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聾唖者トマス

1229年 パリ
トマスらがフィレンツェを訪れたのが一五九九年だから、一二二九年というと更に三七〇年も遡ることになる。その年の四月二日のこと、場所もパリのノートルダム寺院。といっても聖堂はまだ完成しておらず、竣工まではまだ六年を待たなければならず、ようよう全貌を現したその外壁も作業のための足場で覆われていた。
セーヌ川を見下ろすこの教会の正門前に、公開処刑のための木組みの舞台が組まれている。上には上半身を裸にされた男が、ローマから派遣された教皇特使の前に跪いている。
その裸の背中に鞭がうなった。痛みからというより、屈辱と怒りのため、男の顔が赤く染まった。教皇特使は、そんな男に、ローマ教皇への服従を誓わせる。その間も、鞭は手加減なく男の背中に振り下ろされ、特使は、まるで男の憎悪と屈辱感を味わうかのようにその顔をのぞき込んでいた。
男の名は、トゥールーズ伯レイモン七世。西はピレネー山脈の麓から東は地中海沿岸のコート・ダジュールに及ぶ南フランス一帯を支配下に治める大領主である。支配地域の広さもさることながら、この地は、地中海貿易の交易品を北欧につなぐ重要な位置を占めており、その経済的な繁栄が、トゥールーズ伯に、フランス国王に対抗させるだけの力を持たせていたと言えよう。
つまりは、北フランスにあるフランス国王にとって、この地域を制圧しないかぎり、フランスの統一はあり得ないと言うことだ。しかも、「北」と「南」では文化もまるで違い、とても一つの国という感じはない。たとえば言葉の問題一つとっても、フランス語で「諾」にあたる言葉は「ウイ」であるが、南フランスでは「オック」となる。このため、南フランス一帯は「オック語を話す地域」の意味でラングドック(ラング・ド・オック)と古くから呼ばれ、北フランスとは一線を画していた。
それはさておき、ではなぜ、南フランス一帯を支配下に治めるレイモン伯が、屈辱的な鞭打ちのもと、ローマ教皇への服従を宣誓させられていたのだろうか。
この地域は古くからカタリ派キリスト教徒の活動の拠点であった。というのも、この地が地中海交易の物産を北欧へつなぐ中継地点だったため、回教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒などが行き来し、あるいは定住し、宗教的に寛容な地盤が形成されていた。しかも、カトリックの堕落した僧侶を見慣れている目には、カタリ派の人たちの清貧に徹した生活ぶりは新鮮であった。他に対してその教えを強要することは絶対になく、気づいた者だけが行えばよいのであって、気づかない者は、まだその時期が来ていないと考える。
だから、カトリックのように「金を稼いではいけない」「金を稼ぐことは罪だ」などとは言わない。この態度に、商業を基盤とするこの地の多くの貴族や商人が心を開き急速にカタリ派の教えは広まっていった。
この頃のヨーロッパは、異端運動(ヴァチカンから見ての話だ)が全盛となった時期である。各地に相次いで出現した異端運動のなかでも、カタリ派は組織立った、息の長い活動によって群を抜いている。独自の司教、典礼、教義をそなえてカトリック教会の攻撃と迫害に耐え、一二世紀の後半までに、ヴァチカンからみて「もっとも邪悪で、もっとも強力、もっとも危険な」異端といわれるほどの成長をとげていた。
このため、ヴァチカンはカタリ派を目の敵にした。これを許せば、ヴァチカンによる支配体制が根本から崩れてしまう。そして、その最大の拠点とされ、その排除が最も困難とされた地域が、この南フランス一帯なのだ。カタリ派を支持する領主たちは、ヴァチカンの要請であろうと、これをむやみに迫害する愚を犯さず、むしろ正統と異端とのあいだで、討論集会のような催しをしばしば開催した。領主の主催によるこの種の集まりは、数人の審判者を立てて公開で実施され、たいての場合は妨害もなく整然と進行したという。
つまりは、領主たちは、どちらか一方に荷担するのでなく、討論によって何が真実かを導き出そうとしたのだ。そして多くの場合、カタリ派が優勢となった。しかも、着飾ったカトリックの僧侶が、質素な衣を身にまとう女性の完徳者に歯が立たないというケースが頻出し、民衆はますますカトリックから心を離していくことになる。
そんな領主の中で、最も大きな力を持っていたのが、トゥールーズ伯レイモン六世、つまり、今、ノートルダム寺院前で鞭打ち刑を受けるレイモン七世の父親であった。
一二〇八年一月、ヴァチカンはレイモン伯を糾弾すべく教皇特使ピエール・ド・カステルノーを彼のもとに派遣した。それがあろうことか、ローヌ河畔のサン・ジルで暗殺されてしまった。確たる証拠があったわけではないが、犯人はレイモン伯の家臣とされた。これ以前、ランスの公会議で、異端は「大逆罪」であり、「異端の幇助者はその領地を没収されるべき」ことが決められていた。
ローマ教皇は、フランス国王に対し、ラングドックへ十字軍の派遣を要請した。フランス国王にとっても、これを機に南フランスを制圧することができる。ヴァチカンはヴァチカンで、カトリックに対する最大の驚異を取り除くことができる。こうして両者の利害が一致し、一二〇九年七月、イスラム教徒に対してでなく同じキリスト教徒に対する初めての十字軍が、リヨンからトゥールズを目指し南下を開始したのだ。
所謂、第一次アルビジョア十字軍と呼ばれるものだが、戦いは二十年におよび、国土は疲弊し、民衆の困窮も限度となった。戦いの当事者も、レイモン六世からレイモン七世へと移り、フランス国王もフィリップ・オーギュストが死亡し、幼いルイ九世がこれに代わった。ことここに至り、遂にルイ九世の母ブランシュ・ド・カスティーユと教会側の提案を受けて、レイモン七世が和平交渉に踏み切った。国土が荒らされたとはいえ、南部は勝利しないまでも全面的に敗北したわけではない。北部の方でも、南部の武力制圧には多大の犠牲が必要なことを思い知らされたのである。
にもかかわらず、和平交渉のためモーへ赴いたレイモン七世を、フランス側は監禁し、随行者を人質とした上で、「モーの協約」を押し付け署名させてしまった。本文はレイモン伯の誓約として一人称で書かれ、伯だけが署名する形であったという。
この協約によって、レイモン伯の領土は半分以下に減らされ、さまざまの名目で莫大な賠償金も支払わねばならず、三一箇所の城あるいは城砦都市が解体され、それ以外の九箇所には十年間、フランス国王の部隊が駐屯することになった。異端の撲滅がきびしく命じられたのはもちろんとして、レイモン伯の負担のもと、カトリックの教育のためトゥールーズ大学の設置が定められた。
しかし、協約の眼目は、当時どちらも九歳であったレイモン七世の娘ジャンヌと、王ルイ九世の弟アルフォンス・ド・ポワティエとをめあわせ、ジャンヌを伯の唯一の相続人とすることであった。伯領はいわば嫁資として王家に差し出されたのであって、言い換えれば、事実上フランス領に併合されたということであった。この屈辱的な協約に署名し、王と教会に死にいたるまで忠実であることを誓わせられたあと、レイモン七世はパリ、ノートルダム寺院前庭での鞭打ちの儀式に引き出されたのである。
「あれだけの人間たちと、あれだけの国々を相手に、こんなにも長期間抵抗してきた男が、シャツと股引のまま、足もあらわに祭壇に引き出されるのは、見るも哀れであった」と、年代記は語っている。

同じ頃、パリの修道院にトマスという名の少年が預けられた。
トマスは、レイモンの長男である。ジャンヌの二卵性の双子の弟として生まれた。生まれついての聾唖であったため、彼が三歳になったとき、乳母の実家に預け育てさせることにした。「農家の子として幸せに人生を全うしてくれれば」とのせめてもの親心であったが、フランス側は、わずかでも伯領を継承する可能性のあるトマスを、パリのシトー派修道院に預けさせることをも要求してきたのだ。
レイモンはこの屈辱を忘れなかった。
そして、カトリック側も過酷な迫害と、陰険な密告制度を導入したにも関わらず、南フランスからカタリ派を払拭することはできなかった。やがて、第一次アルビジョア十字軍の終結から十四年後、モンセギュールに籠城したカタリ派と第二次アルビジョア十字軍との間に、凄絶な死闘が再開されることになる。

