目次
はじめに・出版社の方へ・目次
<2013.5.7追記、お詫び>
はじめに
出版社の方へ 紙の書籍としての出版先募集してます
目次
第1章 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か
1 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か
2 天皇、プロレス、AKBが攻撃される理由
3 「プロレス、AKBのファンは虚像を見ている」と見下す者こそが虚像を見ている。ファンが見ているのは実像
4 アイドル、プロレスファンこそ現実を直視している人間
5 天皇を存続させた日本人のメンタリティが日本のプロレス、アイドル、AKBを生んだ
第2章 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
6 AKBの核・劇場公演とは?
7 アンチには理解できるわけのないAKB総選挙の面白さ
8 AKB総選挙批判に対して 遊びに貴賎がつけられている不可解さ
9 AKB総選挙批判は、ジョーシキに染まっている人間が浮き彫りになる
10 なぜAKBがことさら攻撃されるのか、その理由
11 根っからの“ジョーシキ”嫌いにとっては、AKBは「買い」
第3章 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー
12 プロレス、AKBこそ「リアル」 スポーツこそファンタジー
13 格闘技のリアリティ
14 リアリティなら、“真剣勝負”の格闘技よりプロレスの方が上
15 アイドルこそは最もリアリティある世界
16 リアルとリアリティの違い
17 人間はみなプロレスラー、アイドル。人生はプロレス
18 虚実が入り混じっているプロレスとアイドル、そして人生
第4章 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室
19 ファンが支えているプロレス、AKB。国民が推し戴いている天皇
20 国旗、サイリウム、掛け声…人間を推し戴く表現手段
21 天皇、プロレスラー、アイドルは「上」でなくてはいけない
22 自分にない“人間”がほしい だからプロレス、AKB、ご皇室
23 「人間」を観るジャンル
24 「いかがわしさ」には「いかがわしさ」を
第5章 プロレスとAKBこそ人間の色気が最も見られる
25 AKBの歌のベースは 色即是空 
26 AKBの楽曲の世界
27 “AKB顔”
28 少女達の大人数集団の独特の魅力
29 共同体と個人競争の社会
30 プロレスとAKBこそ人間の色気が最も見られる
31 物語の流れ、歴史、記憶の蓄積があってこその、AKB、プロレス、皇室
32 登場シーンに集約されるプロレス、AKBの魅力
33 サプライズは人間ドラマの花形
34 共同幻想
35 偏見が熱気、パワーを生んでいる
36 「商売」が嫌いなアンチ達
第6章 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB
37 松本人志の笑いはノンフィクションテイスト=プロレス、AKB  たけしの笑いはスポーツ
38 ノンフィクションテイスト プロレス=虚数という概念
39 バナナはリンゴか? この世に「嘘」はない
第7章 フワフワしたものが嫌い、だからAKBが好き
40 嘘でも本当……華やかな虚構の世界を成り立たせるために流されている本物の汗
41 AKBの尋常じゃない汗の量
42 アイドル、プロレスラーの「実力」
43 フワフワしたものが嫌い、だからAKBが好き
第8章 AKB握手会とは何か? ファンとメンバーの1回10秒のプロレス
44 参加するという行為  皇居一般参賀、AKB握手会、プロレス地方興行の風景
45 AKB握手会の笑顔を「営業」と見下す者は、人間そのものを見下している
46 推しメンとファンのプロレス
47 乃木坂46
48 「ガチ」か「嘘」でしか捉えられない無粋人間
第9章 プロレスやアイドルの「嘘」にキレる人間は、世の中の本当の嘘に騙される
49 既成概念でしか物事を捉えられない人々
50 ジャンルそのものを見下す愚かさ
51 プロレスやAKBを見下す類の人間は、切り捨て御免の侍
52 軽薄、非実力、キモイの代名詞として使われている「AKB」というデジタル記号
53 アンチプロレス・アンチAKBは、見ている世界と同じ色に染まるカメレオン
54 プロレスやアイドルの「嘘」にキレる人間は、世の中の本当の嘘に騙される
55 真正面から見る目がそのジャンルを育てる~プロレス、アイドルの進化~皇室を学ぶ必要性
56 皇室、プロレス、アイドルを愛する者は物事に意識的な関わりをする文化人
57 指原スキャンダルに見る、理想のファン像
終わりに、参考文献、奥付
終わりに
参考文献
奥付

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第1章 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か

1 天皇、プロレス、アイドル 共通する特異な点は何か

 プロレス、アイドルというジャンルに共通する特異な点は何か。

他のショーは、あくまで表舞台は表舞台、演者はそこを降りれば1人の人間、という当たり前のことを演者側も見る側も当然の共通認識として持っている。

 

 プロレスは違う。

 勝敗を競っている、というのはショーの建前であるのだが、プロレスはショーの時間以外でも365日24時間、あくまでその建前を崩さない。

 つまり、メディアの取材にレスラーが「いや~、この前の試合のフィニッシュのとこ、ほんとはこういう流れだったんだけど、1つ技失敗してアドリブでああいう流れになりました」などど語ることはない、ということだ。(*1)

 

 リング外でレスラーが語る言葉はあくまで「この前の試合の借りは必ず返すぞ、おぼえとけテメエ!」…つまりプロレスは、リングを降りて、社会全体に対して24時間365日プロレスをやっている。

 

 これが、俳優ならばドラマの敵役に対して、インタビューで「あのヤロー…」云々と語ることはない。

 

 歌手が不倫の恋の歌を歌って、実生活でその歌手が円満夫婦生活を送っていてもそれを「嘘だ」と責める人はいない。

 

 アイドルは違う。

 表舞台で歌やダンスを見て楽しむ、だけではなく、ファンはアイドルをやっている人間そのものに幻想を抱く。

 

 他のショーでは、建前の部分(「キャラクター」)と、生身の人間の部分が、当然分けて考えられているのに、プロレスラーとアイドルは、キャラクターでもなく、生身の人間でもなく……いや、キャラクターであり生身の人間である「プロレスラー」であり、「アイドル」なのだ。

 

 プロレスを見る側はそこに展開されているものを、建前であることを分かりながら、そこにどっぷりはまる。(*2)

 プロレス会場だけではない。

 世間一般には、プロレス=ショーというものは一般常識として定着されているにも関わらず、プロレスラーが一般のテレビ番組に出演した際には、そこに関わる他のタレント達は、プロレスを建前通りに扱う。

 

 プロレスファンは、建前通りに扱うより一歩進んで、プロレスという空間を支える「観客」という役割を進んで担う。

 歓声をあげ、カウント2.9の攻防にどよめき、勝った側負けた側に、それに相ふさわしい声援を送る。

 

 アイドルフリーク達も、そこにいるのは1人の生身の人間であることを認識しながら、声援を送る。

 曲の合間に、それぞれのグループ、歌に対して決まった掛け声をあげるところなど、まさに、「アイドル」という幻想空間の中で、ファン達自身が「ファン」という役割を進んで担っている象徴である。

 

 そこで、さらにこの2つのジャンルを奥深いものにさせているのが、見せる側が建前と生身の2つが混然一体となった人間だとしたら、それを見る側も、建前には生身があるという事を認識している自分(1)と、それを分かっていながらも建前のままに楽しむ自分(2)が混然一体となっている、ということだ。

