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ローマのにわか雨

1968年4月 ローマ
オレンジ色の市電が通り過ぎてしまうと、カメラはその向こうにポポロ門の姿をとらえた。
ポポロ門、正式にはフラミニア門という。その昔、北ヨーロッパからローマを訪れる巡礼たちはフラミニア街道を通り、このポポロ門からローマへ入ることになる。今ではポポロ門を一歩出れば市電やタクシーが行き交い、往時の面影はないが、かつて北イタリアの田園風景の中を旅してきた巡礼は、このポポロ門にたどり着き、門の向こうに広がるローマの偉容に「神の国に来た!」という感慨にひたることになる。
カメラはさらにポポロ門へと進み、その三つあるゲートの中央アーチをくぐり抜けポポロ広場へと出る。 広場の中央には、エジプトから運ばれたというオベリスクがそびえ、その向こうには双子教会のドームと、巡礼たちをヴァチカンへ導くための三本の通りが、絵はがき的な均衡を作り出している。
カメラが、オベリスク横手に造られた噴水にズームインすると、若い男が噴水の縁に上ってカメラを構えている。オベリスクの台座には所在なく腰を下ろす若者たち。噴水の周囲には手を取り合うアベック。
……と、広場の路面にポツンと大きな雨粒がはじけ、黒いシミを作った。そのシミがアッという間に広がり、昼のように明るいローマの夕暮れが、にわか雨によってたちまち真っ暗となっていく。
ポポロ門の三つのゲート、双子教会のそれぞれの柱廊、そしてポポロ教会の入り口と、雨をよけられるわずかな場所を探して、観光客やローマの市民が走る。カメラはその中から若い日本人女性にズームアップする。彼女はムダと知りつつもデイバックを頭にかざし、浅い水たまりとなった路面に水しぶきを上げながら、走る、走る……
彼女は、やがて自分の選択が間違いだったことに気づく。
とっさに目指したポポロ教会の入り口に、雨を避ける廂らしいものはなかった。ポポロ門を目指すか、双子教会を目指せばよかったのに……。彼女は扉のわずかなくぼみに張り付いて、少しでも雨から身をかばおうとする。
……と、その背中が、思わず扉を押し開いた。
中に入るや、激しい雨音がぴたりとやんだ。
そこは暗くて狭い空間、横手にはもう一つの扉がある。ためらいがちにその扉も開けてみた。広い静かな空間に広がる夕べのミサの祈り。ラテン語の響きが、静けさをいっそう際だたせている。
その静けさに異議でも唱えるかのように、彼女のお腹の虫が「クーーッ」と鳴った。
参拝者たちは、広い礼拝堂の前の方の席に固まっている。静けさを破る無粋な音に気づいた人たちはいないようだ。それとも聞こえない振りをしているのだろうか。
彼女は空腹に耐えかねたのか、ソーっと抱えたデイバックの中を物色する。
ガサガサ、ガサガサ、それでも参拝客には聞こえない。
やがて、チョコレートの銀紙をめくる音、まだ参拝客には聞こえないようだ。
(大丈夫みたい、神様だってこれくらいなら許してくださるわ!)
自分に言い聞かせながら、ソーっと口許へチョコレートを運ぶ。
口許のアップ。
その途端、いきなりチョコレートを噛み割る甲高い小気味よい音……
参拝者の顔が一斉に振り向く。そして一斉に人差し指を口に当て
「シーーッ」
そこへ、チョコレートのアップと商品名のクレジットが挿入される。
クレジットの後は、彼女を中心に参拝客や神父までが雨上がりのポポロ広場に集まり、笑いながらチョコレートをかじる記念写真風カットで締めくくる。
背後の虹は合成するしかないだろう。

のしかかってくるような不安に苛まれ、康男は、真夜中に目を覚ました。
時計を見ると、まだ午前二時。引き続き眠ろうとするのだが、目は冴えるばかりで、どうしても眠りに落ちることができない。
(撮影は順調に終わったというのに。何だろう、この不安は……)
康男は、不安の正体を探ろうと、眠れぬままに今日一日のCM撮影の流れを頭の中で反芻してみた。

当時としては異色の企画だった。ローマといえば、誰もが抜けるような青空を連想する。多くの写真や映画が、そんなローマを紹介してきた。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」、あの白黒の画面にさえ、多くの観客が抜けるような青空を感じたことだろう。それをこのCMでは、ローマの雨をテーマにするという。しかもCM音楽の類は最後のシーンまで使わず、雨の音と、チョコレートをかじる音、荷物をまさぐる音、そして静けさ、そんな効果音だけで構成するという。
確かに面白いと思うし、ローマが観光シーズンに入る三月の空模様は、ローマっ子と同じで大変移り気だ。今晴れていたかと思うと、突然、土砂降りの大雨が駆け抜ける。山本ディレクターは、おそらく新婚旅行でこの経験をしたに違いない。それをCMに取り込もうというのだが、今は四月、そんなに都合良く雨が降ってくれるだろうか。一部のカットは人工雨でごまかせるだろうが、ポポロ広場の全体をとらえる雨のカットとなると……この撮影、下手をすると、天気待ちならぬ雨待ちの長丁場になるかも知れない。でも海外ロケでそれは許されない。CMには予算というものがある。スポンサーがこの企画が気に入ったからといって、制作費をいくらでも使いなさいということではないのだ。
そんな心配をよそに、撮影初日から「好天」ならぬ「にわか雨」に恵まれた。
その日は、ポポロ教会内部の撮影許可の関係で、どうしても午後四時までに内部の撮影を終えてしまわないといけない。そこで、エキストラの揃う十時までは、ポポロ広場の外のカットを念のために押さえておこうということになった。
もちろんディレクターは、「いくら日の暮れるのが夜の八時過ぎになるローマだといっても、朝の光と夕方の光は違う」と譲らない。しかし、プロデューサーやスポンサーの意向を酌む制作進行としては、やはり少しでもカメラを回してほしい。
そこで、本番は内部の撮影が終わった後にし、「あくまでもテストカットや予備カットを押さえておく」ということで納得してもらった。
このことが幸いした。カメラマンが、重い三五ミリカメラを肩に乗せている最中に、突然、にわか雨が降り出したのだ。こうなったら朝の光もヘッタクレもない。スタッフ一同(用のない藤プロデューサーまでが)、無我夢中で雨の中をかけずり回った。
「雨が上がる前に」「雨が上がる前に……」
こちらの焦る気持ちを察したのか、雨は上がる気配もなく降り続いた。
しかし、撮影が終了して時計を見ると、なんと一時間しかたっていない。まるで三、四時間が過ぎたような感じだった。スタッフの顔にも、スポンサーの顔にも、びしょ濡れになったモデル嬢の顔にも自然と笑みがこぼれ、不思議な一体感に包まれた。
こうなったら言葉はいらない。まるで何かに取り憑かれたかのように、みんなが一つになって動き、雨の部分を除いて二日半を想定していた撮影が、まる一日で終わってしまった。しかも一番心配していた、ローマの雨までカメラに納めて……。