レイモン七世の不遇の息子トマスは、十六歳になるまで、パリの北方に位置するシャーリ修道院に預けられた。このシャーリ修道院は、一一三六年にルイ六世肥満王が創建したシトー派修道院で、後に聖王とあだ名されるルイ九世も頻繁に訪れたという。
というのも、第一次アルビジョア十字軍に勝利したものの、フランス南部は、密告制度と異端審問所の厳しい摘発にも関わらず、依然、カタリ派の勢力を払拭することができない。また、そのカタリ派の脅威を背景に、モーの協約を不当とするレイモン七世が再び大規模な反乱を起こし、この反乱をイギリスが後押しするという始末。今回は何とか鎮圧できたものの、フランス南部という火種を抱えているかぎり、フランスを虎視眈々と窺っているイギリスや、アンチクリストの異名を持つ神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世が、いつ牙をむいてくるとも限らない。
何としてもフランス南部を制圧しなければ、そして、そのためにはカタリ派を一掃しなければならなかった。カタリ派の一掃は、目的でもあり、フランス南部を制圧するための大義名分でもあった。このため、ルイはカタリ派に対抗させるため、ヴァチカンと一緒になってシトー派に肩入れするようになったのである。
しかし、ヴァチカンがカタリ派に対抗させたシトー派やフランシスコ会、それにドミニコ会にしたところで、最初からヴァチカンの尖兵だったのではない。最初は、カトリックの僧侶や教会の堕落を攻撃することを看板に掲げ歴史の舞台に登場してきたのだ。
たとえばシトー派は、奢侈に流れた既存の修道院に反発して、一一世紀初頭にブルグンドのシトー(ブルゴーニュ地方)に設立されたのが始まりだという。その後シトー派は、やはり僧侶の堕落に嫌気のさしていた北ヨーロッパの人たちの支持を得、大きな政治力を発揮するまでに成長していった。同じ頃、やはり僧侶や教会の奢侈に反対し、フランシスコ会やドミニコ会が誕生した。教会の華美・荘厳を批判し、豪華な衣に身を包み、美食におぼれるカトリック僧侶に非難の声をあげる修道会は、ややもすればカタリ派と同じ異端視されてもおかしくはない。が、ヴァチカンはこれらの修道会を弾圧するのでなく、かえってカトリックの正式な認可修道会に指定し、その修道会士を異端審問官として使うことで、ヨーロッパ南部を覆った異端カタリ派に対抗する勢力として利用しようとした。既存のカトリック修道会には、カタリ派に対抗できるだけの力も、人気もなかったのである。
「毒は、毒をもって制す」ということだろうか。
この策は功を奏し、これら修道院では、異端とは何か、正統とは何か、異端を見極めるにはどうすればよいのか、異端者を改宗させるにはどうすればよいのか……それらの学問や研究が盛んとなり、やがてこれら修道会は理論武装した、カトリックの尖兵となってカタリ派をはじめとする異端の撲滅と摘発に大活躍することとなる。
そんなシトー派修道院、それもルイ九世の庇護するシャーリ修道院で、トマスは一番多感な時期を過ごした。トマスにとって幸いしたのは、修道院院長の存在だった。
院長は宗教家というよりも、どちらかというと学者肌の人間だった。トマスの肉体的ハンディに対しても冷淡ではなく、むしろ同情的であった。トマスの「聞こえない」「しゃべれない」というハンディを、口の形を覚えさせることで、ともかくもしゃべれるようにした。
ただ、アクセントを無視し大声でしゃべる様子は、何か異様に不自然であり、時に痴呆のようにさえ見られた。しかし、そんな外面に反比例して、トマスの頭の中は、「神学」「哲学」「歴史学」「修辞学」等々、ありとあらゆる知識の宝庫となっていた。
院長は、聞こえないというトマスのハンディを「読む」ということ、「書く」ということで補わせようとした。トマスは口の形からしゃべることを覚えさせられると、写字生としての教育を院長直々に受けることになった。院長は、字の形を音にしてしゃべるよう、トマスに教えた。文字を見て、次に院長の口の形を見て、その音を真似る。それが出来ると文字を書き写した。その繰り返しが毎日続けられ、こうしてトマスはいつしか写字生となった。最初の頃、図書室からはトマスの異様な言葉が流れ続けた。仲間の修道僧たちは辛抱強く耐え、やがてトマスも文字を口にすることなく写せるようになった。
そんなトマスの平和が崩れるときが来た。
トマスが十六歳になったとき、院長が亡くなった。
新しく来た院長は、トマスのすることなすこと、そのことごとくを嫌った。新院長は美しいものを好んだ。神は、自分の姿に似せて人間をつくった。だから美しい人間は、神に最も近いという理屈だ。醜い者や五体が不満足な者は、それだけで神から呪われた存在である。いつも人の口元を覗き込むようにしているトマスの所作は美しくない。見苦しくさえあった。その話し方は美しいどころか、聞き苦しく、新院長には、それはサタンに心を奪われた者の所作としか捉えることが出来なかった。
院長は、トマスのことを
「自分の中からサタンを追い出せば、聾唖は自然と癒されるはずだ。いつまでもそのままである者は、自分がサタンを引き寄せている、いや、サタンを離そうとしない罪深い人間である。おまえの父親が、教会に対し、ルイ国王陛下に何をしているか。まさにサタンの所行ではないか。その償いをおまえが果たすのだ。」
院長は、そう言ってことあるごとにトマスを鞭打った。またトマス自らにも、朝夕に鞭打ちの苦行を課した。
「自らを鞭打ちながら、神に許しを乞え。おまえとおまえの父親のしていることを神に懺悔するのだ。痛みと血が、いつかその罪を浄化してくれるであろう。」

トマスは、修道院からの脱走を決意した。城でも、牢獄でもないのだから、別に難しいことではない。晩課が終わり、みんなが寝静まるのを待って抜け出せばよいことだ。
物乞いしながらでも南を目指せばよい。父のもとへ帰れば迷惑になるだろうか。父のレイモンは、モーの協約を不満として反乱を起こしたが、結果は惨敗だった。加勢したイギリス国王ヘンリー三世はボルドーに逃げ、父レイモンはモーの協約を忠実に実行することをあらためて誓約させられ、一命をとりとめた。一二四二年十月、いわゆるロリスの和平といわれているものだ。そこへ人質となっている息子が逃げ込んだとなれば……
父のもとへは帰れない。かといって、このまま我慢することも出来ない。もうここに居るのはいやだ。もう、一日でも居たくなかった。父には悪いと思いながら、食堂で盗んだわずかの残り物を頬張りながら、トマスは修道院を抜け出した。
しかし抜け出した途端、騎馬の一団に遭遇し、あっという間に捕らえられた。
「修道士がこの夜更けに、村へ女でも漁りにいく魂胆か!」
「あ・や・し・い・も・の・で・は……」
「なんだ、その話し方は? 怪しくないわけがなかろう。……殿、いかがいたしましょう。いっそ殺してしまいましょうか。」
「坊主の首を刎ねても自慢にはなるまい。それに俺たちがここへ来た目的は、まさにこの男に会うためだ。この男、レイモンの息子トマスに違いない。坊主殿、いかがでござるかな……?」
トマスは、闇の中で、必死に騎士たちの口元に目を凝らした。
確か「トマス」と言ったようだ。俺の名前を知っているのだろうか。
「ト・マ・ス、トマスです!」
「大声を出すな、みんな起きてしまうぞ。せっかく忍んで来たというに。」
男の名はルイ九世、新院長となってからは初めての訪問だったが、それにしても修道士たちが寝静まった頃を見計らって、わずかの供回りだけを引き連れての来駕とあっては、参詣というわけでもなさそうだ。
「殺してはならん。この男には、これから働いてもらわねばならん。今宵、この修道院を訪ねたのも、この男が目当て。それがいきなりの出会いとは……」

