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アルビジョア十字軍

「トマス、メディチ家がどこから来たかご存知でしょうか?」
エレオノーラの声がトマスを現実に引き戻した。
まだ夢から醒めやらぬトマスを案じてか、エレオノーラの息子バルトロメオが口を挟んだ。
「元からフィレンツェに居たのではないのですか?」
「違います。今、トマスが思いを向けていたところから逃げてきたのです。」
「モンセギュール……?」
トマスが重い口を開いた。
「そうです。メディチ家は、フィレンツェの郊外ムジェッロから身を起こしたように言われていますが、本当は南フランスから逃れてこの地へやってきたのです。」
「ひょっとしてメディチ家は、カタリ派の生き残りなのですか。」
バルトロメオが訊いた。
「モンセギュールが攻め滅ぼされたとき、城にはカタリ派の財宝は何一つ残されていませんでした。有形無形に関わらず、カタリ派の人たちが大事と思ったものは、休戦中にすべて持ち出されたのです。メディチ家の教えを語り継ぐ者、カタリ派の資産を受け継ぐ者、それぞれ役割を分かち合い、カタリ派は地下に潜ることとなったのです。」
キリスト教が歴史の表舞台に登場するようになって以来、その地下水脈のように異端の歴史もヨーロッパ史の底を流れ続けてきた。地上からは見えなくとも、ときには細々と、ときには大きな流れとなって地上へあふれ出てくることもある。キリスト教史上、最大の異端と言われたカタリ派の流れが、再びイタリアに、それもヴァチカンの中枢に噴き出そうとしていた。トマスやミゲルの不幸は、日本人でありながら、この抗争に知らず知らずに巻きこまれていったことにある。
「ここにもう一人のトマス――カタリ派の時代を生きた一人の修道僧の手記があります。私がビアンカ様から託され、書き写したものです。私と共にここで朽ち果てるかと思っていましたが、少なくともこの手記だけは、この修道院から出ていくことができそうです。」
エレオノーラは、修道服の胸のあたりに抱えていた紙の束をトマスに差し出した。


◇ カタリ派からの改宗者トマスの手記
私が、このモンセギュールの城に入ってほぼ一年になる。
戦いは既に終局を迎え、降伏の条件をのむかどうか、攻城側から十五日の猶予期間が与えられた。この機会を利用し、私がカタリ派について知り得たこと、また戦いの合間に取った覚え書きを整理し記しておこうと思う。
それが、私がこの城へ来た目的なのだから……。

このところ毎日のように投石機から放たれた岩が唸りをあげてこの城を襲うようになった。最初は丸い石の砲丸であったものが、日を追うにつれ岩塊が混じるようになり、今では飛んでくるものは石や岩の塊ばかりとなった。
城壁越しに巨大な石魂が間断なく飛来するや、あたりはまるで地獄絵の様相を呈する。城内は、女や子供たちの泣き声やわめき声に覆われ、庭のあちこちで男女の完徳者が、醜く手足をもがれた騎士や、半ば押し潰された女性に臨終の救慰礼を授けているのが見られる。飛んできた岩塊に直撃され、頭が兜ごと肩へめりこんだようになった兵士の死骸さえ見られるようになった。
騎士を含め二百五十人近くいた戦闘員が、今では六十名足らずになっている。
誰がこんな事態を予想しただろうか。城は、モンセギュールという急峻な岩山の頂にあって、四方はほぼ垂直に近い断崖。誰もが難攻不落と信じて疑わなかった。
事実、昨年の五月、青地に百合の花の王旗をなびかせた十字軍がモンセギュールを取り囲んで以来、一万もの大軍が、非戦闘員も含め、わずか五百人足らずの籠城軍に手も足も出せず、半年あまりの間、いたずらに包囲するばかり。ついには糧食の心配までする始末だ。確かに一万もの軍勢を食わせる糧食となると並大抵のことではない。
それに引き替え、我々籠城側ときたら、秋に雨が降ったおかげで水は十分にあり、かねてから備蓄を心がけていたため食料不足の心配もない。それどころか抜け道を通って、不足するものは僅かでも運び込むことができた。これでは、たとえ五年を包囲されたとしても十分耐えることができたであろう。
事実、このまま行けば、聖王ルイの十字軍は撤退するしかなかった。
しかし裏切りがあった。カタリ派の仲間から裏切り者が出るとは考えもしなかったが、この裏切りによって抜け道の一つが押さえられ、攻城軍は、バスク地方の山岳兵を動員するや、ついに前哨を落とすに至ったのだ。前哨が落ちるや、アルビ司教の考案になる投石機が運びあげられ、六十ポンドから八十ポンドにおよぶ石の砲丸や岩塊が、連日、難攻不落の城塞に打ち込まれることになった。
間断なく続く砲撃の前に、誰の目にも開城間近なことは明らかだった。
……が、それでも我々は、更に二ヶ月を持ちこたえた。そして投石機粉砕を狙った決死の出撃が失敗に終わったとき、籠城側の主立った者たちは和平交渉を申し出る決定を下した。昨夜、この戦いの指導者であるピエール・ロジェとラモン・ド・ペレラによって降伏条件が皆の前に提示された。
「異端、ならびにカタリ派の信仰を放棄せぬ者は火刑台へ送るものとする。残余の者全員に関しては、己の過失を衷心より告白することを条件に、身柄を拘束せぬものとする。戦闘員に関しては、武器所持品携帯のうえ自由に退去するを認め、アヴィニョネの殺害事件への関与を問わぬものとする。この条件を受け入れる場合は、今日より数えて十五日目に城を明け渡すものとする。」
アヴィニョネの殺害事件というのは、一二四二年五月に起こった異端審問官の殺害事件のことである。トランカヴェルの反乱、レイモン七世の挙兵と続いたとほば同じころ、トゥールーズとカルカッソンヌとのちょうど中間くらいにある小村アヴィニョネで、滞在中の異端審問官の一行二名がことごとく惨殺された。しかもこの事件には、のちにモンセギュール寵城の戦術上の指導者となるピエール・ロジェが首謀者として名を連ね、実行グループにはモンセギュール居住の騎士たちが加わっていた。恨み重なる審問官の惨めな死に、ラングドックの民衆はいっせいに歓呼の声をあげたものだが、この虐殺事件をきっかけに、第二次アルビジョア十字軍の攻撃が開始されたのだ。
にもかかわらず、和平条件では「アヴィニョネの殺害事件への関与を問わぬ」とある。
前回の第一次アルビジョア十字軍の際、カタリ派の皆殺しが叫ばれていたことを思えば、異例なまでに寛大な条件であった。それは聖王ルイの威光と言うよりは、一万にもおよぶ攻城軍が十ヶ月にわたる包囲戦で、予想以上に疲弊していたことが、その寛大さの原因であろうと思われる。
私はその夜、このモンセギュールの領主の娘であり、熱心なカタリ派の信者であった、エスクラルモンドから次のような決心を打ち明けられた。
彼女は、私がフォアの住民に紛れ、このモンセギュールへ避難してきたときからの知り合いだ。
モンセギュールは恐ろしく切り立った山で、標高一〇〇〇メートルの頂きに目的の城がある。そして城に至る抜け道は険しく、聾でびっこの私には相当こたえる。
というのも、みんな前を向いて歩いているため、後ろから励ましの言葉をかけてもらっても分からないのだ。お陰で私は、みんなから愛想の悪い男だと思われたに違いない。
びっこの私を哀れんで助けてくれようと声をかけた人も、無視されたと思い、怒って追い越していく始末。そんな次第で皆からは遅れ、たった一人で、抜け道をやっとのことでよじ登ってきた。しかし、最後の登り口が険しくて、どうしても手に負えない。途方に暮れた私を、一人の女性の手が引き上げてくれた。それがエスクラルモンドだった。
驚いたことに、彼女は騎士の身なりをしていた。
いや間違いない。あの手は、いやあの顔だちは間違いなく女性のものだった。
彼女が、笑顔で何か言った。しかし、暗くて唇が読めない。
「ミミガ・キコエナイ・ノデス。」
彼女は驚いたような顔で私を見つめた。
「クラクテ、クチビルガ、ヨメナカッタノデス。ナント、オッシャッタノデショウ。モウイチド、オオキク、クチヲヒライテ、ハナシテイタダケマセンカ。」
エクスクラルモンダは言った。口を大きく開けて、
「モンセギュールへ、よ・う・こ・そ!」
これが彼女との出会いだった。

