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「紫乃が願った奇跡」
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 二〇〇五年の冬、十二月に入って間もない朝、名古屋は五十八年ぶりという大雪に見舞われた。
 ニュースで五十八年ぶりと聞いて、ボクはある話を思い出していた。

 ボクは、名古屋に住む一介のサラリーマン。自分が五十八年前に、この世に生まれていた訳ではないが、三年前に他界した親父に、昔、聞かされた、薄幸の女性の話を思い出したのだ。

 親父はその頃、この名古屋に住んでいた。出身は長野の片田舎だが、建設会社に勤めていた親父は、その頃、結婚したばかりの新妻と、転勤で、この名古屋に新居を構えたのだ。
 新妻の名は「紫乃」と言った。実は親父は二度結婚している。ボクは紫乃さんが亡くなって、二度目に迎えた妻のせがれということになる。


 戦後間もない頃、「結核」と言えばまだ、死の病の時代だったらしい。紫乃さんは、結婚して間もなく、その結核で倒れてしまった。亭主関白が当たり前の時代で、土建屋勤めの親父が、新妻をほったらかしにして、毎夜、名古屋の飲屋街を悪仲間と呑んだくれて彷徨いていたとは、ボクも初めて聞かせてもらった話だ。紫乃さんを死の病の床に追いやったのは、そんな放蕩に明け暮れていた親父だった。
 今、そんなことがあるのかは知らないが、当時、死と向き合っている重病の患者を見舞って、


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カトリックの神父さんが病院を訪ねてくるということがあったらしい。死の病に倒れた後も、ほとんどアル中に近い状態で、仕事と飲屋街を行き来するだけの親父が見舞ってくれるでもなく、寂しくベッドに伏している紫乃さんを、カトリックの老神父は見舞ってくれ、キリストの教えを説いてくれたのだ。
 ほどなく、彼女は病床で洗礼を受け、キリストの教えを受け入れた。給料もろくに入れず、酒に浸り、妻の病も顧みない夫に愛想をつかし、救いをキリストに求めたとしても、彼女に何の咎めもない。けれども、このことが、さらに、親父の心をかたくなにさせた。親父は子供時分から、大のキリスト教嫌いだった。日本には神道と仏教という立派な宗教がある。なぜに、ついこの間まで敵国の宗教だったキリスト教なんぞを信じなくてはならないのか。親父は、自分の放蕩三昧の生活を棚に上げて、紫乃さんのキリスト教への帰依を自分への裏切りとなじった。前にも比して親父の病院に向かう回数は減った。

 紫乃さんは健気で明るい人だったらしい。自分が徐々に病に蝕まれていく身であるにもかかわらず、病室で明るく振る舞い、同病の仲間達に讃美歌を歌って聞かせ、優しい言葉を掛けて励ましていたという。
 紫乃さんは、放蕩に明け暮れて、病院にも顔を出さない夫を恨むこともせず、ひたすら、夫のために神に祈った。アル中からの更生とキリストの教えへの回心を、だ。

 この話をボクは、成人してこの名古屋に移り住んでから、親父から直に聞かされた。
 親父は紫乃さんが亡くなった後、長野に戻り、再婚し、娘二人と、せがれのボクをでかした。奇しくも、ボクは親父が紫乃さんと新居を構えた名古屋に就職先を得て、そこに居を構えたのだ。


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 その名古屋の安アパートのボクの部屋を訪ねて、親父が来た時、お袋にも話したことのなかったという紫乃さんの話を、初めて、ボクに明かしてくれたのだ。

 親父は自分の妻である紫乃さんの詳しい病状も知らなかった。知ろうとしなかった。
 いつものように飲んだくれて、ただ寝に帰るだけだった妻もいない家に帰宅してみると、玄関前に黒服の老神父が立って待っていた。親父は、老神父から、妻の病状を伝えられ、「見舞ってやって欲しい」と乞われた。そして聞かされた。紫乃さんの余命がいくばくもないこと、紫乃さんの最後の願いが、夫のアル中からの更生とキリストへの回心であることを。
 親父は雷に打たれたように、それを聞いた。呑んだくれの親父にも良心の呵責はあった。酒への更なる依存はそんな良心の呵責から逃れるためでもある。酔いもいっぺんに醒め、その良心の呵責と、初めて真っ直ぐに向き合った。妻は、こんな自分を責めているに違いない、恨みつらみを神父にぶちまけているに違いない、そう思い込んでいた。けれども、事実はそうではなかった。
 紫乃さんは、死の病の床から、夫を思い、自分の亡き後の夫の幸せを願い、必死で神に祈っていた。男を迷いの道へ引きずり込んでいる酒の災禍から、夫が救い出され、まっとうな人生への更生を果たすことが出来るようにと、彼女の信じる神に祈願していた。

 親父は、無骨な職人気質の無教養な男だ。安アパートのボクの部屋で、小さな電気コタツに差し向かいで、缶コーヒーと缶ビールを飲み交わしながら、朴訥と語ってくれた。ボクはビールを飲んだが、親父はアルコールはやらなかった。その時も、雪の降る寒い夜だった。


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