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『ユニ』夕住ほなみ

 

 

 

 男女が口づけるアパートの玄関、その頭上でそいつは写真を撮っていた。まだ夏の日差しが眩しい時刻、フラッシュを焚かずとも全てが鮮明に見える。らせん階段の半ばでユニがカメラを構えていた。

 目の前で男女の情事が繰り広げられているのに、ぼくはユニをずっと見上げていた。ユニの肌は陽の光に透けていて、その上に白いシャツを着ているものだから、今にも消えてしまいそうだった。か細い手が無骨な黒いカメラを持ち上げている。腕が折れてしまうんじゃないかと不安になった。

「じゃあ、また今度ね」

 口づけをしていた女が男から離れる。去り際、彼女はぼくを横目でちらと見た。甘ったるい香りが鼻につく。大きく露出した背中を見送ったあとに振り返ると、男のにやついた顔が目の前にあった。

「大胆な覗き見だな、少年」

 下卑た笑い声と共に、階段へ足をかける男。ぼくはハッとなって上を見る。

 そこにユニはいなかった。つまり、たった一瞬の出会いをぼくは目にしっかり焼きつけている。

 

「なぁ、どうしてあいつの写真を撮っていたんだ?」

 二度めの出会いはすぐにやってきた。翌朝、コンビニにアイスでも買いに行こうとしたら、階段の同じ場所にユニがいた。例のごとく、その手にカメラを携えている。間近で見ると、あっさりとした顔立ちながら、どことなく作りものめいた雰囲気を持つ奴だった。

「きみこそ、どうしてずっと家にいるの?」

 風鈴の音のような声でユニが問いかけてくる。ぼくは「はあ?」と驚いてみせた。

「どうして、って……そりゃ夏休みだからだよ」

 ぼくの答えにユニは少しも表情を変えることなく、

「あ、そう」とだけ言った。訊ねたのは自分のくせに、かけらも興味がなさそうだ。

 そんな態度にぼくは口の端を下げる。

「自分は答えないのかよ」

 そうしたら、ユニは軽く首を傾げて言ったのだ。

「そりゃ、撮りたかったからだよ」

 と。これだけで、ユニがどんな奴なのかは想像がついた。つまり、ポーカーフェイスも相まって、捉えどころのない奴。

 ぼくはこれ以上話しても無駄だと思い、ユニを横切った。そのまま早足で階段を下っていったけれど、後ろから追ってくる靴音に気づいた。

「何しにいくの?」

 とユニから無邪気に訊ねられる。

「アイス買ってくるだけだよ」

「ついていっていい?」

 いつのまにか、ぼくの目の前に回ったユニがこちらを見てきた。その瞳は、黒と言うより灰色に近い。ぼくはその場で足踏みする。

「う。うーん……?」

「それってどっちの意味?」

 ユニは白黒はっきりさせないと気が済みそうになかった。自然とため息が出てきてしまう。結局ぼくはこいつと一緒に外へ出た。

 外は夏真っ盛りで、日差しがぎらついていた。汗が吹き出ては肌を伝う。道中ぼくは何度も額を拭ったのに、ユニは不思議と涼しげな顔をしていた。

「新陳代謝が悪いからさー」

 そう言って、ケラケラ笑うユニが憎たらしかった。

「ところで、きみ、名前は何て言うの?」

 ユニが丸い目をぼくに向ける。血管の透き通る白い手を口元にあてて、

「ボクは、佐伯由仁(さえき・ゆに)」

 と名乗った。このとき、ぼくはユニの名前を初めて知った。最近増えてきている変わった名前だな、という印象。ぼくの平凡な名前とは大違いだ。

 その後もユニはぼくに「いくつ?」だとか、「血液型は?」などと簡単な質問を投げかけてきた。そこでわかったことは、ユニはぼくと同い年で十四歳ということ。それと、血液型はAのぼくとは合わなさそうなBだということだ。

「でも血液型診断って根拠ないらしいよ?」

 ユニがあくびをかみ殺した。ぼくは、そんなことはなさそうだなあ、なんて思っていた。下らない話をしている間に目的地であるコンビニに着いた。

 コンビニの中ではユニはとても静かで、まるで借りてきた猫のようだった。人が多いところでは大人しいらしい。ぼくはわざとどのアイスを買おうかな、と迷ってみた。

 散々じらしたあと、アイスを買ってコンビニを後にしたら、ユニが面白くなさそうに頬を膨らませた。

「きみって意地が悪いね」

 どの口がほざくのか、ぼくは口の端をひきつらせた。

「お前は内弁慶って奴だね」

 そう返してやったら、ユニが青空を仰いだ。白い入道雲がもくもくと天へ上っている。その先に太陽が透けて見えた。

「いいんだ、ボクは。あまり外に出たりしないもの」

 そのときは、どういう意味なのかぼくはわかっちゃいなかった。ただ、ユニの青白い肌や細い腕は太陽の下ではやたら異質なもののように見えた。

「インドアっぽいもんな」

 アイスの箱の入ったビニールを揺らしつつ、ぼくは歩きだす。半歩遅れてついてくるユニに歩幅を合わせてやった。

「きみは、スポーツとかするの?」

 ユニが道路に転がっていた石ころを蹴る。それを、ぼくがまた足先で飛ばす。

「いんや。特には」

 しばらく石ころの蹴り合いが続いた。

「部活は?」

「ぼく、まだ越してきたばかりだから」

「へぇ」ユニが目を丸くした。その興味津々といった表情に、ぼくは身を固くする。

「じゃあ、夏休み明けからなんだ。こっちの中学校に行くの」

 ユニの言葉を聞くたびに、次の問いに怯えていた。二人の間を行き来していた石ころが明後日の方向に飛んでいく。

「へたくそ」

 ユニが非難めいた声でぼくを見上げた。ぼくは不自然にならないように、作り笑いを浮かべる。

「もう飽きたんだよ」

 声が少し震えていると、自分でもわかった。答えた瞬間に後悔する。もっと上手く答えられたはずなのに、と。

 それでもユニはぼくの不安など素知らぬ様子だった。

「そう? ま、そろそろアパートに着くしねぇ」

 ふいと目線をぼくから外すユニに、胸をなで下ろした。額を拭うと、脂っぽい汗が手にまとわりつく。

 そして前を見やれば、白い壁のアパートが視界に入った。三階までしかない小さな建物ではあるが無駄のない造りで、どことなくスタイリッシュである。

 母さんが「外国のおうちみたいね」と惚れ込んで、引っ越してきたのだ。

「顔色悪くない?」

 ユニが手の甲でぼくの頬を撫でる。ハッとなって手で押し退けてしまった。

「べ、別に。何でもないよ」

「変な汗かいてるけど」

 手の甲に残るぼくの汗を、ユニが反対側の手の人差し指でなぞる。その目はぼくをしっかりと捉えていた。それから逃れようとぼくはかぶりを振る。

「何でもないったら! 知り合ったばかりなのに変に勘ぐるなよ」

 そして、早足で歩きだした。すると思ったとおり、ユニは足が遅いのか二人の距離はどんどん離れていく。背後で「待ってよ」などと聞こえたような気がしたが、ぼくは振り返らなかった。アパートの玄関に近づくと駆けだした。心臓がはねる。階段を一気に上りきると、自分の部屋のある階から下を見下ろした。ユニはやっと階段に足をかけたところだった。

 このアパートには、天井に大きな天窓がついている。その下にらせん階段があるので、まるで天に向かって伸びているかのようだ。あるいは天から地に向けて下っているのか。今は空に上る太陽の光が階段を照らし出している。

 ユニの黒髪が陽に透けて動くたびにサラサラときらめいた。足の運び方も静かで、靴音も聞こえない。本当にそこにいるのかすらわからないほどだ。そう思っていたら、ユニはぼくを見上げてきた。

 白い顔が陽に浮かぶ。着ているシャツも真っ白だから、ともすれば消えてしまうのではないかと心配になるほどだ。ぼくは何故かユニを直視できなくて、その場から離れた。自分のうちに駆け込んで、大きな音をたててドアを閉めた。そして、背中でドアにもたれ掛かる。夏特有の金属の熱がじわりとひろがった。そこから噴き出す汗に自分でも戸惑う。

 足下を見ると、小刻みに震えていた。理由はわからなかった。ただ、身体が熱を帯びていたので少しでも和らげたくなり、リビングに走ると冷房をガンガン効かせ、その中でアイスを貪った。そのせいでキンとした痛みが頭を襲う。

 フローリングに転がって、ぼうっと天井を見上げた。

 そのうち、ぼくはすっかり意識を手放してしまっていた。どんな夢を見たかは覚えていないが、頭には空白が確かに残っていた。あの、天窓からの光のような空白が。

 

「ただいまぁ」

 母さんの声で目が覚めた。全身がぶるりと震え上がる。どうやら冷房を強くしたまま眠ってしまったらしい。

 目をこすりながら、呆れ顔の母さんを見上げる。

「こんなに寒くして。風邪を引くわよ」

 母さんがリモコンを取り、温度を調節した。すぐに室温が上がりはしないが、冷風が身体に吹きつけてこなくなった。ぼくは自分のざらついた肌を撫でる。

 そうしていると、母さんがぼくの頬に手のひらをあてた。白く滑らかな手だ。銀色の華奢なブレスレットがしゃらりと揺れた。

「冷たくなっちゃって」

 赤い唇の端が上がる。派手なルージュが笑みを強調させていた。その色がぼくにはきつく感じられる。

「母さん、どこに行っていたの?」

 問いかけると、母さんの顔がかすかに強ばった。予想通りの反応にぼくは確信した。

 母さんだってそのことに気づいているはずなのに。

「ちょっとね。お買い物」

 なんて、はぐらかす。先ほどとは全く違う笑みが空しかった。喉の奥がヒリヒリ痛みだす。

 ぼくの母さんは、男と浮気していたことが原因で父さんと離婚した。ほんの一ヶ月前のことだ。ぼくは、母さんがこう言ってくるまで全く知らずにいた。

『父さんと母さん、離婚するけど、アナタは私についてくるわよね?』

 そのときのショックと言ったら、今も思い出すだけで胸が抉られるほどだ。母さんは何事もあけっぴろげすぎて、自分が浮気していたことも、また父さんをもう好きではないことも、全部全部ぼくに話した。それらは、ぼくが受け止めるには重すぎた。

 でも、ぼくは母さんについていくことを選んだ。心を傷つけられながらも悟ったからだ。母さんはぼくがいなくちゃ、もっともっとダメになる、と。

 今だってそうだ。前のときは洗いざらい話したくせに、少しは反省したのか言いにくそうにしている。尤も、ぼくにとってはそんな態度も苦しいのだけれど。

「アイスクリームも食べたら放ったらかし!」

 母さんがぼくの食べたアイスのカップを持ち上げる。その背中は大きく開いて、小麦色に灼けていた。

「だらしないんだから」

 と母さんが振り向く。ぼくは俯いて、その笑みを見ないようにした。手を組めば、指先まで冷えきっていることがわかる。同じく冷たい足先を自分の部屋へと向けた。

「まったくもう」

 と母さんがその場で呟く。そのときには、ぼくの顔に自室からの熱風が吹きつけていた。リビングとの温度差に驚く。

 以前とは違うぼくの部屋。ベッドにかかるシーツは起きたときのまましわくちゃになっている。床にはまだ段ボールが並び、整理しきれていない。

 机の上のリモコンを取ると、また冷房を効かせた。汗ばんだ肌に冷風が心地よい。そのままベッドへ寝転がり、大きく息をつく。胸の鼓動が身体を押し上げているように感じられた。

 窓に目をやる。そこにはユニを白く照らしていた太陽が見えた。そろそろ日没なのか黄色味を増して、窓全体を飴色に染めている。こんな涼しい部屋にいると、外に腕を伸ばしてみても、届かないように思えてくる。

 またも睡魔がぼくを襲った。ここ最近、冷房を効かせすぎているのか身体がだるい。瞼が自然に閉じていった。

 

 次の日もユニはらせん階段に腰掛けていた。

「会いに来てくれたの?」

 ユニが嬉しそうににこりと笑う。ぼくらの周りを相変わらず太陽が照らしていた。

「昨日、様子がおかしかったけど大丈夫?」

 華奢な造りになっている階段の手すりにユニがもたれる。古いのか、ぎしり、と音が鳴った。ぼくもその場で座り込む。

「お前はいつもおかしいけど大丈夫?」

 無愛想に返事をすると、ユニの笑みがさらに大きくなる。白い頬が陽の光で輝いていた。

「大丈夫だよ、心配されなくても」

 夏の暑さは、表面だけをなぞるように人の輪郭を縁取る。それは肌を伝う汗も同じ。夏というのは、人を、理由もなく舞い上がらせる季節だ。

 ぼくの口元に浮かんだ笑みも、きっとそのせい。

 それから、ぼくらは特に話をするわけでもなく、ただ階段の上に座っていた。真っ昼間だったから誰も通ることなく、ぼんやりすることができた。それだけなら一人でいても同じはずなのに、どうしてだかその場を離れられなかった。ユニもそうだったのだろうか。それとも、ぼくという存在に気をかけずに、一人で思考に耽っていたのだろうか。ユニの節目がちの目をまつげが覆っている。

 その視線の先には、くるくる回るらせん階段。黒い幾何学模様の手すりがそのラインをなぞり、下へ下へと続いている。出口でもあり入り口でもある玄関口からは目も眩むほどの日が差していた。天窓からのものとは違う、剥き出しの輝きだ。ぼくは尻から根が生えたかのように動けなかった。果たして昨日はどうやって外へ出たのか、それさえもわからない。

 この場所も熱気がこもって、息苦しいほどなのに。

「ぼく、このらせん階段好きなんだよね」

 突然ユニがそう言った。揺らしている足にはクロックスを穿いている。ズボンの裾から覗くくるぶしは骨張っていて、とても細い。

「何だか道を教えてくれているみたいでさ。きっと、ぼくがここに暮らしているのも、このらせん階段があるからなんだ。そうじゃなかったら、きっと、ぼくは自分ちの外にも……自分の部屋からも出て来れやしない。どうやって歩けばいいのかもわからないから」

 そのように語るユニの口元に張りついた笑みは、どこか冷たかった。瞳はずっとまつげの下に隠され、今ではその上に長い前髪まで垂らされている。

「カメラであのカップルを撮っていたのも、らせん階段のおかげ?」

 ぼくが訊ねると、ユニはかすかに頷いた。

「そうだよ。ああいうことは、ぼくにとっては眩しいものだから」

 そう言いながら、ユニが上を向く。前髪が左右に分かれて、表情が露わになる。灰色の瞳が光っていた。

「届かないものって眩しく見えるんだよ」

 ぼくも同じようにすると、そこで青空がざくりと切り取られていた。

「ここだけ違う世界みたいだ」

 思わず呟く。ユニの抑えた笑い声が聞こえた。

 ガラス越しの光は鋭利で、真っ直ぐに届く。その中でぼくの身体は熱くなり、心臓も早く脈打つ。ぼくはしばらく窓越しの空を見つめていた。時折、鳥が横切ったり飛行機が影を落としたりした。それらが外の世界を唯一感じさせた。ぼくは、ただ冗談のように狭い空に身体を溶け込ませていた。

 ユニも余計なことは言わずに、じっと横に座っていてくれた。ユニにとってはもう見慣れたものなのか、少し上を向いただけで、あとはひたすら足下に伸びる階段を目で追っているようだった。

 

「ここは秘密基地になったね」

 ある日、ユニが携帯ゲーム機をのぞき込みながら言った。ぼくはシューティングゲームに熱中していて、何となく聞いていただけだった。

 ぼくの操作一つで、敵がどんどん撃ち落とされていくのは快感である。

「ボクの社会的活動のための」

 ユニの肩がぼくの二の腕にあたっていた。汗のせいでぴたりと密着するように感じた。

「こんなことが社会的?」

 と訊ねたら、ユニは一瞬だけ言葉に迷って、

「ボクにとっては、だよ。他に会う人もいないもの」

 腕に伝わる振動から、ユニが笑っていることがわかる。ぼくはボタンを連打して敵を撃墜していく。辺りに電子音が鳴り響いた。

「キミは砲台を任された人みたいだね」

 ユニが液晶を指した。棒きれのような人差し指だった。

「邪魔だよ」

「あ、ごめん」

 ユニの指が引っ込むと同時に、敵の弾がぼくの機体に当たった。残機が『×1』から『×0』へ減る。小さくため息をついた。

「ごめんったら」

 ユニがそう繰り返す。ぼくとしてはそこまで怒ってはいないつもりだった。休止ボタンを押して、ユニと向き合う。

「そんな謝らなくていいよ」

 自分でも無意識に苛立っているのがわかった。声の調子にどきりとする。ユニはばつの悪そうな顔をして、いつものように足を投げ出し、ぷらぷらさせていた。

 ぼくも何だかゲームをする気をなくしてしまい、電源を切ると天窓を見上げる。

 ふわりと鳥が羽根をひろげて飛んでいった。影がぼくの身体をぬるりと滑る。

 どうしたら、こういうのってコントロールできるのかな? なんてことを考えた。自分でもわからない感情の揺れ。それが勝手に表へ浮き出ては、ぼくを不安にさせる。もっと器用になりたいと願っているのに。

 再びため息をつくと、ユニが息を飲むのと重なった。

「どうした?」

「ちょっとボクんちに来てもらってもいい?」

「え……」

 いきなり何を言うんだろう、と首を傾げてしまう。ユニの顔は白い日差しよりも真っ白になっていた。

 下に何があるのかと見ようとしたが、ユニの骨ばった手に遮られる。

「なに? 何を隠してるんだ?」

「いいから。さっさと、こっち来なよ」

 普段のユニからは考えられないような力強さで、顔の向きを変えられた。ぼくはますます不安になったが、とりあえずされるがままにしておいた。

 ユニの家はぼくの家がある階の一つ上にあった。表札には簡単に「佐伯」とだけある。

「お邪魔しまーす」

 と言うものの、返事はない。ドアを開けた向こう側は、昼だというのに真っ暗だ。

「家族は少し離れたところに住んでいるんだよ。夕方になったら、お手伝いさんが来るの」

 靴を脱ぎつつユニが教えてくれた。ぼくと年が違わないはずなのに、何だか妙な感じだ。

「それってどうして?」

「一緒にいるとぼくが狂っちゃうから」

 さらりと言ってのけているが、冗談なのだろうか。ぼくの家と同じ造りの廊下を渡りながら、ユニの背中を追う。

 こうして見ると、改めてユニが細いことがわかった。暗がりでも、昼間の太陽の明かりが周囲をかすかに照らしているのか、白いシャツの下の身体が浮かび上がっている。

 廊下の向こうにあるリビングはテーブルしかなく、殺風景だった。こんなところに住んでいるのか、と驚く。

「テレビとかは、そこの充電器にあるスマートフォンで見れるからいいんだよ」

 ユニがぼくを振り返る。言われたとおり、ユニが足先で示すほうを見た。充電器に差し込まれているスマートフォンは、ユニが暮らす世界を体現しているかのように小さく感じる。