彼女が私に、「どこから来たのか」と訊ねたことがあった。
フォアの町では見かけたことがないというのだ。それに私の話し言葉は、おかしなアクセントには違いないが、それでもラングドックの訛りではないという。
エスクラルモンドは、男勝りだけでなく、観察力が鋭く賢い女性でもあった。
私はパリの修道院から逃げ出し、南フランスまで流れて来たこと、カタリ派のことをもっとよく知りたいのだということを話した。それは嘘ではなく、自分の本当の気持ちだった。ただ、フランス国王ルイとの出会いや、自分がレイモン七世の隠された息子であることは話さなかった。言っても誤解を招くだけだと思ったからだ。
以来、エスクラルモンドは、機会を見つけては、耳が聞こえず、うまく言葉も話せない私に根気よくカタリ派の教えを伝えてくれた。カタリ派の教えを聞くにつけ、私の心の中に(カトリックの教えは、本当のことを伝えるよりも、教会の権威を、目に見える典礼やミサの形で定着させようとしているに過ぎないのでは……)そんな疑問が渦巻きはじめた。

「私は救慰礼を受けることを決意しました。」
城を明け渡すことが伝えられたあの夜、エスクラルモンドは、私にそう語った。
救慰礼(コンソラメントゥム)とは、帰依者が完徳者の列に参入しようと望む際に執り行われる儀式のことを言う。カタリ派は、カトリックの豪華な教会や秘蹟と称する儀式的なものすべてを排除した。ただ、この救慰礼という簡素な儀式だけは残した。
これは、神と福音に身を捧げようと決意した者に執り行われる儀式であって、その決意を確かめた後、「油で調理された野菜や魚以外の食品は一切、肉もチーズも食べないこと」を約束し、同様に「虚言を吐かぬこと」、「誓いを立てぬこと」、「肉体の交渉に身を委ねぬこと」、「火、水その他いかなる形の死をもって脅かされようとも教団を捨てぬこと」が約束させられる。約束が済めば、志願者は主の祈りを唱え、次いで完徳者が志願者の頭に手を置き、書物(福音書)を載せた後、志願者を抱擁し、その前にひざまずく。列席者一同も同様に志願者の前に膝をかがめ、これで儀式は終了する。
約束は厳しい内容であり、欺瞞は許されず完全な遵守が必要となるが、ただ一般信徒に強要されることはなく、どんな生活をしようと自由であり、それによって軽蔑されることも『道徳的不行跡だ』と叱責されることもない。自分がその時期に来たと思う者、もしくは決意を固めた者が、その旨を完徳者に願い出てこの救慰礼を受けることになる。
ただエスクラルモンドをはじめモンセギュールの城に立て籠もった者にとって、和平交渉の決まったこの時期に「救慰礼」を受けるということは、城の明け渡し後、火炙りになることを決意したも同じである。
私にはそれが分からなかった。生きてさえいれば、どんなことをしてでも教えを語り継いでいけるではないか。生きていればこそ、それが可能だ。死は消滅であり、敗北でしかない。死んでしまって、何を伝えるというのだろうか。
そんな気持ちを、私は彼女に伝えた。
「トマス、あなたの気持ちはうれしい。でも、それは所詮、私の肉体を案じてのこと。私の本質は肉体ではありません。肉体は仮のもの、その奥深くに隠された霊的な魂こそが本当の私なのです。人間の魂はあまりにも強く物質に隷属したままなので、もはや自分の起源が神にあるという認識を忘れてしまっているのです。自然なままの状態では、人は無知のままでいようとします。認識する力が失われているのです。伝えることが目的ではなく、私が自分の内なる魂に気付くことが目的なのです。」
(火に焼かれれば、気付くというのですか。火炙りになれば、自分の本質は神だったという認識に到達できるとでもいうのですか……)
私には、自分の中に渦巻くそんな思いを言葉にすることができなかった。どもるばかりで思いがうまく言葉になってこない。
「……それに生きて教えを伝えていく人たちも決まっております。もうその方々は、別の抜け道を使って、このモンセギュールから抜けていかれました。その方々は、このカタリ派の聖なる書物や財宝の在処を知る方々です。
トマス、あなたもそうなのですよ。あなたは、生きて私たちのことを後世に伝えていく方、それこそあなたが、今ここにある目的ではないのですか。」
「チ、チ、チガイマス! 私ハ人質トシテ、パリノ修道院ニ預ケラレテイタモノ。フランス国王ノ命デカタリ派ヤ、ソノ教エヲ信ジル人タチノコトヲ知ルタメ、コノ城ニ遣ワサレタ者……」
「分かっています。レイモン伯に仕えておられた方々もこの城にはおられます。その一人の方は、あなたを人質としてパリへお連れしたことを覚えておられました。その方が申しておられました。あなたの面影は忘れられない。あれはレイモン伯の隠されたご子息トマス殿に間違いがないと……」
「………………」
「フランス国王が、あなたをここへ遣わされたのではありません。あなたはご自分の内なるものに突き動かされて、このモンセギュールへ来られたのです。そんなあなただから、託したいのです、この『マリアの福音書』を……。
マグダラのマリア様が、イエス様の生の声を伝えた書物、私たちの宝です。この城を出られるとき、あなたにこれを持っていってもらいたいのです。」
(……あなた方には宝であっても、私には負担でしかありません。それに、これを守り通すことなど出来そうにありません。)
「そのときが来たら、棄ててくださってよいのです。焼き捨ててもかまいません。あなたがそう思ったら、思ったようになさってください。福音書と言っても所詮は形です。それを残すことが目的ではありません。あなたの中に本当のものが残っていくこと、それがあなたを通して流れていくこと、それが私たちの望むことです。カタリ派という名前なぞ消えてしまっていいのです。イエスという名前さえ消えてしまっていいのです。本当のものが、いえ、本当のものがあるということ、そして、それを知りたいという、その思いさえ残せれば……」
異教徒やサタン以外に「イエスの名が残らなくていい」などという人間が、どこの世界にいるというのだろう。頭では、「これは神への冒涜だ」と思いつつも、私の心はそれを受け入れている。心のどこかで「そうだった、そうに違いない」という思いがあふれてくる。
私は心の中で聞いてみた。
(……でも、それならなおのこと、自ら火炙りになるのは間違いだと思いますが。)
「私は棄てたいのです。怖いという気持ち、なんとか肉を守りたいという気持ち、肉体にまつわる様々な思いを棄てていきたいのです。」
彼女から答えが返ってきた。
こうして私は、エスクラルモンドの差し出す「マリアの福音書」を受け取ることにしたのです。しかし、こんな覚え書き、もうどこへも出すことはできないだろう。もし、誰かに見られでもしたら、間違いなくこちらが火炙りだ。この城を出たら、パリには帰らず、「カタリ派からの改宗者」として、どこかの修道院に身を隠して生きていく以外にはなさそうだ……。



