人の女性は鎖はつけず、黒っぽいマントに身を包み路上に現れた。
ベアトリーチェは毅然とした態度で歩み、その後から彼女の継母であるルクレツィアが足を引きずるようにして歩んでくる。
ルクレツィアはというと瞼を気ぜわしく痙攣させ、息づかいも不規則で、いつパニックを起こすか分からない状態だ。事実、執行人がジャーコモの体に加えた残虐行為を見たとたん、うめき声を上げ止めどなく泣き始めた。
これに対し、ベアトリーチェは終始、毅然とした態度を崩さなかった。
ベアトリーチェのその毅然とした美しさを、モデナ公国の諜報員パオルッチは、「いまだ十八歳にもならぬに、群を抜いた美しさと上品な振る舞いをもって聞こえ」「この試練の中で大いなる精神力のほどを示し、すべての人々の目に驚きと映った」とエステの枢機卿に伝えている。
実際は、ベアトリーチェはこのとき二十二歳であったが、幼い少年のような顔立ちが悲劇性をかき立て、今や群衆は溢れかえらんばかり。窓、バルコニー、テラスは鈴なりで、そのほとんどの人たちがチェンチ一族に連帯感を示し、一族にこのような理不尽な処分を与えた者たちに軽蔑と恨みつらみをあらわにしていた。
ベアトリーチェらを加えた葬列は、群衆のざわめきの中を、再び移動を開始した。
ベアトリーチェとルクレツィアは徒歩で、馬車の傍らを歩んでいくが、行列がバンキ街区に入ったとき、その事件は起こった。
バンキ街の舗装道路が糞でヌルヌルと歩きにくくなっていたのだ。この頃、糞や汚物を道に捨てるのは当たり前のこと。中世から近世にかけてのヨーロッパは汚くて臭い。だからこそ教会の中は、香を炊き、ステンドグラスで光の演出をし、音楽を響き渡らせ、別世界をつくりだす。臭くて汚い外界から一歩教会へ足を踏み入れた人々は、そこにこの世の天国を感じたのだ。
だから、バンキ街の路面が糞でヌルヌルしていたからといって驚くには当たらない。ただ、このときの状態はひどかったようだ。通るに通れず、徒歩の者たちは、壁に体をすりつけるようにして進まなければならなかった。
そんな中、ルクレツィアが自分のマントを踏みつけてしまった。たちまちバランスを崩し、ヌルヌルすべる路面に足を取られ、その場に転倒してしまったのだ。
これが合図となった。民衆の興奮が一挙に爆発した。
二人の女性に花束を投げる若者がいるかと思うと、役人たちに向かっておびただしい小石が投げられた。夫婦喧嘩よろしく、鍋や皿までが役人にぶつけられる。
眉間に小石が命中した憲兵は、怒りに駆られ、火縄銃の銃床を誰彼かまわず振り回し応戦を始めた。他の憲兵たちもこれにならい、たちまち辺りは修羅場と化した。逃げまどう人々。逃げる者と襲いかかる者たちの間で押しつぶされ、踏みつけられる人たち。
争乱街区には憲兵が送られ、鎮圧にかかっている。その争乱の中を、葬列は駆け抜けるようにして処刑場へと到着した。
トマスもまた、あの争乱からどのようにして抜け出したのか、いつの間にか処刑場であるポンテ・サンタンジェロへとやってきていた。

