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                           ベロの辛抱

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 ご主人様は、子どものときから、随分虫歯とその治療には悩まされてきはった。大人になっても虫歯を疼かせては歯医者に通ってはったが、疼きが治まるとすぐに治療を止めるということを繰り返して、そのうち歯槽膿漏にも罹り、口ん中はさながら歯病のデパートメントみたいになってしもた。
 けど、ここ5年間ぐらいは、詰物や被せがとれて物を噛むのにかなり不自由してはったが、歯が本格的に疼くようなことはなかったから、なんとか歯医者に通わずにすんだんや。
 ところがや、昨年の夏、遂に虫歯の反乱が始まってしもた。
 今回の歯の痛みは5年間寝かせてきただけあって強烈で、ご主人様にとって、この痛みに耐え続けることなどでけへん相談やった。遂に重い足を引きずるようにしながら、職場の近くの歯医者さんの扉を叩きはったんや。
 ご主人様にはどこかひねたとこがあって、歯医者さんに通う自分自身や治療行為を茶化してみたれという思いがあるんやろな、治療に通う毎に、先生宛にちょっとした手紙を書いて渡してはった。これがその手紙の束や。あんた、まあ、一遍読んでみたって。
 ところで、おまえは何者やって? なにを隠そう、このわては、これまでご主人様の歯痛の苦労を最もまじかで見てきた、そう、ご主人様のベロでんねん。

(ご主人様が初めて歯医者を訪れた日に渡した手紙)

 目覚めれば 虫歯の痛みに 耐えかねて 白々夜明けに バファリンを飲む

 来るべきときが遂にきた。私はそう思う。
 思い返せば、私が最後に歯医者に行ったんは、5年前のことやった。そんときも歯が疼いて辛抱たまらず、今度こそは最後までしっかり治療しようと誓ってたのに、その痛みがとれたらもう歯医者通いを止めたんやった。
 あれから上の奥の歯の被せがとれたときも、下の歯がぐらついて歯茎がプックリ膨れて疼いたときも、まだ本格的な歯痛は始まらなんだから、私はなんとか耐えてきた。
 あのおろちの胴体のようにクネクネ動く金属棒のその先端の針や歯車が、クュィーンクュィーンと唸る音を聞くと、子どもの頃、下手な歯医者にかかってしもて治療の後の血が止まらず、1日中、口の中が血でネチャついたことや、化膿した歯茎の膿をとるときの耐えがたい痛みが、まるで昨日のことのように思い出される。
 しかし、もう辛抱ならん。このまま歯痛を放置してたら、私は気が狂ってしまうかもしれん。
 先生、頼んます。
 こりゃァ、総入れ歯にするしか手はないなァなんて言わんと、この歯痛のデパートメント、どうにかしとくなはれ。歯医者は私のトラウマです。ホンマ、痛うてたまらんのです。痛うないようにじょうずに頼んます。
 私は、この4月に、ほら、この近くにある大和川出張所に転勤してきたとこやから、ここらにきて日が浅いんで、先生の歯医者としての腕のほどは、まだ噂にも聞いてへんけど、病院の雰囲気からしてきっとじょうずに違いない、そう信じてます。
 ホンマ、信用してまっせ。私も今度こそ最後までばんがりますよって、先生、頼みましたで。

                                                 8月下旬 吉日 

(ご主人様が2回目の治療の日に渡した手紙)

 この前の治療の日、先生にうっかり痛み止めをもらうんを忘れてて、今日まで私はバファリン一箱とナロンエース一箱を飲み尽くし、今はもう、何かヤクチューになったように頭の中がレロレロや。
 先生は、この前、歯病のデパートメントになっているこの私の口ん中を覗き込み、レントゲン写真と見比べながら、その治療法を私に説明してくれはった。恐れていた総入れ歯は堪忍してくれはったが、さあ、これから治療が大変や。  私に最後まで頑張る自信はない。
 今日は下の奥の歯が抜かれる日。カレンダーを見るとなんと仏滅やないか!
 以下は、歯痛に耐えながら、3日前に私が書いた文章です。心情、お察しの上、先生、優しゅう、痛うないよう、しっかり頼んまっせ。

