37 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB たけしの笑いはスポーツ
自分が好きな笑いは、ドキュメンタリー、ノンフィクションのテイストである。
どういうことか?
たとえば、SNSで下らないつぶやきなどする時。冗談だよ、笑ってねというのを思い切り打ち出すのではなく、自分のカッコ悪いところをそのまま、あるいは大げさに拡大して書くような。
ベタで分かりやすい例を出すとすると…
「今日は宮澤佐江ちゃん(※1)と妄想でデートしちゃいました~」
というような言葉で笑いをとりたい時、言葉の最後に (笑)や、「な~んちゃって」というような言葉をつけないということ。
それをつけることで、妄想でアイドルとデートするカッコ悪さは半減するかもしれないが、笑いも半減する。
あくまで真面目な体裁でそれを言うのがいい。できたら「しちゃいました」などよりも、もっと淡々とした言葉で。さらに、「デートした」という漠然とした言葉より、具体的に何か描写した方がいい。
それを100%真に受けてしまう人もいるだろうが、それは受け取る側の想像力不足ということで。
芸人で言うと、自分はダウンタウンの松っちゃんがめちゃくちゃ好きである。
彼の笑いは、ノンフィクションのテイストだ。
あり得ないことを飛躍させてボケる時も、淡々とした口調で放つから面白い。
それに比べて、もう1人、天才と称されるビートたけしの笑いは、「はい、ボケましたよ~」「ここで笑って下さい~」という、分かりやすいボケだ。
たけしに関しては、彼の映画は大好きなのだが、笑いはそれほど好きではない。
そして、昔から印象に残っているのが、プロレスに関しての彼の発言。
いろいろなことを言っているのを聞いたが、要は、プロレスはヤラセである、という事をいろいろな言い方で言っているのと、これはハッキリそう言っているのではないが、なぜああいうヤラセのどこがおもしろいのか、と思っているのが見てとれるのだ。
不思議なのは、彼の食いぶちの1つである社会評論においては、世の中の規範や常識とは違った物の見方を言うことを芸風にしているのに、プロレスに関しては、前述したように「プロレスはヤラセ」などという、要するにそこらのおっさんが言うような平平凡凡のことしか言わないことだ(笑)
松っちゃんの、ノンフィクション的な笑いというのは、プロレスに通じるものがある。
建前の世界を、これは建前ですとは絶対に言わずに生身の人間がパフォーマンスするプロレスという世界と、「ここ笑うとこですよ」という笑いではなく、ノンフィクションのテイストで、とんでもないフィクションの世界を構築している松っちゃんの笑い。
だから、たけしがプロレスを理解できない一方で、松っちゃんがプロレス好き(格闘技も好き)で、たびたび観戦しているのも、頷ける話だ。
そして、週刊誌やネットで書かれていることで、どこまでが本当なのか分からないが、たけしが「AKBがなぜ売れているのか分からない」等とAKBを批判してるらしいが、ああ、プロレスが分からない人にはAKBも分からないだろうなと合点がいった。
さらに、松っちゃんは最近は丸くなってあまり毒を吐かなくなったが、昔はよくスポーツに…特にメジャースポーツに毒を吐いてた(※2)一方、たけしは野球好き。
松っちゃんがAKBをどう思ってるか分からないが、彼がノンフィクションテイストの笑いで、プロレス好き、格闘技好きで、メジャースポーツ嫌い、たけしが分かりやすい笑いで、メジャースポーツ好き、プロレス嫌い、AKB嫌いであること、そして自分が松っちゃんが大好きであることは、自分の中では全部繋がっている。
笑いがノンフィクションの雰囲気の方が深みがあって面白いのは当たり前だ。
人間の業の肯定が笑いなのだから。
(※1)AKB48、チームKのメンバー。自分の推しメン
(※2)自分の記憶にある発言の中のいくつかを挙げていく。
・次週の「HEYHEYHEY!」がバレーボールのワールドカップ?でお休み、となることを浜ちゃんが予告した際に「バレーで俺の番組がつぶれる…最っ悪ですね」
・サッカーに「あんなもん何がおもろいねん」
