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エピローグ

了伯(トマス)は、異臭漂う穴蔵の中に逆さに吊られながら、いつしか割れるような頭の痛みが遠のいているのに気づいた。自分は、いったい今どこにいるのだろう。
そうだ、自分は、九介と千代の二人を転ばせたあと、自分自身は逆にキリシタンであることを再び名乗り出たのだった。かといって、またぞろキリスト教を信じるようになったわけではない。むしろ、どんな宗教にも、どんな道徳にも、もう自分を縛りたくないと思っていた。ただ自分の言葉を信じ、殉教していった人のことを考えると苦しくてならなかった。自分が間違ったことを教えたために、たくさんの人が、救いのない地獄を選んでいった。みんな、苦しみの向こうにパライゾ(天国)があると、むなしい幻想を抱いて死んでいった。そこには呪いしかなかった。恨みしかなかった。
同じことなら、自分もあの苦しみの中に落ちていこう。そうすることが自分に出来る唯一の償いのように思えたのだ。
了伯は今、そんな自分を見ていた。ぐるぐる巻きにされ、鬱血死しないよう、こめかみに刀傷を付けられ、汚物を流し込んだ穴の中へ逆さ吊りにされている自分。そんな自分を、自分が見ている。さきほどまでの割れるような頭の痛みもなく、それ以上に、あの押しつぶされそうな心の苦しみもない。
そんな心に、湧きあがってくる一つの思い。
「トマス、神は自分の外にあるのではありません。天上にあるのでもありません。神は、自分の心の中にあるのですよ。自分の中に本当の自分があります。それを自分が隠してしまっているのです。肉体を自分と思う心が、本当の自分を隠してしまって見えなくしているのですよ。」
あれは母親だろうか。何かとてもあたたかくて、自分のすべてを包み込んでくれている。気が付くと、すべての形が消え、言葉も消え、ただ、あたたかい思いだけが残った。

穴の外では「転べ、転べ。この綱を揺すればよいのじゃ」と、がなりたてている役人たちがいる。穴の中に向かって、鍋をたたいたり、怒鳴ったり、その騒音が、穴の中に反響している。すでに一刻半も過ぎ、さすがに疲れたものか、役人たちもその場で休み、静けさが戻ってきた頃だ。一人が叫んだ。
「綱が揺れているぞ!」
「転んだ、転んだ。了伯が転んだぞ! 早くあげろ、早くあげてやれ。あの歳じゃ早くせんと死んでしまうぞ。」

この後、了伯は意識を取り戻すことなく、牢屋敷へと移された。
その枕元には、ローマで行を共にし、帰国後、共に背教者となったミゲル――今では了順と名乗っている――が付き添っていた。
了伯が、一時意識を取り戻したときのことだ。たまたま了順は奉行所に呼ばれていたのだが、その席へ役人が駆け込んできた。
「了伯殿に意識が戻りました。しきりに何かを訴えております。」
「了伯は何と申しておるのか?」奉行が言う。
「ハッ、それが…………」
「何と申しておるのだ!」
「ハッ、しきりに神は心の中にあった、神は心の中にあった。ミゲルにもこのことを伝えねば………と、そればかりを、」
「……狂ったのであろう。あらためての吟味は無用。そのままにすておけ。」
そう言うと、了順に向き直り「早く行ってやれ」と声をかけた。

了順が駆けつけたとき、了伯はすでに息絶えていた。
時に一六四六年(正保三年)、六十七年の生涯だったという。



1969年3月
テレビスタジオのホリゾントに絵筆をふるう伊牟田のもとを、藤プロデューサーが訪れた。
「おい、康男からだ。」
藤が、一通のエアメールを伊牟田に差し出す。
泥絵の具で汚れた手を腰の手ぬぐいで拭い、受け取ってみると、消印はローマからになっている。
「あいつ…………」
伊牟田が、分厚く折り畳まれた便せんを取り出そうとしたとき、一枚の写真がすべり落ちた。
藤がその写真を拾い上げうれしそうに伊牟田に手渡した。
康男が、サンタンジェロ橋の上で笑っている。
「なんてヤツだ、人に心配かけておいて……いい気なもんだ。」



