15 アイドルこそは最もリアリティある世界
特に、女性アイドル。若い女の子が、あらゆる方法で自分を可愛く表現し、異性にアピールする。AKBでは、それを大人数で競い合う。競い合う女の子達は友達であり、ライバルでもある。まさに本当の人間の姿そのものを凝縮し表現した世界ではないか。こんなリアリティのある世界がどこにある?
この社会では、こんなリアルな世界を「偽物」視し、なんだかよく分からないルールを設定し競い合ってるスポーツの世界の方が「本物」とされているわけですが(笑)
さらにリアルな話をしよう。
現実世界では女の「可愛さ」は、ルックスだけでなく、その人間的魅力も相まって「可愛く見えていく」
【折にふれてのいろんな表情見て】、また、【自分とそのコが共有したいろんな記憶】、それらがあって、元々のルックスが「可愛くみえていく」
これを具現化し、リアリティとして示しているのが様々な企画や番組の「無茶ぶり」「ガチの企画、ドキュメンタリー」(総選挙等)で彼女達のいろんな表情、それぞれの人間的個性を引き出して見せ(【折にふれてのいろんな表情見て】)「、プロデューサー秋元康が「1番大切な仕事」としている握手会を随時開催している(【自分とそのコが共有したいろんな記憶】)…そう、AKB48である。
リアルの世界では、人間の集団(会社なりクラスなり)がいる中で、まわりのコと対比することでそれぞれの個性が見えて、その中で誰かを好きになっていく。それも大人数グループという点でAKBが「リアリティ」を持っている点だ。
そして、大切なのは、ファンはそれらがあくまで「リアリティ」であって、「リアル」な恋愛に結びつかないことを分かっていること。しかし、それでいてまぎれもなく、その対象になるアイドル達は生身の人間。
これが、建前と生身が混然一体となっている世界を愛しているAKBファンたちがタフで豊かな感情を持っているという所以である。
アイドルの世界を批判する人間はとかく結局、金の世界でしょと言うが、まあ、商売で何が悪いのかという論(第5章 36<「商売」が嫌いな人達>参照)はさておいて、それを言うなら、球を棒で遠く打ったり、捕まえたりするのが上手な人間がそれこそ何十億ともらっていることこそ不思議な世界だ。
それに引き換え、女子が異性にその可愛さをアピールして射止めて大金や地位を手にする。厭というほどリアルである。
リアルな世界が嫌いで、ファンタジーを見て安心したい向きが、スポーツを称賛する一方でプロレスやアイドルを貶めるのは、自然の成り行きだろう。
16 リアルとリアリティの違い
プロレスにリアリティは必要だと思う。
しかしそれは、いわゆるU系(※1)の試合を指すのではない。
「リアリティが出るように」ガチンコの格闘技のキックや関節技を主体にして、ロープワーク(※2)、トップロープからの攻撃、空中技なんてやめにして、
攻防を真剣勝負の格闘技に近づけたほうがいい…とは思わない。
それは、「リアリティ」ではなく、「リアル」っぽく見せようとしているだけだ。
「リアリティ」と「リアル」っぽく見せることはどう違うのか。
この場合の「リアル」とは、単なる真剣勝負の格闘技のことで、それっぽく見せることが「リアル」っぽく見せるということ。
「リアリティ」とは、プロレスという世界の中での首尾一貫性を守るという事と、「説得力」を持たせる、ということだ。
お互いの協力がないと成立しない技の攻防がプロレス。
そこでまず大切なのが1つ1つの技にリアリティがあること。
技のリアリティとは何か?
たとえば打撃なら。
ガチ格闘技のように、KOできるアゴやテンプル(こめかみ)にパンチや蹴りを入れる、もしくはそれっぽく見せることがリアリティか?
それはリアルっぽく見せる、ということであってリアリティではない。
それは、リアル(ガチ格闘技)の真似ごと。
では、リアリティあるプロレスの打撃とは?
