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ナオミの日記

不自由と共に生きて 大脇直美

 

大脇直美さんの日記    ベルニダ・ボーマン

 重度の障害に悩む人たちが何を考え、何を感じているかということについて、私たちが次第に関心を持ち始めた現在、大脇直美さんの日記が出版されるのは喜ばしいことです。

 直美さんがリウマチに罹ったのは九歳の時でした。それ以来彼女は床に就くか車椅子に乗る生活を送りました。私の夫が初めて彼女に会ったのは彼女が十四歳の時で、その後私たちの施設に週五回昼間通って来ました。はじめ彼女は無口で恥ずかしがりでした。他の人たちと交わることを好まず、お母さんとだけ一緒に居たがりましたが、間もなくいろんな人の中に入って話し合う楽しみを覚えました。「あゆみの家」の入所者たちの多くは知的、身体的障害者でした。彼女は体に障害があるものの、他の人たちの出来ないことをたくさん出来ることがわかってきました。「あゆみの家」の先生の一人が彼女に中学で習う教科を教えました。アメリカからこの施設に手伝いに来ていたマーク・ランキストという青年がウイークデーに彼女に英語を教え、土曜日は私の教えていた子供たちの英語教室に来ました。これが彼女の英語学習の始まりで、それは数年後に日本で最高の英語力試験に合格するまで高められていきました。

 中学の卒業試験に受かり、高校も一番の成績で試験を突破して、通信教育で大学も卒業しました。家では気分の良くないときもベッドの上で、車椅子の上で子供たちに英語を教えました。

 ピアノや編み物も練習しました。絵を描くのも上手で、ある時私の夫と私の絵をそっくりに描いてくれました。私たちは別にポーズをとった覚えがないので記憶で描いたものでしょう。コンピュータも覚えて、私たちとメールを交換しました。時にはアメリカの友だちから送られてきた笑い話や感動的な話などもメールしたのですが、彼女は英語のジョークも理解し、楽しんでくれました。手が痛くてタイプを打てなくなると、話し言葉を写す英文筆記ソフトを使うようになりました。ある時彼女が笑いながら話したところによれば、発音が悪かったので違った言葉になってしまったこともあるそうです。私の夫は彼女をアメリカに連れて行きたがりましたが、いつもからだの具合が悪いためにその旅行は果たせませんでした。

 直美さんは年を取るに従って独立を考えるようになりました。初めはご両親が彼女の欲するところや必要なところに連れて行くという個人的な世話をしていましたが、ご両親が年取るにつれて、独立したいなら他の人の助けを求めなければならないと思うようになりました。何度も日記に書いているように、人々が彼女の独立のために彼女を受け入れてくれるようにと願っていました。たびたび彼女は私に言っていましたが、よく人は障害者の扱い方を知らないため、どうやって話しかけたらいいかわからず、顔をそむけて彼女をじかに見ようとしないという事でした。彼女はただ「こんにちは」と呼びかけることで自分の存在を人々に知らせていました。

 直美さんはクリスチャンになって変わりました。外出することが多くなりました。彼女ははじめ何故自分が障害者になったか分かりませんでしたが、次第にそれを受け入れるようになり、それどころか彼女がキリストの証人となることまで学んでいきました。毎日を幸せと思って生きる力を与えて下さったのがキリストだということを知ったからです。

 私は彼女がなぜこの病気になって多くの痛みや苦しみを耐えなければならなかったのかわかりません。しかし、次のことだけはわかっています。彼女が四十七年という短い人生の中で私たちがもっと長い人生でできるより多くの人の生き方に関わったこと、そして、彼女の出会った一人ひとりに深い感銘を与えたということです。

 

直美さんの思い出  大垣ルーテル教会牧師 斎藤 幸二 

 二〇〇六年一月二十日の朝早く、三十八年の闘病生活の末に大脇直美さんは神様のもとに召されました。お母様が十日間の入院生活を終えて帰宅し、久しぶりに直美さんと言葉をかわして夜遅く眠りについた後でした。何の前兆もなく、眠るように召されていったのです。四十七年の生涯でした。