「そこらへんに座ってて。お茶でも入れてくる」

 そう言ってユニがブラインドを上げた。しま模様の陽の光が部屋に飛び込んでくる。ぼくは目を慣らそうと瞬きをして座った。この部屋は南向きのために太陽の明かりを取り込みすぎる。

 それにしても、今の今、ブラインドを上げたのは単に家へ戻ったからだろうか。それとも元からブラインドは上がっていないのだろうか。そんなことが気になって、キッチンにいるユニを盗み見る。ただ麦茶をグラスに注いでいるだけなのに、そういうユニがやけに異様に映った。

「おまちどおさま」

 グラスを直に持ったユニが、ぼくの向かい側に腰を下ろした。氷を入れてキンキンに冷えたグラスが気持ちいい。

「クーラーとかないの?」

 ぼくがグラスに頬をあてると、ユニが「ああ」と返事した。

「ボク、あんま点けるの好きじゃないんだよね」

 とは言いつつも、リモコンを探してくれる。ピ、と電子音が響くと冷風が吹き込んだ。急に室内にはびこる陽光が褪せたように見える。

 しばらく、ぼくらは麦茶をちびちびと飲んでいた。最後のほうは氷も溶けきって、生ぬるい液体と化していた。飲み終わったあとも口をグラスから離さなかったのは、良い話が思いつかなかったからだ。

 ユニの住む部屋には、話題にできるものもなかった。テーブル、冷蔵庫、スマートフォン、その他必要最低限のもの。それ以外には何もない。

「ユニはゲームとかする?」

 ぼくが何とかこんな質問をしたけれど、

「ううん」

 としか返ってこなかった。それで、話はおしまいだ。

 らせん階段ではあんなに話せるのに、どうしてだかユニの部屋では口を開くことすら難しかった。ただ外から射し込む光と、それを背に受けるユニだけがリアルだった。

 帰り際、ぼくはユニに尋ねた。

「こんな何もないところで退屈しない?」

 それに、ユニは口元を笑みの形にした。笑った、というよりはそういう表現が似合った。決して作り笑いではないけれど、何というのか、習慣でそうしているような雰囲気だった。

「奥にある部屋はもう少しモノがあるよ」

 ぼくは「へえ」と言い、

「今度はそっちに行ってもいい?」

 なんて質問を重ねたけれど、ユニは首を横に振った。

「ダメ。今日は、緊急事態だから呼んだだけ」

 実際、そのとおりだったんだろう。ぼくがユニに部屋まで誘われたのは夏休み中ではこれきりだ。その後、ユニはこの時間帯にはらせん階段に来なくなり、ぼくも自然と足が遠のいたのだった。

 

 ぼくは滅多にアパートから出ていかなくなっていた。ユニといるときも、一人でいるときもだ。ユニは元からそうらしいが、ぼくは違う。元はといえば、サッカークラブに入っていたし、友達だってそんなに少なくはなかった。それがこっちに越してからは会うのはユニだけ、らせん階段に行く以外は部屋にこもりきり。自分でもダメだとは思っていたし、そろそろ夏休みも終わるんだから生活習慣を元に戻さなければと考えてもいたのだけれど。

「ねぇ、こういうのがあるみたいよ」

 母さんが、近くの公民館でやるような親睦会のチラシを見せてくるたびに、

「いいよ。行かない」

 と言ってしまうのだ。最近、母さんはどうもぼくを外に追いやりたいらしい。理由は何となくわかる。だからこそ、ぼくは最後の最後まで――せめて夏休みが終わるまでは粘ることにしたのだ。

 もちろん、ユニには知らせていない。

「きみ、外には行かないの?」

 それなのに、こんなことを言ってきたのだ。今日の空は雲に隠れて灰色だった。

「どうしてそんなこと訊くんだ?」

「いや、何となくだよ」

 心なしか、ユニの顔がひきつっているように見える。今日は日差しもないせいか、青白い顔がさらに真っ青になっていた。首をひねる。

「何だかお前らしくないな」

 ぼくはきっと凄い目つきになっていたことだろう。ユニの一挙一動を観察して、その態度の裏にあるものを探っていたのだから。でも、ユニはポーカーフェイス。すぐに笑みを顔に張りつけることくらい訳ない。

「ボクらしいって? ここのところ、ちょっと喋ったくらいで、そんなのわかるものなの?」

 相変わらず嫌みったらしい言い方をする奴だ。ただ、ぼくも既にそんな態度には慣れてきていた。

「じゃあお前もぼくのことわかんないだろ。ほっとけよ」

 そしてユニもこんな素っ気ないぼくには慣れているのか、軽く流すように、

「まーね。じゃ、変なこと訊いてごめん」

 と目を細めた。こんな薄暗い場所では、ユニの口の端にできるえくぼが年寄りのしわのように見える。若干猫背で、手を後ろで組む癖があるので、余計にそう感じられた。

「あ、そういえば」

 と、ぼくはあることに気づく。ユニが目をきょろりと動かした。

「最近、カメラ持ってないな。あれ、どうしたんだ?」

 灰色の瞳が一瞬だけ見開かれる。ぼくはそれを見逃さなかった。そのことはユニだってわかっていたはずだ。

「ああ、だってずっと持ってると重いから。きみがいなくなったときに持ってくるんだよ」

 その上で誤魔化すのは、何かがあると思わせるのには充分だった。それで、その日はもうユニと一緒にいるのも辛くなって、普段よりも早く家に帰った。

 家では、色んなことを考えた。母さんのこと、ユニのこと。外のこと。自分のベッドの上で、冷房を効かせながら布団にくるまりつつ、考えに没頭した。

 ユニはぼくの母さんのことを知っているのかな。母さんも、ユニのことを知っているんだろうか。二人が知り合いだったら、ぼくのことを話したりするかな。そうしたら、どんな話をするだろう。ぼくが外に行かないことを、二人して不思議に思っているのか。

 だから、ああいう物言いをした? 自分の熱で温まった布団の中だと、それが本当らしく思えた。すなわち二人はグルでぼくを外に追いやろうとしている、と。そう考えると筋が通るんだ。ユニが突然ぼくを自宅に招いたのも、母さんがぼくを追いやろうしているところで、ユニがああいうことを言ったのも全部。

 その考えにとらわれていたら、当の本人が帰ってきた。インターホンの音に飛び起きて、ドアを開ける。汗で化粧が崩れた母さんの顔がそこにあった。

「ただいまー」

 と言われ、ぼくはドアをさらに開いた。入りやすいように、と特に意味などなかったのだが、それで気づいてしまった。

 階段を足早に降りていく男に。ぼくはぎょっとして、動きを止める。

「……? どうしたの?」

 母さんがドアに手をかけて、ぼくを覗き込んでくる。果たして、ぼくがあの男を見たと気づいているのか、いないのか。まだ肌にこびりついている化粧が表情を隠している。

 その夜の食卓で、ぼくは母さんに訊いてみた。

「いつも、こんな暑い中、どこ行ってるの?」

 母さんは散々はぐらかしたあと、結局、答えてくれなかった。

 

 そして、ぼくは決めた。ユニがそのカメラで写しているものが何なのかを探ろう、と。

 決行したのは翌日、午後四時過ぎだった。曇りではあるが、夏という季節のために辺りはまだ明るかった。階段から少し離れた角で、ぼくは現場を注意深く見守っていた。

 そこへユニがカメラを持ってやってくる。心臓がどくんと鳴った。ユニは白いスリッパをぱたぱたといわせて、らせん階段の真ん中辺りまで降りている。

 ユニの背中は小さくて、ちょんと押したら倒れそうだった。カメラの重みで猫背が酷くなっている気もする。

 と、ゆらりとユニの身体が揺らいだ。カメラを構えたのだ。

 そろそろか、とぼくも視線を階段の下へ向ける。しかし、ここからでは上手く見えない。これ以上そばに行ったらわかってしまうだろうし、難しい。

 迷っている間にユニがシャッターを押し始めた。ぱしゃり、ぱしゃり、と音がする。こんなに曇っていてもフラッシュは焚かないようだ。

 いったい、何を撮っているんだろう? ぼくはユニの持つカメラをじっと見つめる。液晶画面がついているので、このご時世では当たり前だがデジタルカメラらしい。

 ということは、撮ったものはすぐに確認できるということ。ぼくは、自分が今、気づかれないように隠れていたことに感謝した。

 そのうちカメラの音がやみ、ユニがその場から離れだした。その手の中のカメラには、下で何が起きていたかが収められている。

 頼むなら? 今だろう。ぼくはユニがこちらまで近づいてくるのを待つことにした。何も知らないユニは、カメラを胸元に抱いて、ゆっくりと階段を上っている。もう少しで、ぼくのいる階に来る。その瞬間に駆けだした。

 階段を上りきる直前で、ユニの動きが止まる。肩をぴくりと震わせていた。ぼくは通せんぼでもするかのように両腕を横にあげる。

「そのカメラに、何が写っているんだ?」

 その場から進めず、ユニがたじろいだ。それでも、ぼくは通してやらない。それどころか一段下りて、ユニににじり寄った。こうなると流石のポーカーフェイスも崩れて、カメラをぎゅっと自分の身体に押しつけている。

「どうしてぼくに内緒にするんだ」

 声が苛立っているのがわかる。ぼくには、気を遣う、ということができない。何事にもありのままでしか向き合えない。だからこそ、感情の振れ幅が大きくて自分では抑えきれないことも多い。

 それで人から隠し事をされるんだってこともわかっている。でも、だからって何ができる?

「寄越せよ」

 ぼくには、ユニからカメラを奪うことしかできなかった。ユニは嫌だとでも言うように首を横に振る。カメラを自分の身体で隠そうともする。だが、残念ながらぼくのほうが力は上だった。カメラはすぐにぼくの手の中に収まり、ユニから引き剥がされる。

 ユニが後ろに倒れそうになったのを、腕を掴んだ。そして、自分が立つ階の踊り場まで引き上げると、手を離す。ユニの身体がまたよろめく。

 そんなことはお構いなしに、ぼくはカメラのデータをチェックしていた。家にあるものを何度か触ったことがあるので、勝手はわかる。すぐに写真のデータが液晶に映った。……ぼくは、特に驚きはしなかった。

 わかってはいたんだ。こういうことなんだ、って。

 そこには母さんと例の男が口づけしているところが映っていた。日付を確認すると、今日、たった今の出来事。ぼくが見ることができずに悶々としていた光景だった。

 さらにチェックすると、無関係の写真もちらほらあったが、例の男が色んな女と口づけている写真が多くを占めていた。この男、何股しているんだというくらい、女を取っ替え引っ替えしているようだ。その中にぼくの母さんも入っていたという訳だ。

 それだけの話。ぼくはふうん、とつまらなさそうに漏らした。ユニはぼくの顔色を伺って、落ち着かない様子で縮こまっている。

 ぼくはそんなユニを見て笑った。

「そんなにして、お前らしくないな」

 でも、その笑みは普段のユニよりは上手じゃなかった。自分でも顔の筋肉がひくついているのがわかる。

 あんまり酷い出来なので、ユニも表情を取り繕うことができないみたいだ。

「ボクらしい、って何さ。それに、きみこそきみらしくないよ。そんな無理してさ」

「そうかい?」と口の端を持ち上げてみる。余計に醜い顔になった気がした。

 ユニが続ける。

「そうだよ。きみって、そういう……感情を隠すような真似が本当に下手だから。見苦しいし、止めたほうがいいよ」

 その灰色の瞳が、ぼくを映す。きらきら濡れた目が、ぼくの心も揺らす。

「お前みたいにはいかないな」

 ぼくは大げさに肩を落とした。演技がかった動きで、手のひらをユニへ見せる。

「お前は、そういうのが得意なんだろ。おかげで今まで気づかずにいられたよ。それについては、ありがとう」

 あえて傷つくような言葉を選んでしまっていた。

「良かったら、この写真ぼくにくれる? 母さんと話し合ってみるからさ……」

 そう告げたとたん、ユニがぼくを引き寄せた。らせん階段から落ちそうになる。ぐらりと身体が揺らいで、とっさに階段の手すりに掴まった。

 その瞬間にユニから平手打ちをくらう。ぼくは頬を手で覆いつつ、相手をじっと見る。

 そうしていたら、ユニがぼくからカメラをひったくった。灰色の目には怒りが滲んでいる。

「ボクだって好きで隠してたんじゃないよ」

「わかってるよ、ぼくが可哀想だからだろ。お気遣いありが」

「そんなんじゃないよ。ボクは、きみの母さんのことなんて知らないもの」

 ユニの顔は真っ赤だった。普段なら絶対に見せないほど取り乱している。

「ボクは……」

「もういいよ。無理して嘘を言わなくても」

 ぼくはユニのほうを見ないで、そう告げた。もう何も聞きたくなかった。ただ、自分のことだけで頭がいっぱいだった。

 そんなぼくを、ユニが怒鳴りつけてくる。

「勝手に、そう思っていればいい!」

 そうして、ユニは背を向けて去っていった。それから三日間、ユニはらせん階段には現れなかった。三日後、現れたと聞いたときには話すことができない状態だった。何故ならいつも会っていた踊り場から身を投げたからだ。それも、大量の口づけの写真とともに。

 

「由仁は命に別状もないし、後遺症もないだろうって」

 ぼくにそのことを伝えに来てくれたのはユニだった。……ユニそっくりの顔の、長い黒髪がきれいな女の子だった。白を基調としたワンピースと、かすかに膨らんだ胸元の小さな青いリボン。どこからどう見ても女の子だ。

「きみはだれ?」

 玄関前に立つ女の子に訊いた。ユニと同じ顔は表情を変えようとしない。ポーカーフェイスなところまで同じらしい。

「あたしは佐伯樹里(さえき・じゅり)。由仁の双子の妹」

「双子……」

「一卵性のね。似てるでしょ?」

 そう言って、樹里が唇をなぞる。見上げてくる瞳は灰色だった。

「やっぱり話していなかったのね」

 樹里の言葉に、ぼくは首を縦に振る。

「由仁に友達ができるなんて珍しいから、もしかしたらとも思ったんだけど。そこまでは、やっぱりないわよね」

 彼女はまた唇を指でなぞる。どうやらこれが彼女の癖のようだった。

「ねえ、どうやって由仁と仲良くなったの?」

 ぼくは彼女にこれまでのいきさつを話した。ユニがらせん階段で男女の口づけている写真を撮っていたこと、それを見かけたのが出会いだということ、そのあと二人でアイスを買いに行ったこと……数日前にユニのカメラのデータを無理矢理見たことも。全部話した。

 それを聞いて樹里は納得したようだった。

「由仁のカメラの中身はあたしも見たことなかったから。キスがどうのの写真のことは知っていたけど」

「妹なのに?」

「妹だからよ。由仁はあたしのことが嫌いだから、あなたよりも見られたくなかったと思う」

 ほとんど口調を変えないが、この子は何故ここまで堂々としているのだろう。実のきょうだいに嫌われていると知っていながら。ぼくは疑問には思ったが、触れることはしなかった。

「見られたくなかった、って……」

「大人が色々と調べるでしょ。それで、見ちゃったの。中身。由仁がかわいそうになっちゃった」

 樹里が本当にそう思っているのか、表情からはわからない。ただ、ぼくは不思議に思う。

「かわいそうになるような写真なんて、あったかな」

 するりと滑りでてきた言葉が、樹里に初めて表情らしいものを浮かび上がらせた。彼女は眉をひそめて、ぼくに問いかける。

「見てないの? それじゃ、なんで由仁はショックを受けたの?」

 そうは言われても、ぼくは何とも答えられない。

「わかんないよ。ぼくだって、色々と事情があって、だから関係のないものは」

「関係ないって、どうして?」

 樹里の口調はぼくを責めているようだった。よく見れば、彼女の灰色の目は最後に会った日のユニと同じように揺れていた。

 そこに映っているのも、あの日と似たぼく。

「あなた、たぶん何も知らないのね。だから、そういうこと言うの」

 彼女は身体を少し傾け、あごをしゃくる。

「気は進まないけど、ちょっとついてきて」

 その先にあるのはユニの住む部屋だった。一度行ったきりで、しかも何もないリビングまでしか通してもらっていない。何だか悪い気もしたが、実の妹がついてこいと言うなら、とぼくは足を運んだ。

 ユニのうちは太陽の光が差し込み、明るかった。

「こっち」と、樹里がリビングを突っ切っていく。後に続く。ぼくの部屋と同じ位置にある部屋に入っていった。おそらくユニの部屋なんだろう。真っ白いベッドに、木目のある勉強机、その上にはノートパソコン。それと、壁にはコルクボードが掛けてあった。

 ボードには数枚の写真が飾られている。

「本当はあの口づけの写真もボードにあったらしいけど」

 樹里の声が遠く感じた。ぼくは、ボードを見て固まっていたのだ。

 そこには、この部屋の窓から写したのだろう、ぼくの写真が張られていた。小さすぎてわからないが、冴えない顔で窓の外を見つめているはずのぼくだ。もたれかかる窓に映り込んでいるのは、真っ昼間の太陽だったり、真っ赤に燃える夕陽だったりした。

「ユニは、ぼくを見ていたのか?」

 ぼくが空を見ているとき、ユニは下の階にいるぼくを見ていた。その事実が、ぼくの心を揺さぶる。

「それだけじゃないけどね。由仁は、ここに住む人なら誰でも撮っていたの。例の男が色んな女と口づけているところも、そのコレクションのうちの一つよ」

「どうしてそんなものを」

「憧れていたんじゃないかしら。由仁は、昔からどうやって人と接したらいいかわからなかったみたい。それで誰とも話そうとしなかった。家族ともね」

「でも、ぼくとは話をしたよ」

「だから珍しいって言ってるじゃない」

 ぼくは机のそばにある窓から外を眺めてみた。下のほうにぼくの部屋が見える。ぼくが空を見上げていた、あの部屋だ。それをユニはここから見下ろしていた。ちょうど階段の下を見つめていたように。ユニ。陽の光に透けそうな、不確かな存在。求めていたのは遠い空に昇る太陽みたいなものではなくて、もっと身近なもの。

「由仁はあなたのこと、友達だと思っていたのかしら」

 樹里がぽつりと呟いた言葉に、ぼくは応えることができない。

 いつも、ユニは何を考えていたんだろう? 人々の営みの中で、口づけに特に関心を寄せていたユニ。それが意味するものは、なに?