「モンセギュールは正しきキリスト教徒の最後の砦……。それが潰されようとしている。
死ぬのは怖くはありません。どうせ、この世はサタンの造った世界。そんな悪の世界を離れるのに、何の未練がありましょう。肉体はサタンのもの、そんな肉体を苦しめ何が面白いというのでしょうか。魂こそが真実、魂こそがすべて。私は、この魂を救うために、肉体を捨てていきます。
でも、苦しい。肉体が音をたてる、ジュウジュウと音をたてる。目が、目が瞑れない。誰か助けてください。私の身体が焼けてゆく。誰か助けてください、早く死なせてください、早く、早く死なせてください。早く意識がなくなってほしい。早く肉体の苦しみから解放されたい……。
炎が、炎しか見えません。あたり一面が真っ赤、真っ赤なんです。あー、早く死にたい。早く死なせてください。早く、早く、早く……」

炎の中で死んでいった人たちの苦しみが伝わってくる。どうしたらいい、どうしたらいい。俺にどうしろというんだ。俺にどうしろという。
あの光景が忘れられない。いつまでも俺の眼の奥に焼き付いている。
いやだ。俺はあんな死に方はしたくない。何があろうと、あんな死に方はしたくない。たとえ、この世がサタンのものであろうと、俺にはできない。あんな死に方はできない。

「あートマス、助けてください。こんな死に方はいや。こんな死に方はいやです。
炎の向こうに、トマス、あなたの顔が見えます。
トマス、トマス、あなたは笑っているのですか、それとも泣いているのですか。
トマス、みんな間違いでした、すべてが間違いでした。炎の中に救いはありません。死によって救われるなんて、嘘、みんな嘘でした。死ねば肉体から解放される。そう、死にさえすれば救われるんだって。死ねば救われる。死ねば肉体から解放されるって、そう思っていました。
でも、いつになったら死はやってくるのでしょう。いつになったら安らぎに包まれるのでしょう。ああ、こんなに苦しんでいるのに。これだけ苦しんでいるというのに、死はやってこない。死は迎えに来ない。いつまでこの中にいればいいのでしょう。
誰か、誰か、殺してください、トマス、殺してください。」

私はこの叫び声をずっと心の中に聞いていました。怖い、怖い、こんな死に方はしたくない。あー、あの声が追いかけてくる、殺してくれと追いかけてくる。
あの者たちの声が聞こえた。あの炎の向こうに、あの苦しそうな顔が見えたとき、私の心の中に焼かれて死んでいった人たちの声が響いてきました。
みんなの声が響いてきました。エスクラルモンドの声が響いてきました。
「こんなはずじゃなかった……」って。


トマスは、エレオノーラから差し出された手記を読み終え、深い溜息を付いた。
前に座っているエレオノーラの顔が、見も知らぬエスクラルモンドの顔とだぶり、その顔が炎の向こうから笑いかけたように思えた。
(やっとこの炎から救われます。)
トマスには、そんな声が聞こえたように思った。
「これはメディチ家に伝わった写本を私が書き写したものです。原本は、南フランスのとある修道院に『マリアの福音書』とともに隠されていたのを、ドミニコ会の異端審問官が見つけヴァチカン図書館へ納めました。」
トマスは、エレオノーラの声に再び現実に引き戻された。
「ヴァチカンの中にも、教皇さまの周囲にも、私たちの仲間はいます。」
「アレッサンドロ枢機卿さまのように?」
「そう。でもそれが誰なのか、私には分かりません。一人は、シクストゥス教皇様の秘書官だった方。この方は『シクストゥス聖書』改訂の過労の中でお亡くなりになられました。もうお一方、『シクストゥス聖書』の秘密を握っておられる方がおられるようなのですが、アレッサンドロさまにもお分かりではないようです。すべてを把握しておられたフランチェスコ大公さまもビアンカさまも、そのことを明かされる前にお亡くなりになりました。ベラルミーノ枢機卿様も、このことに薄々気づいておられ、密かに捜索されておられるご様子です。このことがプロテスタントの方々にでも漏れたら、ヴァチカンにとっては大打撃ですから。」
そう言いながら、エレオノーラは一枚の紙片を取り出した。
「このメモをあなた方に託します。ビアンカさまから『もし、私の身に何かあったら』と託されたものです。」


ベラルミーノ枢機卿

ベラルミーノ枢機卿が密かにフィレンツェを訪れた。
彼を乗せた馬車は、サン・ジョルジョ門からフィレンツェ市街へ入ろうとはせず、その手前の道を左に取るや、まっすぐにベルヴェデーレ要塞へと向かった。ここは一五九〇年にベルナルド・ブオンタレンティの手により、フィレンツェを政敵の攻撃から守るべく設計されたものだが、今やメディチ家の私的避難場所として使われている。

「アルメーニは何か吐きましたかな。」
トスカナ大公フェルディナンドが部屋に入るなり、ベラルミーノが声をかけた。
「さすがアレッサンドロ枢機卿が見込んでスイス衛兵隊から引き抜いた男、いかように責めても一言も口を割りません。しかし、カトリック教会の良心と言われたお方、そのご到着第一声にしてはあまりに率直、あまりに無粋な……」
「カトリック教会を守るため。なりふり構ってはおられませんでな。」
「いかにも。このフィレンツェとて、いまやヴァチカンとは一体の身。アンリとマルグリットの離婚が成立するからには、なんとしてでも我が娘マリーを次のフランス王妃に据えねばなりません。ヴァチカンと、このトスカーナ公国が一体となってこそ、フランスの新教勢力を押さえられるというもの。」
「それを、シクストゥスの亡霊……というよりカタリ派の亡霊が、またぞろ頭をもたげはじめた。シクストゥス聖書のことが新教側に知れれば、ヴァチカンの権威は根本から揺さぶられることとなる。ようやく落ち着きはじめたフランスも、そうなれば、どこへ転げ出すか分かったものではない。カトリックの根本であるローマ教皇が異端だったなどと……」
「カトリック教会を守るため、教皇まで毒殺されたお方……いや、これは失礼いたしました。根も葉もないことを……。とはいえ、このフェルディナンドとて、実の兄であるフランチェスコ一世とその后を毒殺いたしております。まさにヴァチカンとトスカーナは一心同体と申せましょうな。」
そのとき、重い木製のドアをノックする音が響いた。
ドアを開けるや血の匂いが広がった。
「……申し訳ありません。アルメーニが亡くなりました。」
拷問係の血に染まった皮の前掛けが、アルメーニの凄惨な最期を物語っていた。
「何も吐かずにか?」
「はい、トマスの護衛としてフィレンツェへ遣わされたこと以外は。」
「責めてみてどのように感じた。」
「あの男は何も知らないように思います。知っていて隠し通そうとしている感じではありません。顔を見れば分かります。」
「そうか、ご苦労だった。死体はアルノ川へ棄てよ。……すぐ見つかるよう、重りは付けるではないぞ。日本から来た猿どもにも警告は必要であろう。」
フェルディナンドはベラルミーノの方に向き直ると
「こうなっては異端にことよせ、直接、エレオノーラを責めてみるしかなさそうですな。」
「彼女はしゃべらぬであろう。これ以上無駄な血を流すより、トマス等の監視をおこたらぬことだ。それが一番の近道。」



トマス等がオノフリオ修道院を後にしたのは、もう夕方近かった。とはいえ、この時期、陽はなかなか沈まず、まだ昼のような明るさではあったが。
待っているはずのアルメーニの姿がない。バルトロメオが、真っ先にアルメーニのいないことに気付いた。気にはなっていたのだが、アルメーニのことだ、頃合いを見て先に引き上げるだろうと、別に心配もしなかったのだ。それが、今になってみると、なぜか不安を払いのけることができない。
「こんなところで、いつまでも待ってられませんよ。きっと修道院に先に帰っていますって……」
ミゲルが暢気そうに言うが、バルトロメオは何か釈然としない。
トマスが、そんな不安に終止符を打った。
「何があるにせよ、まずは修道院に帰ろう。すべてはそれからだ。シクストゥス聖書の重要な手がかりだって、我々の滞在するサン・ロレンツォ修道院の図書館にあることが分かったんだ。まずは帰るべきだよ。」

