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アナクマ

 疲れて部屋に帰って来て、初めて壁の穴に気が付いた。
 その穴は天井近くの壁に、ぽつりと開いていた。孝史は穴をまじまじと見つめ、考え込んだ。この穴は前からあったものだろうか。それとも何かの拍子に自分が開けてしまったものだろうかと。
 孝史がこのアパートに引っ越してきたのは、半年ほど前の、冬だというのに篠つく雨が降っていた酷く寒い日曜日だった。パラサイトシングルなんていう言葉が流行り、世間体を考えての引っ越しであった。特に事前準備もしていなかったため、入居した時の荷物は数えるほどで、まるで家出少年のようであった。
 それからというもの、孝史は休みになるたびに、リサイクルショップや百円ショップを巡り、少しずつ家具を増やしていった。さして人に言うような趣味を持たない孝史にとって、週末の家財探しは一つの趣味となっていた。暇さえあればリサイクルショップに顔を出すもので、リサイクルショップでは孝史のことを、多少の皮肉を込めて、ミスターリサイクルと呼んでいることを孝史は知っていた。
 そんな家財探しも半年もすればほぼ終焉してしまった。買う物がなくなってしまったのだ。必要以上に物をそろえるのは孝史の趣味ではなかった。二、三週間暇を持てあましたのち、孝史は模様替えを趣味にした。
 模様替えといったところで、こじんまりとした部屋に、こじんまりとした家具があるだけの部屋だ。大した模様替えはできない。それでもベッドの位置をずらしてみたり、テレビの位置を変えたりするだけで、結構気分が変わるものだ。
 ところがこの模様替えもいい加減飽き始めていた。
 そこで孝史は物をずらすだけではなく、壁に何かをぶら下げたり、柱に釘を打ったりし始めた。それが先週からのことである。壁にぽっかりと開いた穴は、果たしてその時に開けてしまったものなのか、家具をぶつけた結果なのか。あるいは始めから開いていたものなのか。孝史にはとんと見当がつかなかった。
 孝史は穴をじっくりと眺めた。そしていくつかの事実に気が付いた。
 穴は天井にほど近く、身長百八十センチの孝史でも開ける為には台に乗る必要があった。
 また穴は拳ほどの大きさで、かつ完全な円形だった。まるで機械で開けたような形だ。家具をぶつけたとしたら、こうはいかないだろう。
 最後に穴の縁には綿埃が多量に積もっていた。
 これらを考え合わせれば、この穴が孝史が開けたものではないということがわかる。孝史は壁をいじるのに、台に乗った覚えは一度もなかった。
 では一体何の穴なのか。
 孝史ははたと気が付いた。
 天井近くに開ける穴といえば、エアコンしかない。これは前の住人がエアコンを付けるために開けていったものに違いない。それならば形についても、綿埃についても説明がつく。
 ところが次の瞬間、それはとんでもなく事実に反することだと気が付いた。穴は窓とは反対の壁に開いているのだ。それでは室外機はどこに置けばよいのか。パイプをトイレの上を通して玄関の脇に置かねばならない。そんなムダなことをする人間はいないし、玄関の上に穴が開いていたとは記憶していない。なぜならここのアパートは廊下の屋根がすごく低く、長身の孝史は頭をこすりそうになるからである。つまり玄関の扉のすぐ上は、もう屋根なのだ。
 ではあの穴は一体何なのか?