『届かないものって眩しく見えるんだよ』

 ユニの言葉を思い出しながら、樹里に訊ねてみる。

「口づけって何を意味していると思う?」

 ううん、と樹里が唸った。自分でも難しい質問だとは思う。それでも、樹里は真剣に考えたらしく、眉間にしわを寄せつつ答えてくれた。

「『交流』かしら。恋人同士でも、何でも、交流のある人とするものでしょ?」

 そうだ、ユニは言っていた。

『ここは秘密基地になったね。ボクの社会的活動のための』

 ユニは家族とも離れていたのに、ぼくとはいつも話してくれた。それは、ユニにとっては大きな出来事だったはずだ。どうしてぼくだったのかは、きっと、ぼくが同じように階段で踏みとどまっていたからだろう。でもユニは知っていた。

 ぼくが「結局は自分とは違う人間なんだ」と。

 そして、ぼくにはそれがわかっていなかった。ユニのことを何も知らないくせに、そんな事情に踏み込もうともしなかったくせに、勝手にこうだと決めつけて、ユニの心の弱いところに土足で上がり込んだのだ。

 それで、ユニの領域を汚してしまった。だからユニは階段から飛び降りた。あの場所は、もう安全な秘密基地ではなくなったから。ぼくの手によって、蹂躙されてしまったから。

「バカだ、ぼく」

 それに気づいたとき、ぼくは自分の領域もぶち壊してしまったことも知った。あの階段は、もう、ぼくらの場所じゃなくなってしまったのだ。

 

「ねぇ。飛び降りたっていう、上の階の子、あなたのお友達ってほんと?」

 その日の夕方、帰ってきた母さんが、ソファに寝転がっているぼくのそばまで来た。化粧を落とし、薄褐色の唇をきゅっと引き締めている。その表情は真剣そのものだった。

「そうだよ。なんで知ってるの?」

 ぼくが涼しい顔で答えると、母さんは息を呑んだ。

「なんで、って……あなたこそ、どうして教えてくれなかったの。辛かったでしょうに」

 久々に間近で見た母さんの顔はすっかり青ざめている。ぼくはそれを知っていながら、

「そりゃ悲しいけど。母さんに言ってどうにかなるものでもないし」

 と可愛くない返事をした。それに、母さんは冷房の効いた部屋で露わになった腕をさする。

「あたし、信用ないのね」

 その声はひきつっていて、瞳はぼくをじっと見つめていた。

「最近、あなたって何も話してくれない。あたしだって理由はわかるけど。自分のやったことが原因だって」

 母さんは涙を浮かべても、ぼくから目を離さない。

「でも、でもね、あたしはあなたの母親なの。もっとあなたのことは知っておきたいのよ。やったことは許してもらえなくていいけど、あなたの味方でありたいの。だから、教えてよ。あたしは、どうしたらいい?」

 ぼくは床を見た。でも、フローリングの木目なんて本当は目に入っていなかった。ぼくは目の前にあるものを見たくなかっただけだ。

 それなのに母さんはぼくの頬をそっと撫でてくる。

「すべてをありのままに話して、許してもらえばいい? それとも、こんなことをしないで、嘘をつきながら、ぜんぶ我慢しておくのが一番なの?」

 その感触がぼくの心に響く。操られたかのように前を向いて、真正面から母さんを見た。母さんの顔はぼやけていて、白い顔や褐色の唇、茶色の髪などすべての色彩が滲んでいる。

 頬に流れる涙を感じた。

「ごめんね……あたしバカだから。言われないと、わからないから。でも嫌なの。あなたに、そんな顔でいられるのは、死ぬほど嫌なのよ!」

 母さんの胸元に抱き寄せられると、涙がどんどん溢れてきた。冷たい部屋の中で、母さんの身体だけが温かい。

 涙と共に、これまでため込んできた言葉が吐き出された。

「ぼくだって、嫌だった。母さんが父さんと別れて嫌だった。若い男と一緒にいるのも、何もかも!」

 嗚咽混じりで、聞き取りにくかったかもしれないけども、母さんは辛抱強く聞いてくれた。ぼくは、この日、初めて母さんと向き合った。今まで言えなかったことを、すべてぶちまけることができた。

 そして思った。自分はこれまで何て愚かだったんだろう、と。

 そうしたら、ユニに会いにいきたくなった。

 

 ユニは後一日で退院するという話だった。それでも、ぼくは病院まで足を運んだ。外に出るのは何日ぶりだっただろう。直に感じる日差しは肌を貫くようだった。

 ただ青空は綺麗だった。あのらせん階段から見る天窓のように切り取られてなんかなくて、空はずっとずっと遠くまで広がっていた。

 そのことをユニに伝えると、覇気のない様子で、

「ふうん」

 と言われた。しばらく見なかったユニはすっかりポーカーフェイスが崩れてしまったようだ。病室の白い壁や白いシーツがユニをいっそう不健康に見せている。

「母さんも、お前に早く元気になれ、って」

 その母さんに持たされた花束を花瓶に活けつつ、伝言を伝えた。ユニが顔をしかめる。

「なに? あんだけボクに文句言っといて、お母さんと上手くやってんの?」

「おかげさまで」

 それに対し、ぼくは行儀よく告げた。ユニが包帯の巻かれた手で髪をかきあげる。

「きみって、ホント勝手だよ」

「そうだな」

「まぁ、良かったけどね。仲直りできたなら」

 ユニはそう言うと、微かに笑った。その拍子に掛け布団がずれて、足下の包帯がちらりと見えた。もうすっかり良くなっているとは聞いたものの、胸が痛む。

 ぼくはその場で立ち上がり、背筋を伸ばした。

「何やってんの」

「ごめん!」

 勢いよく頭を下げると、ユニの「え」という声が聞こえた。次いで呆気に取られたように質問を繰り返される。

「いや、ホント、どうしたの? 今日のきみは何か変だよ」

「ごめん」

「それって何に対して謝ってるの?」

 ユニは背中を丸めて居心地が悪そうにしていた。ぼくもつむじを見せたまま、胸をどきどき言わせている。でも、ぼくは知っていた。これじゃ駄目なんだと言うことを。

 だからこそ、また背筋をまっすぐにしてユニを見据えた。ユニの不安げな灰色の瞳と視線が絡む。

「ぼく、今までお前のことを何も知ろうとしなかった。だから、自分勝手になってたと思う。でも、これからはちゃんとわかろうと努力するから。たとえ、それが思い違いだったとしても、頑張るから」

 舌がもつれて、頬も熱くなる。

「もう、お前にこんなことさせないから」

 ぼくの言葉に、ユニも戸惑っているようだった。胸元に手をあてて、目を泳がせている。

「……ねえ、ボクのこと……面倒だと思わない?」

 ぼくはユニの手を両手でぎゅっと握った。

「そんなことないよ。そんなことは絶対にない」

「だってボクはみんなのこと面倒だって思ってるよ」

 ユニが叩きつけるように言うと、ぼくを睨みつけてきた。

「ボクには誰の気持ちもわからない」

 その目はぼくを見ていながら、ぼくを見てはいなかった。ユニは記憶の彼方にある、これまで出会った人たちのことを思い浮かべているようだった。そして、その先にぼくがいるのだと考えているらしい。

「みんな、最初は『自分だってそうだよ』って言うんだ。でも、そのうち、ボクのこと可哀想だと思うようになる。まるで大人みたいな目をして、ボクを見るの」

 その上でユニは断言する。

「そういうものが、重たく感じられたりはしない?」

 これまで聞いたユニの言葉の中で、一番、素直に胸へ響いた。ぼくは唇をぎゅっと噛む。

 ぼくとユニは違う人間だけど、とても似ているところがある。お互いに、相手がこうだと決めつけてしまう。それは、相手に自分の領域へ入ってほしくないからだ。

 つまり、相手に本当の気持ちを告げることができない。それを隠そうとして、わざとわかりづらい言葉を選んでは他人に失望している。

 ぼくは、そんなユニの手を取った。強張るその白い手に、軽く口づけする。

 口づけた場所に二人の目が集中した。真っ白に塗りつぶされた病室で、ただ一点だけ熱がこもっている。まるで二人の手の中に太陽があるみたいだった。

「ぼくは馬鹿だから」

 うつむきながら言うと、自然と目が潤む。

「ぼくは馬鹿だから、そういうことは言ってくれなきゃわからないよ。言ってもらわなきゃ、どうやって接すればいいのかもわからない。今も……迷ってる」

 ほとんど消え入りそうな声だった。ユニにちゃんと聴こえているのか不安なくらいだ。

「簡単に『置いていかないよ』なんて言えないし、ましてや『ぼくだって不安だ』なんて言ったら、傷つくだろ? それだから、ぼくはこう言う」

 それでも、ぼくはしっかりとその言葉を口にする。

「お前は友達だから。味方になってやりたいんだよ」

 ユニが、ぼくの手を握り返してくる。その手は細いし、まだ怪我のせいで弱々しかった。

 室内の沈黙を追い払うように、続けて言う。

「母さんが、今度、公民館の親睦会に行ってきなって」

 ユニの灰色の瞳がおずおずとぼくを見ていた。ぼくは、その目から視線を逸らさない。

「だからさ、あの階段をゆっくり下って、その先まで一緒に行こう。まだ怪我が痛んで充分じゃないだろうけれど、ぼくが支えるから」

「他のみんなは、ボクのこと友達にしてくれるかな?」

「それは誰だって初めはそう思うんじゃないの?」

 質問に質問で返してしまう。何故なら、ぼくは答えを知らないからだ。ぼくは、ユニについて何も知らない。だからこそ、お互いにこれからも質問を繰り返さなければならない。

 長い道のりになるかもしれないけど、覚悟はしている。

「まあ、ぼちぼち行こうよ。階段の向こうは曲がりくねった道ばかりかもしれないけど、それだけ寄り道だってできるんだよ」

 ぼくが言うと、ユニが慣れない様子ではにかんだ。

 

 ユニが退院したら、ぼくらは一緒に出かけるだろう。あのらせん階段を一段ずつ下って、外の世界へと。

 きっと、そこには大きな空が広がっている。

 

 

 


『モノクロームの色彩』熊猫二郎笹助

 今、世界は黒に包まれている。

 そして闇より生まれし黒に塗りつぶされたこの世界で、ひとりの男が昇っている。――階段を。

 男の足元には、見えない階段が伸びていた。否、見えないのではなく、本当は見えているのだろう。ただ階段は、世界と同じ黒に染まっているだけだ。階段がどれほどの長さで、その終わりがいつおとずれるのかは男にも分からない。昇り続ける理由はないが、だからといって足を止める理由も見当たらない。男に対して、階段を昇ることを強制する者は誰もいなかった。男は、いつだってひとりだった。

 一体いつから階段を昇っているのか、はっきりと記憶はしていない。ほんの一瞬ほど前からのようにも思える。しかし初めて階段に足をかけたのは随分前のことだったような気もしていた。

 至極曖昧な感覚。黒い世界に融けた男は、意識、そしてその存在すらも鮮明ではない。

 曖昧模糊たる存在の男ではあるが、意思はある。意思があることは明瞭だが、しかしながらその意識の流れは、鈍色のどろりとした粘液のようであった。


 * * *


 男はぐっと息をとめ、目には見えない右足を恐る恐るあげた。それをゆっくりと、わずかに前進させて下ろす。すると右足は左足よりも少し高い場所に硬質な何かを感じ取った。そこで軽く息を吐く。鼻からすうと息を吸い、再びとめる。それから右足裏で丁寧に擦るようにして、その場所の形状を確認する。

 凹凸はないか。

 奥行きは。

 幅は。

 傾きは。

 念入りにそこを探ってから、今度はぐっと歯を食いしばって、意を決した様子で体ごと左足を一歩進めた。すぐに体は安定し、そこでようやく男は大きく息を吐き出して、さらに何度か深呼吸をした。見えない背中にだらりと汗の伝う感覚だけが、いやに現実的だった。

 男は狭い踏面の上で慎重に体を反転させ、ゆっくりと上体を落とした。足元を手で探り、両足で踏みしめていた場所に尻を落ち着ける。居場所を失った両足を前方へと投げ出すと、下った階段に沿うように斜め下へと伸びた。

 下方に息づく黒は、上方で揺れるそれとは明らかに様子が違う。頭上の黒は、男に対していつだって無関心だ。時折一瞥をくれては、ふいとそっぽを向いてしまう。男がそれに追い付こうと足を早めれば、するりと身を翻して逃げていくのだ。それに比べ、足元に広がる黒は常に貪欲に男を求めていた。男を自身の内へと誘うように蠢いているのだ。ありもしない手で手招きをしながら、男の耳許に口を寄せ「落ちてこい」と声無く囁く。

 いつだって、そうだ。当然今この瞬間も、例外ではない。

 耳朶に感じる生温かな黒の誘惑に、ぞわりと身震いがする。男はたまらず瞼を閉じた。瞼の裏に宿る意思のない黒だけが、男の心にひとときの安らぎをもたらす。

 安堵の息を吐き、再び瞼を開けた時には、男を暗渠へと誘う化物は既に消え失せていた。


 しばらく心身を休めてから、男は再び階段を昇り始めた。

 ほとんど平坦といってもいいほどの階段が続く。けれどそれでも慎重に足を進める。段差の高さを足で確認し、鈍足ではあるが一歩ずつ確実に、そして着実に、先へ上へと男は進んでいく。

(上? 本当に僕は上へ昇っているのか?) 

 男の胸に不安が過る。視線を足元から階段の先であろう方向へ移す。しかしそこにはただ黒暗暗とした空間があるだけだ。疑問に対する答えは当然のように存在していない。

「ちくしょう……」

 男が悪態をつく。

(こんな階段、何の意味もありはしないのに)

 幻影じみた確かな現実を再認識し、男の胸の内にそんな思いが過る。

 そしてそれに追い討ちをかけるように、何かが男の右足を阻んだ。次の段差にかけようとした足が、前へと進んでいかないのだ。

 少し足を高く上げ、再び試みる。しかし、同様の結果に終わった。

「またかよ、くそ」 

 そう吐き捨て、ゆっくりと右手を突き出す。

 少しばかり腰を低くして、伸ばした五指で階段の蹴上部分を下からそろりと撫ぜた。

 膝と同じ位置からなぞり始め、それはすぐに股下の高さを越えた。さらには腰を、胸を越え、そのうちに段差はせいぜい男と頭ひとつ分ほどしか違わない高さだということが分かった。

 似たようなことは、これまでも数度あった。同じ高さ同じ奥行きの単調な階段が続き、男の心に余裕が出てきた頃に、奥行きが足底半分ほどしかない踏面が並んでいたり、よじ昇らなければならないほどの段差が不意に現れたりする。その度に男は、舌打ちをしながらそれでもなんとか乗り越えてきた。しかし今回の段差は、男が経験したことのない高さだ。

 段差に両手をかける。体をわずかに上下に揺らし、すうはあとそれに呼吸を合わせていく。

 は、と一際力強く息を吐くと同時に、十指に力を込める。

 つま先で踏面を蹴り、男は上へと跳び上がった。

 体が頂点まで浮き上がった瞬間に、すかさず支えていた十指を両腕へと入れ替え、段の上面を広く捉える。

 段鼻に腹を強く押し当て、その三点で体を支えた。足は既に踏面からは離れた状態だ。

「っく……」

 男の腹が痛んだ。思いのほか鋭利な段鼻が、柔らかな男のそこにめり込んでいる。

 痛みから逃れたい一心で、左腕を擦るようにして僅かに前進させてみるが、逃れるどころかむしろ激しさを増し、さらに男を襲う。

「うあああ……、あ……ああぁぁーっ!」

 喉が張り裂けんばかりの咆哮も、虚しく黒に融和していく。

 痛い!

 痛い!

 痛い!!

 粘液じみた男の思考が弾け、その断片が硬く鋭い刺へと姿を変えていく。それらが男の頭の中で、縦横無尽に飛び回る。

 眼窩の奥から飛び出さんばかりに暴れる刺からの刺激を堪えきれずに、男は思わず腕に込めた力を緩めた。

 ず、と体が滑る。

「あ」

 間の抜けた声が男の口から漏れた。

 するりと踏面を捉えていた両腕が浮いた。

 男を痛めつけていた段鼻からも、体は離れていく。

 しかしそれは、落下というにはあまりにもゆっくりとした速度だった。

(ああ、まいったな)

 男は、刺が抜け落ちたように思考した。

 背後から大きな腕に抱き寄せられる感覚。

 甘く、黒く、温く、どろどろとしていて、少しだけ優しげなものが、男の体を走り抜け、そして痺れさせていく。

(もういいか)

 心地のよい浮遊感に、男は瞼を閉じて身を任せた。


 そして男の元におとずれたのは、痛みに心を脅かされることのない、穏やかな覚醒。ゆっくりと瞼を開き、男は辺りを見渡した。

「ここは……?」

 仰向けに横たわっていた体を上半身だけ起こし、周辺に手のひらを滑らせる。柔らかな黒が、男の下に広がっていた。触れる限り段差はない。自分の下で平坦に広がる黒を男は撫でた。

 ふと、黒に触れる両手に僅かに力を込めてみる。するとあっさりと男の手はそこに埋まってしまった。

「ううっ……」

 手を包み込むぬめりを帯びた感触に、思わず男は呻く。自然と背筋が震えた。そして瞬く間に両肩までが、黒の沼に飲み込まれる。

 前のめりに体が傾いていく。

 自身の荒い呼吸音だけが、耳に届く。

 音もなく、男は沈む。

 男の顔がゆっくりと黒の沼との距離を縮める。

 やがて唇が、そこを捉えた。

 それは漆黒との口付けだった。

 黒は複雑に形状を変え、男の唇を激しく求める。

 男の口腔に舌のように差し込まれた黒の断片から、ぬるりとした何かが送り込まれてくるのが分かる。 

(ああ、なんて、甘い)

 舌が蕩ける感覚は、まさに恍惚。男は迷うことなくそれを嚥下した。

 痺れを伴いながら喉へと落ち、男の内部を侵していく。不快感はなく、むしろ穴を埋められるような充足感が男を満たす。

(黒が、黒だけが、僕を守ってくれる)

 ぼろ、と男の背中が欠けた。そこから崩壊が始まり、男の体はやがて形を失った。かつて男だった黒い砕片は、残らず沼に融けていく。

(ああ、僕は今、幸せだ)


 意識のみの存在となった男は、沼の底から薄ぼんやりと世界を見た。

 頭上で、淀んだ黒が微笑みかけてくる。それはこれまで目にしてきた、どこか幻想じみた存在ではなく、確かな形を持って男の前に現れた。黒く長い二本の手が男へと差しのべられる。沼の底まで伸びたしなやかな十指で、揺れる男の意識をそっと撫でた。くすぐったいような、照れくさいような、けれど不思議と心は安らいでいく。守られている、と男は感じた。

 黒に融和した今、男の心中に畏れはもはやない。

(怖がる必要なんて、はじめからなかったんだ。鋭い牙も、大きな口も、黒は持っていなかった。持っていたのは、僕を抱きとめたこの大きな両腕だけだ)

 黒の内に抱かれながら、男はそう思った。

 ゆら、ゆら。

 黒の沼底で男の意識が揺れる。ひたすらに階段を昇り続けるだけでは決して味わえなかったであろう、悠々とした心持ちだ。

 ここに男を急き立てるものは、もう何もない。完全な静たる漆黒の世界。


 もう何の意味もない階段を昇らなくてもいい。

 永遠にこの沼の底に沈んでいたい。

 忘れたいんだ、何もかも。 

 ×××のことも、××のことも、全部、全部。

 全部……? 何を、僕は忘れたかったんだ……?