・ホラ話をするのが定番だった、昔の「ガキの使い」のハガキのコーナーで、横綱の次は?との問いに「大関」 浜ちゃん「正解。」 松っちゃん「はっ…当たってもた。ホンマに知らんからボケるにボケられん。」
・著書で、サッカーのワールドカップが視聴率50%近くをとったことに関して「まあ、でも裏を返せば半分の人は見てないわけで。」「頑張れ頑張れと言ってる皆さん、おまえらが頑張れよ」
また、「ごっつうええ感じ」の打ち切りの原因が、松っちゃんに無断で同番組を野球の試合に差し替えたことに松っちゃんが激怒した事なのは有名な話。
38 ノンフィクションテイスト プロレス=虚数という概念
昔、「笑っていいとも」のテレフォンのコーナーで、翌日のゲストを呼ぶ電話をした際に間違い電話をしてしまい、一般人のおじさんが出て、それをタモリが面白がって会話した末、なんとそのおじさんを翌日のテレフォンのゲストに呼ぶという事件があったのを最近知った。(※1)
それを知った時、まっさきに「プロレスっぽいな」と感じた。
その事件(?)の何が「プロレスっぽい」と感じさせるのか。
ノンフィクション性である。
プロレスはエンターテインメントだ、ショーだと言っているではないか、と言われそうだが、あくまでその建前はガチンコ、ノンフィクションである。
「軍団抗争」も「遺恨」もすべて。
そこにプロレスの特殊性があり、独特の面白さがあるのだ。
大の大人、同じ会社に所属する大人どうしが敵になったり味方になったり、あるいはどんなにガチンコではあり得ないような技や展開であっても、演劇や映画と違い、あくまでこれはガチンコだという建前をとる。ノンフィクション性を貫く。であるからこそ、ファンタジーたり得る。
これは嘘の話ですよという前提に立つテレビドラマや映画は、それを見る側の視点に立てば、中身がどんな魔法や妖精が出てくる話であろうと、真のファンタジーたり得ない。嘘だって言っちゃってるんだから。
どんなものであっても、真のファンタジーたり得ようとすれば、これはガチンコだと言い張らなければならない。
見る側がそれを分かっていたとしても、ガチンコだと言い張り続けてくれることで、ファンタジーたり得るのだ。見る側の素質にもよるが。
同じようにプロレス的だなとまっさきに感じたのが、2012年5月2日に、乃木坂46のセカンドシングルとAKBの指原莉乃のソロデビュー曲が同日発売し、その対決がAKBや乃木坂の番組で盛り上げられていった件である。
これは、乃木坂CDの付属DVDの、メンバー33人それぞれとの妄想デート映像に対抗し、指原CDのDVDには、1人で33パターンでの妄想デートを収録したり、番組内で両者がゲームで対決したりと、「仲がいい対決」だ。
プロレスやアイドルをバカにする、貧しい感性の持ち主ならば「ヤラセじゃねえか」などと、この上なくどうしようもないセリフをはきそうなところだ。
これは、両者の「対決記者会見」(※2)で、乃木坂メンバーと指原が丁々発止のマイク合戦をやっている時に、指原が発言する前に机上の台本をチラリと見る仕草をして笑いをとったように、誰が見てもわかるエンターテインメントだ。
そうであっても、マイク合戦もノンフィクションの体裁で進行をしている点、そして、最初から、そういう盛り上げ狙いで同日発売だとしても、実際にどちらが売れるかはファン次第でありガチであり、それを両サイドが気にするのもガチだ。
プロレスの「遺恨」が嘘であっても、リングでぶつけ合っている肉体はまぎれもない本物で、本物の痛みと共にそれを行っているように。
先のいいともの件は、間違い電話というノンフィクションをエンターテインメントにしたケース。もしこれが最初から仕組まれていたことなら、エンターテインメントをノンフィクションの体裁にしたもの。
乃木坂とさしこの対決は、CDの話題作り、メディア内での「対決」というエンターテインメントとプロモーションを展開するため、「同日発売」というまぎれもないノンフィクションを作ったもの。
どちらも、ノンフィクション(実)とエンターテインメント(虚)が表裏一体、つまりプロレスになっている。