今や、エレオノーラから彼女の知るすべてが知らされていた。ローマンカトリックが、イエスのみを『神の子』とするのに対し、「イエスの説いた教えはそうではない。すべての人が神の子であり、神を外に求めるのでなく『内在する神』を自分の中に感じ、霊的な自分に目覚めていこうというのがイエスの説いた教えであり、イエスはそのことを伝えるために肉体を持ったのだ」という考え方があったこと。そして、こうした立場は異端とされ、弾圧されてきたこと。このため、それらの教えは形を棄てることによって、あるときは「マニ教」という教えとなり、あるときは「グノーシス主義」という形をとり、また「カタリ派」という形となり、「ルネサンス」という精神の中に、「宗教改革」という形の中に、すべてのもののなかに内在することを目指してきたということ。
そして、ルネサンスの頃、メディチ家の初代コジモによって『プラトンアカデミー』が創設され、そのグループに属する哲学者や錬金術師、科学者たちの探求の中で、漠然としたこのような流れがあることが明らかになった。コジモは、これら真実を知ろうとするムーブメントを庇護するべく、『インクナブラ』という秘密結社を結成した。
その名は「印刷の揺籃期」を表しており、その目的と活動は、真実を活字に残すこと、および真実を追究しようとして出版された世界中の書物の収集と保護、そして真実を追究しようとする「人」と「団体」を支援することにあり、個人的には、その学習を通して「人生の真の目的」に自らが気付いていくことにあった。
この流れは、大きな広がりを見せ、形にとらわれないことから、本人もそれと知ることなくその流れの中に巻き込まれていることもしばしばであり、シクストゥス五世の場合が、その最たる例であった。彼はノストラダムスによって教皇への野心をかき立てられ、『インクナブラ』の創設者であるメディチ家の後押しによってローマ教皇となった。
そして彼がローマ教皇となったとき、彼の周りには、彼が最も信頼したアレッサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチ枢機卿がいた。彼もまた『インク・ナブラ』の会員である。そればかりか、彼の秘書官までが、その会員であった。
ただし、その全貌を知る人は少なく、シクストゥス教皇の秘書官にしたところで、自分が所属しているのは、かつて滅びた『カタリ派』の隠れた信奉者の団体であると信じて疑わなかった。
彼は『聖書』の改訂作業にあたり、その作業の中で「イエス自身が神の子であるばかりでなく、すべての人が神の子であり、神とはすべての人の心の中に内在するものだ」という内容や、その他の関連する字句・聖句を挿入させてしまった。
言葉の海の中に一度紛れ込むと、なかなか見つけることが困難となる。それも竜巻スタイルと言われた殺人的スケジュールの中で、しかも最終校正後に挿入されると、その発見は不可能と言ってもよかった。その作業の後、校正係をした件の秘書は、過労から帰らぬ人となった。こうして『シクストゥス聖書』は「充溢せる使徒の力により、ここに宣告し、宣言する。この版は――主からわれわれに与えられた権威によって認可されたものであり、したがって真実かつ合法的なるものとして受け入れられねばならず、公共的ならびに私的な論争、説教、解釈において、疑問の余地なく拠り所とされねばならない」というお墨付きのもと、世の中に出ることになった。
……が、唯一、このことに気付いた人物がいた。それが教会博士であるロベルト・ベラルミーノ枢機卿であった。このような聖書が出回れば、宗教改革でプロテスタントとカトリックが対立する中、ヴァチカンの権威は失墜する。フランスでは聖バルテルミーの虐殺に代表されるようなユグノー教徒との紛争がようやく落ち着きを見せ、ヴァチカンの権威が復活したばかりだ。
今、この聖書が出回ればどうなるか。かといってローマ教皇は絶対であり、聖書もまた絶対である。カトリック教会を守るということは、他でもないローマ教皇と聖書の不可謬性を守るということに他ならない。
悩んでいるとき、まことに好都合なことにローマ教皇シクストゥス五世が崩御した。聖書が完成するなり、シクストゥスは死んでしまったのだ。あまりにも好都合であった。
ベラルミーノは、新教皇の就任を待たず、全ヨーロッパの異端審問所に命じた。
「シクストクス聖書を回収し焼却せよ」と。
そして、シクストゥスの竜巻スタイルを上回るスピードで改訂版を完成させた。それが二人の教皇の名前で出された『シクストゥス・クレメンテ聖書』である。
ベラルミーノは「先の『シクストゥス聖書』は誤植が多いため破棄し、この『シクストゥス・クレメンテ聖書』をもって教会の拠り所とする」と宣言した。
かくして、ローマンカトリックの歴史のなかで、彼等が異端として排斥した思想――「すべての人が神の子である」という教え――の挿入された、初めにして終わりであろうラテン語聖書が抹殺されてしまった。
ところが、そのシクストゥス聖書がまだ残されているという。
エレオノーラから託された一片の紙片。ここに『シクストゥス聖書』のみか『マリアの福音書』の在処を知る鍵が記されているという。やがて、そのことが明らかになろうとしている。


霊道者・清花の推理

1968年5月
「資料によって人数に若干の違いがあるが、このとき、二百名以上の人間が火炙りを選んだといわれている。」
伊牟田修平が、抱えていた本から目を上げ、ポツリと言った。
「こちらの資料にはこんなことが書いてあるわ。」
清花が言葉をはさんだ。
『刑場に向かう処刑者の列に、ひときわ痛ましい三人の女がいた。直前に完徳者となった領主の妻コルバと娘エスクラルモンド、それにコルバの母マルケジア、彼らは一つの文明の絶預と滅亡を目撃した三世代の悲劇的な代表であった……』
「このエスクラルモンドって女性のこと、何かなつかしい気がする。会ったこともないのに……ほら、話していてもこんなに鳥肌が。」
テレビスタジオの隅につくられた伊牟田の控え室が、康男の捜索本部のようになっている。といっても、伊牟田と清花の夫婦二人だけの捜索隊ではあるのだが。
清花は、康男がローマにいる。しかもサン・ピエトロの近くにいるという。ところが次には「南フランス」とか「モンセギュール」という名を口にし、そこが気になると言い出した。
「康男はローマに居るんだろう?」
「そうなんだけど、どうしても気になるの。この地のカタリ派って、いったい何のことなのか調べてくれない。」
伊牟田は大学時代、美術史を専攻しており、ヨーロッパの歴史にも詳しい。「南フランスのカタリ派」と聞いただけで、ヴァチカンとフランス王室が手を携えての「アルビジョア十字軍」にすぐさま思い至った。あとは社の資料室へ行き、資料を探し出してくるだけ。伊牟田の所属するCMプロダクションは、業界でも最大手であり、CMだけでなく、PR映画まで手がけており、そのため資料類も豊富だ。そんじょそこらの図書館より専門的な資料を揃えている。
今や伊牟田の部屋は、美術部の控え室というより、ヨーロッパキリスト教史の研究室のごとき観を呈している。ただでも狭い部屋の中は、場違いな「異端審問の歴史」や「ヴァチカン」に関する研究書や資料が散乱している。

