目次
はじめに・出版社の方へ・目次
<2013.5.7追記、お詫び>
はじめに
出版社の方へ 紙の書籍としての出版先募集してます
目次
第1章 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か
1 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か
2 天皇、プロレス、AKBが攻撃される理由
3 「プロレス、AKBのファンは虚像を見ている」と見下す者こそが虚像を見ている。ファンが見ているのは実像
4 アイドル、プロレスファンこそ現実を直視している人間
5 天皇を存続させた日本人のメンタリティが日本のプロレス、アイドル、AKBを生んだ
第2章 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
6 AKBの核・劇場公演とは?
7 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
8 AKB総選挙批判に対して 遊びに貴賎がつけられている不可解さ
9 AKB総選挙批判は、ジョーシキに染まっている人間が浮き彫りになる
10 なぜAKBがことさら攻撃されるのか、その理由
11 根っからの“ジョーシキ”嫌いにとっては、AKBは「買い」
第3章 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー
12 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー
13 格闘技のリアリティ
14 リアリティなら、“真剣勝負”の格闘技よりプロレスの方が上
15 アイドルこそは最もリアリティある世界
16 リアルとリアリティの違い
17 人間はみなプロレスラー、アイドル。人生はプロレス
18 虚実が入り混じっているプロレスとアイドル、そして人生
第4章 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室
19 ファンが支えているプロレス、AKB。国民が推し戴いている天皇
20 国旗、サイリウム、掛け声…人間を推し戴く表現手段
21 天皇、プロレスラー、アイドルは「上」でなくてはいけない
22 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室
23 「人間」を観るジャンル
24 「いかがわしさ」には「いかがわしさ」を
第5章 プロレスとAKBこそ人間の色気が最も見られる
25 AKBの歌のベースは 色即是空 
26 AKBの楽曲の世界
27 “AKB顔”
28 少女達の大人数集団の独特の魅力
29 共同体と個人競争の社会
30 プロレスとAKBこそ人間の色気が最も見られる
31 物語の流れ、歴史、記憶の蓄積があってこその、AKB、プロレス、皇室
32 登場シーンに集約されるプロレス、AKBの魅力
33 サプライズは人間ドラマの花形
34 共同幻想
35 偏見が熱気、パワーを生んでいる
36 「商売」が嫌いなアンチ達
第6章 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB
37 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB  たけしの笑いはスポーツ
38 ノンフィクションテイスト プロレス=虚数という概念
39 バナナはリンゴか? この世に「嘘」はない
第7章 フワフワしたものが嫌い、だからAKBが好き
40 嘘でも本当……華やかな虚構の世界を成り立たせるために流されている本物の汗
41 AKBの尋常じゃない汗の量
42 アイドル、プロレスラーの「実力」
43 フワフワしたものが嫌い、だからAKBが好き
第8章 AKB握手会とは何か? ファンとメンバーの1回10秒のプロレス
44 参加するという行為  皇居一般参賀、AKB握手会、プロレス地方興行の風景
45 AKB握手会の笑顔を「営業」と見下す者は、人間そのものを見下している
46 推しメンとファンのプロレス
47 乃木坂46
48 「ガチ」か「嘘」でしか捉えられない無粋人間
第9章 プロレスやアイドルの「嘘」にキレる人間は、世の中の本当の嘘に騙される
49 既成概念でしか物事を捉えられない人々
50 ジャンルそのものを見下す愚かさ
51 プロレスやAKBを見下す類の人間は、切り捨て御免の侍
52 軽薄、非実力、キモイの代名詞として使われている「AKB」というデジタル記号
53 アンチプロレス・アンチAKBは、見ている世界と同じ色に染まるカメレオン
54 プロレスやアイドルの「嘘」にキレる人間は、世の中の本当の嘘に騙される
55 真正面から見る目がそのジャンルを育てる~プロレス、アイドルの進化~皇室を学ぶ必要性
56 皇室、プロレス、アイドルを愛する者は物事に意識的な関わりをする文化人
57 指原スキャンダルに見る、理想のファン像
終わりに、参考文献、奥付
終わりに
参考文献
奥付

