目次
はじめに・出版社の方へ・目次
<2013.5.7追記、お詫び>
はじめに
出版社の方へ 紙の書籍としての出版先募集してます
目次
第1章 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か
1 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か
2 天皇、プロレス、AKBが攻撃される理由
3 「プロレス、AKBのファンは虚像を見ている」と見下す者こそが虚像を見ている。ファンが見ているのは実像
4 アイドル、プロレスファンこそ現実を直視している人間
5 天皇を存続させた日本人のメンタリティが日本のプロレス、アイドル、AKBを生んだ
第2章 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
6 AKBの核・劇場公演とは?
7 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
8 AKB総選挙批判に対して 遊びに貴賎がつけられている不可解さ
9 AKB総選挙批判は、ジョーシキに染まっている人間が浮き彫りになる
10 なぜAKBがことさら攻撃されるのか、その理由
11 根っからの“ジョーシキ”嫌いにとっては、AKBは「買い」
第3章 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー
12 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー
13 格闘技のリアリティ
14 リアリティなら、“真剣勝負”の格闘技よりプロレスの方が上
15 アイドルこそは最もリアリティある世界
16 リアルとリアリティの違い
17 人間はみなプロレスラー、アイドル。人生はプロレス
18 虚実が入り混じっているプロレスとアイドル、そして人生
第4章 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室
19 ファンが支えているプロレス、AKB。国民が推し戴いている天皇
20 国旗、サイリウム、掛け声…人間を推し戴く表現手段
21 天皇、プロレスラー、アイドルは「上」でなくてはいけない
22 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室
23 「人間」を観るジャンル
24 「いかがわしさ」には「いかがわしさ」を
第5章 プロレスとAKBこそ人間の色気が最も見られる
25 AKBの歌のベースは 色即是空 
26 AKBの楽曲の世界
27 “AKB顔”
28 少女達の大人数集団の独特の魅力
29 共同体と個人競争の社会
30 プロレスとAKBこそ人間の色気が最も見られる
31 物語の流れ、歴史、記憶の蓄積があってこその、AKB、プロレス、皇室
32 登場シーンに集約されるプロレス、AKBの魅力
33 サプライズは人間ドラマの花形
34 共同幻想
35 偏見が熱気、パワーを生んでいる
36 「商売」が嫌いなアンチ達
第6章 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB
37 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB  たけしの笑いはスポーツ
38 ノンフィクションテイスト プロレス=虚数という概念
39 バナナはリンゴか? この世に「嘘」はない
第7章 フワフワしたものが嫌い、だからAKBが好き
40 嘘でも本当……華やかな虚構の世界を成り立たせるために流されている本物の汗
41 AKBの尋常じゃない汗の量
42 アイドル、プロレスラーの「実力」
43 フワフワしたものが嫌い、だからAKBが好き
第8章 AKB握手会とは何か? ファンとメンバーの1回10秒のプロレス
44 参加するという行為  皇居一般参賀、AKB握手会、プロレス地方興行の風景
45 AKB握手会の笑顔を「営業」と見下す者は、人間そのものを見下している
46 推しメンとファンのプロレス
47 乃木坂46
48 「ガチ」か「嘘」でしか捉えられない無粋人間
第9章 プロレスやアイドルの「嘘」にキレる人間は、世の中の本当の嘘に騙される
49 既成概念でしか物事を捉えられない人々
50 ジャンルそのものを見下す愚かさ
51 プロレスやAKBを見下す類の人間は、切り捨て御免の侍
52 軽薄、非実力、キモイの代名詞として使われている「AKB」というデジタル記号
53 アンチプロレス・アンチAKBは、見ている世界と同じ色に染まるカメレオン
54 プロレスやアイドルの「嘘」にキレる人間は、世の中の本当の嘘に騙される
55 真正面から見る目がそのジャンルを育てる~プロレス、アイドルの進化~皇室を学ぶ必要性
56 皇室、プロレス、アイドルを愛する者は物事に意識的な関わりをする文化人
57 指原スキャンダルに見る、理想のファン像
終わりに、参考文献、奥付
終わりに
参考文献
奥付

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21 天皇、プロレスラー、アイドルは「上」でなくてはいけない

 タワーレコードの社長がアイドルヲタクで、「タモリ倶楽部」に出演してアイドル愛を語っていた。

 そのような立場であれば、CDの入手や、ライヴの入場なども関係者として、なんならバックステージにも入れそうなものだが、彼は基本的には自腹でCDを買い、ライヴに行き(たまに招待で行くこともあるとのこと)、生写真を買ってるという。

 本人はそれを「僕らが支えないと(ファンがお金を出さないと)彼女達が長続きしないから」と話してたが、それももちろんあるだろうが、それ以上に、全てを「関係者」「偉いさん」の立場で見れるようになったら、自分とアイドルとの関係性が崩れてしまう、自分の「アイドル」が「アイドル」でなくなってしまうのを分かっているからではないだろうか。

 

