閉じる


<<最初から読む

4 / 39ページ

サン・ピエトロの闇へ

1968年4月 ローマ
後ろの席に座っている藤プロデューサーが体を乗り出し、康男をつついた。
「オイ、日本語の説明がついてるはずじゃなかったのか!」
バスの前では、明るい紺のブレザーを着込んだ青年が、陽気な英語を振りまいている。
時折起こる笑い声。康男の回りでは日本人通訳だけが笑っている。
康男と藤プロデューサーが同時に日本人通訳を睨み付けた。
日本人通訳は、肩をすくめるばかり。
「なにせ、イタリアは日本のようにきっちり行きませんので……」
「次の停車地で確認してよ。日本語のガイド付きは、英語の倍額料金だよ。」
康男がブツブツ言う。藤プロデューサーも何か言いかけたが、軽い舌打ちだけを残して自分の席に戻った。

やがてバスはサン・ピエトロ寺院へと到着した。

バスがヴァチカンの専用駐車場に停車するや、康男は日本人グループの先頭をきって降りたった。
と……いきなり後ろから
「日本語コースの方ですね?」という女性の声が追いかけてくる。
振り向くと、陽気そうなイタリア人女性がこちらに近づいてくる。
「あなた方、間違えました。イングリッシュコースのバスに乗りました。」
そして後ろのバスを指さし「これからは、あのバスに乗ってください。ほら、日本語でローマ・ヴァチカンコースとフロントガラスに張り紙がしてあるバスです。」
達者な日本語だ。
彼女の背後には、新婚旅行だろうか、若い日本人カップルや、勇敢な日本のおばさんたちのグループが、しっかりと固まって控えている。
なるほど、これで一つ問題が解決したわけだ。
早速、康男等は、その女性の案内に従ってサンピエトロ寺院のエレベーターに乗り屋上まで上がった。サンピエトロからローマの街を一望すると、その景観にクリスチャンならずとも胸が熱くなる。中へ入れば入ったで、ミケランジェロからベルニーニに受け継がれ完成したドゥオーモ内陣の迫力に直撃される。そのあまりの存在感の前に、ガイドの説明も薄っぺらに聞こえる。
上を見れば巨大なドゥオーモが覆い被さり、下を見れば広大な礼拝堂を、豆粒のように見える観光客の群が行き来している。
(ローマだ、俺は今、かつての世界の中心にいるんだ!)
康男はドゥオーモを囲む回廊を一巡すると、クラクラする頭を一振りし、高ぶる心に突き動かされるままに、遙か下に広がる礼拝堂に向かって駆け降りていった。



いち早く下へたどり着いた康男は、礼拝堂の片隅に小さな入り口が開いているのを見つけた。見れば地下へ降りていくコースのようで、先ほど一緒だったアメリカ人観光客たちが、整列して中へと吸い込まれていく。
ローマ教皇たちが眠るヴァチカンの地下墓地へとつながっているのだ。
康男は、その光景に足がすくむ思いがした。
(これって何だよ。イヤだよ、行きたくないよ。まるで夢と同じじゃないか。行きたくないよ。)
康男の足は、彼の思いとは裏腹に、アメリカ人観光客の後ろに付くや、地下墓地へと向かって早くも歩き始めていた。

降りきったところから、かつて、このヴァチカンの主であった教皇たちの石棺が通路の片側脇に続いている。康男にはどれが誰のものなのか分かる術もない。中に眠る教皇の姿を蓋にレリーフした豪華な石棺があるかと思えば、飾りも何もない粗末な石棺もある。石壁には、ここがかつてローマの闘技場であったことを示す表示があり、ところどころ、その当時のままの石壁を残して展示している箇所もあった。

いきなり照明が消えた。
キャーッという叫びは、アメリカ人女性だろうか。別な方角からは「ドン ムーブ!」とか、「ステイクール!」というアメリカ人男性の声が響いてくる。
……停電だろうか。
しかし、こんな闇は初めてだ。墨を流したように、まるで何も見えない。
「ドントムーブ」なんて言われなくたって、こんな地下迷宮で灯りを奪われたら、動こうにも動けるわけがない。動くこと自体が恐怖なのだから……。
康男は金縛りにでもあったように、ひたすらじっとしていた。動けば、自分も含めて何もかもが消えてしまうようで、訳もわからず怖かったのだ。

どれぐらいそうしていただろうか。
気が付けば、いつの間にか、ざわめきが消えている。
光と一緒に音までが深い闇の底に引きずり込まれてしまったかのようだ。
音ばかりか、周りからは人の気配までが消えてしまっていた。
闇の底にただ一人取り残されたような感覚。
――怖い、本当に怖い。
声を出したいのに、喉がカラカラに干上がったみたいで声を出すことも出来ない。
こんなことなら、おとなしくみんなと一緒にいれば良かった。

その頃、上の礼拝堂では(と言っても、三八〇年前のことだが)、グレゴリオ一三世の葬儀の準備が着々と進んでいた。


スイス衛兵隊

1585年4月 サン・ピエトロ寺院
教皇の遺体は、教皇庁式部官の指示で、サラ・デル・パパガッロ(おうむの部屋)と呼ばれる一室に移された。遺体は、ここで近侍の人たちの手で洗われ、香り高い香水で清められる。ついで高価な香油と香膏とが塗られ、そのうえで、教皇の喪服である赤い祭服が着せられる。肩には、パリウムといわれる、権威のシンボルである黒い十字架の付いた白い麻布の肩かけ。頭にはミトラをかぶり、三枚の赤い枕が使われる。すべての準備が整うと、遺体は、棺台に載せられ、教皇礼拝堂に運ばれる。礼拝堂では、参集した聖職者たちによって祈祷が捧げられ、その後、さらに大きな行列がつくられ、遺骸は盛儀を尽くしてサンピエトロ寺院へ移されるのだ。
ここでも祈祷や行願の儀が行われ、遺骸は、中央祭壇の前に柩から出されて安置される。一般の人々に、拝謁し、恭敬し、接吻することを許すためだ。そして、この日から九日間、サンピエトロ寺院は、あらゆる場所が、グレゴリオ十三世の紋章で飾り立てられる。寺院内には、故人を顕彰する祈念碑のような墓標が建てられ、その周囲には、式部官および一般の官職人が、長い大礼服や喪服を着用して立つ。そのほか、参列するすべての人々に、真っ白な蝋で作られた炬火が配られ、灯がともされる。葬儀は、すべてが厳粛で粛々として進められ、その様子は神秘的ですらあった。
しかし、見かけとは逆に、関係者たちの心は、これからの九日間を思うと一時たりとも休まることがなかった。たまりたまった民衆の不満がいつ爆発するか、そのとき、民衆は暴徒と化し、ヴァチカン宮殿の略奪者となるだろう。聖職者たちは、ただひたすら事なきを念じながら、式を進行することとなる。