 ああ……、もう、いい。


 男の意識の端の僅かに尖った部分が、ぼろりと崩れた。崩れたそばから、黒と混ざりあっていく。

(僕はもう、なにもいらない)

 男の意識は薄く広がる。黒の隅々まで。

 そしてついに、男は黒となった。


 * * *


 世界は黒に包まれていた。そして黒は、世界を見ていた。

 黒に染まった世界の中心に、長く階段が伸びていた。

 黒は正面から階段を見ていた。真っ黒なそれをしばらく眺めているうちに、あるひとつの考えが浮かんだ。希薄な意識を集中させ、一所に集める。意識はすぐに小さな球形を成し、階段の上にぽとりと落ちた。そして浮遊。階段の表面に沿って飛ぶ。不揃いな踏面と蹴上に時折ぶつかりつつも、階段を探っていく。

 しかし黒は、すぐにそれを止めた。止めざるをえなかった。そこに壁があったからだ。広い壁だ。意識の進入を拒むように、それは立ち塞がっている。階段は、その先にも続いているようだった。

 意識体は、次に壁を辿った。

 上昇。壁は反り返っていた。それに沿って飛ぶ。階段が真下に見えた。弧を描き、意識はすとんと落ちる。それを蠕く黒が優しく受け止めた。落ちたのは、沼の上――階段の根元だ。どろどろと黒が涌き上がる沼から、それは生えている。そう、それは確かに生えていたのだ。

 黒は集めていた意識を、再度散乱させた。不鮮明ながらも広角的な映像を、黒は捉えた。

 黒の沼から生える黒い階段。横から上から正面から下から、様々な角度から、黒はそれを見た。どの角度から眺めても、階段の向こうに広がるのは空虚な空間。それを挟んだ先には、壁。黒い壁。

 そのうちに、この空間が球状の壁の内にあるのだと黒は気付いた。そしてその壁が、自分自身であることにも。

 世界が黒に染まったわけではなかった。黒い壁の内に、階段は閉じ込められていたのだ。四方八方を壁で覆われたその姿は、まるで檻のようだった。

 黒はふるりと震えた。共鳴するように壁も微動する。 

 かつて、黒がまだ男の形を持ち、世界に光と闇、そして黒と白が存在していた頃、階段は長く高く伸びていた。否、今も光を纏った白い階段は、伸びているのかもしれない。狭い世界の内側しか見ていない、黒の知らぬところで。

 男が心の奥で望んだ、黒との融和。その結果生まれたのが、この極めて矮小な漆黒の檻。

 黒い壁の震えは止まらない。

 どこかがぴしりと軋んだ。

 狭く黒い球状の空間に、強い風が吹き抜ける。

 沼からぼこぼこと黒が涌く。その表面に広がった波紋は瞬く間に巨大になり、黒い津波が階段を遡上する。

 そしてすぐに壁に衝突し、飛沫があがる。その後、霧散。

 ぐにゃり、と壁が歪んだ。衝撃を受けた一部だけではない。壁全体、全ての黒が苦しみ悶えるように捩れる。

 その中で、階段だけは唯一不動だった。

 空気が抜けたように、黒は縮んだ。縮んだかと思えば今度は張り裂けるほどに脹れあがる。それが何度も繰り返された。

 そこに息づく黒の意識も、壁の変形に合わせて膨張しては収縮する。

 乱れた意識は、救いを求める手を伸ばす。伸ばした手は何にも触れることなく、そのままぐるりと自身を抱き締めた。

 自身の中に、ずぶりと手を埋める。意識の中心辺りに、長細い何かがあった。思わず掴み、引く。

 カチ、と微かな音がした。

 それが合図のように、意識は静止した。壁の動きも止まる。

 カタカタカタ。

 黒の無意識下で、回想が始まった。

 泥縄のような記憶を、黒は無意思で手繰る。


 かつてこの世界にも、光と闇があった。世界が、そして男がまだ白でも黒でもなかった頃のことだ。

 上方から光が差していた。そこから伸びる光の化身のような白い階段が、男の足元では灰色に変わる。男は遠くの白を時折ちらと上目で見ながら、灰色の階段を昇った。そして男が過ぎ去った後の階段は、黒く色を変えていき、やがて闇に融け、見えなくなる。

 そんな世界で、男は踏みしめた段数を数え、鼻唄すらもらしながら階段を昇っていた。時には焦らすように緩急をつけることもあった。またある時には、数段飛ばしで跳躍するように昇った。階段を高く昇っていくにつれ、男の気分も高揚した。

 そんな男が昇る灰色の階段に、それは頻繁に現れた。白だ。

 灰色に穴を開けるように現れた白に、光に満ちた純白の頂点のような清廉さを感じることは、男にはできなかった。むしろそれが汚点であるようにすら思えた。

「こんな白、僕はいらない」

 男は釜の中で煮えたぎるような妄執に憑かれたかの如く、白を何度も踏みしめ、躙り潰した。その度に白はたちどころに消滅した。白が消えるその様は、男の心に優越感と支配欲をもたらすには十分だった。

 白が現れ、そして消す。それを繰り返すうちに白は徐々に姿を見せなくなっていった。

「どうだ、僕の力を思い知っただろう」

 ある時、白を消し去った後、男はそう呟いた。歓喜に震える声が灰色の階段へと落ちる。

 するとそこから波紋が広がった。硬質な踏面がどろどろと溶け、うねり、渦を巻いていく。

 渦の中心からぼこぼこと涌き出してきたのは、黒だった。

「ひいっ……」

 小さく悲鳴をあげ、男は慌てて階段を下った。しかし慣れない行動に足はすぐに縺れ、倒れる。そのまま十数段ほど滑り落ちて、したたか全身を打ち付けた。

 男は倒れたまま背後を振り返った。膨張した黒が、その空虚なる口をぽっかりと開けていた。飲み込まれる瞬間、見えるはずもない黒く鋭い牙が、男には見えた気がした。

 そして痛みで目を覚ました男の目に飛び込んできたのは、黒く色を変えた世界。

 闇だ、と男は感じた。慌てて光を探して階段を駆け上がる。しかしすぐに見えない階段に躓き、倒れた。

「あ……」

 男の目の前に、白が現れた。漆黒の世界で、階段の一部分が確かに白く色を変えていた。何度も男が踏み潰した、あの白だ。黒い階段に突如として姿を現したそれは、光を放っているように眩しく美しかった。

 欲しい。白が欲しい。

 男は初めて心底から白を求めた。しかし手を伸ばしたところで、白が手に入るはずもない。さらに男を打ちのめすように、白にかざしたその手は黒く染まっていた。

(これが、僕の……体?)

 黒に塗りつぶされた世界と自身をようやく認識した男を嘲笑うかのように、白は静かに姿を消した。

 

 * * *

 

 ぱちん。

 記憶の綱が音をたてて切れた。

「っはあ――!」

 男の喉からずるりと何かが溢れ、びちゃりと粘着質な音と共にこぼれ落ちた。苦しさに喘ぎ、肩で息をする。

「痛っ」

 次いで男の全身を激しい痛みが襲った。硬い地面の上で、丸めた体を強く両手で抱き、必死に耐える。

 頭の中がぐらぐらと揺れていた。しかし意識に淀みはなく、むしろ清澄ですらあった。

 男ははっと目を開き、慌てて体を起こした。両手で地面に触れる。荒い呼吸を整えながら、硬い地面をまさぐった。段差のない様子から、階段の下にいるのだろうと想像した。先程までここで黒を吐き出していた沼は、枯れてしまったのか、この場所にはもう存在していないようだった。それを確認して、男はようやく深く安堵の溜息をついた。

 枯れた沼の硬い底部に尻をつけたまま、周囲を見渡した。男の目に、もう黒の姿は見えなかった。

(檻、か……)

 そう男は声に出したつもりだったが、背後に居座る静寂はそれを許さなかった。男の声が、自身の耳に届くことはなかった。可笑しくなって、くっくと笑う。それすらも、音にならない。仕方ないな、と男は思った。今、静寂は男を後ろから抱き締め、その口を細い手で塞いでいるのだから。

「言葉にしないで」「ひとりは嫌よ」――迫る別れに、静寂が、泣いている。男はそう感じた。

(いいよ。しばらく、このままで)

 背に流れる悲しみを感じながら、男は天を仰ぐ。相も変わらぬ黒々とした空間がそこには広がっていた。僅かに懐かしさを覚える。足を組み、ゆったりと瞼を落とす。瞼の裏の黒は、静かに男を迎え入れた。


 男は想った。この世界のことだ。

 男は、世界の全てが黒く変わってしまったと思っていた。けれどそれは男の思い込みだった。世界はただ、男を取り巻くたった一部分が黒い壁で覆われてしまっただけだ。壁の外には、以前と変わらぬ世界が存在している。

 男は黒に飲まれ、そして染まってしまった。――男が、諦めてしまったからだ。遠すぎる光を。眩ゆすぎる白を。そこに、黒は付け込んだのだ。闇に融ける黒へと、男を染め上げた。

(僕は、羨ましかった。光が、白が欲しかった。でも、足を速めただけじゃあ、届かなかった)

 そして羨望は、嫉妬へ。――男は、白を消した。最後に現れた小さな白すら、踏み躙った。

(目の前に現れる白は、光から贈られた憐れみだと思い込んで……。だから僕は、情けなくって、悔しかった)

 黒に染まりながらも、男は階段を昇った。昇ることしか、男には残されていなかった。それはもう、本能と呼ぶほかない。そして男は、高い段差にぶつかった。

(目指すものがないことが、あんなにも苦しいなんて、知らなかった)

 そして男は、その手を離した。

(楽になりたかったんだ。全部、忘れて――)

 閉じた瞼の縁から、温かな雫が一粒こぼれた。

(僕は、逃げていた……。何もかもから)

 男の意識の内に風が吹き抜けた。そして雨が降り注ぐ。全てを洗い流し、清らかな空気で意識は包まれる。


 男は想った。階段のことだ。

 階段は、本当は黒に染まっていないのかもしれない。黒い壁に光を阻まれ、その姿がすっかり闇に覆われていただけなのではないだろうか。推測ではあるが、限りなく事実に近いはずだと男は思っていた。

 男がかつて昇っていた階段は、灰色だった。恐らくそれが、男の階段が持つ本来の色なのだろう。白でも、黒でもない。どちらにも染まれない。けれど、闇に融けることも、光を冠することもできる。それが、男の昇ってきた階段の真の姿だ。

(随分と長い間、僕は階段を昇ってきた気がしていた)

 けれど、男は自身の目で確かに見た。黒の壁に覆われた狭い檻の中にあったのは、長い長い階段の、僅か一部分。その短い階段の端にすら、男は達していなかったのだ。広い世界の、何分の一か、何十分の一か。たったそれだけ踏破したところで、世界の全てを理解した気になっていた。黒い檻の中で階段を昇りつづける男は、まさに慢心の塊であった。

(こんな愚かな僕が、白を、光を掴めるはずなんて、なかったんだ)

 男の黒い頬を、撫でるように伝うものが、もう一粒。

 清浄なる意識の中で、ぞわぞわと芽吹きの音がする。硬い地面を押し上げる何かが、そこにあった。


 男は想った。かつて見た、光輝く階段の頂点のことだ。今は目にすることが出来ない、記憶の中のその頂。

 檻の中からいくら伸ばそうと、黒い壁に阻まれ、男の手は決して届くことがないだろう。

 この壁の向こうで、今も頂点は輝いているだろうか。もし、壁の向こうに美しく輝く光があるのなら――。

(僕はまた、憧れてもいいだろうか)

 白に、光に、再び焦がれたい。

(真っ黒になった僕に、それを掴む資格はないかもしれないけれど)

 両頬を、涙が濡らした。

「ああ、僕は……僕は……!」

 わななく唇から言葉がこぼれる。先程まで口を塞いでいた静かな細い指先は、溢れ出る雫を拭っていた。やさしい指先だ。慈愛すら感じさせる。

 意識の内で地表がむくりと膨らむ。そしてそこから、黒が溢れた。うねうねと苦しみのたうちながら地面から抜け出し、垂直に長く伸びる。長大な黒は一本から二本、その途中からさらに一、二本という具合に分かれていく。何度かそれを繰り返して、静止した。黒い木がそこに聳えていた。

 自らの意識の中に宿った漆黒の巨木を認識し、男は瞼を開いた。

 背後に佇んでいた静寂は、いつのまにか消えていた。男がこぼした涙を道連れにして。その残り香だけが、ふわりと男を包み込んでいた。


 きっ、と正面を見据え、男はゆっくりと立ち上がった。そして数歩、前へと歩いた。すぐに足先が何かに当たる。慣れた様子で手のひらを前に突き出す。硬く平らな壁がそこにあった。そこに手を添えたまま、壁に沿うようにして男はさらに足を進める。右手伝いに行くと、再び正面に壁。直角に曲がっているのだ。角に沿って男も向きを変える。それを四度、繰り返した。四方を壁に囲まれた狭い空間だ。もはや黒には、僅かな力しか残されていないのだろう。それは男が、黒を我が物としてその意識下に治めた結果だ。

 男は檻の中心に立ち、広げた手で力強く宙を薙いだ。そして、天に向かって高らかに声を張る。

「僕は知った! この黒は愚かな僕の心の淀みから生み出された、世界を覆うただのハリボテだ! 先の見えない不安と恐怖に満ちた黒だけの世界なんて、どこにもありはしない!」

 うわんうわんと、声が反響した。

 それは何度も壁にぶつかりながら、上へと昇っていく。

 ふ、と地面が輝いた。

 男の足元に、白い円が現れていた。

 枯れた沼の底に張りついていた黒が、男の周辺からぞわぞわと逃げているのだ。

 現れた白は、間違いなく階段の最下部だった。

 円の縁からは細く白い無数の線が、勢いよく上へと伸びていく。

 白の格子が男を護っているようにも見える。

 細い白は空中で互いに交わり、捩れ合いながら、男の頭上で一本の太い柱となった。

 勢いはそのままに、白い柱が遥か上方で何かとぶつかる。

 恐らくそれは黒だ。檻を閉じる、黒の蓋だ。

 鈍い振動と共に、ぐらりと体が揺らぐ。

 男は重心を下げ、両足で踏ん張る。

 白い柱と黒の接点が、めりめりと激しい音を立てる。

 男は思わず目を伏せた。

 蓋が柱によってこじ開けられ、ぽかんと開いた四角い空間から眩ゆい光が降り注ぐ。

 白い柱は、黒に開いた隙間から光に満ちた外へと飛び出していき、すぐに霧散した。

 それを見計らったかのように、男の下に残っていた白が四方八方に飛散し、黒い壁に音もなく張りついた。

 光にようやく慣れた目で、男は飛び散った白を追う。右へ左へ、そして上へ、白の点は道標のように、壊れた檻の外へと続いている。

 足元に広がる丸い白の上に、男の黒い影が落ちた。


 目の前の壁に付着した白に、男は触れた。そこは他に比べ若干盛り上がっていて、手をかけることが出来そうだ。男は迷いなくそれを掴んだ。ぐっと力を込め、体を支えうる強度があるかを確認する。白は男を拒まなかった。男は内心ほっと息をつき、今度は膝ほどの高さにある白に足をかけた。体が少し浮き上がったところで、更に高い位置にあるでっぱりへと手を伸ばす。

 そうやって、男は壁を昇っていく。時折滑り落ちることもあったが、その度に足や手の角度を調整し、進む方向を変え、必死に上を目指した。挫けそうになるたびに手足を止め、頭上から降り注ぐ希望の光を仰いだ。男は黒い壁の頂点を目指した。もう二度と諦めない。その一心で。

 ようやく壁の最上部に到達し、その縁に手をかけた時には、男の体を汗が滝のように流れていた。白を握りつづけた手に、血の気はない。血の気がないことが、男に、はっきりと分かった。

「手が……!」

 男は黒の縁にぶら下がったまま、思わず視線を自身の体に落した。手のひらだけでない。胸、腹、足――男の体は、本来あるべき色を取り戻していた。全身が震えた。落ちてしまわないように、更に指先に力を込める。口角を上げようとする頬の筋肉すら痙攣して、うまく表情を作れない。歓喜の雄叫びを必死で堪え、男は頭を振った。油断してはならぬと、自身に言い聞かせたのだ。

 ふうー、と息を吐く。

 両手で壁の縁をしっかりと確認する。

 ぎ、と奥歯を噛みしめた。

 壁を蹴る。

 勢いを借り、腕の力で体を浮かせる。

 刹那、昔のことを思い出す。黒い階段の途中、高い段差に挫折したあの時のことだ。もう随分遠い過去のように思える。

 あの時は、緩めてしまった腕。

(絶対に、何があってもこの手は離さない)

 浮き上がった体を、壁の縁に腹を当てて止めた。

 僅かに痛みが走る。

 これは必要な痛みなのだと、男は自身に言い聞かせた。

 男は見た。黒い檻の外の世界を。澄んだ瞳、そして淀みのない心で。

 目の前に広がるのは男が想像していた光景ではなかった。否、ここは男が知っている世界だが、見ていなかった世界だ。見えていなかったといってもいい。闇より出で、黒から灰色へそして白へとその色を変え、やがて光に吸い込まれていく階段と、男だけが存在する世界。そんなものは、なかったのだ。

 そう、ただ、それを見ようとしていなかっただけ――。黒と白だけではない、様々な鮮やかな色彩に満ちあふれた広い世界が、男にそれを自然と実感させた。

 世界には、様々な色の無数の階段が縦横無尽に伸びていた。曲がっているものもあり、まっすぐなものもある。色や形状は違えど、それらは等しく光へと続いている。その階段を、男が、女が、あるいは男と女が並んで昇っていた。

 複数人で昇っている階段すらある。その階段を下り方向に目で追い、そこでようやく男は納得した。複数の階段が徐々に距離を詰めながら並行していき、そしてぶつかって一本の大きな階段になっていたのだ。色も、一人で階段を昇っていた時よりも、優しく穏やかで柔らかなものに変わっていた。

 その彩り豊かな世界の端、男の丁度真下に小さな黒い半球で包まれた空間があった。黒となった男が惑っていた、あの場所だ。そこを突き破るように、階段が伸びていた。どこまでも長く、光に向かって続いている。ああ、やはり。と、男は思った。男の予想通りに、黒い壁の向こうには、変わらず階段が存在していた。男がふたたび昇りたいと望んだ階段が。