ノンフィクションが云々でエンターテインメントでどうたら、などと冗長な説明はいらない。「プロレス」という一語で見事に説明がつくのだ。
いいともの件は、翌日に素人のおじさんを呼んだところで「すごいプロレスだ!」
乃木坂とさしこの件は「おもしろいプロレスするなあ!」
この「プロレス」という概念があるかどうかで、世の中を観る目が変わる。
「何言ってんだ、この世にはホントかウソしかない!」
たしかにそうです。
しかし、ガチ(実数)とウソ(負数)の他に、あり得ない数…虚数(プロレス)という概念があった方が世の中を正確に、そして楽しく捉えられる。
さらに言うと、この世に本当に実在するのはガチ(実数)だけ。
ウソ(負数)も人間の脳でのみあり得るものであり、ウソをついている(負数をつくっている)人間がいる、というガチがあるだけ。
同じく、プロレスも突き詰めれば、「『プロレス』をやっている『リアルな人間』」の姿が浮かび上がる「ガチ」
ウソやプロレスを否定する人間こそ、リアルな実像を見れない似非科学者である。
※1 本物のゲストが出るテレフォンのコーナーとは別に時間を設け、そのおじさんが本コーナーと同じように翌日のゲストとして友達を呼び、それは3日間続いたとのこと。ちなみにこの間違い電話事件がガチだったのかどうなのかは知らない。ガチであったとしても、そうでなかったとしてもプロレス的展開である。
※ 2 「有吉AKB共和国」で放送。
39 バナナはリンゴか? この世に「嘘」はない
前項の最後のページの補足説明。
この世にウソは何1つない。
いや、あるのだが、それは人間の頭の中で観念上、存在するだけ。
例えば、バナナを指さして「これはリンゴです」と言ったとして、それを「ウソ」と言うのは単に人間の観念。まあ、言葉というものが観念なのだから当たり前。
しかし、事実…究極の事実は、バナナなる物体を指差して「コレハリンゴデス」と言っている人間なる生き物がいるだけだ。
その現象を見る人間の観念の反応の1つに「それはウソだ」と蔑む、という反応がある。
その他、何も感じないという反応、言葉のまま「それはリンゴだ」と思う反応、いろいろあるだろう。
プロレス、AKBのファン、さらに皇室を敬愛する国民は、それは決して「リンゴ」ではないことを知りつつ、バナナを「リンゴです」と言っている「人間」に興味を示し、見定め、愛するという反応をする。
純粋無垢でずっと笑顔でいる人間などいないことを知りつつ、そういう夢を見せようとステージで頑張って笑顔でパフォーマンスする「人間」を見て、その夢をともに追う。
勝敗は決まっていることは知りつつ、強さを表現するためにぶつかりあい、本物の痛みと汗まみれになっている「人間」を見て、尊敬の念を抱く。
神話と史実は違うことを知りながら、神話を背負ってお役目を果たされている天皇陛下を敬愛する。
一方、アンチは、ステージや握手会での笑顔、リングの上でぶつかりあう身体、陛下の微笑みを「嘘じゃねえか」としたり顔で見下す。
どちらが真実を直視しているのか?
反応の違いが分かれる重要なポイントは、バナナをリンゴと呼ぶことをウソとかホント云々言う以前に、そもそもの話として「バナナ」という名前は勝手に世の中の人間が定義したものであることを認識できているかどうかであろう。
40 嘘でも本当……華やかな虚構の世界を成り立たせるために流されている本物の汗
第8章 45<AKB握手会の笑顔を「営業」と見下す者は、人間そのものを見下している>で、
「落ち込んで飲みたい友人と一緒の酒の席で、『もう疲れたから帰りたい』と思ってたら、それを『本音で』正直に話すのが、『本物の』関係なのだろうか?
疲れて帰りたいけど『もっと飲もう』と『嘘』を言って付き合う気持ちが『本物』」
と書いた。
これは普段の生活の中での「本物」の気持ちの表れの1つを表現したものだが、これを本著でとりあげているテーマに当てはめて考えると…。
天皇陛下が、各機会にお言葉を述べられる時、手元の原稿を見みながら読み、その原稿が宮内庁の役人なりが書いたものであったとして、その言葉を聞く側は、そのことをマイナスと捉えるだろうか?