葬儀の第一日目、教皇の崩御以来、スイスの衛兵に守られ閉じられてきた大聖堂の扉が、一般告別のために開けられた。
青・黄・赤のユニフォームを着用し、まるでおとぎ話の中から抜け出てきたかのようなスイスの衛兵達の表情がこわばる。彼らは、その見かけとは逆に、世界でもっとも獰猛と言われた傭兵集団だ。スイス傭兵の残忍さは、たとえば腕輪を強奪するのに、相手を脅して腕輪をはずさせる等という回りくどいことをせず、いきなり相手の腕ごと切り落としてしまう。そんな噂が立つほど、スイス傭兵のやり口は荒っぽかった。国の貧しさから来るものだろうが、またそれだけに勇猛で命を惜しむことがない。この勇猛さが買われ、ユリウス二世の頃からヴァチカンの衛兵に採用され、以来代々、スイス傭兵が、教皇の身辺警護の任に当たることとなった。ちなみに、その派手な制服はミケランジェロによってデザインされたもので、制服の青・黄・赤はメディチ家の色を表していると言われている。
しかし、そんなスイスの衛兵たちも、この日ばかりは浮き足立って見え、合唱隊の歌声も心なしか駆け足気味に聞こえる。

やがて、一人の枢機卿が中央祭壇に立った。
グレゴリウス十三世の追悼演説を行うためだ。
彼の名は、アレッサンドロ・オッタヴィアーノ・デ・メディチ――この時、四十九才。初代フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の子と言われるが、父に似ずその闊達な性質は、むしろ大叔父にあたるロレンツォ豪華王を思わせるものがある。特に外交に力を発揮し、グレゴリオ十三世の時代、ローマ駐在フィレンツェ大使としてフィレンツェとヴァチカンを結ぶ絆として活躍したばかりか、グレゴリオの教皇特使として新旧キリスト教の対立に揺れるフランスに派遣され、ローマ教会の秩序を回復することに力を注いだ。このとき、同じメディチ家出身のフランス皇后カトリーヌ・ド・メディチの信任を得た。
やがてヴァチカンに戻ってきた彼の存在は、いわば片方に大国フランスの思惑、片方に都市国家フィレンツェの意向を受け、本人の意思に関わらず、陰に陽に教皇庁に大きな影響力を持つ存在となっていた。

アレッサンドロは思った。
「随分と集まったものだ。しかし、ここに教皇の死を悲しんでいる人間がどれほどいるだろうか。教皇に近い人間は、野心や保身の心を隠しこの葬儀に参列しているし、教皇から遠い民衆は、何か事の起こるのを心待ちにしてここに集っている。」
彼は、グレゴリオの事績を語りながら参列者の顔ぶれを見渡した。今朝ほどまでがらんとしていたサン・ピエトロの巨大な空間が、今やおびただしい人の波で埋め尽くされている。まず式部官はじめ各国使節や貴族たちの見知った顔ぶれが占め、次第に名も知らぬ民衆がそのかたまりに混じり、後ろのほうは顔も判然としない人の群が、聖堂内から扉の外のサンピエトロ広場へと溢れだしている。
アレッサンドロは参列者席の前方に目をやった。そこには正装した日本の少年たちの姿があった。少年たちはメスキータ神父に伴われ、ちょうど式部官たちの列から使節団の列へと移っていくあたりに沈鬱そうな表情で直立していた。
「少なくとも、教皇の死を悼む人間がここにはいた……」
アレッサンドロは思った。そう思って四人の少年たちのうち一人が欠けていることに気付いた。
「ジュリアンは、まだよくないのだろうか?」

彼が最初に日本の少年たちと出会ったのは、フィレンツェの名門メディチ家が、少年たちの歓迎舞踏会を開いたその席上だった。
少年使節の一行がヨーロッパの土を踏んだのは一五八四年八月のこと。二年半に及ぶ旅程を経て、使節一行はリスボンに第一歩を記し、その後、各地で歓迎を受けながら陸路イベリア半島を横断、アリカンテからは船で地中海を越え、八五年三月、ようやくイタリアはリボルノ港へと上陸した。
ところで当時イタリアは、北にベネツィア共和国とミラノ公国、南にナポリ王国とローマ教皇領、そして、その中央にフィレンツェ=トスカナ公国が位置しており、フィレンツェの地理的な位置は、そのまま政治的な位置を表していた。イタリアにおける都市国家間の対立は、スペインやフランス、それにイギリスという大国の出現で緩和に向かっていたとはいえ、イタリアにおけるフィレンツェは、北と南のそれぞれの「扇の要」とも言える役割を果たしており、そのフィレンツェを動かしているのが他ならぬメディチ家であった。
かつてコジモ・デ・メディチによって隆盛を見たフィレンツェとメディチ家であったが、数々の政変を経て、今やフィレンツェ共和国もトスカナ公国となり、その君主もメディチ家直系からコジモの弟脈へと移っていた。
アレッサンドロは、そんなトスカナ公国が生まれようとする激動期、初代フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの私生児として生まれた。母親は分からず、父は独裁と性的乱行の末に暗殺された。アレッサンドロの私生児たちを引き取ったのは、ハプスブルグから嫁いできたマルガレーテ公妃だが、彼女は未だ十六才で未亡人となり、やがて父カルル五世に言われるまま、オッタビアーノ・ファルネーゼと再婚するに至った。
その際、前夫アレッサンドロの残した何人かの私生児を教会に預けたのだが、まだ二才になったばかりの彼だけは、アレッサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチというたいそうな名前と共にフィレンツェの育児院に預けられることとなった。彼の素性を表す名前を与えること、それが、十六才の少女に唯一できる愛情であった。
そして今、トスカナ公国はフランチェスコ一世の時代を迎え、アレッサンドロも枢機卿として、ローマとフィレンツェの橋渡しをする存在となっている。
この時期、少年使節一行がイタリアに上陸したのだ。
使節一行はリボルノへ到着するや、このフランチェスコ一世によってピサに招待された。バリニャーノ神父は、使節一行が教会以外の施設に泊まることを堅く禁じていたが、フランチェスコ一世はそれを認めず、自らの宮殿に少年たちを宿泊させ、
「かくのごとき日本のプリンス、かくのごときキリスト教徒をイタリア全王侯中で最初に迎え得ることは、デウスの格別の恩寵である」と、自ら宮殿の階段を中程まで降りて出迎えるほどの歓迎ぶりであった。あげくは歓迎の舞踏会やら、歓迎の鷹狩りやらと、「ローマへ一刻も早く」という教皇の意向に反し、ピサに五泊、フィレンツェに七泊という思わぬ長逗留となってしまった。その際、アレッサンドロは、ローマ教皇とフランチェスコ一世、両方の意向を受け、ピサでの歓迎舞踏会に出席することになったのだ。