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10 なぜAKBがことさら攻撃されるのか、その理由

 第1章 <天皇、プロレス、AKBが攻撃される理由>プロレス、AKBへの攻撃が多いことやその特徴について触れたが、ことに、最近のAKBへの攻撃には辟易とする。

積極的に、嫌いなはずのものの情報をわざわざネットその他で一生懸命収集し、せっせとネットに書きこんでいる、なんだかよく分からない者達もいるが()、とにかく、AKBおよびそのファンに対する世間の視線は偏見、蔑視の類が多い。

まず、アイドルという文化そのものが低く見られているというのが1点あるが、その中でもなぜAKBがことさら攻撃されるのか、その理由をいくつか考えてみた。

 

≪秋葉原で誕生し、今でも秋葉原の劇場で公演しているということ≫

 

電気街という顔とともに、ヲタクの街として今や完全に「アキバ文化」と言えるものが花開いている街・秋葉原。

 言うまでもなく、AKB48はここで誕生し、今でも劇場公演が行われているのだが、AKBに対する蔑視・偏見には、アキバ発のアイドルということが大きく影響しているだろう。

当初はアキバありきではなく、東京の各所で劇場の物件探しをしていたのだが、アイドルが毎日公演する劇場という新しいコンセプトに物件を貸してくれるところは少なく(前例がないもの=怪しい、ということなのだろう)、結局、秋葉原に物件が見つかり、そこに決まったという。

初めは、青山や渋谷で物件を探していたというが、もしそういう場所で誕生していたら、全く同じことをやっていたとしても、そのイメージは全く変わっていただろう。人間がものを見る時、目の前にかざす先入観とか偏見というフィルターはとんでもなく強い影響をもたらす。

 

≪アイドルグル―プではなく、システムであることが理解されていない≫

 

フツーの、3~5人くらいのアイドルグループが、今のAKBと全く同じ歌を歌っていて今のAKBくらいの大人気、ということならば、好き嫌いはあれど、ここまでの偏見はないだろう。

大人数で何がなんだか分からない、という分からないものへの不安や嫌悪がそこにはある。

AKBを1つのアイドルグループだと思っているのだ。

そういう捉え方が全く違うとは言わないが、AKBは1つのシステム、コンセプトの名前として理解したほうがいい。

アイドルや、歌手、女優を目指す少女達がオーディションを受け合格し、レッスンを重ね、各チームが各地の小劇場で公演を行いながら磨かれ、研究生から正規メンバーに昇格し、その中からさらにシングル曲発表のたびに選抜メンバーが選ばれる。時には選抜を選ぶのにファン投票やジャンケンもあり、それやこれやの中での悲喜こもごも、成長の過程を見て応援する、というコンセプトだ。

だから、よく聞かれる「誰が誰だか分からない」ということも、このコンセプトを面白いと思い、それにのっかって楽しむ者は顔を憶えて行けばいいし、興味がなければ憶えなければいいだけの話だ。

 

≪新しいシステム、コンセプト。そしてそれが大流行してる、しかし常識としては根付いてない≫

 

AKBという、新しいシステム、なんだかよく分からないもの、それらが大流行していることが世間の人のお気に召さないのだろう。

そして大事な点は、大流行しているものの、常識としては根付いていないということ。

秋元康はAKBの選抜総選挙その他が、いつかプロ野球のペナントレースを日本人が毎年毎年フツーに話題にするように、定着してくれたらと何かの機会に話していた。

いったん、握手会のことや昇格、選抜のことなどよく分からないものが誰もが知るジョーシキとなり根付けば、日本人は逆に、そこを自分もおさえようとし、悪くはいわない。

ジョーシキとなってないが流行しているものは叩く、出る杭は打つ、しかしジョーシキとなればそれが自分にとって好きとか嫌いとか関係なく、とりあえずおさえておきたい、という日本人の悲しき習性。(Jリーグが誕生したとたんににわかにサッカーファンが増えた現象、ふだんボクシングに興味がなくともとりあえずゴールデンタイムに放送される世界タイトルマッチの結果は気にする人達……。)