 大脇直美さんは九歳のときに小児性リウマチという病気になりました。高い熱と激しい痛みで身体を動かすことができず、学校に通うこともできなくなりました。回復を願って尽力した当時のご両親の心痛とご苦労はどれほどのものだったでしょうか。

 しかし病状は好転せず、体の成長もそのとき以来止まってしまいました。直美さんは「友達は元気に学校に行っているのに、どうして私だけこんな病気になったのだろう」というやり切れない思いで、ずっと家にこもるようになったのです。

 直美さんが十四歳のとき、大垣ルーテル教会のジョン・ボーマン宣教師が彼女を訪ねました。直美さんと話をするうちにボーマン宣教師は彼女の深い知性に感銘を受け、「この子がいつか豊かに生かされるように」と祈ったそうです。

 ボーマン宣教師の誘いによって障害者施設の「あゆみの家」に通うようになった直美さんは、家に閉じこもったままの生活から、家族以外の人々とも接する生活に変わりました。あゆみの家で聖書を読むようになった直美さんは「神様が私を大きな愛と御計画の内に生かしていてくださる」と確信しました。人々の前に積極的に出てゆくようになりました。小学校や中学校での講演会にも招かれ、困難を乗り越えて生きることの大切さを車椅子に乗ったまま壇上から語りました。彼女の人生は大きく変えられたのです。短い生涯でしたが、彼女の存在とその言葉はどんなに多くの人々を勇気づけたことでしょう。

 彼女は通信教育で大学を卒業し、また英語検定でも一級を取得しました。その能力を生かして家で塾を開き、近所の子供たちに英語や数学を教えたりしました。また赤ちゃんのような可愛く弱々しい指で立派にピアノも演奏したのです。こうした働きを通しても彼女は周囲に感銘を与え、多くの友人を得たのです。学校での講演、子供たちを教える直美さん、またピアノを演奏する直美さんの姿をお母様が写したビデオで今も見ることができます。

 直美さんは私たちの教会にとっても宝物のような存在でした。私が直美さんと出会って四年目の一九九九年に彼女の体調が悪くなり、岐阜の病院で大きな手術をしました。気分が悪く、ベッドに横たわるままの苦しい日が長く続きました。私たちはそんな直美さんを見舞って慰めたり励ましたりしようとするのですが、慰められ、励まされるのはいつも私たちの方でした。彼女の前向きな生き方、苦しい中でも周囲への優しさや思いやりを失わない心に触れることができたからです。直美さんの周りには不思議な安らぎがあって、訪ねる人は皆それを感じることができました。私たちはそれに触れたくて、できるだけ直美さんの家に行きたいと思ったほどです。直美さんは地上での辛い生を立派に生き抜いて、神様が「もう十分だよ、よくやった」と仰せられた時に天に召されたのだと思います。

 直美さんの日記に、同じ病気で彼女よりも先に他界した友人を偲んで書いた文章があります。「私もいつかあなたと同じように新しい身体を着て、一緒に踊る日がきます。その日を待ち望んでいます…。」そんな内容でした。死への恐れにさえも勝つ平安と喜びと希望を抱いていた直美さん、そして友人を大切にし、いつも思いやっていた直美さんの心が、この文章にこめられていると思います。私たちに生きる勇気と力を与えてくれた直美さんに感謝しています。

 

一九九五年

十一月三日中学校でのスピーチ

 みなさんこんにちは。私はボーマン先生から紹介いただいた大脇直美です。両親と垂井町に住んでいます。少し私のことをお話ししたいと思います。

 障害者といってもいろいろのタイプの人がいます。私のように手、足、体の不自由な人、知能、精神に障害のある人、そして目、耳、内臓に障害のある人もいます。

 原因はそれぞれ違います。生まれた時からの人、病気や事故で障害になった人もいます。私の場合は小さい時は普通の健康な少女でした。私は友だちと普通の小学校に行っていました。自転車に乗り、ピアノや習字のレッスンに行っていました。学校の運動会では選手としても走りました。私はこのようにして中学、高校へ行き他の人のように成長するものと思っていました。