分かりやすく言うと、(1)は冷静に分析しながら見る(2)は、建前をそのまま受け取り熱狂する、その2つが一体となって見ているのがプロレスファンであり、アイドルファン…本著の主眼であるAKBファン。

 

 プロレスとアイドルにハマッたことがない人にはいまいち分かりにくいかもしれない。

 映画を見ながら、人はそれが作り話と分かりながら、映画マニアなどはいろいろ分析しながら、恋愛映画にはキュンキュンし、アクション映画で悪者がやられるシーンにスカッとし、ホラー映画で悲鳴をあげる。

 事実として「嘘」「本当」はあっても、目の前で起こっていることには脳では嘘も本当も同じなのだ。

「分かっていながら・分析しながら、興奮する」ことは、映画その他でも同じ、特別なことではないが、プロレスとアイドルを一層深くしているのが、さきに述べたように、この「建前」が、オンとオフの区別なく「人間」そのものに建てられているということ。

 

  プロレスとアイドルのこのような点を特異なものと表現したが、他のジャンルに比べれば、である。

 つまり何がいいたいかと言うと、他のジャンルに比べるから特異なのであって、これを我々の人生そのものに比べると、特異でもなんでもない。というより、人生そのものだ。

 

 皆誰も、1人の、肩書も何もない「生身の人間」であることがまず第一にありながら、「課長」「先生」「お母さん」「○○君の恋人」「店員」「客」を、その時々の相手に応じて使いわけている。

 

 そして、それを受け取る側も、課長が、課長である以前に○×という1人の男であることを知っている。

 △△先生が、偉そうなことは言っていても、エロいことも考える1人の人間であることを知っている。

 恋人関係などもそう。

 お互いがお互いの役割を演じながら、お互いの幻想を守っている。

 

 プロレスを「嘘」と表現する人は、ふだんはバカやったりしながらも、生徒の前では教育者としての威厳を持って熱心に指導する先生も、「嘘」と思うのだろうか?

 アイドルが、握手会に来てくれたファンに対して笑顔で応じるのを「営業スマイル」という人にとっては、旅館の女将が心から客をもてなす態度もやはり「営業スマイル」であると考えるのだろうか?

 

  日本人にとって天皇陛下は天皇陛下である。

 昭和天皇とか、大正天皇という尊称は御隠れあそばした後につけられたもので、今上の天皇陛下には、現在で言えば明仁という御名があるが、通常、国民が陛下のことを言う場合、「天皇陛下」である。

 他国ではその地位にあらせられる時から「エリザベス女王」であり、「○○国王」だろう。

 つまり、もう一度書くが、日本人にとって「天皇陛下」は「天皇陛下」である。

ある特定の個人ではなく、「天皇陛下」をおしいただき、敬愛しているのだ。

 しかし、さりながら・同時に、まぎれもなく、天皇は1人の人間として存在し、国民も「天皇陛下」と言う場合、今上の陛下のご尊顔を頭に浮かべている。

先に、プロレスラーとアイドルの、他に比類なき特性についての説明を読んだ読者はもうお気づきだろう。

 

「建前」と「生身」が渾身一体となって、見る人に勇気や元気を与える存在。

 

 天皇陛下とプロレスラー、アイドルを一緒にするとは何事か、と怒る人もいるかもしれないが、もちろん、一緒なわけではない。

 

 天皇陛下をおしいただき、敬愛している日本人のメンタリティの素晴らしさが、プロレスが他に比類なきジャンルとしてここまで根付き、AKB48という新しいコンセプトのアイドルを「国民的アイドル」と言われるまでに成長させた、という1つの見方を提供したいのだ。

 

 天皇陛下を敬愛する日本人の心はどういうものなのだろうか。

 人間ではない神様、という敬愛のしかたではないと思う。(そういう人もいるだろうけど)

 この国を支配している人間=王様、ではもちろんない。

 どこまでも血の通われた1人の人間でありながら、いや、であるからこそ、そして、国民の幸せをなんでも叶えてくれる万能の神、超能力者ではなく、大自然の前で、宇宙の下では自分達と同じ無力で弱い1人の人間が、常に我々の安寧と幸せを祈っている生身の御姿に敬愛の念を抱くのだ。

 天皇陛下という役割を担っていただいていることに感謝し、推し戴いている。

 

昔、「私、プロレスの味方です」の著者・村松具視氏が

 

「タイガーマスク=誰々(1人の人間)」と認識しながら、しかし、タイガーマスクとして声援を送る少年ファン達は一種の天才ではないだろうか」

 

というような事を書いていた。(※3)

 

 天皇陛下をおしいただき、敬愛するメンタリティは、これに通じるものがあると思う。

 

 アイドルも同様。

 

キーワードは「生身の人間であり、同時に○○」

「自分達がその存在を支えている、推し戴いている」

 

 

    1 最近のプロレスは例外も出ている。顕著な例は、世界最大のプロレス団体「WWE」が、試合の打ち合わせ映像も含むドキュメンタリー映画を公表していたり、団体名も、以前の「ワールドレスリングフェデレーション」から「ワールドレスリングエンターテイメント」にし、ジャンルそのものも以前の「プロフェッショナルレスリング」から「スポーツエンターテイメント」にしたりしている。日本でも、建前は崩さないながらも興行のことを「大会」ではなく「ショー」と呼んだり、DDTのようにエンターテイメント色を前面に押し出している団体もある。

  レスラー全体としてはあくまで建前は守っているが、昔に比べると、本音に近いところを語るようになっているレスラーは多い。

 

    2 プロレスファンには、建前を分かってみているファンとそうでないファンがいる。その割合は分からないが、1つだけ確実に言えることは、昔に比べれば分かってみているファンは急増していることである。何のデータもないが、著者の感触では、今は半分以上のファンは分かって見ている。コアなファンほど分かって見ている割合は高い。

 

※3 正確な文章は忘れた。こういう場合、人の言葉を引用するからには調べたうえ   で正確に再現すべきだろうが、少年時代、四半世紀ほど前に氏の言葉を読んで結果的にこういう言葉になって自分の頭に残った、ということが重要であり、その言葉を書かせてもらう。これもまたプロレス的である。

 

 


最終更新日 : 2012-08-25 22:34:50

2 天皇、プロレス、AKBが攻撃される理由

 天皇、プロレス、AKBに共通する特徴を挙げたが、同時にプロレス、AKBには、これを異様に嫌う、攻撃する人間が多いという共通点があり、天皇についても、(おおむね支持者の方が多いとはいえ)一定の反対論者がいる。

 

 1つの理由としては、他にこのようなジャンルがない、なにがしかのジャンルに属さず、よく分からないものであること。

 天皇について言えば、他の国にも王室はあるが、そのなかでも日本の皇室が特異な存在であることに変わりはない。

 3者とも、生身の人間そのものに、それを支持する者がなんらかの意味を投影し、思い入れをもっている。

 天皇について言えば、反対派も含め、その歴史や現在の在り方も分かっているとは思うが、プロレスとAKBについて言えば、ファン以外には、そのもの自体がなんだかよく分からない。

 

 プロレスとは?