プロレスの定番、胸板へ場内に響き渡るような音の出るチョップ、キックを叩きこむ攻撃。
胸板とはチョップやキックを叩きこんでも、怪我のないところ(※3)
そして、胸板は、叩き方によって音が最も派手に出るところでもある。
相手の胸板をバシーン!と叩き場内を沸かせ、「来てみろおらあ!」と自分の胸を出し、今度は相手のチョップを受ける。その繰り返しが序盤での1つの定番の展開なのだが、もちろんこれはリアル(真剣勝負)な格闘技とは全く外れた攻防だ。
しかし、そこに気持ちを込めてド迫力でやりあうことで、「リアルな闘い」ではないが、「闘いのリアリティ」が出てくる。
技の様式美もリアリティの鍵だ。
プロレスの芸術品と言われるジャーマンスープレックス。
ガチンコではそう簡単には決まらない技で、決まったとして、ブリッジしてホールドしても相手が肩をあげられなくなるほど抑え込めるわけではない。
つまり、「リアル」ではそれがそう簡単には決まらない、決まっても返せるということ…しかし、それが分かっていたとしても、決まった一瞬のうちに、観客の頭に、「後方に投げられて頭部にダメージを与えて同時に投げたブリッジでホールドする」というストーリーが出来上がる様式美で、一瞬のうちに観客の頭に技の「意味」を共有させることが「リアリティ」
「意味」を共有させること…プロレスという世界の中で意味が成り立っていて、首尾一貫性があること。
「リアル」な格闘技の真似はしなくていい。
ただ、プロレスという世界での首尾一貫性=リアリティを守ってほしい。
例えば、トップロープから、倒れている相手への攻撃。
トップロープにあがる時間、あがってから下で倒れている相手にダイブして技をかけるまで、ゆっくり時間かけてやるのは自分は嫌いである。
「その間に逃げられるやん」
「そんなに起きれないなら、攻撃しなくてもその間にフォールできるやん」
ということになる。
もちろん、「リアル」な話をすれば、トップロープに上がっている時間は、どんなに速くしても数秒はかかるのだから、どんなに速くトップロープに上がろうが逃げられるのは同じである。
しかし、そこに少しでも「リアリティ」を持たせるならば、トップロープにあがって攻撃するまではなるべく速くしたほうがいいし、下で攻撃を受けるほうは、どこに相手がいるか分からず、起き上がろうとしてところに相手がトップロープから降ってきた、ということをちょっとした動作、表情で表現したほうがいい。
細かいとこを例にあげていくつか述べたが、要は、プロレスとは「闘い」の「表現」なんだ、ということを忘れずに、それにあった動き、表情をすればいい。
さらに言うなら、そういう気持ち、パッションを込めてやっていれば、自然と「リアリティ」が出て、見る側の気持ちを熱くさせるプロレスになる。
プロレスもアイドルも、それを誹謗する者達は、つまるところそれらが「嘘」だといいたいのだろう。
自分は「嘘」という表現には非常に違和感があるのだが、まあ、とりあえずここでは彼等の言葉とそのまま使って「嘘」だとして話をすると、その「嘘」で表現しようとしている世界はこれ以上ないほど人間の匂いのする「リアル」なもの、さらに言えば「自然なもの」(=本能)だ。
「嘘」で表現しようとしている世界とは?
プロレスならば、「闘い」の本能。
「相手を殺す」ではなく、自分の強さを相手に、そして、まわりの人間たちに誇示したいという本能。
アイドルならば、若い女の子が自分の可愛さを精一杯アピールしたい、という本能。
AKBの場合は、さらにそこに「人間」の喜怒哀楽、そして、成長を見守り応援したい、直接交流したいという見る側の願望もあわさっている。
じゃあ、闘いを表現したいなら(orそれを見たいなら)真剣勝負の格闘技でいいではないか?
真剣勝負の格闘技もたしかに1つの表現ではあると思う。
が、真剣ならば、素人が見て、何をやっているのか分からない攻防も多い。
特に寝技の攻防など、今どちらが優勢なのかすら分からないだろう。
自分は、まがりなりにも柔術をやっているので寝技の攻防は非常に面白く見れる。
しかし、それは技術の攻防がまるでゲームのように面白いのであって、闘いの「表現」としてはプロレスのそれに敵うものではない。
また、真剣なれば、あっという間に勝負がつくこともしばしば。
ふりまわしたパンチがたまたまアゴにクリーンヒットした「ラッキーパンチ」
そういうKOならまだしも、怪我によるドクターストップなどの不完全燃焼によるあっけない幕切れもある。
逆に、膠着した展開が延々と続いた末の時間切れドローもある。
そういう、見る側にとって面白くない試合もあり得る。勝負を競う「競技」である以上は。
そういった試合の場合、またそうでなくても、格闘技の試合は「競技」を見る満足感はあるが、必ずしも「闘い」を見れる満足感は約束されていない。
それは「表現」を第一の目的としていない以上、やむを得ないことだ。
「リアル」に闘っていることを見せるのだから、必ずしも「闘い」を感じさせることはできない。
さらに言うなら、プロレスを「嘘」と誹謗するなら、では、究極の理想「リアル」は路上の喧嘩、あるいは戦争での殺し合いだろう。
では、それを見て、魂が震えるような感動の「闘い」を感じることができるか?