今、グレゴリオ一三世の葬儀の席で、こうして少年たちの顔を見ていると、あの舞踏会のおり、ビアンカ公妃のリードで顔を真っ赤にして踊った少年たちの顔が思い出される。アレッサンドロは、口許がゆるむのを隠すかのように、グレゴリオ一三世がいかに東洋への布教に力を注いだかを説き、「その努力の初穂こそ、ここで教皇の死を悼む純粋な日本の少年たちなのです」と、改めて少年たちを聴衆に紹介し、言葉を結んだ。
と、その時だ。聖堂の入り口で小さないざこざが認められた。
アンブロンシェと呼ばれる黒の喪服にすっぽりと身を包んだ、いかにも不気味な二人連れが、何とか聖堂内に入ろうとして、前にいた職人風の男と諍いを起こしたようだ。職人風の男は、激しく抗議するが、二人の男には聞こえないのか、それとも意味が分からないのか、顔を見合わせるばかり。男は無視されたと思い、声を荒げ、腹立ちまぎれに一人の頭巾を外そうとした。男は必死で頭巾を押さえた。
……が、一瞬、頭巾の下に見慣れぬ東洋人の顔が現れた。
驚いた職人の動きが止まった。
それは修道院で休んでいるはずの中浦ジュリアンとドラード少年の二人だった。ジュリアンには教皇の死も、葬儀のことも伏せられていた。知ればどんな無理をしてでも参加するに違いない。少年たち一行は、幸い熱のため寝込んでいるジュリアンを残し、葬儀の席へと赴いたのだった。
しかし、まわりの様子から、ジュリアンはおおよそのことを察していた。察していて気づかない振りをしていた。みんなに自分のことで煩わせるのを極力避けたかったし、メスキータ神父に話しても反対されるのが分かっていたから……。
「ジュリアン、最後まであなたの身体を案じていたグレゴリオ法王様の気持ちをどう考えているのですか。そんな身体で無理に葬儀へ出ることが法王様の心にかなうことでしょうか?」
「僕は侍だ。グレゴリオ様のご恩には、自分の命に代えても応えねばならない。メスキータ様には、侍の心が分からないんだ。」
ジュリアンは、みんなが出かけてしまうと、看病のため残ったドラードを問いつめ葬儀のことを確認した。
「ドラード、お願いだ。僕をサン・ピエトロへ連れていってほしいんだ。どんなことをしても僕はグレゴリオ様の葬儀には出なければいけない。メスキータ様には分かってもらえないと思うけど、同じ日本人の君には分かるはずだ」
ドラードは、葬儀のため人気のなくなったイエズスス会本部を探し回り、聖具室から二着のアンブロシェ(顔まで覆う黒の喪服)を見つけてきた。おそらく宗教劇にでも使うために用意されたものだろう。これに身を包めば、日本人だということは分からない。ドラードは、足取りのおぼつかないジュリアンを抱えるようにして、この葬儀場に望んだのだった。
サン・ピエトロの入り口は人であふれかえっていた。ドラードは何としてもジュリアンを聖堂の中へ入れてやりたかった。死に神を思わせる黒い二つの塊が、必死でサン・ピエトロの入り口を目指す。そんな不気味な二人連れに恐れをなし、人々は道をあけ、大慌てで十字を切った。こうして二人は何とか聖堂の中へと入ることができたのだが、そのとき、この事件は起こった。

あわてて頭巾をかぶり直したジュリアンは、ドラードと二人してその場から離れようとする。
それをつかまえようとする男。
頭巾の中に隠された幼い顔に安心したのか、同情したように人々が叫ぶ。
「放してやれーッ」
別の声が上がった。
「何が不謹慎だ。利いた風なこと言いやがって!」
「グレゴリオの野郎こそ不謹慎だよ!」
「そうとも、あんな教皇死んじまってサバサバするよ。地獄に堕ちりゃいいんだ。客取らずに、あたいらにどうして生きろって言うんだよ。教会の奴ら、陰でコソコソあたいらのこと抱くくせに……何が不道徳だよーッ」
「そうだ、そうだ……」
ジュリアンのことが引き金となり、サンピエトロの入り口付近が騒然としはじめた。あわや暴動に発展しかねない勢いだったが、しかし、それも一時のことだった。アレッサンドロ枢機卿の手配により、教皇常備軍であるスイスの衛兵が随所に配置され、騒ぎの原因となった人物はたちどころに隔離するよう手配が取られていた。
「騒ぎを大きくしてはならない。」
「騒ぎを起こした者、騒ぎを煽動しようとする者は、すぐ他の参列者から切り離すこと。」
それが、アレッサンドロ枢機卿がスイス衛兵隊に与えた指示だった。そのために衛兵たちは聖堂内の側廊や四十五カ所に及ぶ祭壇ぞいに配置され、聖堂内のどこで騒ぎが起こっても、すぐに対処できる手はずになっていた。
アレッサンドロ枢機卿の手配が功を奏し、この小さないざこざを除いて九日間の葬儀期間中、ついに暴動らしい暴動も起こらず、グレゴリオ一三世の遺体は、無事サンピエトロの地下埋葬所へ安置された。またスイス衛兵隊に保護されたジュリアンとドラードの二人は、アレッサンドロ枢機卿の配慮により、イエズス会修道院へ無事戻され、すべてがなかったこととして処理された。そればかりか、ジュリアンの気持ちを察し、グレゴリオ一三世の葬儀には、日本からの使節全員が参加したことが、公式記録にしたためられた。
 