 ショーなのかスポーツなのかよく分からない。という人も多いだろう。

 また、ショーだから、という理由でバカにしている人達。

 これは、全く分かっていないか、さもなくば、ショーというものそのものをバカにしているかだが、他のショーは特に蔑視せず、プロレスだけ蔑視しているのであれば、ショーというものそのものを見下しているわけではないわけだ。となれば、ショーではなく「八百長」と思っているからなのだろうが、八百長というのは、そもそも競技でなければ成立しない。

 プロレスは、相手の協力がなければ成立しない技の応酬で成り立っており、そのことは少し格闘技をやっている人間には誰でも分かるものだ。いや、ロープワークやトップロープからの攻撃、空中技などは、格闘技をやっていなくてもそうだと分かる。

 つまり、ショーなのだ。ショーに「八百長」という言葉は成立しない。

 つまり、ショーだ、あるいは八百長だという理由でプロレスを蔑視している人間は、プロレスのことは全く分かっちゃいないのである。

 

 AKBについては言わずもがな。

 ファンでなければ、AKBの世界はなんだかよく分からないだろう。

(いや、AKBをバカにする人間の中には、なぜかかなりAKBについて詳しい者もいるようだが(・。・) 新しい情報も含めて。好きなことの情報収集をやるのは分かるが、なぜ嫌いなもののことを知りたがり語りたがるのか()

 プロデューサーの秋元康は、常識にこだわらず新しいものを生みだす思考の持ち主だ。(「秋元康の仕事学」」(NHK出版)など参照)

 ジョーシキ外の大人数グループ(1つのグループというより、AKBというシステムであり、AKBというジャンルなのだが)そして、チーム編成、連日の劇場公演、よく出てくるワード「選抜」「総選挙」、あるいは握手会のシステム、また、ヲタク用語の数々……これら全てがファン以外にはなんだかよく分からない。

(ファンにとっては、いろんなシステムが分かってくると逆に愛着がわいて好きになるのだが。)

 

 これまでの常識に沿ったものの考え方しかできない者、既存のジャンルの楽しみ方…これはこういうジャンルで、こう楽しむんですよ~という既に定まったものでしか物事を捉えられない、楽しめないという者にはプロレスもAKBも絶対楽しめないだろう。

 プロレス?…スポーツにしてはおかしなとこあるし、ショー?う~ん、でも本人達は真剣勝負って言ってるし、身体的にすごいことはやってる……。で、社会で定められている概念に落とし込めずに消化不良をおこす。

プロレスはプロレスとして楽しめばいいのだが、ジョーシキに沿ってしか物事を考えられない者にとっては何か既存のジャンルの枠にはまってないとどうも気持ちが悪い。

 

 AKB?…歌が上手いわけでない、ダンスもダンサーほどじゃない、アイドル?…のわりにはルックスもたいしたことないのが多いし、選抜とか総選挙とか研究生って何なの?

「これまでとは何か違うことをやっている」「自分達のこれまでのジョーシキの枠外のことをやっている」…そういうものは決して楽しめないし、それが人気が出てくるとなると叩きたくなるのがジョーシキ大好き人間達。

 

 

2番目は

「インチキじゃねえか」「ただの人間じゃねえか」というもの。

彼らは、「建前」が「生身の人間」と違う=インチキ、としかとれないのである。

映画、ドラマその他のショーであれば、映画で役者が演じていることと、その役者の素顔が違うことは受容できる。分かりやすい。

 しかし、オンオフの区別なく幻想を守っているものについては、彼らはガマンできない。

 彼らの考えでは、プロレスやAKBのファンは(また、人によっては天皇を敬愛している国民も)、建前をそのまま受け取っている=騙されている、という見方なのだろう。

 

 全く逆である。

 

 バカにしている人間こそ、建前と生身の区別があることをしっかり認識せず、なんでも「ガチ」で受け取ることしかできない、貧しい感性の持ち主だから、建前の世界に生身の姿が見えた瞬間に「インチキだインチキだ」とはしゃぐのだ。

 自分から見たら、いい歳こいて「サンタさんの正体はお父さんなんだぞ!」とドヤ顔で吹聴する困った人達である。

 

 プロレスを見て、ロープから振られて返ってくる、トップロープからの攻撃を寝て待っている、相手の協力がなければかからない技の応酬etc…を見て、「だからプロレスって“やらせ”でしょ」と言う人。

 

 ネットや週刊誌の暴露話で見たアイドルの整形疑惑や恋愛疑惑を自慢気に話したり、金にまつわる裏話を披露し、俺は芸能界、アイドルの実態を知ってるよとばかりに、ドヤ顔で話す人。

 

 それはそれで構わないが、どちらも、自分は表面的なものでない深いところ見てるんだよという顔で話すのが、見ていて気恥ずかしい()

 

 それって、誰もが見てる・思ってる、浅いも浅い、1番表面の話だと思うのだが。

 

 プロレス見て、「格闘技やってる俺の友達の○○ほうが強い」「俺のほうが強い」

 AKBの誰かを見て「俺の彼女のほうがかわいいよ」

 

 

 なんの気ない雑談で言ってる分にはなんてことない会話だが、それをもって、プロレスorAKBを見下す感じで言ってる人には、ただただ苦笑するしかない。

自分達がジャンルの本質に全く関係ない、極めてどうでもいい話をしていること、ひいては、プロレスのこともAKBのことも全く分かってないことを露呈している。

 

 

 「んなこと、みんな知ってて楽しんでるんだよ(^_^;)

 

 

 知ってて楽しむ、と聞くと彼ら困った人達は、そうか、「生身の人間」が建前とは違うことに目をつぶって楽しむんだな、「割り切って」楽しんでるのか、と捉えるだろう。

 つまり、彼らにとっては、どこまでも建前と「生身の人間」が違うことはマイナスとしてしかとらえられない、言い方を変えれば、建前と生身の人間が混然一体となっているタフで豊かなジャンルは理解できないのだ。

 

 彼らには理解できないと思うが、建前と生身の人間の姿が違うことはマイナスでもなんでもないのである。

 皇室を敬愛する人、プロレスファン達、アイドルファン達はそれに目をつぶっているわけでもなんでもない。

 

「天皇なんてただの人間じゃねえか」

 そうです。

 天皇陛下、ご皇族は常人とかけ離れた神様でなく、我々と同じ、自然の前では弱き人間だからこそ、その祈る姿に感動するのです。

 

「だから皇室は大切なのです」(篠沢秀夫 草思社)より要約して引用↓

 

「(陸軍の雨中の閲兵式で、檀上の足跡。昭和天皇の左右の2人は足跡は細かくギザギザで板はほとんど濡れていたのに対し、陛下の足跡はくっきり残り、その形の内側の板は全然濡れていなかった話、そのことを戦前、著者が少年時代に大人が話していたのを聞いた記憶)『偉いもんだよねえ、普通の人じゃないよ、やっぱり』と感心しているオヤジさんに、もう1人のオヤジさんが『だけど、神様じゃねえよ、神様だったら足跡つかねえもんな』と付け加え、皆で大笑い。」

「『現人神』という言い方を、戦後のマスコミでは、まるで、『戦前の日本の狂信的状態』、または『戦中の日本の強制的思想管理』の典型のように言うのが『報道人の基本常識』みたいに引き継がれて今日に至っているが、現実はこのオヤジさんたちの姿である。
『現人神』は天皇を崇めるための敬語である。『偉い人だ』という意味にすぎない。
戦後最初の元旦の、通称『人間宣言』には、六年生だったが、『陛下カワイソー、進駐軍に『人間です』って言わされてる。でも進駐軍ってバカみたい』と感じたものだ。
陛下が人間なのは誰にとっても当たり前だったのだから。そう、陛下もそう思っておられた。キリスト教的神と誤解した進駐軍がゴチャゴチャ言っているのを耳にした陛下は、御自分から進んであの勅語を出された。」