正午頃、サンタンジェロ城の哀れみの鐘(ミゼリコロディア)が鳴り始めた。
鐘の音にせかされるように、死刑囚のための祠からベアトリーチェたちが出てくる。
四人の囚人たちは、争乱の中を突っ切るようにして処刑場に到着するや、最後のミサのためにと、この祠へと導かれていたのだ。
トマスは、人混みをかきわけるようにして最前列へと出た。
最初に引き出されたのは、一番下の弟ベルナルドだ。
彼は馬車の中で、兄ジャーコモに加えられた拷問を終始見せつけられ呆けたようになっている。その蒼白となった頬には幾筋も涙のあとがこびりついていた。
トマスの後ろでささやき声が聞こえた。
「弟のほうは、まだ十八歳になったばかりだってさ」
「あの子も殺されちまうのかい」
「いや、奴隷船送りだって言うぜ」
そう言っている間にも、ベルナルドは、急設された処刑台の片隅へと誘われ、その場に座らされた。ここでベルナルドは、兄であるジャーコモや、姉ベアトリーチェ、それに継母であるルクレツィアの処刑の有り様をことごとく目にさせられることとなる。
ベルナルドに続いて、ルクレツィアが、告解司祭たちに支えられ引き出された。
(私はこんな恐ろしい目に遭うために、フランチェスコ・チェンチに嫁いできたのだろうか。自分が望んだ結婚ではなかった。たしかに、こちらも亭主に死に別れた身。最初は良い話だと思ったのだが……フランチェスコが異端の信奉者だったなんて。知っていれば嫁いではこなかっただろう。そうすれば、こんな亭主殺しの片棒を担いだなどという汚名を着せられたまま、殺されるようなことはなかったはずだ……)
ルクレツイアが、どんなに後悔しようと、すべてはあまりに遅すぎた。
なぜなら、彼女が処刑台への梯子を上り詰めたところには、その後悔や逡巡、いや彼女の人生そのものにピリオッドを打つべく、黒いマスクに顔を隠した死刑執行人が彼女を待ちかまえていたのだから……。執行人を見たとたん、ルクレツィアは、突然、足をすべらせ壇上から転げ落ちそうになった。付き添っていた告解司祭があわてて彼女を支え、抱きかかえるようにして細長い処刑台へと運んだ。
執行人の助手が、彼女の髪をつかんで頭をもたげさせた。
トマスの目には、彼女が気を失っているようにしか見えなかった。
その直後、警吏が手を挙げて処刑の合図をするのと同時に、死刑執行人の斧の一撃が彼女の首に振り下ろされた。そのときだ、気を失っていると思われた彼女の目が大きく見開かれた。彼女の首は、何か問いたげな、驚いたような表情のまま胴から切り離された。
広場に集まった群衆から、すさまじい不満の声がざわめきとなって広がった。
このざわめきは、次いでベアトリーチェが引き出されたことで一層の高まりを見せる。
「ベアトリーチェは無罪だ。彼女を殺させるな!」
鈴なりに家々の軒によじ登っている連中の一人から声が挙がった。
その声に触発され、役人たちを野次る声、ローマ教皇を非難する声が、あちらこちらから湧きあがる。
このざわめきの中、ベアトリーチェは、青ざめながらも、誇り高い美しさに輝き、毅然とした足取りで処刑台へと向かってくる。彼女は、台の下で一瞬立ち止まると、視線を空に泳がせた。やがて心を決めたかのように、処刑台へあがり、恐怖に目を見開いている弟ベルナルドに優しく微笑みかけるや、木製の刑具に首を差し出した。
ざわめきが途絶えた。
男たちも女たちも、そっと十字をきった。
静けさの中から、あちらこちらで啜り泣く声が広がり始める。
死刑執行人は、明らかに動転している。みんなの怒りや恨みが、自分に向いている。先ほどまでの野次より、今の沈黙が耐えられない。
トマスは、観念したように静かに目を閉じたベアトリーチェの青ざめた顔を見ていた。
美しいと思った。
そんなとき、見物の子供が急に火のついたように泣き始めた。
うろたえた警吏は、その声に驚き、うかつにも警吏の合図を待たずに斧を振り下ろしてしまった。そのとたん、群衆の叫びが再びどっと湧き起こり、またぞろ争乱が起こりそうな勢いとなった。
その勢いに警吏たちは浮き足立ち、大急ぎで、最後の犠牲者ジャーコモを処刑台へとかつぎ上げた。というのも、ジャーコモは、これまでに受けた拷問のため、体力も尽き果て、一人で立っていることも出来ない状態だったからだ。