事件のあった夜、ドラードはジュリアンにそっと囁いた。
「ローマの人は、教皇様を信じちゃいないんだね……」

その頃、グレゴリオ一三世の棺が、この地下墓所に運び込まれ、身動きのとれない康男の前を音もなく通り過ぎていった。


コンクラーベ(枢機卿会議)

四月も後半にかかろうというのに、ローマはまだ冷たい空気に包まれていた。コンクラーベ(枢機卿会議)の会場に向かう枢機卿たちの列から白い息が立ち上っている。
九日間にわたる葬儀が終わり、それに引き続き新教皇を決めるための枢機卿会議が開催されようとしている。会場となるシスティナ礼拝堂に、教会の高位聖職者である枢機卿たちが集められ、枢機卿間の選挙によって新教皇が決められるのだ。会場となるシスティナ礼拝堂は新教皇が決まるまで封印され、誰一人として会場への出入りは許されない。この間ヴァチカンは、自国の枢機卿を新教皇にという各国の思惑や個人の野望が入り乱れ、祈りの場から政治的掛け引きの場へと一変する。

この日、アレッサンドロ枢機卿も、コンクラーベ会場に入ろうとする枢機卿たちの列の中にいた。
彼が会場へ入ろうとしたときだ。目の前で一人の老枢機卿が激しく咳き込み、思わず扉の前でしゃがみこんでしまった。アレッサンドロはその老人の背中を撫でながら、
「フェリーチェ様、しっかりしてください。死ぬには早すぎますぞ。」
老人は、アレッサンドロに顔を振り向けると、苦しそうに、
「おー、アレッサンドロ殿か。やさしいお言葉じゃが、ご覧のとおり、もういつお呼びがかかっても不思議はない状態でな。また準備もできております」
老いたフェリーチェには、それだけ言うのがやっとだったのか、そこまで言うと、また苦しそうに咳き込み始めた。
コンクラーベに集まる投票権のある四十二名の枢機卿のすべてが、この様子を見ていた。そして、皆が皆、彼が今にも血を吐いて倒れしまうのでは……そんな思いを持った。と同時に、ある一つの思いを胸に抱いた。グレゴリオ十三世の死があまりにも急すぎたのだ。日本の少年使節たちの謁見――ローマはその行事に沸きかえり、教皇は、あの華やかさ、あの明るさを、まるで一人で享受しているような喜びようだった。それが、こうもあっさり死んでしまうとは……。各国の思惑も、個人の野望も、形にするには今少しの時間と調整とが必要だった。そこで誰もが思った。
「フェリーチェなら、もう永くはないだろう。政治的な色も背景もなく、時間稼ぎには格好の存在だ……」と。

教皇選挙が開かれている間、サン・ピエトロ広場は新教皇の誕生を待つ人々であふれかえる。そこには会場内を支配したと同じ野心や思惑があり、少しの毒を含んだ無責任な好奇心があり、そして大小さまざまな信仰心があった。そんな中に、メスキータ神父に率いられた日本の少年たちの姿もあった。
メスキータは思う。最悪の場合、この選挙の結果で、イエズス会のこれまでの努力が水泡に帰すかも知れない。イエズス会の東洋布教独占に対する他修道会の批判の声は高い。特にフランシスコ会やドミニコ会の修道士たちは、布教権をめぐって何かとイエズス会と対立するところが多い。もしフランシスコ会やドミニコ会の人間が新教皇に選出された場合、イエズス会の東洋布教独占にヒビが入ることは間違いないだろう。
そんなメスキータの思惑をよそに、「教皇様はどんな風に選ばれるんだろう」「会場の中はどうなっているのだろう」「どんな方が教皇様に選ばれるんだろう」と、五人の少年たちの心の中は、そんな素朴な好奇心で溢れかえっていった。
少年たちの物問いたげな眼ざしに押され、ため息とともに、メスキータ神父が口を開いた。
「教皇様の選挙では、枢機卿お一人お一人が一票の投票権を持ち、投票用紙に思い思いの名前を書かれます。記入された用紙は、会場の前に置かれた投票壷の中に入れられます。得票数が三分の二になるまで投票は繰り返され、その都度、投票用紙は暖炉にくべられるのです。決まらなかった場合は黒い煙を、新教皇様が決まった場合には白い煙が……ほら、あの辺りに煙抜きがあって、そこから出るように工夫されているのです。」
メスキータ神父の指さす方向を見ながら、
「アレッサンドロ様も、あの会場の中におられるのですか?」
唐突に、中浦ジュリアンが口を開いた。教皇葬儀のとき、病を押して密かに参加したジュリアンをかばい、誰にも知られることのないよう、馬車でイエズス会まで送るよう手配してくれたのがアレッサンドロ枢機卿だった。騒乱の引きがねにもなりかねなかったのに、そのことをとがめる訳でもなく、表ざたにする訳でもなく、ただ「体を大事にするように」と熱に震える体にローブを羽織らせてくれた。
「もちろん、アレッサンドロ様もおられます。」
「新しい教皇様には、アレッサンドロ様になってほしいなあ。」
「ジュリアン……それは神様の決められることですよ。」
そのときだ。「メスキータ様、メスキータ様」と呼ぶ声がある。声のほうを見ると、一人の修道僧が一通の手紙を手に「メスキータ様、リスボンのロヨラからです。リスボンからです」と、人ゴミをかき分けながら近づいてくる。
手紙は、リスボンにあるサン・ロケ修道院から、日本人修道士ロヨラにより出されたものだった。
ロヨラも天正遣欧使節の随員としてヨーロッパの土を踏んだのだが、彼には使節の少年たちとは別の役割があった。リスボンにとどまり、その地で印刷術を習得すること。それと共に、日本へ持ちかえるべき印刷機の選択に当たること、それがロヨラに与えられた役割だった。
メスキータ神父が封を開けると、印刷術習得の成果を示すべく、日本語をローマ字に置き換えて印刷したロヨラの手紙が出てきた。恐らくは練習のために組んだ版を刷り上げたものだろう。
「これはロヨラさんが印刷したものです。」
メスキータは、それを広げてみんなに見せた。
みんなは、呆然としてそれを見つめた。有馬のセミナリオでローマ字は習ったものの、それを同じ仲間が、自分の伝えたい思いを活字として印刷している。
「なんて書いてあるんですか?」
「マルチノ、読んでごらんなさい。」
メスキータの差し出す手紙を、原マルチノが受け取った。