 

↑引用以上

 

 プロレス、AKB、アイドルをバカにする人間の愚かさは、天皇に「人間宣言」をさせたGHQのバカさ加減に通じるものがある。

 彼らにとっては、例えば映画の中はフィクションですよ、舞台の上はお芝居で、それを降りたら素の人間ですよ、あるいは、スポーツのように、これはこういうルールで勝ち負けを競ってますよ、という、と~っても分かりやすい世界でないと安心して見てられない。

 そうではない、オンとオフの境目が曖昧藻子とした世界に、自分から幻想にのっかったり、自分なりの愉しみ方を見つけたりすることができないのだ。心のキャパが狭いのである。

 

 アイドルと自分の間に、疑似恋愛的幻想を、幻想と認識しながら楽しむ、という道楽を知らない。みんな幻想と分かっているのだ。アイドルのファンの中に、CDを買ってれば、握手会に行っていれば、そのアイドルといつか付き合えるようになると思っているファンがいるか?()(まあ、そういうのもいるかもしれないが、少数のおかしな者のことまで言うなら、どのジャンルにもおかしなのはいる。)

 ところが、全部を「ガチ」でしかとらえられない哀れな人間は、いつか付き合えるわけでもないのになんで1回10秒、千円の握手会に行くのか理解できない。それならキャバクラ行ったほうがわりがいい、となる()

 世間一般のイメージではアイドルの握手会に行く人間が弱冠危ないということになるのかもしれないが、それをバカにしているタイプの人間こそ、たとえ恋人や配偶者どうしでもお互い幻想を演じているということが分かっていない危ない人間じゃないだろうか。

 

 プロレスファンとAKBファンの共通点=そのジャンルと自らすすんで「共犯関係」になること。

 この世で1番強い絆は共犯関係。

 そして、共犯関係とは、いったんその関係になったらなったら抜けられないものなんですよぉぉぉぉおおおお!

 

(「共犯関係」という言葉の使い方、ならびに最後の絶叫は、週刊プロレスの往年の名物編集長・ターザン山本氏のそれを真似させていただきました)

 

 

 

 


最終更新日 : 2012-09-30 23:19:15

3 「プロレス、AKBのファンは虚像を見ている」と見下す者こそが虚像を見ている。ファンが見ているのは実像

 前項で、「全く逆である」ということを書いたが、このことは、もっと深く考えると、さらに興味深い問題だ。

 

 AKBおよびそのファンをバカにする感覚の持ち主からすると、AKBを見てる人間は、アイドルという虚像を見てる、ホントの生身の姿を見てないバカ、ということになり、俺達は虚像を見ずに、ホントの生身の姿見てるんだよ、ということになるのだろう。

 

 繰り返すが、全く逆である。

 

 彼らは、アイドルとは、お金のこと考えない、純真無垢、名誉欲も性欲もない…その他いろいろ、「アイドル」のあるべき姿=彼らにとっての「ホントのアイドル」という虚像を見ようとしている。「ホントのアイドル」ならば、純真無垢そのものであって然るべき、という前提に立つ。

 そして、それとは違う生身の姿が見えたり、週刊誌に書かれてたりするのを見た瞬間に、それらの姿は彼らが勝手に妄想している「ホントのアイドル」とは違う=「嘘」となる。

 そして、「ファンの奴らよ、ほら見ろ、○○ちゃんは男いるんだよ、引退した××はAVデビューしたよ、△△事務所はこれこれでいくら儲けてるんだよ」とアイドルが「嘘」であることをご教示して下さるというわけだ。

 彼らの見てるものは「ホントのアイドル」にしろ、それとは違う生身の姿=彼らにとっての「嘘」にしろ、両方とも虚像である。「ホントのアイドル」はあり得ない虚像。そして、生身の姿を彼らの妄想している「ホントのアイドル」とは違う「嘘」というおかしな目で見ている時点で、彼らにとっての「生身」も虚像。

 

 AKBのファンは何を見ているか。

「アイドルであろうとする」「生身」の少女達の姿を見ている。

 つまり、全く虚像は見ていない。彼らと違って。

 虚像を見ていないから、生身の姿は「嘘」ではなく、人間らしいリアルな姿であり、本当の汗の匂いを感じ、魅力あり応援したくなる対象となる。

 舞台やステージは虚の世界であることを分かりながら、生身の人間が虚を演じている姿、その歌やダンスを楽しみ、いろいろ悩みや葛藤を抱えながら頑張っている少女達の物語を見ている。

 

 彼ら(バカにする人間)は、「アイドルであろうとする」の「あろうとする」を見ず、あり得ない「アイドルそのもの」という虚像を前提にする目の曇りから、そこから外れる姿=「生身の姿」が「嘘」に見える。

 AKBファンに「現実を見ろよ」と見下す彼らこそが、虚像を見ているがゆえに、現実=ありのままの彼女達=アイドルであろうと頑張っている生身の姿という現実が見れなくなっているのだ。

 

 AKBのファンは勝手に頭でつくりあげた虚像…まさしく虚像…でものを見てないから、舞台、ステージという「リアルな虚像」をありのままに楽しむことができるのだ。

 握手会なども「リアルな虚像」と言えるかもしれない。

 

 この項のここまでの「AKB」は「アイドル」に変えてもいいのだが、夢見る少女達の成長物語を見せるというコンセプトのAKBで説明した方が、より明瞭だ。

 

 実は、ここに説明したことを考えたのは、プロレスに関してだった。

 現在はなくなってしまった「ハッスル」という団体(※1)

レーザーラモンHGやインリンオブジョイトイほか、多数の芸能人をレスラーとしてリングにあげ、おおがかりな演出で、誰の目にもエンターテインメントと分かる路線のプロレスを展開した。

 ある人が、その興行を実家のテレビで見ていたら、親がどうもこれは見てられない、苦手だと難色を示したとのこと。理由として、そこで展開されるマイクアピール(※2)が「見てられない」そうな。

 その親は、ハッスルに限らず、プロレスはショーと認識している、とのこと。それなのにマイクアピールを「見てられない」とはどういうことなのだろう?(・。・)

 かつて自分もそれと同じ経験をした。

 自分がWWF(アメリカの、今や世界一の規模のプロレス団体WWEの昔の団体名。ハッスルもおおいに参考にしたと思われる、大規模にショーアップされたプロレス)のビデオを見てた時のこと。

 ちょうど画面は、テーマ曲が流れる中、リングでハルク・ホーガンが試合後の恒例の、ボディビルばりの筋肉ポーズを四方に披露しているところだったのだが、ある人がそれを見て、苦虫を踏みつぶしたような顔で、不思議でしょうがないというように「何してんの?」と聞いてきた。

 自分は普通に「観客にポーズでアピールしている」とありのまま答えたのだが、それでも「何してんの?」という苦虫顔は治らなかった。

 その人も、普段からプロレスはショーだとさんざん言っている人である、自分と違い、「ショー」を見下す意味で使っていたが。

 これらは一体、どういうことなのだろうかと考えてみた。

 プロレスはショーだと認識しているくせ、マイクアピールやポージングなどの様子を不思議がり、見てられないと言う。

 それこそが不思議だ。

 それを考えていくと、結局、彼らは、プロレスをショーとは認識していないのである。

「ガチンコ」と認識しているからこそ、思い切り観客に向かってポーズをとっているところや、観客に分かるようにマイクアピールしているところを見ると顔をしかめたり、「見てられない」ということになる。