 歯が疼く。外界に皮一枚隔てた体内を、心拍に合せてかけめぐる血流の、その脈動に呼応するように歯が疼く。そんな言い方は大袈裟かもしれないが、そうでも言わなければたまらないほどに歯が疼く。昨夜、その疼きに耐えかねて口を開いて喘いでいると、妻はこう言った。
 「歯の痛みは頭に近いから痛く感じるだけで、同じ痛みでもそれが足先だったら、そんなに痛くは感じないってよ」
確かに、危険を察知した脳みそは、同じ痛みでも自分に近い部位ほど強く痛みを感じるように仕組んでいるのかもしれない。そうであるならこの同じ痛みが仮に足先にあったなら、蚊が刺す程度にしか感じないのかも知れぬ。
 なんだ、たいしたことないじゃないか、そう考えてもその疼きは和らぎはしない。
 その昔、明け方の薄明かりの中で、ほとんど一睡もしないまま鏡を見て、その中に見た頬の腫れに驚いて泣き出した少年時代を思い出す。
 歯が疼く。
 つい最近、顔ダニのことをテレビで解説していた。誰でも毛根に顔ダニを持っているそうで顕微鏡で見るとおぞましい限りだが、この顔ダニの中にも実は善玉のダニがいるから、あまり潔癖に顔を洗うのはかえってよろしくないといった内容だった。同様に、ひょっとすると虫歯菌には悪玉ばかりじゃなく善玉もいるのだろうか。今度、歯医者に確かめてみようなどと考えてみても、もちろん歯の疼きは治まりはしない。
 歯が疼く。ヒトの完璧を思う。こんなちょっとした痛みで、ヒトは人格が変形するほどに苦しむのである。平常時のヒトの体というものはなんと不思議に満ちた完璧なものであることか。
 そして人体の脆さを思う。ヒトの完璧を守っているのは外界を隔てるこの薄っぺらな皮膚のみで、そしてたった虫歯の疼きだけで平常だった昨日の私は、今日は奈落の底に落ちているのである。
 それにしても歯が疼く。昨日からあまりたいしたものを食べてはいない。なんだ、簡単なことじゃないか。あんなに騒ぎ立てているけれど、ダイエットに苦しむ世の女性は歯痛になればいいんじゃないか! 
 この世にはいろんなものを書く人がいるから「歯痛によるダイエット法」なんて本もひょっとすると出版されているかもしれない。明日、本屋さんに問い合わせてみようなどと考えても歯の疼きは当然のことながら治まらない。
歯が疼く。上沼恵美子ややしきたかじんのように、歯に衣を着せず、好き放題に物が言えるのなら、この痛み、少々我慢もできようが、私は、毎日、人に頭を下げるだけの一介のサラリーマンである。そのサラリーマンの歯がここまで疼くとはなんと理不尽であることか。
 歯が疼く。急造「マゾ」に変身すれば、この痛みも快感に変わるかもしれないと念じ、マゾになった心持ちで歯の疼きという快感を得ようとしても、その痛みは変わらない。本物の「マゾ」は急づくりの「マゾ」などすぐに見分けるようなのだ。
 夜も白々と明け始めた。虫歯よ。私は昨夜から1秒たりともおまえのことを考えないときはなかったよ。そろそろおまえも疲れたろう。夜明けがくれば、それからはきっとまた、おまえに付き合うと約束するから、これから夜明けまでの小1時間、私に安息のときを与えておくれ。

                                                  9月初旬 仏滅

(ご主人様が、3回目の治療の日に、前回の治療のことを書いて渡した手紙)