 孝史はしばらく穴について思い悩んでいたが、孝史が開けた訳ではないということが分った以上、悩んでも仕方ないと判断した。そして冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、一瞬だけ穴に目をくれただけですぐ穴のことは忘れてしまった。


 それからしばらくの間、孝史は穴のことはすっかり忘れていた。一旦気にならなくなれば、どんな大きな穴であろうと染みと変わりはなかった。
 孝史は週末が来るたびに、新しい趣味を探した。
 一時は料理に凝った。料理は奥が深く結構のめり込んだ。そして台所に立つうちに、いかに台所が汚いかに気が付いた。結果その次に凝ったのは掃除だった。これはなかなかやりがいがあった。
 そもそも孝史の住むアパートは、築二十年は経過している古い木造だった。そして前の住人はあまり掃除に頓着しなかったと見えて、よく見れば汚れている場所はいくらでもあった。窓の桟に溜まった土埃。風呂場の黴。便器の黄ばみ。レンジ周りのこびりついた油。探せばいくらだって綺麗にする場所がみつかった。そして梁の上に埃が積もっているのを拭き始めて、久しぶりに穴の存在に気が付いた。
 そういえば綿埃が積もっていたっけ。
 孝史は穴の埃を払うべく、椅子の上に乗ると初めて穴を間近に見た。
 穴が広がっていた。
 以前の記憶では、穴は確か拳大だった筈だ。ところが今の大きさはどうみてもハンドボール大だ。孝史の拳などやすやすと入ってしまう。
 あるいは下から見上げるのと、間近で見るとは違うのかもしれない。
 孝史は椅子をおりると、畳にあぐらをかいて穴を見上げた。小さくなど見えなかった。やはりハンドボール大に見える。ということは、誰かがこの部屋に侵入して、どういう訳なのか、穴を広げているということだ。なんと物好きなことか。
 さもなくば、穴が勝手に広がっているのか。そんな筈があるわけがない。
 孝史はいぶかしげに穴を見つめた。しかしいくら見つめたところで答が見つかるわけでもなかった。孝史は考えないことにして、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
 



 その日は残業で酷く疲れていた。孝史はコンピュータのソフトを開発する会社に勤めていたが、会社自体があまり大きくないせいもあり、仕事は主に大手コンピュータ会社からの下請けだ。大手は独自の設計方法が社外に流出するのを嫌い、下請会社にあまり情報を流さない。結果孝史のような末端の設計者は、自分が一体何のためのソフトを造っているのかすら分らない。ただひたすら、巨大なシステムの一部の機能を造り上げていく。根気のいる仕事だ。納期も迫っており、孝史は連日深夜まで残業する日々が続いていた。
 だから孝史は部屋に戻って来ると、ビールをひと缶煽るように飲み、すぐにベッドに横になった。穴のことなど少しも思い出さなかった。
 ところがこの日は酷く暑く、夜中に目を覚ますほど寝苦しかった。孝史は目を覚ましては、寝返りうち、また浅い眠りに落ちていく、ということを幾度となく繰り返していた。
 そして何度目かに目を覚ましたとき、畳の上に何かがどさりと落ちる音を耳にした。
 だが孝史は何度も眠ったり、目を覚ましたりを繰り返していたせいで、意識がはっきりとせず、本当に音を聞いたのかどうかもわからなかった。だからといって、わざわざ起きて確認するのも億劫だった。明日も辛い仕事が待っているのだ。そんなことをするなら、一分でも余分に眠りたかった。結局孝史は箪笥の上の何かが、たまたま落ちただけだろうと考え、再び眠りに落ちていった。
 翌朝、目覚ましが鳴り響いたとき、孝史の頭からは昨晩の音のことなどすっかり消え去っていた。
 孝史はいつもの朝のように、慌てて飛び起き、朝食もそこそこに身支度を始めた。
 急がなければいけない。今日は納入するソフトの審査会議があるのだ。それまでにすっかり資料を整えておかなければならない。孝史は壁につるしたままのスーツに駆け寄った。その拍子に何かに蹴つまずいて、壁にもろに額をぶつけた。
「あ痛た」
「痛てえ」
「うるせえ」