処刑台に上げられたジャーコモは、そこで震えおののき、痙攣しているベルナルドを見た。
(かわいそうに、まだ幼いというのに……)
ジャーコモは、弟に何か言葉をかけようとするのだが、唇は腫れ上がり、舌は熱で喉に貼り付いたようで、ゼイゼイという音しか出てこない。
ジャーコモは弱々しく首を振ると、首切り台に頭をのせ、聴罪司祭に目で訴えかけた。
司祭が、何か言いたいことがあるのかと、ジャーコモの口元に耳を寄せた。
ジャーコモは、かすれるような声を絞り出した。
「オ・ト・ウ・ト・ヲ・遠ざけて……」
しかし、司祭にその権限はない。ただ空しく首を横に振るばかりだ。
ジャーコモは諦めたように目を閉じた。
やがて、ジャーコモの頭を叩きつぶすべく、執行人の大槌が振り下ろされた。
哀れにもチェンチ家の長男は、きれいなままの首を残すことさえ拒否されていた。しかも残された遺骸すら、執行人によって切り裂かれ、台から突き出た釘に肉片として吊るされることとなっていた。
この作業を見るにおよんで、ベルナルドは、ついに気を失ってしまった。
神父が哀れな遺骸に祝福を与え、哀れみの鐘は鳴りやんだ。警吏が処刑の終了を宣言するため、ラッパを吹き鳴らすよう命じる。
こうしておぞましい行事が終わった……。
連祷と懺悔詩篇の頌詩が再び唱えられはじめられるや、司法官、法廷関係者、信心会会員たちは、次々と広場をあとにし始める。
……ところが、群衆のほうは動こうとしない。処刑の残酷さに気をのまれ沈静化していた怒りが、再び、群衆の中から勢いを盛り返そうとしていた。
処刑場を去ろうとする役人や聖職者たちに、次々に罵声の声が浴びせられる。
敵意、非難、脅迫……日頃の不満までが、ベアトリーチェの処刑に凝縮され、爆発するきっかけを待っていた。
兵士や役人たちは怯え、道を通れるようにと、矛槍や火縄銃を構え群衆を威嚇しながら、綱を張ろうとする。
執政官の一人が、警備の責任者らしき憲兵にしがみつき
「もしこの連中が、こんなふうに猛り狂い迫ってきたら、チェンチ一族に起こった災難を、今度はこちらが被ることになるぞ……」
「心配めさるな。所詮、民衆は雑種の犬にすぎません。餌が食べられるかぎり、ただ吠えたてるだけで、噛みつくことはありません。」
しかし、この警備隊長の自信は次の瞬間に崩れ去った。
木の枝にのぼり、役人たちを野次っていた男が、その枝ごと役人達の上に落ちてきた。興奮して枝を揺すったため、枝が折れたのだろうが、浮き足だった兵士の一人が、思わず空に向かって発砲してしまったのだ。
この銃声が一瞬の沈黙をつくり出したが、騒ぎはそれで沈静化するどころか、かえって大混乱が始まった。石といわず、食器といわず、およそ投げられそうなモノはすべて役人や聖職者に向かって投げつけられはじめた。また折れた枝を振り回し役人達に向かっていく者がいる。その男を先頭にして、素手の男達が、罵声と肉体だけを武器に押し寄せる。
逃げようとする女や子供達が、怒り狂った群衆に押し倒され、踏みつぶされる。
処刑前の暴動鎮圧に駆けつけた部隊は、処刑場を遠巻きに取り囲んでいたが、この騒ぎにたちまち動き始めた。槍矛を構えながら、暴徒化した群衆を取り囲み、その輪をジワリジワリと縮めてくる。
騒ぎの中心となるサンタンジェロ橋では、混乱から逃れようとテヴェレ川に飛び込む者、興奮のあまり、自らの頭を橋にぶつけ続けるもの、兵士の剣を奪い暴れ回る者……
ある記録によれば
「多くの人が常軌を逸した。一例を挙げれば、修道女になる日も近いマッダレーナ・デリ・オノフリとかいう十八歳の娘の身に起こった悲劇的なケースは哀れをそそる。チェンチ母娘の首がはねられ、ジャーコモの脳味噌が飛び散るのを見るや、着ている服をびりびりに破き、体中を掻きむしって逃げ出した。やっと家に引きこもると、肉切り用の斧を右手に持ち、左手をばっさり切り落として、出血多量のために死んでいった。」
このように、この日、多くの人が狂気にとりつかれ、多くの悲劇が起こった。
暴動は、夕刻近くになってようやく沈静化の方向へと向かったが、この暴動で十三人の死者と、六百人を越える怪我人が出た。さらに百名を越える人間が拘束された。
そして、この逮捕者の中にトマスも含まれていたのだ。