伊牟田は資料から目を上げると、事務所のホワイトボードに目をやった。
「天正遣欧使節」「ローマ教皇シクストゥス五世」「ベアトリーチェ・チェンチ」「異端審問」「ノストラダムス」「ベラルミーノ枢機卿」そして「メディチ家」……
水性ペンで無造作に書き並べられた単語の羅列。去年、康男が大学の卒論に取りかかりはじめるや幻覚を見たり、よく金縛りにあうようになった。ホワイトボードに書かれているのは、そのとき伊牟田や清花にもらしていた内容と、半年前、康男がローマロケのスタッフに選ばれるに及んで幻覚が再発したときに話していた内容だ。それに清花が気になると言った言葉「モンセギュール」「カタリ派」……。

「待てよ、アルビジョア十字軍が一三世紀初頭だろう。天正遣欧使節やノストラダムス、それにメディチ家となると、一六世紀のことになる。二つの時代にどんな因果関係があるんだ。これも過去世で片づけるのか?」
「過去世と言っても、誰が誰に生まれ変わる……そんな単純なものではないわ。過去世のことはよく分かっていないのが現実だけど、それでも肉の世界での家系図のような流れを考えると、とんでもない陥穽に落ちてしまう気がするの。人格が生まれ変わるのでなく、思いというエネルギーが輪廻する、そんな感覚じゃないかしら。」
そう言いながら、清花はホワイトボードに向かうと、「カタリ派」という語句と「メディチ家」という語句を、赤の水性ペンでつないでしまった。
「おいっ、何だよ、それ! どういう意味だ?」
「分からない。」
「おいおい、ひょっとしてメディチ家は……」
伊牟田の中にいきなり閃くものがあった。伊牟田は、クリストファー・ヒバート著すところの「メディチ家の盛衰」のページをあわてて繰りだした。
「あったぞ。メディチ家の起こりはよく分かっていないんだ。薬種業だったとか医者だったとか、カール大帝の貴族でムジェッロで竜退治をしたなんてのもある。しかし、どうも確かなところは一三世紀半ばにムジェッロというところで炭焼きでもしていたようなんだ。それがフィレンツェへ出てきて身を起こし、一躍、金融業で財をなした。」
伊牟田は独り言のようにしゃべり続け、清花は目を瞑って、ただ、その言葉に耳を傾けている。
「カタリ派がアルビジョア十字軍に滅ぼされたのが、一二四三年つまり一三世紀の半ばなんだが、カタリ派の財宝というものが忽然と姿を消している。どうも休戦期間中に、カタリ派の一部の人間がモンセギュールを脱出したようなんだな。財宝とか、教典とかを持って……」
伊牟田は、次に「異端カタリ派」という新書版をあわただしくめくりはじめた。
「その逃げた先が北イタリア! ほら、この本には、カタリ派の一部がイタリアへ亡命したとある。そこでメディチ家の起こりと繋げて考えてみると、フィレンツェ北部郊外から忽然と現れ、フィレンツェで金融業を起こしたメディチ家……メディチ家がカタリ派の生き残りだと考えると、その経済的背景もハッキリしてくる。カタリ派の財宝だ! 一六世紀、メディチ家の再隆盛期、コジモが、なぜルネサンス運動を支援したか。少なくともフィレンツェで起こったルネサンス運動は、カトリック批判というか、カトリックに対するカタリ派の巻き返しだったように思えてくる。」
伊牟田の視線がホワイトボードへ戻った。
「そうか! メディチ家だけでなく、チェンチ一族もカタリ派の信奉者なんだ。そう考えれば、世論や外交使節団の陳情を無視してまで、ヴァチカンがチェンチ一族の処刑を急がせた訳がハッキリしてくる。康男もこの部屋でベアトリーチェ・チェンチの肖像画を見て何か感じているような素振りだった。これだ!」
伊牟田は、ベアトリーチェ・チェンチの肖像が描かれた美術全集を清花の前に示しながら、何かに憑かれたように喋り続けた。

伊牟田が閃いたチェンチ一族の真実というのは、彼らはキリスト教の中でも異端と言われているカタリ派の教えを信奉していたということに尽きる。カタリ派は、南フランスから北イタリアを中心に広まった教えだが、一三世紀に起こったアルビジョア十字軍で、そのほとんどが一掃され、その後の徹底的な調査と弾圧の中で、完全に消滅したと思われていた。
しかし、それは表面上のことで、実は地下に潜り、グノーシス主義やマニ教、更にはユダヤ神秘主義思想等の流れと一つになって、密かに教えを語り継いできたという。
この流れがヴァチカンにまで入り込んでいたというのだ。現に、チェンチ家は、ヴァチカンの会計係を勤めているし、どうやら枢機卿の中にも、この流れを支持する人間がいたらしい。そして、その秘密を握っているのが、ベアトリーチェの父親だった。
このことに気付いたヴァチカン側は、密かに親殺しに見せかけてチェンチを始末してしまった。そして、この事件の解決にことよせ、チェンチ一家と、カタリ派に関係したヴァチカン内部の人間を始末してしまったというのが真相ではないだろうか。
そう考えれば、同情したローマっ子や外国使節の助命嘆願にさえ、頑として耳を貸さなかったヴァチカンの対応は納得できる。このヴァチカンの態度に、周りでは、ヴァチカンがチェンチ家の財産に目を付けたからだろうとの憶測が飛び交ったが、チェンチ家は破産寸前の状態であったことを考えると、これも当を得ていない。
そこまで喋りきると、伊牟田はふと考え込んだ。
「しかしヴァチカンは、そんな回りくどいことをせず、なぜ彼らを異端者として処罰しなかったのか。……と言うことは、どうも、これに関わっているのは、枢機卿だけではなさそうだ。もっと上の人間が絡んでいる。枢機卿より上というと……もちろん、これより上にはローマ教皇しかいない。ローマ教皇がそれと知らず異端的色彩を帯びているとしたら……」
そのとき、清花の口から出た一言が伊牟田の自問自答にストップをかけた。
「康男さんがローマに帰ってくる。」