 しかし、私は九歳の時リウマチという病気になってしまいました。この病気はめずらしい病気ではありません。実際にリウマチの病気の人はたくさんいます。状態は人によって違います。病気が軽くて治る人、また一生病気に苦しまなければならない人もいます。

 私の場合は何の原因もなく、足首が痛みました。二、三週間あと、右膝と手が痛みはじめました。六ヶ月後には体全体が痛み、ベッドから起き上がることも出来ませんでした。高い熱がでて私は三年間入院しました。私は入院すれば完全に治り、また学校に行けるものと思っていました。しかし、私の望みとは反対にだんだん悪くなっていきました。そして私は重い障害者になり、自分のことも出来なくなりました。

 母は私の入院の間、私の世話のため付き添ってくれました。母にとっても絶望の日々だったと後で話してくれました。でも母は私に涙を見せませんでした。「どれだけたくさんの涙を流したことか」と母は言います。

私は十二歳の時、小学校を卒業する時に、治る望みもなく家に帰ってきました。

 私は一日中家のベッドの上で過ごしました。かつて一緒に勉強していた友だちは中学生になりました。彼女たちは時々私を見舞ってくれました。でも本当のことをいうと私は彼女たちと会うのはうれしくありませんでした。彼女たちに会うのは私にとって苦痛でした。私は彼女たちの健康や学校生活をねたみました。「なぜ私はこんなに重い病気にならなければならないのだろう。なぜ私は痛みと障害をもったみじめな体の女の子になってしまったんだろう? この状態で人生の残りをベッドで生きるより私は死んだ方がよいのではないか」。私は自分の心を貝のように閉じました。私はみんなの歩いている生活のレールから深い谷底に落ちてしまったのです。これからの人生は楽しみも幸せも奪われた希望のないものに思われました。

 退院してから約二年後、十四歳の時に私の町にアメリカの宣教師と教会の人たちで始められた小さな施設があると聞きました。そこでは十人ほどの少年少女が過ごしていました。身体障害、知的障害のある子どもたちです。

 その施設のスタッフはマイクロバスで送迎してくれます。その時代、岐阜県には身体障害児のための学校はありました。しかし私の家からは遠いところです。私は家族から遠く離れた学校の寮で生活する自信がありません。体力もなく私の起きていられるのは、二、三時間だけです。私の家族とは離れたくありませんでした。

 しかしボーマン先生の施設「あゆみの家」(今は百人ほどの知的障害者の施設になっています)は私の町にあります。私の帰りたい時はいつでも帰ることができます。あゆみの家の先生がおっしゃいました。「私たちはあなたの勉強の手助けをし、手芸や編み物をしましょう」と。私にとってはとても魅力的なことでした。私はそこへ行くことを決心しました。

 はじめ私は重い知的障害の少年や少女にショックを受けました。彼らとうまくやっていけるか心配しました。しかし、彼ら全員が私を歓迎してくれました。そこへ行くのが楽しくなってきました。私はあきらめていた勉強を始めました。お人形やソックス、ベストなどの手芸を教えてもらいました。五歳から九歳まで習っていたピアノを六年ぶりに習いはじめました。私の手は不自由でしたが、今よりは少しよかったのです。私はいくつかの曲をピアノで弾き始めました。時々、福祉集会でピアノを弾くことをたのまれました。文化会館などで数回演奏をしました。現在、私の手は大変に悪くなり、ピアノを弾いたり手芸はできなくなりました。私はその当時それらができたことがすごくうれしく幸せでした。私は二年ほどその施設に通いましたが、その後岐阜の通信制の高校に入学することができ、家での勉強が忙しくなり「あゆみの家」をやめました。

 通信制の学校は、あなたたちのような普通の学校とは違います。生徒たちは家で一人で勉強をして学校へ答案を送り、テストを受けます。生徒は日曜日に授業を受けます。生徒は質問がでた時にすぐに先生に質問する機会がありません。日曜日だけ出席をして授業を受けクラスメートとも会うのです。勉強するにはかなりきびしい方法だと思います。しかし、私はそんな方法でも勉強することができ、とてもうれしかったです。

