3 「プロレス、AKBのファンは虚像を見ている」と見下す者こそが虚像を見ている。ファンが見ているのは実像
前項で、「全く逆である」ということを書いたが、このことは、もっと深く考えると、さらに興味深い問題だ。
AKBおよびそのファンをバカにする感覚の持ち主からすると、AKBを見てる人間は、アイドルという虚像を見てる、ホントの生身の姿を見てないバカ、ということになり、俺達は虚像を見ずに、ホントの生身の姿見てるんだよ、ということになるのだろう。
繰り返すが、全く逆である。
彼らは、アイドルとは、お金のこと考えない、純真無垢、名誉欲も性欲もない…その他いろいろ、「アイドル」のあるべき姿=彼らにとっての「ホントのアイドル」という虚像を見ようとしている。「ホントのアイドル」ならば、純真無垢そのものであって然るべき、という前提に立つ。
そして、それとは違う生身の姿が見えたり、週刊誌に書かれてたりするのを見た瞬間に、それらの姿は彼らが勝手に妄想している「ホントのアイドル」とは違う=「嘘」となる。
そして、「ファンの奴らよ、ほら見ろ、○○ちゃんは男いるんだよ、引退した××はAVデビューしたよ、△△事務所はこれこれでいくら儲けてるんだよ」とアイドルが「嘘」であることをご教示して下さるというわけだ。
彼らの見てるものは「ホントのアイドル」にしろ、それとは違う生身の姿=彼らにとっての「嘘」にしろ、両方とも虚像である。「ホントのアイドル」はあり得ない虚像。そして、生身の姿を彼らの妄想している「ホントのアイドル」とは違う「嘘」というおかしな目で見ている時点で、彼らにとっての「生身」も虚像。
AKBのファンは何を見ているか。
「アイドルであろうとする」「生身」の少女達の姿を見ている。
つまり、全く虚像は見ていない。彼らと違って。
虚像を見ていないから、生身の姿は「嘘」ではなく、人間らしいリアルな姿であり、本当の汗の匂いを感じ、魅力あり応援したくなる対象となる。
舞台やステージは虚の世界であることを分かりながら、生身の人間が虚を演じている姿、その歌やダンスを楽しみ、いろいろ悩みや葛藤を抱えながら頑張っている少女達の物語を見ている。
彼ら(バカにする人間)は、「アイドルであろうとする」の「あろうとする」を見ず、あり得ない「アイドルそのもの」という虚像を前提にする目の曇りから、そこから外れる姿=「生身の姿」が「嘘」に見える。
AKBファンに「現実を見ろよ」と見下す彼らこそが、虚像を見ているがゆえに、現実=ありのままの彼女達=アイドルであろうと頑張っている生身の姿という現実が見れなくなっているのだ。
AKBのファンは勝手に頭でつくりあげた虚像…まさしく虚像…でものを見てないから、舞台、ステージという「リアルな虚像」をありのままに楽しむことができるのだ。
握手会なども「リアルな虚像」と言えるかもしれない。
この項のここまでの「AKB」は「アイドル」に変えてもいいのだが、夢見る少女達の成長物語を見せるというコンセプトのAKBで説明した方が、より明瞭だ。
実は、ここに説明したことを考えたのは、プロレスに関してだった。
現在はなくなってしまった「ハッスル」という団体(※1)
レーザーラモンHGやインリンオブジョイトイほか、多数の芸能人をレスラーとしてリングにあげ、おおがかりな演出で、誰の目にもエンターテインメントと分かる路線のプロレスを展開した。
ある人が、その興行を実家のテレビで見ていたら、親がどうもこれは見てられない、苦手だと難色を示したとのこと。理由として、そこで展開されるマイクアピール(※2)が「見てられない」そうな。
その親は、ハッスルに限らず、プロレスはショーと認識している、とのこと。それなのにマイクアピールを「見てられない」とはどういうことなのだろう?(・。・)
かつて自分もそれと同じ経験をした。
自分がWWF(アメリカの、今や世界一の規模のプロレス団体WWEの昔の団体名。ハッスルもおおいに参考にしたと思われる、大規模にショーアップされたプロレス)のビデオを見てた時のこと。
ちょうど画面は、テーマ曲が流れる中、リングでハルク・ホーガンが試合後の恒例の、ボディビルばりの筋肉ポーズを四方に披露しているところだったのだが、ある人がそれを見て、苦虫を踏みつぶしたような顔で、不思議でしょうがないというように「何してんの?」と聞いてきた。
自分は普通に「観客にポーズでアピールしている」とありのまま答えたのだが、それでも「何してんの?」という苦虫顔は治らなかった。
その人も、普段からプロレスはショーだとさんざん言っている人である、自分と違い、「ショー」を見下す意味で使っていたが。
これらは一体、どういうことなのだろうかと考えてみた。
プロレスはショーだと認識しているくせ、マイクアピールやポージングなどの様子を不思議がり、見てられないと言う。
それこそが不思議だ。
それを考えていくと、結局、彼らは、プロレスをショーとは認識していないのである。
「ガチンコ」と認識しているからこそ、思い切り観客に向かってポーズをとっているところや、観客に分かるようにマイクアピールしているところを見ると顔をしかめたり、「見てられない」ということになる。
「ガチンコ」という虚像を勝手に見ようとして、それとは違うところは「嘘」と認識して見る。だから「見てられない」ことになる。
「ガチンコ」も「嘘」も、彼らが勝手に自分の色めがねをかけて見た結果の虚像である。
プロレスファンは違う。
虚像などみていない。
ありのまま、身体を張って「プロレス」をしているところを見ている。
彼ら(=プロレスを見下す人達)が色メガネをかけて虚像を見ているがゆえに見えない、「プロレス」の技術(=格闘術ではなく、「プロレス」の技術。ロックアップや、アームホイップなど序盤のお決まりのムーブなど…プロレスを知らない人に分かりやすい例を挙げると、世間が「嘘」と見下す、ロープにふられて跳ね返ってくる動き1つとっても技術がある)、とその奥深さ、身体を張って「真剣にプロレスをしている」プロレスラーの「本気」、感動がそのまま見える。
お金を儲ける興行だから「嘘」という、商売嫌いの人達の不思議な色メガネもかけていないので、彼らが見えない、仕事を終えて花道を引き上げていく大きな背中に漂う大人の色気もそのまま感じられる。仕事、興行だから漂う大人の匂いである。
「天皇陛下なんて、ふつうの人間じゃねえか」
「神話なんて嘘だろうが」etc…。
神話という物語を背負い、天皇というお役目を担っていただいているのが天皇陛下。生まれた時から否応なくそのお役目を背負われ、ご公務や、肉体的負担の大きい祭祀を日々行われている御方である。
勝手に「神話」がガチだとか、天皇は神様そのものという虚像を設定したうえで、それが「嘘」だからと批判するのは、プロレス、アイドル批判の構造そのものである。
※1 その流れを汲むハッスルMAN'Sワールドという団体が小規模ながら存在している。
※2 プロレスの試合前、試合後にマイクを持って、相手への挑発や観客へのアピールをすること。アメリカンプロレスでは昔から喋りも重視されていて、マイクアピールの上手い下手もレスラーの実力の1つとして重要視されていたが、現在は日本でも、マイクアピールのない興行など皆無といっていいほど、プロレスの重要な小道具となっている。
大仁田厚は、マイクアピールの上手さもあって、弱小団体からメジャーな存在になった。
余談だが、かつて、女お笑い芸人のまちゃまちゃがお笑いネタ番組「エンタの神様」で「摩邪コング」というキャラクターで、プロレスラーのマイクアピールをモチーフとしたネタでブレークした。ウィキペディアによると、彼女は女子プロレスラーのさくらえみと小学校の同級生だそうである。
4 アイドル、プロレスファンこそ現実を直視している人間
アイドルにハマっている、握手会で言葉を交わして喜ぶ、プロレスが好き、こういう人間は、世間一般ではそれらの「嘘」に騙されている、という見方をする者が多い。
そんなものの「嘘」を「本当」だと思っているおめでたい人間だと。
全く逆ではないか。
おめでたいのは彼らのほうである。
例えば、アイドルの握手会での笑顔の対応をことさらに「営業」「嘘」という者は、裏を返せば、ふだん自分達が日常で交わしている言葉は「本当」だと思っているのであろう。
アイドルの笑顔が「嘘」なら、あなたが恋人に言われる「愛してる」は、「本当」なのか?