AKBがもし流行を通り越してジョーシキとして定着すれば、ここまで叩かれることもなくなるだろうが、そこまではいってないものの大流行しているという点が、日本人の中の一部の残念な人達がちょうど叩きたくなるポイントなのだ。

 

AKB商法批判≫

 

アンチAKBはよく「AKB商法」という言葉を使う。

何を言わんとしているか。

世に溢れているAKB批判は、妄想や憶測に基づいて下劣な言葉を書きなぐっているだけのものばかりで、論理的な「批判」と言えるものはほとんど見当たらないので、何をもって「AKB商法」といっているのかはいまいち不明なのだが、おそらく、次のような商品についていっているのだろう。

 

握手会参加券付きCD 

選抜総選挙投票権付きCD 

同じシングル曲でカップリングや付属品の違う複数仕様 

 

これらは、選抜総選挙投票券付きCD以外は、AKB独自のものでもなんでもない。

それを「AKB商法」と名付けること自体がおかしい。同様のことをやっている他のものと何が違うか。AKBはそれで売れまくっている、という違いだろう。

要は、出る杭は打ちたいという日本人の短所、ひがみ根性である。

選抜総選挙付きCDは、そもそも選抜総選挙というものをやっているグループがないからAKB独自のものであって当然なのだが、これは一体何が問題なのか。

1人1票でない、ということをよく批判する者がいるが、これは政治の選挙ではない。

同じ「ファン」といっても、なんとなくこのコかな、程度のファン(別にこれがいけないと言っているのではない)から、熱狂的なファンまでその思いの強さは全然違う。

1人で多くのお金を出した分、同じ数のファンだとしても、その思いいれの強いファンが多い方が順位が上、ということになるわけだ。繰り返すが、これは政治の選挙ではなく、アイドルグループの選挙なのだからそれで問題はない。

まあ、しかし、ファンの思いの総計は同じでも、たまたまお金持ちのファンが多い方が有利、という問題点はあるし、1人1票のほうがよい、というのも考えとしてあるだろう。

しかし!しかしである。AKBのファンが、これでは不公平ではないかとかこうした方がいい、というのは分かる。ファンなのだから、そのアイドルグループのシングル曲のメンバーに誰が選ばれるかの投票に意見があるのは当然分かる。

…一方、アンチAKBの連中は、なぜ嫌いなはずのAKBのシングルのメンバーを決める選挙のやり方が気になるのだ?()

嫌いなアイドルグループのメンバーの選出方法…自分だったら、それがいかに不公平でおかしなものであったとしても、ど~~~~~でもいいし、その感覚が正常だろう。

メディアが大々的に取り上げるようになったから、まるで自分に関係していることのように勘違いしているのかもしれないが、あれはAKBファンでない者にはどうでもいいことのはずである() 批判する意味が分からないし、単に難癖をつけているだけである。AKBファンでない者にAKBシングルメンバー選抜の方法をああだこうだ言われる筋合いはない。

 

握手会参加券付、ということでCDの売上を伸ばしているというのも攻撃の対象らしい。(※1)

それについては、握手券単体では、風営法のからみで法律的に販売できないという事情がある。

 

握手会券にしろ投票券にしろ、買う者はそれに魅力を感じている分、自分の金でたくさん買うのだから、それをどうこう批判する意味が分からない。

中に大量のCDを買うファンがいて、それについて「たかがアイドルの…」と批判する向きもあるが、それも本人の意思に基づいてやっていることであり、たかがアイドル、たしかにたかがアイドル、いうなればたかが趣味の話だ。たかが趣味だからこそ、そこには人それぞれ、その趣味の持ち主以外にはわからぬ楽しみ、価値があるのだ。

例えば、腕時計に興味のない自分には、携帯電話で常に正確な時間が分かるのに、高額な、それこそ何百万、何千万もするような腕時計を買う感覚が全く理解できないが、それを批判するつもりもない。趣味嗜好の話だから。自分の金で自分の好きなもの、楽しいと思うものを買っているものを、他人がとやかく言う筋合いがない。