 高校課程を終えた後、私は京都の通信制の大学に入学しました。くやしいことに私は病気が悪くなったのであと一年のところで卒業できませんでした。なぜなら私は日曜日の授業に出席するために京都まで通い(母の運転で)、六時間の授業を受けるだけの体力もなくなっていきました。その頃から近所の小学生、中学生が夕方から私のところへ勉強に来てくれるようになりました。それ以来、私は家で生徒たちの勉強の手助けをしました。私は良い塾の先生ではありませんが、彼らに教えることがよろこびでした。私は英語の勉強がどんなに興味深いかを彼らに分かってもらいたかったのです。

 私にはもう一つの病気があります。それは十年ほど前からですが目の乾くドライアイです。コンピュータやワープロで働いている人がよく罹る病気だときいています。私の場合は原因が違います。大変に重症なものです。私たちの目は涙で潤っていて目を保護し、栄養を与えています。涙はいつも私たちの目にとって重要な働きをしています。

 不幸にも私の目は大事な涙が少なくなりました。目はすぐ乾き、痛くなります。私の角膜はすぐに傷つき充血します。時々潰瘍ができます。それで私は三十分おきくらいに目薬をさし、またなるべく目を閉じていなければなりません。

 そんな目の状態で数年間勉強ができませんでした。本を読んだりテレビを見ることもできませんでした。両目に眼帯をしてベッドに横になっていました。私は盲目とはどんなことか知りました。

 私は読書という唯一の楽しみを失ってとても悲しかったです。それでも夕方勉強に来てくれる子どもたちのため二時間はかろうじて教えることを続けました。それは私にとってかなりつらいことでした。教えることをやめようかと考え始めていました。私は本当に本を読みたかったのです。ある日私は点字を読むことを思いつきました。点字は小さな出っ張った点で成り立っている文字です。目の不自由な人が指の先で触って読むのです。私は読むことができると簡単に考えました。私は点字の教則本を買って何時間も指の先で触れました。私の期待に反して目を閉じて小さな点を理解できませんでした。私は自分の機能しない指先で点字を理解することは大変難しいことが分かりました。さらに私は何回も何回もトライしましたが点字を習得できませんでした。

 そんな折、たまたま本が読まれているカセットテープを目の不自由な人に貸し出す図書館のあることを知りました。その後私もテープを借りて楽しんでいます。

 その後私は特別なメガネを使い始めました。今私は目を開けています。でも涙が出るようになったわけではありません。それは私のかけているメガネのためです。メガネは私の目に目薬を送ってくれる小さなポンプにつながっています。ポンプの中の目薬が自動的にメガネのフレームから細いチューブを通って私の目に入ります。私の目は早く疲れるのであまり長い時間は使えません。でもこのメガネは私にとって大きな助けです。メガネなしでは一日も過ごせません。このメガネのおかげで目薬をさしてくれるよう頼む必要がなくなりました。また本も読め、テレビも見られます。美しい花や景色も楽しむことができるようになりました。私は目が見えるということはどんなにすばらしいことか、本を読めることが、勉強することがどんなに楽しいことかを今、あなたたちに伝えたいのです。

 私は再び通信制大学コースで勉強を始めました。私はとりわけ英語の勉強が好きです。私の英語との出会いはボーマン先生の施設にいた時です。ボランティアで来ているアメリカの大学生がいました。彼が私の最初の英語の先生です。私は英語の勉強に興味を持ちました。

 大垣の教会でボーマンご夫妻が英語を教えておられるので母に連れて行ってもらうことになりました。週一回英語のレッスンを受けるため教会へ行きました。私はあなたたちのように週何時間も英語の授業を受けることはできません。私は主に家でテープやラジオの英会話を聞いて勉強しました。今でもまだ勉強を続けています。週に一回オーストラリアの女性にレッスンを受けています。時々自分に問いかけます。何のために英語の勉強を続けているのかと。私の生徒たちに英語の勉強を手助けをする以外には私の人生にとっては必要のないものに思われます。しかし、この頃は車いすの人も海外旅行に行きます。いつか私もそんなチャンスがあるかも分かりません。また、ボーマン先生と一緒に私の家に来てくださる外国のお客さんと話すこともよくあります。また、テレビでアメリカのニュースや外国映画を見て楽しんでいます。あなたたちも英語を理解できるといろいろ楽しむことができると思います。

