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はじめに

みなさん、初めまして、私、杉島洋一と申します。ただいま32歳のタイトルにあるように低月収のやる気のないアルバイトです。

この電子書籍を書こうと思った理由といたしまして、大概の不動産投資の書籍はサラリーマンや税理士、とか、ま~40~50代の金もコネも人生経験もある、私からすれば、うらやましい立場にいらしゃる方たちが書かれた物が多いので、

参考にはなるけど一番肝心なところが抜け落ちているように思ったからです。

なにが一番肝心かといえば、貧乏アルバイトの私からすれば、はじめの一軒を購入することですね。

みなさん不動産投資をして不労所得を得るのがいいと申しているのですが、そんなことは当たり前です。誰だって、

不労所得はほしいところです。働かないでお金がもらえりゃそれに越したことありません。生活保護でも年金でもなんだっていいと思います。 親のすねかじりでもね。

さて本書では、私、杉島がアルバイトからどうっやって不動産投資を始めたかについて0から1について特に詳細に

書いていこうと思います。 ので私のようにどん底(詳細かきますんで、私よりひどい方はコメントください。他人の不幸は蜜の味なんで、笑わせてください^^)からはじめる方には参考になる内容となってます。

 


判断の誤りーアメリカ留学

実は私、アメリカに留学しました。 その直接の理由としては私が高校2年の時にクラスでの学業の成績がビリから2番目で(1学年時は順位が非公開)それを理由に日本の教育制度に極度の不信を抱いたためであります。そもそも学業全般についていけず、授業がわからんかったので、そんな授業に行く意味ないとのことで、さぼりまくってました。

私は学業とは関係ない書籍(教育基本法とか、教育制度批判関係とか)を読みながら、学業に関しては総崩れはなさけないので、学科を選択しててきと~に勉強していました。 選んだ学科は化学と英語でした、特にこの2つの成績が悪かったからという単純な理由からでした。

高校2年の末ごろまでに、成績はクラスの中ぐらいになりましたが、私の日本教育のやり方に対する不信は変わらず、

一例を挙げれば、数学の京大出の先生がクラスで”君たち馬鹿だね~”発言をよくしていたのに反発し、起立し、あんたに馬鹿、馬鹿いわれる筋合いはない、と発言し、その後、あやまるまで、担任やその他の先生をつけ回してました。

結局、私の卒業するための単位が足りないのを理由に学校が両親を呼んでそこで話合いがあり、数学の先生は私が気骨のあるやつだと認め謝ってくれ、卒業も出来ました。

ま~そんなことがあり、アメリカに行くことにしました。アメリカに夢があったとはいいきれず、最低英語を学べるから日本の大学よりましかという考えからです。 今、振り返ると無謀な考えであったと思います。 

 


判断の誤りーアメリカ留学2

私は留学斡旋機関を利用して、アメリカの大学に入学しました。 大学時代は3つの期間に分けられ、初めの2ヶ月は研修をかねてテネシー州の大学、次に正規の授業の大学をデラウエア州の大学で、最後に転学先のアーカンソーの大学です。

私は高校の時、前述のとうり、英語の勉強はやっていたので、文法や読み、書きは他の研修生より出来ました。

ので課題はスピーキングと聞き取りでしたが、すぐ慣れました。他の研修生の過半はまったく英語ができなかったようで、1年もせず帰国したようでした。

物足りない研修を終え、デラウエアに向かいました。 ここでの授業もはじめのうちは素直にやっていたのですが、3学期ぐらい目ぐらいからいつもの教育機関との確執やっちゃいました。

はじめにESL(英語を母国語にしない生徒向けのクラス)が小学生のままごとかよと担任の先生に噛み付き、クラスを受けないでいいようとりはからってもらいました。

次に、英文のクラスの先生が他の日本人(文章力は低いが先生には従順)をえこひいきしていると勘ぐり、先生批判、 学校批判の文をばんばん提出しB評価(A高~F低)ばっかもらって、それをもってまたふざけるな、幼稚園の作文がなんでAで俺のがBなんだとかやってました。

今から考えると自身の無謬性を訴えまくって、大人げないやつでありました。

そんなこんなが高じて(不動産本なんで御用者ください)、奨学金関連で学校ともめ、学長と話したり、財務担当と話したりたらいまわしされ、最後に役職は忘れたけど、幹部のばあさんにミドルヒンガー(中指を立てる侮辱行為)をしたため、教職員に対しての威力業務妨害(よくわからんけど、脅したこと?)かなんかのかどで退学処分を受けました。