「ガチンコ」という虚像を勝手に見ようとして、それとは違うところは「嘘」と認識して見る。だから「見てられない」ことになる。

「ガチンコ」も「嘘」も、彼らが勝手に自分の色めがねをかけて見た結果の虚像である。

 

 プロレスファンは違う。

 虚像などみていない。

 ありのまま、身体を張って「プロレス」をしているところを見ている。

彼ら(=プロレスを見下す人達)が色メガネをかけて虚像を見ているがゆえに見えない、「プロレス」の技術(=格闘術ではなく、「プロレス」の技術。ロックアップや、アームホイップなど序盤のお決まりのムーブなど…プロレスを知らない人に分かりやすい例を挙げると、世間が「嘘」と見下す、ロープにふられて跳ね返ってくる動き1つとっても技術がある)、とその奥深さ、身体を張って「真剣にプロレスをしている」プロレスラーの「本気」、感動がそのまま見える。

お金を儲ける興行だから「嘘」という、商売嫌いの人達の不思議な色メガネもかけていないので、彼らが見えない、仕事を終えて花道を引き上げていく大きな背中に漂う大人の色気もそのまま感じられる。仕事、興行だから漂う大人の匂いである。

 

 

「天皇陛下なんて、ふつうの人間じゃねえか」

「神話なんて嘘だろうが」etc…。

神話という物語を背負い、天皇というお役目を担っていただいているのが天皇陛下。生まれた時から否応なくそのお役目を背負われ、ご公務や、肉体的負担の大きい祭祀を日々行われている御方である。

勝手に「神話」がガチだとか、天皇は神様そのものという虚像を設定したうえで、それが「嘘」だからと批判するのは、プロレス、アイドル批判の構造そのものである。

 

 

※1 その流れを汲むハッスルMAN'Sワールドという団体が小規模ながら存在している。

 

※2 プロレスの試合前、試合後にマイクを持って、相手への挑発や観客へのアピールをすること。アメリカンプロレスでは昔から喋りも重視されていて、マイクアピールの上手い下手もレスラーの実力の1つとして重要視されていたが、現在は日本でも、マイクアピールのない興行など皆無といっていいほど、プロレスの重要な小道具となっている。

大仁田厚は、マイクアピールの上手さもあって、弱小団体からメジャーな存在になった。

余談だが、かつて、女お笑い芸人のまちゃまちゃがお笑いネタ番組「エンタの神様」で「摩邪コング」というキャラクターで、プロレスラーのマイクアピールをモチーフとしたネタでブレークした。ウィキペディアによると、彼女は女子プロレスラーのさくらえみと小学校の同級生だそうである。

 


最終更新日 : 2012-09-30 23:20:23

4 アイドル、プロレスファンこそ現実を直視している人間

 アイドルにハマっている、握手会で言葉を交わして喜ぶ、プロレスが好き、こういう人間は、世間一般ではそれらの「嘘」に騙されている、という見方をする者が多い。

 そんなものの「嘘」を「本当」だと思っているおめでたい人間だと。

 

 全く逆ではないか。

 おめでたいのは彼らのほうである。

 

 例えば、アイドルの握手会での笑顔の対応をことさらに「営業」「嘘」という者は、裏を返せば、ふだん自分達が日常で交わしている言葉は「本当」だと思っているのであろう。

 

 アイドルの笑顔が「嘘」なら、あなたが恋人に言われる「愛してる」は、「本当」なのか?

 プロレスが「嘘」なら、新聞・テレビ(=記者クラブマスコミ)の報道によって映し出しされている我々の社会の姿は「本当」なのか?

 

 彼らは、それらが「本当」だと思っているから、本当と嘘が重ね合わさっている、つまり我々の社会、人間関係そのものを凝縮して見せているようなアイドルとかプロレスの世界をことさらに「嘘」と攻撃したくなるのだ。

 

 それに引き換え、この社会、人間関係のホントとウソの姿を十分認識している者は、その雛型のようなアイドルやプロレスの「嘘」(自分はそれを「嘘」と言うのは違うと思うのだが、アンチプロレス・AKBの言葉を借りて表現した)も呑み込んで楽しむことができる。

「『嘘』と割り切って楽しむ」とかいうことではない。それは誰だってできる。だから、最初から「嘘」が前提のテレビドラマ、映画は誰だって楽しむことができる。

「割り切る」のではなく、むしろ、「嘘」があるからこそ、豊かで、人間くさく色気があり、熱狂できるのだ。

 


最終更新日 : 2012-08-25 22:43:07

5 天皇を存続させた日本人のメンタリティが日本のプロレス、アイドル、AKBを生んだ

 アイドル、というものの起源を考えていくと…実際に日本の歌謡史に照らし合わせての詳細は「アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで」(太田省一  筑摩書房)という本など参考になるかと思うが、同著を読んでみたうえで、自分の考えた、非常にざっくりした“アイドル”の起こりとは…。

 

 数多いる歌手の中で、若い、容姿端麗な歌手を見る視線のなかに、歌そのものではなく、いや、歌も含めて、歌っている人間そのものに対してのある種の目線があることに人は自然と気付く。

(そこには、歌い手の姿を見せながら聴かせるテレビの普及が大きな役割を果たしている)

 そこで、歌を歌うために歌手を用意するのではなく、歌手を魅せるために歌を用意するという発想が生まれる。

 歌手を、役者に変えてもいい。演技力より、役者その人を憧れの異性と見る目が存在し、舞台の構成要素の1つとして役者がいるのではなく、その役者の女として、または男としての魅力を魅せるための舞台。

 

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『17才』は、南の実年齢に合わせて企画されたものである。

当時、担当プロデューサー酒井政利は、「南沙織のプロデュースに関しては、このデビュー曲もそうであるように、私小説的な作りを一貫させてゆこうと私は考えていた」と述懐している。わかりやすくいえば、『17才』という曲が先にあってその内容にぴったりくる実在の少女が探されたわけでなく、そのような少女が先にいたから『17才』という曲がつくられたのである。

それは歌謡界における1つの発明だったといえるだろう。

(中略)

(従来の)歌手は、楽曲の中の役割を理解し、それをうまく表現することが求められた。ほんとうはまだ独身であっても、楽曲が夫婦の仲を歌ったものであれば、その役をそつなく演じ、それらしく聞かせることが必要だったのである。

酒井が南に対してもくろんだのは、それとは逆のことである。南沙織という、まだ10代の“成長途上”の少女が持つ役割をそのまま生かすこと、それが楽曲の役割であり、曲の中の主人公は「私=南沙織」である。つまり、作品という虚構の世界に歌手が入り込むのではなく、むしろ作品を歌手の実人生に寄り添わせること、それが酒井のいう「私小説的な作り」ということだろう。

 

             「アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで」(太田省一  筑摩書房) 24~25ページより引用     

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「若い異性を見る目」に対して歌手という“作品”を提供する時、そこには当然、恋愛の歌が多くなる。

 そして、歌の上手さへの比重は軽くなる。

 時には、下手さがそのアイドル歌手のかわいさや成長途上の感じを見る者に与えるには好都合かもしれない。

 

