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 遥か昔のお話。空がまだ工場からの煙にむせもせず、海がまだ家庭から出る油の味を知らなかったほど、遠い昔の。

 

                                                                               

 

 大きな森のずっと奥の、ある洞窟にそのモンスターのすみかはありました。

 お腹が空けば動物を食らい、眠くなったのなら、何日も眠り込む。そんな生活がモンスターの全てでした。

 そんなあるとき、モンスターは初めて人間というものを目にします。どこかの王族の者たちでしょうか。多くの者を引き連れて、森の小道を闊歩する一行はある種、異様でした。

 二頭の馬が引いている馬車に、その女性は悠然と気品をたたえながら乗っています。その姿にモンスターは惹かれました。もちろんそれは多くの集団で一人だけ高いところにいて見やすかったというのもありましたが、本当はその容貌でした。

 髪は見た者がはっと息を呑むような輝く栗色で、肌は氷のように白く透き通っており、人形のように大きな眼がそれらを更に引きたてています。

 突然、女性が馬車から飛び降りました。背の低い策をまたぐように、すっと。周りのおつきの者たちはあまりにも突飛な行動に我を失っています。

「誰か、助けて」

 左右を見回しながら叫びます。純白のドレスが太陽の光に反射して、きらきらと輝いています。

 茂みでことの成り行きを見守っていたモンスターは思わず飛び出していました。筋肉で盛り上がった四肢を駆り、目的のところへ向かいます。漆黒の毛を纏った巨体は、どんなものも飲み込んでしまいそうな、闇の塊のようです。

驚愕で見開かれた眼は、それでも綺麗でした。

 モンスターは鋭い爪でその女性を傷つけないようにやさしく抱きかかえ、すみかへとその巨体を走らせました。

 後方からは大勢の人々の怒号が響いています。

 

                                                                               

 

「あなたは、その、魔物ってやつ?」

 洞窟には、彼女のかすかに怯えた声が響いています。

 モンスターは人語は理解できましたが、話すことは出来ませんでした。落ちついてほしい。身振り手振りで何とか伝えようとします。

「あ、む、無理よ無理。食べれないわよ、骨があるから、骨が」

 後ずさりをしながら、さらに恐怖にまみれた表情で、か細い言葉を発します。

 仕方なく、モンスターは大切にとっておいた獲物の肉を差し出します。食べ物を分かち合うのは友好の証です。

「くれるの?」まだ警戒心を抱きながら受け取り、「でもこれ、生じゃ食べれない」

 じゃあどうやって食うのだ。モンスターは腕を組み、考えます。

 

 ゆらゆらとその体形を定めず、煙は遥か上空へと手を伸ばします。彼女は慣れた手つきで肉を、どこからか取り出したナイフでさばいていきます。

「私ね、実は王女なの。名前はリリィ。ここから近くの××××王国ってとこの」切った肉を木の串に刺し、火にかざします。「逃げ出したのは、うんざりしたから。誰が王位を継承するかで揉めているの」そう言ってあたりを見回し、「ここはいいところね。自然があふれてる。私の世界の全てはお城なの。あんなに高いところから世界を見て何が面白い? だからもっと近くで本当の世界を見てみたいというのもあったの。はい、これ」

 火にあぶられて黄金色になった肉は、再び生を与えらたかのように、じゅーじゅーと音を出しています。

 始めて人に作ってもらったそれを、口に入れます。

 

 ある晴れた日にモンスターは名前を授けられます。

「ずっと、あなたと呼ぶのは不自由ね。分かった、じゃあ私が名前をつけてあげる。そうね、マーク、なんてどうかしら。意味なんかないわ、響きよ、響き」

 ひ、び、き、という王女の唇の動きにマークは、見とれます。

 

 心地よい風が森に吹きつける、うららかな日の午後、マークは王女に一輪の花を捧げます。白色の大きな花弁を精一杯に広げ咲いている様は、王女のように可憐で清廉としていました。ごつごつとした岩のような腕を小さくたたみ、渡します。

 彼女は高貴な身分に合った、恭しい仕草で受け取ります。

「綺麗な花。これほどの花が、こんな山奥に咲いているのね」そういって王女はその花を頭に飾り付けます。「どう? 似合う?」

 

 身体を優しく覆うような陽光のなか、マークはお気に入りの場所に王女を案内しました。

 そこは噴水のように水が湧き出ている場所で、天気や時間によって、噴き出す量が変わることをマークは知っていました。周りの木のように水の柱は太く、堂々としています。

「すごーい」王女は歓声を上げ、あまりの迫力に目を瞠ります。

 水しぶきはやがて、小さな虹に変わりました。水柱の上にかかる橋のように、赤や黄や緑色の線が空中にアーチを描いています。

 王女がまた何か大きく叫んで、その虹に水をかけると、その虹はすぐに消えてしまいました。


 マークは遊び疲れてぐっすりと眠りについている王女を眺めながら、考えました。なぜ自分はリリィ王女を欲したのか。こんなことは初めての体験でした。腹が空けばそれを満たし、眠くなったら睡魔に身をゆだねる。それが日常であり、すべてでした。もちろんこんな風に、ひとつのことに思考を傾けるのも初めてです。

 人間であればそれが恋情だと、恋なんだと気づくでしょう。しかし今のマークにはそのことを助言をしてくれる者も、きっかけもありませんでした。

 王女が何事か寝言をつぶやき、寝返りをうちました。

 