その趣味嗜好の持ち主以外には理解できないような高額な金をかけているものは、世の中にいくらでもいる。

釣り道具、将棋の高級な駒、宝石、切手の収集、…。

たかがアイドル、全くおっしゃる通りである。

しかし、たかがアイドルであれ、そこから元気なり楽しみなりを得ているぶん、金をかけているだけの話であって、好きなものに、好きなぶんだけの時間なり金なりをかけている…どこの世界にもあること。何故、AKBだけを批判するのか?それは、前述したように、AKBが(CDの販売の仕方は前例はあるが)システムとして新しいことをやっていて、それが爆発的に売れていることが、それまでのジョーシキに土着したい人間達、出る杭は打ちたい、ひがみ根性丸出しの人間達には気に入らない、ということだ。

 

「たかがアイドル」に自分の金をかけて楽しむ、何がいけないのだろうか。

陰湿で異常な行為は、「たかがアイドル」を批判するために、好きでもないはずのアイドルのあれこれの情報を収集し、ネットで批判し、また、そのファンを見下す言動をとって税にいっていることである。

また最近では、あることないこと、若い少女達を傷つけることも何のその、中にはメンバーの身内のスキャンダルまで書きたて、人気絶頂のAKBを叩くことで売上を伸ばそうというあこぎな週刊誌等マスコミが多い。

「AKB商法」が何をいわんとしているかは不明だが、仮にAKBの運営をそう呼ぶのであれば、いろいろ変わったものがあるにしろなんにしても、AKBの商品、サービスを提供し、それに魅力を感じるファンが感じた分だけ買い、ファンは元気なり楽しみなりをもらっている、本質的にまっとうな商売の話。

それに対しAKBを批判することで売上を伸ばそうという「AKB批判商法」は、「たかがアイドル」=趣味嗜好の次元の話に難癖つけ、それに携わる者、ファンの気分を害し他者を見下すことで税にいる傾向のある者に、その歪んだ快感を売っている、品性のないあこぎな商売である。

 

 ≪批判することで生まれる自信≫

 

大流行している、そしてアイドルという世間で低く見られているジャンルに属すること、という2つの条件が揃うことによって、もう1つ、批判が多くなる要素が生まれる。

それは…批判することで、おれは頭いいんだよというアピールができること。

流行しているものを批判することで、自分は流行に流されない、物事を批判する目を持ってるんだよというポーズができる。プラス、自分は「アイドルなどという低俗な文化」に染まる人間達よりは上等な人間だという自信も持てる。

 

AKBヲタクと、AKB批判をする人、どっちが頭よさげに見えるかと言ったら、AKB批判者だろう()

そして、これまで述べたきたように、生身と建前が混然一体となったジャンルは、ものの見方の浅い阿呆ほど大ハシャギで批判するという特徴がある。

言わば、AKBを批判することは、阿呆が頭よさげに振る舞うにはもってこいなのだ。

 

そして、AKBを批判することは、これまで述べたきたようなあれやこれやで「これはバカにしていいものだ」という共通感覚が世間にあり、多数派にまわってバカにできるという安心感がある。

 

え?

AKBは今や国民的アイドルだから、バカにする方が多数ってことはないんじゃない?

たしかに売れていてファンも多いが、いくら多いと言っても、日本人全体の割合からすれば、ファンでない人のほうが圧倒的に多いことは間違いない。

そして、ファンでない人間のかなり多くにアンチの感情を持たれている。

そういう意味で、アンチの度合いはいろいろあれど、軽いのも含めれば、ファンよりアンチのほうが多数だろう。

 

 

 

 

 

※1 握手券も売上を伸ばしている一因ではあるが、もちろん楽曲自体の魅力があるからだ。

20111月オリコンシングルチャートでは特典の付かない通常盤旧譜4枚が同時に3週連続トップ10入りを果たしている。また、「ポニーテールとシュシュ」や「ヘビーローテーション」、ベストアルバム「神曲たち」が70週以上連続でチャートインしてロングセラーとなるなど、購入特典がほぼ無力化しても売り上げを伸ばしている作品もある。」(ウィキペディア)また、「ヘビーローテーション」「会いたかった」はカラオケのロングセラーとなっている。

 

 

 