アルメーニの最期

図書室の中央をまっすぐに走る廊下が、入り口に突き当たるや、三つの流れに分かれて下っていく。ミケランジェロの設計になるその階段には、川の流れが、まるで緩やかな落差をなめらかにすべり落ちていくような優雅さがあった。
トマス、ミゲル、それにバルトロメオの三人が、流れに逆らうようにその階段をあがっていく。深夜のこととてはばかられたものか、トマスとミゲルが、右端から入り口に向かって弧を描く支流をそっとあがっていくのに対し、バルトロメオは一番広い中央の階段を堂々とあがっていこうとしている。昼間であれば、巨大な壁に穿たれた小さな入り口から、まっすぐ奧へメディチ家の紋章を配した格子天井の連なりが見え、威圧感とともに何ともいえない心地よいシンメトリーをつくり出しているのだが、この時間では入り口の扉は閉ざされている上に、照明といえば三人の持つ手燭の灯りしかない。
トマスは、手燭の灯りに浮かびあがる扉の装飾の見事さに息を飲んだ。昼間、気にも留めなかったものが、かすかな灯りの中で真っ正面から自分に語りかけてくる。
「トマス、はやく開けろ!」
ミゲルが押し殺した声で訴えてくる。
トマスは預けられている図書室の鍵を取り出した。滞在中は、いつでも資料類が閲覧できるようにと預けられたものだ。修道院長の破格の計らいであった。
「向かって左、一番手前から六列目の閲覧台」
バルトロメオが、先頭に立ち、手燭で一つひとつの閲覧台を照らしながら慎重に進んでいく。
「ウノ、ドゥーエ、トゥレ、クアットゥロ、チンクエ、セイ……」
燭台の灯りが、閲覧台の端に埋め込まれた一覧表を照らし出す。
普通の図書館では書庫と閲覧室が別になっており、利用者は書庫から目的の図書を借り出し閲覧室で目的の本を読んだり調べたりすることになる。しかし、このサン・ロレンツォでは、閲覧台に本がセットされている。それぞれの閲覧台の通路側の側面には、そこにどんな本がセットされているのか、そのリストが埋め込まれている。つまり利用者は、本を運ぶのではなく、自分が目的の本のある閲覧台へ体を運ぶことになる。
「HISTORIARVM……クイ(ここだ)。」
トマスが、バルトロメオの差し示すリストの一角に目を凝らした。
「HISTORIARVM ET ANNALIVM LIBRI……」
ローマ時代、歴史の第一人者と言われたタキトゥスの表した『歴史』と『年代記』。その二冊が一五七四年、アントワープで『タキトゥス/現存する歴史と年代記』というタイトルで出版されている。
三人は目的の本を閲覧台に見つけた。
「C.CORNELII TACITI……間違いない。」
「一二八ページだ、このページが解読コードになっている。ミゲル、書き写してくれ。」
トマスがページを繰りながら、ミゲルに指示した。
「よし、席を替わってくれ。」
書写にかけては、ミゲルは独特の才能を持っている。一字一句間違いがないばかりか、その書体や一行一行の字の配列などページ構成まで写し取ってしまう。それは肉筆本ばかりか印刷本の場合でも、まるでコピーを取ったかのような正確さであった。
「内容じゃないぞ、字の配列が重要なんだ。」
「心得ているよ。」
そういいながらも、ミゲルはその几帳面な仕事を開始していた。
トマスは、そんなミゲルをよそ目に修道服から一枚の紙片を取り出した。エレオノーラが、ビアンカ大公女から託され今まで保管していたものだ。
二組の数字の組み合わせがスラッシュとスペースで区切られながら、紙片を埋めている。
バルトロメオがその紙片を覗き込み、
「スラッシュで組み合わされた数字の組み合わせの中で、最初の数字が行の位置、二番目の数字が列の位置を表している。スペースは単語の区切りを表す。簡単な換字式暗号だが、キアーヴェ(鍵)となる文書が何であるか分からない限り、絶対に解くことはできない。」
「とすると、行を表す頭の数字のうち一番大きな数字は二八だから、二八行以降は写し取る必要はないということだ。」
「ご親切さま。でも、この本は二八行取りだ。二九行目はないよ……」
ミゲルがやり返しているそのときだ。
図書室のドアが開いた。
「やはり、ここにおられましたか。日本という国に信仰の種をまく。若さと使命感がもたらすその熱心さはうらやましい限り、私めも、もう少し若ければ……しかし、お体には十分注意召されませ。体があってこそのお仕事……」
トマスらの世話を命じられている召使いの老人がそこにいた。
「あ、ありがとうございます。ところで、なんのご用でしょうか?」
「……おお、そうじゃ。いかんいかん、歳をとると忘れっぽくなって。いや、そんなことを言っておる場合ではない。大変なのじゃ。お供のアルメーニ殿が亡くなられた! 酷い有り様でアルノ川から引き上げられた。」
聞けば、遺体は十字架に打ち付けられ、アルノ川の上流から流されたようだ。アルノ川はポンテ・ヴェッキオ橋のあたりで川幅が一番狭くなっている。そのポンテ・ヴェッキオ橋の橋脚に十字架が引っかかり、流れに抗して十字架の端が何度も何度も橋脚をたたいていた。まるで自分の存在を主張するかのように、ある間隔を置いて、
「ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン」と。
ポンテ・ヴェッキオ橋には、スゥポルトと呼ばれる金細工師の工房が並んでおり、そのいくつかは木枠で支えられ橋から張り出した状態にある。元々は、肉屋や革なめし屋、それに鍛冶屋などが、作業場をここに置き、川をゴミ箱代わりにしていたのだが、今のフェルディナンド一世がその騒音と悪臭を理由に追放し、金細工師に貸し与えることとした。
そんな金細工師の住人が時ならぬ騒音に、ある者は夜なべ仕事の手を止められ、ある者は心地よい眠りを妨げられることとなった。
騒音の正体は、十字架に張り付けられた人の死骸だった。
両眼はつぶされ、膝は砕かれ、両手の指も、おそらく指締め器の拷問にかけられたのだろう、十本ともにつぶされていた。
知らせを受けて三人がポンテ・ヴェッキオに駆けつけたとき、アルメーニの血で黒ずんだシャツが、郡警察の警官の手で引き裂かれた。その裸の胸には、刃物で刻まれたものであろう、くっきりと「ダヴィデの星」が刻みこまれていた。
すがすがしい朝の空気とは、いかにも不釣り合いな光景であった。

チェンチ一族の処刑

1599年9月11日
この日、トマスら一行が、フィレンツェから戻りローマへと入った。
その日は、秋らしいよく晴れわたった土曜日であったが、空には異常に真っ赤な朝映えがたなびいていた。
ローマを離れて既に五ヶ月が過ぎている。
トマスらは、エレオノーラから教えられた暗号表で、「シクストゥス聖書」がローマにあることを知った。それもチェンチ家の礼拝堂にあるという。
チェンチ家と聞いたとき、トマスの中の康男が反応した。大阪のテレスタの美術室で知ったベアトリーチェ・チェンチのこと。そしてローマロケで、はたまたローマの地下をさまようなかで、そのベアトリーチェ自身にあった。
今、自分がここに居るのも、ベアトリーチェに導かれたとも思えてくる。そんなことを考えると、一刻も早くローマへ戻りたかったのだが、アルメーニの殺害を知ったアレッサンドロ枢機卿は、危険回避のため、一行をフィレンツェとローマから遠ざけようとした。
資料収集と研修を兼ねて、ミラノとヴェネチア、更にはシエナの図書館を回ってくるようにという。
焦る気持ちを抑えての五ヶ月だった。
そして今、やっとローマへと帰った。
ローマを発ったのが春。それがもう秋の入り口にかかっている。おかげで、ローマの猛暑を避けることが出来たわけだが、ローマへ戻ってみれば、町は異様な雰囲気に包まれていた。険しい顔をした男や女達がテヴェレ川に沿う川岸通りの道をサンタンジェロ城の方角へと流れていく。人の波は、次第に増え、ついにはおびただしい群衆となってトルディノーナ監獄を目指して動いていた。
聞けば、この日、チェンチ一族が公開処刑されることになっているという。
チェンチ一族のうち、ジャコーモとベルナルドの男兄弟が、テヴェレ川を挟んでサンタンジェロ城と向かい合うトルディノーナ監獄に収監されている。やがて二人の兄弟は引き出され、主犯とされるベアトリーチェとその継母ルクレツィアが収監されているサヴェッラ法廷へと向かう。ここでチェンチ一族は合流し、処刑場となっているサンタンジェロ広場へと向かうことになっているというのだ。
トマスは、自分がベアトリーチェの処刑の日、このローマに戻ってきたことが偶然とは思われなかった。でも、自分はすべてを知っていながら何も出来ない。いっそ知らなければよかった。シクストゥス聖書のことも、インクナブラのことも……。何も知らず、崇高で汚れのないキリスト教を信じていくことができれば、どんなに幸せだったろうか。
(俺がローマに来たのは、何のためだったんだろう……)

「来たぞー、処刑の行列が現れたぞ!」
その声に群衆のざわめきが途絶えた。
その沈黙の中から、低いがよく響く祈祷の声が沸き上がってくる。

天主なる御父 われらをあわれみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子 われらをあわれみ給え。
天主なる聖霊 われらをあわれみ給え。
唯一の天主なる聖三位 われらをあわれみ給え。
聖マリア われらのために祈り給え。
天主の聖母 われらのために祈り給え。
童貞のうちにていても聖なる童貞 われらのために祈り給え。
聖ミカエル  われらのために祈り給え。
聖ガブリエル われらのために祈り給え……