「リアル」とは対極の「プロレス」こそが、人間の、感動を伴う「闘い」のリアリティを最も感じさせることができるのだ。
プロレスを「嘘」と誹謗し、「リアル」を求める論で言えば、アイドルも、若い女の子の持つ可愛さや、あるいは本著で言っているAKBの「人間くささ」の魅力云々というならば、そのコの全部を見せればいいではないか、となるのだろう。
しかし、言うのもアホらしいが、いくらAKBの魅力がアイドル・人間ドキュメンタリーだと言って、そのコの部屋にカメラでも設置して24時間流したら、見たくもない姿も見ねばならない(笑)
まあ、アイドルやAKBの、建前とは違う生身の姿の情報をあれこれ知って税に入る…要は、アイドルの「嘘」を指摘してはしゃぐ類の人間は、そこまでやれば「本当」だと納得するんでしょうなあ。
限りなく変態ですな。
つまり、プロレスやアイドルも、その表現したい「リアル」を表現するためには「嘘」が必要なのだ。
「嘘」があるからこそ「リアリティ」
「嘘」があって初めてリアルに感動できる。
まあしかし、ここではアンチの言う「嘘」という表現を使っているが、自分はそれを「嘘」とは思わない。
相手の攻撃をよけず、鍛え上げた筋肉の鎧、生身の胸板を大声をあげながら思い切り叩き合う、2人の人間。そこに込められた痛みと気持ち。それのどこに嘘があるのだろう。
仲間達とハードなレッスンに励み、時に競争にさらされながら、限られた人間しか立てない華々しいステージで精一杯の笑顔、歌、ダンスでファンに応える若い女の子達。その短い青春の一時の、どこに嘘があるのだろう。
そして、プロレスもアイドルも、表現の舞台が、リングやステージにとどまらず、メディアを含めたこの社会すべてが舞台なのだ。
「本当」も「嘘」もない。彼らにとっては、生身の自分とキャラクターとしての自分が混然一体となった「表現」なのだ。
※ 1 「真剣勝負」を標榜して、キックや関節技を主体とし、場外乱闘や空中技などを廃したプロレスを行っていたUWF、及びそこから派生してUWFのスタイルを継承した団体が行っていた「格闘技系」のプロレスのスタイル
※ 2 ロープの反動を使った攻防
※3 もちろん、プロレスラーが鍛えていない素人にやったりすれば怪我するだろうし、プロレスラーどうしであってもやり方によってどうにでもなるだろう。
17 人間はみなプロレスラー、アイドル。人生はプロレス
プロレスラーも、アイドルも、ある種のキャラを演じ、プロレスラーは強さを、アイドルは可愛さを演出していることをもって、それらを「嘘だ」と言うのは、人生、人間そのものを「嘘だ」と言っているのと同じこと。
人間誰しも皆、その場その場で何がしかの自分を演じ分け、自分の良さを演出している。特に異性の前では。
プロレスは、プロレスラーどうしの、技の応酬によって試合をつくって盛り上げていく。
一方が攻撃し、相手が受ける。その1つの応酬が、さらにまた次の展開に結びつき、一連の、意味のある試合の流れが形つくられていく。
人と人との会話、ひいては人間社会の営みも全てがそう。
人に対して発せられる言葉は、発した側は相手に、必ずなにがしかの期待を持っている。
ボケに対してはツッコミ、笑いが1つ成り立つのはプロレスにおける1つの攻防が成り立つのと同じ。
恋人どうしの語らいもそう。
恋人に「愛している」と言う時、人は、それを伝えたいだけでなく、それに対しての反応がおこり、そこに1つのプロレスが成り立つことを期待している。
たいして愛していなくとも(笑)、その言葉を発すること(+それへの相手の反応、会話)で、そこに甘い恋人どうし空間をつくり、それに酔いたい気分で言っている場合もあるだろう。
その場合、言われた相手は、そういう気分にひたりたい相手の気持ちを察して、その場所、時間、雰囲気、自分と相手がそこまで至るまでの2人も共通の記憶などを加味しながら、最高の言葉をチョイスして反応しようとするだろう。
言葉でなく、何かの行動でもよい。黙ってうなづく、キスするなど。自分の普段装ってるキャラにあったものを。反応の選択肢は無数にある。
あるいは、何かの反応の選択時にガラッとキャラを変えてみるのもありだろう。それまで大人しかった男が、荒々しく抱きしめるとか。ベビーフェイス(善玉)キャラだったプロレスラーが、ヒール(悪役)キャラに変身する時のようなものだ。
変身…アイドルで言えば、何かのきっかけに路線を変えたりしてブレイクする時など、そういうタイミングの計り方、行動のチョイスの仕方に“プロレス頭”が現れる。
AKBは握手会の対応の良し悪しが総選挙の順位におおいに反映していることは、多くの人の知るところだが、数か月前から何と声をかけるか考えに考えてきたファンの一言にわずかな時間でどう反応し切り返すか、まさにAKBメンバーは握手会で究極のプロレス力=人間力を試されている。
人は、まさに人生でプロレスをやっている。
それぞれの場で自分のキャラを演じていること。
演じているといっても、それは本当の自分と切っても切り離せないものであること。
プロレスやAKBを見下した目で見る者は、人生そのものの虚実入り混じったものを生々しく凝縮して見せられるのがイヤなのだろう。