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最終更新日 : 2012-09-12 23:05:27

11 根っからの“ジョーシキ”嫌いにとっては、AKBは「買い」

 自分は、子供の頃から世の「常識」や「フツー」とされていること、それが常識だからフツーだからということではそれを受け入れることをしない、という事が最大のアイデンティティだった。

子供の時分に、1番好きなものがプロレスという世間様から軽蔑されバカにされるものだったことが、その原因になったのか、逆にそういう人間だったから、世間から軽蔑されているプロレスでも好きになっていったのか。8割が前者で、2割が後者だと思う。

まわりがやってるから、自分も…というのが最もかっこ悪いことで、まわりがどう思おうが自分が好きなら好き、興味ないならない。

 

そういう人間ならば、「国民的アイドル」になってからのAKBのファンになるのはおかしいじゃないかと思われるかもしれないが、全く逆である。

そういう人間だからAKBファンになったのだ。

いや、きっかけは、流行にのっかるのが好きとか嫌いという次元とは全く関係なく、その作品の素晴らしさに気付いたのがきっかけで、ハマったのはこのグループが「人間を見せる」、汗の匂いのするアイドルだったからだが、「ジョーシキ」「フツー」が嫌いという性格が、ますますそれを加速したのだ。

 

AKBって流行りもんじゃん、と思うかもしれないが、自分が染まるのを嫌う「ジョーシキ」とは、もっと人々の意識に深く根付いているもの。

 

つまり、アイドル=実力のないもの、軽薄なもの、評価するに足りないもの、という「ジョーシキ」

いい年こいた人間が見るものではないという「ジョーシキ」

 

自分が、AKBの楽曲の歌詞が素晴らしいという話をすると「?」とか「アホか」という反応をされることが多々ある。

歌詞をいいと思うかは、人それぞれだと思うので、歌詞を認識して聴いたうえでならいろいろな感想があって当然と思うが、まあ、ろくに聴いたり歌詞を読んで認識してないのに「アホか」という反応する者は、前述した「ジョーシキ」に染まっている。

 

ある本に掲載されていた秋元康のコメントの1部を紹介する。

「アーティストっぽく見せようと必死だったり、そういうブランド感を妙に奉ったりしてるのは苦手。そういう人たちを見てると僕は何か。偽悪的な気分になってくるんだよね。お前らがそうならこっちは真逆の、ぜんっぜんカッコよくない、チャラチャラしたところから始めてやる、て(笑)。そういうのが面白いでしょ。そこで意外といいよね~って言われるのが。」

この秋元康の言葉、すんごく分かるのだ。分かるというより、自分の感覚の中心、「ジョーシキ」が嫌いな自分のアイデンティティそのものというか。
(松本人志といい、秋元康といい、自分がその作品を好きな人は、インタビューで語る言葉も、やはり感覚が近いというか、すごく分かる。ただ、アントニオ猪木のプロレスは大好き(他のレスラーとは別格と思っている)だが、彼の語る言葉はほとんど理解できない(笑))
 軽薄で「評価」に値しない(とジョーシキ的にはカテゴリされてる)アイドルというジャンルで、大人数の束もので大人気になった…というところが、世の中の“ジョーシキに染まりつつも自らはその意識はなく、逆に、流行してるものを批判することで俺は流行に流されない自分を持ってるんだよというポーズをしたい人々”にとって、AKBは最も批判して気持ちいい題材としてうつるのだろう。
 プロレスファンとして、子供の頃から“世間と闘う”ことが宿命だった自分は、大人になってからもベジタリアン(ゆるいベジタリアンだけど)になった時、AKBにハマった時も、「あ、今度はこれで世間の偏見と闘うんだな」と思ったものだ()
根っからの、ジョーシキには染まらない派の自分には、AKBは「買い」なのだ。
 

 

 


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最終更新日 : 2012-10-03 21:06:17

12 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー

 ジャンルに貴賎をつけて「スポーツ、競技>ショー」という、よく分からない価値観を持っているなあと感じる人が時々いる。

 