プロレスが「嘘」なら、新聞・テレビ(=記者クラブマスコミ)の報道によって映し出しされている我々の社会の姿は「本当」なのか?
彼らは、それらが「本当」だと思っているから、本当と嘘が重ね合わさっている、つまり我々の社会、人間関係そのものを凝縮して見せているようなアイドルとかプロレスの世界をことさらに「嘘」と攻撃したくなるのだ。
それに引き換え、この社会、人間関係のホントとウソの姿を十分認識している者は、その雛型のようなアイドルやプロレスの「嘘」(自分はそれを「嘘」と言うのは違うと思うのだが、アンチプロレス・AKBの言葉を借りて表現した)も呑み込んで楽しむことができる。
「『嘘』と割り切って楽しむ」とかいうことではない。それは誰だってできる。だから、最初から「嘘」が前提のテレビドラマ、映画は誰だって楽しむことができる。
「割り切る」のではなく、むしろ、「嘘」があるからこそ、豊かで、人間くさく色気があり、熱狂できるのだ。
5 天皇を存続させた日本人のメンタリティが日本のプロレス、アイドル、AKBを生んだ
アイドル、というものの起源を考えていくと…実際に日本の歌謡史に照らし合わせての詳細は「アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで」(太田省一 筑摩書房)という本など参考になるかと思うが、同著を読んでみたうえで、自分の考えた、非常にざっくりした“アイドル”の起こりとは…。
数多いる歌手の中で、若い、容姿端麗な歌手を見る視線のなかに、歌そのものではなく、いや、歌も含めて、歌っている人間そのものに対してのある種の目線があることに人は自然と気付く。
(そこには、歌い手の姿を見せながら聴かせるテレビの普及が大きな役割を果たしている)
そこで、歌を歌うために歌手を用意するのではなく、歌手を魅せるために歌を用意するという発想が生まれる。
歌手を、役者に変えてもいい。演技力より、役者その人を憧れの異性と見る目が存在し、舞台の構成要素の1つとして役者がいるのではなく、その役者の女として、または男としての魅力を魅せるための舞台。
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『17才』は、南の実年齢に合わせて企画されたものである。
当時、担当プロデューサー酒井政利は、「南沙織のプロデュースに関しては、このデビュー曲もそうであるように、私小説的な作りを一貫させてゆこうと私は考えていた」と述懐している。わかりやすくいえば、『17才』という曲が先にあってその内容にぴったりくる実在の少女が探されたわけでなく、そのような少女が先にいたから『17才』という曲がつくられたのである。
それは歌謡界における1つの発明だったといえるだろう。
(中略)
(従来の)歌手は、楽曲の中の役割を理解し、それをうまく表現することが求められた。ほんとうはまだ独身であっても、楽曲が夫婦の仲を歌ったものであれば、その役をそつなく演じ、それらしく聞かせることが必要だったのである。
酒井が南に対してもくろんだのは、それとは逆のことである。南沙織という、まだ10代の“成長途上”の少女が持つ役割をそのまま生かすこと、それが楽曲の役割であり、曲の中の主人公は「私=南沙織」である。つまり、作品という虚構の世界に歌手が入り込むのではなく、むしろ作品を歌手の実人生に寄り添わせること、それが酒井のいう「私小説的な作り」ということだろう。
「アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで」(太田省一 筑摩書房) 24~25ページより引用
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「若い異性を見る目」に対して歌手という“作品”を提供する時、そこには当然、恋愛の歌が多くなる。
そして、歌の上手さへの比重は軽くなる。
時には、下手さがそのアイドル歌手のかわいさや成長途上の感じを見る者に与えるには好都合かもしれない。
アイドルという言葉自体はもちろん英語で、欧米にもアイドルと呼ばれるアーティストは存在するが、日本でいうところのアイドルとは違い、「偶像化」されていることを指すようで、エルビス・プレスリーやビートルズも、初期にはアイドルと呼ばれていたようである(←ウィキペディアの情報)
日本で呼ばれる“アイドル”は、歳若く、見た目がセールスポイントで、えてして歌唱力などの実力が伴っていないというイメージを持たれている言葉である。
実際、70~80年代のアイドル創世期の頃のアイドルにはそれが顕著だったと思う。
そして、欧米にもいわゆる、日本で言うところの“アイドル”に近いものとしてカテゴライズされているグループはあるが、日本のそれと比べれば、歌唱力は高いように思う。
向こうでは、歌手として売るからには、最低、これくらいの歌唱力はないといけないという通念があるのだろう。
このことから日本と欧米を比べた感想を述べよと言われれば、欧米はプロ意識が高いな~、厳しいな~、それに比べて日本は甘いな~、レベル低いな~、と語る人が多いと思うが、自分は逆である。
“アイドル”という、その人そのものを異性として憧れて見る目があるなら、そこの部分を切り離し、それに特化して見せる。その、“切り離し”、特化する、歌というジャンル本来の定義から柔軟に飛躍する頭は、素晴らしいと思う。
海外からなんでも取り入れて、自分たちの使い勝手のいいようにアレンジしてものにしてしまう日本人の特性と根っこでつながっているのではないだろうか。
蛇足だが、アイドルの歌唱力やダンスのレベルは、70~80年代以降、格段にあがっているように思う。
日本人の柔軟性を讃えたばかりだが、昔のアイドルの歌唱力は、人によってはあまりに低すぎたのは確か(笑)
上手いにこしたことはない…というか、通常の上手さではなく、アイドルとしての魅力を表現するための上手さ、というものも有りうべきものだろう。
そして、ルックスが良い少年少女を、ある程度の商品にしあげて売り出すのではなく、アイドルを見る視線の中にある、その成長を見て行く視線、楽しみ方にスポットライトを当てたのがAKB。
「歌手は、歌を聴かせるもの。歌の実力が必要」
これは正論で当たり前だが、その当たり前のことに固執していてはアイドルというジャンルは生まれなかった。
そして、アイドル誕生後、
「アイドルはルックスが良くなければいけない。アイドルとして完成されていなければいけない。」
という発想に固執していては、決してルックスが抜群とはいえない少女達も集めてアイドルとして成長していく過程をそのまま見せるAKBというジャンルも生まれなかった。
発想が、常に、見ている側の意識をまっすぐに捉え、従来の定義にこだわらず、柔軟に形を変えさせることができる。
ある面では、前例にこだわったり、従来の常識から自由になれないのが日本人の短所だが、一方、このような、アイドル、AKBを生みだした柔軟さも同時に持ちあわせている。
プロレス、この他に比類なきジャンルがどういうふうに成立していったか。
その歴史的経緯については、「リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実」(スコット・M・ビークマン 早川書房)に詳しい。
おおざっぱにまとめてみると。
はじめはレスリングのプロとしてのプロ・レスリングの興行があった。
ガチンコである。
レスリングをそのままプロとしてお金をとって見せたのではなく、日本の柔術からとりいれた道着を着たり、同じく柔術から関節技をとりいれたり、いろんな試行錯誤の歴史がありつつもとにもかくにもガチンコの格闘技であった。
それが、地方をまわるサーキットから徐々にガチンコではなく、一種の馴れ合いが生まれる。アメリカでは、大きくて力自慢の男はゴロゴロいるため、そういう男達の挑戦を受けて金を稼ぐという事も行われ、その際、挑戦者が現れるように、プロどうしの試合では、どちらかが一方的に勝つのでなく、「あいつになら勝てるんじゃないか」という思いを力自慢達に思わせるため、一進一退の攻防を演じるようになり、そのための基本技術のようなものも生まれていった。
当然、名乗りをあげてきた腕に覚えのある男達には、ガチンコで勝たなければいけない。
また、当時は、ガチンコだった頃の空気が色濃く残っており、ワーク(業界用語でいわゆる、通常のショーとしてのプロレス)のつもりでリングにあがってもシュート(ガチンコを意味する業界用語)を仕掛けられることも多々あり、中にはタイトルマッチでそれをやられ王座が移動するということもあったという。