読み進めるにつれてマルチノの目が輝きだした。
「マルチノ、なんて書いてあるんだ。早く話せよ。」
「印刷機購入の目処が着いたようです。手紙によると、商売がうまくいかずリスボンを逃げ出した印刷商がいるようで、その残された印刷機を安く買うことができるようになったとあります。それも二台、おまけに活字のセットまで三セットも手に入るようです。」
「もう手に入ったのか?」
「まだのようです。裁判所の手続き的なものがあるようで……それでも、私たちがリスボンに帰ってくるまでには何とかなりそうだって……。」
「俺にも見せてくれよ。」
千々石ミゲルが手紙を取ろうとしたときだ。あたりが騒然とし、集まった人々の中から喚声があがった。
「白い煙が上がっています。」
「新しい教皇様が決まったんだ……!」

リスボンの印刷業者は、商売がうまくいかず逃げ出したわけではなかった。異端の密告で工房が捜索され、印刷原稿の中からルターの著「キリスト者の自由」のラテン語原稿が発見されたのだ。七十年前、宗教改革の発端となった問題の書であり、このため印刷の親方や逃げ遅れた職人たちが捕らえられ、厳しい拷問の末、異端のかどで火あぶりにされた。
ところで日本の少年たちが喜んでいる問題の印刷機は、このとき、工房から没収された印刷機で、親方や職人たちと共に燃やされる筈だったのを、イエズス会の働きかけで日本に渡ることになったものだ。
もちろん日本の少年たちは、そんなことは知るよしもない。今の少年たちにとって大事なことは、一体、誰が新教皇としてあのバルコニーに顔を出すのか……そのことだけだった。サン・ピエトロ広場に集まった人たちの好奇心の渦の中では、それ以外のことはすべてが無意味に思われた。

しかし、煙が出始めてもう一時間近くにもなるというのに、中央バルコニーはまだ固く閉ざされている。あの煙は間違いだったのか。ひょっとして黒い煙が光の加減で白く見えただけなのかも。
長い一日が終わろうとしている。陽もようやく翳りだし、同じように人々の好奇心にも陰りが差しだした頃、やっとサン・ピエトロ大聖堂の中央バルコニーの窓が開かれた。
皆の視線が中央バルコニーに集まる。
「アレッサンドロ様だ!」
中浦ジュリアンが、うれしそうに声をあげた。
バルコニーに現れたのは、アレッサンドロ枢機卿だった。彼は集まった人たちを見渡し静寂が訪れるのを待つ。
やがて静まり返ったサン・ピエトロ広場に、アレッサンドロのよく通るラテン語の声が響き渡った。
「良い知らせがあります。第二二七代の教皇が生まれました。」
その瞬間、座っていた人々は立ち上り、拍手がわき起こった。修道女たちは互いに喜びの抱擁を交わし、歓声が広場いっぱいにこだました。そして七時二十三分、赤いマントをまとった枢機卿団と、儀典長の司教に付き添われて、新教皇がバルコニーに姿を現わした。
フランシスコ会のフェリーチェだ。
今にも死ぬかと思われていたフェリーチェが新教皇に選ばれた。時間稼ぎに選ばれたことは誰の目にも明らかだった。ところが……である。新教皇に選ばれた瞬間、今にも死にそうに腰を屈めていたフェリーチェが、背筋を伸ばし大きな声を張りあげ「テ・デウム」を唄い神に感謝しはじめた。先程までの様子とは打って変わって、水を得た魚のように、死にそうなはずのフェリーチェ枢機卿が、活力に満ちあふれた新ローマ教皇としてよみがえったのだ。
集まった枢機卿たちは思った。フェリーチェにいっぱい食わされたと……。

真新しい白の帽子と白のマントも鮮やかに、フェリーチェは、新教皇シクストゥス五世として、やさしい微笑を浮かべながら集まった人々に教皇として最初の祝福を与えた。大聖堂の鐘が鳴り始め、それを合図のようにローマ市内の約四〇〇近くの教会の鐘がいっせいに喜びを知らせ、祝った。
聖なるつむじ風と呼ばれたシクストゥス五世の改革が、今、始まろうとしていた。



あれはフェリーチェ(シクストゥス五世)が、まだ二十二才の頃だ。彼がシチリアの田舎道を、他のフランシスコ会士たちと列をなして歩いていると、正面から一人の男が近づいてくる。男は列をかき分けるようにして進んでくると、いったい何事かといぶかるフェリーチェの前にひざまずき、
「あなたは、フェリーチェ・ペレッティ・ダ・モンタルト、アンコー村の近くで生まれ、羊飼いをしておられた方……」
フェリーチェは、男が、てっきり自分の子供の頃を知る故郷の人間だと思った。
「どなただったでしょうか? でも、どなたにせよ、まずは自分のような若輩の修道士にひざまずくのはやめてください。」
「いいえ、聖下の前ではひざまずかないわけにはまいりません。あなた様は、やがてローマ教皇の座にお就きになる方……」
「………………」
「いぶかるのもごもっともです。私の名は、ミッシェル・ド・ノストラダムス、やがてわが名も聖下の御前に届くでありましょう。」
男は、それだけ言うと、うやうやしくその場から離れていった。
ノストラダムスが、トゥールーズの異端審問所からの出頭命令を無視し、フランスからイタリアへと放浪している最中の出来事であった。これが、ノストラダムスとシクストゥスの、最初で最後の出会いである。
……が、この日から、フェリーチェの心に大きな野心の灯がともることとなり、その野心が疼くたびにノストラダムスの顔が浮かび上がってくることともなった。
一つの予言によって、フェリーチェの心の中にノストラダムスが住み着いてしまったのかも知れない。
そして今、その野心がかなえられた。
ノストラダムスの名もまた、世に現れ始めていた。メディチ家からフランスへと嫁いだカトリーヌ・ド・メディチスの信任あつい予言者として……。