 アイドルという言葉自体はもちろん英語で、欧米にもアイドルと呼ばれるアーティストは存在するが、日本でいうところのアイドルとは違い、「偶像化」されていることを指すようで、エルビス・プレスリーやビートルズも、初期にはアイドルと呼ばれていたようである(←ウィキペディアの情報)

 

 日本で呼ばれる“アイドル”は、歳若く、見た目がセールスポイントで、えてして歌唱力などの実力が伴っていないというイメージを持たれている言葉である。

実際、70~80年代のアイドル創世期の頃のアイドルにはそれが顕著だったと思う。

 そして、欧米にもいわゆる、日本で言うところの“アイドル”に近いものとしてカテゴライズされているグループはあるが、日本のそれと比べれば、歌唱力は高いように思う。

 向こうでは、歌手として売るからには、最低、これくらいの歌唱力はないといけないという通念があるのだろう。

このことから日本と欧米を比べた感想を述べよと言われれば、欧米はプロ意識が高いな~、厳しいな~、それに比べて日本は甘いな~、レベル低いな~、と語る人が多いと思うが、自分は逆である。

 

 “アイドル”という、その人そのものを異性として憧れて見る目があるなら、そこの部分を切り離し、それに特化して見せる。その、“切り離し”、特化する、歌というジャンル本来の定義から柔軟に飛躍する頭は、素晴らしいと思う。

 

 海外からなんでも取り入れて、自分たちの使い勝手のいいようにアレンジしてものにしてしまう日本人の特性と根っこでつながっているのではないだろうか。

 

 蛇足だが、アイドルの歌唱力やダンスのレベルは、70~80年代以降、格段にあがっているように思う。

 日本人の柔軟性を讃えたばかりだが、昔のアイドルの歌唱力は、人によってはあまりに低すぎたのは確か()

 

 上手いにこしたことはない…というか、通常の上手さではなく、アイドルとしての魅力を表現するための上手さ、というものも有りうべきものだろう。

 

 そして、ルックスが良い少年少女を、ある程度の商品にしあげて売り出すのではなく、アイドルを見る視線の中にある、その成長を見て行く視線、楽しみ方にスポットライトを当てたのがAKB

 

「歌手は、歌を聴かせるもの。歌の実力が必要」

 

 これは正論で当たり前だが、その当たり前のことに固執していてはアイドルというジャンルは生まれなかった。

 そして、アイドル誕生後、

 

「アイドルはルックスが良くなければいけない。アイドルとして完成されていなければいけない。」

という発想に固執していては、決してルックスが抜群とはいえない少女達も集めてアイドルとして成長していく過程をそのまま見せるAKBというジャンルも生まれなかった。

 

 発想が、常に、見ている側の意識をまっすぐに捉え、従来の定義にこだわらず、柔軟に形を変えさせることができる。

 ある面では、前例にこだわったり、従来の常識から自由になれないのが日本人の短所だが、一方、このような、アイドル、AKBを生みだした柔軟さも同時に持ちあわせている。

 

 

 プロレス、この他に比類なきジャンルがどういうふうに成立していったか。

その歴史的経緯については、「リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実」(スコット・M・ビークマン 早川書房)に詳しい。

 

おおざっぱにまとめてみると。

 はじめはレスリングのプロとしてのプロ・レスリングの興行があった。

ガチンコである。

 レスリングをそのままプロとしてお金をとって見せたのではなく、日本の柔術からとりいれた道着を着たり、同じく柔術から関節技をとりいれたり、いろんな試行錯誤の歴史がありつつもとにもかくにもガチンコの格闘技であった。

 それが、地方をまわるサーキットから徐々にガチンコではなく、一種の馴れ合いが生まれる。アメリカでは、大きくて力自慢の男はゴロゴロいるため、そういう男達の挑戦を受けて金を稼ぐという事も行われ、その際、挑戦者が現れるように、プロどうしの試合では、どちらかが一方的に勝つのでなく、「あいつになら勝てるんじゃないか」という思いを力自慢達に思わせるため、一進一退の攻防を演じるようになり、そのための基本技術のようなものも生まれていった。

当然、名乗りをあげてきた腕に覚えのある男達には、ガチンコで勝たなければいけない。

 また、当時は、ガチンコだった頃の空気が色濃く残っており、ワーク(業界用語でいわゆる、通常のショーとしてのプロレス)のつもりでリングにあがってもシュート(ガチンコを意味する業界用語)を仕掛けられることも多々あり、中にはタイトルマッチでそれをやられ王座が移動するということもあったという。

若手時代、アメリカ武者修行中のアントニオ猪木が、対戦相手の眼球をえぐり出すという事件が起きているが、詳細は不明なれど、敵国日本人に対する差別でシュートを仕掛けられたのに対して猪木が、そうやって応じた可能性もある。

そのような事もあり、当時のプロレスラーは、ワークとしてのプロレスの技術を持ちつつも、シュートの技術ももっていた。(現在も、それがないというわけではないが、使う機会は滅多にない)

 ルー・テーズが長きに渡り世界王座を保持し一時代を築いたのは、スターとしての華を持ち、ワークとして観客動員が出来、プロモーターの言うこともちゃんと守る一方、もし仕掛けられても大丈夫なシュートの強さも持っていたからだという。(「リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実」(スコット・M・ビークマン 早川書房)

 昔のプロレスは、今から見ると派手な技も少なく、シュートの名残も色濃く残っており、悪い言い方をすればジャンルとして確立していない、エンターテイメントとして成熟していなかったと言えるが、独特の、虚実入り混じった渋い男達の匂いが歴史書の彼方から匂ってくる。

 そこからさらに、エンターテインメントとして成熟していく過程には、派手なギミックで自らのキャラクターを演出したゴージャス・ジョージの登場や、大規模な会場演出とそれに基づくストーリーラインで全米を制覇したWWFのプロレスなど、様々なエポックメイキングを経て今日のプロレスまでたどり着いていて、時代ごと、また団体ごとに同じジャンルでくくっていいのか疑問なほど、様々なプロレスがあるのだが、それを書くとそれだけで1冊の本になってしまう。

 

  ここでは、本著の主眼である、「日本」に入ってきたプロレスは、日本人によってどのように変化したか、を書きたいと思う。

これもまた、その変化をたどっていけばそれだけで1冊できるので、本質的な事を述べるにとどまりたい。

 力道山の空手チョップからブームが始まったせいもあるのか、打撃技の当たりがわりと強いとか、アントニオ猪木からUWFへと引き継がれた“格闘技”色を出した路線からグランドのガチのテクニックをプロレスの流れの中に織り込んでいるとか、その他技術的なことはいろいろあるだろう。

 が、ここではもっと本質的なことに触れたい。

 日本のプロレスの特色は、「プロレスを見ている者がどういう環境の中で、何を意識し考えて見ているかという、見る者の全てを受け止めたうえでのプロレス」

 

 そう聞いても、何のことやら分からぬと思う。

 

 それを説明するのに、まず、アントニオ猪木が「プロレスに市民権を」と言いながらやっていたプロレスを挙げよう。(市民権…なんだか非常にこっぱずかしい言葉と感じるのは自分だけだろうか?()

 まあ、今でもプロレスを見下すむきはあるが、その昔はもっとひどかった。

(今は、かなりの人が、プロレスを1つのエンターテインメントとして捉えていて、八百長だ云々と攻撃する手合いは少なくなっている)