若手時代、アメリカ武者修行中のアントニオ猪木が、対戦相手の眼球をえぐり出すという事件が起きているが、詳細は不明なれど、敵国日本人に対する差別でシュートを仕掛けられたのに対して猪木が、そうやって応じた可能性もある。
そのような事もあり、当時のプロレスラーは、ワークとしてのプロレスの技術を持ちつつも、シュートの技術ももっていた。(現在も、それがないというわけではないが、使う機会は滅多にない)
ルー・テーズが長きに渡り世界王座を保持し一時代を築いたのは、スターとしての華を持ち、ワークとして観客動員が出来、プロモーターの言うこともちゃんと守る一方、もし仕掛けられても大丈夫なシュートの強さも持っていたからだという。(「リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実」(スコット・M・ビークマン 早川書房)
昔のプロレスは、今から見ると派手な技も少なく、シュートの名残も色濃く残っており、悪い言い方をすればジャンルとして確立していない、エンターテイメントとして成熟していなかったと言えるが、独特の、虚実入り混じった渋い男達の匂いが歴史書の彼方から匂ってくる。
そこからさらに、エンターテインメントとして成熟していく過程には、派手なギミックで自らのキャラクターを演出したゴージャス・ジョージの登場や、大規模な会場演出とそれに基づくストーリーラインで全米を制覇したWWFのプロレスなど、様々なエポックメイキングを経て今日のプロレスまでたどり着いていて、時代ごと、また団体ごとに同じジャンルでくくっていいのか疑問なほど、様々なプロレスがあるのだが、それを書くとそれだけで1冊の本になってしまう。
ここでは、本著の主眼である、「日本」に入ってきたプロレスは、日本人によってどのように変化したか、を書きたいと思う。
これもまた、その変化をたどっていけばそれだけで1冊できるので、本質的な事を述べるにとどまりたい。
力道山の空手チョップからブームが始まったせいもあるのか、打撃技の当たりがわりと強いとか、アントニオ猪木からUWFへと引き継がれた“格闘技”色を出した路線からグランドのガチのテクニックをプロレスの流れの中に織り込んでいるとか、その他技術的なことはいろいろあるだろう。
が、ここではもっと本質的なことに触れたい。
日本のプロレスの特色は、「プロレスを見ている者がどういう環境の中で、何を意識し考えて見ているかという、見る者の全てを受け止めたうえでのプロレス」
そう聞いても、何のことやら分からぬと思う。
それを説明するのに、まず、アントニオ猪木が「プロレスに市民権を」と言いながらやっていたプロレスを挙げよう。(市民権…なんだか非常にこっぱずかしい言葉と感じるのは自分だけだろうか?(笑))
まあ、今でもプロレスを見下すむきはあるが、その昔はもっとひどかった。
(今は、かなりの人が、プロレスを1つのエンターテインメントとして捉えていて、八百長だ云々と攻撃する手合いは少なくなっている)
その、プロレスファンであることを言えば人格を疑われるくらいの空気のあった頃、猪木は「プロレスに市民権を」と言いながら、言葉と行動でプロレスをしていた。
まず、「プロレスこそ最強の格闘技」と堂々と主張。
プロレスファンもそれを信じ、会場にはいつも「燃える闘魂 世界一強いアントニオ猪木」というオレンジ色のノボリを振り回しているおじさんがいた。思えばいい時代だった。あのおじさん、どうしてるだろうか。
それへの反論も、「いや、空手が最強だ」とか、「アリのパンチが入れば猪木なんか一撃だ」とか、なんともかわいいというか、そういう反応をしている時点で猪木の手の平のうえに乗っているわけである。少なくとも「プロレスは格闘技」と認めていることになるのだから。
2011年、「プロレスこそ最強の格闘技」と信じているプロレスファンは、絶滅危惧種に指定され、見かけたらへたに興奮させることなきよう、そっとすることが義務づけられている。
今、「プロレスこそ最強の格闘技」と誰かが言ったら、最強かどうかの以前に、敵味方なくほぼすべての人が??顔になった後こう言うだろう「…プロレスって、格闘技じゃないでしょ?」
しかし、昔は違ったのだ。そこまで「分かって見てる」ファンは少なかったし、プロレスファンは「プロレスは真剣勝負。強い」と信じ、世間一般は「プロレスは八百長」と蔑んでいた。つまり、プロレスラー以外は少数の人間しか、プロレスが何なのか、全く分かってなかった時代だった。
そのような時代に、そのようなプロレスファンの思い、視線を認めたうえに、アントニオ猪木は「プロレスこそ最強の格闘技」「プロレスに市民権を」を唱え、「異種格闘技戦」を行い、様々な格闘技の選手を次々に撃破、その天才というより鬼才というべきプロレスセンスと相まって、プロレス界のカリスマになった。
プロレスのリングで行われる「異種格闘技戦」とは、そういう名前の「プロレス」である。
あがってくる格闘技の選手はプロレスの基本技術はないため、ふつうのプロレスとは違うが、結果は決まっているという意味において「プロレス」だ。
いわば、猪木は「『プロレスこそ最強の格闘技』を唱えながら『異種格闘技戦』で異種格闘技の選手を破る」という「プロレス」をしていたのだ。
猪木が他のプロレスラーと違ったのは、「 」の中(ここでは「『プロレスこそ最強の格闘技』を唱えながら…」)の、ストーリーライン、テーマのスケールが格段に大きかったということだ。
通常は、「誰のタイトルに誰が挑戦を表明し、それに向けての前哨戦」とか、「誰と誰が仲間割れし、その遺恨決着」など、あくまで団体内、あるいはいいとこプロレス業界内の世界でのストーリーラインのフィールドを、猪木は社会全体にまで広げて展開した。
モハメド・アリとの異種格闘技戦など、全世界をフィールドにしたプロレスだった(アリ戦は真剣勝負だったという話もあるが、そうであったとしても、この試合は広い意味においてのプロレスである。(※1))
異種格闘技戦だけではない。
古くからのプロレスファンならば、猪木の生い立ちを話せと言われれば、皆、宗教信者達がその開祖の物語を諳んじるかのごとく、軽やかに語ることができるだろう。
「なんでもいいから日本一を目指せ」と説く祖父に育てられ、砲丸投げを始める。14歳で一家そろってブラジルに移住する船旅で太平洋上で急死し海に葬られる祖父を甲板から涙で見送る。ブラジルでは、エスペランサ(ポルトガル語で希望の意味。ここから後に、古館伊知郎が若手時代の高田伸彦を「青春のエスペランサ」と名付ける)と名付けられた農場で塗炭の苦しみを味わいつつ、兄とともに陸上競技会に優勝し、日系人兄弟が揃って優勝したことで大きく新聞に載ったのがブラジル遠征に来ていた力道山の目にとまり…。
ウィキペディアを見ながら打ったんだろうと思われるだろうが、誓って何も見ていない。昭和からのプロレスファンとして当然のように頭に入っている。もっと細かいエピソードも織り交ぜながら書けるが、省略して書いたくらいである。
こういう苦労した生い立ちをベースにして、猪木は自分の人生の「逆境」をストーリーにした「プロレス」を展開していった。
少年時代からの苦しい生い立ちから、プロレス入門後は、同期で、恵まれた体格に元巨人軍という経歴のジャイアント馬場が早くから期待されて、当時のエリートコースだったアメリカ遠征に先に行かれたのに対し、力道山の付け人として理不尽に殴られる日々を送っていた、という状況がファンに認知されていた。力道山の死後、その「エリート」のジャイアント馬場に挑戦を表明。当時は日本人vs外人という図式が当たり前だったので、その掟破りの勢いの良さと相まって、猪木人気が急騰した。
その後、幹部の腐敗を追及したがために日本プロレスを追放され、新日本プロレスを旗揚げ。自分は関係者ではないので、追放の真実は知らない。ただ、真偽はどうあれ、正義を追求したがゆえに追放されたということが「アントニオ猪木」というストーリーで重要なのだ。ファンはその逆境のプロレス人生を、猪木が歯をくしばって展開するプロレスに重ね合わせて支持し、猪木もそういう視線を十分意識したうえで、それにあわせたプロレスを展開したはずだ。
そして、金も潤沢でなく、有力が外人招聘ルートもなかった猪木がさかんに唱えたのが「ストロングスタイル」だった。「本当に強い者が勝つプロレス」である。
「シュートでは強いが、ショーマンシップを嫌うがゆえにアメリカプロレス界で孤児になった」という触れ込みのカール・ゴッチと旗揚げ戦のメインでシングルで対戦。