ブルーノとの再会

トマスが目を覚ましたのは、暗闇の中だった。
背中に冷たい土の感触がある。
部屋の隅のほうにほんの幽かな明かりが射し込んでいる。
(いったい、どこなんだろう?)
体を起こそうとすると、後頭部にひどい痛みがはしった。思わずその部分に手をやると、生ぬるい血がべっとりと付いてきた。
「やっと帰ってきたな……」
暗闇の中に懐かしい声が響いた。
トマスはしばらくの間、自分が今どこにるのか分からなかった。
(懐かしい声だ……でも誰なんだろう? イタリア語……いや違う。ラテン語で「お帰り」と言っているんだ。この声は、ブルーノ……ジョルダーノ・ブルーノの声だ。)
「そう、君はサンタンジェロ城の牢獄へ帰ってきたという訳だ。牢獄の中と外という違いはあるが……まあ、君も今や立派な囚われ人という訳だ。」
「……………」
「と言っても、これもアレッサンドロ枢機卿の計らいの一つだ。君はやがて釈放されるだろう。君はイタリア各地への遊学からローマへ帰ってきたところ、あの暴動に巻き込まれた。そして暴徒と間違って逮捕された……という筋書きだ。」
(そうだ、僕はチェンチ一族の処刑に出くわしたんだ。)
「ミゲルやバルトロメオは、どうなったんでしょう?」
「君がこの牢獄へ放りこまれ、しばらくしてからのことだ。アレッサンドロ枢機卿の息のかかった看守を通じて、この手紙が届けられた。」
トマスは、ブルーノの差し出す手紙を、幽かな明かりにかざしてみた。
「…………?」
「換字式の暗号で書かれてある。ラテン語に置き換えられた上に、アルファベットが一字ずつずらして書かれている。慣れていなければ、この薄明かりでそれを解読するのは至難の業だろう。要するに、君がチェンチ一族の処刑に立ち会っている間、ミゲルやバルトロメオは、君たちがフィレンツェで知った『シクストゥス聖書』の隠し場所──チェンチ家の礼拝堂を探しに行ったというのだ。皆の目が処刑に向けられ、今なら誰にも怪しまれずに探し出せると思ったのだろう。」
「……で、見つかったのですか?」
「いや、見つからなかった。祭具室はもぬけのカラ。何一つとして残されていなかった。すべて没収された後だった。」
「そうですか……」
残念というより、なぜか安心感がトマスを包んだ。
「……しかし、トマス、君はすでに見つけているとも言える。『シクストゥス聖書』を探す過程の中で、君は、キリスト教世界について、ずいぶん様々なことを知った。普通では知り得ないことばかりだ。それはキリスト教の闇の部分と言えるだろう。
そうとも『シクストゥス聖書』を探すということは、キリスト教の闇と出会うということなのだ。その闇の中で、一つの宗派や宗教にとらわれず、本当のことを知ろうとする流れがあることも知ったはずだ。それは遠い過去から今にいたり、さらに果てしない未来へと続いていく。真実はいつもスルリスルリと人間の手から逃げていく。それを人は、生まれ変わり死に変わりして、どこまでもどこまでも追いかけていくことだろう。いつか人は、自分の中に本当のものを見つける日が来るかも知れない。それまでは、自分の進む道が闇と分かっていても、進まざるを得ない。私自身、何も分かっていない。分かっているのは今のキリスト教は間違っているということ、ただそれだけだ。
アレッサンドロ枢機卿が伝えてくれた情報に依れば、私が火刑にされることも決まったようだ。もう言い逃れする必要もなくなった。自分が主張してきたことがすべて正しい、これこそが真実だなどとは思っていない。しかし、私は自分の考えを訂正するつもりはない。キリスト教は間違っている、真実に至る道ではないことを伝えるためにも、私は自分の思想に殉じるつもりだ。火刑が決まった今、自分に残された道はそれしかない。たとえ、それが闇を行く道だと分かっていても……。」
「……………」
「トマスよ、アレッサンドロ枢機卿によろしく伝えてくれ。君を送り込んでくれたことが何よりの餞だったと。そしてベラルミーノ枢機卿には気を付けるようにと。彼は私たちが思っているより、多くのことを知っているようだ。トマス、君自身も、これ以降、彼の監視下に置かれることになるだろう。君は生きて日本へ帰ってくれ、そして日本で何があろうと生き抜いてほしい。それが『シクストゥス聖書』を探すものの宿命だ。
バルトロメオにも、ミゲルにも……君とも、もう会うことはないだろう。次に会うことがあるとすれば、それは私の処刑のときかも知れない。」

やがて看守の足音が近づいてきた。そして牢獄の扉が開かれた。
「トマスアラキ! 釈放だ。」

開けられた扉の向こうに、朝の光が石の階段を滑り落ちるように広がっていた。
トマスは屈むように扉をくぐると、今一度振り返り、ブルーノの顔を見た。そして訳もなくただ頷きあった……。

再び闇が帰ってきた。
その闇の中で、ブルーノはノストラダムスという男のことを思った。今回のことは、すべてあの男の言葉から始まった。
「将来、ローマ教皇になられるお方……」
その言葉が、フランチェスコ会の若い修道士フェリーチェに向けられたときから、この物語は始まったと言える。ノストラダムスの言葉がフェリーチェを縛った。
「猊下の耳に、この私、ノストラダムスの名声もいつか伝わっていくことでしょう。」
その言葉通り、フェリーチェの耳には、予言者としてのノストラダムスの名声が次から次へと伝わってくる。それに伴い、自分に向けられた予言も重きをなし、ますますフェリーチェを縛ることになる。この予言に縛られるようにフェリーチェはローマ教皇となり、シクストゥス五世として即位した。ローマ教皇になった日から、シクストゥスの新たな懊悩が始まった。それは、ノストラダムスは、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディチの庇護がなければ、異端審問で火炙りにでもにかけられるような男だということだ。
「あんな異端者の予言によって、私はローマ教皇になったのではない。神が私を必要としたからローマ教皇となった。私は神に選ばれた者だ。」
これがシクストゥスの思いの中核となった。そして、ノストラダムスを否定する中で、彼は、いつしかノストラダムスの影響を受けていたと言える。カトリックの庇護者と自他共に認める「シクストゥス五世」こそ、ノストラダムスやルネサンスの影響を、誰よりも受けた者だったのかも知れない。
シクストゥスは、カトリックの庇護者である自分を内外にアピールすべく、必死に働き、そして、カトリックの看板である「ラテン語聖書」の改訂を目指したのである。
その思いが天正少年使節を通じて、海を越え日本に伝わり、日本のキリスト教信者をも縛ることとなった。ノストラダムスの見えない言葉の魔力が、トマスという日本人青年にキリスト教世界の闇を伝えることともなったのだ。
「ノストラダムスよ、あなたはあの日本の青年に、とんでもない重荷を背負わせたのですぞ。あなたは、トマスのこれからの人生をも分かっていたとでも言う積もりでしょうか。すべては、星の世界に預言されていたこととでも言うのでしょうか?」