 自分は人間臭いもの、汗の匂いが好きだ。

 匂いフェチではない() そして、「流した汗は嘘をつかない」的な意味合いでもない。余談になるが、中高生の時に読んでた井上靖の一連の自伝的小説の中に、氏の金沢大学柔道部の先輩が話す「練習量が全てを決定する柔道」という言葉が度々出てきたが、子供ながらに「練習量が全てを決定する…?なんでそんなつまんないものに打ちこむ気になるんだろう?」と思ったものだ(※1)こういう風に思う子供は変わってるのだろうか。とにかく労力をかけた方が勝つ…そんなものより、創意工夫や頭を使うこと…そういう勝負が面白いのじゃないかと。

 

 自分は、そもそもスポーツというものより、ショーの世界の方が好きである。

 一定のルールで「フェアに」勝負を決するという人工的な世界に偽物感を感じる。

「本物の」世界はそんなものじゃない。

「実力」では下の者が出世したりいい目を見たりすることもある。

 でも決して「実力」が関係ないわけでもなく。そして、そもそも何を「実力」というのか。

「仕事が出来る」とは?

 いわゆる「仕事ができないやつ」でも職場を和ませて良い雰囲気にすることも間接的に全体の成績に貢献しているはずだし、出世を目指すなら、上司に気に入れられることも能力のうち、と考える人もいるはず。ようは、一筋縄で実力の評価ができるわけではない。

 

 そういう、リアルな・「本物の」世界を体現してるものは、スポーツであろうか?

 

 自分にとってそういう意味での「本物」を感じ、その人間模様に魅入られてしまうのは、スポーツよりもプロレスである。AKB48である。

 

 プロレスは前に述べたような「他に比類なきジャンル」(←たしか、村松友視さんの本に書いてあった言葉)だが、AKBも、独特の世界を持ったグループで、もはや1つのアイドルグループの名前というよりは、1つのジャンルであろうと思う。

各地の小さな常設劇場で、研究生からスタートし、売れてきた先輩の代役(アンダー)をこなしながら成長し、チームの一員となり、成長していくさまを、劇場や握手会で直にメンバーに感想を話したりしながら、見ていく…。ファンが選抜メンバーを決める総選挙。大人数の中で上にあがるメンバー、まだ埋もれているメンバー、その人間模様を見守り、「推し」を応援する、「リアルな」ドキュメンタリー。それがAKBというコンセプトだ。

 

 自分がプロレスのことを「エンターテイメントだ」と説明すると、多くの人が「あ、そうやって割り切って見てるんだ」というような事を言うが、その意味がよく分からない。

 何を「割り切って」見なければいけないんだろうか?

 何も割り切って見てない。

 もう、その面白さ、レスラーの放つ人間の匂いに心からゾクゾク、ワクワク、完全に子供が大人を見上げる眼差しそのままに、憧れの眼差しでみている。

 AKB48のメンバーの成長物語にも、その一筋縄ではいかないショーの世界での、右左曲折ある中で時に挫折したり夢を実現させていったりという人間模様に心からワクワクする。

 

 逆に自分からしたら、「スポーツ」を見てる人は割り切って見てるんだろうな、と思う。

 

 完全にルールが決まっていて、そのルールの枠内で全ての評価が数字で明示される、という、本物の世界ではあり得ない人工的な世界を、とにかくそういうものだと割り切って受け入れる。

 投げたボールを棒で引っぱたいて、決められた広さよりも遠くに飛ばしたら点が入るという誰かがどこかで決めた決まり事を割り切って受け入れる。

 何故だか手を使わずに、とにかく足を使って球を網の中にたくさん入れた方が勝ちという仮定の世界を割り切って受け入れる。

 

↑悪意ある書き方をしてみましたが()、物事は同じ事象でも、悪意でも善意でも表現できる。

 スポーツをこれまで述べたのと同じ趣旨で善意で書けば、現実世界と違ってるところが素晴らしいと言えるのだろう。

 時に理不尽に思え、何をどうすればいいのか分からなくなることもある世界の中で生きる人々にとって、決められたルールがあり、努力すべきことがはっきり分かり、その中で勝負しスッキリと結果がつくという、現実世界ではあり得ない理想郷、ファンタジーの世界であるところがスポーツの素晴らしいところだ。

 

 

 

 

 