 英語の力をテストする英検を知っていますか。七つのレベルがあります。この学校の生徒さんも三級か四級に合格している人もたくさんおられると思います。私は三年前に準一級をとりました。まだ一級が残っています。来年は挑戦したいと思っています。

 私は午前中、二時間ほど勉強をします。また英語のレッスンを受けに行ったり買い物に行ったりします。昼食後は体と目を休めるために昼寝をして四時ころから勉強に来る子どもたちの準備をします。小学生のあとに中学生の勉強の手助けをします。でも体調が悪かったりすると一日ベッドの中にいることになります。今日は少しつらいと思っても勉強に来てくれる子どものために「どうぞ塾の時間は私の体を保ってください」とお祈りをして始めます。私は体の痛みで思うように動けなくなり、悲しくなります。でも私を世話してくれる両親がいて、私を助けてくれる弟とその家族や友だちがいるので私は幸せです。私はたくさんの人からたくさんの温かい心、親切を与えられていると思います。それは私の人生の中でとても貴重なことだと思います。だから私は幸せです。私は英語のレッスンを受けに行ったり岐阜の放送大学へ行きます。また友だちと買い物やコンサートへも行きます。自分一人ではどこへも行けませんが両親や友だちが私を車に乗せて連れて行ってくれます。でも車いすで町を歩くのはたやすいことではありません。あちこちに段差があるのです。

 ずいぶん前になりますが、母と弟と私の三人である大きな公園に行きました。弟はその時小学生でした。すばらしい景色をみながら歩いていました。たくさんの段のあるところへ来ました。母と弟は汗をかき、あえぎながら何とか上げてくれました。昼食の時間にレストランへ行こうとしました。レストランは二階にありエレベーターがありません。階段をのぼることはできませんでした。人々が階段を上り下りするのをみて彼らがレストランでおいしいものを食べているのを想像しながら階段の下で待っていました。(母が買ってきてくれたので、食べることはできましたが)。私はみじめな気持ちになりました。私のそばを通る人に助けを求めていたら私を二階に運んでくれたと思います。しかし私は頼むことができませんでした。足早に通り過ぎて行く知らない人に大きな声で助けを求めることはすごい勇気がいります。最近では公園や公共の建物にスロープやエレベーターがあります。でもすべての場所にあるわけではありません。車いすを使っている友だちが去年アメリカへ旅行しました。彼女はそこで車いすで動き回るのに何の不便もなかったといっています。アメリカやオーストラリアに比べると日本はまだ不十分だと思います。

 二年前、私は両親とオーストラリアの老夫妻と彦根城へ行って楽しい時間を過ごしました。お城は小さい山の上にあります。たくさんの階段を登らなくてはなりません。私は上へ行くのはあきらめて下で待っているつもりでした。しかし私はお城に登り琵琶湖のすばらしい景色を楽しむことができました。それは数人の若者が「お手伝いしましょう」といって私を上に運んでくれたのです。とてもうれしかったです。また障害者の人たちは障害者のための特別な学校へ行きます。しかし私はみなさんのように自分の地域に住み、家族と暮らしたいと思っています。私はあなたたちの隣人、クラスメートや友だちになりたいのです。

 私は障害をもち、みなさんとは違った姿をしています。仲間の人間の一人として私に接してほしいのです。私もみなさんと同じ世界に生きているのです。それでは私のスピーチはここで終わります。

 スピーチの終わりに私のモットーを言いたいと思います。

 Never give up. 何事もあきらめない

 Try hard.    どんなことでも一生懸命にやる  

 Enjoy my life.  毎日の生活を楽しむ 

 あきらめない──私が直面しなければならないどんな状態でも私の人生をあきらめない。

 一生懸命にやる──どんなに厳しいことでもできるだけたくさん長く一生懸命やる。

 人生を楽しむ──いつでも私の人生を私の方法で楽しむ。

 私はいつも私のできる範囲内で頑張っていきます。ありがとうございました。

 


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