本来ならあり得ない、旗揚げ戦のメインでエースが負けるというプロレスを行う。もちろん、シュートでやったわけではない。そういう「プロレス」をやり、「ストロングスタイル」というストーリーをスタートさせたのだ。
その後も、猪木は「ストロングスタイル」を標榜し、ライバル団体だった全日本プロレスとそのエース・ジャイアント馬場をことあるごとに挑発し、新日本プロレスは「ストロングスタイル」全日本プロレスはショーマンスタイル、というイメージを浸透させていくと同時に、プロレスの内容にも、ガチンコの関節技や寝技のテクニックを織り交ぜたプロレスを意図的に展開していき、「ストロングスタイル」という名の「プロレス」を続ける。
つまり、今ほどプロレスがエンターテインメントと認知されておらず、見ている側の、プロレスとは真剣勝負なのかショーなのかという曖昧な視線をそのまま、プロレスに生かしたのである。
これも、「プロレスこそ最強の格闘技」と同じく、見ている側の視線をそのまま生かし、巻き込んだストーリーであり、そこにファンなら誰もが知る猪木の逆境の人生に対するシンパシーも加味されて、それが金曜夜8時に全国中継され、まさに日本中を巻き込んだ新日本プロレス黄金時代が到来した。
いや、猪木の生い立ちや、新日本プロレスがテレビもない資金も貧弱な状態でスタートしたことは真実であり、実際にはどうかは不明だが、おそらく猪木が馬場よりもガチンコなら強いという自信を持っていたことも真実であり、どこの団体よりもきつい練習をしていたというのもおそらく本当であり、もはや、ストーリーという言い方さえ適当ではない。
本当であり嘘であり、虚実が入り混じり、「生身」と「建前」が混然一体となった究極のプロレスだったといえるかもしれない。
その後、「プロレスに市民権を」という「プロレス」は、「スポーツライクなプロレス」を標榜したUWF引き継がれていった。(UWFもまた、ガチンコをやっていたわけではなく、そういう「プロレス」をやっていたことは多くのファンの知る通り)
また、大仁田厚は、怪我による若くしての1回目の引退、その後の事業の失敗という実の人生での逆境からはいあがろうとする姿に、リング上ではいつくばり、マイクで涙ながらにこの団体を潰さないと叫ぶ姿を重ね合わさせるプロレスで大ブレイクした。
5万円の資金で団体を旗揚げしたという実話を語り、有刺鉄線や電流爆破を使ったデスマッチ、そして涙のマイクで一般層にも有名になった。UWFとは対照的なプロレスに邁進し、「俺はプロレスが好きなんじゃ」と叫んだのも、大ブームだったUWFの「スポーツライクなプロレス」にそれこそ胡散臭さを感じ嫌っていたプロレスファン(筆者もその1人)の思いを取り込んだからである。(取り込んだというより、大仁田自身がそういうファンと同じ思いを抱いていたかもしれない)
UWFと大仁田厚、プロレスのスタイルは正反対ながら、一般メディアに多数露出し有名になったことは、世間を巻き込んだプロレスをやっていたからである。
長々と猪木やUWF、大仁田のプロレスについて書いたが、彼らのような大ブームを起こした、また、カリスマと呼ばれるようなレスラーは、プロレスをやる際に、プロレスの枠内でものを捉えないのである。
プロレスを見ているファンの目、そして世間の目、さらには、そのような世間の目(偏見)の中でプロレスを見ているファンの目、そういう視線をすべて織り込み済みで、とりこんだうえでのプロレス。
村松友視氏の言葉を借りれば、「プロレス内プロレス」ではないのだ。
猪木、UWF、大仁田とそれが顕著な例を挙げたが、他のレスラー、団体にも、多かれ少なかれ、人生をプロレスに持ち込み、虚実入り混じりの重厚なプロレスを見せてくれたレスラーはたくさんいる。
アイドルもそうではないか。
歌謡界が、歌のことだけを考えて、その上手さや表現を考えているだけならば、アイドルという存在は生まれなかった。「プロレス内プロレス」ならぬ「歌 内 歌」であったならば、そこからのジャンルの広がりはなかったろう。
歌手に向けられている、ある視線に気付き、それをとりこんだゆえに、アイドルという存在が誕生した。
そして、AKBは言わば、アイドル界のアントニオ猪木である。
他のアイドルのファンも、そのアイドルのデビュー時からの歴史は勉強しているだろが、AKBのファンにとってAKBが歩んできた歴史は、AKBに向けている視線と切っても切り離せないものであり、それなくしては語れないものである。
劇場でデビューしてから客席が埋まらない日々が続き…から始まるその歴史を見てきたから、あるいは後追いでもそれを知っているから、よけいに彼女達の汗が輝いて見えるのだ。
AKBに向けられてきた、あるいは今も向けられている、秋葉原が拠点なゆえの、オタクの街のアイドル=きもい、というような偏見がありながら頑張って国民的スターになってきたストーリー。
しかし、偏見がありながら、と同時に、偏見があったから、ファン達はその偏見とも闘いながら頑張る姿を、よけいに応援したくなったのではなかろうか。
そう、プロレスを見下す目、その中でプロレスを見ているファンの目を意識し、「『プロレスに市民権を』という『プロレス』」を展開したアントニオ猪木と同じように。
AKBの場合、それが意図的であったかはともかく、偏見があるからこそ、いったんハマった者は、AKBファンというアイデンティティをいやがうえにも持つことになり、応援にも力が入るのだ。
日本の歴史において天皇の起源は諸説あり、ここでは触れないが、とにもかくにも、摂関政治~武士の時代へと進む中で、権威と権力の分離が起きた。政治の実権は摂政・関白なり将軍なり、内閣なりが持つが、天皇の権威のもとに形のうえでは天皇がこの国の頂点、というものだ。
そして、その権威が、公平無私、ひたすら国民の安寧を祈り日々祭祀を行う存在であること。
この形は、素晴らしいものだ。
理由を挙げよう。
・ 独裁者が生まれにくい。
権力者と権威が一体とならないことで、ヒトラーや金正日のような独裁者が生まれにくい。
・ 皇室外交
権力者と権威が一体、つまり大統領のごときものであれば、外国との親善外交の際、任期によって変わる大統領どうしの外交では、末長いトップどうしの親善にならない。
また当然、なにがしかの政治信条、イデオロギーを持っている者どうしであるから、親善が目的であっても、そういう思惑がぶつかる。政治の流れと無関係の皇室どうしであれば、親善ということではうまくいく。
・象徴の役割
国の歴史、文化を体現する象徴はその時々に特定の政治信条、利害を持った者よりも公平無私で党派によらず、国民の幸せを祈る存在であったほうがいい。
行事等でのお祝いを述べるのが、あるいは被災地にお見舞いに来るのが何か特定の党派、考えを持つ政治家であった場合、彼の考えに与しない国民は慰められない。
(まあ、天皇制廃止を願う左翼の国民だけは天皇が来ても嬉しくはないだろうけど、それ以外の国民は。)
権威と権力の分離がどのように起こったのかも、研究者によっていろいろあるかもしれない。
が、とにかく、日本においては世界に類を見ないほど古い時代から、天皇そのものを倒し新しい王朝をつくるのではなく、天皇のもとに権力者が実権をめぐった争い交代し今日まで来たことは確かだ。
この、権威と権力を分ける発想、柔軟さは、「権力を持つ者が権威をもつべき」という硬直した発想からは出てこない……これは、歌の「実力」にこだわらず、欧米のようにアイドルであろうが歌は上手くなければいけないという硬直した発想に陥らず、若い歌い手を主人公とした“アイドル”を生みだし、そこからさらに、ルックスの良さでもなく、努力の過程やその「人間」を見ようとするAKBのようなシステム、あるいは全ての視線を受けとめたうえで独特の発展を遂げたプロレスを生みだした日本人のメンタリティにつながっていると思うのだ。
※1 本著では、プロレスという言葉を、最も具体的で分かりやすく、ショーで定義しているが、プロレスという言葉は、筋金いりのプロレスファンにはもっと大きく定義され、用いられている。
ショーという定義の仕方に異論があるプロレスファンもあろうが、基本的に本著は、プロレスを知らない人、さらに言えば見下している人を読者に想定している。そのような人を相手にしている場合、その定義は分かりやすく具体的なものにしないと、理解は得られないだろう。
猪木―アリ戦を、真剣勝負であってもプロレスだとする捉え方は、かつてボクシングの名勝負、辰吉vs薬師寺を見た後に村松友視氏が言った名ゼリフ「辰吉と薬師寺には久しぶりにいいプロレスを見せてもらった」という言葉がすんなり頭に入る“プロレス者”には説明不要だろうが、そうでない人にはピンと来ないかもしれない。本著ではそこまでの説明には踏み込まない。