退学処分を受けると60日以内に帰国しないと違法滞在になるのですが、私はお構いなしに滞在し、次の大学に転学しました。

転学後、違法状態を修正するため、一時(1ヶ月)帰国し、アーカンソーの大学で授業を受けはじめました。

この大学は学費が全米1安いので、外国人(アメリカ人からみて)が沢山おりました。

私は学業に対する不信は相変わらずだったんで、成績は悪く、友達と賭け事やったりバスケやったり、副業をやったり、なんのために大学いるんやという状態でした。

案の定、成績不振のため、停学処分をうけました。


判断の誤りーアメリカ不法滞在記

大学を停学になると1学期間、授業には参加できず、頭を冷やして、勉強でもしてろとの処分なんですが、私は何をとち狂ったかテキサス州のダラスにいたアーカンソー大学の先輩を頼ってダラスに行きました。基本的に大学をうっちゃって、ダラスで仕事でもしようかなという腹ずもりでした。 ま~てきとに稼いで日本に帰ろうかと思っていました。

先輩は居候していいよといってくれたので、いきました。この先輩はかなりいい先輩でちょっと他の日本人留学生とは違っています。 Y先輩とします。 Y先輩は英語とスペイン語が出来て、ダラス近辺にある、日系物流会社に勤務して

いました。 家は借家でメキシコ人の同居人Hさんがいました。

私はともかく居候の身であったので、仕事を探したんですが、基本的にビザなしの違法滞在者、特技なしなので、仕事は探しは甘くなかったです。まず職探しにあたり社会保障のカードが必要です。ソーシャルセキュリティカードといいます。(以下Sカード) 私は学生のとき、Sカードを持っていたんですが、私のカードにはNOT FOR EMPLOYMENT(仕事にはつけないよ)と大きく赤く印字されていました。このSカードは紙で出来ていてしょぼいので、私はこのNOT FOR EMPLOYMENTの印字をピン先で削り取り、雇用先にはなるたけコピーしたものを利用しつつ、提示を求められたら、何食わぬ顔で偽造Sカードを提示しました。 少しずつダラスの雇用情勢がわかったのですが、アメリカ人が嫌がる仕事なら違法滞在者でも就けるということです。私は違法滞在しているメキシコ人(正確には南米人)が就いている仕事ならいけると思い、初めての仕事はごみの仕分け作業の仕事でした。

汚い、臭い、安い給料、朝は早いとま~ろくでもない職場ですが、背に腹はかえられませんから。

黒人の上司と黒人の同僚1名、他はみな南米系の英語も話せない同僚でした。何ヶ月やったか記憶にないのですが、そこそこ楽しかったです。

1つ例をあげれば、Flitolay(アメリカの大手お菓子会社)の賞味期限切れ及び間近のビーフジャーキーがわんさか流れてきたりして、もちろん私はおいしく頂いたりしました。え~私は乞食はやったことないのですが、それに近い状態には随時おりました。他人のごみの山は宝の山とまでいきませんが、ま~私にとって価値のある物も流れてきました。

 

 


アメリカ不法滞在記2

とにもかくにも、アメリカで不法滞在の身で仕事を始めた私でしたが、少し欲が出て、もっとまともな仕事に就けないか考えていました。

 

そこでまず考えられたのが日本食のレストランです。 普通ですね。 ただダラスという都市はアメリカでも有数の人口

を抱える都市で、その近郊の都市を合わせて、都市圏を形成しており、地域格差が結構激しかったのです。結論から申し上げれば、私の先輩Yさんは変わり者で、わざわざ治安があまりよくない地域に住んでいたため、日本食レストランがあるような地域とはちょっと離れていました。

 

通勤するのが面倒なのと、地理に不案内だったので、近くで出来るましな仕事を探しました。 ありました、ビザ屋で配達の仕事です。住居地から5分程度のピザ屋(ピザイン)に例の偽造カードと虚偽の身の上(日系アメリカ人ぶって)でなんとか自身を職場にねじ込みました。 アメリカの不法滞在事情としては、本音と建前があり、経営者は違法滞在者とわかっていて雇うことはよくあります。違法滞在者は立場が弱いので、その弱みに付け込まれぬよう一生懸命働きます。 まあ、労働組合なんかに参加して、経営側に何か要求するようなことはないし、比較的安い給与にも文句はいいません。ただ政府に不法滞在者を雇用がばれると一応、罰則があります。ので日系企業なんかは法にうるさいので、私のような無法者はまず雇いません。

 

ピザ屋の仕事は順調に推移していたのですが、Y先輩が治安のいい職場付近のアパートに引っ越すと言い出しました。 私は近場で仕事をしているのに加え、違法滞在のため、治安のいい地域(法にうるさい)にいっしょに行くのは

出来なかったので、スペイン語しか話せないメキシコ人同僚と2人で残ることになりました。家賃を折半すればなんとかなると思っていたのですが、ここからが私の長きにわたる泥沼アメリカ違法滞在記の始まりでした。

 



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