※1 後にそれが意味するところは、柔道の立ち技よりも寝技の方が、センスよりも経験や練習量で上手くなれる比重が大きい、という意味合いで使われていることが分かった。この言葉に影響されたわけでは全く関係なくのだが、大人になってから寝技中心の格闘技、ブラジリアン柔術を習っていて柔道の町道場にも少し通った経験があるので、今はこの言葉に込められた気持ちが分かる。

 

 

 

 


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最終更新日 : 2012-10-03 21:17:13

13 格闘技のリアリティ

 自分は、格闘技、ボディビル以外のスポーツに興味がない。

(ボディビルのことはここではおいておくとして)格闘技以外のスポーツにリアリティを感じない。

 

 プロレスとアイドルにはリアリティを感じ、スポーツをファンタジーと捉えていることは既に述べたが、スポーツの中でも、格闘技にはリアリティを感じる。

 もちろん、格闘技も競技であり、各格闘技にルールが設定されているが、2人の人間が向き合って闘うということは、リアルな人間の生活にあり、本能に根ざしている“喧嘩”を感じることができる。無条件に血沸き肉躍る。

格闘技が強くなることイコール喧嘩が強くなる、とは必ずしもならないことは承知しているし、実戦では凶器の使用や複数の闘いもありえることその他は百も承知。

 

 実際のケンカに近い格闘技がいいというのでもない。

 

 ルールの枠内でも2人の人間が向き合って、KOやギブアップあるいは投げを狙う、抑え込む、ダメージを与えあう闘いということに、ものすごい“人間のリアリティ”を感じる。

 

 また、格闘技の強者を目指すことにもリアリティがある。

 

 あらゆるスポーツ競技がなかった太古の昔。

 神様が現れ、汝に、投げられた球を棒で遠くに打てる能力を授けよう!と言ったとしよう。おそらく多くの人は、たいして嬉しくないだろう。

神様と対等に話すことが許されるなら、「いえ、けっこうです」と言う人も多いはずだ()

球を足で上手く扱うことができる能力も、ノーサンキュー。

 

人を投げとばす能力はほしいか?ほしい!

人と殴り合いで勝つ能力。ほしい!

人を抑え込み、屈服させる能力。ほしい!

 

 太古の時代、という設定にしたが、現代でも、少なくとも自分は同じ答えだ。

自分が今、格闘技を習っているから、大会に出て勝ちたいから、ということではない。

「強くなる」その事自体が喜びなのだ。人間くさいのだ!

 

 他のスポーツは、そこで強くなることの喜びは、その人工的に設定されたファンタジーの世界の存在がなければ、あり得ない。

 

 松本人志のコントで、東野幸治と今田耕治が、なんだかわけの分からないスポーツで争っているのがあるが、あれはそういうスポーツという、ある意味わけのわからないジャンルそのものを皮肉っているものだと思う。

 

もし、格闘技以外のスポーツ、例えば球技にリアリティがあるとすれば…。

多くの人間がフォーメーションを組んで、指揮系統があり、作戦をたてて道具を使ってどこかに球を命中させたり防いだり…戦争のシュミレーション、ではなかろうか。

 

また、松本人志はかつて「ガキの使い」のトークの中で、水泳のことを

 

「ドボーンで飛び込んで、(相手は全然進んでないのに自分が)すぐにゴールしてウワ~って喜ぶのは分かりますよ。でも、トン(自分がゴール)、トン(相手が数秒後にゴール)くらいの差でウオ~ッって。あれが分からん」

 

とか

 

(野球に関して)「なんで3回ストライク取られたらアウトやねん。俺は4球目で打つかもしらんのに」

 

などと発言していて、もちろん、笑いをとるためのものであるが、そこには彼の本音がベースになっているのが、スポーツに関して彼と同じ感覚であろう(と勝手に思っている)自分にはよく分かる。

 


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最終更新日 : 2012-10-03 21:20:23

14 リアリティなら、“真剣勝負”の格闘技よりプロレスの方が上

 前項第3章 13<格闘技のリアリティ>で、スポーツの中では格闘技にリアリティを感じると書いたが、それよりさらにリアリティある世界がプロレスである。

 そう言われて、読者は本著をこのページから読み始めたのでなければ、まさか著者が、「あらゆる格闘技の要素を持っているのが、プロレス。プロレスこそ最強の格闘技。」などと、プロレス最強論を説き始めたりしないことはお分かりだろう()