 大した音ではなかったと思ったが、隣の男が怒鳴っていた。隣は音に敏感なのだ。
 孝史はぶつけた頭をさすり、身の不運をなげきながらも立ち上がり、スーツに手を伸ばした。そしてそこではじめて、蹴つまずく原因となったものを足許に発見した。
 そこには熊のぬいぐるみが転がっていた。
 孝史はしばし時間が無いことも忘れてぬいぐるみに見入った。一体なぜここにぬいぐるみがあるのだろうか。
 確かに孝史はおとなしい性格で、趣味といえば雑貨店巡りとか、部屋の模様替えとかいった、どちらかと言えば女性的なものが多かった。だからといってぬいぐるみを集める趣味は一度も持ったことがない。さらに言えば、風采の上がらぬ孝史にはここ数年、ぬいぐるみを部屋に持ち込もうとする類の知り合いはいなかった。孝史は考え込んでしまった。一体誰のぬいぐるみで、なぜこの部屋にあるのか。
 突如、携帯電話が鳴った。
 物思いに耽っていた孝史は、驚きで飛び上がらんばかりであった。五分後に部屋を出なければ、いつもの電車に間に合わないことを知らせる、携帯のアラーム音であった。孝史はぬいぐるみのことを一時棚上げし、慌てて着替えを済ませると、鞄を持って部屋を飛び出した。
 電車に乗り込んだ時、すでに孝史の頭にはぬいぐるみのことはなかった。孝史は会議をどう成功裡に終わらせるかに思いを馳せていった。
 部屋に帰り着いたのは、いつもより更に遅い、深夜二時だった。完全に疲れ切っていて、ビールを飲む気にもならなかった。
 会議は酷い有様だった。連日あれだけの作業を続けたにもかかわらず、そこかしこに不具合が見つかり、早急に手直しを求められたのだ。次の会議は三日後だ。それまでに指摘された不具合を全てクリアにする必要があった。孝史は会議直後から、猛烈な勢いで手直し作業を進めたが、真夜中を過ぎた段階でも、三日後の会議に提出できるような成果を上げることは、まず無理だと思われた。
 孝史を落ち込ませている理由はもう一つあった。
 憧れの女性である由美子から、今回の会議の結果で蔑むような眼差しを浴びたことだ。
 由美子は孝史の同期であったが、孝史よりもはるかに出来が良く、すでに数人の部下を持つ身だった。明るい性格は誰からも好かれ、長いストレートヘアと、モデルのような肢体は男子社員の憧れの的だった。
 その由美子が孝史の失敗を蔑んでいた。わたしならそんな新人のようなヘマはしない。一体何年この仕事をやっていると思っているの。あなたこの仕事に向いていないんじゃない? その目は如実にそう語っていた。
 孝史はネクタイを放り投げると、スーツ姿のままベッドに倒れ込んだ。
「おい、三本しか無いネクタイの一つなんや。もっと大事にしいや」
 突然の声に、孝史は飛び起きた。
「誰だ」
 電灯は点けっぱなしだった。部屋に誰もいないのは一目瞭然だった。
 幻聴?
 孝史は寒気がしてきた。冗談じゃない。幻聴だって?俺は狂っているのか。しかもなぜか関西弁だ。
 孝史は自分の状態を思い浮かべてみた。
 考えても見ろ。ここ数ヶ月、十二時前に部屋に戻ったことなど一度もないじゃないか。疲れているのだ。幻聴かどうかはさておき、これはある種の警告なのだろうと思った。これ以上無理をすれば、時々街で見掛けるような、目に見えない妖精に話しかけている人のようになりかねない。無理をせずに身体を大事にしたほうがよい。そういう警告なのだろうと。
 孝史はズボンとワイシャツを脱ぎ捨てると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、煽るように飲み干してベッドに潜り込んだ。
 会議の日から二日が経過したが、不具合修正の成果は上がっていなかった。ひょっとして自分は本当にこの仕事に向いていないんじゃないか。そう考えながら、明け方も近くにアパートの扉を開けた。明日の、正確には今日の午後には再審査の会議がある。その時に不具合が全て修正されていなかったら、一体どうなってしまうのだろうか。
 「クビ」という言葉が脳裡をよぎった。
 まさかそんなことはあるまい。たった一度納期に遅れただけで、クビということはないはずだ。
 本当にそう言えるのか?