ルイは、トマスをモンセギュールへ送り込むことを考えていた。
モンセギュールは、カタリ派の人々にとって信仰生活の中心である。
モーの協約以後、密告制度が導入され、異端の罪は家族にまで及び、たとえ死後であっても異端者とわかると墓が暴かれ、死体は見せしめのため町を引き回され焼き捨てられた。このようにカタリ派への弾圧は熾烈を極めたが、にもかかわらず、ヴァチカンもフランスも、カタリ派をラングドックから一掃することができなかった。
それは領主であるレイモン七世がカタリ派の弾圧に力を入れなかったこと、また外部から来た異端審問官たちの峻厳さが、かえって人々の愛郷心と自専心を煽り立て、その結果、現地のカトリック修道会さえ「異端撲滅」というスローガンにそっぽを向いてしまったことがあげられる。ヴァチカンは、現地の修道会の頭越しに、主にドミニコ会士を異端審問官としてラングドッグへと派遣したのだ。
これに反しカタリ派の結束は堅く、人々は、助け合い、かばい合いながら迫害の嵐をやり過ごそうとしたのだが、日々に激しさを加える異端審問の前に、モンセギュールを信仰の最後の砦として集結するに至った。
モンセギュールは、もとは、フォワ伯の封臣レイモン・ド・ベレイユの所領であった。
それが今から三十年ばかり前、カタリ派側の申し入れによって、それまで廃墟に近かったこの城が信者の利用に供されるようになった。城の改築はカタリ派の経費負担で進み、その設計には彼らの考えが織りこまれたといわれる。
高くそびえ立つ断崖に四方を囲まれた天然の要害ともいうべき地理的条件が幸いして、第一次アルビジョア十字軍の間でさえ、モンセギュールは安全な信仰の場所であり続けることができた。
カタリ派信者たちは、苛烈な異端審問体制のもと信仰の火を絶やさずにいるため、このモンセギュールを、信者の力が集中する最後の砦として設定したのである。
一二三二年のある日、カタリ派の主だったメンバーが、領主のもとを訪ねた。モンセギュールを決定的にカタリ派の本拠地とすべく、ひたすら懇願を重ねるためであった。
承諾することは、フランス国王に対する反逆と見なされても仕方がない。領主は長くためらった末、ようやく承諾の回答を与えたという。
これ以降、異端審問から逃れた人々や騎士たち、それにカタリ派聖職者たちのモンセギュール定住が開始され、城の改築に加え、人事・組織においてもカタリ派運動の再整備が進められ、モンセギュールは、カタリ派の教えが厳密に保持される場所として、また最後の砦として名実ともに信仰の中枢となっていった。
ラングドック各地から危険を冒してここを訪れた信者の数は、この時期総計千人を超えたといわれ、死に瀕した身体ではるばる運び込まれて来た人も少なくない。ここで高名な完督者の手でしかるべき臨終の救慰礼にあずかること、すなわち「モンセギュールで死ぬ」ことが、帰依者にとって最高の喜びとなっており、切り立った岩の上にそびえるモンセギュールの城砦はそのまま、荒波のなかでの「箱舟」、南部の人々のまなざしが吸い寄せられる霊的中心となっていたのである。

ルイは、このモンセギュールへトマスを送り込もうというのである。
トマスが、レイモン伯の隠された子供であるということが、この計画を容易いものにするであろう。何もトマスをスパイに仕立てようと言うのではない。ルイがトマスに望むことはただ一つ、生きて帰ってくること、それだけである。
ルイは、ローマとも協議の上、既に第二次アルビジョア十字軍の派遣を決定している。
この戦いに負けるつもりはない。時間はかかるだろうが、決して負けることはないだろう。ルイの懸念するのは、むしろ戦いの後のことだ。何としてもフランス南部を支配体制に組み込まなければならない。それなくしてフランスの統一はない。
そのためにはカタリ派を知らなければならない。フランス南部の人間が、フランス南部の領主が、騎士が、何に心を動かされたのかを知る必要があった。
聾唖ゆえにレイモン伯の本当の息子と認められなかった男が、パリのシャーリ修道院に預けられている。ルイが、このことを知ったとき、彼はこの計画を思いついた。
ルイは、トマスに向かって言った。
「汝は、この修道院から逃げたいのか?」
トマスは黙って頷いた。
「どこへ逃れる気か?」
「…………」
「どこへ逃げるかも考えておらぬのか。では汝に命ずる。モンセギュールへ逃げよ。そこでカタリ派の者と暮らせ。そして、しっかりと学んでこい。ただし死ぬことは禁ずる。間もなく我々はモンセギュールを攻める。激しい戦いとなるだろうが、おまえは、何がなんでも死んではならぬ。生きて私の前に戻ってくるのだ。
……そう言えば、たしか私の弟に嫁いでいるジャンヌは、おまえの双子の姉ではなかったのかな。もしおまえが死ねば、姉のジャンヌもどうなるか分からぬぞ。よく言うではないか。双子は一心同体だと……」
トマスの顔に、一瞬、小さな憎悪の影が走った。力のある者の前で、憎しみや怒りを現すのは利口なことではない。トマスはあわてて自分の心を押し隠した。
ルイは、そんなトマスの前に小袋を投げ出した。
「当座の費用だ。トマス! 私の言うこと、分かったのだな。何をせずともよい、ただモンセギュールへ逃げ、カタリ派の者たちと共に暮らし、話を聞き、感じ、生きて私の下へ帰ってくること、それが、これからのおまえの役割と心得よ!」
トマスは恐る恐る頭を下げ、小袋を拾うと、しばらく後ずさりしたあと、逃げるようにその場から走り去っていった。
「殿、あの者、本当にあれで分かっているのでしょうか?」
「ヤツは、おまえの思っているようなバカではない。
……ところで、トマスと会ってしまえば、もう修道院に用とてないわけだが、せっかくここまで来たのだ。一休みしてまいろう。そろそろ朝課の時刻、トマスのおらぬことに気づいて騒がれるのも厄介だ。気づかれる前に院長には話しておかねばなるまい。」
「あの男では、むしろ厄介払いができたと喜ばれるでしょうな。」


オノフリオ修道院

1599年4月 フィレンツェ
フィレンツェ市街はアルノ川によって大きく南北に分けられる。その主要部は北側、つまりアルノ川の右岸に開けた区域であって、この区域にフィレンツェの象徴とも言える巨大なドゥオーモや政治の中枢となるヴェッキオ宮、その他サン・マルコ修道院やサンタ・マリア教会など著名な建造物が集中しているが、トマス等一行がフィレンツェで活動の拠点とするメディチ家のサン・ロレンティアーナ図書館も、またこの区域にあった。
ヴァチカンのクレメンテ八世宛に、フィレンツェ大公フェルディナンド一世から親書が届いたのは、トマスらがサンタンジェロ城塞に忍んだときから一ヶ月以上が過ぎ、ローマにも春の兆しが訪れてきた頃であった。
親書には、フランスのアンリ四世と王妃マルグリットが離婚訴訟を起こすだろうことがほのめかされ、その節は「よろしくお取りはからい願いたい」との旨が書かれてある。そして最後に、日本からの留学生たちに、ぜひにでもロレンティアナ図書館を見学させたく、出来るだけ早い機会にフィレンツェへ寄越してほしいと結んであった。
日本人留学生をフィレンツェに呼び寄せ、メディチ家の蔵書をぜひ見せたいというフェルディナンド大公の背後に、アレッサンドロ枢機卿の動きがあったことは間違いないが、また、フェルディナンド自身、ライバルとも言える兄フランチェスコ一世が、日本からの天正遣欧使節を迎えたことへの対抗心がなかったとは言えない。
(フランチェスコ大公は、天正遣欧使節の少年たちを迎えて数ヶ月後、妻ビアンカと共に急死している。死因は、食中毒ともマラリアとも言われているが、弟であるフェルディナンドに毒殺されたという説が真実に近いと言えよう。)
ところで書簡にあるマルグリット王妃だが、彼女はメディチ家からフランス王家へ嫁いだカトリーヌ・ド・メディチの娘であり、そもそもアンリ四世との婚姻はフランスにおけるユグノー派プロテスタントとカトリックとの争いを収拾させるための政略結婚であった。ところが聖バルテルミーの虐殺をはじめとして数々の争乱の果てに、ユグノーからカトリックに改宗することでやっと王位に就いたアンリにしてみれば、今や政略としてのマルグリットの価値は薄れ、却って石女として世継ぎのつくれない王妃が疎ましくなってもきていた。フランスではたとえ寵姫に何人子供がいようと、サリカ法によって正式な王妃の子供たち以外に王位継承権は認められていない。このため、アンリとしては早々にマルグリットを離婚し、世継ぎをもうけることの出来る女性を王妃に据えることが何よりの課題となってくる。
その際、メディチ家がどう動くか……離婚が成立するなら、メディチ家としては、新しいフランス王妃をもメディチ家から送り込まなければならない。その条件が満たされなければ、この離婚訴訟は認められるべきではない。カトリーヌ・ド・メディチ亡き今、その娘マルグリットさえもがフランス王妃の座を降りるとなれば、メディチ家は、せっかく築いたフランスへの足がかりをすべて失うこととなる。
ローマ教皇クレメンテ八世にしたところで、アンリがカトリックへ改宗し、ホッとしたのも束の間、そのアンリが、ユグノーの信教の自由とその公民権を保証するべくナントの勅令を発したのだから、「奴の改宗は見せかけだったのか」と危機感を膨らませ、このうえはメディチと連携して、しっかりとフランスを押さえにかからねば……と思ったのも無理からぬことではあろう。
今のメディチ家にその力があるかどうかは別として、メディチ家当主フランチェスコとしては、法王がフランスに抱く不信感を大いに利用するべきだと考えた。この離婚が有効か無効か、決められるのはローマ教皇以外にはない。早い話がアンリがメディチ家以外からフランス王妃を迎える気なら、マルグリットとの離婚は認められるべきではない。
フランチェスコがクレメンテ八世に当てた書簡には、そんな事情と思惑が隠されていた。
クレメンテ八世のメディチ家に寄せる期待が影響したのだろうか、トマスとミゲルのフィレンツェ行きはすぐに許可された。おまけにメディチ家出身のバルトロメオが、二人の案内役として同行することとなった。