東日本大震災発生の3日後、陛下はカメラを通して、国民にお見舞いの言葉を読まれた。
手元の原稿を読みながらのお言葉だった。
感激した人も多かったと思う。原稿がどのように実際に完成するものかは知らない。陛下御自ら起草されたものかもしれないが、もし仮にあれが役人のつくったものであったとして、それを知ってその感動が消えるという人は少ないと思う。
原稿が誰が書いたものかは問題ではなく、天皇陛下が天皇としてのお役目を果たそうと、ああやってカメラの前で語りかけているお姿に励まされるのだ。
原稿を書いたのが役人だったとして、それを読まれている陛下のお気持ちが「嘘」と言えるのか?それを読まれて天皇としての役割を果たし、国民を励まそうという陛下のお気持ちは「本当」ではないか。
プロレスを「嘘」と表現する人。
たしかに、勝敗を競っているのは建前であり、その意味では虚構であるといえる。
が、いい試合をして観客を満足させよう、プロレスから元気をもらおうとするファンの気持ちに応えようと身体を張っているのは「本当」である。
嘘と思うなら、やってみればよい。テキトーな気持ちで、人を感動させるプロレスができるかどうか。
いい試合をし、自分のキャラクターを磨きあげ魅力的なものにしていけば、上にあがり、メインイベンターになれる。上を目指して身体をはって必死に頑張っているのも「本当」だ。
時々、先輩レスラーと新人のチャレンジマッチ的な試合が組まれる。新人が先輩の胸を借りてくらいついていき、最後は負けて、先輩や観客に健闘をたたえられて終わる、というのが定番。
その試合で、ガチンコでは新人の方が強かったとしたら、リング上に見える風景は「嘘」か?
たしかに、虚構ではある。
しかし、体育系社会で先輩相手の緊張しながら、まだ試合の組み立てが下手な新人が、先輩が引っ張る試合の組み立てについていき、観客を沸かせようと頑張り、そしてそれが果たせた安堵感と、そんな彼を讃える先輩や観客の気持ちは「本当」である。
プロレスの技は、かける方と受ける方の呼吸がずれたり、失敗した時には非常に危ない。
誰が見てもよけられるのに受けることが分かる、トップロープから、また、場外への飛び技は、その「ガチではあり得なさ度」から、軽くみられがちだ。
だが、あれはリングという空間で見てるからなんとはなしに見てしまうが、ジュニアヘビー級でも体重80、90キロあろうかという人間があの高さから、時にはアクロバットな回転などもいれながら飛んで、それを下の人間が受け止めてお互いに怪我がないようにするのは、一歩間違えれば大怪我を負う、身体を張った芸当なのだ。(実際、それで一生の障害を背負ったレスラーもいる。)しかも、それは一発の技をせーのでやって、終われば拍手でとりあえず終了、また定位置に戻って呼吸を整えて…ではない。プロレスの試合の流れの中で、それをこともなげにやっていかなくてはいけない。
その他にも、投げ技、打撃…危険が隣り合わせの身体を張ったショーでの緊張感、そういう危険な芸当を受け止められるだけの身体、成り立たせるための受け身、技の技術、それらのための練習。そこでは、まぎれもなく人間の本物の汗が流されている。
こんなこともあった。
芸能人を多数リングに上げて(花束贈呈などの余興ではなく、プロレスをさせるため)これまで日本にはなかった大規模の派手なショーアップのしかたでブレイクした「ハッスル」という団体。
その横浜アリーナのビッグマッチでのメイン。
試合は、リング上の“高田総統”(高田延彦)の化身“ジ・エスペランサー”の放った“レーザービターン”(振りおろした手から放たれるビーム)を、リングから離れたステージに登場した、“妖精さん”(小池栄子=エスペランサーの対戦相手・坂田亘の妻)に盾で跳ね返され、そこに坂田亘(小池栄子の夫)が蹴りを入れてエスペランサーの身体が爆発(コスチュームに仕込んでいた火薬を破裂させる特殊効果)し、坂田のフォール勝ち、という流れ。
ステージからリングまでの花道を爆薬がパン!パン!パン!パン!と爆発していき、最後は、とどめの蹴りで身体の爆薬が爆発し、ゆっくり前のめりに倒れるエスペランサー…。
そういうスタイルのプロレスの後、興行の締めとなるマイクを持った坂田が、当然、メインの内容に沿ったことを喋っていた。
「仲間に支えられてやっとエスペランサーを倒せました」的な、ふつうのマイクだったが、それが途中で、「やっと倒せた」ことが、「仲間に支えられてメインのプレッシャーに負けそうになりながらも役目を果たせた」という内容にそのままスライドし、涙を流し始めた。