あれから、僕は、藤さんにも伊牟田さんにも、お世話になった清花さんにさえ、何の相談もなくプロダクションを辞めてしまいました。本当に申し訳ありません。また清花さんの「一度、古野先生に会ってみたら」というおすすめにもまだ応えられずにいます。清花さんのいうように、過去世にこだわるのでなく、今の自分の苦しみを見つめていく、それが自分の引きずっているたくさんの過去の苦しみを癒していくことになるのだということ、本当によく分かります。
自分自身のなかで、トマスのこと、またトマスに誘ってくれたベアトリーチェの亡霊のこと、そしてブルーノのこと、もう少し考えてみたかったのです。調べることが意味のないことだとは分かっているのですが、今の僕にとっては、調べることが、その人たちと語り合うことだと思えたのです。
ところで、ローマに向かう前、長崎県立図書館で一通の転び証文を見つけました。元本は西勝寺にあり、その写しだということですが、正保二年酉の日付のあと、「右 菓子屋九介 女房」の名前があげられ、最後に「南蛮転び伴天連中庵、日本転び伴天連了順、日本転び伴天連了伯」の名が保証人として掲げられていました。
僕が、どんなにびっくりしたか分かっていただけるでしょうか。みんな、妄想でも幻覚でもなかったのです。藤さんには「まだ、そんなことを言ってるのか」って怒られそうですが、一緒にコピーを同封しておきます。
それともう一つ、長崎県立図書館で見つけた「オランダ商館長日記」、ここにもトマスの最期のことが掲げられていたので、書き写しておきました。

ウイルレム・フエルステーヘンの日記
1646年11月の条
十七日 正午頃通詞が来て、我らの輸入品の仕入れ地を尋ねたので、支那とオランダとが大部分の供給地であると答えた。これは支那人の来航が絶えても、支障はないか調べたのである。
予は日本に来た時から背教パーデレたちの事を知ろうと努めたが、トーマという日本人は長くローマに滞在し、法王の侍従を勤めたこともあり、前に数回キリシタンであることを自訴したが、奉行は、彼が老年のために精神錯乱したのであると考えて放置し、その後一昼夜足で吊された後、教をすてたが、心中には信仰を失わず死亡した。今は二人のみ生存しているが、一人は忠庵というポルトガル人で元当地の耶蘇会の長であったが、その心は黒い。他の一人は前の乙名後藤庄三郎殿(町年寄後藤庄左街門貞朝か)の兄弟で、少しもオランダ人の不利を計ることはない。

最後に「シクストゥス聖書」についても面白い資料を見つけました。オックスフォードのボードリアン図書館にも、「シクストゥス聖書」が一部紛れ込んでおり、初代司書のトーマス・ジェームズ博士がこれを見つけたというものです。一六一一年、ジェームズ博士は「シクストゥス版聖書」と「シクストゥス=クレメンテ版聖書」を比較対照する書を著しました。博士は、「二人の教皇の間に食い違いがあることは粉いようもなく、それも章句の番号だけでなく、テキストの本体、そして序言と大勅書そのものまでもが異なっていること」を発見したというのです。そればかりか、ジェームズ博士はとくに注目に値する問題として、この二人の教皇は明らかに、見解の対立から闘っていると主張し、「ここにいるのは対立する二人の教皇である。シクストゥスがクレメンテと対立し、クレメンテはシクストゥスと対立している。ヒエロニムスの聖書をめぐって論争し、文書を記し、闘っている」と記しています。

以上です。
またローマから帰ったらご連絡します。
なお、同封の写真を撮ってくれた女の子(通りすがりで、何の関係もない人なのですが、念のため)、名前をベアトリーチェというそうです。ビックリですね。
本当に、ありがとうございました。
(完)