「オルトラルノって、どんな意味なんだい?」
ミゲルの問いかけにもバルトロメオは口を閉ざしたまま。先を歩くアルメーニ――彼はアレッサンドロ枢機卿が用心棒を兼ねてローマから付けてくれた従者だが、普段は陽気というか暢気というか、人の心に気を配ることなど考えていないという男なのだが、それが珍しくバルトロメオの顔色に気を遣い、この時もまるで彼の代わりとでも言いたげに答えた。
「フィレンツェの南側は、オルトラルノ、つまりアルノ川を越えた場所(オルトレ=越える+アルノ)という意味の名前が付けられております。昔はアルノ川南岸に住むことはレベルの低いこととされておりました。それがコジモ一世の奥方が結核を患い、このアルノ川南岸が気候が穏やかで身体に良く、ここで暮らせば回復にもつながるだろうと、ピッチ宮を買い取り、居を移されることとなったのです。今から五十年前のことですが、それからこの地区は急速に発展を遂げたと言われております。」
トマスとミゲルは、そんなアルメーニの説明を聞きながら、モンテ・ベッキオ橋を南に渡り、アルノ川に沿って西へ西へと歩を進めていた。目指すオノフリオ修道院は、このオルトラルノ地区の西のはずれにあるはずだ。フランチェスコ大公には行く先は告げていない。「オノフリオ修道院に行くときは、フランチェスコ大公にはくれぐれも内緒にしておくように」と、アレッサンドロ枢機卿から固く注意されていた。
今朝も、「フィレンツェの街を歩いてみたい」という四人に、宿泊先のロレンツォ修道院の院長は、「フランチェスコ様から言われております。ぜひ馬車で行くように」と勧められたのだが、連日の歓迎と見学にうんざりしていた四人は、フィレンツェを自分の足で歩いてみたいと丁寧に断り逃げるようにして出てきた。
しかし、目的地が近づくにつれ、バルトロメオの顔が次第に険しくなってくる。
「バルトロメオは母親に会うのがうれしくないのだろうか。」
フィレンツェに来てからというもの彼の様子が変だ。今日も出発する直前になって「自分は行けない、三人で行ってくれ」と言い出す始末。それを三人してなだめるようにして引っ張り出してきた。
気付けば、バルトロメオはまたも皆からずっと遅れて随いてきていた。


エレオノーラの秘密

オノフリオ修道院の一日は午前一時四十五分の起床に始まる。
その後、朝八時のミサに至るまで手仕事や一時課・三時課の聖務日課を果たし、読書や六時課を経て十一時の昼食となる。昼食の後に約二時間の午睡の時間となるが、前もってエレオノーラへの面会を打診されていた院長は、この午睡の時間をトマスやバルトロメオ等との面会の時間に当てた。
面会の場所は、修道院の居間とも言える回廊が当てられる。回廊を意味する「クラウストルム」という言葉自体、しばしば修道院を表す言葉として用いられるほど、回廊は修道院と切り離して考えることができない。回廊は中庭に面して開かれており、ここから射し込む光の陰影が、一種独特の雰囲気を醸し出していた。
この回廊は、ときに読書の場となり、ときに聖歌の練習場となり、黙想の場となり、場合によっては談話室ともなる。
トマス等は、この回廊の隅にある洗足用の長椅子で待つように指示された。
面会は、女子修道院ということもあり――特にオノフリオ修道院は、表面にこそ出ていないが、姦通の罪を犯した女たちが入れられる修道院ということもあって――面会は、エレオノーラの息子であるバルトロメオと、日本から来たという特別の理由でトマスとミゲルの三人のみが許され、従者であるアルメーニは、外で待つこととなった。
トマスとミゲルは長椅子に腰を落ち着けると、中庭の緑にホッと一息ついた。フィレンツェの町は、道も、壁も、広場も、どこもかしこも石で覆われている。日本人である二人にとって、土をその足裏に感じることもなく、緑を目にすることもない城壁に囲われた市街地の風景は、何か息苦しく妙に落ち着かないものであった。それだけに、この修道院の中庭につくられた庭園の土の匂いと緑のまぶしさがありがたかった。
そんな二人の前を、バルトロメオはイライラと行ったり来たりを繰り返している。
やがて院長に付き従うようにして、バルトロメオの母、エレオノーラが姿を現した。
三十歳で、夫カルロにこの修道院に入れられ、すでに二十一年が経っている。かつてコジモ一世に見そめられ、その子ピエロにまで思いを寄せられたその美貌は、すでに翳りを見せているものの、二十年にわたる内省がもたらしたものだろうか、彼女からは、何か包み込むような優しさがあふれているように思われた。
「一時間経ったら迎えにまいります。集会室が空いていますから、そちらを使った方がよいかも知れませんね。」
院長は、キビキビした中にも思いやりをにじませ、そう言うと静かに去っていった。
残されたトマスもミゲルも、何をどう切り出していいものか分からず、長椅子から立ち上がったままボーッとしていた。
頼みのバルトロメオはと言えば、ふてくされたように背中を向けている。
父カルロが、未払い給料を催促した使用人に暴力を振るい投獄されたとき、父は、獄中から、それが唯一できる復讐であるかのように、妻エレオノーラを、姦通を犯した女性を収容することで知られているこのオノフリオ修道院に入れるよう手配した。
そのとき、母は、父が下女に産ませた二人の幼い女児だけを修道院に引き取り育てることにしたが、まだ二歳のバルトロメオは兄たちとともに育児院に預けられることになった。
バルトロメオは、ものごころが付くようになると「自分がもし女だったら……」と、よく考える。そうすれば、母は、自分も修道院に引き取り一緒に育ててくれただろうに。
そうは思うのだが、どうしても「自分は捨てられた」という思いが拭いきれない。
「仕方がなかった、仕方のないことだったんだ」
何度、自分にそう言い聞かせてきたか知れない。

そんなバルトロメオの後ろ姿を愛しそうに見つめていたエレオノーラだが、やがて、トマス等の方を振り向くと、
「どう致しましょうね。集会室でお話しいたしますか?」
「イ、イエ、できれば庭園を見ていたいのですが……」
なんとか言葉を切りだしたトマスに、エレオノーラは優しく微笑むと、
「では少し回廊を歩きながらお話ししましょう。」



エレオノーラは、日本の青年が、我が子バルトロメオと一緒に訪ねてくると知らされたとき、何か運命的なものを感じた。彼女が日本人というモものをはじめて知ったのは、今から十五年前、このオノフリオ修道院に入れられてから七年が過ぎた頃であった。
彼女の運命に同情を寄せるビアンカ大公女は、日本の少年使節をピサに迎えるという歓迎レセプションに、「ピサ滞在中、少年たちの面倒を見る修道女が必要です。男性神父だけでは細かいところに気が付きませんから」と、無理矢理理屈を付け、彼女を出席させるよう教会側に圧力をかけた。
修道院に幽閉状態の七年間、はじめての外出だった。それもピサへの馬車旅行。そこで知り合った日本の少年たち、そしてローマ教皇の特使として派遣されていたアレッサンドロ枢機卿やビアンカ大公女との深いつながりもこのときから生まれた。

今、別の日本人青年が訪ねてくるという。しかもシクストゥス聖書のことで。
エレオノーラは、すべてを話したいと思った。それは聖書のことばかりでなく、自分の身に起こってきた様々な運命、それを自分がどんなに恨み呪ったか、何もかも話したいと思った。息子のバルトロメオにとって、それを知ることは残酷なことなのかも知れない。
また神父を目指す日本人キリスト教徒にとっても、それは躓きにこそなれ、決して励ましになどなる代物でないことは間違いがないだろう。
でも、なぜか話さなければならないと思った。そう決心すると、何ともさわやかな気持ちになった。今までどんなに懺悔しようと、どんなに神に祈りを捧げようと味わうことのなかった感覚。自分が今までの呪縛から解き放たれていくような……