6 AKBの核・劇場公演とは?
AKBとは一言で言えば何か?と、AKBヲタクに問えば、その答えは様々だろうが、自分は(またおそらくはかなりの数のヲタクも)「AKBとは劇場公演である」と答える。
とにかく、それを初めて体験した時は「衝撃」である。
自分だけではない。
多くの人がそれを初めて体験した時の衝撃を語っており、スタート直後からの古参ヲタ達が初めて劇場公演を体験した時の衝撃を綴ったブログが「48現象」(ワニブックス)に掲載されている。
「ゴーマニズム宣言」の作者、漫画家の小林よしのり氏も、劇場初体験を「衝撃」という言葉で表現している。
ここではまず、自分が生の劇場公演を初めて体験した時(ひかりテレビで週5回放送しているので(※1)、テレビではいつも見ていた)にSNSにアップした記事を紹介する(2012年3月20日、チームB夜公演)
【AKB劇場公演初体験の衝撃&AKBをクソ真面目に語る】
ようやく当てた劇場公演、チームB「シアターの女神」公演3/20、19時の回。
初めての劇場公演…アキバのジョナサンで過ごしてその時を待つ間も緊張した。
自分が出演するわけではないのに(当たり前だ)、まだAKBという世界にハマってから1年弱の「ド新規」の自分には、後追いで学習したAKBの創世以来の歴史は実体験ではなく頭の中で展開された物語なだけに、肥大化されてすごいことになってる。
そのすごいことが展開されてきた聖地に足を踏み入れる…それだけで唇が渇き心臓が高鳴り、手足がちょっと遠いところにあるように感覚が薄くなる。
劇場チケットの入手、入場順の抽選などが、体験してみた今となってはなんてこともないが、弱冠複雑なこと、そのジャンルのコアな場所、コアな人達がいる場所に初めて1人で足を踏み入れる心細さも相まって、完全な小市民モードで、オドオド、ドキドキしながら手続きをすすめ、いよいよ劇場いり!
入場は7~8巡あたりで、事前に、先日知り合った60回くらいは劇場で見てるというマイミクさんに電話で相談してアドバイスしてもらったことを頭に入れつつ席を探るが、前の方、センターのあたりは埋まってて、上手の1番センターよりで1番後ろという席に座る。
そこらへんに座るなら立見でセンターのほうが良いと言われてたのだけど、よりによって、1年ぶりの風邪を2日前にひいてしまい、治りかけでまだしんどかったので座ることを選んだ。みゃお(※宮崎美穂)をたくさん見たかったらセンターの上手寄りがいいというアドバイスを参考に、それはとれなかったけど、上手のセンター寄りにしたのだ。
やはり、2本の柱は邪魔だ(笑)
ふつう、これがある時点で、ここを劇場に使うのはやめようとなるだろうが、秋元康が話してたとおり、柱の存在が、この公演で○○をより見たいならこのポジションだとか、公演見てて、柱を境にメンバーが消えたり現れたりとか、1つの世界が出来上がって、楽しい(^^)v
1番後ろとはいえ、めちゃくちゃ近い。ふつうに目を見て話ができるような距離。
この近さがAKBという世界のうえで圧倒的な意味を持ってるということが分かった。
もう、チケット取るのが何百倍という抽選倍率なんだから、ファンのためにも経営的にも、もうちょっと大きいところに引っ越せばいいのにと思ってたが、支配人が、「今の近さから来る密度が失われる」(「48現象」(ワニブックス))と言う理由で引っ越さない理由も分かった。
姉妹グループも、AKBがこれだけブームなうえに出来て行ってるのだから、最初からもっと大きな劇場にした方が営業的には絶対いいはず。(実際、SKEやNMBも抽選倍率高くて中々見れないらしいし。)ブームが去れば、小さいとこに引っ越せばいいのだから。
自分はこれまでのAKB、乃木坂のライヴ、イベントで、サイリウムを振る楽しさを憶えてしまい、「アイドルについてヤイヤイ文句言うやつは、現場でサイリウムを振る楽しみを体験してみろ」と思うほど絶対的なアイテムで当然この日も満を持して持参していた。
小さい劇場でのライヴ…ライヴハウスでテンションあげあげで楽しむような感覚を想像してたので、よけいに気合いを入れていたのだが…。
予想に反して、これはサイリウムいらないな、と思って途中でやめて手拍子にし、さらには手拍子も特別にリズムにのりたくなるようなところだけにしてしまった。(mixは打ったし、拍手はしたし、コールもところどころ他の観客と一緒にしたけど^^)
ノリノリで振ったり手を叩いたりではなく、もう、見入ってしまう感じ。
少し体調が悪かったこともあるかもしれないが、目の前できらびやかな衣装で歌い踊る少女達の1人1人に吸い込まれていく感覚。
なんか、おっさんが少女達に見入ってしまうとか書くと「いやらしいわね」とか思われそうだが、そういう感覚ではなく!、異性を見る目とか抜きにして、「人間」がそこにいる圧倒的な存在感。
ノリノリで楽しむモードから、なんというか、見入って批評家スタイル的な楽しみ方になっていた。
プロレスを見る時の自分と似たモードになった。
プロレスはもう30年見てるし(学生プロレスなるものもほんとに端くれで大したことはしてないけど一応やったこともあり)、プロレス観戦時は椅子に深く背持たれて、はたから見たらつまんないのかな?というような表情で心の中で盛り上がりつつ、「ああ、打ち合わせの動き失敗してやり直したな」とか、「今のはもう1秒間を詰めてれば沸かせてた」とかとか、批評しながら見る楽しみも同時にしている。
なんか、今日はその感じになっていったのだ。
パフォーマンスする1人1人を見てるといろんなことを感じる。
(「1人1人のパフォーマンス」ではなく「パフォーマンスする1人1人」だ。ここ重要。)
AKBや乃木坂を見てて、「ステージ映え」するコっているなあって思ってたが、テレビで公演見るのと違い、生で見た時のステージ映えっていうのはまた違うなあと思った。
ひかりTVに加入してるので、テレビで劇場公演はしょっちゅう見てるのだが、そういう意味で、今日、生で見ると全然印象が変わったメンバーも何人かいた。
鈴木紫帆里
あの長身でのパフォーマンス…手足が長いというのはステージですごい利点だなと思った。
自分は女性のタイプで言うとポッチャリ、ガッチリ系が好きなのだが、ステージに関して言えば、ポッチャリはちょっと見栄え不利だなと…この日出てた中では佐藤亜美菜と並んで1番好きなみゃお(宮崎美穂)を見てて思った(笑)
武藤十夢
最初に目にとまった時、「こんなコいたっけ?誰だっけ?」と思ったら、十夢ちゃんだった。
「逆から読んでも武藤十夢!」
この公演のアンダー(代役)でよく出てて、ひかりTVで何回も見てる研究生だ。
生で見たらこんな印象が変わるものかと思ったくらい。
気合いを入れて頑張ってるのと同時に、何か照れみたいなものも感じる…「一生懸命さが可愛い」という表現がぴったり来るというか…将来、トップで活躍するんじゃないかという、すごい将来性を感じた。
増田有華
人の顔を分類するのに、ゆったん(←増田有華ちゃんのこと)のような、ハッキリした、バチーッとした顔立ちと、ボヤっとした…といったら失礼かな、柔らかいというか、うん、やっぱりボヤっとした顔立ちがあると思う。
ステージ映えするのは、ゆったんみたいなバチーッとした顔。
みゃおとか、この日で言うと研究生の名取稚菜ちゃんはボヤッとした柔らかい顔。目の前で見たら可愛いんだけど、これもやっぱりステージ映えという意味では損してるかも。
佐藤夏希
TVで見てて、佐藤亜美菜もこの人もステージ映えするなあ、と思ってたけど、改めて感じた。
単純に顔写真見ればそんなルックスがいいとは言えない(失礼;)
けど、歌が上手いのと、亜美菜もそうだけどこの中ではわりと年長なので、大人の女の魅力が際立つ。MCでも貫禄がある。ルックスがいいとは言えないとか書いたけど、惚れてまう。
…なんか、そんなこんな感想、考えがこの距離感でパフォーマンスする1人1人を見てて、ブワーッと否応なく感じてしまう。
何かで、AKBの振り付けの先生が彼女達に「目からビームを、毛穴からオーラを全開にしてお客さんに向かっていかなければならない」というような事を言ってたと読んだ覚えがあるけど、その言葉、今日見て本当によく分かった。
パフォーマンスしてる彼女達1人1人の気持ちが否応なく伝わってくる。
最近プロレスを見てて思ったことがある。
身体が出来てて、もちろん受け身や基本的な技術ができていれば、あとはそのレスラーが身体の奥底から出てくるようなブワーッというパッションがあれば、十分魅せられるプロレスができるのではないか。
プロレスはエンターテイメントであるが、というより、であるがゆえに、ガチの格闘技以上の気合いが入ってなければ、人を感動させるプロレスはできない。
ガチでなくとも「相手をぶっ倒してやる」という気持ちで当たっていかないといけない。ほんとにKOするというのとは意味が違うが、映画やドラマの芝居でも感情を込めないと感動させられないのと同じ…いや、それとも弱冠違って、生身の身体をぶつけあっていくのだから、ある意味ほんとにぶっ倒す気迫で…まあ、とにかく、パッションが大事ということだ。
プロレスで1番重要なのは「間」(「リズム」と言ってもいい)だと思うのだが、パッションがあれば、「間」も、自然に最もいいものになる気がするのだ。
彼女達のパフォーマンスを見てても思った。
ダンスや歌の基本的な上手さも大事だけど、この距離で見せるとなると、パッションがとても大事だと。
それがあれば、表情、ダンスや歌声も引っ張られるように1番いいものになるような。
AKBの魅力を語るのに「一生懸命さ」という言葉がよく出てくるが、その大きな理由は、この劇場のごまかしようのない近さではないか。
もう、レッスン場で先生の目の前で踊っているような距離なので、ごまかしようがない。表情、動きの1つ1つに気合いが入り、手を抜くことなどできないのだ。動き、表情の全てがくっきり見える。息づかいや汗のしぶきまでこちらにかかってくるような錯覚にも襲われる。
そこにさらに、正規チームへの昇格やら、シングル曲への選抜やら、握手会の券の各人の人気の比較や総選挙のような競争原理が働いているからなおさらである。
中には、みゃおみたいに、テレビ番組で見せているひょうひょうとした感じがステージでも感じられたり(いや、一生懸命やってるんだけど。自分の勝手な感じ方としては)、これもMCの天然ぷりと同じく、小林香菜みたいに曲中でも気合いというより不思議なオーラを感じさせるメンバーもいるが、それはそれで個性の面白さがあっていい。
プロレスラーでも気合いを前面に押し出さず、一歩引いた、渋い魅力のレスラーがいるのと同じ。
いずれにしても、その近さゆえ見てると否応なく感じさせられる、各メンバーの「人間」が見られるのが楽しい!
