妹よ…あの夏の海から
妹よ…あの夏の海から
ion
ボクは、妹の部屋の前に立っている。 ここに立つといつも、あの時の悔恨の気持ちが甦ってくる。
兄ちゃんを赦してくれ。 あの時、お前を救えなかった兄ちゃんを赦してくれ。あの時からボクは、妹のお前に声も掛けられなくなっている。お前も、兄ちゃんを見ようともしない。
あの時、ボクは、まだ小学四年生だった。妹は、小学校に入ったばかり。
夏休みに入ってすぐ、ボクら家族は大磯へ海水浴にでかけた。 燃える太陽。真っ青な海。最高の夏休みの思い出になるはずだった…。
ボクは砂浜で遊ぶみんなから離れ、ゴツゴツした岩場にいた。
潜れば、美しい魚たちが見られると聞いて、誰にも言わずに一人で来ていた。 ようやく十五メートル泳げるようになったばかりだったのに、ボクは、岩場の淀みに飛び込んだ。 だが、岩と岩の間は深かった。そして、海は、慣れたプールとは勝手が違った。プールの水しか知らなかったボクの鼻と喉に、ひがらい海水が流れ込んだ。足はつかない。 夢中で手足をバタつかせて、必死で海面に顔だけ出した。
「おにいちゃん!」
そこに、いつの間に来ていたのか、紺のスクール水着で、心配顔の妹が、岩の上からのぞき込んでいた。
めちゃくちゃかっこ悪い姿を妹にさらしてしまったボクは、取り繕うために、思わず言った。
「きもちいいよ! おいでよ!」
「ザブン」と飛び込んできた妹にとっても、岩場の海は勝手が違った。 手足をバタつかせ、必死で海面に顔を出す。 その時、近くを通ったモーターボートの大波が二人を襲った。二人とも、頭のてっぺんから大波をかぶる。目と鼻と喉に同時に流れ込むしょっぱい潮水。
学校のプールや市民プールでしか泳いだ経験がなかった妹にも、鼻や喉の粘膜を強烈に刺激する海水は、パニックに引きずり込むのに充分だった。
海中に没した妹は無我夢中だった。咄嗟に妹は、目の前のボクにしがみついてきた。水中でボクの海パンにつかまり、ボクを深みに引きずり込んだ。 その妹を、自分自身パニックに陥っていたボクは、突き飛ばし、しがみつこうとする手を振り払った。自分だけが助かろうとする気持ちでいっぱいだったんだ。
気持ちを伝える方法
あの時からだ。 あの時から、ボクらは、兄妹でありながら、気まずい思いを抱えたまま、ずっと話すこともなかった。 面と向かって、顔を合わせることもできなかった。
でも、もう、わだかまりは解こう。二人の間のすれ違う気持ちを正すんだ。 兄ちゃんは、その決心がついた。
その時、妹の部屋のドアが開いた。妹が顔を現した。 ずーっとボクが成長を見守ってきた妹は、美しい花嫁姿だった。 妹の胸には十才のままの姿のボクが映った家族の写真立てが抱かれている。
「おにいちゃん?」
「……」
「そこにいるんでしょ?」
「……」
「どう? きれい?」
「……」
「ありがとう。 お兄ちゃん。 メール読んだわ」
そうだった。 ずっと気持ちを伝えられなかった兄ちゃんが、考え抜いて、お前にメールを送ったんだ。
「お前を救えなかった兄ちゃんを赦してくれ。 幸せになれ。それだけが兄ちゃんの願いだ」って。
「こんな形で、お兄ちゃんの気持ちを知ることができるなんて、思ってもみなかった…」
「……」
「お兄ちゃん。 あたし、幸せになる」
「……」
「ずーっと、お兄ちゃんに申し訳なくて、結婚する勇気がなかった」
「……」
「でも、ありがとう。 お兄ちゃん。 あたし、お兄ちゃんの分まで幸せになる」
妹の目から大粒の涙が溢れた。
「ごめん、兄ちゃんは、今、お前の涙も拭ってあげられない。でも、きれいだよ。 うれしい。ようやく、ふっ切れて、お前が兄ちゃんのことを忘れて、自分の幸せを掴むために踏み出したこと」
兄ちゃんの願い
あの時、救急車のサイレンが聞こえていた。
鼻や喉の粘膜を強烈に刺激するひがらい潮水の香りが残る意識の中で、救急車の音だけが耳についていた。
あの海水の匂いはまだ消えない。
駆けつけた監視員に助けられ、二人、病院に運ばれたんだ。
お前はそこで、命を取り留めた。だが兄ちゃんは、あの岩場に戻り、また、この家に戻り、そのあと、ずーっと、ここにいた。 お前を突き飛ばし、しがみつこうとする手を振り払ったあの悔恨だけを抱えて、ボクの時は止まった。お前の手にある、写真の中の十才の姿で、兄ちゃんの時計は止まっていたんだ。
「お兄ちゃん、ごめんね。 お兄ちゃんの命を奪ったのは、このあたしなのに…。
あたしの方こそ、お兄ちゃんに謝らなくちゃならないのに、
お兄ちゃんに、ずっと、そんな気持ちを抱かせていただなんて…
それで、天国に行けないまま、あたしを見守っていてくれたなんて…」
写真立てを持つ、妹の手の中にケータイがある。 また、ボクはそこに思念を送った。
妹のケータイに、着信のメロディが鳴る。
「違うんだ。 いいんだ。お前は兄ちゃんをどれだけでも責めてくれ。
兄ちゃんがお前を救ってあげられたら、二人とも助かったんだ。
兄ちゃんが悪い。 でも、もう、いいんだ。 お前に、やっと、気持ちが伝えられた。
これで、ようやく、兄ちゃんの行くべきところへ行ける。 さよなら。幸せになって」
花嫁姿の妹は、ケータイ画面の文字を読み、また、目に涙を溢れさせた。
「おにいちゃん…」
送る思念は弱まり、ボクの意識は薄れた。 迎えが来ていた。
ボクは最後の思念を送った。
妹のケータイに再び、着信のメロディが鳴る。 画面に文字が現れる。
「幸せになれ。 それだけが兄ちゃんの願いだ。 ……さ・よ・う・な・ら」
了
奥付
妹よ…あの夏の海から
著者 : ion
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