何も心配することはない。みんなうまくいった。まる一日の撮影で、ローマロケは完了してしまった。ディレクターの山本さん、カメラの広瀬さん、ライトの奥田さん、それに鬼フジの異名を持つプロデューサーの藤さんまでが、「今回の制作進行はよくやってくれた」と、天候に恵まれたことまで制作の頑張りみたいに褒めちぎってくれる。
しかし、日本へ帰る飛行機は、一番早い便で明後日まで待つしかない。カメラマンも撮影結果には自信を持っており、ディレクターも撮り足しや予備カットは必要ないという。藤プロデューサーが大英断を下した。
「明日はローマ観光だ!」
夜八時、ガイドと相談したところ、グリーンラインツアーズは八時四十五分までやっているという。撮影終了後、みんなが解放感と充足感に満たされてイタリアの夕食を楽しんでいる間、私は日本人通訳と二人で、ファリーニ通りにあるグリーンラインツアーズを訪れた。
ここもOK! ガイドを含めて十名なら、マイクロバスを出さなくても、明日の正午に出る定期観光バスに乗れるという。

すべてがトントン拍子だった。やることなすことうまくいく。
喜んでいいはずなのに、何か不安でたまらない。どうしても眠ることができない。

康男の身に異変が起こりだしたのは、彼がこの撮影の制作進行に選ばれ、ローマロケが決定した頃からだ。
康男としては大乗り気だった。
(これで近世日欧交流史のメイン舞台を覗くことができる。)
彼は大阪のCMプロダクションで働くかたわら、ある夜間大学の史学部に籍を置いていた。その卒業まであと一年。卒業後は、契約ではなく、晴れてこのプロダクションの社員として迎えられるだろう。後は卒業論文を完成させるだけだ。
彼が卒論に選んだテーマは、『近世長崎における朱印船貿易とキリシタン迫害』。江戸時代初頭、日本におけるキリスト教の盛衰を、宗教史としてではなく、経済史の側面から捉えようという試みだ。
その調査の中で、浮かび上がってきた一人の人物――トマス荒木――日本人としてローマへ留学し、パードレとなって日本へ戻ったものの、帰ってきた頃には日本はキリシタンは禁止。彼も例外に洩れず捕らえられ拷問にかけられるが、多くのキリシタン信徒がヒステリックな拷問に屈せず殉教していった中、彼だけはキリスト教を捨て、逆にキリシタン詮議役人として生きる道を選んだ。しかも詮議役人となってからもキリシタンに立ち返ろうとしたが、この時も穴吊りの拷問に屈し、再度キリスト教を捨てた。
キリスト教を捨てることを「転ぶ」というが、二度も転んだのは、おそらく、このトマス荒木ぐらいのものだろうか。
康男は、トマスについては卒論で展開しようとする論旨とは直接関係ないのだが、なぜか気になって仕方がない。また、こんな男のことなど触れたくなんかないと思う。ところが、そう思えば思うほど、再三再四、調べている資料の上にこの男が表れてくる。資料に表れるたびに、また自分の意識にのぼってくるたびに、康男は、トマスを否定し続けてきた。
「この男だけはイヤだ、こんな人間だけにはなりたくない」「こんな男のことなど考えたくもない」
トマスの弱さが苦しかった。そのトマスの弱さを非難するたびに、まるで自分自身が非難されているような後ろめたさを感じた。「自分はちがう」、そう思おうとすればするほど、ますますトマスという人間が嫌いになった。許せなくなった。
康男はトマスを否定することで、自分はちがう、トマスのような人間ではないと思おうとしたのかもしれない。
ローマロケが決まった頃から、康男はよく金縛りにあうようになった。ウトウトしかけたとき、何かが身体の上に覆い被さってくるような感覚におそわれ、急に身動きができなくなる。もがこうとしてもどうにもならず、やがて映像までが浮かんでくる。
薄暗い石造りの地下牢のようなところに一人の男が蹲っている。ヨーロッパ人のようだ。男は落ちくぼんだ目で、じっと康男のほうを見ている。
同じような金縛り状態に何度かおそわれた。やがて夢にまで現れるようになった。夢の中で、康男はいろんな町をさまよっている。それはヨーロッパの町並みだったり、中東の乾いた土壁の町並みだったりするが、共通しているのは、どれも無人の町だということ。その町並みをさまよいながら、康男はいつの間にか、地下室へ下りる階段を見つけ、「行きたくない」「行きたくない」と思いながらも、身体は、あの地下牢へと向かっていく。あの男が待っている地下牢へ……。そして、寝汗ぐっしょりとなって目が覚める。
ローマへ来て、仕事の忙しさから、そんなことはみんな忘れていたのだが、今日、ポポロ教会内部の撮影のとき、教会側廊の柱の影に一人の少女の姿を見た。まるで中世の絵画の中から抜け出たような出で立ち。垂れ頭巾が頭を覆い、その白い覆いが整った顔立ちをいっそう引き立てている。
どこかで会ったような、どこかで体験したような感覚。
既視感とでもいうのだろうか。ともかく、あの少女を見てからというもの、またぞろ、あの不安感が再燃した。


グレゴリウス13世の死

1585年 ローマ
この年の四月、ヴァチカンは教皇宮殿の最上階で、一人の老人が息を引き取ろうとしていた。老人は思った。
「八十四年か、思えばよく生きたものだ。ローマ教皇となって十三年、神の僕として、またキリスト教世界の頂点に立って、自分なりにやることはやったと思う。だが本当にこれでよかったのだろうか……。」

教皇は、枕許に集まった枢機卿たちを前に、か細いがしっかりした声で、「自分のようなか弱い人間が、この重任を帯び、今日の今日まで心が揺れない日はなかった。ここに集まった枢機卿の方々にお願いしたい。どうか、自分に対して何か気に障ることがあっても、すべてを心底からぬぐい去り、死を相手に最後の戦いに苦しむ私のために祈ってほしい……」。
そして最後に、キリスト教共和国を枢機卿らに託した。
「私が息を引き取った後は、どんな場合にもその職責を全うするような人間を教皇に選んでほしい」と。
こうして老人は、苦しいながらも、なんとか教皇としての最後の役割を果たし終え、安心したかのように静かに目を閉じた。
その二時間後、グレゴリウス十三世の崩御が伝えられた。教皇は最後に「日本の少年たちはどうしているだろう」と、実子ソリア公につぶやくように囁き、息絶えたという。老人は、十三年にわたるローマ教皇としての役割から、ようやく解放されたのだ。