 その、プロレスファンであることを言えば人格を疑われるくらいの空気のあった頃、猪木は「プロレスに市民権を」と言いながら、言葉と行動でプロレスをしていた。

 まず、「プロレスこそ最強の格闘技」と堂々と主張。

 プロレスファンもそれを信じ、会場にはいつも「燃える闘魂 世界一強いアントニオ猪木」というオレンジ色のノボリを振り回しているおじさんがいた。思えばいい時代だった。あのおじさん、どうしてるだろうか。

 それへの反論も、「いや、空手が最強だ」とか、「アリのパンチが入れば猪木なんか一撃だ」とか、なんともかわいいというか、そういう反応をしている時点で猪木の手の平のうえに乗っているわけである。少なくとも「プロレスは格闘技」と認めていることになるのだから。

 2011年、「プロレスこそ最強の格闘技」と信じているプロレスファンは、絶滅危惧種に指定され、見かけたらへたに興奮させることなきよう、そっとすることが義務づけられている。

 今、「プロレスこそ最強の格闘技」と誰かが言ったら、最強かどうかの以前に、敵味方なくほぼすべての人が??顔になった後こう言うだろう「…プロレスって、格闘技じゃないでしょ?」

 しかし、昔は違ったのだ。そこまで「分かって見てる」ファンは少なかったし、プロレスファンは「プロレスは真剣勝負。強い」と信じ、世間一般は「プロレスは八百長」と蔑んでいた。つまり、プロレスラー以外は少数の人間しか、プロレスが何なのか、全く分かってなかった時代だった。

 そのような時代に、そのようなプロレスファンの思い、視線を認めたうえに、アントニオ猪木は「プロレスこそ最強の格闘技」「プロレスに市民権を」を唱え、「異種格闘技戦」を行い、様々な格闘技の選手を次々に撃破、その天才というより鬼才というべきプロレスセンスと相まって、プロレス界のカリスマになった。

プロレスのリングで行われる「異種格闘技戦」とは、そういう名前の「プロレス」である。

 あがってくる格闘技の選手はプロレスの基本技術はないため、ふつうのプロレスとは違うが、結果は決まっているという意味において「プロレス」だ。

いわば、猪木は「『プロレスこそ最強の格闘技』を唱えながら『異種格闘技戦』で異種格闘技の選手を破る」という「プロレス」をしていたのだ。

猪木が他のプロレスラーと違ったのは、「 」の中(ここでは「『プロレスこそ最強の格闘技』を唱えながら…」)の、ストーリーライン、テーマのスケールが格段に大きかったということだ。

 通常は、「誰のタイトルに誰が挑戦を表明し、それに向けての前哨戦」とか、「誰と誰が仲間割れし、その遺恨決着」など、あくまで団体内、あるいはいいとこプロレス業界内の世界でのストーリーラインのフィールドを、猪木は社会全体にまで広げて展開した。

 モハメド・アリとの異種格闘技戦など、全世界をフィールドにしたプロレスだった(アリ戦は真剣勝負だったという話もあるが、そうであったとしても、この試合は広い意味においてのプロレスである。(※1))

異種格闘技戦だけではない。

 古くからのプロレスファンならば、猪木の生い立ちを話せと言われれば、皆、宗教信者達がその開祖の物語を諳んじるかのごとく、軽やかに語ることができるだろう。

「なんでもいいから日本一を目指せ」と説く祖父に育てられ、砲丸投げを始める。14歳で一家そろってブラジルに移住する船旅で太平洋上で急死し海に葬られる祖父を甲板から涙で見送る。ブラジルでは、エスペランサ(ポルトガル語で希望の意味。ここから後に、古館伊知郎が若手時代の高田伸彦を「青春のエスペランサ」と名付ける)と名付けられた農場で塗炭の苦しみを味わいつつ、兄とともに陸上競技会に優勝し、日系人兄弟が揃って優勝したことで大きく新聞に載ったのがブラジル遠征に来ていた力道山の目にとまり…。

 ウィキペディアを見ながら打ったんだろうと思われるだろうが、誓って何も見ていない。昭和からのプロレスファンとして当然のように頭に入っている。もっと細かいエピソードも織り交ぜながら書けるが、省略して書いたくらいである。

こういう苦労した生い立ちをベースにして、猪木は自分の人生の「逆境」をストーリーにした「プロレス」を展開していった。

 少年時代からの苦しい生い立ちから、プロレス入門後は、同期で、恵まれた体格に元巨人軍という経歴のジャイアント馬場が早くから期待されて、当時のエリートコースだったアメリカ遠征に先に行かれたのに対し、力道山の付け人として理不尽に殴られる日々を送っていた、という状況がファンに認知されていた。力道山の死後、その「エリート」のジャイアント馬場に挑戦を表明。当時は日本人vs外人という図式が当たり前だったので、その掟破りの勢いの良さと相まって、猪木人気が急騰した。

 

 その後、幹部の腐敗を追及したがために日本プロレスを追放され、新日本プロレスを旗揚げ。自分は関係者ではないので、追放の真実は知らない。ただ、真偽はどうあれ、正義を追求したがゆえに追放されたということが「アントニオ猪木」というストーリーで重要なのだ。ファンはその逆境のプロレス人生を、猪木が歯をくしばって展開するプロレスに重ね合わせて支持し、猪木もそういう視線を十分意識したうえで、それにあわせたプロレスを展開したはずだ。

 そして、金も潤沢でなく、有力が外人招聘ルートもなかった猪木がさかんに唱えたのが「ストロングスタイル」だった。「本当に強い者が勝つプロレス」である。

「シュートでは強いが、ショーマンシップを嫌うがゆえにアメリカプロレス界で孤児になった」という触れ込みのカール・ゴッチと旗揚げ戦のメインでシングルで対戦。

本来ならあり得ない、旗揚げ戦のメインでエースが負けるというプロレスを行う。もちろん、シュートでやったわけではない。そういう「プロレス」をやり、「ストロングスタイル」というストーリーをスタートさせたのだ。

 その後も、猪木は「ストロングスタイル」を標榜し、ライバル団体だった全日本プロレスとそのエース・ジャイアント馬場をことあるごとに挑発し、新日本プロレスは「ストロングスタイル」全日本プロレスはショーマンスタイル、というイメージを浸透させていくと同時に、プロレスの内容にも、ガチンコの関節技や寝技のテクニックを織り交ぜたプロレスを意図的に展開していき、「ストロングスタイル」という名の「プロレス」を続ける。

 

 つまり、今ほどプロレスがエンターテインメントと認知されておらず、見ている側の、プロレスとは真剣勝負なのかショーなのかという曖昧な視線をそのまま、プロレスに生かしたのである。

 

 これも、「プロレスこそ最強の格闘技」と同じく、見ている側の視線をそのまま生かし、巻き込んだストーリーであり、そこにファンなら誰もが知る猪木の逆境の人生に対するシンパシーも加味されて、それが金曜夜8時に全国中継され、まさに日本中を巻き込んだ新日本プロレス黄金時代が到来した。

 いや、猪木の生い立ちや、新日本プロレスがテレビもない資金も貧弱な状態でスタートしたことは真実であり、実際にはどうかは不明だが、おそらく猪木が馬場よりもガチンコなら強いという自信を持っていたことも真実であり、どこの団体よりもきつい練習をしていたというのもおそらく本当であり、もはや、ストーリーという言い方さえ適当ではない。