 客席から舞台を、または自室からテレビ画面を通して見てこそ、アイドルはアイドル足りえるのだ。

 握手会などの、ほんの短い時間、目の前に降りてくるからこそ「アイドルと握手している、話している」興奮と喜びがある。

 「会いに行けるアイドル」というコンセプトと共にスタートし、「握手会が1番重要な仕事」(秋元康)なAKBにおいても、あくまで「アイドル」と会えるから楽しいのだ。

 握手会がエスカレートし、例えば「お酒の接待をしてくれる会」などになったら、もはや自分にとってのアイドルではなくなってしまう。

 身近に感じる「アイドル」だからいいのであって、ほんとに自分達と同じところまでおりてきては「アイドル」足りえない。

 

 プロレスラーもそう。

 昔のプロレスは、完全にプロレス側が上、観客は下、だった。

 その日の興行に至るまでの流れは、自分で雑誌等を見ていかなければ分からない。

現在は、ちょっとした規模の会場、とくに東京なら小さな会場でもスクリーンを設置し、開始前に“あおり映像”で、それまでの流れだったりインタビューを流すことで、初めての観客にもストーリーが理解できるようになっていることが多い。(昔より今の方がストーリーが複雑な場合が多いせいもあるだろうが)

 昔は、何の前触れもなく、18時半になって、カンカンカンカンカン…と無機質なゴングの音が鳴らされると同時に若手が静かに走ってリングにあがり第1試合が始まり(昔は前座レスラーの入場にはテーマ曲は鳴らされなかった)、メインが終了すれば、メインイベンターは勝ち名乗りを受けた後、黙ってリングを降りて花道を引き揚げていき、リングアナの「本日の試合は全て終了致しました。またのご来場を」という言葉と供に、観客は、特に言葉を発するでなく引き上げていくメインイベンターの背中を見ながら帰途についたのである。
 今は、試合前にはリングアナ、もしくはレスラー自身による、“前説”があり、興業の最後には、誰かが〆のマイクをして終わる。(その団体、興行によっても違うので必ずとは言えないが)
 「1、2、3、ダー」や、「3、2、1、ハッスルハッスル!」みたいに観客にも参加させてその団体お決まりの〆の唱和をして終わりという団体も多々。
 昔は、マイクアピールなんか1つの興業で1つもない時の方が多かったなんて、最近見始めたファンには信じられないだろう。

 

 今のプロレスは開始時間にちゃんと始まる。
何を当たり前のことをと思うなかれ、昔は殿様商売、試合開始時間が遅れるのは当たり前、インディーによっては…思い出すのはWING()(※1)、平気で30分くらい遅れてたりしてた。
 今はそうそうお客様を待たせるようなことはあまりありません。

 

 たしかに、今のプロレスはエンターテイメントとして成熟し、試合内容もものすごい進化をしている。

 昔と今と、試合内容どちらが面白いかと聞かれれば、断然今だろう。

 興行の進行にも無駄なく、観客を満足させて帰そうという努力も素晴らしい。

 

 しかし、難癖つけるわけではないが、観客を「お客様」にしてしまっている感がなきにしもあらず。

 いや、団体側の心としてはそれでいいのだろう。

 しかし、現場、会場、プロレスラーの醸し出す雰囲気は、いくばくでも、泥臭さや、昔のような殿様商売的な、粗野な感じがあると嬉しい…具体的にここをこう、とは言えないのだが。

 長州力や天龍源一郎が、入場だけ、その存在だけで何故あれほど会場を沸かすことができるのか、そこを少し考えてみる価値はあるかもしれない。

 雰囲気として観客より「上」という殿様商売的雰囲気を出しつつ、実際はかゆいところに手が届くように気を配り、必ずお客を満足させて帰す興行をやる…というのが理想か。

 具体的にどうすればいいのかと聞かれても自分も分からない…芸の世界は奥深く、難しい。だから、面白い。

 

 ご皇室も。

 尊い方々だから仰ぎ見る、というのと同時に仰ぎ見るからこそ尊い方々になる。

 その方々が、慰問その他の短い時間、我々に直にお声をかけていただくかたこそ感激する。

「開かれた皇室」というのは素晴らしいこととは思うが、無制限に開けば開くほどいい、ということではない。ご皇室がご皇室でなくなってしまう。どこらへんまで開くか、その加減が大切だ。

 

 プロレスラーも、「人間」を見せるのが極上の愉しみで、その意味でリングの外でマスコミを通して、プライベートなところでの言葉や表情を見せるのもありだが、何をどこまで見せるのか、そこにもプロレスラーは「プロレス頭」を働かせなくてはならない。

 

 昔、ある若手レスラーがいた。

 そのプロレスラーが自分は大嫌いだった。何故か?

 そのプロレスラーは、元々熱烈なプロレスファンだった。それが高じてプロレスラーになった。

 よくある話ではある。

 そして、その事を知っていたからというわけではなく、もう、彼のプロレスには、「自分が今、かつて憧れていたプロレスラーである事が嬉しくてしょうがない、プロレスが出来ることが嬉しくてしょうがない」という思いが溢れ出ていた。

 

 それのどこがいけないのか?と思われるかもしれない。

 いけないのだ。

 プロレスには、人間の匂いがすることが最大の魅力だと言ってきたが、嗅ぎたい匂いは、「大人の男」であり、自分達が子供になったかのように見上げることができる存在なのだ。

 ちょっと言い過ぎな表現をすれば、プロレスは仕事でやっているだけだ、というくらいの、大人の匂い。

 事実、カリスマ、と呼ばれる、また、超のつく大物レスラーは、プロレスファン出身でないレスラー。プロレスはあくまで自分が光るための道具として考えている。プロレスにしがみついてない。