戴冠式も無事終わり、今日は日本の少年たちが別れの挨拶にくることになっている。シクストゥスは思った。
「こうしてローマ教皇になれたのは、この私が神に選ばれたからだ。決してあの男の予言のせいなどではない。神が私を必要としたからこそ、私は、ローマ教皇の座に就いた。まして異端の臭いをぷんぷん漂わす、あのノストラダムスとは関係のないことだ」と。
「私は神に選ばれたのだ。神は、私に仕事をせよとおっしゃっている。おまえにしかできない仕事をやり遂げるのだと語っておられる。神が私を必要としておられるのだ……」

「教皇様」
「…………」
「教皇様、日本の使節たちが別れの挨拶に参上いたしました。」
侍従の言葉が、シクストゥスの思いに終止符を打った。


聖なるつむじ風

ローマのもう一つの顔をご存じだろうか。
我々がカトリックの聖地として、円形闘技場に代表される古代ローマの遺跡都市として、 はたまたファッションやショッピングの聖地として知る以外に、ローマは、その地下にとんでもない世界を抱えている。
たとえば「ローマの休日」で有名な「真実の口教会」。その前柱廊壁に紀元前四世紀頃の下水口の蓋と思われるものが埋め込まれている。このレリーフの顔は、嘘をついた人間の手を噛み切るといわれ、中世に、妻や夫の貞節を試すために使われていた。
正式には、サンタ・マリア・イン・コスメディアン教会というが、この地下に古代ローマの地下遺跡が広がっている。もともと地下にあったのでなく、古い都市の上に新しい都市が造成されたため、時代が層を成すことになってしまった。
コロッセオの西に位置するサン・クレメント教会に至っては、その地下が三層になっており、下へ降りる都度、時代も下っていくという。
まるで歴史の百貨店――地下二階はミトラ教神殿跡および古代住居跡、地下三階は、ネロ皇帝によって放火されたローマの都市跡でございまーす、と言ったところか。
ローマには、我々が知らないそんな地下世界が無数に広がっており、そのいくつかが公開されているが、むろん観光ガイドには紹介されていないし、その全貌が明らかになっているわけでもない。
ローマで地下鉄工事が進められないのは、このためだといわれているし、工事の際に、そんな遺跡にポッカリ出くわすこともあるという。
ローマの地下迷宮、それは空間的な迷宮を意味するだけでなく、時間的な迷宮を意味するのかもしれない。
康男が迷い込んだのも、そんな時間の迷宮だったのかも――。

――金縛りから解放された康男は、思わず闇雲に走り出してしまった。
(あれは何だったんだろう。)金縛りで身動きのとれなくなったとき、まるでモザイクがかかったような映像が、康男の心の中をぎこちなく動いていった。
棺をこの地下墓地へ運び込んでくる人たちの行列。
聖職者と思われる人たちが、両脇に並んだテーブルに向かい合って座っている。
顔は見えないのだが、なぜか日本人と分かる子供たちの顔。
そんな映像が、因果関係もなく、康男の脳裏をフラッシュしていく。
意味のない恐怖が康男にのしかかってくるのだが、身体は硬直状態で逃げることもできない。
だから、金縛りが解けたとき、何の考えもなく思わず走り出してしまった。
どれぐらい走ったのか分からない。
思わず何かにつまずいた。
低い仕切状の塀にぶつかり、その向こう側に転がり落ちたようだ。
そこで我に返った。
(落ち着こう。こんな闇の中を走り回ったら、どこへ行ってしまうか分からない。)
康男は、しばらく動かずその場に座り込んでいたが、
やがて、仕事用にとペンライトを持ち歩いていることを思い出した。
胸ポケットへ手をやるが――
(ない! どこへ行ったんだろう。)
転んだとき、落としたに違いない。康男は手探りで当たりを探すが、見つからない。
次第に焦る気持ちが高じ、またパニック状態に陥ろうとしたとき、手が小さな冷たい感触を探し当てた。
ペンライトがこんなに明るいと思ったことはなかった。
しかし、そのペンライトの明かりに照らし出された世界は、さきほどの観光客のために明るく装われた地下通路とは一変していた。



そこは、地下牢のような閉ざされた空間――正面に、腐りかけた木の扉。右手横に、石の階段が上へと延びている。
階段を上ってみると、石畳の狭い空間がひろがっており、階段はそこから直角に曲がる格好で更に上部へとつながっている。
どうしてこんな空間に落ち込んだのかは全く見当がつかないし、つじつまも合わない。でも、この階段を上がっていきさえすれば、なんとか地上へ出られそうだ。
そう思って上り詰めた石の部屋には、やはり、重い木の扉が立ちふさがっていた。
押してみた。引いてみた。叩いてみた。
そして、叫んでみたが、扉はビクともせず、当たりは物音一つせず静まりかえっていた。
いや、違う。耳を澄ますと、かすかに水の流れる音がする。
康男は、水音に誘われるように、最初の部屋まで降りてきてしまった。
音は、あの腐りかけた木の扉の向こう側から聞こえてくる。
近づいてみると、木の扉には引き手もついていない。中から開けるようにはできていないようだ。指の差し込める隙間はないかと探すのだが、
――あった。
扉の一番下の角が腐っていて、そこから手を差し込める。手を差し込んでおいて、指をかけ、引っ張ってみた。力を更に入れると、バキッと音がし、いきなり扉が内側に開いた。
水音がいきなり大きくなった。
下水道だろうか。水が流れる片側に一人がやっと通れるような狭い通路が付いている。
康男は、ためらいがちに、その通路を水の流れる方向に沿って歩き始めた。
水はテヴェレ川に向かって流れていると思った。なぜか、テヴェレ川に出る直前に地上へ出られるような気がしたのだ。