“レーザービターン”を“妖精さん”が跳ね返し、とどめのキックでエスペランサーが爆発したことは子供でも分かる虚構だが、その一連の流れを、しっかり絶妙のタイミング(=間)で成功させ、興行のメインを成功させようと流した汗は、まぎれもなく本物である。(プロレスに限らず、ショーの命はタイミング=間、である)
このマイクでの涙が、予定していたものあったかどうかは分からない。
しかし、リングスという格闘技系プロレス団体出身で、このスタイルのプロレスのキャリアがそんなに長いわけではない坂田が、大舞台のメインを任されて、当日までの長いプレッシャーから、無事メインを成功させた安堵と喜びの感情はまぎれもなくあっただろうし、自分は、そのことで流した涙であったろうと想像した。
アイドルという存在の起こりについては、第1章 5<天皇を存続させた日本人のメンタリティが日本のプロレス、アイドル、AKBを生んだ>で書いているが、芸そのものではなく、異性の若さという魅力を楽しむための芸…歌、ダンスなど…を身上とする彼女達(彼等)につけられた「アイドル」という言葉は、ともすれば「実力がない」「軽薄なもの」という言葉に近い感覚で用いられる。
第7章 42<アイドル、プロレスラーの「実力」>でアイドルの「実力」について考察するが、アイドルとしての実力、という捉え方がある。
そのような、アイドルとしての実力、という捉え方からしても、また、それと大きく関係している芸そのものの実力という意味においても、アイドル冬の時代の90年代を経て、00年代のモーニング娘。あたりからであろうか?、現代のアイドルは、70~80年代のアイドルよりは、求められるパフォーマンスレベルが高くなっている…特にダンスはずいぶん難しく、激しくなった。
特にAKBのメンバー、スタッフが1つ1つの作品やライヴにかけている手間ひまは尋常じゃない。(具体的には次項第7章 41<AKBの尋常じゃない汗の量>)
なぜそうなるのか。
もちろん、なによりも見ている人に少しでも元気を届けたいという気持ちであり、それはひしひしと伝わってくる。
そして、もう1つ。
夢に向かって成長していくドキュメンタリーを見せてくれるのがAKBの醍醐味であり、いい作品、いいライヴをつくるために努力すると同時に、人間かいている汗、胸いっぱいの努力そのものを見せたい、という意図。ダンスの振り付けもそのために激しくしたりしているのでは…などと想像したり。
ライヴや総選挙のリハーサルや終了後のバックステージなどには、取材陣を多数入れている。
アイドルがスッピンで、リハーサルで同じグループのメンバーにダメだしをしているところなど、普通ならば「マイナスイメージ」ととらえて表には出さないものだが、AKBではそのようなシーンは映像として公開され、ファンはよく目にする光景だ。
華やかな虚構の世界を成り立たせるために流されている本物の汗。
これがプロスポーツの世界ならば、見ている方はゲームの面白さを味わうと同時に、ダイレクトに、懸命に頑張っている姿を見て感動することができる。
しかし、アイドルのコンサートなどの華やかなショーでは、そうはいかない。
彼女達はショーのさなかは、とびきりの笑顔で、歌って踊って人を楽しませる。
AKBはそのコンセプトから舞台裏の汗を映画などで公開はしているが、少なくともショーの最中には、それを成り立たせるための悲壮なまでの努力は見せない。見せないようにすることにも努力している。
プロレスにしても、AKB、アイドルにしても、虚構であるが、虚構で人を元気にさせたり、感動させるためにはものすごい本物の努力が必要なのだ。
そして、どのジャンルでも、そのジャンルの見巧者達はその本物が見える。
というより、素人であっても、細かいことは分からずとも、偏見という心のフィルターがない人間ならば、努力しているショーを見れば、表面の奥の一生懸命さは分かるはずである。
41 AKBの尋常じゃない汗の量
48グループのメンバー達は、常設の劇場で行う劇場公演曲(1つの公演で15曲ほど。半年~2年ほどで新しい公演になる)、シングルで発売される曲の歌、ダンスをそのたびごとに覚えていく。
曲ごとに、大人数で複雑に位置が入れ換わるフォーメーション。位置が違うと振りも違う。
ここまでも中々大変だが、もう1つ。
曲によって人によってそれぞれの位置があるのだが、AKBは劇場公演や歌番組だけをやっているのではない。