そういう意味において、人生そのものに疲れている人達のために、ファンタジーの世界=スポーツがあるという見方もできる。
「プロレスが人生に似ているのではなく、人生がプロレスに似ているのだ」と言ったのは、村松友視氏だったか。
プロレスが人生に似ていると言っても、人生という獏としてとらえどころのないものに例えてもよく分からない話だが、人生がプロレスに似ていると言えば、獏とした人生が非常に分かりやすくなる。
人はみな、それぞれ本当の自分を持ったうえで、それを核として、人前では、それぞれの場所にふさわしい自分=プロレスラーになればいいのだ。俳優のように丸っきり違う自分になろうとすると無理があり、「本当の自分」を貫こうとしても無理がある。
あるいは、その時目の前にいるのが自分にとって大切な異性であればアイドルになればいい。これも、俳優は無理でも、あくまで生身の自分を核とした「アイドル」にならなれる。
そして、相手との言葉や行動のキャッチボールで、1つの関係性を成り立たせていけばいい。
男が言う「愛している」は、ガチか、八百長か?(笑)
女が言う「愛してる」は、純愛か、営業か?(笑)
18 虚実が入り混じっているプロレスとアイドル、そして人生
プロレスは虚実入り混じったジャンル、とよく言われる。
こう聞くと、プロレスが分かってない人は、スポーツの要素もあり、ショーの要素もありってことね、と理解するかもしれないが、そういう意味ではない。
プロレスはショーである。
もちろん、身体を張っていること、ショーを成り立たせるための肉体をつくる厳しいトレーニングをしていること、受け身や、展開をつくるためのテクニックの習得、それらをスポーツ的要素と言えばそうなのだが、競技、という意味でのスポーツではない。(※1)
では何が虚で何が実なのか。
自分がプロレスを見始めたのは、長州力と藤波辰爾の「名勝負数え唄」(※2)からだ。
若いうちにジュニアヘビー級で脚光を浴びて、甘いマスクで若きスターとなっていた藤波に、地味なスタイルで中堅に甘んじていた長州力が6人タッグでの仲間割れでケンカを売り、マイクで「俺はおまえの咬ませ犬じゃない」という後々まで語り継がれる名言を放って始まった「抗争」である。
この場合、仲間割れして長州が藤波にケンカを売ったこと、その後2人が「抗争」を始めたことは、あらかじめ決められていたアングルである(※3)この例に限らず、当たり前の話だが。
そこは「虚」だ。
だが、地味なスタイルで日陰の存在だった長州がスターで華麗なプロレスの藤波に反旗をひるがえし、猛然と攻めまくるという流れの一連の試合に当時のファンが熱狂したのは、普段、上司や上の立場の人間に従うことを強いられている、非エリートのサラリーマンはじめ大衆ファンの、長州へのシンパシーという「実」があったから。
また、長州が日陰の存在で藤波がスターだったこと(実際は知らないが、おそらくギャラにも差があったと推測)はまぎれもない事実であり、長州自身に本当に藤波に対するジェラシーがあったかもしれないし、なかったとしても、そのまぎれもない立場の差という事実をもとにした「抗争」であったために、ジェラシーを表現することはたやすくできたはず。
そして、いくら下剋上のアングル(※4)で、そういう流れのプロレスを展開したとしても、長州力に、あのムンムンただよう雑草のような「男」の匂い、硬派な魅力がなければ、あそこまで、雑草がエリートに噛みつく「抗争」が受けることはなかったし、その後の日本のプロレスビジネスも大きく流れを変えられることはなかった。
あのムンムンの男気は「実」だ。長州、天龍をはじめとしてガチンコの格闘技から来たプロレスラーには、「男」オーラが凄く、何もせずとも怖さを感じさせる人が多い。
そして、それまで地味で日陰の存在だった長州力が、これをきっかけに大ブレークし、その後の人生に大きな影響を与えたこと。そこで得た人気があって、その後長州が新日本プロレスを脱退、復帰を繰り返し日本プロレス界の台風の目となったこと。その「抗争」をきっかけにして生まれた、長州のハイスパートレスリングと呼ばれるそれまでのプロレスの間をつめた早い展開がプロレスというショーのスタイルを大きく変えたこと、それらは全て事実であり、「実」だ。
この「抗争」のアングルを考えたのは誰かは知らないが、大衆のエリートへの鬱積、藤波の順調なレスラー人生、地味な存在だった長州のオーラ、そういう「実」があってこそ、「虚」である抗争が生まれ、その「虚」からまた、新しいプロレスのスタイル、長州の人気、それを背景にした長州の団体の移り変わりという「実」が生まれた。「建前」(虚)と「生身」(実)が混然一体となったジャンルの魅力である。
それを見て支持したファンの中にも、そこにある「抗争」が「虚」であることが分かりながら見ているという「虚」と、そこに投影した、自身の、上司やエリートに対する鬱憤という「実」を抱えながら見ていたわけだ。