「よかった」

 男はぽつりと呟いた。安堵したのだ。そこに、本当に階段があったことに。遥かに続くこの階段の存在を目の当たりにすることで、男は自身が再び階段に足をかけることを許されたのだと感じた。けれど同時に、理解もしていた。

「三度目はない」と。

 唇を噛みしめる。決意の言葉を、そのままぐっと飲み込んだ。

 それと同時に、ぱん、と乾いた音がした。半球状の黒が弾けたのだ。小さくバラバラになった黒の欠片は、しばらく辺りを漂ったあと、他の色たちに飲み込まれるように静かに消えた。男が何の感慨も抱かせぬほど一瞬の出来事だった。呆気にとられていると、今度は男の手元がぐらりと揺らいだ。黒の檻がぎぎぎぎと軋んでいる。そしてまた男が手立てを講じるより早く、薄っぺらな檻は男を乗せたまま、ぱたぱたと地面に向かって折り畳まれていった。

 落ちた。そう思った。しかし気付いた時には、男はぺたりと地面に座り込んでいた。そして男の眼前には、色のない階段が待ち構えていた。白でもなく、黒でもなく、そして灰色でもない階段だった。色はないのだが、けれどそれは確かに男の目の前にある。不思議な感覚だった。何しろ、ないのに、あるのだから。

 男はゆっくりと立ち上がった。しばらく階段を眺めた後、意を決して一段目の踏面に足をかける。すると男の足が触れた部分だけに、ふわりと色をがついた。色がついたことは目に見えて分かるのだが、それが何色かは判断がつかない。白のようでいて黒のようでもある。そして光のように輝かしくあり、闇のようにざらついていた。男は定まらぬ色合いをじっと見つめ、そして大きく頷いた。

(黒でも白でもない。これから、僕だけの色を探すんだ)

 そして次の段をしっかりと確実に、力強く踏みしめた。


 * * *


 鮮やかな色たちに囲まれて、男は昇っている。――白でも黒でも灰色でもない、不確かな色の階段を。

 男の昇る階段は踏面も蹴上も不揃いだ。時折足をとられることもある。男はその度にそっと瞼を閉じ、その裏に息づく黒い巨木を眺めた。木は何を言うわけでもなく、じっと男を見下ろしているだけだ。けれどその光景は、男を心の底から奮い立たせるのだ。そして現実へと戻ってきた男は、再度階段へと挑んでいく。

 男は今、確固たる自分自身の強い意思で、階段を昇り、その頂に辿り着きたいと望んでいる。それは一辺の曇りもなく、ひたすらに純粋な想いだった。

 男の昇る階段の横に、すらりと細く美しい空色の階段が寄り沿ってくる。ふわりと懐かしい香りがした。それはかつて、男を包み込んだ優しき静寂の残り香に似ていた。

「あの……」

 りん、と響く涼やかな声。男は呼ばれるままに振り返る。空色の階段の上に、一人の女が立っていた。

 男の立つ踏面から、さざめきが聞こえる。鮮烈な、色のさざめきだ。

「……きみは」

「わたし、ずっと、あなたを――」

 頬を染め、はにかむような笑顔を浮かべて女は言った。

 男の、男だけの階段が、ゆっくりと、確かに、その色を変えていく。


『ROS』デンルグ

 私が通っている学校への通学路の途中には階段があります。

 まぁ、通学路と言っても学校で定められている通学路じゃなくて、私が毎日使っている裏道だけれど。

 この通学路は、人気のないひっそりとした道であまり通りたがる人が少ないのですが、公式な道より五分以上早く学校に着けるから、毎日この道を使っています。

 友達からはよく別の道を通れと言われているのですが、その理由というのは、女子高生が人気のない道を通るのは無用心だからという理由と、途中にある階段に理由があります。

 何で、この階段が別の道を通れといわれる理由になるのかというと、この階段は他の階段と比べて少し変わっていることがある。

 その変わっていることというのは、十五メートルほどの階段の半ばあたりに男性が座っているということなのです。

 階段に人が座っているのはよくあることだけれど、この男性はなんと毎日座っているのである。雨の日も風の日も雪の日も雹の日も灼熱の日も男性は座っていました。しかも毎日同じ場所、七段目の左から十センチ程の位置にいつも座っているのです。私はそんな男性の横をいつも通過して登校しています。

 この男性は歳は四十半ばくらいで、常にスーツ姿です。私は男性のことを「この人は階段から見る光景が好きなんだなぁ」と思って通過しているのですが、友人は「それっておかしい人じゃないの?」と言っています。

 だけれど、私はいつも思うのです。何も見ていないのに何故そんなことを言えるんだろうか、と。男性は常に無表情だけれど、楽しそうな雰囲気をしている。あんな楽しげな人がおかしいはずがないのに。

 

 その日も私はあの道を通って家へ帰る道を急いでいました。

 階段を下り始めると眼下の男性の頭がドンドン大きくなりました。相変わらず楽しげな雰囲気です。いつも通り隣を通過しかけたとき、そのときは何故かテンションが高かったからか、私は男性に話しかけていました。

「あの、すみません」

 私はその時奇妙な興奮状態で話しかけました。何で興奮していたのか分からない。学校から歩いてきて階段を下りている最中だったから、走ったほどではないけれど心臓がバクバク言っていたので、そのバクバクを興奮状態だと脳が誤認していたのかもしれません。だけれど、その状態だったから私は話しかけることが出来たと思う。

「何だ」

 男性は低めの声で返事をしてきました。不機嫌そうだけれど、無視をされることを覚悟で話しかけたから、何だか嬉しかった。

「この階段から何が見えますか?」

「何でそんなこと聞くんだ」

 即答をした顔は、無表情に近かったけれど、イラついているような表情を浮かべていました。いきなり見ず知らずの女子高生に話しかけられたら、そりゃ不機嫌になるよなぁ。

「私はこの階段に長時間座って風景を見たことがないからです」

「長時間でも、短時間でも見える光景は変わらねぇよ。屋根と塀とコンクリートで舗装された道が見える」

「それ以外には何か見えないんですか?」

「木が見える。ここから見えるのは面白くない景色だ、お前みたいのはさっさと帰って勉強でもしてろ」

 やっぱりおかしい人じゃなかった。こんな辛辣、だけれどちゃんとした返答を返してくれるような人は、どう見ても立派な人だ。大切な時間を邪魔されているのに、その根源が聞いてくる質問にちゃんと答えてくれるんだから。

 これ以上ここにいて、この方の邪魔をするのは失礼だから。お礼を言って帰ろう。

 ここからの景色を独り占めしたいからあの返答をしたのか、別の理由で座っているからあの返答をしたのか、もしそうだとしたらその理由ってなんだろう?そんな思いが頭に浮かんだけど、これ以上の邪魔はいけないのでグッとその考えを飲み込みました。

「答えてくださって、ありがとうございました」私がそう言いかけた時でした。

「お前は、毎日この階段を通っているよな。俺のことをキチガイだと思っているか?」

 いきなり問いかけられただけでもビックリしているのに、この方のことをキチガイだと思っているかなんて、なかなか過激なことを聞かれたのでとても慌ててしまいました。でも、慌てている合間に少しうれしい気持ちが出てきました。なにしろ、私が毎日この道を通っていると、この方が認識していたからです。

「どうだ? 俺はおかしいように見えるか?」

 私は自分の慌てていながら嬉しがっている思考に埋もれてボーっとしてしまっていましたが、男性の声で階段の上に戻ってきたので、私は即答しました。

「そんな、頭がおかしい方がそんな質問をしてくるはずがないじゃないですか。だからおかしい人だと思いません」

 こう答えると、とっても細やかな、ティースプーン半分くらいの微笑を浮かべました。先ほどと比べると雰囲気が柔らかくなったように見えます。いつも、階段に座っているときの雰囲気です。

「確かに、真におかしい人間は自分がおかしいと思わないな。では、今日問いかける前まで、いつも俺の横を通るときはどう思っていた?」

 この質問は考える必要はありませんでした。普段考えていたことを答えるだけでしたから。

「よっぽどここからの光景を見るのが好きなんだろうなと思っていました。とっても楽しげな雰囲気だったので」

「ただ毎日座っているだけの汚らしい無職だと思っていたか?」

「まさか、そんなきれいなスーツをしているのに、汚らしいと思うはずがありません。職業に関しては、ものすごいお金持ちか、作家さんのような特殊な職種の方なんだろうなと思っています」

 答え終わったと同時に、先ほどより大きな微笑を浮かべました。この方が笑うと絵になるなぁとボンヤリ考えました。

「なるほど、そうか、これは」

 男性はぼそぼそとつぶやくと、こう言ってきました。

「もしよかったら、俺がここに座って何をしているのか聞くか?」

 私は即答した。

 

 

「君は階段とは何だと思う?」男性の隣に座ったと同時に聞いてきました。

 お前から君に呼び名が変わっている。何故かは分からないけれど、私はほんの少し親しくしてもよい人間だと思ってくれたらしい。なんだか少し照れちゃう。まぁ、照れる前に、質問に答えないとね。ええと、階段、階段・・・・。どうしよう、難しい。

 階段とは何だといわれても、階段は階段だもの。段が付いた坂かな?でも、石で造られたものも板になっちゃうから、おかしいしなぁ。

 うーん、うーん、うーんと頭を悩ました結果一つだけ思いついた。

「階段とは、上と下を繋げているものです」こう答えると、男性は「ほう」と興味深そうに呟きました。

「何故そう思った」

「色々考えたのですが、階段と言うのは基本的に上るため、下るための、ものなのですが、貴方のように椅子代わりのように座ったり、展望台代わりに階段の途中まで上って景色を楽しんだりする人達や、階段の途中まで登ってから飛び降りて遊ぶ子供たちがいるので、上り下りするための道具ではないと思いました。この方達は上ったりしていますが、上ることは目的ではありません。座ることや、高い所に行くことが目的だからです。

では、何のための道具かと考えて、上と下を繋げるための、ものかなと思いました。上と下が繋がっているから、上り下りや、高いところから見下ろすなどができます」

「では、座ることは? 繋げるという説明では、椅子代わりに座ることをフォローしていないぞ」

 今、私はこの方と会話をしているんだなぁとぼんやり考えると、すぐに答えました。

「例えば、橋は岸と岸を繋げるための道具です。ただ繋げるだけでは、丸太でも十分ですが、車や人をちゃんとつなげるには不十分なので、ちゃんとした橋が作られます。この橋は河原へ降りると、橋は大きな日陰を作ってくれるものになります、暑い時期にはこの日陰がとても助かるんです。もし丸太の橋だったら、小さな日陰しかできません。これと同じです。

それと同じように、階段はただ上と下を繋げているだけではなく、上りやすいように作られています。ただ繋げるだけなら、この階段の隣にある斜面でも良いですが、上りやすくするために石を段々に積み上げているので、しっかりとした椅子代わりにできますし、舗装道路のように雨が降ってもドロドロにならず、ハンカチを下に敷けばお尻がぬれずに座れます。

座るだけなら地面に直接座ればいいですが、地面は、平面なのでしゃがんだり、胡坐をかいたり体育座りをしないといけません。これらの座り方と椅子に座っている時とは天と地ほどの差があります。椅子に座りたいならベンチに座ればいいですが、ベンチは意外と数がありませんし、座れる人数が少ないです。

その点、階段はそれなりの広さがあるので、たくさんの人が座れますし、端っこに座っていれば歩行者の邪魔にもなりません。

これらは、階段が上と下を繋いでいるからできるのです」

 我ながら、よくこんな長い理由をいえたなと驚いている。いま、即興で考えた理由なのに。

「なるほど」

 男性は私の意見にそれなりに納得してくれているようだ。即興だから破綻や矛盾している点とかあったら恥ずかしいなぁと思ったけれど、目立つような破綻や矛盾はなさそうだ。

それにしても、何でこんなことを聞いてきたんだろう?

 そんな考えが伝わったのかどうかは分からないけれど

「何でこんなことを聞いてきたか不思議に思っているだろう」と聞いてきた。

「はい、不思議です」

「俺が毎日ここにいるのは、俺が所属している組織から受けた任務を遂行するためだ。その組織に階段の存在理由が大きくかかわっているからだ」

「組織ですか」

「そうだ。だから、俺の任務について話す前に俺の所属している組織について話す」

 所属している組織なんて言い方、まるで悪役みたいだなぁ。

「俺が所属している組織の名前はRuler  Of  Stairs、ROSと言われるところだ」

「ルーラーオブ・・・、えっともう一度名前お願いします」

 私の天敵である英語が突然現れたので、聞き逃してしまった。聞き直しても単語の意味が分かる自信は無い。そんな考えが伝わったのかは知らないけれど

「Ruler  Of  Stairs、日本語で「階段の支配者という意味だ」

 と、ちゃんと日本語の意味を教えてくれた。

「『階段の支配者』・・・、まるで悪の組織みたいですね」

「みたいではない」

「はい?」

「悪の組織なんだよ、ROSは」

「え、悪の組織って、どういうことですか」

 男性から楽しげな雰囲気が現れてきた。私で遊んでいるのかな?でも、そんな風には見えないけれど。

「ROSの目的は世界征服だ。恐らく世界征服の野望を持っている組織を良い組織とは言わないだろう。だから、悪の組織なんだ」

 分からない、世界征服なんて言葉アニメや漫画でしか聞いたことがない。まさかこんな、誰もいないひっそりとした裏道の階段の上でその言葉を聞くとは思いもしなかった。一体、どういうことだろう?

「世界征服って、どういうことですか?」

「世界征服はそのままの意味だ」

「世界を征服して何をするんですか?」

「決まっているだろ、世界平和のためだ」

 ますます分からなくなってきた。悪の組織が平和のための世界征服?確かに、世界征服を企む組織は悪の組織と言って良いのかもしれないけれど、だからと言って世界平和のための組織を悪の組織と言って良いのだろうか?というか、世界征服の目的が世界平和というのはこの世の決まり事なの?

 いや、それよりも一番気になるのは、世界征服と階段がどう関係するんだろう?

「ROSはその名の通り、世界中の階段を支配することによって世界を征服しようとしている」

「階段を支配って、どういうことですか?」

「階段を我々の手中に収めるということだ」

「そんなこと出来るんですか?」

「出来るから、こんな組織があるのだ」

「あの、どうやるか具体的に教えてくれませんか?」

 もし本当だとしたらものすごい機密情報だから、どうせ教えてくれないだろうという思いがありながら聞いたのに、男性は「いいだろう」と一言呟いた。えっ、いいの!

階段を手中に収めるって、一体どうやるんだろう。

 階段は持ち運びするような物じゃないし、建物のように売り買いができるとも思えないし。あ、もしかして階段が立っている土地を買うということなのかな?それなら理解はできるけれど、だったら世界中の土地を手中に収めるっていうはずだからなぁ。うーん、どういうことだろう?全然分からない

 まぁいいや。多分話してくれると思うから、それを聞けばきっと分かるはず。そう結論がついた瞬間に男性が話し始めた。

「階段を支配するのは簡単な話だ、その階段を我々しか使えないようにすれば良い。例えばずっと居座るとかな」

「ずっと居座るって、家とかならともかく階段にずっと居座るのは無理ですよ!」

「いや、無理じゃない。それは君が知っているだろ?」

 そう問いかけられて思い出した、私の目の前にいる人はずっとここに居座っていた。もしあの状況が征服というのであればそう言えるかもしれない気がする。でも、

「でも、居座れたのはここがあまり人が通らない階段だったからで、他の、人が沢山通る階段だったらこんなぼんやり座っていられないはずですよ。それに、世界中のすべての階段に一人ずつ座らせるって、よっぽどの人数がいないとできませんよ」

「ROSには全世界合計で300万人在籍している」

 おっ、おう、思った以上にすごい人数。300万人も階段で世界征服をしようと考えている人がいるんだ。

「いや、それでも300万人って、世界の階段の数どころか東京都民の数にも届いていませんよ。そんなのじゃ征服できないんじゃないですか?」

「いや、それが出来るんだよ」

「どうやってですか」

「確かに人数は世界から見たら、300万人しかいないといえるかも知れない。しかし、私たちの計画では300万人で十分なんだよ」

「何でですか?」

「世界中の階段と言っても何も、世界に存在する全ての階段を征服する必要性はない。重要な場所のみ征服すればいい話だ。

人体のツボのようなものだ、効果のある一部分を刺激することによって、全体に刺激を与えたとき以上の効果を得ることが出来る」

「はぁ、なるほど」

 いまいちよく分からない。分かったような分からないような、そんな困惑を感じ取ったようで男性は「分かりやすく、阿弥陀くじで例える」といって、ポケットからペンとメモを取り出した。そこに、五本の線を引き、横や斜めに何本もの線を引くと、阿弥陀くじの完成。

「この阿弥陀くじの上部分が現在位置とすると、下部分が目的地だ。そして、横や斜めの何本もの線が階段だ。

この世には場所や階段は数え切れないほど無数に存在している。しかし、経済や政治に関わり世界に影響を与える場所、株式取引所や、空港など、限られているが、そこへと通じる階段なら更に限られている」

 そう言い終ると男性は阿弥陀の下部分に左から順に1・2・100・3・4と数字を書いていった。

「この数字はどれだけ世界に影響を与えるかを示した数字だ。最も世界に影響を与える100の場所を封じるために私達がすることは、100へと通じる階段を一つ使えなくするだけだ」

 そう言うと、100へと通じる最後の線を消した。

「これだけで、世界は大きな損害を被る。100の場所の100の力を出す人間が誰も行くことができなくなってしまったからだ。100へ行けなくなった人間は微々たる影響しか世界に与えられない場所に行かざるをえない。そうなると、二番目に数字の大きい4の場所へ行くだろう。そこで、我らはもう一つ階段を侵略する。4へと通じる階段だ」

 4へと通じる最後の線を消した。

「さて、これは先程と同じように見えるが真逆の意味を持つ。この征服は4に行った人間を4から出られなくするためのものだ。そうすることで、他の1・2・3、遠いが100以上の影響を与える場所へ行くことを封じたことになる。わずかニヶ所の征服で世界に大きな損害を与えることが可能になる」