 心の声が応じた。
「黙れ」
 孝史ははっとして口を押さえた。隣の男は寝静まっていた。気を付けなければならない。ここで新たな問題を抱え込みたくはない。孝史は足を忍ばせながら、冷蔵庫まで歩み寄ると缶ビールを取り出した。
 翌朝、誰かが激しくドアをノックする音で目が覚めた。目覚まし時計を見ると五時だった。眠りについてから一時間しか経っていない。一体何事なのか。
 半分寝ぼけたままドアを開くと、今時珍しいパンチパーマの人相の悪い男が立っていた。
「どなた?」
「隣の半田だ。あんたいい加減にしてもらえねえかな。何度も夜中に大声だしてよう。こっちは毎朝この時間に出ていくんだ。夜中に遊び半分でたたき起こされちゃあ、たまんねえよ。あんたに出ていって貰うよう、大家に頼んでおくからよう。覚悟しておいてくれよな」
 半田と名乗った男は、それだけ言うと孝史の意見など聞きもせずに去っていった。
 孝史は呆然と半田を見送った。
 出ていけとはどういうことだ。自分が一体なにをしたというのか?そこで孝史ははたと気が付いた。そういえば夜中に大声を出して、口を押さえたことを。たったそれだけのことで出て行かねばならないのか。孝史は怒りがこみ上げてきた。あの男が大家に直訴するというのなら、こちらから先に言い分をぶちまけてやる。だいたいあの男だって、始終部屋に女をつれこんで、いやらしいことをしているじゃないか。その音だけを聞かされるこっちの身にもなってみろというのだ。
 まだ眠くて仕方がなかったが、怒りで興奮し、もう寝付けそうになかった。孝史は冷蔵庫の扉をひらいて缶ビールをとりだそうとした。そこで今は夜ではなく、これから会社に行かねばならないということに気が付いた。本当に今日の会議を乗り切れるのだろうか。不安がさっきまでの勢いを削いでいった。大家に意見を言いに行ったところで、聞き入れてもらえないかもしれないではないか。何しろ家賃は振り込みだし、大家とはもう一年も顔を会わせていない。
 孝史は絶望感につつまれ、その場にへたりこんでしまった。
「そう、くよくよせんとき」
「だ、誰だ」
 自分の声の大きさに驚き、慌てて口を塞いだ。
「誰だ」
 こんどは控えめに尋ねた。
 部屋に他人がいる様子はなかった。
「誰はないやろ。自分の大親友に向かって」
 またしても無人の部屋からの声。
 孝史は用心しながら、部屋の各所に目を走らせた。
「どこ向いとるんや。ここや」
 そして最終的に視線が落ち着いたところといえば、あの熊のぬいぐるみだった。いつの間に移動したのか、熊のぬいぐるみは箪笥の上に置かれていた。
 置かれているという表現ははっきり言って無理があった。そのぬいぐるみは、箪笥の縁から組んだ足をぶら下げ、顎をさすりながらこちらを眺めていたからである。
「そう驚かんといてや」
 体調五十センチの熊のぬいぐるみに不釣り合いな、大人びた声が言った。
「わいは二日前からここにおんねんで」
「二日前って何の話だ。お前何者だ。何でここにいる。何をしようってんだ。一体何なんだ」
 熊はアメリカ人のような仕草で、あきれたもんだと肩をすくめてみせた。
「初めて言葉を交わした相手に対する態度とはほど遠いけど、ひとつひとつ答えたろか。
 先ず第一に、二日前の夜中にわいが畳に落ちる音を聞いたやろ? 