ベアトリーチェの亡霊

千代は、まだ「サントスの御作業」の暗唱を続けていた。
「……然れば武士どもは方々を尋ね申せども、逢ひ奉らざる故に、ある童二人を召し捕り、拷問して、その御すみかを知り、サント(聖人)のしのび居給ふ御宿所に乱れ入るものなり。サントは逃がれんと思し召さば、もつともやすきことなれども、既にデウス(神)の御定めの時節は今なりと知ろしめして、彼等が迎ひに出で給ひ、内に請じて好膳を供奉し給ひ、その間にデウスヘオラシヨを申し上げ給ふものなり。武士どもこれを見て、さてもこれほどの善人に縄をかけんことはと猛き心にもいたはり申すなり……」
「サントスの御作業」は、ヨーロッパから運び込まれた印刷機で、一五九一年に加津佐でローマ字本として印刷された。印刷機を持ち帰った天正遣欧使節の人たちや、コレジオ、セミナリオの教師等を中心に、この出版作業が続けられたのだが、その作業を手伝った学生の中に、トマスや兄のミゲルもいた。幼い千代も、コレジオによく遊びに行っては、刷り上がった紙片を教材に、トマスからローマ字の手ほどきを受けたものだ。
千代の暗唱は、そんな「サントスの御作業」の中、ポリカルボ伝にまでおよんでいた。
耳を傾けていたトマス、いや了伯から、ポツリとその後の句が漏れた。
「……そのオラシヨの終りに思し召し出ださるるほどのキリシタンのためにデウスを頼み給ひ、御回向も終りぬれば、武士どもサントを驢馬に乗せたてまつて、糺し手の前に引き奉るなり……」
千代の暗唱が止まった。
そして涙を拭おうともせず、トマスの顔を見つめ直した。
トマスは、その問いかけるような眼差しに向かって言葉を続ける。