教皇が崩御された。控えの部屋に詰めかけた関係者たちにそのことが伝えられるや、人々の心の中に様々な思惑が駆けめぐった。その多くは次の教皇が誰になるかということに関係していたが、中でもイエズス会総長アクアヴィーバの思いは複雑だった。
彼が三十七才でイエズス会総長となり、その就任挨拶にローマ教皇を訪ねたとき、グレゴリオ十三世は叫んだ。「若すぎる」と。
これに対しアクアヴィーバは答えたものだ。
「聖下、ご安心下さい。その点に関しては一年ごとにあらためていきます。」
グレゴリオはアクアヴィーバの機知を愛した。以来、教皇のイエズス会に対する態度は前にも増して好意的なものとなった。そして四年、日本からの少年使節を迎えるに当たって、教皇のイエズス会への期待と信頼はピークを迎え、この年の一月には、イエズス会に日本布教の独占が許されるに至った。
そのグレゴリウス教皇が、あっけなくこの世を去ってしまった。

日本から来た子供たちを葬儀に立ち会わせるかどうか。
伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。それに付き添いのドラード少年。
アクアヴィーバの心の中に、五人の少年たちの顔が浮かんだ。長旅の疲れから病に臥せっている中浦ジュリアン、その看病をしているドラード少年。また今頃は、メスキータ神父に引率されローマの七つの聖堂を巡歴しているだろう三人の少年たち。彼らはこの訃報をどうとらえるだろうか。

少年たちは、遠く日本からメスキータ神父に率いられ、日本の使節団としてこのローマへとやってきた。もっとも、使節と言うより、イエズス会が東洋布教の成果をアピールするために仕組んだ一大デモンストレーションと言ったほうが適切ではあったろう。
当時、日本にはまだ統一政権が確立していない。名門ではあるが、落ちぶれた大名の子供たちを日本の貴公子に仕立て上げ、日本にヨーロッパの文化とその力を紹介するとともに、ローマに対しては、イエズス会の東洋での布教活動の成果を認めさせ布教のための資金援助をあおぐ。
天正遣欧使節は、イエズス会日本巡察士バリニャーノ神父によって、このようにして計画され、大友宗麟ら九州諸大名を名目人に、当時、ようやく日本の中央を制圧した戦国大名織田信長の支援を得て実行に移された。
ローマのアクアヴィーバ、日本のバリニャーノ、この二人の働きにより計画は見事に成功した。教皇グレゴリウス十三世は、日本での初穂にことのほか満足し、少年使節たちを公式謁見し、その席上、日本布教に対する全面的援助を約束した。そればかりか、病に倒れた副使・中浦ジュリアンの身体をことのほか案じ、彼だけを非公式に謁見し、その労をねぎらったほどである。
が、その喜びもつかの間、教皇が危篤に陥り、あっという間に他界してしまった。
次の教皇は誰か? 次教皇が誰になるにせよ、果たしてイエズス会の日本布教に対し同じような援助を取り付けることができるかどうか。イエズス会が日本布教を独占していることに批判の声も強い。これを機に、他修道会が動き出すことは間違いないだろう。しかし、いずれにせよ少年使節たちを葬儀に列席させることは、教皇庁の日本への布教援助を再確認してもらう意味からも、必要なアピールには違いない。
しかし一方で、日本布教区と少年たちのこれからを思えば、参加させるべきではない――そんな思いも出てくる。バリニャーノ神父がメスキータに厳しく注意したことも「見るべきものだけを見せよ。好ましくないものは見せるべきではない」とのことであった。
「この葬儀、何が起こるか知れたものではない。」
アクアヴィーバの不安は、故なきものではなかった。

この頃、ローマは反動宗教改革のまっただ中にある。かつて、ルネサンスという巨大なうねりが、ヨーロッパ中を飲み込み、神に頼るしかなかった中世の無力な人間が、やがて、人の力を信じ、その力を誇るようにさえなった。神の荘厳を現せるのは、他ならぬ人間の力だと、建築や芸術に力を競い、あげくは自然の神秘を探り、その中に神の秘密をも解き明かそうとした。結果、占星術や錬金術、魔術の研究が盛んとなり、人々はギリシャの哲学を求め、貪欲にユダヤやエジプトの神秘主義をも吸収しようとした。
俗に言う人文主義者(ユマニスト)たちの登場である。
この人文主義の流れから、やがて宗教改革が芽を出すに至る。教会の腐敗を攻撃し、人は教会によってではなく、神の言葉「聖書」によってのみ救われるのだと、当時発明された印刷機と印刷術によって、ルターはその主張を展開していった。宗教改革が、カトリック側からの弾圧を弾き返し、当時のヨーロッパ世界に浸透していった背景には、この印刷術の普及を無視することはできない。もし印刷機が発明されていなければ、ルターは早晩、異端者として火炙りになっていたことであろう。
さて、カトリック側からも、この宗教改革に対抗する、いわば反動宗教改革ともいうべき動きが起こってくる。ルネサンス時代のローマ教皇や枢機卿たちの中には、ルネサンス芸術の愛好家やパトロンが数多く存在し、ユマニストを自称する研究者たちさえ存在した。それが十六世紀なかば、反動宗教改革の時代を迎えるや、一転して暗い色調が漂い始める。
一五五五年ローマ教皇となったパウルス四世から始まり、ピウス四世、ピウス五世、そしてグレゴリウス十三世と、どの教皇をとっても、厳格にして頑固、生真面目な正当信仰の遵奉者であり、ローマ異端審問所の絶対的な支持者たちばかりだ。
なかでもパウルス四世は、「美よりも徳こそが教皇たる者の関心事であるべきだ」として、その治世には、性的不行跡はこのうえない残忍さで罰せられ、男色者は生きながら焚刑に処せられた。この厳格さが、ローマの市民たちにひどく嫌われ、死去に際しては、教皇の彫像は頭部が叩き落とされ街路を引きずり回されたあげく、テヴェレ川に投げ込まれたという。また、異端審問の行き過ぎを非難されていたドミニコ修道会は凶暴な群衆によって襲撃を受けた。
後に続く教皇たちも似たり寄ったり、ピウス五世は無神論者の追及と処罰に熱心で、ローマ異端審問所の大審問官から教皇に就いた人物で、彼の教皇就任後、異端審問所の権限は増大、その活動範囲は拡大して、その支配がおよばないところは皆無となった。
幸い、ピウス五世の葬儀は事なきを得たものの、ローマ市民の不満が、いつ、はけ口を求めてあふれ出すか知れたものではない。彫像が破壊されるなどましなほうで、遺骸を放り出された教皇さえいたぐらいだ。
そこでグレゴリウスはといえば、一五八二年のグレゴリオ暦の制定や、また教会の世界的伝道の功績者(ローマ学院の創立)であったとはいえ、パウルスに勝るとも劣らない正当信仰の遵奉者ぶりであり、決して市民の評判は芳しくない。それより何より、ピウス四世以来二十五年間、何もなかったことのほうが不気味なのだ。
今回の葬儀では、何が起こるか知れたものではない。その席へ日本の少年たちを立たせて、その席上でもし不測の事態が起これば……アクアヴィーバは思った。日本の少年たちを、この時期、ヨーロッパに連れて来たことが果たしてよかったのかどうか。宗教改革を巡ってヨーロッパは揺れに揺れている。新教側はカトリック教徒を火炙りに、カトリック側はプロテスタントを火炙りにする。フランスではユグノー教徒の大虐殺(聖バルテルミーの虐殺)が起こり、グレゴリウスなどは、それを記念してメダルまで出し、大声でテ・デウム(感謝の聖歌)まで歌い出す始末。そんな中、ローマの市民たちは、宗教的正義などというものは、端から信じていない。厳しすぎる教皇庁に対し不満や反発を募らせるばかりだ。
少年たちを葬儀の場に立たせることは、一歩間違えばキリスト教世界が抱える矛盾に、少年たちを直面させることになるかも知れない。バリニャーノは言った。
「見るべきものだけを見せよ」と……。