 力道山、アントニオ猪木、前田日明、ハルク・ホーガン…。

(そういう意味では、前述の条件にはあてはまるのに、ジャンボ鶴田が「カリスマ」という言葉からは最も遠いレスラーだったのは謎だが(())何事にも例外はある)

 

 話を戻して…その若手のようなプロレスラーを見ていると、プロレス少年がそのまま大人になってリングにあがってる錯覚をおぼえてしまって、大人の男の匂いとは程遠く、憧れることができないのだ。自分達と同じ地平線上に見えてしまってはダメなのだ。

 もちろん、実際、血のにじむ努力をして強靭な肉体を持ったプロレスラーの、どこがおまえと同じ地平だ、という反論が出そうだが、そういう理屈…スクワット何千回できるとか、ケンカをすればこっちは何もできないとか…を頭で知識として理解して初めて憧れられるようなことを求めているのではない。

 理屈抜きに、いやがうえにも匂ってくる、プンプン強烈な大人の男、プロレスラーの匂いを求めているのだ。

 

 ちなみに、その若手レスラーは現在はかなり好きになった。

 若手の頃は「自分が憧れていたあのプロレス」をやっている満足感でいっぱいに見えたが、今は「自分のプロレス」を見つけて、そこに全身先霊をかけてやっている。

 クールな佇まいを持った、大人の男の匂いプンプン…というのとは違うが、魅力的なプロレスラーになった。

 

 一方、これをアイドルにあてはめるとどうか。

 プロレスラーへの憧れむきだしのプロレスラーは下だが、アイドルへの憧れむきだしで、今、自分が憧れていたアイドルになった喜び全開でステージに立っている少女は…。

 めちゃくちゃ魅力的である!!

 同じ人間臭さを見たいのでも、プロレスラーには、大人の男が観たいという願望があるが、アイドルの少女たちには、自分の同じ地平に立っている少女が観たい。両方とも「人間」が観たいというのは共通しているが、施されるデコレーションが違う。アイドルが等身大の可愛さという幻想でデコレーションした人間臭さを売ってるとしたら、プロレスは強い大人の男という幻想でデコレーションした人間臭さを売っいてる。

 プロレスラーには「大人の男」「強さ」

 アイドルには「可愛さ」「身近さ」

 

 では、天皇陛下、ご皇族には、日本人は何を求めているか。

「親」を求めているのではないか。

 国民の親になっていただきたい、ということではないか。

 理想の親像。権威があり、尊敬し慕う存在でありながら、何よりも子の幸せを考え、それでいて干渉してくるのではなく、遠くから見守り祈っていてくれる。

 

 であるから、最近の皇室報道…中でも興味本位のものを見てて危惧を覚える。皇室が開かれて親しみが増すのはいい。

 が、なんでも暴露して親の権威が失われてはいけない。

 無制限に「開いて」はいけない。

 親には親の権威が必要。

「お友達」「自分達と同じ地平」ではご皇族の意義がなくなってしまう。

 

 「上」になにがしかの人間を仰ぎ見たいというのは、人間の本能のようなものかもしれない(※2)

 

 アイドルには、自分の理想の異性像を。母性的な優しさを。(※3)

 

 プロレスラーには、強い、大人の、父性的な理想像を。

 

 ご皇室には、母性、父性両方を兼ね備えた親としての理想像を。国の象徴としての権威を。

 

 

 

※1 90年代前半に存在したインディーのプロレス団体。いろんな意味でインディーらしい、90年代インディープロレスファンの記憶に残る団体。

 

    2 「上」を求める、言い換えればボスを認める本能…。

アイドルを求めるのも、皇室を敬愛しているのも男女の差はないし、プロレスファンも男性の方が多いとはいえ、女性ファンも大勢いる。しかし、1つの参考として、以前、テレビで放送されたアメリカの小学校での男女別の教育方法の試みを紹介する。

 

男女の持つ性質にあった教育。

男の子クラスでは、先生がボスであることをはっきりさせる。そのために、1人1人が順番に先生と拳をタッチしながら教室に入る。

授業では、お互いに競争したがる男の性質を利用し、勉強への意欲と集中力を高めるため、先生が問題を出す。

「これが分かる人!」とあおると、男の子は「はい!」「はい!」と競って手を挙げる。

正解した子はボス=先生が褒める。

これで男の子達は勉学に勤しむ、というわけである。

 

女の子クラスでは、先生はボスらしさは出さない。

男の子クラスのように手を挙げさせ競わせるのではなく、グル―プに分け、問題をグル―プごとに考えさせ、発表させる。(これを男の子にやらせると、グループの中で誰の答えが正しいかの競争意識が出てうまくいかない傾向があるとのこと)

 

※3 昔のアイドルはどちらかというと遠いスターの理想像、現代、AKBの場合は、人間として汗をかいている姿を見せ、自分も頑張ろうという気にさせてくれる身近な理想像、という違いはあるものの、理想像という意味では違いはない。

 

 

 


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最終更新日 : 2012-08-26 00:00:51

22 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室

 プロレスもAKBも“人間”を見るのが醍醐味と書いてきているが、しかし、人間くさければそれでいいというものではもちろんない。

 単に人間くさい人達を見たければ、大衆居酒屋にでも行けばいいのかもしれない。

 