 第二に、わいは自分の親友や。正確には親友になれるかもしれない相手という意味やけどな。お前親友なんておらんやろ。
 第三と四は、これはちいと難しいな、まあ平たく言えば、お互いの利益のためちゅうこっちゃな。
 最後に、孝史自分、ああ、これからわいは自分のことは孝史って呼ぶぞ。
 ええと、孝史お前は今、ごっつうまずい状況におんねん。何ちゅうかな。ネジのゆるんだジェットコースターに乗って、まさしく一番の難関にさしかかろうってとこや。ここで下手打つと」
 熊がボタンの目でじっと見つめてきた。ただのボタンのはずなのに、なぜか迫力があった。
「孝史の人生はこれ以上ないってくらい、絵に描いたような不幸にみまわれる」
「不幸?」
「そう、不幸」
「どんな」
 熊は腕を組むと、しばし考えに耽った。そしておもむろに
「そやなあ。アパートを追い出されて、たまたま入居できた別のアパートで殺人事件が発生して、重要参考人にしたてあげられるとか」
「重要参考人だって?」
「会社の横領事件の片棒を担がされて、十年の禁錮刑を言い渡され、ムショん中でやくざの情夫に成り下がるとか」
「情夫う?」
 孝史は腕っぷしの強そうな、やくざに迫られている自分を想像して、吐き気を催した。もし本当に迫られたら、自分には対処できないだろう。残された道は一つしかないということだ。
 落ち込む孝史を見て、熊は孝史を慰めるように叩いた。
「気にするなって。まだ決まった訳やない」
 孝史は熊の方を見ようともしなかった。不幸という言葉と、今日の会議がイコール記号で結ばれてしまった。もうぬいぐるみの熊が喋ろうが、なんだろうがどうでもよかった。自分の社会人生活が、きっと今日の会議で終わるのだ。そう考えるとなんだか下腹が痛くなってきた。孝史はトイレに駆け込んだ。
 トイレでしゃがんでいると、熊がノックもせずに扉を開けた。ボタンの目が隙間から覗いていた。
「孝史大丈夫か?」
「開けるな。ノックぐらいしろよ」
 咄嗟の言葉に、孝史は自分が言葉を喋る熊のぬいぐるみを、完全に受け入れてしまっていることに気が付いた。
 なんてこった。不幸だって?だったらこれこそまさしく不幸じゃないか。
「すまん。ノックはしたんやけど、なにせ」
 熊は柔らかい手で扉を叩いて見せてから、肩をすくめて扉を閉めた。
 腹具合がようやく収まって部屋に戻ると、煙草の煙がたゆたっていた。
「おい、何をしてるんだ」
 振り向いた熊は孝史の背広から煙草を抜き取り、勝手に吸っていた。
「一本もろうたぞ」
「貰ったって、俺は部屋じゃあ吸わないことにしているんだ」
「ええやないか。ケチ臭いこと言うな」
 熊はそういうと缶ビールを煽った。
「俺のビール……」
 孝史の言葉は大きなゲップにかき消された。正しく不幸の始まりのようなゲップ。
 孝史は会社の帰りに転職情報誌を買っておこうと心に決めた。

ジュンプウ

 会議は信じられないくらいスムーズに進み、終了した。孝史が造ったソフトは、条件付きであるが、審査終了の印鑑を貰うことができた。その条件も、依頼元会社への納品後に不具合が発生した場合、早急に不具合を修正すること、という実に曖昧で楽なものだった。思い当たる不具合は納品までの間に修正できる。
 先日の厳しい審査に比べ、何故今回はこんなにも楽だったのだろうか。偶然ばかりではあるが、考えられる理由はいくつかあった。
 先ず、一番厳しい部長が今日は緊急出張でいないことだった。
 次に、部長代理は部長からのたび重なる電話で、ほとんど孝史の話を聞いていなかった。
 そして、同僚の中では厳しい手合いである、由美子は何故か心ここにあらずといった状況だった。
 会議終了後、会議がうまく行ったこともあり、気持がかなり高揚していた。誰かにこの気分の良さを伝えたかった。そこへ偶然由美子が通りかかった。暗い顔をしていた。思わず、
「気分でも悪いの?」
 と尋ねていた。