私自身、糺し手の前に何度か引き出されることになりました。その最初は、日本のお役人の前ではなく、ローマで、しかも、キリスト教の良心とまで言われたベラルミーノ枢機卿の前に引き出されたのです。私がフィレンツェから帰り、ベアトリーチェ・チェンチ処刑後の暴動が一段落を見せた頃でした。ベラルミーノ師は言われました。「シクストゥス聖書は見つかったのか」と。
私が何と答えてよいか分からず黙っていると、「チェンチ家の礼拝堂を探しに行ったのは分かっている』と言われ、『……何も見つけられなかったであろう」とも言われました。
「シクストゥス聖書は、異端者たちの影響を深く受けたものだ。だからこそ、教皇の死後、そのすべてを消滅させねばならなかった」。事実、ヨーロッパ中に配された優秀で仕事熱心な異端審問所の活躍によって、すべての『シクストゥス聖書』は回収され焼却された。ただの一冊といえど、ヴァチカンの作りだしたこのネットワークから逃れることはできなかったはずだ。それが、トマス、遠く東の果てから来た君たちが『シクストゥス聖書』のことを知っていた。そればかりか、底本にこの『シクストゥス聖書』を使って、日本語版の『新約聖書』をつくりたいなどと言う。
あれから、すべてが狂いだした。わしの警告にも関わらず、君たちはは『シクストゥス聖書』について嗅ぎまわりはじめた。まあ、そのおかげで異端の組織の存在が浮かび上がってきたわけだ。おそらくヴァチカン内部にも、その勢力は入り込んでいるのだろう。」
静かにうつむき加減で話すベラルミーノの顔がそっと持ち上げられ、そのするどい目がトマスに向けられた。
「だからこそ、『シクストゥス聖書』にあのような細工をすることができたのだ。
トマス、誰のことか分かるかな?」
「……シクストゥス様の秘書官のことでしょうか?」
「そればかりではない。おまえも現にその目で処刑を目撃したであろう。あのチェンチ一族にしたところで間違いなくこの組織の人間だ。彼等に口を割らせられればよかったのだが、あるところまで以上は追いかけることができぬ。部分部分は分かっても、その全貌を知る人間はいない。チェンチの娘ベアトリーチェにしたところで、自分が無実の父親殺しの罪で捕らえられたとしか思っておらぬ。」
「やはりローマの人々が言うように、ベアトリーチェは無実だったのですね。」
「奴らは何も分かっておらぬ。何も知らぬくせに『ベアトリーチェは無実だ。彼女の言い分にヴァチカンはもっと耳を傾けるべきだ』などと騒ぎ立てる。」
「……無実ではないのですか。」
「無実だ。フランチェスコ・チェンチを殺させたのは、他でもない、この私だ。チェンチ家は、代々ヴァチカンの会計係をしておったが、カタリ派の流れを汲む異端をも信奉しておったようじゃ。私はあの『シクストゥス聖書』については、あれは教皇一人でやったことではないと思っておった。確かに教皇は頑固で、ルネサンス期のユマニスト(人文主義者)たちに反発するあまり、逆にその影響を受けていたと言えなくはない。しかし、聖書の中に、あのような文言を挿入する人物ではない。そこで、私は当時のシクストゥス教皇の周辺を調べだした。そうしたら、フランチェスコの奴、何を怯えたのか、一族をあげてローマから逃げ出してしまった。おかしいと思い、残されたチェンチ宮を異端審問所に命じ徹底的に調べさせた。結果、チェンチ家の礼拝堂から、書き写された『マリアの福音書』が見つかった。イエスの身近に居たというマグダラのマリアが、イエスの言葉を書き残したものだといい、カタリ派の信者に大事にされておったものだ。もちろん偽りであり、異端の書であることに間違いはない。これがフランチェスコ一人にとどまらず、調べていくに連れ、シクストゥス教皇の秘書を含め、教皇の周囲にいる人間や枢機卿にまで異端者が及んでいることが分かってきた。
しかし、彼等以外に具体的な人物が特定できないばかりか、証拠がない。おおっぴらに騒げばヴァチカンの威信を傷つけることになるし、そこから『シクストゥス聖書』のことに及ばないとも限らない。そこでフランチェスコ・チェンチの逃亡先の城代を買収し、彼等の周辺を探らせることにしたのだが、そのことがフランチェスコにばれ、争ううちにやむなくフランチェスコ・チェンチを殺す羽目になってしまったという。」
「ではチェンチの残された一家を親殺しの罪で裁くのは……」
「一族こぞって異端を信奉しているように思われる。かといって、それを表面に出すことはできない。センセーショナルな事件をでっち上げ、目をそちらに向けさせる。
派手で悲劇的なことほど人は信じやすい。その間に、ヴァチカン内部にどれほど異端が浸食しているか、一族を徹底的に調べ上げ、そのうえで親殺しの罪で死んでもらった。」
「惨いことを……」
「今、この時期、ヴァチカンはユマニストやプロテスタントたちを相手に戦っている。ヴァチカンの威信が地に堕ちれば、この世界は、巨大な闇の支配するところとなろう。もっと惨い世の中が訪れる。」
ベラルミーノは、思った。
「教皇が私のことをあれほど嫌っていなければ、『シクストゥス聖書』のことは事前に阻止することはできたはずだ。しかし、教皇は私のことを病的なまでに毛嫌いしていた。かねてから自分の考えに何かと意見がましいことを言う私に対し、教皇は何度も怒りを爆発させ、シクストゥスが教皇職にある間、私は任務にことよせイタリアを離れるという避難措置さえとらなければならなかった。
しかし、ことここに至った上は致し方ない。今は、ヴァチカンに巣くう異端の根を一掃せねばならない」
「では、私たちはそのために……」
「そうとも、『シクストゥス聖書』のことを嗅ぎまわるおまえたちを囮にして、この際、ヴァチカン内部にまで入り込んだ異端の根を摘んでしまおうと思った。トマス、そのために君たちには重荷を背負わせることになるだろうが、それも自分の選んだ道……ただ、どうしてもアレッサンドロ枢機卿の尻尾をおさえることができなかった。まあ、それも時間の問題だろうがな。
……で、どうであった? これが君たちが知りたかったことのすべてだ。何か収穫があったのかな。キリスト教の闇の部分をその胸にドッサリと抱え込んで、おまえはそれでもキリスト教を信じていけるというのか。日本人とは、よけいな苦労を背負い込むのがとことん好きな人種のようだな。
……安心したまえ。シクストゥス聖書がないと分かった今、おまえたちを罰しようとは思っていない。それどころか君たちが望む教区司祭にも叙任されるようにしてやろう。かえって苦しみを背負うことになるだろうが、それも君たちの選んだ道だ……」

トマスの話に耳を傾けていた千代の亭主・九介がたまらずに口を挟んだ。
「トマス様、シクストゥス聖書が見つからなかったというなら、そこにある聖書は一体……? トマス様はたしか……」
「チェンチ家の礼拝堂にはなかったということです。だが、シクストゥス聖書は思わぬ場所に隠されていました。私たちが暮らすコレジオ・ロマーノの図書室に堂々と置かれていたのです。」