また、プロレスという「虚」の中のちょっとした何気ない攻防の中に、ガチンコでやったらどちらが強いという「実」や、リングで肌をあわせている2人の先輩・後輩や、人気の優劣、性格といった「実」の関係性がどこか表情やしぐさに出ていたり、攻防の中のふとした瞬間にそれが垣間見れることも、信頼関係のもとで生身の身体をお互いに預けてぶつけあうプロレスならではである。
これはなかなかレアなケースだが、リング外のリアルな事実=「実」をそのままリング上の対立の構造=「虚」に持ち込んだケースもある。
ハルク・ホーガンと、所属していた団体WWEの代表・ビンス・マクマホンJrの長年に渡るリアルな確執がリング上のストーリーにそのまま持ち込まれ対決が実現したり、長州力と橋本真也の確執も同様にリング上での対決となって実現した(※5)
情報化社会の現代において、リング外のリアルな話のあれこれもマニアに共通認識になるほど知られやすくなっているがゆえに生まれる流れだ。
同様にレアなケースだが、プロレス中になんらかのアクシデントや感情のもつれが原因でガチンコのケンカに発展してしまったケースもある。
これは現代では極めて珍しいことだが、昔のアメリカでは意図してガチンコを仕掛けることはよくあり、それでタイトルが移動してしまったケースもあったという。(「リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実」(スコット・M・ビークマン 早川書房))それもあり、昔のレスラーはガチンコの技術も習得していた。それを、いざという時に出す「懐のナイフ」という言い方をする。
これはプロのショーマンとして決して褒められたことではないが、これも生身と建前が一体となったジャンルだからこそ起こることではある。
あくまで勝敗を競う建前を社会にとっている以上、リングの上で相手に何を仕掛けられても、自分の身は自分で守るしかないという恐ろしさも「虚」の世界に潜んでいる「実」。
お互いの協力を前提とした技の攻防を繰り返して成り立たせている「虚」、その相手の技を受けているのは痛みを感じる生身の身体で、一歩間違えれば大怪我や死につながる危険なものであるという「実」。
格上のレスラーが格下を相手にする試合の前、「中途半端なら潰す」というコメントを出すことがあるが、これは試合の煽りで言う場合もあるが、時に格下の新人が自分の技の圧力、当たりの強さに耐えられなかったり、技術的、精神的に攻防の展開についてこれないと判断した場合、早い時間で一方的に叩き潰す展開で試合をフィニッシュにする、というケースもあり、「中途半端なら潰す」は本音=「実」でもある。
この場合、格下のレスラーが歯を食いしばって立ちあがり必死にくらいついていく姿は、「そういう流れ」のプロレスをやっている面=「虚」と、試合(=ショー)を成り立たせるために必死になっているという「実」でもある。
「虚」「実」…これもまた人生そのもの。
他人との会話。
100%「実」だけで成り立っている会話などそうそうない。
「実」をもとにしながらも、相手に気を使い、空気、流れを考えて「虚」を用いつつ会話を成り立たせ、その「虚」の流れの中で自分の「実」を相手に伝えようとする。
ふだん、職場や家庭、それぞれの場でそれぞれ違う顔を持ち、その場にふさわしい言動を演じ、「虚」の自分を演じている。
しかし、まぎれもなくその「虚」は同時に「実」の自分でもあり。
日本人は特に本音と建前を使い分け、本音を語ってぶつかりあうよりも相手との和を保とうとする民族だ。お互いにそれが分かっているから、お互いの「虚」の向こうに相手の「実」を見ようとし、それに合わせて「虚」を演じる。相手はまたその「虚」の向こうに相手の「実」を見ようとし…。
日本でアイドルというジャンルが進化し、プロレスが独特の発達の仕方をし栄えたのもそこらあたりに理由があるのかもしれない。
職場などでなくとも、これ以上ないくらい親密な相手とのプライベートな空間…例えば、恋人に言う「愛してる」
本音なのか、実は他に本命がいるのか、その場でのノリなのか。
自分では本心…「実」だと思ってても、単に感情が昂ぶっている「虚」かもしれない。
本当に100%の本音で話しているような相手は家族や親友、恋人であっても稀だろう。
100%本音もあるだろうが、同時にそこに何%かの嘘もある…100%にさらに他に何%が加わることなど数学的にはあり得ないが、人間は数学で割り切れるような単純なものではない。100%の本音と100%の嘘が重なり合って存在していることもある。
「プロレスが人生に似ているのではなく、人生がプロレスに似ているのだ。」という言葉は村松友視氏のものだったかと思うが、漠然とした人生というものを捉えようとした時、この項に書いたようなことを踏まえてたうえで「人生はプロレスだ」と考えると、なるほど、人生が分かりやすくなる。
人は、日常生活において、みな、場の空気を読み、その場にふさわしい言動を意識的に演じることによって、共同幻想を守っている。
「会社」という共同幻想。 「飲み会」 「合コン」 「デート」、冠婚葬祭…etc。
しかるに、プロレスという共同幻想を支えている人を見下す。
アイドルという共同幻想を楽しんでいる人を見下す。
ふだん、自分達が日常で演じて支えている共同幻想を端的に見せられるのが不愉快なのだろうか?