「私は、フィレンツェの貴族ルイジ・メッセル・デッリ・アルビッツィを父に、ナニーナを母として、一五四八年にフィレンツェに生まれました。名付け親は、コジモ大公の奥さまであるエレオノーラ大公女。でも、エレオノーラ様は、私の名付け親になられてすぐにお亡くなりになりました。エレオノーラ様にとって、それは幸せなことだったのかも知れません。なぜなら、まさか自分の名前を与えた女児が、将来、夫の愛人になるなどとは想像もしなかったでしょうから。」
「コジモ様というのは、メディチ家を興し、フィレンツェを今のような芸術の都にした、いわばフィレンツェの恩人のような方だと聞いています。……でも、百年以上も前の方ではないのですか。」
自分の生い立ちを話し始めたエレオノーラに、ミゲルが素朴な疑問をぶつけた。



メディチ家の起こりは何も分かっていない。フィレンツェ近郊のムジェッロから起こり、 十三世紀に入るや、フィレンツェ社会の中で急速に頭角をあらわしてくる。 しかし、それ以前のこととなるとまるで分からず、一説にはムジェッロで炭焼きをしていたとも言われているが、それがなぜフィレンツェ社会でどのようにして身を起こしたのか、まるで中世の霧の中から忽然と現れてきたとしか言いようがない。
同じようにメディチ家の家紋である、金地に数個の赤い球(パッ レ)を配した紋章の由来についても、謎だ。メディチの名が示すように、祖先の中に医師ないし薬種商がおり、赤い球は丸薬を表すのだという説と、メディチ家を大富豪とした当の銀行業にちなみ、赤い球は、貨幣ないし両替商の秤の分銅を表しているという説があるが、これにも確たる証拠があるわけではない。
分かっているのは、メディチ一族はフィレンツェにおいて高利貸しとして財をなし、それを土地や不動産に投資して経済力を伸ばしていったということ。やがて一族は銀行業に、政治に、貿易にと、分散して活動していき、それぞれのグループが衰退を繰り返しながら、メ ディチ一族のジョヴァンニ・デ・ピッチによって、十五世紀に至り、その繁栄の礎が築かれたということである。
「ジョバンニ様には二人のご子息がおられました。そのお兄様のほうが、あなたがフィレンツェの恩人として聞かれているコジモ様のことです。そして、その弟御がロレンツォ様。これよりメディチ家はお兄様の流れと、弟様の流れに分かれることになります。
コジモ様はメディチ家だけの繁栄でなく、フィレンツェの繁栄を願われました。それは フィレンツェ共和国の経済活動を活性化させるばかりか、数々の教会を建て、数々の芸術家を育て、百花咲き乱れる芸術の都を、この暗い世の中に現出させたのです。
このフィレンツェを、経済・絵画・彫刻・建築・音楽・学問……人の才能が活かせる街にしよう、人の才能こそが神の世界を表し、この宇宙の秘密を解き明かすことができる、フィレンツェをそんな街に育てたい……コジモ様の夢は、ご子息のピエロ様に、またその子のロレンツォ様に受け継がれていきました。」
「コジモ様の弟様もロレンツォ様ですよね。」
「そう、叔父上であるロレンツォ様の名を頂いたのだと聞いております。このロレンツォ様と弟のジュリアーノ様は、衰退に向かうフィレンツェ共和国の最後の輝きでした。ジュリアーノ様が、パッツィ家の陰謀により暗殺されてからというもの、フィレンツェは、あの輝くような明るさを失い、暗い陰がいつも漂っているような街になってい きました。そんな流れを必死にくい止めようとしたロレンツォ様も、やがてお亡くなりになり、フィレンツェは、いえイタリアそのものが、フランスやスペイン・オーストリアなど大国の覇権争いの舞台となっていったのです。フィレンツェの自由と独立も、ロレンツォ様の死とともに失われていきました。」
豪華王と言われたロレンツォは、一四九二年、四十三歳でこの世を去った。マキャヴェッリは、その著「フィレンツェ史」の幕をロレンツォの死をもって閉じたが、それは同時に、フィレンツェにおける メディチ体制の崩壊を意味していた。
ロレンツォの跡を継いだピエロは、 美丈夫ではあるが凡庸で、乱世の器ではなかった。
シャルル八世のイタリア侵攻に伴い、その独断的場当たり政策が仇をなし、フィレンツェ政庁は、メディチ家の永久追放を布告するに至った。
「日本から来たあなた方には複雑で退屈な話ばかりね。」
「イエ、日本でも同じようなことがありますから、よく分かります。」
「そうねえ、どこも同じよね。男は政治だ、戦争だと走り回り、挙げ句の果てに女性を食い物にする。……いけない、どこまでお話ししたでしょうね。」
「メディチ家がフィレンツェから追放されたところまでです。」
「そうそう、でもメディチ家は、外国の力を借りたり、教皇庁の力を借りたりして、このフィレンツェへ戻ってくるの。今から七十年ばかり前、皇帝・教皇軍がフィレンツェを包囲し、激しい戦いの末、ジュリアーノ様のお孫様に当たるアレッサンドロ様をフィレンツェの領主に据えてしまったの。でも、アレッサンドロ様はひどい暴君だった。政治はそっちのけで、女狂いに明け暮れ、挙げ句の果てに同じメディチ家のロレンザッチョ様に暗殺される始末。あなた方をここへ遣わされたアレッサンドロ枢機卿も、そんなアレッサンドロ様の女遊びの末にできた孤児のお一人だと言われているわ。」
「あのアレッサンドロ様が……」
「こうしてフィレンツェの支配は、ジョバンニ様のご子息のうち、兄のコジモ様からはじまった流れから、コジモ様の弟脈の流れに移っていくの。アレッサンドロ様亡き後、メディチ派の重臣たちが後継者に選んだのは、メディチ弟脈の中でも、英雄として誉れが高くフィレンツェ人に人気のあった黒隊長ジョバンニの息子・コジモ様。当時十七歳の若さだったにも関わらず、断固たる決断力を発揮され、反メディチ派を徹底的にたたき、大国スペインの大貴族でナポリ副王ドン・ペドロ・デ・トレド様の次女エレオノーラ様を妻に迎えスペインとの連合を深めるなど、早熟な絶対的君主と噂された人よ。コジモ様は、フィレンツェに従属するトスカナ地域までをも含め、トスカナ公国とし、初代トスカナ大公コジモ一世となられたってわけ。」
「それで、コジモ一世と言われる方が二人いる訳ですね。一人は共和制フィレンツェを繁栄に導き国父と言われるコジモ様、そしてもう一人がトスカナ公国をお造りになったコジモ一世様……」
ミゲルが妙に感心したような口調になった。
「でも、そのコジモ様も、トスカナ公国が安定するや、ご長男であるフランチェスコ様にトスカナ大公の位をお譲りになられた。それからよ、コジモ様の女狂いがひどくなったのは……」
(おまえは、 まだ俺のことを恨んでいるのか 。)
エレオノーラの心に語りかけてくる声があった。
(恨んでいないと言ったら嘘になるわ。私の名付け親だった大公女エレオノーラ様がお亡くなりになったとき、私は、まだ十四歳だった。たしかに悲しくもあったけれど、それより何より、あの荘厳な儀式に列席できたことが誇らしかった。十四歳の私は、あの荘厳さに負けまいと、できるだけ威厳を保とう、堂々と振る舞おうと、そのことに必死だった。そんな私を見初めたのが、あなた、コジモ大公様。もし、あのとき、あなたに見初められることがなかったら、私の人生はまた違ったものになっていただろうと……)
(俺はメディチの狂った血を呪った。妻のエレオノーラは、そんなメディチの放蕩な血筋を嫌い、子供たちを異常な潔癖さで育てようとした。それに対する反発からか、娘のマリーアは幼くして貴族マラテスタと淫らな恋に落ちた。俺はそれが許せなかった。男を必死でかばう実の娘を、俺はこの手で殺してしまった。
俺の中でメディチの呪われた血が荒れ狂いはじめていた。
妻には、娘は悪性の発疹チフスで亡くなったと伝えたものの、エレオノーラは、それから間もなくして娘の後を追うようにして亡くなった。残された俺も、子供たちも、どれも性的にゆがんだところを持っていたようだ。特に三男のピエロがひどかった。奴は、フィレンツェの民衆から「悪しきメディチ」とまで呼ばれ、嫌われる男になってしまった。
俺は、妻の葬儀の席で、美しく成長したおまえに気付いた。見くびられまいと胸を張る表面の驕慢さの背後に、メディチの血にはない新鮮な輝きを、おまえは放っていた 。)
(きれいごとを言わないで! あなたは、私が息子を産むや、私から離れていった。あなたがお嫌いになっているご長男のフランチェスコ大公様、あの方のほうがどれだけ実があったか。あの方も、ベネツィアのビアンカ様と道ならぬ恋に落ちられました。でも最後の最後まで、その恋に殉じられました。次から次へと、美女と見れば手を出し捨てる、そんなあなたとは大違い。それを苦しんでいるようなポーズで誤魔化すなんて卑怯です!)
(お前にそんなことが言えるのか。あの悪しきピエロに抱かれたお前に言えることなのか。ピエロは俺の息子だ。お前はあろうことか、俺の息子ピエロに心を寄せていった 。)