コレジオ・ロマーノ、それはトマスらが寄宿生活を送る場所。フィレンツェへ旅立つ前、トマスは、ベラルミーノ師にこの図書室へ連れてこられ、一冊の聖書を託されたことがあった。
「シクストゥスの聖書は誤植が多すぎるため廃版になりました。次のクレメンテ教皇のとき、シクストゥス=クレメンテ聖書として改訂版が出されました。今ここに用意したものがそうです。イエス様のご生涯を日本語に訳されるには、この版をテキストに使われるとよいでしょう。」
そう言って託された聖書、妙にそのことが気になって仕方がなかった。ベラルミーノ師の言葉が、トマスの心の中で反響し、それが何か大きな不安となって、重たく自分にのしかかってくる。
その声を思わず振り払おうとして、目が覚めた。
そこはコレジオ・ロマーノのトマスらの寄宿部屋。
トマスの目覚めるのを待ちあぐねていたかのように、ドアのところに一人の少女がこちらを見つめていた。
(チェンチ……、ベアトリーチェ・チェンチ。)
恐怖心はなく、トマスは心の中で、その名を呼んでみた。
ベアトリーチェは、軽く頷くと、うながすようにドアの外へと消えていった。そして、彼女に導かれるようにして着いたのが、コレジオ・ロマーノの図書室だった。
シクストゥス=クレメンテ聖書。その聖書は、ベラルミーノ師に勧められたときのまま、閲覧台の上に置かれてあった。
トマスのもの問いたげな目に、ベアトリーチェの目が大きく頷いたかのように感じられた。


 
「実はシクストゥス聖書は、表紙だけを取り替えられたうえで、ベアトリーチェの手で持ち出され、彼女が捕らえられていたサンタンジェロ城の祭具室にある予備の聖書とすり替えられていたのです。それがどんな経緯からか、コレジオ・ロマーノの図書室に移され、それをあろうことか、シクストゥス聖書をこの世から消滅させようとしたベラルミーノ枢機卿本人の手で、私どもに手渡されていたのです。表紙を換えられてしまえば、もう何も分からない。私自身、ベアトリーチェの亡霊に導かれることがなければ、容易に見つけることは出来なかったでしょう。でも見つけてしまえば、あとは、翻訳のためのテキストとして日本に持ち帰らせてほしいと依頼するばかりでした。」
千代と九介の目が、目の前にあるシクストゥス聖書に釘付けとなった。
そんな二人にかまわず、トマスは話し続ける。
「話を戻しましょう。ベラルミーノ師は、師のもとを辞そうとする私に最後にこう言われました。」
「ブルーノの処刑は来年の二月に決まった。カンポ・デ・フィオーレで火炙りとする。そのときは、トマス、君にも立ち会ってもらう積もりだ」と。
「……分かってはいましたが、ひょっとしてアレッサンドロ枢機卿の働きでブルーノ様も助かるのでは、そんな思いもありました。しかし、その希望も絶たれてしまいました。
ブルーノ様の処刑が決まったということは、それは同時にアレッサンドロ枢機卿に代表されるカトリックの革新を目指す勢力が、ベラルミーノ師に代表される保守勢力に破れたことを意味していました。ブルーノ様の処刑を機に、反動の嵐が吹き荒れるのは目に見えていました。
しかし、アレッサンドロ様の巻き返しも激しく、クレメンテ八世猊下が一六〇五年三月に崩御されるや、メディチ家の力やフランスの力を背景にして、師は、第二三三代ローマ教皇レオ一一世として即位なされたのです。師は、フランス王妃マリー・ド・メディチの姻戚だったから、師の即位が決まるや、トスカーナ公国やフランスは喜びの渦に包まれました。トスカーナ大公も、堅物のベラルミーノより、やはりメディチ家出身の教皇のほうが扱いやすいと思ったのかも知れません。フィレンツェやフランスばかりだけではなく、ローマの市民もその寛大な性格を愛し、ローマ中、喜びでわきかえるようでした。そして我々もまた大喜びだったのです。
これですべてが変わる。そう思ったものです。ところが、その喜びの行幸の中であの事件は起こりました。乗られた馬の腹帯が切れ、教皇が落馬されたのです。
以来、教皇は寝込まれるようになり、回復に向かうどころか感冒にまでかかり、遂にはお亡くなりになってしまいました。
一六〇五年四月一日から二七日までのわずか四週間足らずのご在位でした。
今でも私は、レオ教皇様の死は企まれたものだと思っています。馬の腹帯が切れたのも計画されたものなら、その後の病状が悪化したのも、毒を盛られたものに違いない、そう思っているのです。こうして我々の夢も消えました。レオ一一世猊下の後は、保守派の代表株とも言えるパウルス五世が即位することになったのですから。」
「ブルーノ様のお最期はどのようなものだったのですか?」
千代が思わず言葉をはさんだ。いつしか頑なな表情にも、いつもの暖かさが少し戻ってきているように思えた。