 唇が、たらこのようにぷっくり膨れてしもたような感じや。麻酔が効いてきたんやな。さあ、これからいよいよ抜歯。金属を被せた1番奥のその下の歯2本が、レントゲンでみるともうボロボロになってて、抜く以外に治療法がないと先生は言う。その歯をこれから金属の被せをとって抜こうという訳や。
 しかし待つ身は辛い。麻酔をしてからまだ10数分しか経ってへんのに、もう1時間ぐらいは過ぎた気がする。こういうときはホンマ、時間を長う感じるもんや。早う先生が来てくれて治療して欲しいような、逆に急に地震でも起きて治療が中止になって欲しいような、そんな複雑な心境や。
 しかし、あのキュイーンという擦過音を口の中に聞くと、どうしても体に力が入ってしまう。
 先生が私のところにきて治療が始まると、私は痛うもないのに、口の中に広がる金属音に両手で肘掛を握りつぶすようにぐっと掴み、体全体に力を入れてアアッと唸ったんやった。
 「大丈夫ですよ。痛くはないでしょう? 力を抜いてください。金属の被せを切っているだけですから」と先生。
 「いたけはにゃいれす」 
 痛くはないですと私は言ったんやが、口を開いたまま言葉を発したからこういう発音になったんや。
 「これが悪くなった歯ですよ」
 そう言いながら、被せを切り取ったその下の腐りきった歯肉だか歯片だかを、先生は手鏡で私に指し示したんやが、私は自分のものながらそんなおぞましいもん見とうもなかった。
 なんぼインフォームドコンセントが大切や言うても、先生、あんなんはもうええよ。

                                                   9月下旬 赤口


(ご主人様が4回目の治療の日に、前回の治療の後のことを書いて渡した手紙)

 歯を抜いた後の歯肉に舌を滑らせるとヌルヌルした。鏡で顔を見ると抜いた左頬が少しぷっくり膨れてる。なんか膨張感があって気色が悪い。
 抜歯の後に渡された注意書きにはこう書いてある。
 「今夜はお風呂には入らないように。飲酒も控えてください。化膿どめはしっかり服用してください。エッチは控えめに」
 最後の注意書きは冗談やが、飲酒をするな言われても、それは私には無理な相談や。
 (何をちょこざいな。風呂に入るな言うんはわかるが、酒を飲むな言うんは私には守られへん。それに歯が痛んだら、ちょうど酒が麻酔がわりになるというもんや)
 これは酒飲みの正当な屁理屈である。
 翌日、抜歯の結果を見たいんで、病院にくるようにとの先生の指示に従って、私は病院に行った。抜歯の結果を見るだけで治療はない。気が楽である。
 「どうですか。歯は痛みましたか?」
 「ええ、ちょっと痛んだんで、酒で麻酔をしましてん」
 先生の目が笑っている。
 「ちょっと腫れていますが、大丈夫ですよ。この腫れも徐々に引いてきますから。でも化膿止めは必ず飲みきってくださいね。え、右の上の歯が沁みて痛いって? そりゃァ、そうでしょう。この歯は神経は死んでませんが、ひどい虫歯になってます。その虫歯の奥の歯は、ほら、ご覧なさい。神経も死んでしまって、抜くしか治療方法がありません。それじゃァ、次回は、この2本の歯を治療しましょうか。歯が沁みるのは辛いでしょうから、今日は、この歯にジェラシードを詰めておきましょう。ジェラシードって何かって? ああ、これは仮の詰物ね。気休め程度の効果しかないけどね」
 今日の治療費はしめて170円やった。安い。ダイエーの安売り発砲酒は1本98円だから、もうちょっとでその発砲酒が2本買えるほどの料金である。しかしこれは治療費全額ではない。一部負担金である。私は考えた。
 (自己負担が3割で170円言うことは、治療費をXとしたら、Xかける十10の3が170円やから、Xイコール170円割る10分の3が治療費と言うことや。そんなら170円を3で割ったら何ぼや。あれ? 割り切れへんのとちゃうか? まてよ、なんか計算おかしいんかいな。ええい、こんがらかってしもた。計算機がないとようわからん! もうええわ)

                                                   10月初旬 先勝


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