全体を同時に見るのではなく、1人を10秒くらいフォーカスして見て、また次のメンバーへ…こういう見方になってた。
曲を楽しむのは、TVで音を大きくしていれば、家でも楽しめるけど、劇場では「人間」を見る楽しみ。自分はどちらかというとプロレスを見るのでなく、プロレスラーを見に会場に行っているタイプのプロレスファンなのだが、それと同じ感覚。
劇場公演の魅力はこれだけでなく、これは元から分かってることだが、楽曲が素晴らしい。
そして、それぞれの曲ごとに世界観があり、その世界観を表現する、素晴らしく凝っている可愛い衣装にチェンジしながら、大人数の少女達が目の前で圧巻のパフォーマンスを見せる。曲の世界観を構築している歌詞ははっきり聴きとれるし、表情やダンスなども相まって、ミュージカルを見ているようだ。
あと、隣の10代後半くらいの女の子がずっと、手で振りコピっていうの?ステージと同じ振りをして楽しんでるのもかわいかったな~。
パッと見渡せる範囲でも、15人くらいは女子がいたけど、もう、AKBには男でも女でも関係ない魅力がある。特に劇場公演はそうかも。(とは言っても、そりゃ男のファンのほうが多いのは今後も変わらないだろうけど)
いやしかし、初期のAKB劇場公演を見た人達が、その初体験の衝撃を書いたブログを「48現象」という本で読んだけど、気持ち分かるわ。
世間の人は、いい年した大人がAKBにハマってると聞くと、ロリコンかいなとか、あんなチャラチャラした…とかそういう目で見るんだろう(自分もハマる前はそういう感じだった)
しかし、そういうんではないのである。
やらしい目線が全くひとかけらもないとは言わない(笑)
でも、そういうんではない。
自分のように、そういう目でAKBやそのファンを見下してて全く興味を持たなかった人間が、ちょっとしたきっかけで見てハマったのを何人も知っている。
メンバー、スタッフが作品にかけてる手間暇、かいている汗、その結果としての作品の素晴らしさ。
各地に小さな劇場があり、そこで間近でパフォーマンスを見て、様々な仕掛け・競争のもと、階段をかけあがっていく少女達の成長を見る。また、少女達は自分の夢へのステップとして、観客の目がすぐそこでごまかしのきかない小さな劇場、そして競争でもまれて、その中からテレビに出たり様々なジャンルで活躍する人材が出てくるという、この1つの文化にはすごい可能性を感じている。
今のようなブームはいつか終わるだろうし、終わってもかまわない。
しかし、「宝塚」がもはや劇場の名前ではなく、1つの文化の名前として定着しているのと同じように、これから50年、100年と続けて1つの文化として根付く可能性を十分に感じているし、そうなってほしい。
今日、劇場公演を見て改めてそれを感じました。
…記事は以上。
AKBとは何か、を知ることは、劇場公演とは何かを知ることが絶対不可欠であり、そのために劇場公演の基礎知識が必要である。
AKBは秋葉原にAKB48劇場が、SKEには名古屋・栄にSKE48劇場が、NMBには大阪・難波に、HKTには福岡に、各劇場がある。
収容250人のAKB劇場と多少違いはあれど、どこも同じような規模の小劇場。
公演は16人のメンバーで構成される各チームごと(AKBならチームA、チームK、チームB、チーム4)に行われる。
公演のセットリストは、2012年6月現在、チームAがやっている「目撃者」公演であれば全16曲で、どの公演もおおむねそのくらいの曲数。
メンバー全員による全体曲、複数人によるユニット曲、ソロ曲によって構成されている。
曲の順番、どの曲でこの衣装にチェンジする、どの曲の後にMCが入るか(だいたい3~4曲ごとに入る)などは公演ごとに決まっていて変わることはない。
日によって変わるのはMCの内容、出演メンバー(詳しくは後述)
曲と曲のつながりは、前曲のユニットのメンバーが次の曲のイントロのサビではけていきながらの振り付けがあったり、全体曲が続く場合は次の曲のイントロで前曲の衣装を脱ぎ新しい衣装になりながら踊ったりと、いろいろな演出がされていて、公演は1つのパッケージとして完成されている。
各公演にはタイトルがついている。
2012年6月現在のAKBの公演であれば、チームAが「目撃者」公演、チームKは「RESET」公演、チームBは「シアターの女神」公演、チーム4は「太陽の女神」公演。
各劇場で、ほぼ毎日、どのチームかの公演が行われている。(AKB劇場であれば、チームA,、K、B、4、そして研究生公演のいずれか)
1つの公演は、だいたい短くて4ヵ月ほど、長いもので2年以上続いて千秋楽を迎えて、また書き下ろしの新しい曲によるセットリストがつくられ、新公演がスタートする。
つまり、公演が続く間は各チーム、同じ公演をずっとやる。ユニット曲、ソロ曲を誰が歌うかは基本的に決まっていて変わることはない。(ユニットのメンバーを途中で変えた例はある)
しかし、メンバーがテレビその他、劇場以外での仕事がある時は基本的には研究生が(あるいは他チームの新人メンバーが)代役をつとめる(代役のことをアンダーと呼ぶ)
…基本知識としてはこういったところだろうか。
これらのことを初めて聞いた人が驚くとしたら、同じ公演を長いスパンでやっていることではなかろうか。
特に、2012年6月現在AKBのチームA、K、Bの公演は2年以上の長きにわたるロングラン公演となっている。
ファンはその長期間にわたって同じ内容の公演を見続けている。
もちろん、毎日違う観客なわけであるが…劇場公演は事前申し込みで何百倍という倍率の抽選に当たった者だけが見られる。ファンの経験を聞くと、毎日のように申し込み続けて、当選して観覧できるまでには短くてもだいたい1ヶ月半ほどの間があくようだ。
しかし、ネットでの観覧(「AKB48 LIVE!! ON DEMAND」)は公演当日23時から、毎回配信されており、ひかりTVでは週5回、1~2週間遅れの公演を放送している。
AKBにハマったファンは同じ公演を、その全てが頭に入るほど繰り返し見ているわけだ。
飽きないのか?