 由美子は一瞬驚きの表情を見せたあと、葛藤を含んだ表情をした。相談をしようかどうか迷っているのだ。しかし目の前にいる相手は、同僚で一番頼りない孝史ときている。
「俺、大した役には立たないと思うけど、相談があれば乗ってもいいよ」
 いつもの由美子ならば「あなたにする相談なんかないわ」と強気の言葉を残して去っていっただろう。だが今日の由美子はいつもの由美子では無かった。由美子は迂闊にも孝史の目の前で涙をこぼしてしまった。
 「私ね。ある人に交際を迫られているの」
 会社の向かいの喫茶店で由美子はそう切り出した。
「交際」
「そう」
 聡明なる由美子が悩むくらいだから、それは決してまっとうな交際では無いだろう。それに由美子ほど美人ならば、相手を選ぶことくらい簡単なはずだ。それを涙を流してまで悩むということは、かなり圧力がかかっているということかもしれない。だが、こんなマドンナを絵に描いたような由美子ですら、悩むことがあるということに、孝史は由美子も自分と同じ人間なのだなと思った。
「よく分らないけど、断れないのかな。その相手に」
 由美子は一瞬いつもと同じ、きつい目で孝史を睨みつけた。
「断れるくらいなら、もうとっくに断っているわ。相手は部長なのよ」
 その相手に愕然とした。部長だって?それってつまり不倫ってことじゃないか。孝史は世の不公平さに腹が立った。そして由美子を何とかしてあげたい、という気持よりも、部長をとっちめてやりたいと思った。しかし相手が部長では手も足も出ない。
 そんな孝史の意気消沈した顔を見てか、由美子は財布と携帯電話を掴むと、
「あんたなんかに相談するんじゃなかった。誰かに言ったら承知しないから」
と言葉を残して店を出ていった。孝史もまた、気軽に相談に乗るのではなかった、と後悔した。
 部屋に帰ると、まず煙草の臭いが鼻についた。すっかり忘れていたが、朝の出来事は現実なのだ、ということを嫌というほど再認識させられた。由美子よりも俺の方がよっぽど不幸だと思った。
 テーブルの上にはどこから仕入れてきたのか、ラッキーストライクの吸い殻が、空き缶の上で山盛りになっていた。そして空き缶の数といったらあきれて数える気にもならない。肝心の熊は孝史のベッドを占領して、大いびきをかいていた。姿形は違うけれど、これを疫病神と言わず何と呼べばよいのか。
 孝史は熊を放り出す算段でも練ろうと、冷蔵庫を開けて唖然とした。一本のビールも無かった。さっと頭に血が上った。いつもなら頭に血が上るより早く、何故こんなに不幸な目に遭うのか、と嘆く孝史であった。だが今日はいつもと何かが違った。孝史は熊の胸ぐらを掴むと、目の高さまで持ち上げた。
「誰がビールを飲んでいいと言った」
 熊がいかにも眠た気に身もだえした。そして大きなビール臭いゲップ。
「おい、起きろ。この盗人」
「大きな声を出さんといてや。頭に響くがな」
「誰がビールを飲んでいいと言った」
「同じことを何度も言わんでも、ちゃんと聞いとるがな。それより会議の結果はどうやった」
 孝史は熊を揺すった。はたから見たら気違いそのものだ。
「俺の質問に答えろ」
「そう怒るなって。勝手に飲んで悪かった。すんまへん」
「飲んだ分は弁償してもらうぞ。それとあの煙草はどこから仕入れた。俺のじゃないだろう」
「隣」
 熊は悪びれる風もなく答えた。
「隣?」
 孝史は半田の顔を思い出し、急に威勢を失った。また怒鳴り込まれたらどうしようか。そんな不安が心を占め始めた。
「ほれ、朝怒鳴り込んできたけったいな奴がおったろ。あいつの部屋や」
「侵入したのか?」
「あんな鍵、子供でも開けられるがな」
 孝史は気が遠くなった。もしあの半田という男が怒鳴り込んできた時、この部屋を覗いたらどうなるのだ。今以上に話がこじれてしまう。熊が盗んだと言ったところで、誰が信用するというのだ。さっきの大声できっと半田は怒鳴り込んでくるはずだ。孝史は泣きたい気持になった。
「大丈夫。誰にも見られてない」
「そういう問題じゃないよ」
「大声を出すなって。また怒鳴り込まれるぞ」