プロレスを「嘘」というならば、では、いったい何が「本当」なのか?
アイドルの笑顔を「営業」というならば、いったい何が「本心」なのか?
※1 ショーよりもスポーツ、競技の方が上等なもの、というわけの分からない観念が現代社会ではわりとよく見られるため、プロレスファンの中には、「いや、プロレスとは観客との闘いなんだ」、とか、その他いろいろなことを言って、とにかく、「ショー」「エンターテインメント」という言葉でプロレスを呼ぶのをいやがり、最終的に「闘い」「スポーツ」という言葉にしたがる人は多いが、ある意味において「闘い」と呼ぶことを間違いとは言わないが、本質はショーであって、ショーと呼んでいることでプロレスをなめているように感じるとしたら、それはそう感じる人が「ショー」をなめているのである。
別項で書いた「ジャンルに貴賎なし」という言葉にあえて反して言わせてもらえれば、少なくとも自分の中ではスポーツよりショーの方が上等なもの。自分が言う「プロレスはショー」という言葉の意味には、そこに誇りこそあれ、プロレスを見下している意味は全く含まれていない。
※2 プロレス実況の天才、古館伊知郎が2人の一連の名勝負の数々につけたキャッチフレーズ。初代タイガーマスクの空中殺法に「四次元殺法」(空中を舞っている様は、普通に考えれば「三次元」なのだが、そこを「四次元」と本来あり得ない表現にした!)、アンドレ・ザ・ジャイアントの入場を「一人民族大移動」(どう考えてもあり得ない表現!)と名付けたり、彼の生み出したキャッチは最高だった。
※ 3 新日本プロレスレフェリーだったミスター高橋氏が出版した「流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである」に詳細がある。
※ 4 あらかじめ決めたプロレスの流れ、仕掛けなどをそう呼ぶ
※ 5 試合自体は、プロレスの範疇を超えるような危険なものにはならず、プロレスをしっかりやっていた。
19 ファンが支えているプロレス、AKB。国民が推し戴いている天皇
2011年10月7日、ミル・マスカラス来日40周年記念興行がプロレスの聖地・後楽園ホールで行われた。
ミル・マスカラス、69歳。
世間一般のその歳の人の身体と比べれば素晴らしい肉体をしているが、若いレスラー達のそれと比べて見劣りすることは一目瞭然。
動きももちろん、全盛期とは程遠いし、現役バリバリ世代がやる試合とは雲泥の差である。
それでも試合は入場の時点から大盛況。
昔見ていたマスカラスの今の姿に、自分の昔を、今を、想いを重ねる。
その69歳とは思えないほど鍛えられてはいるものの、昔に比べれば衰えた身体に時の経過、想いを馳せ、まぎれもなくあのスーパースターがそこにいるという事実に酔う。
40年来の、マスカラスが出す1つ1つのお馴染みの技にあがる歓声。
伝統芸能とも言える心地よさ。この日の会場の空気は、聖なる祭りというプロレスの本質を最もよく現わしていた。
試合後、出場全レスラーがリングにあがり記念撮影をしている風景と場内の空気を見ていてまた浮かんできた、プロレスの良い興行を見た後によく心に浮かびあがってくる言葉。
プロレスって最高だな。
そう思わせるものは何なのか、いろいろ考えてみた。
最初に思ったのは、すでに書いたが、マスカラスの姿に自分自身の人生を重ねあわせて見ている、というもの。
こんなに選手(演者)の息が長く続くジャンルはなかなかない。
役者や歌手はどうかと思われるかもしれないが、彼らはその時々のドラマの役割を演じ、その時々の歌を歌っている。
プロレスラーは、言わば、マスカラスならマスカラスという役、キャラクターをずっと演じ続けているのだ。
しかも、前述したように、役者と違って、建前としてプロレスラーは24時間365日プロレスラー。
演者に対するファンの思い入れは他のジャンルより強烈だ。
(アイドルもプロレスラーと同様だが、アイドルがアイドルとしていられる時間は短い。)
たしかに、これも「最高」の気持ちの一因には違いない。
しかし、この空間の温かさを見て、もっと素晴らしい事実を発見した。
それは、プロレスとは、見ている側がそれを支えているものだ、ということ。
衰えた肉体、迫力のなくなった技に対する歓声、それはたしかに、歴史を見、聖なるお祭りへの歓声であるが、もう1つ、自らの熱い視線と歓声とで、その技の1つ1つを彩り、マスカラスを聖者にしているのだ。
建前を積極的に支持し、言わば自らがジャンルの共犯者となることで、そのジャンルの幻想を成り立たせているプロレスファンの特性。(同時にそれはそのままアイドルファンの特性でもある)