シクストゥスは新教皇就任に際し、日本の使節たちに拝謁を許し、その席上、日本の教会に対しては全面的な援助を約束した。これによってイエズス会総長アクアヴィーバやメスキータ神父の危惧は、ようやくその一端が拭われたことになる。
四人の使節はローマの市民権を与えられ、その日の午後には教皇から勲章をいただく叙勲式も無事終了した。
そしてローマを離れる前日、教皇への暇乞いの謁見が許された。
シクストゥスは、使節に対し、金銀仕立ての刀剣やビロード制の帽子等の贈答品と共に大友・有馬・大村の九州諸大名への正式返書を託し、更に二十年に限り日本の教会やセミナリオに、年額六千クルザードの援助を約束した。
いよいよ別れ際になって、日本の少年たちを代表して伊東マンショが教皇の数々の好意に礼を述べると共に、リスボンから持ち帰る印刷機と活字セットのことを語った。
「教皇様、おかげで、私たちは印刷機を手に入れることが出来そうです。また仲間の者がリスボンで印刷術も修得しました。これで神の言葉を日本に広めていきます。いつか日本の言葉で、聖書を──イエス様の御生涯を伝えられればと思うのです。」
その言葉が、シクストゥスの心に一つの衝撃となって走った。
少し前まで、「聖書」はラテン語以外の言葉に翻訳されてはならなかった。それどころか、聖職者以外の者が「聖書」を書き写すことさえ禁じられていた。
それが宗教改革を経て、ルターをはじめとするプロテスタントたちによって、「聖書」はドイツ語に翻訳され出版された。一部の人にしか伝わらないラテン語でなく、誰にでも分かる母国語で書かれた「聖書」──この「聖書」の翻訳によって、「聖書」が誰にでも読まれるようになったことはもちろんだが、それはドイツ語自体の完成にもつながっていった。
これに引き替え、カトリック側のラテン語聖書、つまり「ウルガタ」と呼ばれる聖書は、写字生たちの誤写や写し漏れが積み重なり、それが改善されないまま今に至っており、プロテスタントたちへの対抗上からも、早急に改訂版の発行が要求されていたのだ。
しかし他国語への翻訳ということになると、まだまだ抵抗は多い。そんな中で、シクストゥスは、少年たちの言葉から神の声を聞いたように思った。日本の少年たちの印刷にかける夢を聞きながら、シクストゥスには、その言葉の中に自分のなすべき使命を見いだせたように思えた。
「君たちは神の言葉を日本の言葉に移したいという――
立派な志だ。世界に神の言葉を伝えるためには、神の言葉をいつまでもラテン語だけの世界に縛っておいてはいけないのかもしれない。
しかし、だからこそ、その元となる立派なラテン語の聖書を、今こそ完備しなければならない。完全な聖書を世に残しておくことこそ、私に与えられた仕事のように思う。
君たち日本の少年が、その使命に気付かせてくれた。」
そう言ってシクストゥスは、少年たちを一人ひとり抱きしめ、必ず立派な聖書を完成させることを約束したのだった。
こうして使節一行はローマを離れた。

それからのシクストゥスは、無我夢中だった。まるで自分の中にある何かの影を追い払うかのように、必死で働いた。
(私は神に選ばれたのだ。ノストラダムスに選ばれたのではない――。)
シクストゥスは、五年間という在位期間に、サンピエトロ大寺院のドーム建設を完成させ、数百人もの人足を使いオベリスクを現在のようなサンピエトロ広場の中央に移動させ、ヴァチカン図書館を建て、更にはローマの町への給水のため、はるか二十マイルものかなたから谷と丘を抜ける水道を建設するなど、五十年分の仕事をしたと言われている。
その中で最大の仕事が、ウルガタ聖書、つまり教会が拠り所とするラテン語版聖書の改訂作業であった。
四世紀、ヒエロニムスの労作とされるウルガタ聖書は、時代が下るにつれ、写字生の写し違い、読み違いが増え、印刷機が登場すればしたで、印刷するごとに、版を重ねるごとに誤字誤植が多くなってきた。宗教改革が始まるや、プロテスタントは自らの改訂版聖書を持つようになり、カトリックにとっても、信頼に値するウルガタ聖書を持つことが至上命令となっていたのである。
これをたった一人で行おうとしたのが、このシクストゥスだった。
在位三年目、学者たちが提出した決定稿が気に入らず、シクストゥスは三百語からなる勅書を発し、学者たちを退け
「教会が拠り所とすべき聖書に関する問題を決定するにふさわしい唯一の人間は、教皇、すなわち私である」と宣言した。
要は学者たちの仕事が気に入らず、シクストゥスは、ほとんど一人でこの仕事に没頭し、わずか八ヶ月で改訂版を仕上げてしまった。
こうしてできた初稿だったが、フォリオ版(全紙二つ折り版)の初校を受け取った教皇は愕然とした。今までより誤植が多くなり、しかも、聖書の章と句の配列において、おそらく不注意から、すべての章句を落としてしまっていたのだ。
シクストゥスは時間の浪費を避けるため、みずから訂正作業にとりかかった。インクで小さな紙切れに訂正個所を書き付け、誤植の上に貼り付けていく。印刷業者は次から次と出てくる訂正に、夜を日に継いで働く竜巻スタイルを余儀なくされ、初稿完成から更に六ヶ月を要してこの聖書の改訂作業は一段落を見た。
シクストゥス五世の大勅書は言う。
「充溢せる使徒の力により、ここに宣告し、宣言する。この版は――主からわれわれに与えられた権威によって認可されたものであり、したがって真実かつ合法的なるものとして受け入れられねばならず、公共的ならびに私的な論争、説教、解釈において、疑問の余地なく拠り所とされねばならない」と。

こうして聖書が完成した四カ月後の一五九〇年八月二十七日、シクストゥスは、カピトールの丘の鐘に送られ、この世を去った。天正遣欧使節の少年たち(もう少年とは言えないだろうが)が長崎に帰着した一月後のことである。