長い沈黙を破るようにエレオノーラが言葉を発した。
「バルトロメオ、あなたの本当の父は、メディチ家のピエロ様です。」
「…………」
「私は十八歳で、コジモ様との間に息子のジョバンニを授かりました。その頃から、コジモ様の思いは、私の従姉妹であるカミーラに移っていったのです。寂しい思いを抱えて暮らす私にやさしい言葉をかけてくれたのが、コジモ様のご子息ピエロ様です。やがて私とピエロ様の間に愛が芽生え、コジモ様は、私とピエロ様の関係を隠すために、部下のカルロに私を嫁がせました。彼は、私的な決闘の末に相手を殺し、死刑を宣告されていたのです。そのカルロにコジモ様は、私との結婚を条件に赦免の提案をなされたのです 。
……カルロは命惜しさに私と結婚しましたが、そんな結婚ですから、愛などあろうはずはなく、憎しみだけが日々膨らんでいくような毎日でした。そんななか、ピエロ様との関係が復活しあなたが生まれたのです。もちろん夫は、自分の子供だとは認めようとしません。それどころか、生活は荒れる一方。とうとう給料の遅配に愚痴をもらした召使いを、逆上した夫は、銅貨の詰まった袋で殴り殺してしまいました。
夫カルロは、この罪で投獄されましたが、同時に獄中から、私をこの修道院に入れることを手配したのです。それが夫にできる、唯一、私への復讐だったのです。」

フィレンツ大公女ビアンカとエレオノーラとの親交が始まったのはこの頃からだ。
ビアンカは、エレオノーラに自分の運命を重ねたのだろうか、修道院へ入れられた彼女を面会して慰めるばかりか、日本から天正遣欧使節がトスカーナの地を訪問したときには、少年たちの面倒を見るという理由にかこつけ、彼女をピサまで連れだし、使節が滞在する間、ピサに五泊、フィレンツェで七泊をともに過ごしている。
ビアンカは、ベネツィアきっての資産と権力を誇る名門貴族カッペロ家の令嬢として生まれた。父であるバルトロメオ・カッペロは、当時の常として、ベネツィア一の美貌に生まれた娘を、カッペロ家の政略の道具として考えていたが、それがベネツィアの一介の銀行員に過ぎないピエトロ・ブオナベンチュリと駆け落ちしてしまった。
激怒した父バルトロメオは、二人を援助したピエトロの叔父であり、サルビアーティ銀行の支店長ジョバンニ以下、娘の召使いや、駆け落ちに使ったゴンドラの船頭までを捕らえさせたが、特にジョバンニはピエトロの身内でもあり、二人の駆け落ちを手引きしたと考えられ、厳しい拷問にかけられたあげく獄死するに至った。
二人は、フィレンツェで公証人をしている、ピエトロのもう一人の叔父ゼノビアのもとに身を寄せた。
フィレンツェは、ベネツィアと仲が悪い。ルネサンスの歴史の中で、両国は激しい対立と抗争を繰り返してきており、それだけにフィレンツェっ子たちは、この世紀の駆け落ちにやんやの喝采を送った。かくしてピエトロとビアンカは、ゼノビアの家を隠れ家として秘密裏に結婚式を挙げるに至った。
やがて二人のロマンスは、フィレンツェ中の評判となり、ベネツィア一と言われる美少女を一目見んものと、たくさんの野次馬がゼノビアの家を訪れるに至った。その野次馬の一人に、コジモ一世の長男であり、やがて父の後を継ぎトスカナ公国の君主となるフランチェスコまでが含まれていた。
フランチェスコはこの時、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン二世の妹ジョバンナに求婚している最中であったが、この政略結婚での駆け引きのなかで、ビアンカとピエトロの噂に心を動かされ、一目、ビアンカを見ようと、滞在先のバヴァリアからフィレンツェへ引き返してしまったのだ。
幸いゼノビアの家の近くに、メディチ家の別荘カジノ・デ・メディチがある。フランチェスコは、ビアンカを一目見ようとこの別荘に滞在し、遂にその目的を達成した。
そして、ビアンカのことが忘れなくなった。ことを察した物知り顔の取り巻き連中が、ピエトロを口説きにかかる。
「フランチェスコ大公がビアンカを見そめられた。ぜひ謁見させるように」と。
そうなれば、ピエトロにも莫大な恩賞が与えられるであろうし、大公の保護を受けるようになれば、ベネツィアも手が出せなくなるというのだ。
ピエトロ自身、ベネツィアきっての遊び人と噂された人物であり、ビアンカにも飽きが来ている頃であり、何より惨めな暮らしに耐えられなくなっていた。そこへメディチ家への仕官と莫大な恩賞が約束されたのだから、ピエトロが心変わりするのに時間はかからなかった。
ビアンカの思いに関わりなく事が運ばれた。
このとき、すでにトスカナ大公は、コジモ一世からフランチェスコ一世に移り、后もハプスブルグのジョバンナをトスカナ大公女として迎えており、かくしてビアンカは、公然としたフランチェスコ一世の側室としてメディチ家に迎えられることになった。
しかし、后妃ジョバンナは、ハプスブルグの出を鼻にかけるような驕慢な女性であり、教養も低く、後期ルネサンスの美しい宝石とまで呼ばれたビアンカの教養と美貌とは較べるべくもなく、いきおいフランチェスコの思いはビアンカに偏っていく。
ジョバンナにはそれが許せなかった。浮気ならまだ許せる。しかし、フランチェスコは結婚前からビアンカを愛しており、結婚してもそれをやめようとはしない。その不満を、ジョバンナは、神聖ローマ皇帝である兄マクシミリアン二世に訴える。
マクシミリアンは、それを「遺憾である」としてフランチェスコの父であるコジモに訴えることになる。大国ハプスブルグからの訴えに、個人の結婚問題だからと逃げることもできず、コジモは、息子フランチェスコの不行跡を罵る。
しかし、父のコジモ一世も、このことと前後して十四歳のエレオノーラを側室に迎えている。フランチェスコは「自分のことを棚に上げて」と父を責め、親子でそれぞれの性的不行跡を罵りあう日々が続いた。
この不幸な結婚生活は、ジョバンナの死をもって破局を迎えた。夫ばかりか社交界での人気までビアンカに奪われ、そのうえ、ビアンカがフランチェスコの子を身ごもったという知らせまでがもたらされた。ジョバンナは、すでに女児を出産していたが、その健康状態から、もう子供を産むことはできないだろうと言われていた。ジョバンナは嫉妬の炎に身を焼き、まるでその噂に挑戦するかのように、翌年五月、未熟な男児を出産した。そして、その翌年にも再び身ごもった。
ジョバンナは得意の絶頂にあった。これであのベネツィア女を見返してやれると。
……が、これが彼女の寿命を縮めた。引き続きの妊娠で極度の貧血状態が続き、ある日、椅子から立ち上がった途端、貧血で大理石の床に倒れてしまい、腹部を強打したものか、出血がひどく、流産したあげくに意識が戻らないまま、帰らぬ人となった。
ビアンカにとっての不幸は、その後、フランチェスコが、彼女をトスカナ大后妃として迎えたことだ。ジョバンナが嫉妬の炎で、自らの命を縮めた気持ちは、ビアンカには痛いように分かる。女としての自分の気持ちなど認められることもなく、男たちの欲望や政治の道具として振り回されたあげく、嫉妬に身を焼き死んでいったジョバンナ。
そして、コジモ一世に見そめられ、捨てられ、望まぬ結婚を押しつけられ、あげくには修道院に押し込まれたエレオノーラ。

「私を慰めるため、修道院に通ってくださるビアンカ様の心には、そんな悲しみがありました。フランチェスコ様の弟君フェルディナンド様は(今の大公様ですが)、そんなビアンカ様のことを、大公女になりたいばかりにジョバンナ様を殺したかのように言いふらす始末です。
(フェルディナンド様こそ、トスカナ公国を狙っておられた方だというのに……)
そんななかで、ビアンカ様は、アレッサンドロ枢機卿様と出会われ、私にもアレッサンドロ様のお話をお聞きする機会が与えられたのです。
今も決して忘れることができません。あのピサで、そして、このフィレンツェで、日本の貴公子方との楽しい集いの合間に、秘かにアレッサンドロ様からお聞きしたイエス様のこと、マグダラのマリア様のこと、そして本当のものを見つけようとする大きな流れがあるということを…………。」