それがこの日、69歳のマスカラスと、そう変わらない歳の弟のドス・カラスが、現役バリバリの相手タッグに勝ってしまうという究極の「建前の世界」で露わになり、ファンの温かさがその空間を支配したのだ。
「自分達が支えている」
この想いを、ファン達が最も自覚しているのがアイドル、そしてAKBではないだろうか。
野球やサッカーのような、1つの出来上がったスポーツの世界は、大マスコミが常に大きく取り上げ、ジャンル自体はもはや安泰だろうし、個々の選手は、ファンが増えようが減ろうが、ルールに沿って実力をあげ、成績を残せば上にいける。
普通のショーの世界でも、歌や演技は、もちろんファンが増えてCDなりチケットなり視聴率なりがとれるかどうかで成功不成功が決まるが、それには良い芸を提供できるかがカギである。その歌(あるいはその芝居ごとに)、評価や売上は大きく変わる。
アイドルは、芸の力はもちろん重要だが、その芸を通して、その人間そのものを応援してくれる人が増えるかが問題である。
もちろん、その歌やイベントごとに売上は変わるが、アイドルファンは、人間の魅力を売るアイドルの特性から、そのアイドルそのもののファンになるのであって、どんな歌やイベントでも継続して買う傾向が強い。コアなファンの存在もある。
何より、その人間そのものを好きになり、応援するのだ。「支えられている」「支えている」感は強い。
AKBは、なお支え、支えられている感が強い。
というより、それがコンセプトの1つだろう。
小さな劇場からスタートし、そこに通う少数のファンが支えていた初期の時代、そして、握手会等のファンとの直接のコンタクト、総選挙というファンの評価がダイレクトに反映する、参加型の企画。
秋元康は、AKBとは「コンピューターでいうとOSはWindowsではなくLinux(※1)」「みんながそのOSをバージョンアップして、お互い共有しあうというのが理想」と語り、様々な企画や決定を、ファンの反応を見て決めるという。初期の頃は、秋元康自身が劇場ロビーで観客に感想を聞いていた。(「QuickJapan vol.87 AKB48永久保存版大特集」)その後もスタッフを通じてファンの声を吸い上げ、現在はグーグルプラス(通称ぐぐたす)という、メンバー全員、スタッフ、ファンが自由に参加できるSNSの存在も大きい。
各メンバーが研究生からスタートし、昇格し、劇場公演に出ながら様々な媒体に出て、シングル選抜入りしたり、総選挙があったりという、人間ドラマを見れるグル―プ。
その独特のシステムゆえ、ファンでない者には分かりづらく、その分、ファンになっていろいろな事を憶えていくと、単純にAKBファンになったというよりは、AKBという世界に入ったんだという感覚が得られる。
ある時、ある人がAKB仲間の1人を「自分の同期で…」というふうに自分に紹介した。その後、それは「会社の同期」という意味で話してたことが判明したのだが、自分ははじめそれを「AKBのファンになった時期が同じ者」という意味でとった。
会社なり部活なりの組織で「同期」という言い方はあるが、アイドルグループのファンになった時期で先輩とか後輩とか同期という言い方はあまりしないだろうから、そう解釈するのはおかしいだろうが、AKBに関してはそれがしっくりくる感があるのだ(笑)
現に、「同期」という言い方はその時以外聞いたことはないにしても、ファンになった時期により、ドラマ「マジすか学園」を見てのファンを「マジすか新規」と呼んだことに始まり、同じようにどの曲からファンになったかで自らを「ヘビロテ新規です」と自己紹介したりする。そして、最もよく聞くのが初期からのファンを「古参」、わりと新しいファンを「新規」という言い方。
それらは、AKBが1つのアイドルグループというよりは、1つのコンセプト、さらには1つのジャンルという捉え方から来ている。ジャンルに対する思い入れの強さとも言えるだろう。
自分達が支えている、という想いの表現が、ライヴ会場で各曲の決まり事で発生する客席からのコールやmix(※2)、ヲタ芸。
そして、AKBでは、メンバーの○○のファン、とは言わずに、○○を「推してる」と言う。
天皇は国民が推し戴いている、という言い方をする。
推し戴く…物を恭しく顔の全面の上方にささげ持つ。その人を敬って組織の長として迎える。(goo辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/)
敬って…ということは大前提としてあるのだが、同時に、国民がささげ持つ、象徴としていただく、という意志がその言葉には込められている。
一般の国民大衆が天皇の存在を意識するようになったのは、歴史の中ではわりと最近なのかもしれない。が、摂関家や武士、時代の実権を握る者が天皇を推し戴ていた。(※3)