 孝史の顔が引きつった。
 熊はそれを満足気に見ながら言った。
「半田は今日は帰って来ん。女の所にしけこんどる」
 熊がいやらしく笑った。
 孝史はこのとき始めて本当の殺意というものを感じた。しかし相手がぬいぐるみの熊では間抜けそのものではないか。孝史は情けなくてもう熊を持ち上げていることもできなかった。
「そないなことより、会議はどうやった。えかったやろう?」
 孝史は一瞬あの、会議が成功裡に終了したときの高揚感を思い出した。よかったかだって?完璧と言っていい。だがなぜ熊が知っているのか?電話した覚えもない。
「何でわいが知っとるのかって聞きたいんやろう?そりゃあ俺たち親友やからな」
「親友だなんて思ってないぞ。お前には出ていってもらうからな」
 熊は肩をすくめた。
「わいにまたあの穴に戻れっちゅうんか?出るの大変やったんやで。ほんま」
 孝史は指さされた穴を見つめた。数日前のあの音はこいつが穴から落ちた音だったんだ。穴のことを思い出したと同時に、数々の質問が奔流のようにあふれ出してきた。それを察したらしく熊が手を伸ばして質問を制した。
「質問はなしや。親友でいられなくなるからな。そないなことより、孝史、まだわいを信用していないやろ」
 あきれた奴だ。信用できる何があるというのか。
「明日を楽しみに待っとき。そうすればわいを親友と思うようになる。二時に携帯を持って地下倉庫に行ってみいや。わいを叩き出すのはそれからでも遅くはないやろ。たいした実害があるわけでなし」
 実害なら十分あるさと思いつつも、二時に何が起こるのかを知りたくなった。
「二時に何があるんだ」
「行けばわかる。それよっか、孝史、女おらんやろ」
 と言って、熊は無いに等しい小指を立てた。
 またぞろ怒りがこみ上げてきた。そんなこと知ったことか。何て失礼な熊だ。熊はそんな孝史の怒りなど、蛙の面にションベンといた風体でベッドの下に手を突っ込んだ。引っ張り出したのは数本のアダルトビデオであった。
「隣の部屋にあった。一緒に見よ」
 孝史はため息も出なかった。燃えるゴミの日に喋る熊は出せるのだろうか。


 二時に始めて熊の言葉を思い出した。二時に地下倉庫。戯言に決まっている。とは思ってみたものの、行かなかった言い訳をするのも面倒だし、少し気になってもいた。孝史は何気なく席を立つと、地下倉庫に向かった。
 地下倉庫は普段あまり目を通さない書類が、段ボール箱にしまわれて多量に保管されていた。しかしたまに必要となることがあるので、鍵は掛かっていない。そっとノブを回すと、扉は音もなく開いた。何故か電気が点いている。誰かがいるのかもしれない。孝史は急にスパイにでもなった気持ちがした。
 倉庫に入るとすすり泣きのような声が聞こえた。
 幽霊?
 一気に背筋が寒くなった。いいことなんて何もないじゃないか。慌てて部屋を飛び出そうとしたが、すぐに別の声がして動きを止めた。
「どうだ。いいだろう」
 部長の声だった。というとはすすり泣きというのは、女性のあの時の声では。もしかして相手は由美子かもしれない。一瞬怒りに我を忘れそうになったが、孝史が席を立ったときに由美子は確かに仕事をしていた。では一体誰なのか。
 孝史はそっと段ボールを回り込み、声の方を覗いてみた。
 声の主は秘書課の綾香だった。なんということだ。部長は由美子に手を出そうとしておきながら、別に綾香にも手を出していたのだ。許せない。自分はここ数年女性の手を握ることすらできないでいるのに。思い知らせてやる。
 とは思ったもののどうすればいい。
 そこではたと気が付いた。携帯を持ってゆけと言われていた。携帯はちゃんと背広に入っていた。そして今時の携帯は写真が撮れる。撮った写真は誰に送ればよいのか?もちろん部長代理だ。部長と部長代理がいがみ合っているのは周知の事実だ。


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