「あの、何で4なんですか? 他の階段を封鎖すればもっと影響を与えにくい1の場所へ誘導すれば良いと思うのですが」

「いちいちそんなことするには、さすがに300万人では不可能だ。それに4と1の差なんて微々たる物だからだ。」

「なるほど、それは確かに」

「まぁ、中には100と96と80みたいな感じで、周りが高い数字で囲まれている場合は何人もの人員を投入しないといけないがな。

この行為を世界で同時多発的に行えば、世界は混乱するだろう。何しろ、世界を回すために必要な場所に人が誰も入れなくなり、多くの人間の動きを制限したのだからな」

まさか、階段でそんなことが出来るなんて。色々言いたい事はあるけれどまずは一つ。

「何で階段なんですか? 占領するのは建物本体にした方が効果が大きいと思うのですが」この質問を聞くと同時に男性は今日一番の微笑をニヤリと浮かべてこう答えた。

「階段というものはな、この世に存在するものの中で特に重要なものだ。階段が無ければ世界は成り立たないであろう」

 確かに、階段が無ければ生活は不便だけれども、特に重要かなぁ? あと、いくら重要だとしても世界征服をするには階段を侵略しないといけないなんて、もっと別のをターゲットにした方が征服しやすいと思うのだが。私は今日一番の?マークを頭に浮かべて次の発言を待った。

「階段というものは普通の道とは大きく異なる。

階段は君が先程言ったように上と下を繋げるものだ。この上と下と言うのが大事だ。

前や右左の場合は迂回すればいつかはつける。だが、上と下は、全くそこへ行く道がない。だから階段というものが開発されたのだ。その、唯一の行く手段を使えなくなってしまえば、上か下へ行く手段は無くなる。

ところで、君は今唯一の手段と言う言葉を聞いて違うと思っただろう。もし、この階段が使えなくなっても、向うの通学路として使われている坂を使えばいいし、もしここを通りたいのならば、横の斜面を通ればいい。別の道を通ればいいだけの話だ。道は無数にあるからな。一つの階段が通れなくなったら別の階段を使えばよいか?答えは否。何故ならば階段はそんなに無いし、通じる道はないからだ。

確かに、道は無数にある、だが階段は圧倒的に少ない。どんなに迂回しても結局は同じ階段を通らないといけなくなる。どんなにぐるぐる回っても階段は移動しないからな。

分かりやすく例えるなら商業施設と同じだ。どんなに広くても、ぐるぐる回っているだけでは上の階に行けない。他の人間と同じように階段やエレベーターを使わないといけない。

坂を通れば行ける場所は上と下の関係ではなく、上の下にあたる場所と、移動が大変な上でも上の部分にあたる場所という扱いだ。坂そのものが上の場所にあるのだ。坂へと通じる道へと通じる階段を征服してしまえば誰も通ることは出来ない。

ここのような階段の上の先にも多数の道や家がある場所だとイメージが出来ないかもしれない。この作戦の最大の効果が発揮されるのは、東京や横浜などの都会にある高い場所に建っている施設だ。何段もの階段を上らないと入り口につけなかったりするこの建物は大抵周りに他の道はない。自ら身動きを取れなくしているようになっているのだ。勿論、これらの施設は正門以外にも搬入口など複数の出入り口があるだろう。だが、そう上手く脱出することは出来ない、何故か。

階段占領の情報を手に入れた人は逃げる為に他の出入り口へ殺到するだろう。しかし、そこは占領している階段近くの正門と違い本来大量の人が殺到据えるような場所ではないから、大量の人間が殺到すれば混乱してしまう。正しくない門から出ようとするということは、袋の口から取り出すのではなく、袋の底を切って物を取り出すようなものだ。そんなことをしたら、取り出しにくいし、袋としての効果を発揮することが出来ない。結果、完全密封されているのと同じことになる。

さて、階段を使えなくなった人々は別の道を通っていこうとするだろう。人々は一つの道に集まるだろう。そうすると、本来別々の道を通ることにより分散されていた人が一ヶ所に密集するので、街に人が溢れ街は混乱する。

これが建物ではなく、階段を征服する理由がある。

建物だけを征服した場合はそこで働いている人間や利用している人間の動きしか制限できない。だが、この階段の征服は目的の人間を含む多くの人間の行動を制限をすることが出来る。

世界を回す場所へは誰もいけず、世界に影響をあまり与えない場所から出ることもできなくなる。上や下へ唯一行ける階段を失った人間は街をさまようため街が人で溢れる。すると、交通に支障をきたすだろう。すると、国の経済は大きく停滞する。それが世界中で起こるのだ、この状況を打開するために我らの言うことを聞かざるをえないであろう」

 男性は長い説明を終えた。何だろう、テレビで昔見たコロコロマシンの説明を受けている気分。ビー玉やゴムボールを転がして、それがモノに当たるとギミックが起動してボールを次の道へ移動させて、そこでまた転がり次のギミックを起動させて、最終的にはコーヒーをカップに注いだり、本を開いたりと転がすとは関係ない動作をする機械だと分かるというものです。とても面白くて、当時夢中になって、今でもたまにテレビで、あの手の機械が出ると見入ってしまう。説明を受けた作戦はコレに似ている気がする。特に一番似ていると思うのはやはり遠まわしなところ。

 階段の封鎖で、人を街に溢れさせて混乱させるという作戦はとても間接的なので、だから何だか面白く感じる。

 でも、面白く感じるけれど実現不可能な香りがとってもする。俗に言う突っ込みどころというものが凄くたくさんあるけど、一つだけツッコむならばやっぱり、

「建物の中なら粘れるでしょうけれど、外で居座っていると攻撃されやすくなるのでは?というか、どうしても少ない人数で階段を占領しないといけないので、大量の人に押し切られてしまうんじゃないんですか? 警察の集団に突入されたらひとたまりもありませんよ」

 日本だけならば300万人という数で十分な効果を出るだろうけれど、世界に人数を分散させちゃったら、駄目じゃん。物凄く人手が足りなくなる雰囲気しかしない。

「確かに人数だと圧倒的に足りない。だが、戦力なら十分だ。

君は私達がどうやって階段を征服していくかわかるかい?」

 戦力なら十分だという一言から導き出せる答えは一つしかない。というか、やっていることがモロにテロリストなので、最初から答えは一択しかない。

「マシンガンとかを持って、周りの人を人質に取ったら『この階段をだれも使うな!』と周りの人を階段から遠ざける」

「その通りだ」

 あ、やっぱりテロリストだったんだ。

「だが、大まかにあっているという意味で大きく違うことが二つある。その程度ならばすぐに警察に捕まってしまうし、何より世界平和が目的なのに人質を取るのはナンセンスということだ」

「いや、世界を混乱に落とす時点で十分世界平和という目的から考えるとナンセンスだと思いますよ」

「確かにそうだろう。しかし、今まで何度説教しても態度を改めなかった不良には体罰が必要だ。そうは思わないか?」

「え、あ、まぁ、はい、そう思います」

「この世界は実力行使をしなければ変えることはできない。だが、この世界で暮らしている一般市民は何の罪もない。だから、人質はとらない」

「経済を混乱させたら、その一般市民が大きな損害を被ることになると思うのですが。それは、考え付いていましたか? まさか、世界平和のためなら仕方ないとかいうつもりはないですよね」

「まさか、そんなわけはないだろ。この計画を実行するにあたっての障害として勿論それが出てきた。障害は、乗り越えるものであって無視するものではない。実行に移しても一般市民は何の被害も受けないよう、株価を調整したり、小売店の売り上げ数に細工したり対策は取っている。だから大丈夫だ」

「株価の調整とかができるならば、わざわざ階段の侵略とかしなくてもいい気がするんですが」

「株価の調整は一歩間違えれば世界大恐慌を起こしてしまう。シミュレーションの結果により、階段の征服なんかと比べようのないダメージを世界に与えることが判明している。そんなことは世界平和とほど遠い。だから、対策だけに取っている」

「なるほど」

「あと、ROSの設立の理由が設立者が階段の重要さに気づき、この計画のもととなるアイデアを生み出したことからなので、全く別の作戦をやってしまったらROSの根幹を破壊してしまいかねない」

 確かに、【階段の支配者】を名乗っている組織が階段とは無関係の作戦で世界征服してしまったら、変な話だ。

「さて、二つ目の間違っていることだが、作戦で使用するとされている武器はマシンガンなんてちゃちなものじゃない」

「じゃあなんですか?」

「パワードスーツだ」

「パワードスーツ。物凄い防弾チョッキとかですか?」

「恐らくスーツを普通の背広だと思っているのだろうが、違う。

装着することによって体の身体能力を数十倍にし、マシンガンにロケットランチャーなどを内蔵している兵器だ。体に密着するロボットのようなものだと考えると分かりやすいだろう」

 さっきから、現実味の薄い話がたくさん出てきているけれど、最も薄い話が出てきた。そんな漫画の世界にしかないであろうものがあるのだろうか。もしあるのならば、是非着てみたい。体の身体能力が数百倍になるというのなら、階段の百段跳びをしてみたい。車と競争をしてみたい。もしやったら面白いんだろうなぁ。

「そんな凄い物あるんですか?」

「あるから言っている。今の技術は想像絶するものを作り出す。パワードスーツもその一つだ。

元々は戦争の道具として生み出されたらしいが、われらの手に渡ったことにより世界平和のための道具として生まれ変わることになった」

 凄いなぁ、夢のような話だ。もし本当だとしたらいつも楽しそうな雰囲気をこの方が浮かべていたのも分かる。まるで漫画の世界の話だし、世界を変えるということは非常に魅力的だ。

 私は頭が悪いし、社会について深く知らないけれど、今の世界が悪い方向に行き始めていると思っている。もし今の方法で世界を良い方向に導けるのならば、素晴らしい話だ。

 でも、新興宗教の中には同じようなことを言っているところもあるし、すぐに信じることはできない。まぁ、元から信じにくい話なんだけれど。

 ・・・・・・・・・・・ん?

 そういえば何でこの男性はここにいるのだろうか。こんな人のこないようなところ見張っていても何の得がないと思うし、というかこの町に世界に大きな影響を与えるような場所なんてないのに。それに、いつ頃からここにいるのかは分からないけれど、少なくとも私がこの道を使い始めてから半年以上ずっとここにいることは分かっている。なのにそんな計画の中枢を知っているのは何でだろう。計画の中枢を担うような人だったけれど、左遷されてしまったのかな。

 そして何より何故この話を私にしたのだろう。

 私は気になったことを聞いてみた。

「何でそんな凄いとを知っている人がこんな何もないところにいるんですか?」

「それはな」

 男性は立ち上がり、座っていた場所を強く押した。するとズズズという音を立てて深く沈んだ。すると、私たちの上のほうにある石段が大きく開いた。近づいてみると、とても長い階段があった。

「ここはROS日本支部の本部だ。都心に近く、かつ人通りが少ないことから選ばれたんだ。階段が入口なのは本部長の悪ふざけだ。他の支部はビルの地下などにある。

そして俺はここの門番であり監視役だ。俺の任務はここから不審人物を近づけないことだ。監視カメラなんかより役に立つからな、俺は」

 さっきから驚きの連続で言葉が出ない。まさかいつも使っている階段にこんなものが隠されていたなんて。これで一気に、信憑性が増した。だって、こんな仕掛けをするのは秘密組織に決まっているもの。

 でも、これで私は少し身の危険を感じ始めた。何でこんな大事なことを次々と私に見せつけて言っているのだろうか。まさか、敵のスパイと思われて拷問をされるとか!

 嫌だなぁ、どうせならすぐ死にたい。じわじわと死ぬのは嫌。

 とかなんとか考えていると男性が予想外なことを私に提案してきた。

「さて、今からこの階段を下りていけば、君はROSの一員になれるかもしれない。ROSになれば世界を救うことができる。君は、どうする?」

 さっきから頭が置いてけぼりになっているが、なんかもう、よく分からない。

 前々から好奇心の的になっていた男性に話しかけたら、自分は悪の組織の一員だと言われて、階段を使った世界征服計画を話され、そして、今、その組織に勧誘されている。

 うん、凄くよく分からない。どんな状況だろうか、自分でもさっぱり分からないし、大抵の人もさっぱりわからないと思う。

 ただ一つわかっていることは、私の目の前に未知の世界が広かっているということだ。私は、今とてもテンションが上がっている。よく分からな過ぎる状況だからだろうか。心臓もバクバク言っているからか、よく分からない興奮状態だ。

 私は今まで生きてきて、初めて知った。こういう時、私は自分の好奇心のままに行動するということを。

「その階段下ります!」

 この返答に、「やっぱりな」と普通の笑みを浮かべた。

「ところで、何で私なんですか? 他にも人はたくさんいると思うのですが」

「ROSは独特の視点をもっている人間を必要としている。話してみて君は君しか持ってい ない視点を持っている。きっとそれはROSにとって必要なものだろう。だから俺は君を誘った。

俺はROSに長く所属していてな、結構上の人間と親しくしている。俺の推薦ならきっと君はROSの一員になれるだろう」

「それは、どうも、ありがとうございます」

 なんだろう、すっごい褒められた。独特の視点を持っているなんて初めて言われたよ。まぁ、視点を褒めるタイミングなんて世の中に中々ないけれど。

「さぁ、行こう・・・、そういえばまだ君の名前は聞いていなかったな」

 そういえばまだ名乗っていなかった。

「私の名前は、

聖川杏です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 階段に座って監視を始めてから数か月経った。ほとんど何も変わらない風景を眺めてぼーっと階段に座っているのは中々退屈だ。

 世の中が平和だろうからか、本当に何も起こらない、雲を眺めていたらあくびが出てきた。

「フヮァー」

「あくびするなんて、眠いの?」

 私は驚いて後ろを振り向いた、そこには美しい女性と黒服の男たちが立っていた。

「聖川さん、どうしてここに?本部は移動したのに」

「今日公民館で私の講演会があるって聞いてなかった?」

 そういえば、そんなことを聞いたような気がする。

 私に話しかけてきた方は、ROS日本支部部長そして、日本国総理大臣聖川杏。

 弱冠17歳という若さでROSに所属すると、めきめきと頭角を表し、最年少支部長になると、長年暖められていて、ついに実行された階段征服作戦の日本での指揮を執り見事成功させた。

 ROSが世界を征服した後は、日本支部長である聖川さんが総理大臣を務めることになった。

 とても優しい人で、私みたいな格下にも声をかけてくれるし、名前も憶えてくれる。あまりにもフレンドリーすぎて杏と呼んで良いよと、部下達に言ってしまうくらい。

 勿論そんな恐ろしいことできるわけはなく、皆聖川さんか、杏さんと呼んでいる。因みに私は聖川さんと読んでいる。

「すみません、あくびしてしまって」

「こんなにいい天気だもの、あくびをしない方がおかしいもの」

 そういいながら聖川さんは私の横に座った。近くにいた黒服の男達、SPは会談の上と下に分かれた。動き早い、さすがプロ。

「ここからの光景は久しぶりだなぁ、昔はよく見ていたのに」

寂しそうにポツリと呟き、「はぁ」と溜め息を一つつくと

「平和だねぇ」

「平和ですね」


『下り階段』ムラカミ

 私は最近同じ夢ばかり見る。螺旋階段を延々と下りていく夢だ。暗闇の中にあるのは階段だけ。足を動かす度、カツカツという音が辺りに響き渡る。下には辿り着けない。私が一段下りる度に一段ずつ増えて行っているような、そんな錯覚さえ覚える。

 夢の中で私は白のワンピースを着ていた。絹のようななめらかな肌触りの、詩的なかんじのする服だ。ノースリーブで、裾がふわりと広がっている。ふと幼い頃描いたマンガに出てくる妖精の衣装を思い出した。こんな浮き世離れしたものは持っていない。肌の色も白く、今日こさえたあかぎれなんてみんななくなっていた。それらといくら動いても疲れない事実が、これは夢だと私に教えていた。

 橙の明かりが闇を照らす。いくらカンテラの位置を工夫しても、三段ほど先までしか照らしてくれない。先は見えない。ただ階段が続くだけだ。その先に何があるかなんて、誰も教えてくれない。

 私は何故階段を下っているのだろう。そう思っても足は動く。そこだけ別のいきものであるかのように、ただ前へ前へ。下へ下へと進んでいく。先には階段があり、その先には闇がある。しばらく歩けば、その闇も階段であることに気づく。その繰り返しだ。

 ふと足を止めずに振り返る。暴れ回る龍のようにうねった階段が、ただ私の足下まで続いていた。入り口は見つからない。出口もない。足は止まらない。ただ下る。本当にそれだけの、シンプルな夢なのだ。

 私は今日も階段を下る。煩悶しながら、それでも足は動いている。

 

下り階段

 

 なんだか最近、ついていない。そう思いはじめて早一ヶ月。私は数々の不運に見舞われている。今は数学の課題を家にそっくり忘れてしまい、ペナルティ課題の真っ最中だ。見慣れている問題をただひたすら解いている。ざら紙とシャープペンシルがこすれ、カリカリという音がやけに響いていた。開始10分、残すところあと2問だ。

「わぁ、千早ちゃんやるの早いね」

 怠け者のクラスメートがプリントを放り出したままそんなことを言った。放課後の教室。西日がよくあたるここでは、私たちのほかに5名ほど課題に取り組んでいる。やらないとペナルティがわかりきっているのにやらない人たちだから、当然真面目ではなく先ほどから世間話や笑い声が飛び交っていた。基礎クラスという烙印を押された、いわゆる落ちこぼれのなかのさらに落ちこぼれだ。

「だって、やってたもん」

 少し唇を尖らせながらそんなことを言う。夕ご飯を食べ終わってから日付が変わるまで、参考書を睨みながらなんとか解いたプリントだった。私はいつもつめが甘い。

「へぇ。本当だったんだ、やってきたけど家に忘れましたっていうの」

 方便だと思ってた、と人なつっこい笑みを洩らす。ここにいる生徒全員の言い訳がそうだから、きっと先生もほかの生徒もそう思っているのだろう。課題をやらずに殊勝に嘘まで吐く怠け者だと。

 ペンシルの芯がぼきりと折れ、すかさずノックして新しいものを出す。何度もやった円の応用問題を暗記してしまった式のとおりに解くと、隣で携帯をいじっているクラスメートに手渡した。おしゃべり好きの女子には、波風立てないように。私も所属する、地味な女子グループの鉄則である。

「お、助かります千早ダイミョウジン」

 クラスメートは薄く笑い、私のプリントを写し始めた。耳たぶが西日に照らされきらりと輝く。彼氏に買ってもらったピアスらしい。聞きたくもない自慢話を延々とされたから、やけに記憶に残っている。自分の力で課題をやった私と彼女。両方に同じ評価が下されることを思うと、私は頭の奥がずきりと痛むような、どうしようもない目眩を 感じた。

 

 重い脚をなんとか動かして帰路につく。太陽がぎらぎらと燃え盛り、辺りをオレンジに染めあげていた。私の背中にもその熱がべっとりと貼りつく。不快だ。だるい暑さは感じるのに、凝りきった肩はひやりと冷たい。それは頭も同じで、先ほどからこめかみがじくじくと痛んでいた

 