そして、現代。
皇居の一般参賀でのお出ましに国旗を振る国民と、それに笑顔で手を振って応えられるご皇族。
それは、こちらとあちらという対峙する2つの存在でありながら、こちらがなければあちらもなく、あちらがなければこちらもない、1つの風景。
国旗を振る国民は、ご皇族に対峙し国旗を振っていると同時に、自分達がその1つの風景を構成している、欠くべからざる要素であることを認識している。
自らの熱い視線と歓声とで、その技の1つ1つを彩り、マスカラスを聖者にしていたプロレスファンのように。
アイドルのコンサートでサイリウムを振って、その世界で認知されているお決まりのコールを叫ぶファンも、自分達が観る対象を崇拝していると同時に、自分達が応援している風景があってこその観られる側であることを認識し、歓声をあげることで積極的にその風景をつくっている。
客席をかきわけ、観客に襲いかからんと暴れながら入場してくる悪役レスラーから、殴られるわけはないことを分かりながら逃げ回る観客のように。(こういうタイプの悪役は最近あまりいないが)(※4)
他のジャンルではどうか。
スポーツ。本質的に、それを観る者がいなくても成り立つ世界である。
(金を払う客がいなければ経営が成り立たないじゃないかという実際的な問題ではない。ジャンルの本質的な話として)
芸能…歌や演劇も観る者あってではないか。確かに、観る者がいなければ成り立たない。
しかし、天皇、プロレスラー、アイドルに対する、推し戴くという感覚、熱烈に応援する存在がなくても、ジャンルとしては成り立つ。
それらのような、観る側・推し戴く側と、観られる側・推し戴く側にある、独特な熱気のある関係性ではない。
表現したい思いあまって1人で夜空に歌う歌手、または、誰見るわけでもない紙に書かれた自己完結の芸術として描かれた絵画…あり得る風景だが、1人で夜空にアイドルキャッチフレーズを披露し、アイドルソングを歌い踊るのは、練習でない限りあり得ない…あったらちょっとアレな風景だろう(笑)
同様に、誰も見てないプロレスはあり得ず(※5)、推し戴く国民不在の天皇というのもあり得ない。
その理由は「建前」と「生身」が混然一体となった「人間」が主役というところがキーポイント。
「人間」を観るジャンルは、それを観る側も「人間」であることが必要であり、両方が主役なのだ。
国旗を振り、天皇陛下万歳を叫ぶ国民と、穏やかににこやかにそれに応えて手をふられる天皇陛下。
未完成ながら一生懸命歌って踊る少女の汗と、これもまたサイリウムを力一杯ふり、大声で応援する観客の汗。
プロレスラーを強さの象徴として尊敬し、それが建前の世界であると知りつつ、そのファンとしての振る舞いを自らも演じながら応援するファンと、それに鍛えられた肉体と技で応えるプロレスラーが支配する空間。
サイコーだな、と思う。
※1 Linux 個々のユーザーが開発者となって、全世界で改良&バージョンアップが続けられているオープンソースのソフトウェア 、とのこと。自分はパソコン関係にうといので全く知らない。
※2 ミックスと読む。AKBの歌のイントロ、間奏でファンが叫ぶ掛け声。「タイガー、ファイヤー、サイバー、ダイバー、バイバー、ジャージャー」さらにこれの日本語(2連mix)、アイヌ語(3連mix)がある。AKB以前の地下アイドルからあったようだが、AKBのライヴで爆発的に広まった。
※3 摂関家や中世からの武士が天皇家を廃し、自らが新しい王朝を開かなかったのは天皇を敬う精神ではなく、その権威をそのまま利用した方が時どきの権力に好都合だったからという側面があったにせよ、とにもかくにも、実権を握る者が天皇を推し戴く、という形をとることにより天皇が存在していたことは間違いない。
※4 小学生の時、観客を襲いにきたストロングマシンから逃げた後、客席に戻ってきた自分に、そこに微動せず待ち「あの人達は殴ったら警察に捕まるんやから、襲われるわけないから逃げなくていいんや」と自分に言った父親(プロレスファンではなく、自分の引率で来てた)に、その頃は基本的にプロレスはガチンコだと思っていた子供ながらに「これは逃げて楽しむものなんや。この人は分かっとらんなあ」と心の中で言った自分は、プロレス、そして長じて、その頃生まれてもいなかったメンバーによって構成されるAKBのファンになる素質は持っていたわけだ。
※5 巌流島で猪木とマサ斉藤が観衆なしで闘ったり、大仁田厚がターザン後藤、タイガー・ジェット・シンとそれぞれシングルで行った「ノーピープルマッチ」などがあるが、当然、プロレスマスコミからファンに報道されて、ストーリーの点となることを前提としたプロレスである。