モンセギュール

エレオノーラには、すべてのことが、あの日本の少年たちがイタリアを訪ねてきたときから始まったように思えた。歓迎舞踏会の席で、ビアンカ大公女にリードされながら顔を真っ赤にして踊った日本の少年たち。やがて少年たちも興奮さめやらぬまま、それぞれの部屋に引き上げ、華やかな宴も終わりを告げた。
その夜、皆が寝静まった頃、フランチェスコ大公の書斎(右の写真)に、当のフランチェスコをはじめ、ビアンカ大公女、アレッサンドロ枢機卿、エレオノーラの四名が集まった。
フランチェスコが、エレオノーラに向かって、
「この集まりは非公式のものであり、公にされるべき性格のものでなく、ここに集まった者たちの生命ばかりか、メディチ家の命運にも関わる内容である。余は、后よりそなたの話を聞き、アレッサンドロ枢機卿とも相談した結果、ぜひ、そなたにも我々のことを知ってもらいたいと思った。いや、そなたには知る権利があると思った。
どうじゃな、そなたに真実を聞く勇気があるかな。それとも、何も知らずに一生を終えるか。あながち、その方が幸せだと言えないこともないぞ。」
「どのような話か存じませんが、私の置かれている状況が、今より悪くなるとは考えられません。それに、このような話し方をされては、私の好奇心が治まりません。このまま知らずに済ませるなどとは思いも寄らないこと。」
トマスは、自分やミゲルがアレッサンドロ枢機卿と出会ったときのことを思い出した。
あのときアレッサンドロ枢機卿は、フランチェスコ大公と同じ言い方をした。
「あなた方が知りたくないと思うようなことまで知ることになるでしょう。あなた方にその勇気と覚悟がないのなら、シクストゥス聖書は忘れることです。」
あのとき、トマスもエレオノーラと同じようなことを思った。
「ここまで聞いて、自分の好奇心と折り合いを付け引き返せる人間がいたとしたら、それこそ勇気のある人間だろう」と……。
トマス等に分かるわけもなかったのだが、それは、ある秘密な集まりに参加する儀式のようなものであった。その集まりとは、「インクナブラ」、その名は「印刷の揺籃期」を表しており、その目的と活動は、真実を活字に残すこと、および真実を追究しようとして出版された世界中の書物の収集と保護、そして真実を追究しようとする「人」と「団体」を支援することにあり、個人的には、その学習を通して「人生の真の目的」に自らが気付いていくことにあった。
その起こりは、初代コジモ(コジモ一世ではなく、メディチ家隆盛の礎を築いた老コジモ)のときに創設された「プラトンアカデミー」にまで遡る。フィレンツェが芸術の都と呼ばれるようになったのは、このコジモ一人の力によると言っても過言ではない。コジモは、パトロンとして多くの芸術家を育てるとともに、哲学家や思想家、それに占星術や錬金術士、その他諸々の魔術士たち――と言っても、今の自然科学者や化学者、数学者、音楽家までを含んでいたが――の経済的擁護者であるばかりか、ヴァチカンからの庇護者でもあった。
そして、彼自身が研究者でさえあった。
「プラトンアカデミー」は、表向きは、プラトンの「饗宴」を輪読し、これについて語り合う哲学者たちのサロンという形をとっていたが、その創設の目的は、「人間」という存在の根本を探ることであり、それを包む「自然」の秘密や法則性を探り出すことであり、それは、とりもなおさず「神」の秘密を知ろうとすることであった。
このために、キリスト教という枠に縛られることなく、ギリシャ哲学が学ばれ、アラブの医術が学ばれ、占星術や錬金術、それにカバラ(ユダヤ神秘主義)やグノーシス主義が学ばれ、またそれらが討論の論題にのせられ吟味された。
もちろん、こういった研究は、ヴァチカンから言わせれば「神を冒涜する」行為なわけだが、コジモは、一方で芸術家や建築家を奨励し、絵画や彫刻をもって神を賛美し、次々と教会を建てた。それは見方によれば、ヴァチカンへのカモフラージュと捉えられるが、コジモにとっては、このこと自体が、神への挑戦でさえあった。それは、あたかも「この荘厳な教会を建てたのは……、この輝くまでの美しさを創造したのは……、すべて人間の力、すべて人間の技、すべて人間の感性に依っている」と言わんばかりであった。

「少し待ってください。トマスの様子が変だ。」
エレオノーラの息子、バルトロメオが話の流れを止めた。
見れば、トマスは脂汗を流し、目は虚ろで小刻みに震えている。
「……だ、大丈夫です。はじめて聞くことばかりで……なぜか、グノーシスという言葉を耳にしたとき、全身に鳥肌がたち、今も震えがおさまりません。これは一体どうしたことでしょうか?」
トマスが苦しそうに言葉をはさんだ。
「……それは恐らく、あなたの中にある過去の記憶、といってもあなたの生まれる前の記憶が表に出てきたせいだと思われます。」
「……て、転生のことを言っておられるのでしょうか。それなら、キリスト教は否定しているはずですが……」
「カトリックでは否定しています、それを認めれば都合が悪いから……。教皇や皇帝の過去世が羊飼いや盗賊だったらまずいでしょう。でも元々のキリスト教では、決して輪廻ということは否定していなかったわ。」
「そういえば、ブルーノも言っていました。人は輪廻する。イエスも人の子だって……」
ミゲルが得意そうに言葉をはさむ。
「そうね、最初は聖書も教会もなかった。イエスさえ礼拝の対象じゃなかった。ただイエスの話す内容だけがあった。イエスが説こうとしているもの、イエスが目指そうとしているものだけが問題だった。」
エレオノーラの話は、キリスト教以前から存在するグノーシス派と呼ばれる人々のことにおよんだ。グノーシスとは、ギリシャ語で知識を意味する。この派の人たちは、何よりもまず、万物の存在理由を説明し得る完全な知識を所有することを望む。それはただ単に信仰にとどまらず、霊的な直感によって神の啓示を得、自らを叡智の世界の極みにまで高めようとする。それは勢い肉体を堕落した物質世界ととらえ、その肉体から己の魂を解放することを究極の目的とするようになる。
イエスの死後、彼の妻であったマグダラのマリアは、彼の生の声、生の教えを伝えて回ったが、その教えは、このグノーシス派の流れと混じり合い、その流れから、やがてマニ教が生み出され、キリスト教最大の異端とされるカタリ派が生み出されるに至った。
それはイエスのもともとの教えが、いやイエス自身がグノーシス主義の影響を受けていたことに他ならなかった。
グノーシス派には男女の区別がなかった。女性が蔑視されることもなかった。この流れから生まれたキリスト教カタリ派では、教会もなく、神父もなかった。押しつける規律もなく、ただ自分という存在の目的に気付いた者だけが、ペルフェルティ(完徳者)として、肉食を絶ち、粗末な衣を身にまとい、質素な生活の中で教えを説いて回った。
彼らは、自分に強いることを、決して他人に強いることはなかった。また、このペルフェルティ(完徳者)には女性でもなれた。というより女性の方が指導的役割を果たしていたと言える。カトリックがキリスト教の中心となって堕落し、その制度や組織の維持に汲々とするようになっても、カタリ派は人々の支持を得、人々の心の中に広がっていった。
華美な僧衣に身を包み、ぜいたくな生活をする聖職者には、とてもこの流れを止めることはできなかった。ヴァチカンが、いくら「カタリ派の教えは異端である」と叫んだところで、言うことと形が一致しない聖職者の言うことなど、だれも耳を傾けようとはしない。
こんな流れの中で、南フランス一帯が、カタリ派活動の最大の拠点となっていった。

(どうして南フランスなのだろう……)
朦朧とした意識の中で、トマスは漠然とそんなことを考えていた。
話を聞きながら、トマスの震えはおさまるどころか、ますます激しくなり、そしてカタリ派という言葉を聞いたとき爆発した。胸の中から噴き上げてくる塊に、トマスは遂に、こらえきれなくなって叫びだしていた。叫びながら、一つの思いに耳を傾けていた。
(モンセギュール、モンセギュールを忘れるな。トマス、トマス…………)


伊牟田の恋

「警察に届けなくても本当に大丈夫なんだろうな!」
藤プロデューサーはホテルの部屋で朝食をとりながら、電話口に向かっている。
電話の相手は、大阪支社にいる美術部の伊牟田だ。日本では午後七時をまわった頃だろうか。撮影がない日はとっくに帰っているはずの伊牟田も、この日ばかりは康男の安否を気遣って美術部の部屋を動こうとしない。部屋には、妻の清花も来ている。散らかった机の上には、ローマの市街地図が広げられ、清花がその地図に見入っている。
「清花が、康男はサンピエトロの近くにいるって言うんです。元気とは言えないまでも、少なくとも死んではいないそうです。」
「どうも分からない。どうしてそんなことが言えるんだ。」
「一言で説明しにくいんですが、康男から出ている《気》みたいなものを、あいつは感じているらしいんです。本人は康男の波動を感じてるんだって言ってますが……」
「気でも波動でも、どっちでもいいが、間違いないんだろうな?」
「……はぁー?」