サン・ピエトロの闇へ

1968年4月 ローマ
後ろの席に座っている藤プロデューサーが体を乗り出し、康男をつついた。
「オイ、日本語の説明がついてるはずじゃなかったのか!」
バスの前では、明るい紺のブレザーを着込んだ青年が、陽気な英語を振りまいている。
時折起こる笑い声。康男の回りでは日本人通訳だけが笑っている。
康男と藤プロデューサーが同時に日本人通訳を睨み付けた。
日本人通訳は、肩をすくめるばかり。
「なにせ、イタリアは日本のようにきっちり行きませんので……」
「次の停車地で確認してよ。日本語のガイド付きは、英語の倍額料金だよ。」
康男がブツブツ言う。藤プロデューサーも何か言いかけたが、軽い舌打ちだけを残して自分の席に戻った。

やがてバスはサン・ピエトロ寺院へと到着した。

バスがヴァチカンの専用駐車場に停車するや、康男は日本人グループの先頭をきって降りたった。
と……いきなり後ろから
「日本語コースの方ですね?」という女性の声が追いかけてくる。
振り向くと、陽気そうなイタリア人女性がこちらに近づいてくる。
「あなた方、間違えました。イングリッシュコースのバスに乗りました。」
そして後ろのバスを指さし「これからは、あのバスに乗ってください。ほら、日本語でローマ・ヴァチカンコースとフロントガラスに張り紙がしてあるバスです。」
達者な日本語だ。
彼女の背後には、新婚旅行だろうか、若い日本人カップルや、勇敢な日本のおばさんたちのグループが、しっかりと固まって控えている。
なるほど、これで一つ問題が解決したわけだ。
早速、康男等は、その女性の案内に従ってサンピエトロ寺院のエレベーターに乗り屋上まで上がった。サンピエトロからローマの街を一望すると、その景観にクリスチャンならずとも胸が熱くなる。中へ入れば入ったで、ミケランジェロからベルニーニに受け継がれ完成したドゥオーモ内陣の迫力に直撃される。そのあまりの存在感の前に、ガイドの説明も薄っぺらに聞こえる。
上を見れば巨大なドゥオーモが覆い被さり、下を見れば広大な礼拝堂を、豆粒のように見える観光客の群が行き来している。
(ローマだ、俺は今、かつての世界の中心にいるんだ!)
康男はドゥオーモを囲む回廊を一巡すると、クラクラする頭を一振りし、高ぶる心に突き動かされるままに、遙か下に広がる礼拝堂に向かって駆け降りていった。



いち早く下へたどり着いた康男は、礼拝堂の片隅に小さな入り口が開いているのを見つけた。見れば地下へ降りていくコースのようで、先ほど一緒だったアメリカ人観光客たちが、整列して中へと吸い込まれていく。
ローマ教皇たちが眠るヴァチカンの地下墓地へとつながっているのだ。
康男は、その光景に足がすくむ思いがした。
(これって何だよ。イヤだよ、行きたくないよ。まるで夢と同じじゃないか。行きたくないよ。)
康男の足は、彼の思いとは裏腹に、アメリカ人観光客の後ろに付くや、地下墓地へと向かって早くも歩き始めていた。

降りきったところから、かつて、このヴァチカンの主であった教皇たちの石棺が通路の片側脇に続いている。康男にはどれが誰のものなのか分かる術もない。中に眠る教皇の姿を蓋にレリーフした豪華な石棺があるかと思えば、飾りも何もない粗末な石棺もある。石壁には、ここがかつてローマの闘技場であったことを示す表示があり、ところどころ、その当時のままの石壁を残して展示している箇所もあった。

いきなり照明が消えた。
キャーッという叫びは、アメリカ人女性だろうか。別な方角からは「ドン ムーブ!」とか、「ステイクール!」というアメリカ人男性の声が響いてくる。
……停電だろうか。
しかし、こんな闇は初めてだ。墨を流したように、まるで何も見えない。
「ドントムーブ」なんて言われなくたって、こんな地下迷宮で灯りを奪われたら、動こうにも動けるわけがない。動くこと自体が恐怖なのだから……。
康男は金縛りにでもあったように、ひたすらじっとしていた。動けば、自分も含めて何もかもが消えてしまうようで、訳もわからず怖かったのだ。

どれぐらいそうしていただろうか。
気が付けば、いつの間にか、ざわめきが消えている。
光と一緒に音までが深い闇の底に引きずり込まれてしまったかのようだ。
音ばかりか、周りからは人の気配までが消えてしまっていた。
闇の底にただ一人取り残されたような感覚。
――怖い、本当に怖い。
声を出したいのに、喉がカラカラに干上がったみたいで声を出すことも出来ない。
こんなことなら、おとなしくみんなと一緒にいれば良かった。