 プロレスは、男の憧れ「強さ」を象徴し、分厚い肉体で相手の技を真正面から受け止め、やられても立ちあがっていく姿に、自分の理想の「人間」像を観る。

「強さ」(=真剣勝負の格闘技での強さ、という意味ではない)を感じさせる、「強い人間」が見たい、というのが基本にあっったうえで、各レスラーそれぞれの“人間”、個性を観る愉しみがある。

 

 アイドルが可愛さという幻想でデコレーションした人間臭さを売ってるとしたら、プロレスは強さという幻想でデコレーションした人間臭さを売ってるとでも言おうか。

 

 少年、青年期の自分はかなり貧弱な身体で気持ちも弱かった。小さなことにいちいち心を悩ませ、何事にも動じてしまう弱い気持ち。

 そういう自分にないもの。分厚い肉体。そして、何事にも動じない、「男」のオーラ全開のレスラー達(特に、長州力や天龍源一郎など)の「大人」の匂いに惹きつけられていた。

 

 そんな自分も歳をとっていくにつれ、自分より年下のレスラー達が徐々に多くなっていく。

 今や、メインイベンターの主力どころはほとんどが年下のレスラー達だ。

…そうなると、どうしたって、レスラー達に感じていた、自分になかった「大人の男」への憧れ、というものは薄らいでくる。

 もちろん、どれだけ年下であろうが、自分よりも肉体的にもで精神的にも逞しい若いレスラー達への憧れの気持ちはある。

 しかし、やはり少年期、青年期に大人のレスラー達を仰ぎ見て感じ、そして求めていた、自分にないもの=「大人の男」の匂いは、自分自身が少なくとも年齢だけでも「大人の男」になっていくにつれ、どうしても薄れていってしまうのも確か。

 

 そして。

 自分が大人の男、つまるところはおっさんになっていくに連れ、「自分にないもの」が変わっていく。

 そう!

 10代後半から20歳前後の少女達、あの年代の少女達だけが持つ、あの輝き!

それも、夢に向かって一途に進んでいく少女達の。

 それも、少女達が集団になった時の、男やおばはん達が集団になった時には決して出ない、あの、独特の団結の強さ、輝き!

 

 夢に向かって進んでいく少女達の集団の輝き、純粋さ、、、、それをなんと言葉にしていいか分からないが、「それ」は、確実に!おっさんが逆立ちしたって持ち得ない何か、である。

 

 今後歳をとっていくにつれ、ますます、「自分にはない」ものになっていくだろう。

 

 ご皇室が体現しておられる聖なるものを見て静かに感動する気持ちも、我々が俗なる世界で生きているからだ。自分達の世界では失われがちな静謐、私心のなさ、柔和で全てを包み込んでくれるような温かさ、それらを求めている。

 

 

 異性にも、自分にないものを感じ、求める。

 自分にないものをもっている友人に心ひかれる。

 他の人間に「自分にないもの」を求めるのは、人生と同じ。

 それをまさに「人間」で具現化し、見せてくれるのが、ご皇室であり、プロレスラーであり、アイドルである。

 

 

 


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最終更新日 : 2012-08-26 00:01:26

23 「人間」を観るジャンル

 決まられたルールの枠内で競うスポーツ、事前に完璧にやることが決まっているショー(歌や演劇)、よりも、完璧には決められてはいないショー(プロレス)、ドキュメンタリータッチで成長の様を見せる運動体(AKB)は“人間力”がモロに出る。

 

 ここでプロレスを完璧にきめられてはいないショー、というのは、1から10まで台本で決められている芝居とは違う、ということだ(※1)

 フィニッシュや、ところどころ打ち合わせが必要な攻防を除いては、観客の反応を見ながら、臨機応変に試合をつくっていく、生物(なまもの)のエンターテインメントである。

 その中で、自分というものを表現しながら試合をつくっていく。

 否応なく、その人間そのもの、人間力が露わになる。そう説明されてもプロレスを見ていない人にはピンとこないかもしれないが。

 

 AKBの劇場公演のMC(曲の合間に自分達でお題を考え、それに沿ってトークをする時間がある)は、本人達に任されている。

 なにしろほぼ毎日行うし、生観覧、ネット、CS放送での常連客はいる。当然、毎回違ったトークを行う。

 握手会はそれこそ、10~30秒ごとに目の前にやってくるファンの話に、次から次へ臨機応変に対応しなければいけない、究極のアドリブの舞台だ。

 また、正規チームの昇格や、様々な企画の発表は劇場やコンサートのステージ上で発表されることが多く、そこでのメンバーのリアクションもファンの視線にさらされている。

 AKBの冠番組(※2)では、無茶ブリと呼ばれる体当たり企画をはじめとして、メンバーの個性を光らせるための企画によって構成されている。

 その他にも総選挙やじゃんけん選抜などのガチでドラマティックな企画でのコメントを求められる場、さらにはブログ、ぐぐたす(※3)での対応など…とにかく、AKBには、メンバーの“人間”を浮かび上がらせる場が満載である。(それは当然、AKBのコンセプトに沿った意図的なものだ。)

 