 日課となった二人での食事を済ませ、洞窟のそばにある草原に寝転びます。空には星が自分が一番だと競い合うように、輝いていました。木々のざわめきは、それを応援するかのように賑やかです。

「マークはさ、ずっとここで生活していたんでしょ。いいなあ、うらやましいよ。私が想像していた世界って、これなんだと思う」

 マークにはすでにこれが、ありふれたものになっているので、王女の意見はとても貴重に感じました。

 花の匂い、川のせせらぎ、鳥のさえずり、虫が鳴く声。それらが彼女の眼には新鮮に美しく、映っているのです

「ねえ、喋れないの? お話できたら、きっといい友達になれると思うのになあ。あ、もちろん、マークとはもう立派な友達だよ」

マークの悲しげな視線を察し、王女は慌てて言います。そしてそっと、柔らかな毛に覆われた大きなお腹に、顔をうずめます。

「あったかい」

 どくっ、どくっ。王女の心音が肉体を通して伝わってきます。

 小さな王女の体を優しく包み仰ぎ見た空には、明るすぎるほどの月がその表情を覗かせていました。

 

                                       

 

 朝。マークは多くの人々の叫び声で目が覚めます。

「王国の者たちが私を連れ戻しにきたんだわ。どうしよう」

 動揺する王女を真っすぐに見据え、洞窟のほうを指差します。

「逃げろって言うの? 無理だわ。だってあんなに大勢」

 最後まで言葉を続けさせず、洞窟へ王女を運びます。

 守りたい。

 気持ちの高揚とともに、躍動する身体を持てあましながら地面を蹴り、走り出します。

 本気になったマークの前では何者の存在も許しません。次々とリリィ王女を救出にきた兵士を蹴散らしていきます。それでも王女の名を叫び探し回る者、果敢にマークに立ち向かう者たちが懸命に食い下がります。辺りは混乱のるつぼと化します。

 マークは洞窟の正面に陣取り、奮闘します。

 あともう少し。もう少しで戻れる。王女とまた一緒に肉を食べよう。

 明らかに目の前の兵士たちは戦意を喪失していました。

 疲労を感じていた我が身に、再び力が宿ります。

 もう少し。もう少しで――。

 刹那、マークは背後に鈍い痛みを感じました。見やると、自分の背中から、ナイフが生えているではありませんか。どくどくと、血液がものすごい勢いで溢れだしていました。この前、王女と一緒に見た水柱のようです。マークの血は王女が着ていた純白のドレスを容赦なく紅に染めていきます。

 綺麗だな。ふと、マークは思いました。

「ふー、なかなか手間取ったわね。やっと終わりだわ。分かる? あんた死ぬのよ」

 真っ赤に染まった両手をひらひらと振りながら、口元をゆがめ、王女が言い放ちます。

「まあ、このままわけが分からないまま死ぬのも可哀相だから、一応言っとくね。まず、わたしは王女ではない。ただの雇われもんよ。ちなみに兵士もね。次に何でこの場所が分かったかというとそれは煙。おいしかったね、お肉。で、何であんたを殺すのかって言うのは、近くの農民が怖がってるから。人間に危害加えてもいないのにねえ。気味が悪いんですって」

 アハハ。無感情に、軽薄に、笑います。

 マークはぼうっと意識が遠のいていくのが分かりました。自分が立っているかどうかさえも、判然としません。

「私が危険を冒してまであんたに近づいたのは、確実に殺すためよ。ほら、昨日抱きついたよね? あれで心臓の場所を探していたの。あんまり人間と変わんないのね」そこで首を回し、「王女」は再びマークの背に刺さったままのナイフに、手をかけます。「じゃあ、とどめ」

深く、突き刺します。

 

     ✽

 

 マークの脳裏には今までの生活が、映し出されていました。朦朧としているせいでしょうか、怒りも、空しさも、死にゆく悲しみも感じません。

 おいしかった、楽しかった、あったかかった。そんな毎日が続いていれば。そんな毎日でも、続いていさえすれば。

 守りたい。ただ。

「な、何よ、あんた。死になさいよ、早く」今までリリィ王女だった女は、動転して何度も何度も、ナイフを背中に突き刺しました。それでもマークはびくともしません。

 マークはずっと、女を見つめていました。ずっと見ていたいと思いました。しかし視界は赤く滲んで、やがては完全な闇に包まれました。それでも両手は何者も通さないように広げられ、足は地面から生えているように、しっかりと踏みしめています。

「何やってんのよ、あんたは私に裏切られたのよ。もう守る必要なんてないでしょ。もういいのよ。早くぶっ倒れなさいよ。ほら、はや――」

 すると一人の兵士が驚きにまみれた、震えた声をなんとか絞りだしました。

「もう、死んでる。立ったままで」

                    

                                               

 

 大きな森のずっと奥の、ある洞窟にそのモンスターのすみかはありました。

 しかし今では主人を失い、ひっそりと次の訪問者を待ち構えています。

 誰が立てたのでしょうか。入り口には墓がありました。細長い木を十字に組み合わせ、土に挿しただけのものです。

その墓に一羽の、絹のように白い毛で覆われた小鳥がとまって、羽を休ませていました。辺りは静かで、たまに思い出したようにゆっくりと、撫でるような風が吹くだけです。

えさでも見つけたのでしょうか、小鳥は大きく羽根を広げ、紺碧の空に飛び立ちました。

この本の内容は以上です。


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