 本当であり嘘であり、虚実が入り混じり、「生身」と「建前」が混然一体となった究極のプロレスだったといえるかもしれない。

 

 その後、「プロレスに市民権を」という「プロレス」は、「スポーツライクなプロレス」を標榜したUWF引き継がれていった。(UWFもまた、ガチンコをやっていたわけではなく、そういう「プロレス」をやっていたことは多くのファンの知る通り)

 また、大仁田厚は、怪我による若くしての1回目の引退、その後の事業の失敗という実の人生での逆境からはいあがろうとする姿に、リング上ではいつくばり、マイクで涙ながらにこの団体を潰さないと叫ぶ姿を重ね合わさせるプロレスで大ブレイクした。

 5万円の資金で団体を旗揚げしたという実話を語り、有刺鉄線や電流爆破を使ったデスマッチ、そして涙のマイクで一般層にも有名になった。UWFとは対照的なプロレスに邁進し、「俺はプロレスが好きなんじゃ」と叫んだのも、大ブームだったUWFの「スポーツライクなプロレス」にそれこそ胡散臭さを感じ嫌っていたプロレスファン(筆者もその1人)の思いを取り込んだからである。(取り込んだというより、大仁田自身がそういうファンと同じ思いを抱いていたかもしれない)

 UWFと大仁田厚、プロレスのスタイルは正反対ながら、一般メディアに多数露出し有名になったことは、世間を巻き込んだプロレスをやっていたからである。

 

 長々と猪木やUWF、大仁田のプロレスについて書いたが、彼らのような大ブームを起こした、また、カリスマと呼ばれるようなレスラーは、プロレスをやる際に、プロレスの枠内でものを捉えないのである。

 プロレスを見ているファンの目、そして世間の目、さらには、そのような世間の目(偏見)の中でプロレスを見ているファンの目、そういう視線をすべて織り込み済みで、とりこんだうえでのプロレス。

 村松友視氏の言葉を借りれば、「プロレス内プロレス」ではないのだ。

猪木、UWF、大仁田とそれが顕著な例を挙げたが、他のレスラー、団体にも、多かれ少なかれ、人生をプロレスに持ち込み、虚実入り混じりの重厚なプロレスを見せてくれたレスラーはたくさんいる。

 

 アイドルもそうではないか。

 歌謡界が、歌のことだけを考えて、その上手さや表現を考えているだけならば、アイドルという存在は生まれなかった。「プロレス内プロレス」ならぬ「歌 内 歌」であったならば、そこからのジャンルの広がりはなかったろう。

歌手に向けられている、ある視線に気付き、それをとりこんだゆえに、アイドルという存在が誕生した。

 

 そして、AKBは言わば、アイドル界のアントニオ猪木である。

 他のアイドルのファンも、そのアイドルのデビュー時からの歴史は勉強しているだろが、AKBのファンにとってAKBが歩んできた歴史は、AKBに向けている視線と切っても切り離せないものであり、それなくしては語れないものである。

 劇場でデビューしてから客席が埋まらない日々が続き…から始まるその歴史を見てきたから、あるいは後追いでもそれを知っているから、よけいに彼女達の汗が輝いて見えるのだ。

 

 AKBに向けられてきた、あるいは今も向けられている、秋葉原が拠点なゆえの、オタクの街のアイドル=きもい、というような偏見がありながら頑張って国民的スターになってきたストーリー。

 しかし、偏見がありながら、と同時に、偏見があったから、ファン達はその偏見とも闘いながら頑張る姿を、よけいに応援したくなったのではなかろうか。

そう、プロレスを見下す目、その中でプロレスを見ているファンの目を意識し、「『プロレスに市民権を』という『プロレス』」を展開したアントニオ猪木と同じように。

 AKBの場合、それが意図的であったかはともかく、偏見があるからこそ、いったんハマった者は、AKBファンというアイデンティティをいやがうえにも持つことになり、応援にも力が入るのだ。

 

 

 日本の歴史において天皇の起源は諸説あり、ここでは触れないが、とにもかくにも、摂関政治~武士の時代へと進む中で、権威と権力の分離が起きた。政治の実権は摂政・関白なり将軍なり、内閣なりが持つが、天皇の権威のもとに形のうえでは天皇がこの国の頂点、というものだ。

 そして、その権威が、公平無私、ひたすら国民の安寧を祈り日々祭祀を行う存在であること。

 この形は、素晴らしいものだ。

 

理由を挙げよう。

 

    独裁者が生まれにくい。

権力者と権威が一体とならないことで、ヒトラーや金正日のような独裁者が生まれにくい。

 

    皇室外交

権力者と権威が一体、つまり大統領のごときものであれば、外国との親善外交の際、任期によって変わる大統領どうしの外交では、末長いトップどうしの親善にならない。

また当然、なにがしかの政治信条、イデオロギーを持っている者どうしであるから、親善が目的であっても、そういう思惑がぶつかる。政治の流れと無関係の皇室どうしであれば、親善ということではうまくいく。

 

・象徴の役割

国の歴史、文化を体現する象徴はその時々に特定の政治信条、利害を持った者よりも公平無私で党派によらず、国民の幸せを祈る存在であったほうがいい。

行事等でのお祝いを述べるのが、あるいは被災地にお見舞いに来るのが何か特定の党派、考えを持つ政治家であった場合、彼の考えに与しない国民は慰められない。

(まあ、天皇制廃止を願う左翼の国民だけは天皇が来ても嬉しくはないだろうけど、それ以外の国民は。)

 

 権威と権力の分離がどのように起こったのかも、研究者によっていろいろあるかもしれない。

 が、とにかく、日本においては世界に類を見ないほど古い時代から、天皇そのものを倒し新しい王朝をつくるのではなく、天皇のもとに権力者が実権をめぐった争い交代し今日まで来たことは確かだ。

 

 この、権威と権力を分ける発想、柔軟さは、「権力を持つ者が権威をもつべき」という硬直した発想からは出てこない……これは、歌の「実力」にこだわらず、欧米のようにアイドルであろうが歌は上手くなければいけないという硬直した発想に陥らず、若い歌い手を主人公とした“アイドル”を生みだし、そこからさらに、ルックスの良さでもなく、努力の過程やその「人間」を見ようとするAKBのようなシステム、あるいは全ての視線を受けとめたうえで独特の発展を遂げたプロレスを生みだした日本人のメンタリティにつながっていると思うのだ。

 

 

 

※1 本著では、プロレスという言葉を、最も具体的で分かりやすく、ショーで定義しているが、プロレスという言葉は、筋金いりのプロレスファンにはもっと大きく定義され、用いられている。

ショーという定義の仕方に異論があるプロレスファンもあろうが、基本的に本著は、プロレスを知らない人、さらに言えば見下している人を読者に想定している。そのような人を相手にしている場合、その定義は分かりやすく具体的なものにしないと、理解は得られないだろう。

猪木―アリ戦を、真剣勝負であってもプロレスだとする捉え方は、かつてボクシングの名勝負、辰吉vs薬師寺を見た後に村松友視氏が言った名ゼリフ「辰吉と薬師寺には久しぶりにいいプロレスを見せてもらった」という言葉がすんなり頭に入る“プロレス者”には説明不要だろうが、そうでない人にはピンと来ないかもしれない。本著ではそこまでの説明には踏み込まない。

 


最終更新日 : 2012-10-02 23:10:38