その頃、上の礼拝堂では(と言っても、三八〇年前のことだが)、グレゴリオ一三世の葬儀の準備が着々と進んでいた。


スイス衛兵隊

1585年4月 サン・ピエトロ寺院
教皇の遺体は、教皇庁式部官の指示で、サラ・デル・パパガッロ(おうむの部屋)と呼ばれる一室に移された。遺体は、ここで近侍の人たちの手で洗われ、香り高い香水で清められる。ついで高価な香油と香膏とが塗られ、そのうえで、教皇の喪服である赤い祭服が着せられる。肩には、パリウムといわれる、権威のシンボルである黒い十字架の付いた白い麻布の肩かけ。頭にはミトラをかぶり、三枚の赤い枕が使われる。すべての準備が整うと、遺体は、棺台に載せられ、教皇礼拝堂に運ばれる。礼拝堂では、参集した聖職者たちによって祈祷が捧げられ、その後、さらに大きな行列がつくられ、遺骸は盛儀を尽くしてサンピエトロ寺院へ移されるのだ。
ここでも祈祷や行願の儀が行われ、遺骸は、中央祭壇の前に柩から出されて安置される。一般の人々に、拝謁し、恭敬し、接吻することを許すためだ。そして、この日から九日間、サンピエトロ寺院は、あらゆる場所が、グレゴリオ十三世の紋章で飾り立てられる。寺院内には、故人を顕彰する祈念碑のような墓標が建てられ、その周囲には、式部官および一般の官職人が、長い大礼服や喪服を着用して立つ。そのほか、参列するすべての人々に、真っ白な蝋で作られた炬火が配られ、灯がともされる。葬儀は、すべてが厳粛で粛々として進められ、その様子は神秘的ですらあった。
しかし、見かけとは逆に、関係者たちの心は、これからの九日間を思うと一時たりとも休まることがなかった。たまりたまった民衆の不満がいつ爆発するか、そのとき、民衆は暴徒と化し、ヴァチカン宮殿の略奪者となるだろう。聖職者たちは、ただひたすら事なきを念じながら、式を進行することとなる。

葬儀の第一日目、教皇の崩御以来、スイスの衛兵に守られ閉じられてきた大聖堂の扉が、一般告別のために開けられた。
青・黄・赤のユニフォームを着用し、まるでおとぎ話の中から抜け出てきたかのようなスイスの衛兵達の表情がこわばる。彼らは、その見かけとは逆に、世界でもっとも獰猛と言われた傭兵集団だ。スイス傭兵の残忍さは、たとえば腕輪を強奪するのに、相手を脅して腕輪をはずさせる等という回りくどいことをせず、いきなり相手の腕ごと切り落としてしまう。そんな噂が立つほど、スイス傭兵のやり口は荒っぽかった。国の貧しさから来るものだろうが、またそれだけに勇猛で命を惜しむことがない。この勇猛さが買われ、ユリウス二世の頃からヴァチカンの衛兵に採用され、以来代々、スイス傭兵が、教皇の身辺警護の任に当たることとなった。ちなみに、その派手な制服はミケランジェロによってデザインされたもので、制服の青・黄・赤はメディチ家の色を表していると言われている。
しかし、そんなスイスの衛兵たちも、この日ばかりは浮き足立って見え、合唱隊の歌声も心なしか駆け足気味に聞こえる。

やがて、一人の枢機卿が中央祭壇に立った。
グレゴリウス十三世の追悼演説を行うためだ。
彼の名は、アレッサンドロ・オッタヴィアーノ・デ・メディチ――この時、四十九才。初代フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の子と言われるが、父に似ずその闊達な性質は、むしろ大叔父にあたるロレンツォ豪華王を思わせるものがある。特に外交に力を発揮し、グレゴリオ十三世の時代、ローマ駐在フィレンツェ大使としてフィレンツェとヴァチカンを結ぶ絆として活躍したばかりか、グレゴリオの教皇特使として新旧キリスト教の対立に揺れるフランスに派遣され、ローマ教会の秩序を回復することに力を注いだ。このとき、同じメディチ家出身のフランス皇后カトリーヌ・ド・メディチの信任を得た。
やがてヴァチカンに戻ってきた彼の存在は、いわば片方に大国フランスの思惑、片方に都市国家フィレンツェの意向を受け、本人の意思に関わらず、陰に陽に教皇庁に大きな影響力を持つ存在となっていた。

アレッサンドロは思った。
「随分と集まったものだ。しかし、ここに教皇の死を悲しんでいる人間がどれほどいるだろうか。教皇に近い人間は、野心や保身の心を隠しこの葬儀に参列しているし、教皇から遠い民衆は、何か事の起こるのを心待ちにしてここに集っている。」
彼は、グレゴリオの事績を語りながら参列者の顔ぶれを見渡した。今朝ほどまでがらんとしていたサン・ピエトロの巨大な空間が、今やおびただしい人の波で埋め尽くされている。まず式部官はじめ各国使節や貴族たちの見知った顔ぶれが占め、次第に名も知らぬ民衆がそのかたまりに混じり、後ろのほうは顔も判然としない人の群が、聖堂内から扉の外のサンピエトロ広場へと溢れだしている。
アレッサンドロは参列者席の前方に目をやった。そこには正装した日本の少年たちの姿があった。少年たちはメスキータ神父に伴われ、ちょうど式部官たちの列から使節団の列へと移っていくあたりに沈鬱そうな表情で直立していた。
「少なくとも、教皇の死を悼む人間がここにはいた……」
アレッサンドロは思った。そう思って四人の少年たちのうち一人が欠けていることに気付いた。
「ジュリアンは、まだよくないのだろうか?」

彼が最初に日本の少年たちと出会ったのは、フィレンツェの名門メディチ家が、少年たちの歓迎舞踏会を開いたその席上だった。
少年使節の一行がヨーロッパの土を踏んだのは一五八四年八月のこと。二年半に及ぶ旅程を経て、使節一行はリスボンに第一歩を記し、その後、各地で歓迎を受けながら陸路イベリア半島を横断、アリカンテからは船で地中海を越え、八五年三月、ようやくイタリアはリボルノ港へと上陸した。
ところで当時イタリアは、北にベネツィア共和国とミラノ公国、南にナポリ王国とローマ教皇領、そして、その中央にフィレンツェ=トスカナ公国が位置しており、フィレンツェの地理的な位置は、そのまま政治的な位置を表していた。イタリアにおける都市国家間の対立は、スペインやフランス、それにイギリスという大国の出現で緩和に向かっていたとはいえ、イタリアにおけるフィレンツェは、北と南のそれぞれの「扇の要」とも言える役割を果たしており、そのフィレンツェを動かしているのが他ならぬメディチ家であった。
かつてコジモ・デ・メディチによって隆盛を見たフィレンツェとメディチ家であったが、数々の政変を経て、今やフィレンツェ共和国もトスカナ公国となり、その君主もメディチ家直系からコジモの弟脈へと移っていた。
アレッサンドロは、そんなトスカナ公国が生まれようとする激動期、初代フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの私生児として生まれた。母親は分からず、父は独裁と性的乱行の末に暗殺された。アレッサンドロの私生児たちを引き取ったのは、ハプスブルグから嫁いできたマルガレーテ公妃だが、彼女は未だ十六才で未亡人となり、やがて父カルル五世に言われるまま、オッタビアーノ・ファルネーゼと再婚するに至った。
その際、前夫アレッサンドロの残した何人かの私生児を教会に預けたのだが、まだ二才になったばかりの彼だけは、アレッサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチというたいそうな名前と共にフィレンツェの育児院に預けられることとなった。彼の素性を表す名前を与えること、それが、十六才の少女に唯一できる愛情であった。
そして今、トスカナ公国はフランチェスコ一世の時代を迎え、アレッサンドロも枢機卿として、ローマとフィレンツェの橋渡しをする存在となっている。
この時期、少年使節一行がイタリアに上陸したのだ。
使節一行はリボルノへ到着するや、このフランチェスコ一世によってピサに招待された。バリニャーノ神父は、使節一行が教会以外の施設に泊まることを堅く禁じていたが、フランチェスコ一世はそれを認めず、自らの宮殿に少年たちを宿泊させ、
「かくのごとき日本のプリンス、かくのごときキリスト教徒をイタリア全王侯中で最初に迎え得ることは、デウスの格別の恩寵である」と、自ら宮殿の階段を中程まで降りて出迎えるほどの歓迎ぶりであった。あげくは歓迎の舞踏会やら、歓迎の鷹狩りやらと、「ローマへ一刻も早く」という教皇の意向に反し、ピサに五泊、フィレンツェに七泊という思わぬ長逗留となってしまった。その際、アレッサンドロは、ローマ教皇とフランチェスコ一世、両方の意向を受け、ピサでの歓迎舞踏会に出席することになったのだ。