各人、バラエティやドラマ、ラジオ、グラビアなどの個人や派生ユニットの仕事があるため、全員が揃うことは少ない。
そうなると、欠けたメンバーの位置の振りを代役を務める誰かが憶えねばならず、さらには人数も変わってくれば、フォーメーションそのものもその日用に変えなくてはならない。
つまり、日によって新たなことを憶えてこなさなくてはならないのだ。
そのような、歌、ダンスの練習、リハ、本番にとられる時間の他に、各人が派生ユニット、個人の仕事を持ってやっている。
曲によってダンスの激しさも目をひく。
映画「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」は、2011年のAKBの活動を追ったドキュメンタリー。
なかでも圧巻だったのが、自分も見に行った、7月に行われた西武ドームでの3daysコンサートの舞台裏。
熱中症や過呼吸でバタバタ倒れるメンバー。
プレッシャーによる過呼吸で発作をおこす前田敦子や大島優子の姿は、これを公開していいのかというほどのあられもない姿。ふつうの、従来のアイドルならあの姿は公開NGだろう。 しかし、泥臭さ、汗臭さをそのまま見せていくのがAKBのコンセプト。
過呼吸から一時ステージをリタイアし、再び戻ってきてもなお呼吸が定まらないあっちゃんが、「フライングゲット」のスタート、いったんメンバーの人山にうずもれてスタンバイした一瞬後、音の出だしと同時に立ち上がって笑顔をつくった瞬間にはシビれた。
たぶん、世間一般のAKBに対するイメージは、大人の金儲けのために集められた女の子がかわいい服着せられて媚びた歌を歌って踊ってるチャラチャラした集団、というところだろう。
まあ、自分自身、ハマる前までは遠からずそんなイメージだったが、世間一般のイメージと、しっかりと見た実際の姿がこんなに違うグループもなかなかないのではないか。
ミュージックビデオのつくりもかなりの見応えである。
自分がAKBにハマったきっかけは、ミュージックビデオ。
その、それぞれの曲の世界観を実に手間暇かけてあざやかに表現している力作の数々がきっかけになったファンは多い。
シングルの発売ごとに開催される握手会。
握手会のことを「1枚たった10秒でぼろい商売」と書いてる週刊誌があったが、想像力不足も甚だしい。
個別握手会(※1)は、1部1時間半で、ある程度以上の人気メンバーであれば、1日6部ある。その間、10~30秒ごとに次から次へとながれてくるファンと握手する。ただ握手するだけではない。笑顔で、それぞれのファンの話しかけに対応し、喜んでもらえるよう努力している。
自分のファンが、それぞれ応援メッセージや感想を言いに来てくれるのだから(よほどイタイ1部のファン以外は)嬉しさ、楽しさもあるだろうが、それでも大変な仕事には違いない。個別握手会1回で、たいてい2~3人は体調不良で中断、中止になるメンバーがいる(※2)
握手の対応の良しあしが総選挙の順位にもしっかり反映されている。
そういう仕事の数々を、高校生、大学生、なかには中学生のメンバーは、学業とともにこなしている。
2012年4月にSKE48のエース、15歳の松井珠理奈が過労のために入院してしまった。
メンバーのみならずスタッフの苦労も相当なものである。
その中から1つ、衣装のことを挙げよう。
劇場公演では、その曲にあわせてデザインされた凝った衣装も見どころの1つだが、基本的に1人1着。世界に1着のオリジナル。楽屋でスタッフ達が必死でドライヤーで衣装を乾かしている様子がドキュメンタリーで流されていた。
ちなみに衣装は、1つの公演で約90着、それが各チーム各公演ごとに用意される。
シングルでは、それぞれの曲の世界観にあわせた衣装が、統一感を持たせながらも、個人個人の個性にあわせてアレンジされていたりする。普段からコミュニケーションをとってメンバーそれぞれの個性を熟知しているスタイリストがデザインしている。(「QuickJapan vol.87 AKB48永久保存版大特集」)
2011年7月の西武ドームコンサートで用意された衣装は900着以上。
2012年5/3〜5/24、AKBリバイバル公演「見逃した君達へ2」で使った衣装は、2387着(終了日ののグーグルプラス(※3)でのサルオバサン(広報の西山さん)の書き込み)
AKBの衣装さん達には頭が下がる。もちろん、他の部門のスタッフにも。