 要は、プロレスもAKBも、その舞台のうえで、アドリブで自分という人間を表現するジャンルだ。

 表現手段としての技術も大切だが、そもそも表現するもの=自分自身の個性を見きわめる、そしてそれを高める、全人的な行為が重要になってくる。

 自分の中にないものは表現できないから、その個性を人生の中でいかに育てていけるか。「そこに人間がいる」存在感をいかに打ち出していけるか。

 そして、「人間」を見る側の人間の眼力も試される。こんなに面白いジャンルがあろうか。

 

 ドラゴンゲートという団体がある。

 ルチャリブレ(メキシコのプロレス)を基本にしつつ、日本流にアレンジしたスタイルで、飛んだり跳ねたりの空中技、スピーディーな展開、イケメンで垢ぬけたレスラーが多く、女性客の割合が1番多い団体だ。

 よく見に行く。完成された、洗練されたプロレスを見せてくれて毎回面白い。興行の完成度に安定感がある。

 ただ、何故かいつも感じることがある。

 とても面白いのだが、「プロレスを見た」という感じがあまりしないのだ。

 最初、その原因は選手の身体がメジャー団体と比較して小さいせいかなと思った。

確かにそれはある。

 プロレスラーの身体はとにかく“ごつい”のが理想であって、ドラゴンゲートのレスラー達はビルドアップはされてるけど全体的に小さい。これまでのプロレス界には、とにかくデカくなれという教えがあったのに対し、プロレス界で最近はやってる、脂肪をある程度削ぎ落として、ボディビルダー寄りの身体をしている選手が多い。

 

しかし、それだけではない事に気付いた。

 

この団体、完成されているのだ。

 

 プロレスには、全体のストーリーラインがあり、それに沿った試合があり、試合後のマイクや遺恨づくりというものがあるのだが、それら全ての細かいところまでを完全に決めてやるのは不可能である。

 例えば、今やプロレスに完全に欠かせないものとなったマイクアピールであれば、言葉のやりとりや喋る順番を事細かに決めているわけではなく、ストーリーラインに沿った線で各自が自分の言葉で喋るのだろう。ところどころ、決めてるセリフなどはあるかもしれないが。別に自分は業界関係者ではないので本当のところを実地で知っているわけではなく、あくまで自分が思うところであるが。

 

 それに比べてドラゴンゲートのマイクのやりとりは、まあ、全く無駄な部分がない。

 無駄のない、ちょっと説明的な言葉のやりとりで、マイクを持つ順番も実にスムーズに周り、それもけっこうな長い時間をとって展開され、必ずしっかり今後のストーリーにつながる言葉のやりとりが完成する。おそらく、細かいところまでしっかり事前に決めているのだと思う。

 その理由の1つには、この団体が、所属レスラーが各ユニットに別れての軍団抗争というコンセプトがしっかり決まっていて、飽きさせない為か、レスラー達がわりと短いサイクルで裏切りやなんやかやでユニットを移ったり、新たなユニットが出来たり、消滅したりという展開が目まぐるしく、それを説明する必要があるため。

 もう1つは、最近は小さな会場でも試合前のあおり映像を使って、そこまでのストーリーを観客に見せる団体が増えてきた中、この団体ではビッグマッチ以外では映像を使わないために、それら目まぐるしいストーリーの全てをマイク合戦で説明しているからである。

 

で、何が問題なのか。

なんというか、窮屈さを感じるのだ。

レスラーが自由に伸び伸びとできていないというか。

 これも、最近のプロレスでは割と珍しく、ヒール(悪役)キャラとベビーフェイス(善玉)キャラがしっかり色わけされていることもあってか、レスラー本人、生身の個性がキャラの鎧が固すぎて窮屈に見える。

 キャラがハッキリしているからと言って、必ずしも個性が発揮できないわけではないが、あまりにキャラの縛り、ストーリーラインの説明くささの窮屈さがありすぎると、どうしても伸び伸びした個性が発揮しにくい(※4)

 

 プロのエンターテインメントということであり、その中でのストーリーを進行するためのマイクであるならば、それこそ事前にしっかり台本をつくって憶えて、それを展開するのが正解、であるはずだ。それをだいたいの流れだけ決めてあとはアドリブで…など、プロレス以外のフツーのショーの考え方からすれば「手抜き」ということになってしまう。

ドラゴンゲートのやり方で正解のはずだ。

 なのに、そこに窮屈さを感じ、プロレスをエンターテインメントとして楽しんでいる自分が「プロレスを見たという感じがしない」という感想を持ってしまう…。

 

 アドリブ、決まっている流れの中でその中で各レスラーが自分をどう表現するのか、それが見たいのだ。

 AKBの楽しみ方と全く同じである。

 AKBの番組での無茶ぶり企画も、その無茶ぶり企画を楽しんでいるのではなく、それに各メンバーがどう反応するか、その個性を見るのが楽しい。

 そして、自分にとってのプロレスとは、「プロレスラーがやっているプロレス」も楽しみながらも、それ以上に、「プロレスをやっているプロレスラー」を見るのが極上の楽しみなのだ。

 

“人間”を“観る”ジャンル、は、見せる側(プロレスラー、アイドル)もそれを見るファンも、感性、品性、知性が同時にフル回転する。

(ついでに言うと、感性、品性、知性が同時に低い人間は、ジャンルそのものを見下すという愚をおかす。)