その夜、ローマの町の人々の多くは、突然巻き起こった猛烈な嵐に、眠れぬ長い一夜を明かしたという。まさに、つむじ風と呼ばれた教皇にふさわしい幕切れではあった。


転びバテレン了伯

1645年 長崎
九介は不思議に思った。捕らえられてもう一月になるというのに、ろくに取り調べもされない。捕らえられてすぐ絵踏みの場に引き出されたものの、絵踏みをさせられたわけでもない。
事の発端は、長崎で一人の盗賊が捕らえられたことから始まった。男は観念したものか、四年にわたって重ねてきた盗みの数々を神妙に答えはじめた。記憶は驚くほどに鮮明で、どこで何を盗んだのか、細かな明細まではっきりと覚えており、取り調べの人間が舌を巻くほどだった。そんな盗みの記憶の中に、南蛮菓子を商う店から盗み出した奇妙な書物の記憶があった。屋根裏に隠されていた包みを、何かいわく付きのお宝だと盗み出したまではよかったが、開けてみれば南蛮文字が描かれた分厚い書物。
「あれは南蛮の伴天連のもんに違いなか。どだい、あげなもんを盗んだのが間違いのはじまりじゃった。」
男は伴天連の魔法をおそれ、処分に困って諏訪大社へ捨てた経緯を事細かに語った。
この申し述べによって、詮議は、男が盗みに入った南蛮菓子屋「加津佐」におよび、店の主人九介と、その妻千代がキリシタンの疑いで捕らえられるに至ったのだ。

お白州では、ぐるぐる巻きに縛られた九介と妻の前に、一枚の銅板が置かれた。そこには、幼な子イエスを抱くマリアの姿が彫られている。その時、九介は、
「これで終わった。もう逃げ隠れしなくてもいいんだ」と腹をくくった。
「お姿を踏めない以上、どんなきびしいお取り調べを受けるか知れたものではない。自分にどこまで耐えられるか分からないが、女房と共に、頑張れるだけ頑張ってみよう……」
そう思った。
ところが不思議なことに、その日は絵踏みを強要されることもなく、そのまま牢へと移された。それも桜町の牢屋敷ではなく、立山役所の座敷牢に二人して入れられたのだ。きっと他の囚人に教えを説くのを警戒しているのだろう、それぐらいに思っていたが、あれから一月あまり、ずっとそのままなのだ。役人が取り調べに来るわけでもなく、朝夕二度の食事が運ばれてくる以外は、接触してくる者とてない。
自分でも張りつめた気持ちが次第にゆるんでくるのが分かる。もしや、捕らえられたこと自体が何かの間違いではなかったのか……。
しかし、妻は言う。
「お役人方は、こちらの気持ちのゆるむのを待っておられるのです。安心させておいて、急にきついお取り調べをされるに違いありませぬ。おまえ様、何があっても教えを捨ててはなりませぬぞ。夫婦して見事こらえきり、共にパライソへ参りましょうぞ。」
こんな話をするとき、妻の口調はいつになく厳しくなる。
九介は南蛮菓子を作らせれば、長崎でも彼の右に出る者はいない。長崎代官村山当安の家に奉公していた頃、当安から戯れにカステラづくりを教えられた。
村山当安と言えば、持ち前の機知と南蛮菓子いわゆるカステラづくりの技で、肥前名護屋滞陣中の秀吉に取り入り、長崎外町代官の地位まで手に入れた男だ。九介は、そんな当安から手ほどきを受け、持ち前の器用さも幸いして、たちまち南蛮菓子づくりに精通するようになった。以来、当安からも重宝がられ、当安の肝いりで店を構えるまでになった。
そのとき、「一家を構えるのに女房なしでは」と紹介されたのが、今の妻というわけだ。名は千代、洗礼名をカタリナという。彼女を慕う信徒衆は、「カタリナ様、カタリナ様」と、彼女のことを呼びならわしたものだ。しかし、九介にはそれが何か面はゆく、今も「千代」としか呼ばないし、自分のことも「ドミンゴ」などと呼ばれるのを嫌う。
彼女の父は後藤宗因、町年寄り後藤家の縁戚に当たる。キリシタン全盛の頃は、南蛮渡りの印刷術を習得し、長崎にキリシタン版の印刷所を開いていた。あの頃は、長崎外町の代官から内町の乙名衆まで、町中こぞってキリシタンという状態だったが、それだけにキリシタン版の印刷をしているということで、人からは一目置かれていた。それもイエズス会の宣教師たちが、その複雑さゆえにあきらめたという日本語の活字化を、日本人の手で成功させたというのだから、いきおい宗因に長崎中の熱い目が向けられたのも当然のことだった。娘の千代も、幼い頃からキリスト教に親しみ、日本語版の「ドチリナキリシタン(公教要理)」や「サントスの御作業」などは空で暗じているほどで、このため禁教令以降は、ある日本人パードレの薦めもあって殉教の道を選ばず、夫婦共々に隠れとして密かに教えを説いた。
九介は、そんな千代を嫁にしたのだ。後藤家という名家の出の上に、菓子屋の女房にしておくにはもったいないような美人だった。今でも五十を越えたというのに、何か若やいだ空気を漂わせ、生活を感じさせるところがない。家柄を笠に着ることもなく、普段は至って慎ましやかな質だが、ことキリシタンの教えのことになると人が変わったようになる。このことに関しては九介も頭が上がらなかった。
たしかに千代の言うように、井上筑後守様が宗門改め役となって以来、キリシタンに対しても、かつてのような目を覆うようなお仕置きはなくなった。パードレが捕らえられても、奉行所では拘禁するだけで好きにさせておくという。殉教を覚悟していたパードレたちも次第に気がゆるみ、「ひょっとして助かるのでは」、そんな希望さえ持つようになる。そんな折りを見計らい責められると、人というものは弱いもので、少しの拷問でもまいってしまう。
千代のいうように、二人を自由にさせているのも、そのためかも知れない。キリシタンに関しては、殉教者をつくらないこと、それこそ井上筑後守様が長崎奉行所に与えた最優先にするべき方針だった。
「心しなければ……」と、九介は思った。

そんなある日のことだ。役人が二人の着替えを持参し、「後刻、迎えにくるので着替えておくように……」という。
やがて、町着に着替えた二人は牢から出され、役人に導かれるまま、奉行所の裏門を出、近くにある西勝寺という寺へと連れてこられた。役人は若い僧に二人を託すと、あろうことか奉行所へ引き返していってしまった。その僧も、事態が飲み込めず唖然としている二人を庫裡へ案内すると、「しばらくここでお待ちなされ。後ほど、了伯殿からお話があるそうです」と、言い置き去っていった。



読者登録

DEPさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について