 帰宅後にすることをシミュレートする。まず洗濯物を取り込んで、母が帰ってくるまで宿題のプリントをする。プリントが終わったらカップラーメンを食べ、母に今日もらったプリントを渡してから車に乗って塾に行く。3時間の授業が終わり、再び家に着いたら風呂に入り、簡単な夜食をとって机に向かう。英語の発音の復習をする、日本史の予習をする、同じグループのようこちゃんが彼氏に振られたようだから、良い慰め方を考える……。こう考えると、家に帰っても休めない。息をつく暇もない。

 中間テストの点が平均よりやや上程度だったのでマンガもゲームも禁止されている。二学期までに数学のクラスを上げないと永久に返ってこない。両親が教師の家庭はどこもこうなのかと、たまに思ったりもする。

 しかし、頑張るしかないのだ。皆そうだから。皆月曜日から日曜日までぎっしり予定が詰まっていて、そのなかで息継ぎ程度の休みを摂りながら毎日を生きている。そうしないと置いていかれるから、懸命に頑張るしかない。落ちこぼれは哀れだ。

 

 と、靴が泥のようなものを踏んだ。生暖かくて、独特の鼻をつく臭いがする。牧場でよく嗅ぐ、いつまでも慣れないあのぷうんとした臭い。

 恐る恐る足元を見てみると、やっぱりとぐろを巻いている糞を踏んでいた。思い切りやってしまったのか、茶色い飛沫がアスファルトに飛散している。小蠅が私をあざ笑うかのように、ぶうんと、熱をもった頬を掠めた。

 ぬちゃり、という生々しい音を不快に思いながら脚をそっとあげる。幸い靴裏だけの被害に留まったが、強烈な臭いがたまったものではない。運悪く通りかかった隣のクラスの男子が、私を見てウンチオンナとはやし立てた。けらけら笑っている。笑い飛ばしたいのはこちらだと言うのに。涙がこぼれそうになっている目元を拭い、近くの公園の水道で靴を洗った。臭いが大分薄れてからそれを履き直し家へと急ぐ。スケジュー ルの狂いは許されない。

 私は罪人のように頭を垂れ、夕焼け色のアスファルトをのろのろと歩いていく。どうしようもない臭気をまといながら、地獄の土のように真っ赤なアスファルトに靴底のすり減ったローファーを引きずるようにして歩いた。幸いなことに人通りは少なく、なんとか自宅近くの階段までやってこれた。そこでようやく、顔を上げる。いつもと同じ急勾配の階段が真っ黒な影をアスファルトに落としながら私を出迎えてくれた。

 私の家がある住宅地は高台にあり、暴れ回った龍のごとく蛇行する坂を延々登っていくのが一般的だ。しかし私の家の側には運良く階段があり、それを利用すれば坂を使うよりもずっと早く家に帰れる。その分長く傾斜が急なので幼い頃は危ないから禁止されていた。(石段を積み上げたような脆い階段で、手すりもない。休憩するところもなしに長々と続いており、だめ押しで幅がやや狭い。事実、バランスを崩して横の水田にダイブしてしまう子供が年に2、3人はいるほどだ)だから実際ここを使うようになったのは1年前。中学生になったばかりのころだったりする。

 

 一段目に靴を乗せる。石段に溜まった熱がじわりとのぼってきて、それがふくらはぎのあたりで疲労に変わっていくのがわかる。つい顔をしかめた。一段一段上っていく。額に浮かぶ脂汗を不快に思いながら一歩、また一歩。

 だんだん息が切れていく。教科書が入った鞄がやけに重い。目を見開いて、唇を突き出し息を吸いながらのろのろと上る。一歩一歩上を目指す。それでもなかなか辿り着けない。ただ階段がここにある。あるから私は上る。

 毛穴から出た汗はポロシャツをぐしょぐしょに濡らしていた。夏用なのにやけに分厚い生地だから、着ているだけで暑い。はぁ、と出した息は生ぬるい空気に溶けていった。皮膚を灼くようだった太陽もすっかり落ち、涼しい風が私の頬を撫でる。夜の帳が落ちかけている。早く帰らねば。焦って足を動かすと、かかとのあたりが鈍い痛みを訴えた。たぶんすり剥いている。

 野球部が練習に使うようなそれに比べたらずいぶんと優しいのに、何故こうも、息が詰まるのだろう。ぐらぐらと考えながら上っていく。そんな私をあざ笑うかのように、階段はただただ続いていた。

 

 不運だ。例の 夢を見るようになってから、私はたまらなく不運だ。

 宿題をやっては忘れ、犬の糞を踏む。こんなものはまだ序の口で、昨日なんかは2時間勘違いで母に叱られ教室の花瓶を割り体育で顔面から転けお弁当にあたって午後はほとんど保健室とトイレを往復した。一昨日はやっぱり階段から転げ落ち、国語の教科書を忘れ、歯磨き粉で顔を洗ってしまった挙げ句に少し目に入り病院騒ぎになった。おまけに明日からのあだ名はウンチオンナだ。

 ああ、憂鬱だ。当たり前の日常を当たり前に過ごしているだけなのに、何故こうも息が苦しくて、泣きそうなのか。思春期のちいさな心が壊れてしまいそうなほど、私は追い詰められていた。次は取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと重う度心臓が圧迫され、自然と胃液がせり上がっていく。もともと私はプレッシャーに強いほうでもない。ああ、いったい明日はどんな失敗をしてしまうのか。

 そんなことを思いながら、脚は軽やかに階段を下り続けている。いつもの夢だ。まだ臭うスニーカーも、寝るときに感じていた頭痛もない。身を包むは白のワンピース。右手を防ぐは古びたカンテラ。それも全く重くない。奴隷を諫める鉄球のようなあの鞄と違って、そもそも重さを感じない。

 夢ということもあるけれど、下りは楽だ。いくら歩いても疲れない。一歩上るごとに細胞が死滅するような、あのどうしようもない疲労がないどころか軽快なリズムでとんとんと下っている。 上りが辛い反面、下りは楽だ。あの階段に当てはめてもそれは同じで、下り、つまり登校時は朝の柔らかな陽光を楽しむ余裕すらある。下りはいいよな、疲れなくて。そんな気持ちがふと過り、私は苦笑した。

 

 それからも私の不運は一向に収まらなくて、だんだん階段を上るのが辛くなってきた。ただでさえ辛いのだけれど、いまの辛さは違う。あの階段を上ろうとする度、私の心は追い詰められる。上っても上っても先の見えないゴール。まるでいまの私自身のようで、ある時は泣きべそまでかいた。

 その代わり私はあの夢を見たがった。あの、ただただ階段を下る夢。好きなマンガを読み続ける夢でも空を飛ぶ夢でもない。単調で面白味のないあの夢を私の心は欲した。終わりが 見えないのは同じだけれど、疲労も息苦しさもない。毎日こうなってしまえばいいのにと、いつしか呟くようになった。

 

「そうだよ、毎日毎日疲れちゃうよね」

 

 頭のなかに声が響く。舞台で聞くような、張りのある少年の声だ。いまも夢の中で、私はカンテラの灯りを遊ばせながら階段を下っていた。

 身構えたけれどよく考えれば好ましいことだった。疲れないといっても、いつまでも同じ風景だとさすがに飽きてしまう。さっきも夢の中なのにあくびが出そうになっていた頃だ。

 私はすかさずカンテラを胸元に持っていき、前方の闇を照らそうとした。けれど一枚の布のようなそれはなにも照らさない。からん、という金属が触れる音がやけに響いた。

「ぼくはそこにはいないよ」

 少年の声はクスクスと笑いながら、私に話しかけ続ける。人に脳みそを覗かれているようであまり良い気持ちはしないけれど、いまは不思議さのほうが勝った。

「きみ、今日は何の失敗をした?」

 不意に訊かれ、つい眉間に皺が寄る。

「ごめんごめん、ばかにするつもりはないんだ。ほら、教えてよ」

「……弟に天ぷらをつくってあげたら、おなか壊して救急車」

「へぇ、ついに周りまで巻き込むようになったんだ」

 会話できるということよりも今度は怒りが上回る。まるで私が悪役であるかのような口ぶりだ。いやというほど反省はしたのだから、あまり蒸し返さないでほしい。

 唇を尖らせた私に気づいたらしい少年は、失礼に笑いながらごめんごめんと謝った。誠意がないので私は余計にふくれた。

「悪かったって」

「なら、本気で謝って」

「すまなかった」

「よろしい」

 こんなことを話しながらも脚は動いている。そこだけ私の命が宿っていない機械のように一定のスピードで、ひたすら階段を下り続けている。私はそれを客観的に眺めながら、少年と話をする。

「なぁ、終わりにしないかこんな生活」

 少年は歌うように言った。

「きみもほとほとうんざりしてるだろ」

「この日常に?」

「そうさ、日常に。考えてみろよ、きみまだ14だぜ? なのにオトナと変わらない生活を送ってる 。ワカモノは遊ぶのが本分なのに」

「そんなの、落ちこぼれの言い訳じゃない」

「いいや、違うね。これがほんとだ。そして君は異常だ」

 異常。その言葉はいやに私の心を抉った。異常。私は異常なのか。いや違う。だってようこちゃんもかなちゃんもさとこちゃんも進学塾に週4日通っているし、テストで80点以下をとったらご飯も出してもらえないって__

「オトナの言いなりになってるんだね、可哀想に」

 少年の声は沈んでいる。

「なぁ、上るのって疲れないか」

 言葉に詰まった。これを肯定したら私も落ちこぼれになってしまう。けれど階段を上るときのあの疲労感、ちゃんと決められたことをやっているのにいつまで経っても終わりが見えない絶望感が、自然と私を頷かせた。

「やっぱり。きみは無理をしてるんだよ」

 そう言われてしまうと、そうかもしれないとつい思う。それと同時に少し胸の痛み、現実の私の苦しみがとれたような気がした。

 虚を突かれているようなかおをしていたのだろう、少年は満足そうに鼻を鳴らした、気配がした。思えば彼の姿はこちらから見えていないのに、彼は私の姿が見えているようだ。夢の中とはいえ、自分の心をピーナッツ片手に鑑賞されているようで何とも言えない気持ちだ。さほど不快に思わないのは、少年の声に悪魔のような、理屈抜きで従ってしまう力を感じたからであろうか。彼の声は迷いがなく、否応無しに耳を傾けてしまう。

 少年は調子づいてますます声を張り上げた。セールスマンのような隙のない口調。けれどそこに押し付けがましさはなく、あるのは少しの怪しさとどうしようもないほどの魅力だった。

「さっき、落ちこぼれって言ったよね」

 ただ首を縦に振る。

「きみはまるでそれが重罪のように言うけど、落ちこぼれって悪いことなのかな?」

 衝撃だった。それこそ、天と地がひっくり返るような。落ちこぼれは、堕落することは何よりも悪いことだと私は教えられて来た。宿題を見せてと縋り付くクラスメートをゴミと同じように見さえもした。しかしこの少年は、それを否定する。幼い頃からだめな大人になってはいけませんと教えられて来た私にとって、その言葉は何よりも重く刺激的で、心をかき乱した。うずくまってうなり声をあげたい気分だったけれど、脚は止まらない。相変わらずスキップしそうな足取りで階段を下っている。

「なぁ、君はエリート志望のようだね。でもさ、そんなに勉強して何が手に入るんだ? なんにもないだろう?」

 ひゅう、と口から息が洩れた。そうだ、私が感じていた閉塞感はまさにそれだ。なにもない。なにもないのだ。これから先勉強して、上のクラスに上がって、良い高校大学に進学して。良い会社に入社して良い人と結婚して、彼を支えながら子供を産み、育て、家族に見守られながら静かに息を引き取る。

 良い勉強をしたという実績? 家族と過ごす思い出? どの答えもこの、鉛を呑んだように重い胸に嵌らない。私は何故勉強をしているのだろう。そもそも何故、学校に通っている?  何故つまらない友人の話に相づちを打ち理不尽な親の説教に身を小さくしているのだろう。どんなに耐えたって、上ったって頂上など見えやしない。それどころか不幸が私を引き摺り下ろす。確実に一歩一歩這い上がったって、いたずらにスタートラインまで戻される。それなら何もしなくても良いのではないか。どうせ何も得られないのなら……。

「君に良いことを教えてやろう」

 少年が薄く笑った気がした。

「君がばかにしている落ちこぼれは、実は君なんかよりずっと頭が良いのさ。だってとっくにこのことを知って、わざと手を抜いているのだもの。言われたことを言われたままにやって、ばててリアイアしちゃう人間よりずっと堅実さ。真面目とまでは言わないけど」

「もうやめようよ、苦しいこと辛いことみぃんな。上はきりがないが、下もまったくきりがないんだぜ」

 少年の言葉が私の胸を突き刺すと同時に目が醒めた。小鳥のさえずりを聞きながら、私は胸のしこりがすっかりとれていることに気がついた。

 

 はじめは抵抗があったけれど、『手抜き』は予想以上に楽で画期的だった。さすがに授業を抜けるような真似はしないし宿題も塾もちゃんとこなしているけれど、公式を叩き込む代わりにぼうっと黒板の端を見るだけでなんだかわくわくした。いずれわかりきった宿題はつまらない授業中にこなすようになり、さらには読書までたしなむようになった。本は塾の参考書からマンガに変わった。家でも予習を放ってテレビを見、初めて見る芸人のネタに腹を抱えて笑った。メディアの知識が増え、あのクラスメートとも友達になれた。勿論勉強は続けている。さぼりたいときにさぼっているだけだ。ただただ決められたことばかりしていた昔の私とは違う。物事を器用に考え、頭の回転も心なしか早くなったような気がする。不思議と私を襲っていた不運もなりを潜め、順風満帆な毎日を送れるようになった。

 いままでは勉強と人間関係全てをなんとかしようと四苦八苦していたけれど、考えてみれば無理な話だ。私のからだはひとつしかない。それなのに休みもしないで長い長い階段を上り続けるなんて、不可能に等しい。どうせ終わりなんて見えないのだから、気楽に行こう。私はそう思うようになっていた。

「ねぇねぇ千早」

 いつものようにプリントを写したクラスメートが親しげに話しかけて来た。いまではプリクラを撮るほどの仲だ。落ちこぼれと決めつけ軽蔑していたけれど、話すとあっけらかんとしていて面白い。テスト対策やクラスの男子の悪口しか言わないいままでの友人と比べると、本当の意味での友達という気がする。

「なぁにゆかりちゃん」

 私もにこりとかおを綻ばせる。

「明日さぁ、サボらない?」

「サボリかぁ」

 私はちょっと、パスかな。そう言って気まずそうに頬を引きつらす。いくら楽をすることに慣れたとは言え、堕落することには抵抗がある。クラスメートを馬鹿にするつもりはないけれど、学ばせてもらっている身なのだからそれを放棄する気にはなれない。

「あは、やっぱそうだよね。千早ってば真面目ちゃんだもんね」

 クラスメートはそう言って、くるりと私に背を向け彼女のグループへと去って行った 。根本は合わないことを彼女も理解しているのだろう。私は薄い笑いを引っ込ませるといつものようにプリントをファイルにしまい一人で帰宅した。いつもの階段を駆け上がり、家に着くや否や制服も脱がずにベッドにダイブする。このずぼらがもたらす解放感が、私には堪らなかった。

 

「みみっちいね君」

 いつの間にか夢に来ていたらしく、少年がつまらなさそうに溜め息を吐いていた。ここ最近、夢で彼と会話をするのが楽しみだったりする。浮世離れした言い回しと神秘的な雰囲気、全てが新鮮で面白い。私が学校であったことを話し、彼がそれに適当な相づちと鋭い突っ込みを入れるのが大体で、少年の生い立ちや姿を見せない理由ははぐらかされてばかりなのだけれど。

「何よ」

 私は子供のようにぷうっとふくれた。

「制服を着て寝ちゃったら、皺になるじゃない。そのリスクを恐れないのだから勇気のある人間だと思うけど」

「そうじゃなくて、さぼらなかったことだよ」

「ああ、それ?」

 少年からしてみれば不思議なのかもしれない。クラスメートが洋服を買いに行っているだろう時間私は塾で何度も発音した英単語を真面目に繰り返しているだろうし、掃除もさぼらずまっすぐ家に帰るだろう。気分によっては、病院に行くからと嘘を吐くかもしれないけれど。少年の甘言にのせられているにしては私はあまりにも真面目だった。実は私自身もそれを疑問に思っている。もっと手を抜いたら楽しいのに、それをしない。階段を下れば良いのに休みながらも上り続ける。少年が言う通り、下にもきりがないのに、だ。

「君はまだ子供だ」

 少年は強い調子で言った。見えないけれど身を乗り出し目を見開いているのがわかる。

「それなのにオトナと同じ歯車で動いている。これっておかしくないか。子供ってのはだいたい、もっと遊ぶものだろ。自分の頭で考えて、自分が楽しいと思うことをするものだろ。いまからオトナと同じことをしていたら、早いうちに腐っちまう」

 少年の話に相づちを打ちながら、私の脚はいつもと同じように階段を下り続ける。止まれと指令を出してもやっぱり止まらない。カンテラは決して明らかにされない闇を照らしている。

「あれ?」

 その闇から微かにひゅお、 という風の音が聞こえて来たような気がした。私が発する音と少年の声以外は無音のこの夢。その音は靴音を響かせていた私の背筋に冷たいものを落とした。

「いまの音」

「なぁ君」

 少年の低い声に肩が跳ね上がる。舞台映えのする声だから、ちょっと力をいれるだけでけっこうな威力がある。突然耳に入り込んだ異音も相まって、私はだんだんこの夢、この空間に対し疑問を覚えるようになった。

「君はこのままでいいのかい。下るのは楽だぜ? 全然疲れない。上るのは辛いし成功ばかりとは限らない。それどころかいやなことばかり襲ってくる。上りも下りも目指すとことは同じだ。それでも、上ると言うのかい?」

 私は逡巡した後、答えた。

「上る。だっ てそれしかできないから。私は多分、この夢みたいに下れない」

 授業をサボるのは良い気持ちなのだろう。宿題も塾もはね除けて、マンガだけ読んで暮らしたい。

 けれどそれは少し違う気がするのだ。うまく言葉にできないけれど、下ったらもう二度と上れない気がする。上りと下りは交差せず、ただただ見えない終わりに向かっている。そう考えたら私は元から上ることしかできない。決められたことの繰り返しの日常がいつかかけがえのない幸せを導いてくれるのなら、そうするしかないような気が、なんとなくするのだ。

「そんな高尚な言い訳」

 少年ははんっとせせら笑った。

「ばかばかしい。上りなんて辛くてしんどいだけだ。大体そんなとってつけたような言葉、どこから出て来たんだよ」

 ごおおっ。前方の闇から獣のうなり声のような低い轟音が襲ってくる。鋭い風がワンピースの裾を乱暴に揺らした。カンテラの光が不規則に揺れる。闇のなか、丸い金色の光がふたつ見えた気がした。