まず、あれだけの大人数を管理する大変さ。小劇場で毎日のように行われる公演を支える仕事。グループ総出演…200人を超すメンバーの出演するアリーナ、ドームコンサートの運営。普通にこなすだけでも大変な仕事だが、いいものをつくろうという熱意が作品、イベントを通じて伝わってくる。
秋元康の曲作りへの妥協のなさも有名である。
1つのシングルの曲を選ぶのに1000曲以上を聴き、詞をつけて完成させていく過程で何度でも作曲家に修正を指示し、やりとりを重ねて行く。
ミュージックビデオにおいても監督選びから最高のものをつくろうという熱意で突き進んでいく。
その、妥協のない仕事っぷりは、関係書籍において、数々の作曲家、監督、劇場関係者などが語っている。<参考文献>のページを参考にして、読んでみてほしい。(※4)
AKBが売れた原因を世間一般では、アイドルの売り出しに長けた秋元康が頭の中で戦略をちょいちょいと考え、そこに電通やらがのっかってホイホイと順調に、想定通りの展開で金儲けしてるようなイメージだろうが、実際は全く違う。
AKBのこれまでの歩みやそこにあったエピソードを書いていけばそれだけで1冊の本になるので…実際、「AKB48ヒストリー」という本があるので、その本や、<参考文献>に挙げた本など読んでもらえば分かるが、戦略通りとか順調といった言葉からは程遠い、スタッフとメンバーの試行錯誤の連続、悪く言えば行き当たりばったり、とにかくファンの声を直に聞きダイレクトに運営に反映させ(※5)、その時々で作品、劇場公演、運営の改善に惜しみない力を注いで努力した結果が現在のブームである。
もちろん、電通のバックアップその他の「大人の事情」によるものも大きかったには違いないが、それだけではフワフワしたブームは作れても、劇場の、イベントのあの熱気、AKBについてクソ真面目に語る大人(こんな文章を打っている自分も含めて)の熱をつくることは到底できなかったろう。
アンチの中には、「大人の事情」「裏話」だけをネットその他で収集し、せいぜいバラエティや地上波歌番組でシングルをちょこっと聞いて、それだけでAKBの全てを知った気になっているのがいる。
AKBの核でAKBそのものと言ってもいい劇場公演も見ず、基本的なシステムも知らず、真偽怪しげな裏情報ではない発言主が明示されている各種書籍の中のスタッフやメンバーの言葉も読まずに。
例えるなら、野球のルールも知らず、見たこともなく、バラエティ番組に出てる選手やスポーツニュースの中で映る野球だけを見て、ネットで野球の経営にまつわる「大人の事情」やスキャンダルだけを収集して野球を批判しているのと同じだ。奇態である。
先に、秋元康が頭の中でちょいちょいと考えた戦略で…は違うと書いたが、最大の戦略があったとしたら、劇場という核を持ち、メンバー、自らも含めたスタッフが手間暇かけ、汗を書いていいものを作り、ファンの声を吸い上げながら、メンバーの成長していく過程、人間ドラマをそのまま見せようという“戦略”だろう。
その他にもいろいろな原因があったとしても、それなくしては現在のような熱をもった人気はなかったことは確かである。
※1 全国握手会と個別握手会がある。全握はミニライヴがあるが、握手の時間は1人2~3秒。どのメンバーのいるレーン(複数メンバーのいるレーンと、特に人気あるメンバーの1人レーンがある)に行くかは当日決められる。個別握手会は、事前に指定して申し込んで券をとったメンバーと1枚約10秒握手できる。3枚までまとめ出し可能。ミニライヴはなし。
※2 その場合は返品(返金)もしくは、後日の振り替えかを選べる。
※ 3 48グループメンバー、及び秋元康をはじめ、スタッフも何人か参加しているSNS。ファンもメンバー、スタッフの投稿に対しコメントでき、今や48グループの、メンバー・運営側とファンの主要な交流の場となっている。
※4 ぐぐたすで秋元康が自分のページで「業務連絡」として作曲家やレコード会社の担当者にダメ出しや、やり直しを命じたりして曲のできるやりとりの一部を公開したり、コンサートの反省点を書いたりしている。
※5 初期の頃は劇場ロビーで秋元Pがファンと交流し、劇場支配人がファンの溜まり場のファミレスで話を聞いてたりしていた。現在も、劇場支配人が握手会でファンの要望を直に聞く「支配人の部屋」の開催、ぐぐたすでのファンとの交流の他、ファンとダイレクトにつながろうという姿勢は変わらない。メンバーもぐぐたすや握手会で直にファンからの感想(時にはダメ出し)を聞くことができる。