今、グレゴリオ一三世の葬儀の席で、こうして少年たちの顔を見ていると、あの舞踏会のおり、ビアンカ公妃のリードで顔を真っ赤にして踊った少年たちの顔が思い出される。アレッサンドロは、口許がゆるむのを隠すかのように、グレゴリオ一三世がいかに東洋への布教に力を注いだかを説き、「その努力の初穂こそ、ここで教皇の死を悼む純粋な日本の少年たちなのです」と、改めて少年たちを聴衆に紹介し、言葉を結んだ。
と、その時だ。聖堂の入り口で小さないざこざが認められた。
アンブロンシェと呼ばれる黒の喪服にすっぽりと身を包んだ、いかにも不気味な二人連れが、何とか聖堂内に入ろうとして、前にいた職人風の男と諍いを起こしたようだ。職人風の男は、激しく抗議するが、二人の男には聞こえないのか、それとも意味が分からないのか、顔を見合わせるばかり。男は無視されたと思い、声を荒げ、腹立ちまぎれに一人の頭巾を外そうとした。男は必死で頭巾を押さえた。
……が、一瞬、頭巾の下に見慣れぬ東洋人の顔が現れた。
驚いた職人の動きが止まった。
それは修道院で休んでいるはずの中浦ジュリアンとドラード少年の二人だった。ジュリアンには教皇の死も、葬儀のことも伏せられていた。知ればどんな無理をしてでも参加するに違いない。少年たち一行は、幸い熱のため寝込んでいるジュリアンを残し、葬儀の席へと赴いたのだった。
しかし、まわりの様子から、ジュリアンはおおよそのことを察していた。察していて気づかない振りをしていた。みんなに自分のことで煩わせるのを極力避けたかったし、メスキータ神父に話しても反対されるのが分かっていたから……。
「ジュリアン、最後まであなたの身体を案じていたグレゴリオ法王様の気持ちをどう考えているのですか。そんな身体で無理に葬儀へ出ることが法王様の心にかなうことでしょうか?」
「僕は侍だ。グレゴリオ様のご恩には、自分の命に代えても応えねばならない。メスキータ様には、侍の心が分からないんだ。」
ジュリアンは、みんなが出かけてしまうと、看病のため残ったドラードを問いつめ葬儀のことを確認した。
「ドラード、お願いだ。僕をサン・ピエトロへ連れていってほしいんだ。どんなことをしても僕はグレゴリオ様の葬儀には出なければいけない。メスキータ様には分かってもらえないと思うけど、同じ日本人の君には分かるはずだ」
ドラードは、葬儀のため人気のなくなったイエズスス会本部を探し回り、聖具室から二着のアンブロシェ(顔まで覆う黒の喪服)を見つけてきた。おそらく宗教劇にでも使うために用意されたものだろう。これに身を包めば、日本人だということは分からない。ドラードは、足取りのおぼつかないジュリアンを抱えるようにして、この葬儀場に望んだのだった。
サン・ピエトロの入り口は人であふれかえっていた。ドラードは何としてもジュリアンを聖堂の中へ入れてやりたかった。死に神を思わせる黒い二つの塊が、必死でサン・ピエトロの入り口を目指す。そんな不気味な二人連れに恐れをなし、人々は道をあけ、大慌てで十字を切った。こうして二人は何とか聖堂の中へと入ることができたのだが、そのとき、この事件は起こった。

あわてて頭巾をかぶり直したジュリアンは、ドラードと二人してその場から離れようとする。
それをつかまえようとする男。
頭巾の中に隠された幼い顔に安心したのか、同情したように人々が叫ぶ。
「放してやれーッ」
別の声が上がった。
「何が不謹慎だ。利いた風なこと言いやがって!」
「グレゴリオの野郎こそ不謹慎だよ!」
「そうとも、あんな教皇死んじまってサバサバするよ。地獄に堕ちりゃいいんだ。客取らずに、あたいらにどうして生きろって言うんだよ。教会の奴ら、陰でコソコソあたいらのこと抱くくせに……何が不道徳だよーッ」
「そうだ、そうだ……」
ジュリアンのことが引き金となり、サンピエトロの入り口付近が騒然としはじめた。あわや暴動に発展しかねない勢いだったが、しかし、それも一時のことだった。アレッサンドロ枢機卿の手配により、教皇常備軍であるスイスの衛兵が随所に配置され、騒ぎの原因となった人物はたちどころに隔離するよう手配が取られていた。
「騒ぎを大きくしてはならない。」
「騒ぎを起こした者、騒ぎを煽動しようとする者は、すぐ他の参列者から切り離すこと。」
それが、アレッサンドロ枢機卿がスイス衛兵隊に与えた指示だった。そのために衛兵たちは聖堂内の側廊や四十五カ所に及ぶ祭壇ぞいに配置され、聖堂内のどこで騒ぎが起こっても、すぐに対処できる手はずになっていた。
アレッサンドロ枢機卿の手配が功を奏し、この小さないざこざを除いて九日間の葬儀期間中、ついに暴動らしい暴動も起こらず、グレゴリオ一三世の遺体は、無事サンピエトロの地下埋葬所へ安置された。またスイス衛兵隊に保護されたジュリアンとドラードの二人は、アレッサンドロ枢機卿の配慮により、イエズス会修道院へ無事戻され、すべてがなかったこととして処理された。そればかりか、ジュリアンの気持ちを察し、グレゴリオ一三世の葬儀には、日本からの使節全員が参加したことが、公式記録にしたためられた。
 
