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もう頭にきた!

 

「もう今回は頭にきた!絶対帰ってなんかやるもんか!」

 一人強く呟いて、車を走らせる。些細なことで喧嘩して、こんな事は何回目だろう。

「ほんとにあいつ、何なのよ、私の事どう思ってんの!」

 一人苛々とハンドルを握る。その苛立ちが車の運転を荒くする。パァーとクラクションが鳴り、対向車とぎりぎりで交わした。

「あー、びっくりした」

 身の危険に少し我に返り、気を落ち着かせるように車のスピードはゆっくりになる。少し安心した所でまた苛々が始まった。

 こうやって車で飛び出しては、心が落ち着くまで走り、結局家に帰るのだが、今回ばかりは夫の悟が謝るまで、帰るつもりは無かった。リカ子は二十九歳になった自分の顔をバックミラーで眺めて、次は三十路かと結婚して三年が過ぎた事を想う。

 幾つもの交差点、幾つもの信号を通り過ぎ、赤信号で止まる。小さい子が何人か手を挙げて渡って行った。それを見ながら、ちゃんとご飯食べさせてこなかったなーと、ちょうど三歳の誕生日を過ぎた一人娘が心配になった。悟がそれに気付き、世話ができるとは思えない。今頃、放ったらかしにされた二人は、何をしているのだろう。

 いわゆる出来ちゃった婚ってやつで、仕事は結婚と同時に出産に備えて育休を取っていたのだけど、そのまま会社には復帰できず仕事は辞めていた。その会社に勤めていた頃、悟と知り合い、気がつけば今の状況だった。

 母として、子供と接する事に何かある訳じゃ無く、いたって普通で、可愛いものは可愛いし、それはそれでよかったのだけど、何時の間にか子供の事は私に押しつけて、悟はゴルフだの釣りだのと、仕事仲間と遊んでばかり。ときたま大事な接待なんかもあるようだけど、どうも自分から楽しんでやっているようにしか見えなかった。

 今日は日曜日で、久しぶりに何の予定もない休みだった。だからリカ子は悟と何処かへ行って、羽を伸ばしたかった。でも朝起きるなり、今日はゴルフの練習に行くとか言いだすものだから、ついつい溜まっていた鬱憤が噴き出した。

 中途半端な朝御飯を放ったらかし、そのままの勢いで今走っている。ちょっと止まった信号の合間に、そんな事を思う。

 走らせる車の中で思う事は何時も同じで、結婚前はあんなに私を大事にしてくれたのにとか、大学時代に楽しく遊び回った事など、今の生活と思い描いた結婚生活のギャップが、何時の間にか積み重なり、些細な事がきっかけで喧嘩する。


思い描いた結婚生活

 ふと子供の頃、自分が思い描いていた結婚生活を思い出した。女の子なら一度は経験した事があるだろう、お人形さんごっこ。私の名前がリカ子だったから、特にリカちゃん人形には並々ならぬ感情を抱いた。

 子供心に結婚を夢見て、リカちゃんで遊んだ。大体のパターンがあって、私はリカちゃんになって一番のお気に入りの服を着せ、紙でできた家にいる。そこに夫用の男性人形が帰ってきて、一緒にご飯を食べる。そして夫の世話を焼いたり、大人が言っているような事を真似たりして、その世界を作り上げる。結婚、子供ながらに男と生活する事を夢見て、希望を膨らませていた。

 車で走る景色を見ながら、私は結婚に何を期待していたんだろうと思った。今の夫に別に嫌いな所は無い。好きで一緒になったんだし、男として頼れる存在なのは間違いない。ただ、私に無関心って言うか、自分の事ばかり一生懸命って言うか、何かそんなところが不満だった。

 冷静に思えば、お互いわがままを言ってぶつかっているだけ、そんなことは分かってはいるけど、もう少し私の事も考えてよ。たぶん、これが、私の本心だったのかもしれない。

 そろそろ一時間くらい走っただろう、大体はこの先にあるファーストフードに立ち寄り、ドリップコーヒーの香り立つ湯気に気を取り直して帰るのだが、今回はちょっと意地になって謝るまで帰ってやるもんか、そう思っていた。

 止まるタイミングを失い、ファーストフード店の前を通り過ぎる。この先は何もない海沿いの国道が続く。延々と海岸に沿って入り組んだ道が続く。リカ子は車を運転するのは好きだったが、こんな道は何時も夫が運転していたから、少し戸惑ったが止まるタイミングをを失ったまま、先へと走って行った。カーブばかり続き海側は絶壁、道幅もそんなに広く無く、大型トラックが来ると冷や冷やする。それでも一本道を引き返すのは躊躇われたし、行く当ても無かったからそのまま走って行った。


どうしろっていうのよ!