 

 2011年9月にCSのチャンネル・ファミリー劇場で始まったAKBのコント番組「びみょ~」

 

 AKBのメンバーがガチでコントで挑む、という宣伝。

 

 その言葉に偽りはないが、しかし、単にコントで笑いたいなら芸人のコントを見ればいいわけで、「AKBがやるコント」の意味が問われるとこだったが、しっかり期待に応えてくれた。

 

 コントに限らず、AKBがやる事というのは、バラエティにしても何にしても、目的はメンバーそれぞれの個性、人間くささを引っ張りだすための道具。

 

 だから、「びみょ~」もその名の通り、コントの素人でアドリブなどまだまだ早いはずの彼女達には本来あるまじき、アドリブ感ただようゆる~い空気感を出して、各コントの終わりには演じたメンバーの感想VTRが挟まれる。それもインタビュースペースで改まってコメントをとるのではなく、終わった直後の通路などで、息を弾ませたまま。

 

 伝説のお笑い番組「ひょうきん族」では、プロデューサーが若き日のたけしやさんまら芸人に

「スタジオで思い切り遊んでくれ、それを俺達が勝手に撮るから」

と言ってたそうで、番組は思い切り楽屋ネタ雰囲気で溢れていた。(※5)

 

「びみょ~」ではプロデューサーの気持ちとしてこうではないだろうか

「一生懸命、コントをやってくれ。『コントをやってるAKB』を俺達が勝手に撮るから」

 

 そう、この番組に限らず、夢を追う少女達のドキュメンタリーであるAKBというジャンルの主役は、「AKBの歌、AKBのダンス、AKBのコント」ではなく、「歌を歌うAKB、ダンスをするAKB、コントをするAKB

 

 こういう見方をする自分は、プロレスよりもプロレスラーが好きでプロレスを見ている。

 

 後楽園ホールは、リング、レスラーと観客の距離が…距離自体は前の方の席に座ればどこの会場でも近いから、距離ではなく「距離感」が…近い、自分の1番好きな会場なのだが、この後楽園で見れる自分だけの?お楽しみがある。

東側の入場口、レスラーは、客席からわずかに見える(席によっては見えない)、バックステージからの階段を観客席には背中を見せるかたちで昇り、向きを変えて少し歩いて場内の入場花道に姿を現す。

その階段は基本的には会場からよく見えるようにはなっていないのだが、席によるが、観客席から見えることは見える。横にカーテンがあることもあり、レスラーとしては、そこを昇り降りしている時は、レスラーとして観客の目にさらされているという意識は希薄だと思う。

 つまり、入場時、1人の人間がバックステージから「プロレスラー」として観客の前に飛び出す直前の背中が、そして退場時には「プロレスラー」からバックステージへ、下を向いて階段を降りる、1人の人間へと身体の力が抜いていく姿を見られるのである。

(最近はCS放送で試合後のインタビューが撮られることが多くなり、バックステージに戻っても仕事が待っている時はあるが)

 

その姿を見るのがなんともしびれるのである。

 

 このようなうってつけの場所のものでなくても、ひきあげていくレスラーの背中を見るのが自分は好きなのだ。

 

「人間」がたしかにそこにいると感じる。

 

 

※1 試合によって、ほぼ完璧に流れをきめたうえで行ったりすることもあるだろうけど。

 

※2 「週刊AKB」「AKBINGO」「有吉AKB共和国」(以上、地上波)「AKB48ネ申テレビ」(CS)など

 

※3 48グループのメンバー全員が参加しているSNS「グーグルプラス」の略称。

 

※4 ドラゴンゲートでいうとCIMAというトップスターが、天性の明るさで、ヒール(悪役)をやっている時でも、リング上をまぶしく輝かせている。一瞬一瞬を完全に楽しみきって表現している、本当にスターという言葉がふさわしいレスラー。その他にも同団体で天性の個性を発揮しているレスラーはいる。本文にも書いているが、試合のレベルは非常に高い。別にこの団体を悪く言っているわけではないのであしからず。

 

※5 それを見て「ひょうきん族なんて楽屋ネタばっかりじゃねえか」と言い、クラスの中で1人、裏番組で、最後はひょうきん族に追い落とされた「全員集合」に寝返ったのが小学生の時の自分だった。

 

 

 


27
最終更新日 : 2012-08-26 00:02:03

24 「いかがわしさ」には「いかがわしさ」を

 前項で、ドラゴンゲートを見ていて、この団体が「プロレス」を感じさせない理由を書いたが、同時にこの団体の長丁場のマイクアピール合戦に、「見てられない」感覚を持っている自分もいた。<第1章 「プロレス、AKBのファンは虚像を見ている」と、見下す者が虚像を見ている。ファンが見ているのは実像>で述べたような、プロレスのマイクアピールを「見てられない」というプロレスアンチのように。

 

 長くて説明的すぎるきらいがある、ということもあるのだが、それだけではない…。

 

考え続けて出た答え。

「プロレス」を感じさせない理由、マイク合戦を「見てられない」気持ちにさせるもの、それは共通の理由だった。

 

それは。

 

この団体、

「いかがわしさ」がないのだ。

 

 

 まず、この団体で育った純血レスラーが圧倒的に多い(※1)