恋女房である清花との出会いは、伊牟田が、まだ堺のぼろアパートに住んでいた頃にさかのぼる。伊牟田のアパートのすぐ裏に、路地を一本はさんで小さなストリップ小屋があった。伊牟田のアパートの窓からは、このストリップ小屋の屋上がすぐ近くに見えるのだが、ある日、上半身裸で洗濯物を干しているストリップ嬢と思わず目が合ってしまった。
まだ、この頃は伊牟田も純情であった。顔を真っ赤にしてぴょこりと頭を下げると、思わず窓の下に隠れてしまったものだ。
しかし、顔を隠しても、彼女の形のよい乳房が目について離れない。そればかりか、軽く微笑み返してくれた口元や、親しみを込めた目の表情までが思い出される。
彼女にもう一度会いたい。かといって、ストリップ小屋に行くのはなぜかためらわれる。
(俺は美術を専攻し、裸婦のデッサンだって慣れている。女の裸なんてどうってことはない。ストリップ小屋に行くのがどうだって言うんだ……)
思い悩んだあげく、そう自分に言い聞かせながら、裏通りにあるストリップ小屋に足を向けた。
入り口には踊り子の写真が掲げてあった。その一つに目が留まった。
その写真には、平仮名で「さやか」と書かれていた。以来、伊牟田は彼女の追っかけをはじめた。地方巡業があれば、休みを取って巡業先の小屋へも通った。
ある時、金沢の香林坊まで追っかけをやったときのことだ。
伊牟田の横に座っていた客の一人が、彼女の出番に、聞くに堪えない卑猥な野次を飛ばした。
伊牟田の中では、ストリップは、今や崇高な芸術の域まで達している。
「この野郎、大人しくしろ!」と、思わず怒鳴りつけたのがいけなかった。
男には何人かの連れがおり、伊牟田はその男たちに連れ出され、袋叩きの目に遭わされた。
舞台から様子を見ていた清花の通報で、警察が駆けつけ、伊牟田は近くの病院へ救急車で運ばれることになったが、救急車には、伊牟田の身を案じる清花が付き添いとして乗り込んでいた。
病院で目覚めたとき、傷の痛みより何より、彼女が傍に付き添ってくれていたということに、伊牟田は感動していた。そして「あんな仕事は辞めてほしい」「自分と結婚してほしい」と思わず告白してしまった。
こうして伊牟田は画家の道を断念し、今まで鬱々と働いていた舞台美術の仕事に生き甲斐を見いだすことになる。もちろん、清花(なぜか本名のほうが芸名っぽい)との生活が基盤にあってのことである。

こうして伊牟田は思いかなって清花と結婚したが、結婚して一年ほど経ってのことだ。彼女が、ある集まりに行かせてほしいと言い出した。
清花は、高校生の頃、大変な悪だったという。ところが、清花の担任となった古野先生という教師との出会いが彼女を変えてしまった。キッチョム先生――古野吉祥という。しかし、誰が言い出したものか「吉祥」に「夢」を付け足し「吉祥夢先生」になり、いつの間にか「キッチョム先生」になってしまった。みんな、「キッチョムさん」とか「キッチョム先生」と呼ぶし、不良と呼ばれる生徒たちでさえ「キッチョムさん」「キッチョムさん」と、親しそうにその思いをぶつけてくる。彼も面白がって、自己紹介のときなど「古野吉祥夢」などと黒板に書いたりもしていた。
それが、あるとき、黒板に名前を書き自己紹介しているキッチョム先生をその学校の教頭先生が見とがめた。授業が終わって職員室に帰った古野先生に、教頭先生が
「君は、古野吉祥という名ではなかったのかね」と問いかけた。
以来、思うところがあったのか、自らは「吉祥夢」等とは書かなくなった。ただみんなから「キッチョムさん」とか「キッチョム先生」と呼ばれるのは歓迎だったようだ。
いつだったか、清花に、「親が付けてくれた名前だからね」と、キッチョム先生がボソッと話してくれたことがある。
清花の両親は離婚していた。父親は町で小さな印刷業を営んでいたが、事業の不振が原因で新興宗教に走り、寄進寄進で、ただでさえ傾いていた家業をとうとう潰してしまった。
母親は幼い弟を連れて家を出、まだ小学生だった清花は、飲んだくれの父親と残され、見かねた親戚が清花を引き取ることとなった。どんなに両親を恨んだか知れない。どんなに生まれてきたことを呪ったか知れない。そんな清花の心に「親の付けた名前だからね」というキッチョム先生の言葉がしみこんでいった。
理屈ではなかった。何を言ったかでもなかった。その言葉がきっかけとなって、今まで押し込めてきた親への恨み、どうしようもない寂しさ、悔しさ、いろんな思いが堰を切ったように自分の中から溢れてきた。
あたりかまわず泣いた。泣き続けながら、その悔しさ、どうしようもない寂しさの奧底から、理解できない温かさ、喜びがフツフツわき上がってくるのを感じた。こんなに苦しんでいるのに、こんなに恨んでいるのに、こんなに怒っているのに、心の奥底から「お母さん、ありがとう」「お父さん、ありがとう」そして、自分を取り巻くすべてのものに「ありがとう」という思いがこみ上げてきて止まらなくなった。
あんな思いは初めてだった。あんな気持ちで生きていられたら、どんなにか幸せだろうと思った。でも、そんな喜びも、また日常にまぎれ色褪せていった。

「エーッ、キッチョム先生、出席してないの……」
「先生、神様に目覚めちゃったみたいよ。」
「ちがうって、そんな宗教ぽいことじゃなくて、本当の自分に気づいていこうって教えてまわってるみたいなのよ。」
同窓会の席上、清花は友人から、キッチョム先生が、今は某高校の校長先生をしながら、日曜ごとにある勉強会を開いているという消息を聞いた。
伊牟田と結婚してから、清花にある変化が訪れた。
見えないものが見え、聞こえるはずのないものが聞こえるのだ。俗に「霊」とか言われるモノが、清花には感じられる。それが評判になり、超常現象や、心理学の先生までが、自分の研究材料にと、清花のもとを訪れるようになった。
清花にはそれが疎ましく、自分の能力も、どこが間違っているのか分からないのだが、なにか違っているように思えて仕方なかった。そんな矢先、キッチョム先生の勉強会の話を聞いた。
清花は、その話に引かれるようにしてキッチョム先生の勉強会に参加してみた。
そこで、キッチョム先生は、人間は「霊」だという。また「意識」だとも言う。「意識」である自分が、「肉体」という洋服をまとっている。人間は、その洋服を自分だと思って、その洋服を飾ることが幸せだと思っている。洋服がボロボロになって着れなくなったら、人はそれを「死」と思い、「死」イコール「自分が消滅する」ことだと考えている。自分が、「肉体」がなくなっても存在し続ける「意識」だとは思っていない。
人が生まれてくる目的は、「自分はちっぽけな肉体に縛られている存在ではなく、生き通しの生命=意識こそ自分だと気づくこと」にあると、キッチョム先生は言う。「肉体がなければ、そのことに気づけないから生まれてくるのに、人は、肉体を自分だと思い、さまざまな間違いや汚れを積み重ねてきてしまった。それがあなた方の過去世だ」ともいう。
私たちは、無数の過去の誤りを背負って生きている。その修正のために今がある。本当の意味で自分を癒すことが出来れば、自分につながるたくさんの過去世が、その苦しみから、その間違いから解放される……。それが逆に自分を解放することにもなる。
「待ってよ、それって何か堂々巡りみたいじゃないか。」
伊牟田はよく妻の清花に異議を申し立てた。異議を申し立てながら、心のどこかで、「妻は本当のことを言っているのかも」、そんな思いもあった。
伊牟田の異議や疑問にも関わらず、清花は、月に二回、日曜ごとにキッチョム先生の勉強会に通い、確実に見えないものに対する感性を高めていった。
そんな妻に、伊牟田は康男のことを相談してみたのだ。

「宗教という名の狂気……」
そんな思いが、清花の心にわき上がってきた。と同時に彼女の心の奥に閉じこもっていた何かが堰を切ったように溢れてくる。清花は溢れてくる涙をそのままに、遠くローマを彷徨っている康男に思いを向けていた。



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