フィオーレ広場の火刑

ブルーノの処刑は一六〇〇年二月十七日と決まった。
この日、牢獄から引き出されたブルーノは、サンタンジェロ橋を渡るや、ヴィア・ディ・コーダ、つまり縄尻通りとよばれる小道を、その名前にふさわしく縛りあげられた縄尻をとられながら、カンポ・デ・フィオーレへと引き立てられていった。
現在、カンポ・デ・フィオーレ(花の広場)は、その名の示す通り、花や果物・野菜を商う露店でにぎわっているが、当時は陰惨な処刑場として恐れられ、この地で異端者の烙印を押された多くの人たちが生きながら焼かれていった。

ジョルダーノ・ブルーノは、一五四八年、ナポリ近くのノラという町に生れた。ブルーノ自身、自らのことを常に「ノラ人」と称しているように、十四の年にナポリに出て以来、ノラの町は、自らが帰るべき故郷として彼の中に定着していったようだ。
以後、ブルーノは十四歳で人文学や弁証法を習い、十七歳にはドミニコ派修道院に入る。しかしブルーノは、この修道院時代に、神学以上に記憶術や幾何学・天文学につよい興味を示し、更にはテレシオの自然学に親しみ、当時すでに焚書となっていたエラスムスの書物まで隠れて読んだりするようになった。そして、このようなひろい探究は、キリスト教教義に対する批判的態度を早くから生み出し、修道院当局からは次第に不審の眼をもって見られるようになった。そのあげく、一五七六年、キリストの神性を否定するアリウス説を支持した疑いでローマに告発された。
時に二十八歳、これよりブルーノの十六年にわたる放浪生活がはじまる。
以後、パリで、ロンドンで、著述活動・講演活動を続け、その名声は上がっていくが、最後に舞い戻ったイタリアのヴェネツイアにおいて、異端者として告発され捕らえられるに至った。
ヴェネツイアの獄では、「修道僧の身分を脱して一哲学者として生きたい」という希望を持ち続け、法王庁が彼の思想の価値をみとめて、それにふさわしい扱いをしてくれることを期待していたようだ。それは故なき希望ではなく、その背景にはメディチ家出身のアレッサンドロ枢機卿の理解と援助があり、その活動もあって、一年後、ブルーノはローマに引きわたされることとなった。しかし、ブルーノが喜んだのも束の間のことであった。
反動宗教改革の嵐の中で、ベラルミーノ枢機卿を中心とするブルーノを弾劾する声が次第に力を得、ブルーノの釈放は思うに任せず、七年におよぶ訊問と拷問のなかで、その希望も次第に萎んでいった。
この頃だ、ブルーノが日本から来たトマスという青年にあったのは。
ブルーノは、トマスにキリスト教の闇の部分を伝えながら、己の態度をも固め、ローマの牢ではもう幻想をすて、自らの哲学的態度を守り通す道を選んだ。ブルーノを告発する最後にまとめられた八ヶ条の異端には、三位一体の教義と聖餐の秘蹟とを疑ったこと、またキリストの神性を疑ったこと、人の輪廻を説き、宇宙の無限を主張したことがふくまれており、審問官はブルーノの著書の主張を前後の連関からきりはなして異端を責めたてたが、彼は「それは曲解であって、哲学というものをみとめぬことである。信仰においては自分に何の異端もない」と、教皇庁に真っ向から対立した。

広場の中ほどに、今まさに火を放たれようとする薪が堆く円形状に積まれている。その中央には、ポンペイ劇場を背にして高く立てられた一本の十字架があった。
罪状を読み上げる聖職者に、ブルーノは言った。「私に宣告を下しているあなたがたのほうが、宣告をうける私よりも、もっと怖れているのではないか」と。
そんな暴言が二度と吐けないよう、ブルーノは舌伽をかまされ、裸にされたうえで、その十字架に縛り付けられた。
そのブルーノの目の前に長い棒にくくりつけた十字架が差し出された。
ブルーノは、十字架をかかげ自分を見上げるその若い修道僧の顔を見て驚いた。
目深にかぶった修道着のフードの奥に、涙に濡れた懐かしいトマスの顔があった。
トマスは、まるでブルーノからの答えを待っているようにじっと動くことがなかった。
(トマスよ、自分をキリスト教に縛っているかぎり本当のものは見つけられない。)
トマスの心の中にはっきりとブルーノの声が響いた。ブルーノはその思いがトマスに届いたことを感じたのか、軽く首を振ると十字架から顔を背けた。
(十字架は、何の解決にもならない……)
呆然と立ちつくしているトマスを、役人が邪険に押しやると、積み上げられた薪に火が放たれた。たちまち炎は毒蛇の舌のように薪を嘗め廻り、やがて紅蓮の焔となって十字架を呑みつくし、ブルーノの肉体を取り巻くや、渦巻く煙を噴きあげながら広場の空へと登っていった。
時に一六〇〇年二月十七日、多くの識者は、このブルーノの処刑をもってルネサンスが終わったと捉えている。

 



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