全く飽きない。自分の場合は、これを書いている2012年8月時点では、生では残念ながらまだ2回しか体験してないのだが(今後さらに観に行くべく、劇場チケットセンターに応募し続けてます!)ひかりTVで週5回、その時間になれば必ずチャンネルをあわせている。
MCが毎回違って、その日によって違う話が聞けるというのもあるし、まず、楽曲がいい。すべて秋元康によって劇場公演用に書き下ろされた曲(※2)で、それぞれの曲の世界観が、振り付け、衣装、照明によって見事に表現され、ファンによってこの曲のここでこう叫ぶ、と自然に出来た応援によってさらに世界観がつくられている。
さらに、小劇場で目の前で繰り広げられるので、その日その日によって違う表情、パフォーマンスの良しあし、成長を見る喜び。小劇場という生物(なまもの)の魅力といえばよいか。
同じ曲を繰り返し演じるメンバー、見ているファンの双方がその曲の歌詞を日々繰り返し読み込むことになり、その曲を深く理解していく。パフォーマンスのレベルはどんどん上がる。
2012年6月現在、AKB劇場でのチームA、K、B各チームの公演は2年を超えるロングランとなっているが、
「どうしてもマンネリになる。私はそれが嫌で、再び歌詞を読み込んで、意味を考え直したり、フリを少し変えたりするんです。自分なりに高い意識を保つようにして、それに気付いてくれるファンがいれば、より楽しく交流もできるんです」(柏木由紀)(※3)
見る側の目もどんどん肥えていく。
古典落語でも、一見さんで何も知らずに聞く人は、単純にどんな話の展開になるんだろう、どんなオチなんだろうと聴くところを、落語通は、とっくにお馴染みの演目を、この噺家はどう演じるのか、その表現の仕方や成長を味わう。
それと同じようにAKBヲタクは、その日のメンバーのパフォーマンスの巧拙をしっかりと見、時に握手会でひいきのメンバーに直接、あの曲のあそこがよかった、また、あれはこうした方がいいなどのダメ出しのようなことも言う。
そして、これは最初から狙っていたのか、怪我の功名なのか、アンダー(代役)の存在が劇場公演をいっそう惹きつけられるものにしている。
現在のブームでメンバーはいろいろな仕事に大忙し。1つの公演でアンダーは少ない時でも5人ほど、多い時は半分ほどになることもあるのではないか?
このメンバーのアンダーは研究生の誰々、と基本的には決まっているのだが、その時によっては別の研究生だったり、新人の正規メンバーだったりする。
そうすると、例えば、いつもゆきりん(柏木由紀)の歌声で聴き、そのダンスを見ている同じパフォーマンスをそっくりそのまま研究生の○○バージョンで見ることになる。
全体曲では、16人で歌う箇所を担当しながら、踊りながら立ち位置を変えていくフォーメーションで1つのパフォーマンスをつくりあげるのだが、アンダーは先輩が担当している歌う箇所、フォーメーションをそのまま担当することになる。
○○の歌う「夜風の仕業」(「シアターの女神」公演での柏木由紀のソロ曲)はどんな感じになるんだろう、「チームB推し」(同公演での全体曲)でのゆきりんの担当する部分を、○○ならどうパフォーマンスするんだろう、という比較の目で見ることになる。
これはアンダーのコにとっては、こわいことでもあり、チャンスでもある。
また、ゆきりんにとってもこわいことだ。手を抜いてやっていれば、日々レッスンに励んで成長している研究生の○○のほうがいいじゃん、と言われかねない。
こわさ、チャンス…いろいろな思いはあるだろうが、確実に言えることはメンバーにとってはやりがいがあり、ファンにとっては楽しみの幅がグンと拡がるということ。
そして、アンダーと同様に楽しみの幅を広げているのが、「お下がり公演」だ。
AKBのチームAが立ちあがって以降、新しいチーム、さらには地方の姉妹グループのチームが次々に出来ていったわけだが、どのチームも、いきなりオリジナルの公演をつくってもらえるわけではない。最初、そしてその次の公演くらいまでは、先輩チームのやった公演をやるのだ。
例えばNMB48のチームNは、最初、A3rd「誰かのために」公演を5ヶ月間、次にK2nd「青春ガールズ」を2011年5月から2012年6月現在公演中である。
(A3rdとは、チームAの3つめの公演、K2ndとはチームKの2つめの公演という意味。2012年6月現在、A、KはそれぞれA6th、K6th公演中)
つまり、ここではチームごとでそのパフォーマンスが比べられる。
チームによっても、重ねた年月の中で気風や特徴ができていくもので、例えば体育会系のチームK、妹系というか、いかにもアイドルらしい可愛さが特徴のチームB、ダンスが激しいチームSなど。
また、チームごとというだけでなく、先にあげたNMBのお下がり公演の例で言えば、「青春ガールズ」公演においてはKでは大島優子、河西智美が、女性どうしの禁断の愛を艶っぽく歌った2人ユニット曲「禁じられた2人」を、Nでは山田菜々、吉田朱里がどう歌いあげているか…そういう比較、それぞれの個性の違いを味わう楽しみがここにもある。
また、アリーナで全グループが勢ぞろいするコンサートなどでは、違うチームの劇場公演曲をパフォーマンスすることも恒例で、初めて目にするメンバーと曲の組み合わせに場内がどよめく。
お分かいただけるだろうか。
何も知らない人は、AKBと言えばいまだにわゆる「萌え~」であるとかアキバ系だとか、また、あくまでこれまでの「アイドル」というジャンルの概念そのまま、誰がかわいいとか疑似恋愛とか…そういう面もあることはあるが…そういった面だけのイメージで見ているのだろう。
「会いに行けるアイドル」という有名になりすぎたキャッチがよけいにそういうイメージを強めていて、なんならAKBファンは従来のアイドル像よりもさらに萌え~とかルックス重視、単に可愛い女の子を見に行くだけ、本能に近いところで動いている奴らと見下すことで、自分達はそれを批判する文化的人間、とアンチは思っているのかもしれないが、実態は全く違う。
実際はかなりこのような、小劇場アイドル文化とも呼ぶべき、奥行きの深い、長期間見続けても飽きない、いや、長期間見続ければ見続けるほど楽しめる、奥行きの深い楽しみ方をしているのだ。
そんなこともろくに知らずに批判しているアンチこそ皮相浅薄、自分達のよく分からない異質なものが出てくれば叩きたい、という霊長類の群れの本能のまま生きている非文化的人間というべきだろう。
※1 生中継ではなく、1~2週間遅れの放送
※2 秋元Pは作曲はやらないので作曲はもちろん様々な作曲家によるものだが、曲を選んでいるのは秋元P。
※3 「月刊AKB48Group新聞」2012.6月号より
7 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
毎年、アンチがここぞとばかりに叩く選抜総選挙も、劇場公演を経てのものである。
AKBのことをよく知らない人々は、あれを単にかわいい娘ランキングとでも思っているから「あんなものに熱狂するなんて」と思っているのであろうが、全く分かっていない。
単なるかわいい娘ランキングであれば、柏木由紀、指原莉乃、北原里英といったメンバーが上位に入るわけがない。(お三かたにはこういうかたちでお名前を挙げたことをお詫びするとともに、AKBファンは単にルックスで応援するわけでないことを自分は誇りに思ってます)
AKBメンバーのルックスの平均点が他のアイドルグループに比べればずいぶん落ちるのは、アンチ達の言うとおりである。しかし、それはAKBが従来のアイドルというジャンルを踏襲しながらもそれを超えた新しいジャンルであるからだ。
選抜総選挙といえば、歴代1番の感動、第1回総選挙での佐藤亜美菜。
第1回選挙の約1年前に正規メンバー(チームA)に昇格した新人だった彼女。
AKBの立ち上げから2011年4月までの歴史を分かりやすく書いてくれている「AKB48ヒストリー 研究生公式読本」より引用させていただく↓
「自分がほかのコみたいに人気がないっていうのは……わかっていました。握手会で私の前の列が途切れるとか、ファンレターの数がみんなに比べて少なかったから…。でも、どんなに少なくても応援してくれるファンの方の声が嬉しかったし、劇場でAKB48として歌うのが本当に楽しくて。だから最初は気にしないようにしていたんです。でも大声ダイヤモンド(2008年10月22日発売)の頃から後輩の5期生が選抜に選ぱれだして『もっとアピールしなくちゃ』って思うようになったんです。けど、私はほかのコみたいにテレピにも雑誌にもほとんど呼ぱれなかったから、何をしたらいいんだろう,?って」
そこで佐藤亜美菜はAKB48スタッフに頼み込んだ。「ほかのチームの公演にも出たいです」と。
佐藤(亜)「まずはチームKさんの『最終ぺルが鳴る』公演のDVDを借りて、レッスン場を開けてもらってダンスを覚えたんです。最初は1曲1曲ずつでした。劇場公演って、最初、メンバー全員でやる曲が4曲続くんですけど、その後は自己紹介なんです。だから
4曲覚えれぱ、自己紹介までステージに立っていられるんですよ。それに中盤まで覚えれば中間にあるMCに参加できる。そうやって、1曲ずつステージに立てる時間を増やしていったんです。だからよく来てくださるお客さんは『亜美菜、ココまで覚えたんだな』ってわかるんですよ。『前回と同じか・・・…』って思われたくなかったし,何よりも1分でも多くステージに立っていたかったから、必死に覚えたんです」
そして、選抜総選挙が始まる2009年6月後半。佐藤亜美菜はチームKの公演だけで
なく、チームBのセットリスト(演目)をも覚えていた。時を同じくしてチームBと同じセットリストを行なっていた“後輩”である研究生の公演にも参加していたのである。
それどころか、AKB48の第2劇場である[シァターGロッソ」で行なわれていた“ひ
まわり組“のリバイバル公演の舞台にも立っていた…!!