事件のあった夜、ドラードはジュリアンにそっと囁いた。
「ローマの人は、教皇様を信じちゃいないんだね……」

その頃、グレゴリオ一三世の棺が、この地下墓所に運び込まれ、身動きのとれない康男の前を音もなく通り過ぎていった。


コンクラーベ(枢機卿会議)

四月も後半にかかろうというのに、ローマはまだ冷たい空気に包まれていた。コンクラーベ(枢機卿会議)の会場に向かう枢機卿たちの列から白い息が立ち上っている。
九日間にわたる葬儀が終わり、それに引き続き新教皇を決めるための枢機卿会議が開催されようとしている。会場となるシスティナ礼拝堂に、教会の高位聖職者である枢機卿たちが集められ、枢機卿間の選挙によって新教皇が決められるのだ。会場となるシスティナ礼拝堂は新教皇が決まるまで封印され、誰一人として会場への出入りは許されない。この間ヴァチカンは、自国の枢機卿を新教皇にという各国の思惑や個人の野望が入り乱れ、祈りの場から政治的掛け引きの場へと一変する。

この日、アレッサンドロ枢機卿も、コンクラーベ会場に入ろうとする枢機卿たちの列の中にいた。
彼が会場へ入ろうとしたときだ。目の前で一人の老枢機卿が激しく咳き込み、思わず扉の前でしゃがみこんでしまった。アレッサンドロはその老人の背中を撫でながら、
「フェリーチェ様、しっかりしてください。死ぬには早すぎますぞ。」
老人は、アレッサンドロに顔を振り向けると、苦しそうに、
「おー、アレッサンドロ殿か。やさしいお言葉じゃが、ご覧のとおり、もういつお呼びがかかっても不思議はない状態でな。また準備もできております」
老いたフェリーチェには、それだけ言うのがやっとだったのか、そこまで言うと、また苦しそうに咳き込み始めた。
コンクラーベに集まる投票権のある四十二名の枢機卿のすべてが、この様子を見ていた。そして、皆が皆、彼が今にも血を吐いて倒れしまうのでは……そんな思いを持った。と同時に、ある一つの思いを胸に抱いた。グレゴリオ十三世の死があまりにも急すぎたのだ。日本の少年使節たちの謁見――ローマはその行事に沸きかえり、教皇は、あの華やかさ、あの明るさを、まるで一人で享受しているような喜びようだった。それが、こうもあっさり死んでしまうとは……。各国の思惑も、個人の野望も、形にするには今少しの時間と調整とが必要だった。そこで誰もが思った。
「フェリーチェなら、もう永くはないだろう。政治的な色も背景もなく、時間稼ぎには格好の存在だ……」と。

教皇選挙が開かれている間、サン・ピエトロ広場は新教皇の誕生を待つ人々であふれかえる。そこには会場内を支配したと同じ野心や思惑があり、少しの毒を含んだ無責任な好奇心があり、そして大小さまざまな信仰心があった。そんな中に、メスキータ神父に率いられた日本の少年たちの姿もあった。
メスキータは思う。最悪の場合、この選挙の結果で、イエズス会のこれまでの努力が水泡に帰すかも知れない。イエズス会の東洋布教独占に対する他修道会の批判の声は高い。特にフランシスコ会やドミニコ会の修道士たちは、布教権をめぐって何かとイエズス会と対立するところが多い。もしフランシスコ会やドミニコ会の人間が新教皇に選出された場合、イエズス会の東洋布教独占にヒビが入ることは間違いないだろう。
そんなメスキータの思惑をよそに、「教皇様はどんな風に選ばれるんだろう」「会場の中はどうなっているのだろう」「どんな方が教皇様に選ばれるんだろう」と、五人の少年たちの心の中は、そんな素朴な好奇心で溢れかえっていった。
少年たちの物問いたげな眼ざしに押され、ため息とともに、メスキータ神父が口を開いた。
「教皇様の選挙では、枢機卿お一人お一人が一票の投票権を持ち、投票用紙に思い思いの名前を書かれます。記入された用紙は、会場の前に置かれた投票壷の中に入れられます。得票数が三分の二になるまで投票は繰り返され、その都度、投票用紙は暖炉にくべられるのです。決まらなかった場合は黒い煙を、新教皇様が決まった場合には白い煙が……ほら、あの辺りに煙抜きがあって、そこから出るように工夫されているのです。」
メスキータ神父の指さす方向を見ながら、
「アレッサンドロ様も、あの会場の中におられるのですか?」
唐突に、中浦ジュリアンが口を開いた。教皇葬儀のとき、病を押して密かに参加したジュリアンをかばい、誰にも知られることのないよう、馬車でイエズス会まで送るよう手配してくれたのがアレッサンドロ枢機卿だった。騒乱の引きがねにもなりかねなかったのに、そのことをとがめる訳でもなく、表ざたにする訳でもなく、ただ「体を大事にするように」と熱に震える体にローブを羽織らせてくれた。
「もちろん、アレッサンドロ様もおられます。」
「新しい教皇様には、アレッサンドロ様になってほしいなあ。」
「ジュリアン……それは神様の決められることですよ。」
そのときだ。「メスキータ様、メスキータ様」と呼ぶ声がある。声のほうを見ると、一人の修道僧が一通の手紙を手に「メスキータ様、リスボンのロヨラからです。リスボンからです」と、人ゴミをかき分けながら近づいてくる。
手紙は、リスボンにあるサン・ロケ修道院から、日本人修道士ロヨラにより出されたものだった。
ロヨラも天正遣欧使節の随員としてヨーロッパの土を踏んだのだが、彼には使節の少年たちとは別の役割があった。リスボンにとどまり、その地で印刷術を習得すること。それと共に、日本へ持ちかえるべき印刷機の選択に当たること、それがロヨラに与えられた役割だった。
メスキータ神父が封を開けると、印刷術習得の成果を示すべく、日本語をローマ字に置き換えて印刷したロヨラの手紙が出てきた。恐らくは練習のために組んだ版を刷り上げたものだろう。
「これはロヨラさんが印刷したものです。」
メスキータは、それを広げてみんなに見せた。
みんなは、呆然としてそれを見つめた。有馬のセミナリオでローマ字は習ったものの、それを同じ仲間が、自分の伝えたい思いを活字として印刷している。
「なんて書いてあるんですか?」
「マルチノ、読んでごらんなさい。」
メスキータの差し出す手紙を、原マルチノが受け取った。