 

 なぜ、真剣勝負の格闘技より、プロレスにリアリティがあるのか。

 

 それは、まず、その興行までにいろんな遺恨やストーリーがあること。

そして、プロレスラーが大見得を切って入場し、大怪我を負わさないような暗黙の了解にのっとって、一定の流儀に沿って闘い、観客にアピールしながら闘うからだ。マイクアピールなどもある。

 

何言ってるの? そういうところがプロレスが嘘くさいとこじゃん、と思われたかな?

 

 まず、動物の同種間の闘いというものは、多くがメスを獲得するものや序列争い、餌をめぐる戦いだが、そこでは相手の命を狙うような戦いはしないのが通常である(例外はある)

 

 お互いに致命傷にならないような戦い方をするのだ。完全にその戦いが形式的になっているものもある。

 

 詳しくは、動物学の本などひもとけば、同種間の闘いが、ある一定の流儀に従って、お互いに致命傷を負わさないようにしながら、相手を殺す、倒すというよりも、自分の方が強い、ということを「誇示」つまり「見せる」ために闘っていることが分かるだろう。

 

 ここで格好の例として、ある魚がお互いに闘う際に、必ず、相手の1番ぶ厚い胸板をつつきあって、それ以外の弱いところは攻撃しない、という例がある…(それを書いてあった本があって、なんという書名の何ページ、とメモしたつもりがどこかにやってしまい、具体的に書けない…発見できたら、引用してここに書きます)

 

 このような戦いを見て、人間のやっていることに当てはめるならば…プロレスが近いだろう。

 魚の、ダメージの少ない胸板をお互いに攻撃しあうところなど、プロレスの序盤の定番、お互いの胸板へ1発ずつチョップや張り手を叩きあうシーンそのものである。

つまり、どちらが強いかを“競う”のではなく、どちらが強いかを“誇示”しあうのだ。

 

 格闘技も、お互いに致命傷を負わないようルールがあるではないかと言われそうだが、動物には明文化されたルールがあるわけではなく、本能に基づいた“暗黙の了解”として行っている。

 また、格闘技競技者がKOや一本を狙うのは“とどめをさす”気持ちと似ており、また、見る側の意識としては、“真剣勝負”であり、とどめをさす戦いのシュミレーションだ。

 

 動物の同種間の闘いのもう1つの側面は、ケースによっては、どちらが強いか、を自分の群れのオスやメスに“見せている”ことだろう。これは、プロレスのように見る者を楽しませるため、感動を与えるためではなく、自分の強さを示して優位に立つため、という違いはあるものの、「見せる」という意味合いで「ショー」である。

戦いに勝った後は、その動物の流儀で、精一杯メスにアピールしたりする。

 

 人間でもそうである。

 仲間内での喧嘩、もしくはまわりの目がある中での喧嘩は、ある種の強い「自分」を演じて、強さを誇示したい、あるいは強さに自信のない者は、弱さをさらけ出したくないためにビビりながらも虚勢をはる。

喧嘩前、あるいは喧嘩中、後の罵り合い。

 勝った方は、勝った事を相手に、または周りに誇示し、負けた方も時には口で反撃する。

 

 プロレスはこれとそっくりではないか。

それぞれのキャラクターをつくって見栄をきって入場し、にらみ合い、見ている者に   アピールしあい、闘いの前後にはマイクアピールなどもする。

 

 反則は5カウントまでオッケー、という曖昧な規定も、喧嘩と似ている。

 お互いを殺し合おうという喧嘩など、世の中全体の喧嘩の数から言えば、実際は少ない。

 これ以上はやってはいけない、という理性がどこかで働き、曖昧ながらも一線を引いている。

 

 本著を書いていて改めて感じることは、世の中で「本物」とされているものこそが如何に人工的で嘘くさいもので、「嘘」「偽物」と見られているもの(プロレス、アイドル)こそがいかに本物であるか、ということだ。

 

 

 


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最終更新日 : 2012-09-01 00:44:08


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