 そして、他団体との交流もわりと少ない。

 若いレスラーが多い。みんな、本当に真面目に一生懸命、プロレスをやっている。技術はピカイチ。

 

 これが他の団体だと、いろんな団体を渡り歩いてきたベテランレスラー、複数の団体にあがっているフリーのレスラーなど、「いろいろあったんだなあ」という人生遍歴を、そのぶ厚い身体、ちょっとばかりつきすぎちゃった脂肪にムンムン感じさせるレスラーが少なからずいる。

 

 そういう、プロレスラーが醸し出す「大人の色気」が少なくとも自分にとってはプロレスを見る醍醐味であり、それはある種のいかがわしさに通じる。

 

 それがないことが、「プロレスを見た」感じがしない理由であると同時に、マイク合戦を「見てられない」と感じさせる理由でもあった。

「見てられない」というのは、ありていに言えば、ある種のヤラセ感が出過ぎているのを感じて見てられない気分になる、という意味。

 

 そこにプロレスラーの「いかがわしさ」があっては、余計に「見てられない」と感じるのではないか?

 違うのだ。逆なのである。

 

 プロレスの「軍団抗争」というものは、冷静に見れば、こんなにバカバカしくて嘘くさいものはない。

 いい歳した大人達が、闘う理由もつるむ理由もよく分からないまま「軍団」をつくったり裏切ったりというドラマを繰り広げ、終着点がどこにあるのかもよく分からない。

 

 そのバカバカしい「抗争」はどうやれば、バカバカしく見えなくなるか?

 それは、プロレスラー達そのものが、カタギっぽさを消して、いかがわしく、異形の人間臭さを感じさせることである。

 先に「いい歳した大人達が~云々」と書いたが、それを普通の尺度で考えれば「バカバカしい」となってしまうわけだ。

 普通の世界でなくせばいいのだ!

 

 昔、大仁田厚率いるFMWという団体は、あちこちから流れてきた寄せ集めのようなプロレスラー、聞いたこともない海外の団体の外人レスラー達がリングの上で電流爆破デスマッチだの、地雷爆破マッチなどのハチャメチャなデスマッチを、これまた大の大人が誰が裏切っただのどうしただのというストーリーを、大仁田厚がこれまた熱い熱い語り口調のマイクで絶叫し、バカバカしさの極致のような世界を展開していた。

 しかし、それを「見てられない」と思ったことはなかった。

 それまでの王道のプロレスとはかけ離れていた電流爆破マッチなどを見た後も、「プロレスを見た」という満足感があった。

 

 当時のFMWより、技術はドラゴンゲートの方が数段上である。

 マイク合戦もスマートで無駄がない。ショーとして完成されている。

 

 しかし、「いかがわしさ」がないため、リングで繰り広げられるマイクアピール合戦、軍団抗争のストーリーの説明が、それだけヤラセっぽさが浮かんでみえてしまう。だから「見てられない」

 

 他方、プロレスラーそのものがいかがわしさ満載、異形の人間臭さを感じさせている団体は、そこでいかにフツーではあり得ない「軍団抗争」のストーリーが展開されていようとも、「さもありなん」、あっても不思議ではないワールドになるのだ。

 

 つまり、大の大人が繰り広げる「軍団抗争」「マイクアピール」などをそこに含む「いかがわしい」プロレスは、「いかがわしい」プロレスラーがやってこそ、少なくとも頭では「これはガチンコではない」と分かっていても、心ではそれを感じない、1つの完成された世界になる。

 

「いかがわしさ」×「いかがわしさ」=熟成されたプロレス、大人の色気、演者の色気

 

「いかがわしさ」×「まっとうな人間」=浮足立ったいかがわしさ(=見てられない感)

 

 

 あまりに完成されて無駄がない試合、無駄のないマイク合戦のドラゴンゲートは、ややもすると、ヒール(悪役)のレスラー達が「一生懸命、悪役をやっている好青年」に見える。

 

 それに比べて、数々の団体を…人生を渡り歩き、大きな腹が出て、喋りも達者ではなく、自由にその場で思いついたような言葉をしゃがれた声でマイクでがなりたてるベテランの悪役レスラーは、それを仕事でやっていると頭では分かっていても、実際目の前にするとすごい迫力だ。

 いかがわしさがそのまま、カタギではない人間の迫力になっている。(※2)

 

その迫力こそがプロレスなのだ。

 

 

    1 現在、プロレスの団体は数えきれないほど多くあり、団体の移籍(時には団体そのものの消滅による移籍も。)も、特に弱小団体ならごくふつうのこと。現在は、デビューしてから引退までずっと同じ団体に在籍しているレスラーの方が少ないかもしれない。

 

 

※2 カタギ、という言葉の解釈には幅があるようで、プロレスラーが“カタギ”か“非カタギ”かは解釈によるが、まあ、ここでカタギでないと言ってるのは、少なくともプロレスラーを暴力団のごときに言ってるのではなく、バカにしているのでもないので念のため。文章の流れで文意を汲んで下さい。

 

 

 

 

 


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最終更新日 : 2012-10-05 22:27:18

25 AKBの歌のベースは 色即是空 

 自分がAKBにハマり出したきっかけは、2011年1月の引越しに伴ってCS放送が視聴可能になって、音楽専門チャンネルをつけていることが多くなり、そこで流されていたAKBのミュージックビデオを目にし曲を聴くようになったことである。