読み進めるにつれてマルチノの目が輝きだした。
「マルチノ、なんて書いてあるんだ。早く話せよ。」
「印刷機購入の目処が着いたようです。手紙によると、商売がうまくいかずリスボンを逃げ出した印刷商がいるようで、その残された印刷機を安く買うことができるようになったとあります。それも二台、おまけに活字のセットまで三セットも手に入るようです。」
「もう手に入ったのか?」
「まだのようです。裁判所の手続き的なものがあるようで……それでも、私たちがリスボンに帰ってくるまでには何とかなりそうだって……。」
「俺にも見せてくれよ。」
千々石ミゲルが手紙を取ろうとしたときだ。あたりが騒然とし、集まった人々の中から喚声があがった。
「白い煙が上がっています。」
「新しい教皇様が決まったんだ……!」

リスボンの印刷業者は、商売がうまくいかず逃げ出したわけではなかった。異端の密告で工房が捜索され、印刷原稿の中からルターの著「キリスト者の自由」のラテン語原稿が発見されたのだ。七十年前、宗教改革の発端となった問題の書であり、このため印刷の親方や逃げ遅れた職人たちが捕らえられ、厳しい拷問の末、異端のかどで火あぶりにされた。
ところで日本の少年たちが喜んでいる問題の印刷機は、このとき、工房から没収された印刷機で、親方や職人たちと共に燃やされる筈だったのを、イエズス会の働きかけで日本に渡ることになったものだ。
もちろん日本の少年たちは、そんなことは知るよしもない。今の少年たちにとって大事なことは、一体、誰が新教皇としてあのバルコニーに顔を出すのか……そのことだけだった。サン・ピエトロ広場に集まった人たちの好奇心の渦の中では、それ以外のことはすべてが無意味に思われた。

しかし、煙が出始めてもう一時間近くにもなるというのに、中央バルコニーはまだ固く閉ざされている。あの煙は間違いだったのか。ひょっとして黒い煙が光の加減で白く見えただけなのかも。
長い一日が終わろうとしている。陽もようやく翳りだし、同じように人々の好奇心にも陰りが差しだした頃、やっとサン・ピエトロ大聖堂の中央バルコニーの窓が開かれた。
皆の視線が中央バルコニーに集まる。
「アレッサンドロ様だ!」
中浦ジュリアンが、うれしそうに声をあげた。
バルコニーに現れたのは、アレッサンドロ枢機卿だった。彼は集まった人たちを見渡し静寂が訪れるのを待つ。
やがて静まり返ったサン・ピエトロ広場に、アレッサンドロのよく通るラテン語の声が響き渡った。
「良い知らせがあります。第二二七代の教皇が生まれました。」
その瞬間、座っていた人々は立ち上り、拍手がわき起こった。修道女たちは互いに喜びの抱擁を交わし、歓声が広場いっぱいにこだました。そして七時二十三分、赤いマントをまとった枢機卿団と、儀典長の司教に付き添われて、新教皇がバルコニーに姿を現わした。
フランシスコ会のフェリーチェだ。
今にも死ぬかと思われていたフェリーチェが新教皇に選ばれた。時間稼ぎに選ばれたことは誰の目にも明らかだった。ところが……である。新教皇に選ばれた瞬間、今にも死にそうに腰を屈めていたフェリーチェが、背筋を伸ばし大きな声を張りあげ「テ・デウム」を唄い神に感謝しはじめた。先程までの様子とは打って変わって、水を得た魚のように、死にそうなはずのフェリーチェ枢機卿が、活力に満ちあふれた新ローマ教皇としてよみがえったのだ。
集まった枢機卿たちは思った。フェリーチェにいっぱい食わされたと……。

真新しい白の帽子と白のマントも鮮やかに、フェリーチェは、新教皇シクストゥス五世として、やさしい微笑を浮かべながら集まった人々に教皇として最初の祝福を与えた。大聖堂の鐘が鳴り始め、それを合図のようにローマ市内の約四〇〇近くの教会の鐘がいっせいに喜びを知らせ、祝った。
聖なるつむじ風と呼ばれたシクストゥス五世の改革が、今、始まろうとしていた。



あれはフェリーチェ(シクストゥス五世)が、まだ二十二才の頃だ。彼がシチリアの田舎道を、他のフランシスコ会士たちと列をなして歩いていると、正面から一人の男が近づいてくる。男は列をかき分けるようにして進んでくると、いったい何事かといぶかるフェリーチェの前にひざまずき、
「あなたは、フェリーチェ・ペレッティ・ダ・モンタルト、アンコー村の近くで生まれ、羊飼いをしておられた方……」
フェリーチェは、男が、てっきり自分の子供の頃を知る故郷の人間だと思った。
「どなただったでしょうか? でも、どなたにせよ、まずは自分のような若輩の修道士にひざまずくのはやめてください。」
「いいえ、聖下の前ではひざまずかないわけにはまいりません。あなた様は、やがてローマ教皇の座にお就きになる方……」
「………………」
「いぶかるのもごもっともです。私の名は、ミッシェル・ド・ノストラダムス、やがてわが名も聖下の御前に届くでありましょう。」
男は、それだけ言うと、うやうやしくその場から離れていった。
ノストラダムスが、トゥールーズの異端審問所からの出頭命令を無視し、フランスからイタリアへと放浪している最中の出来事であった。これが、ノストラダムスとシクストゥスの、最初で最後の出会いである。
……が、この日から、フェリーチェの心に大きな野心の灯がともることとなり、その野心が疼くたびにノストラダムスの顔が浮かび上がってくることともなった。
一つの予言によって、フェリーチェの心の中にノストラダムスが住み着いてしまったのかも知れない。
そして今、その野心がかなえられた。
ノストラダムスの名もまた、世に現れ始めていた。メディチ家からフランスへと嫁いだカトリーヌ・ド・メディチスの信任あつい予言者として……。

戴冠式も無事終わり、今日は日本の少年たちが別れの挨拶にくることになっている。シクストゥスは思った。
「こうしてローマ教皇になれたのは、この私が神に選ばれたからだ。決してあの男の予言のせいなどではない。神が私を必要としたからこそ、私は、ローマ教皇の座に就いた。まして異端の臭いをぷんぷん漂わす、あのノストラダムスとは関係のないことだ」と。
「私は神に選ばれたのだ。神は、私に仕事をせよとおっしゃっている。おまえにしかできない仕事をやり遂げるのだと語っておられる。神が私を必要としておられるのだ……」

「教皇様」
「…………」
「教皇様、日本の使節たちが別れの挨拶に参上いたしました。」
侍従の言葉が、シクストゥスの思いに終止符を打った。



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