 リカ子は小さなパーキングに車を停めて、打ち上げる波を見ながら携帯を開いた。アンテナのマークは無く、圏外の表示が出ていた。届かぬ電波に、誰にも見つからない所に隠れているような気がした。日常から遠く離れた海を眺めていると、心が落ち着いて行くように思われる。もしこのタイミングで携帯が鳴ったら、リカ子は文句の一つや二つ言って帰ってやろうと思うが、あいにく携帯は圏外だった。

 一日に三十分くらいしか娘と接する時間を持たない悟は、娘にとっては知らない男の人に近いのかもしれない。ついこの前も一人娘を扱いきれなくて、戸惑っていた。子供と二人きりになるなんて、そう滅多にはないから、今頃どうしているのだろう。不意に家の事が頭に浮かぶと、娘の“みう”の事が気にかかる。

 

 小さなパーキングでリカ子は迷っていた。ここで引き返そうか、それとも…この道は何度か通った事がある。岸壁を縫うような道を20kmばかりいくと、その先には有名な海水浴場がある。悟と何度か行った事がある海。迷ったままの頭で車を走らせると、何となく帰りたく無くて、家とは反対の方へと進んだ。

 相変わらずカーブがきつく、運転は慎重になる。後ろに速い車が追い付いてきて、苛々とリカ子の車を煽る。気分的なプレッシャーを感じながら、ハンドルを握る。

「もう、分かっているわよ。遅いって言いたいんでしょ!」

 一人車の中でぼやいてみるが、状況は何一つ変わらない。これ以上スピードを出すのは嫌だったし、でも後ろの車は苛々と煽ってくるし。ときたま対向車にひやりとしながら、この道を通ってしまったことを悔やむ。

 今までは悟の助手席でしか通った事が無かったから、実際走ってみて後悔した。あのパーキングで戻ればよかったと悔やむが、道は一本道。しかも急カーブの連続で、対向車も突然現れる。車を止めるスペースも無く、後ろから来る車につつかれて生きた心地がしない。バックミラーが気になって、対向車にひやりとする事も二度三度、もうどうにでもして、と制限速度よりも少し遅いくらいまでに車の速度を緩めた。後ろの車はわざとなのか抜けないのか、後ろにぴったり張り付いて離れない。たまにある直線で抜こうと思えば抜けるのに、と思ったりもしたが不気味なくらいに張り付いてついてくる。リカ子は急に怖くなって車を止める場所を探すが、適当なところを見つけられない。とにかく後ろの車をどうにかしたかった。

 海水浴場まで後15kmの看板が目に入った。まだ15kmもあるのかと、ぞっとした。

「どうしろって言うのよ!」

 狭い車内で叫んでもみても、何の解決にもならなかった。


何処か好きな顔

 ハンドルに鈍い振動が伝わって来た。後ろの車に進路を譲ろうと左に寄せ過ぎたのが失敗し、何処かにタイヤが擦れたらしい。煽られ急かされ、ついにハンドル操作を誤って道路わきの側溝にタイヤを落としてしまった。スピードはさほど出てはいなかったから、車はすぐに止まった。後ろに張り付いていた車は、嘲笑うかのように走り去って行った。車から降りると、車が一台半程止めれるくらい道幅が膨れている場所だったので、それ以外の被害はなかったが、溝の中で無理に擦り付けられたタイヤはバーストして使い物にはならず、自力で走行する事は出来なくなってしまった。

「なんなのよー」

 何に向かって怒っているのか、朝の喧嘩なのか、この道へ来てしまった自分への当てつけか、後ろに張り付いていた車の事なのか。どうであれ、動く事は出来なくなってしまった。幸いなことに道路にははみ出してはいなかったので、通行には支障をきたさなかった。もし道路にはみ出した形で止まっていたら、後続の車に追突されていてもおかしくは無い状況だった。しゃがみ込んで潰れたタイヤを見る。リカ子にはどうする事も出来ず、携帯を開く。

「あーあ、やっぱり圏外か」

 たまに通り過ぎる車を眺めては見るが、変な所に止まっているなくらいにしか思わないのか、ただ通り過ぎて行く。手でも挙げて助けを求めればよいのだろうが、ただ動けなくなった自分の車を見つめるばかりで、途方に暮れていた。