群衆が道をあける。
その先頭には、幡を押し立て灰色の修道服をまとったスティッマーテ信心会会員の一団。彼らは木製の十字架像をぶらさげた革ひもで腰をしっかり縛り、使徒ふうに素足に靴を履いている。その後には、兵士や憲兵がバラバラに群をなして続き、さらにその後には、頭巾をかぶったミゼリコルディア信心会の人たち、これまた幡を押し立てている。
最後に二台の馬車が続く。
一台目の馬車には、上半身が裸のジャーコモと死刑執行人、そして聴罪司祭や裁判所の助手たち。二台目の馬車には、黒のマントを被って顔を隠したベルナルドが乗っている。
さらにその後にも別の憲兵と兵士の一団がいて、増え続ける群衆を馬車に近づけまいとしている。
一台目の馬車が、トマスらの前に差し掛かった。
トマスは、馬車の中の光景に思わず叫び出しそうになった。
裁判所の助手たちが、判決の規定に従い、赤く熱したペンチでジャーコモの胸や背中の肉片をちぎっている。チェンチ家の長男ジャーコモは、叫び声一つたてずその拷問に耐えていた。
「ヤツは間違いなく阿片を与えられている。あの目を見ろ……」
バルトロメオが、トマスの耳元にささやいた。
トマスは、そんなバルトロメオの声も聞こえなかったかのように、茫然と馬車を見つめている。その目が、ジャーコモの視線と絡み合った。
何かを訴えるような悲しげな目が、トマスの前を通り過ぎていった。
信心会員たちは「諸聖人の連騰」を唱え、聖人の名を口にするたびに〈オーラ・プロ・エイス〉と祈願し続けている。

トマスは何かに憑かれたように、馬車の後を追って歩き出した。
ミゲルもその後を追おうとして、バルトロメオの腕に止められた。
「チェンチ家の礼拝堂を探すのなら、この機会を逃す手はない。ローマ全体が、ベアトリーチェの処刑に向いている。今なら誰にも邪魔されず礼拝堂を探せる。」
『シクストゥス聖書』も『マリアの福音書』も、チェンチ家の礼拝堂・聖具室に隠されているのだ。確かに今なら、誰にも見とがめられることなく、チェンチ家の礼拝堂に忍び込むことができるだろう。バルトロメオの言うように、千載一遇のチャンスだった。
「トマスはどうする。」
「トマスなら大丈夫だ。彼の好きなようにさせよう。」
トマスは、二人がついてこないことにも気づかず葬列の後を追い続けていた。

葬列は、アッポリナーレ広場からトール・サングィーニャを越え、ドゥーカ広場を通って、サンタ・マリア・ディ・モンセッラート街へと到着した。ベアトリーチェが囚えられているサヴェッラ法廷のある街区だ。葬列は、ここサヴェッラ法廷の前庭で、ベアトリーチェとルクレツィアの下りてくるのを待つ。
やがて、二人の女性は鎖はつけず、黒っぽいマントに身を包み路上に現れた。
ベアトリーチェは毅然とした態度で歩み、その後から彼女の継母であるルクレツィアが足を引きずるようにして歩んでくる。
ルクレツィアはというと瞼を気ぜわしく痙攣させ、息づかいも不規則で、いつパニックを起こすか分からない状態だ。事実、執行人がジャーコモの体に加えた残虐行為を見たとたん、うめき声を上げ止めどなく泣き始めた。
これに対し、ベアトリーチェは終始、毅然とした態度を崩さなかった。
ベアトリーチェのその毅然とした美しさを、モデナ公国の諜報員パオルッチは、「いまだ十八歳にもならぬに、群を抜いた美しさと上品な振る舞いをもって聞こえ」「この試練の中で大いなる精神力のほどを示し、すべての人々の目に驚きと映った」とエステの枢機卿に伝えている。
実際は、ベアトリーチェはこのとき二十二歳であったが、幼い少年のような顔立ちが悲劇性をかき立て、今や群衆は溢れかえらんばかり。窓、バルコニー、テラスは鈴なりで、そのほとんどの人たちがチェンチ一族に連帯感を示し、一族にこのような理不尽な処分を与えた者たちに軽蔑と恨みつらみをあらわにしていた。
ベアトリーチェらを加えた葬列は、群衆のざわめきの中を、再び移動を開始した。
ベアトリーチェとルクレツィアは徒歩で、馬車の傍らを歩んでいくが、行列がバンキ街区に入ったとき、その事件は起こった。
バンキ街の舗装道路が糞でヌルヌルと歩きにくくなっていたのだ。この頃、糞や汚物を道に捨てるのは当たり前のこと。中世から近世にかけてのヨーロッパは汚くて臭い。だからこそ教会の中は、香を炊き、ステンドグラスで光の演出をし、音楽を響き渡らせ、別世界をつくりだす。臭くて汚い外界から一歩教会へ足を踏み入れた人々は、そこにこの世の天国を感じたのだ。
だから、バンキ街の路面が糞でヌルヌルしていたからといって驚くには当たらない。ただ、このときの状態はひどかったようだ。通るに通れず、徒歩の者たちは、壁に体をすりつけるようにして進まなければならなかった。
そんな中、ルクレツィアが自分のマントを踏みつけてしまった。たちまちバランスを崩し、ヌルヌルすべる路面に足を取られ、その場に転倒してしまったのだ。
これが合図となった。民衆の興奮が一挙に爆発した。
二人の女性に花束を投げる若者がいるかと思うと、役人たちに向かっておびただしい小石が投げられた。夫婦喧嘩よろしく、鍋や皿までが役人にぶつけられる。
眉間に小石が命中した憲兵は、怒りに駆られ、火縄銃の銃床を誰彼かまわず振り回し応戦を始めた。他の憲兵たちもこれにならい、たちまち辺りは修羅場と化した。逃げまどう人々。逃げる者と襲いかかる者たちの間で押しつぶされ、踏みつけられる人たち。
争乱街区には憲兵が送られ、鎮圧にかかっている。その争乱の中を、葬列は駆け抜けるようにして処刑場へと到着した。
トマスもまた、あの争乱からどのようにして抜け出したのか、いつの間にか処刑場であるポンテ・サンタンジェロへとやってきていた。