つまり、チームA、K、B、研究生、ひまわり組というAKB48すべての劇場公演のダンスと歌をひとりで覚え、そのすべての公演に出続けていたことになる。当時そんなメンバーは、約50人いるAKB48の正規メンバーの中で佐藤亜美菜以外には誰もいなかった。
誰に頼まれたわけでもなかった。「ただ1分でも多く、ステージに立ちたかった」のだとと佐藤亜美菜は言う。
↑引用以上
選抜は21位まで。
それまで1度も選抜に選ばれたことのなかった彼女。
投票開始初日の速報15位、続く中間発表の18位。
大・大健闘の順位だった。それまで選抜されたことのなかった彼女だが、ファンは頑張りを見ていたのだ。
そして、結果発表の日。
選抜への期待がふくむ中、まず、21位から13位までが発表された。
しかし、彼女の名は呼ばれなかった。
次いで発表されるのが、21位から30位までの、カップリング曲を歌う「アンダーガールズ」
21~13位までの発表が終わったところから再び引用↓
「…そうか、アンダーガールズなのかって思ったんです。」
21位から13位までの発表の後、アンダーガールズ9人の名前が呼ばれた。しかし、そこで佐藤亜美菜の名前が呼ぱれることはなかった。
佐藤はそれから一切、顔を上げることができなくなった。自分のスカートと、固く握り
しめる拳だけを見つめていた。手の甲には涙がこぼれ続ける。「やっばりテレビに出ていなくちゃ、私のことなんて気づいてもらえないんだ」……パリから帰ってくる飛行機の中で誓った「何かやってやる」という気持ちも、どこかに消えてしまっていた。
どれだけ時間が経ったのだろう。1秒でも早く、このつらい時間が過ぎてくれれぱいいのに…。そううつむいていた佐藤の耳に、その言葉は届いた。
「第8位、チームA、佐藤・…・・亜美菜」
司会の戸賀崎がそう言った瞬間、佐藤亜美菜は、弾かれるように立ち上がった。会場からはその日一番の歓声が上がった。
もう、まともに歩けなかった。この瞬間が来るまでに涙が枯れるほど泣いたにも関わらず、それまでの涙がウソだったかのように、大量の涙が溢れてきた。ステージに立ってからまともにしゃべれなかった。絞り出すように、ゆっくりとファンに気持ちを伝えた。
「私は・・・…歌手や女優さんになりたくてAKB48をステップとして入ったんではなく、AKB48が本当に好きでAKB48になりたくて入って、いろいろな公演に出たかったから、自分からほかのチームのダンスを覚えて……。テレビや雑誌に出ているほかのAKB48のコたちみたいに……私はキラキラできないから。AKB48に貢献できてないって思っていて・・・…でもこうやって選抜に入ることができて、本当に・…・・嬉しいです」
↑引用以上。
ここにも書いてあるとおり、佐藤はメディア露出も少なく、普通に考えれば、選抜やアンダーに入るだけでも大健闘である(第1回は98人が選挙の対象)
ちなみに、ルックス的にはそんなに悪くはない(自分は好きだ)が、グループの中でとりわけいいというわけでは決してない。
そんな彼女が、なぜ8位という、誰もが思ってもいなかった順位をとれたのか。
劇場公演を誰よりも頑張っていた姿を、ファンはちゃんと見ていたからだ。
ここに紹介した佐藤亜美菜の例は、とりわけ感動ものだが、他のメンバーも1人1人それぞれのドラマがあり、ファンはその頑張りをつぶさに見ることができ、メディア、ネット様々な媒体から個々の背負う歴史も知る、そのうえでの総選挙。
それらを知ったうえで見れば、こんなに人間ドラマが凝縮されて見応えのあるイベントなどそうそうない。
当たり前だが自分の推しメンの努力・成長は、特によく見ているので、よけいに感動する。
それやこれやを知らぬ、劇場公演を見てもいない、メンバーのドラマを全く知りもしないのに総選挙を見て楽しめるわけがない。
楽しめないのを無理に興味を持って楽しめと言っているのではない。
しかし、知りもせず、当然楽しめるわけもないのに「何が楽しいのか分からない」とか「あんなの見てて恥ずかしくないのか」だの、何も知らぬのにゴチャゴチャ文句をぬかす輩が多いのには閉口する。
本著で何度も書いてるが、自分はメジャースポーツにいっさい興味がないので、種目によればルールもよく知らず、情報も知らないので、選手個々の歴史、ドラマも知らない。よって、楽しいとも当然思わない。
それらが、AKBどころではない大きさで年がら年中大きくメディアで取り上げられ、みな熱狂しているが、それを、「自分は何が楽しいのか分からない」という理由で批判するつもりもない。当たり前だろう。
ところが、AKBに関しては「自分は興味がない」「何が楽しいのか分からない」などといったことを、まるでそれが偉いことであるかのように、ことさら言いたがる輩が多い。
興味がなければ見なけりゃいいだけなのだが、アイドルというジャンル、そして流行しているAKBを批判することで、自分は低俗なもの、流行しているものを批判している賢い人間なんですよ、というポーズをとりたいのだろう。
実際は、世間の価値観におもねって批判しやすいものを批判し、バカさ加減を露呈しているだけなのだが。
また、AKB史上数ある感動でも特に有名な、2009リクエストアワーセットリストベスト100で、「初日」が1位になった件。
リクエストアワーというのは、毎年、それまでに発表された48グループの全ての曲を対象に(つまり、AKB、SKE、他全ての姉妹グループの劇場公演曲、シングル、カップリング曲)、ファンの投票でベスト100を決めるというイベント。
テレビ、ラジオで流れることの多いCDシングル曲が当然、有利であり、特に、2009年リクアワは前年ヒットした「大声ダイアモンド」が1位になることが予想されていた。
ところが、ふたをあけてみれば1位に輝いたのは、シングル曲ではなく、チームBの神公演と呼び声高い「パジャマドライブ」公演のオープニング曲「初日」
「1人だけ踊れずに帰り道泣いた日もある」
「学校とレッスンの両立にあきらめた日もある」
「死ぬ気で踊ろう! 死ぬ気で歌おう! 初心を忘れず全力投球で!」
お下がり公演2つを経て、ようやくもらえた、このオリジナルの公演の初日を迎えるまでのチームBメンバーの苦労をストレートに歌詞にした曲で、メロディも決して、いわゆる売れ線のものではない。
にもかかわらずこの曲が1位になったのは、ファンが劇場公演をしっかり見ていて、この曲の内容と、その歌詞のまま、全力投球で日々頑張っていた彼女達に共感したから。
その他にも、チームBのカラーや様々な歴史があったうえでのことで、ここでは長くなるので省くが、とにもかくにも、AKBのファンは、そういう思い入れを持って見ているのだ。
AKBのことを何も知らずに単なる流行りものと見ている向きも多いし、AKBのファンとは流行に流されやすい傾向があると思っているのかもしれないが、とんでもないことだ。自分なりのこだわり、思い入れを持って物事を観る人間がAKBファンになる傾向が強い。
アイドルはアイドルだろ、という固定概念でしか物事を見れないアンチとはかなり違う。