「故障ですか」偶然通りかかった車から男性が声をかけてきた。見た感じ、三十代前半くらいで、理系的な何処かリカ子の好きな顔だった。リカ子は助けて欲しいのと、ちょっとこの状況を冒険しているみたいな感覚に、よそ行きの声で答えた。

「すみません、タイヤが駄目になっちゃって」

 どうしてこうなったのかは言わなかったが、潰れたタイヤを見て男性は状況を把握し始める。

「僕は機械が得意じゃないものですから、何処か連絡できる所まで乗せていってあげましょう」

 他に選択する余地も無かったから、リカ子はよそ行きの声でお願いしますと、乗せてもらうことにした。

 端的な顔立ちと、真面目そうな口調を好意に受け取り、車のドアを開けようとした時に右側なのに戸惑い、車がBMWだと云う事に気付いた。かなり高そうな高級車だと思い遠慮がちに座る。シートベルト一つ自分の車とは違う上品さを感じ、車は走り出した。

 体は大丈夫でしたか、何処まで行くのですかと、普通の質問が幾つか問われる。まさか初対面の人にいきなり夫と喧嘩してああなったとは言えなくて、海水浴場へ行く途中だったと答えた。女一人まだ季節でも無い海水浴場は、どう思われるだろうかと要らぬ心配をしながら横顔を見た。

「今日は天気が良いですからね」

 普通の感想が返ってきた。どう答えようと思ったけど、嘘に嘘を重ねていくようで、ええ…と何となく濁して話を流す。

 


大学生の彼

 車はさすがに高級車って言うか、乗った感じ、そう乗り心地からして別物だった。車のオーディオからは静かにジャズが流れている。あー、この曲はとリカ子は思い出した。大学時代に付き合っていた彼がジャズをやっていて、彼の部屋にはこの手の曲が何時も流れていたから、自然と耳が覚えていた。その彼も在学中にプロになり、学校を辞めると同時にリカ子とも終わった。終わったと言うより、彼の目指すものに普通の幸せは必要が無いように思われ、お互い別の道を行こうときれいに別れた彼だった。大学を卒業して地元へ帰る前に、彼が出ているジャズクラブを見に行った事がある。生の彼の音は本当に生きていて、心を揺さぶられたのを今でも覚えている。

「この曲、マイルスですよね」

 男性は、曲を知っているリカ子に笑顔を見せ話し始めた。

「ご存知ですか、好きなんですよ。このカインドブルー一週間聴かなかった事はありませんよ。いや嬉しいな女性の方で、この手の曲知っている人少ないでしょ、意外と音楽の話で合わない事が多くて、いや、こういうの知ってると嬉しくなっちゃいますよ」

 左側に振り向くのが中々慣れなくて、何時もと違うぎこちなさがあったが、それが新鮮でもあった。ふとハンドルを握る手に目をやり、横顔をさりげなく見る。気の上ずるものを感じたが、あえて冷静に努めた。笑みを浮かべる横顔に、ジャズの話を一語り聞かされたが、話の内容はほとんど分かるくらい、リカ子もジャズの事は知っていた。

 あの曲がどうだとか、彼にさんざん聞かされレコードも何時も鳴っていたから、頭に染みついていた。

 東京の下町の学生ばかり住んでいる小さなアパート。木造で、風呂も無いそんなアパートで彼と三年暮らした。彼はサックスをやっていて、よく公園なんかで練習していたから、リカ子は何時も傍らで彼のサックスを聴いていた。曲の名前や、ミュージシャンなんかはそこら辺のジャズオタクよりは詳しいくらいだった。何か懐かしくて、つい訊いてみた。

「コルトレーン持ってます?」

 男性はソーホワットを聴き終えると、コルトレーンのCDと入れ替えてくれた。

「ジャイアントステップス」

 曲が鳴ると同時にリカ子が言った。クルマを運転しながら、男性は嬉しそうに相槌を打っていた。この曲、彼が吹いていたんだよなと、想いが東京の下町へと遡る。曲の途中で男性のうんちくが始まった。この曲にまつわる秘話めいた事。男性が次の言葉を言う前にリカ子が言った。

「そう、よく知っているね。嬉しいな、こんなに話ができる女性は初めてだ。僕は梅原健一、今年で三十八歳になります。こう見えても、医者なんですよ」

 相手に失礼が無いように話す口ぶりに、何処か安心感を覚えた。普通に流れる会話で、リカ子に名前を尋ねてきたが、なにも臆することなく応える事が出来た。

 



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