正午頃、サンタンジェロ城の哀れみの鐘(ミゼリコロディア)が鳴り始めた。
鐘の音にせかされるように、死刑囚のための祠からベアトリーチェたちが出てくる。
四人の囚人たちは、争乱の中を突っ切るようにして処刑場に到着するや、最後のミサのためにと、この祠へと導かれていたのだ。
トマスは、人混みをかきわけるようにして最前列へと出た。
最初に引き出されたのは、一番下の弟ベルナルドだ。
彼は馬車の中で、兄ジャーコモに加えられた拷問を終始見せつけられ呆けたようになっている。その蒼白となった頬には幾筋も涙のあとがこびりついていた。
トマスの後ろでささやき声が聞こえた。
「弟のほうは、まだ十八歳になったばかりだってさ」
「あの子も殺されちまうのかい」
「いや、奴隷船送りだって言うぜ」
そう言っている間にも、ベルナルドは、急設された処刑台の片隅へと誘われ、その場に座らされた。ここでベルナルドは、兄であるジャーコモや、姉ベアトリーチェ、それに継母であるルクレツィアの処刑の有り様をことごとく目にさせられることとなる。
ベルナルドに続いて、ルクレツィアが、告解司祭たちに支えられ引き出された。
(私はこんな恐ろしい目に遭うために、フランチェスコ・チェンチに嫁いできたのだろうか。自分が望んだ結婚ではなかった。たしかに、こちらも亭主に死に別れた身。最初は良い話だと思ったのだが……フランチェスコが異端の信奉者だったなんて。知っていれば嫁いではこなかっただろう。そうすれば、こんな亭主殺しの片棒を担いだなどという汚名を着せられたまま、殺されるようなことはなかったはずだ……)
ルクレツイアが、どんなに後悔しようと、すべてはあまりに遅すぎた。
なぜなら、彼女が処刑台への梯子を上り詰めたところには、その後悔や逡巡、いや彼女の人生そのものにピリオッドを打つべく、黒いマスクに顔を隠した死刑執行人が彼女を待ちかまえていたのだから……。執行人を見たとたん、ルクレツィアは、突然、足をすべらせ壇上から転げ落ちそうになった。付き添っていた告解司祭があわてて彼女を支え、抱きかかえるようにして細長い処刑台へと運んだ。
執行人の助手が、彼女の髪をつかんで頭をもたげさせた。
トマスの目には、彼女が気を失っているようにしか見えなかった。
その直後、警吏が手を挙げて処刑の合図をするのと同時に、死刑執行人の斧の一撃が彼女の首に振り下ろされた。そのときだ、気を失っていると思われた彼女の目が大きく見開かれた。彼女の首は、何か問いたげな、驚いたような表情のまま胴から切り離された。
広場に集まった群衆から、すさまじい不満の声がざわめきとなって広がった。
このざわめきは、次いでベアトリーチェが引き出されたことで一層の高まりを見せる。
「ベアトリーチェは無罪だ。彼女を殺させるな!」
鈴なりに家々の軒によじ登っている連中の一人から声が挙がった。
その声に触発され、役人たちを野次る声、ローマ教皇を非難する声が、あちらこちらから湧きあがる。
このざわめきの中、ベアトリーチェは、青ざめながらも、誇り高い美しさに輝き、毅然とした足取りで処刑台へと向かってくる。彼女は、台の下で一瞬立ち止まると、視線を空に泳がせた。やがて心を決めたかのように、処刑台へあがり、恐怖に目を見開いている弟ベルナルドに優しく微笑みかけるや、木製の刑具に首を差し出した。
ざわめきが途絶えた。
男たちも女たちも、そっと十字をきった。
静けさの中から、あちらこちらで啜り泣く声が広がり始める。
死刑執行人は、明らかに動転している。みんなの怒りや恨みが、自分に向いている。先ほどまでの野次より、今の沈黙が耐えられない。
トマスは、観念したように静かに目を閉じたベアトリーチェの青ざめた顔を見ていた。
美しいと思った。
そんなとき、見物の子供が急に火のついたように泣き始めた。
うろたえた警吏は、その声に驚き、うかつにも警吏の合図を待たずに斧を振り下ろしてしまった。そのとたん、群衆の叫びが再びどっと湧き起こり、またぞろ争乱が起こりそうな勢いとなった。
その勢いに警吏たちは浮き足立ち、大急ぎで、最後の犠牲者ジャーコモを処刑台へとかつぎ上げた。というのも、ジャーコモは、これまでに受けた拷問のため、体力も尽き果て、一人で立っていることも出来ない状態だったからだ。
処刑台に上げられたジャーコモは、そこで震えおののき、痙攣しているベルナルドを見た。
(かわいそうに、まだ幼いというのに……)
ジャーコモは、弟に何か言葉をかけようとするのだが、唇は腫れ上がり、舌は熱で喉に貼り付いたようで、ゼイゼイという音しか出てこない。
ジャーコモは弱々しく首を振ると、首切り台に頭をのせ、聴罪司祭に目で訴えかけた。
司祭が、何か言いたいことがあるのかと、ジャーコモの口元に耳を寄せた。
ジャーコモは、かすれるような声を絞り出した。
「オ・ト・ウ・ト・ヲ・遠ざけて……」
しかし、司祭にその権限はない。ただ空しく首を横に振るばかりだ。
ジャーコモは諦めたように目を閉じた。
やがて、ジャーコモの頭を叩きつぶすべく、執行人の大槌が振り下ろされた。
哀れにもチェンチ家の長男は、きれいなままの首を残すことさえ拒否されていた。しかも残された遺骸すら、執行人によって切り裂かれ、台から突き出た釘に肉片として吊るされることとなっていた。
この作業を見るにおよんで、ベルナルドは、ついに気を失ってしまった。
神父が哀れな遺骸に祝福を与え、哀れみの鐘は鳴りやんだ。警吏が処刑の終了を宣言するため、ラッパを吹き鳴らすよう命じる。
こうしておぞましい行事が終わった……。
連祷と懺悔詩篇の頌詩が再び唱えられはじめられるや、司法官、法廷関係者、信心会会員たちは、次々と広場をあとにし始める。
……ところが、群衆のほうは動こうとしない。処刑の残酷さに気をのまれ沈静化していた怒りが、再び、群衆の中から勢いを盛り返そうとしていた。
処刑場を去ろうとする役人や聖職者たちに、次々に罵声の声が浴びせられる。
敵意、非難、脅迫……日頃の不満までが、ベアトリーチェの処刑に凝縮され、爆発するきっかけを待っていた。
兵士や役人たちは怯え、道を通れるようにと、矛槍や火縄銃を構え群衆を威嚇しながら、綱を張ろうとする。
執政官の一人が、警備の責任者らしき憲兵にしがみつき
「もしこの連中が、こんなふうに猛り狂い迫ってきたら、チェンチ一族に起こった災難を、今度はこちらが被ることになるぞ……」
「心配めさるな。所詮、民衆は雑種の犬にすぎません。餌が食べられるかぎり、ただ吠えたてるだけで、噛みつくことはありません。」
しかし、この警備隊長の自信は次の瞬間に崩れ去った。
木の枝にのぼり、役人たちを野次っていた男が、その枝ごと役人達の上に落ちてきた。興奮して枝を揺すったため、枝が折れたのだろうが、浮き足だった兵士の一人が、思わず空に向かって発砲してしまったのだ。
この銃声が一瞬の沈黙をつくり出したが、騒ぎはそれで沈静化するどころか、かえって大混乱が始まった。石といわず、食器といわず、およそ投げられそうなモノはすべて役人や聖職者に向かって投げつけられはじめた。また折れた枝を振り回し役人達に向かっていく者がいる。その男を先頭にして、素手の男達が、罵声と肉体だけを武器に押し寄せる。
逃げようとする女や子供達が、怒り狂った群衆に押し倒され、踏みつぶされる。
処刑前の暴動鎮圧に駆けつけた部隊は、処刑場を遠巻きに取り囲んでいたが、この騒ぎにたちまち動き始めた。槍矛を構えながら、暴徒化した群衆を取り囲み、その輪をジワリジワリと縮めてくる。
騒ぎの中心となるサンタンジェロ橋では、混乱から逃れようとテヴェレ川に飛び込む者、興奮のあまり、自らの頭を橋にぶつけ続けるもの、兵士の剣を奪い暴れ回る者……
ある記録によれば
「多くの人が常軌を逸した。一例を挙げれば、修道女になる日も近いマッダレーナ・デリ・オノフリとかいう十八歳の娘の身に起こった悲劇的なケースは哀れをそそる。チェンチ母娘の首がはねられ、ジャーコモの脳味噌が飛び散るのを見るや、着ている服をびりびりに破き、体中を掻きむしって逃げ出した。やっと家に引きこもると、肉切り用の斧を右手に持ち、左手をばっさり切り落として、出血多量のために死んでいった。」
このように、この日、多くの人が狂気にとりつかれ、多くの悲劇が起こった。
暴動は、夕刻近くになってようやく沈静化の方向へと向かったが、この暴動で十三人の死者と、六百人を越える怪我人が出た。さらに百名を越える人間が拘束された。
そして、この逮捕者の中にトマスも含まれていたのだ。



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