 誰がかわいいとか、本著で述べてる「人間」が見れるアイドル云々ということは後からであり、そもそもハマったきっかけは作品なのだ。

 AKBのミュージックビデオの完成度はすごい。特にシングル曲の。

 カラオケに行って歌うのはほとんどAKBなのだが、そこで「本人映像」つまりミュージックビデオが流れる曲も歌うと、それまでAKBに関心なかった人も皆、その素晴らしさに感心する。

 また、曲自体も素晴らしい。

 

 秋元康が、「AKBの曲は○○」と定番化されることが嫌いで、作品ごとにテーマを変えてくるのだが、自分がその底に流れるテーマを1つ挙げろと言われれば、「色即是空」と答える。

 自分は仏教の専門家ではない。

 若い頃に般若心経に興味を持ち、連続してそれについての本を5~6冊読んだことがあり、あとはヨガをやっている関係で多少、関連のことを聞きかじっている程度だ。

 なので、ここで言う色即是空とは、そういう自分が思うところの色即是空だ。

 

 色即是空  今、目の前にある華やかで楽しい風景、時間は実はじつにはかない幻である。

 

 色即是空のあとは、空即是色と続く。

 そして、これは、もはや自分が思うところの解釈というのも超えて、こう読み取ろうという自分の勝手な意志であるといっていいが、

 

 幻でありながらも、今目の前にあるこの時間を生ききろう。

 幻であるがゆえ、はかないものであるがゆえに。

 

 この時は、瞬く間に過ぎてしまう幻であり、はかないものである。

 しかし、はかないからと嘆くのではなく、はかないからこそ、今、この時をめいいっぱい生ききろう。

 

 そういったメッセージがAKBの作品を通して聞こえてくる。

 

 今、輝いているこの時間は、今だけのものということを分かりながら、しかし分かっているからこそ楽しんでいるorがんばっている、という思いを感じる。

 

 色即是空ということで言うなら、アイドルの存在そのものが色即是空である。

 松田聖子のような存在は例外として、アイドルでいられる時間は青春の限られた時間であり、女のお肌の曲がり角は25歳というのはホントかどうかは知らないが、老いはそういう早い時期に容赦なく、誰の目にも分かるように彼女達の容貌にくっきりと刻まれていく。

 

 少女達の持つ若さ、可憐さははかない一時のもの。

 

 それに加え、AKBには、もう1つ。

 

 少女達が集団になった時の、あのワイワイした楽しさ。

 少女達が一緒に夢を追う時のあの、団結力とそこから生み出される強さ。

 

 それもひと時のものである。

(おばちゃん達の集団の強さもそれはそれで独特のものがあるが()、少女達の集団の可憐さとはこれが同じ女の集団かと見間違うばかりに、全く異質なものである。)

 

 その頑張っている様子…総選挙や選抜、昇格制度などのシステムや、バラエティの彼女達の無茶ぶり企画、ほぼ毎日の劇場公演で生で見れる成長など、わずかな期間を精一杯生ききっている少女達の集団をドキュメンタリーで我々に見せてくれるのだから、AKBのコンセプト自体が「色即是空」と言っていいかもしれない。

 

 その歌、詞の世界については次項で改めて詳しく書くとして、AKBの歌詞から般若心経の話をすると、??という顔をされる。

 

 第2章 11<根っからの“ジョーシキ”嫌いにとっては、AKBは「買い」>で書いた「ジョーシキ」の話と同じことだが、そういう人の頭の中には、勝手につくったカテゴリがあるのだろう。「宗教 哲学」カテゴリ、「アイドル」カテゴリ…etc

 さらには「宗教 哲学」カテゴリは、「高尚なもの」カテゴリの中にすっぽりと入っている。あるいは「難しいもの」カテゴリかもしれないし、「かっこいいもの」カテゴリかもしれない。

 そして、アイドルというものは、さしずめ「くだらないもの」カテゴリに放りこまれている。

 そういう世間一般の価値観におもねったカテゴリが頭の中にある人ならば、まず間違いなく「くだらないもの」には「プロレス」も放りこまれていると思われる。

 そして「くだらないもの」カテゴリの中のものと「高尚なもの」カテゴリの中のものが交わることは全くないのだ。

 こういう膠着した頭の持ち主には、真に「高尚な」真実など永遠に見えない。

「高尚な」言葉の響きに酔ったり、「くだらないもの」を見下したりしている人間は、自分の頭の中では「くだらない人間」カテゴリに放り込まれる…あれ、俺も同じか?(笑)

 

 AKBの曲をバカにする人間の何人が、歌詞カードを見ながらちゃんと歌を聞いたのか?

 アイドルは、かわいいイメージで売ってるだけと見下す人間こそが、「これはアイドルの曲だから」という「イメージ」で聴いているのではないか?

 そういう人間に、もし、「桜の木になろう」などの曲を、これがAKBの曲だとは知らせずに、シンガーソングライターっぽいコーディネートした服着た人間に、アコースティックギターでアーティストっぽい雰囲気で()歌わせて聴かせたら、同じように見下すだろうか?

 

 

 

 


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最終更新日 : 2012-09-01 00:51:24


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