「わかんない。なんとなく、でてきた」

「君は騙されているだけだ。オトナという極悪人に。僕と一緒に来よう。ほら、そんな悠長に下りてないでもっと早く、早くさ。この先に僕はいるんだ。薔薇の花束を持って君を待っている。歓迎するぜ、だって君は」

「あなたの、食べ物だから」

 荒れ狂う暴風に足下が危うくなる。さすがに脚も止まり、私は手すりにしがみついた。ごおおおおっ。風の音がどんどん低く、荒れていく。地を這うようなうなり声。口からよく尖った犬歯が見えるかのような。まるで、そう、まるで

「私をずっと食べるつもりだったんでしょう、バケモノさん」

 その瞬間私のからだは重力を感じた。ぐらりとバランスを崩し、落ちて行く。見ると先程まで立っていた階段が崩れ落ちて行く。私が歩いて来た所からぱらぱらと一段ずつ闇に消えて行った。その闇が無ではなく真っ黒の生き物だと悟った瞬間、私は素早く半回転した。

 いくら止まれと言っても聞かなかった脚が嘘みたいに速く階段を駆け上った。チーターのような疾走感を覚えながら、踏んだ段が次々と落ちて行くのを感じながら私は夢中で地上を目指した。やがて視界が白んで行き、あんなに厚かった闇もなくなっていった。カンテラはとっくに捨てた。いまごろバケモノの腹の肥やしになっているだろう。息切れも疲れも感じた、嘔吐感にむせさえした。それでも私は走ることをやめなかった。上ることをやめなかった。あんなにいやだった上り階段をついに上りきりドアを開けた瞬間、私は目を醒ました。制服のまま眠っていたらしく、時計を見ると塾の時間が近かった。

 

 あれからあの夢は見ない。少年の声も聞こえなくなり、残ったのは繰り返しのつまらない日常だ。

 私は少年に教えてもらった息抜きを実践しながらも、それでも真面目に生きている。そうすることが本当に良いのかなんてだれにもわからないから、とりあえず自分に向いている方を選んだのだ。思い通りにならないことの方が多い、険しい上り階段だけれど、下ることができない代わりに休むことはいくらでもできる。ふと脚を止めて振り返ったときに気づく些細な喜びが、私は好きだった。

 そういえば最近になって知ったことがある。下り階段と上り階段、実は筋肉痛になりやすいのは下り階段の方なのだ。下りは上りと違って楽だけれど、その分リスクがある。あの夢を思い出すたび、私はそんなことを考えるのだった。

『了』


『魔女の世界』akuhoshi

6 チクラとヒカル


 ヒカルはその生きものの名前を「チクラ」と名づけた。

 チクラは魔女の城の「階段」の窓の外や煙突のうえにあらわれる生きものだ。姿かたちは人間そのものだが、肌は灰色をしていて石のようにかたい。しゃべれないし、ヒカルの言うこともあまりよく聞こえないみたいだった。そのかわりチクラは字が書けたのだが、ヒカルには読めない字が多かった。

 はじめ、ヒカルはチクラが苦手だった。なにを考えているのかわからないし、魔女の城は塔のように高いのに、どこにいってもついてきた。

 だがチクラには魔女の呪いがかかっていないので、城じゅうを自由に行ったり来たりして――たぶん……というのも、魔女の城のあらかたの出入り口には鍵がかかっているから――城のほかのどこかから食料や水を届けてくれるのは便利だった。

 届けてくれる食べものは、からからに乾いていたり、ちょっと古いものだったりする。でも、一日じゅう階段を登りつめてくたくたになった体には、あるだけで嬉しい。チクラがいなければ、ヒカルはこのぶきみな魔女の居城で生きていくことはできなかった。

 魔女の館は、ほとんどが長い階段でできている。この城に迷いこんでからというもの、ヒカルはずっと冷たい、ふしぎな青白い石の階段を登りつづけていた。

 この城には廊下という概念が無い。

 すばらしい家具や調度が、階段に斜めになって置かれていることもめずらしくない。

 ほかの部屋に行けそうな扉なんかも無く、分かれ道もなく、ただえんえんと階段が前に前に続いていて、ときどき曲がり角があったり、カーブを描いて曲がったり、らせん状に回転したりする。

 おまけに使用人のひとりもいないのか埃だらけだった。

 チクラがろうそくやマッチをもってきてくれなければ、明かりひとつありはしない。

 それに靴もなかった。

 ヒカルはこの城にやってきたとき、裸足だった。服もなかった。

 魔女の城のクローゼットに入っているドレスはヒカルには着ることができないから、窓からはぎ取ったカーテンを、それらのかわりにしていた。

「魔女はどうしてこんな城に住んでいるんだろうね?」

 ときどき、ヒカルは窓の外に張りついてじっと城内を覗いているチクラに話しかけた。

「ずいぶん魔女のことに詳しくなったつもりだけど、それだけは僕にもよくわからない。ほんとうにこのまま上にのぼって行けば出口はあるのかな」

 チクラは窓の外でヒカルの話に耳を傾けている。彼の灰色の瞳はいつもどこか悲しげだ。

 チクラはそっと人差し指をもち上げて、宙をなぞって文字を書く。ヒカルも窓がらすに指をつけて、チクラと同じように動かした。

 ほこりがとれて『でぐちは うえだよ』という文字列があらわれる。

 ヒカルは頷いて、狭い場所に横になった。

 耳を石の階段につけると、下の方から地響きが聞こえてきた。

 音は振動になって、ヒカルの体を揺さぶり、天井から埃を落とした。

 チクラが新しく字をかいた。

『ねむりのひが ちかづいている いそがなければ じかんが ない』

 眠りの日。

 それについて、ヒカルはチクラと何度も話しあった。

 それは魔女の城が眠りにつく日のことだった。

 ヒカルが眠りを欲するように、魔女の城は眠る。

 城が眠りにつくと、中にいる生きものもみんな巻き込まれてしまう。

 だから、それまでに出口を見つけなければ、ヒカルはもう二度と城から出ることはできない。

 ヒカルは知っている。

 魔女の呪いから逃れることはとても困難なことだ。

 魔女はありとあらゆるものに呪いをかける。

 世界じゅうのどんな些細なことにも魔女の呪いがかかっている。

 たとえば、この世界じゅうでたったひとりぼっち、自分だけが眠れないのだと感じる夜には、魔女の呪いがかけられている。それから、どれだけ大きな声で叫んでも誰にも聞こえていないような……。まるでまわりに悪人が満ちていて、自分だけが正しいことをしている、そんなような気分のとき。この世界で自分だけが戦っているように感じられる、そんな瞬間にも魔女の呪いがかけられているのだ。

 魔女の城に迷いこむ前は、ヒカルは、金色の光の繭でできたゆりかごに包まれたように幸福だった。すべては満たされ、寂しさも、不安も、空腹も、疲労も感じないでいられた。

 では、これから先はずっと、魔女の城で、つめたい階段のうえで過ごさなければいけないかというと、それもまたちがうのだとチクラは言った。何にでも変化はあるのだと。

 ヒカルは階段のうえに何があるのか、何が待っていて、今とどうちがうのか、そのことについて聞きたがり、チクラにたくさん質問をした。

 チクラは悲しげな瞳で、くり返しこう答えた。


 とてもよいことがまっているよ、ヒカル。と。


5 ねむりの ひ


 その日が来るのは突然だった。

 もちろん、どんな出来事についても、それが約束できるもの、予測できることでない以上、いつでも突然だった。

 ずっと登ってきた階段の途中に、樫の木でできた扉が現れた。

 扉は、蝶番もドアノブも錆びて、開きそうもなく、その先はもちろん、塞がれて、何があるのかこちらからはわからなかった。チクラが言うには、そこには「部屋」がある。そして「部屋」の向こうに、また階段が続いているのが見えるけれども、部屋の中に何があるのかはチクラにもわからないらしかった。

 ヒカルは階段の前にすわって、これからどうするかを考えた。

 言われるままに階段をのぼってきた。そして階段の下にたくさんのものを置いてきたような気がした。

 ヒカルは三日、扉の前ですごした。その朝、変化は訪れた。

 昼間でも薄暗い魔女の城が明るいのだ。

 石の継目のその奥にまで、光が届くかのようだ。何もかもが照らしだされている。

『ねむりのひ』

 とチクラが言った。

 ねむりの『ひ』とは『火』のことだったのだ。炎は、ヒカルが城に入ったそのときから、この魔女の城にともり、足あとを燃やしながら、ヒカル自身を焼きつくそうと追いかけていた。それこそが、逃れ難い魔女の呪いの正体だった。

『ねむりのひだけがとびらをひらく。すすむかすすまないかきみのじゆうだ』

 ヒカルは家具を壊し、カーテンの布切れを巻きつけ、チクラがそれに油をしみこませて、階段の下の方から白い炎をうつしてきた。

 ねむりの白い炎は扉の錆をきれいに焼きはらった。

『でぐちの とびらがみつかるまでひをたやさないように』

 ヒカルはうなずいた。

 先に進むことも怖いが、階段をおりることも怖い。

 ヒカルは勇気がどんなものか知っていた。

 勇気とは、必要になったときに、誰かが差しだしてくれるものではない。

 どこかに準備されていて、すぐに取り出せるような便利なものではないのだ。

 ヒカルは、それが自分の心には無いことも十分わかっていた。


4 瓦礫の部屋


 魔女の部屋は魔法の部屋だ。

 まず、ヒカルが足を踏み入れたのは、細長い、瓦礫でみちた部屋だった。

 部屋は真っ直ぐふたつに分かれていて、ヒカルは左側に立っている。右側は、崩れ落ちた建物や、巨大な灰色の陸橋の橋脚が折れ、横倒しになっていた。その向こうに、はげしく煙を噴き上げる建物がある。火の気配がする。

 風景は、部屋の真ん中ですっぱり断ち切られている。

 ヒカルのいる左側には、瓦礫や埃はひとかけらもない。

 白い部屋で、奥にもうひとつの扉があった。

 瓦礫のほうには近づくことができなかった。

 部屋は透明ながらすのような仕切りに遮られていた。

 がらすのむこうに、子猫がいっぴき取り残されているのがわかったが、ヒカルにはどうすることもできなかった。

 扉の錆を落とし、ヒカルは部屋をでた。

 チクラの言ったとおり、そこはまた、青白い石組の階段だった。

 ねむりの炎が追いついたら、あの子猫はどうなるのだろう。

 ふりかえると、扉はまたみるみるうちに錆ついて、今度はねむりの火でもふりはらうことができない。壁のように堅かった。

 もどることはできなかった。瓦礫の部屋にも、金色の繭にも。

 ねむりの火が追いついたら……。

 ヒカルは自分の考えを振り払うように、頭を横にふった。

 そして、また、階段をのぼりはじめた。


3 庭の部屋


 ねむりの火の勢いが増している。

 チクラが教えてくれた。

 ヒカルは休みなく、階段を登り続けた。

 カーテンを巻きつけた布の靴はぼろぼろになっていた。

 魔女の部屋はときどき現れた。あらかたは、意味のよくわからない部屋だった。たとえば、本棚のたくさん並んだ部屋には、悲しい結末の本だけが並んでいた。小雨がふっている部屋は、火を絶やさないようにするのに苦心した。

 たいていの部屋でヒカルの心はますます削れていくような想いをしたが、ときどきは、ねむりの火にまかれてしまってもいいから、ここに留まっていたい、というような部屋もあった。

 だが、そんなふうな部屋のほうが、かえってヒカルを疲れさせた。

 そのひとつは温室の部屋だった。

 そこは部屋が丸ごと温室になっている。

 がらすでできた部屋だった。

 部屋では庭師が青いエプロンをつけ、花の植え替えをしていた。花は紅水晶でできた薔薇だった。

 そして魔女の庭の庭師なのに、その人はとても優しそうな顔をしていた。角のまるいお弁当箱みたいな頭に、きらきら光るちくちくした短い髪が生えていた。

 彼は、ヒカルが魔女の城ではじめてみた人間だった。

 庭師はヒカルをみて、眉をしかめた。

「どこから来たんだ? ぼうや。それに、ひどいかっこうをしているな」

 ヒカルは、やってきたほうの扉を指さした。

 庭師はそっちをみると、目を細め、「ああ……」と声をだした。

「そうか……もう、なんにも仕事なんかしなくてもいいんだな。ちょっと待っていなさい」

 彼はどこかから替えのシャツとズボンをだして、ヒカルにくれた。

 シャツとズボンはまくればいいが、靴はぶかぶかだ。

 詰め物をして、ようやく歩くことができた。

「おじさんは魔女の庭師なの?」

「魔女の?」

 庭師はおかしそうに、ふふふ、といって笑った。

「このお城には人なんかいないと思ってた」

「そんなことはない。たくさんの人がいるよ。でも、会えるかどうかはわからない」

「だって、一本道なのに……」

「見えていることがすべてだとはかぎらないよ」

「おじさんはお城の出口がどこにあるのか知ってる?」

「いや、知らないな。出口があっても、俺はここから出られない。知っていたら教えてあげられたんだけど」

「どうしておじさんは出られないの?」

「それが魔女の呪いだからさ」

 庭師は肩をそびやかせ、精一杯怖がらせようとした。

 でも、ヒカルは何も怖くなかった。

 庭師がどんなに怖い顔をしても、陽気な笑いじわが残っていたからだ。

「お城の出口はわからないけれど、この部屋の出口はわかるよ。連れていってあげよう」

 温室の部屋は思ったよりも広々としていた。庭師はそこに生えている植物をいろいろ教えてくれた。魔女の庭には何でも生えている。背の高いのっぽの椰子の木、シダの葉っぱ、蘭の鉢、すべてが薄くみごとにつくられた宝石でできていて、さわるとつるつるとして、明かりにてらすと、それぞれがすばらしい宝物のようにかがやいた。

 それに、つないだ庭師の手は、ごわごわとしていて、暖かかった。

 それがいちばん、うれしかった。

「あなたもいっしょにお城の外に逃げましょう」

 庭師は首を横にふった。

 部屋の出口は入ってきた扉の四分の一くらいの大きさだった。

 ヒカルはなんとか通りぬけることができる大きさだが、体の大きな庭師は無理だろう。

「君は、行きなさい。君にしか通れない扉があるように、君にしかできないことがある」

 ヒカルはとてもそんなふうには思えないと言った。

 庭師はヒカルの手をぎゅっと握りしめた。

「不安やさみしさが、そう思わせているだけだよ」

 扉から外に出ると、そこには大理石の階段がつづいていた。

 庭師が扉の向こうから訊ねた。

「そうだ。忘れるところだった。ぼうやの名前は?」

「ヒカル」

「それじゃ、ヒカル。また会おう。わたしなら、すぐに会えるよ」

 小さな扉から庭師の表情はみえなかった。

 扉が閉まりきってから、ヒカルはお礼を言い忘れたことに気がついた。

 それから、庭師の名前を、聞きそびれていたことにも気がついた。

 明かりとりのちいさな丸窓から、チクラがこちらを見ていた。

「チクラ、ぼくは戻らないといけないよ」

 チクラはおびえたような、困ったようなそぶりをみせた。

 灰色の表情は読みとりにくかったが、困っていた。それは、暗に、もどる方法はないと言っているようなものだった。

 ヒカルは、庭の部屋に戻りたい、戻らなければいけない、という気持ちが考えに染みついて離れなかったが、チクラを困らせるのもいやだった。

 だから、あたらしい松明をつくり、先に進むことにした。

「あとどれくらい登ったら、出口があるの?」

『もうすぐだよ、ヒカル』

「チクラにもあえるかな」

 チクラは頷いた。

 袖口で頬についた汚れをぬぐうと、土と緑のにおいがした。

 魔女の温室には、土もほんものの植物も無かったし、魔女の城の他の場所には無かったから、見たのははじめてだった。ほんものはきっと、もっとすばらしいだろう。すぐに好きになるだろう、とヒカルは思った。

 でも、それはいつのことだろう。

 どれだけ階段をのぼればいいんだろう?

 それを想像すると、階段にのせる足がいっそう重く感じられる。


2 お菓子の部屋


 靴があることで、格段に歩きやすくなった。それががぼがぼの靴だとしても、石の冷たさを遮ってくれるし、さびた釘をふみ抜くこともない。

 それでも休みなしに階段をのぼり続けるのは、ちいさなヒカルのからだには辛かった。

 口には出さないものの、ヒカルは、チクラのことをうたがった。チクラが言っていることは、うそなのではないか。出口などどこにもなく、もちろん、よいことなどなにひとつない。

 だって、ここは魔女の棲み家なのだから。

 魔女は息をするように人を呪い、希望を奪う。

 では、どうして、ヒカルは階段をのぼらなければならないのだろう。

 その理由はどこにあるのだろう。

 たくさんのお菓子が並べられた部屋があった。

 わたあめやキャンディ、金平糖が、がらす瓶の中いっぱいに詰まっている。ヒカルはキャンディをいくつか頂戴した。口に入れるととても甘いが、うれしくはなかった。がらす瓶のなかにヒカルの理由もあればいいのにと思った。青でも赤でも黄色でも、好きな色でいいからといわれたら、ヒカルは楽になるだろう。だけど、もっとも難しいことは、それを心の底から納得することかもしれない。

 お菓子の部屋には、お婆さんがいた。

 浅葱色のワンピースを着て、オレンジ色の肩掛けをしている。敷物の上で目をつむり、少しうつむいている。

 ヒカルは、お婆さんの手に触れて、驚いた。

 お婆さんの手は、氷のように冷たかったからだ。

 ヒカルはすぐにその部屋を離れた。


1 浜辺の部屋


 魔女はどうしてこんな城に住んでいるのだろう。

 進むことはできても、もどることはできず、肉体をいじめ抜くような城だ。

 出口がどこにあるのかもわからない。

 あるのかどうかすら、ヒカルにはわからなかった。

 ヒカルは浜辺の部屋にたどりついた。

 そこは、部屋というにはあまりにも広大すぎた。

 庭の部屋でみたようなヤシの木がならぶうつくしい白い砂浜だった。

 紺碧の海が、水平線まで見渡せる。

 白い砂浜に女の子が座っていた。

 浅黒い肌に、黒いみじかい髪をした女の子だった。

「こんにちは」と彼女は言った。

「こんにちは」とヒカルも返事をした。「ひとりぼっち?」

 女の子は首を横にふった。

「わたしは本当はどこにもいない女の子なの。ここにあるものはすべて、魔女がつくりだした偽物なの。魔女の世界にあるものは、ある意味すべて偽物なのよ」

「ぼくも偽物なの?」

「うーん、どうかな。ここにずっといると、よくわからなくなるの」

「ぼくには、きみが本物にみえるよ」

 女の子ははにかむように笑って「ありがとう」と言った。

「わたしは偽物だけど、わたしにしかできないこともあるのよ。さあ、行こう」

 女の子は立ちあがった。スカートの裾がひるがえる。

 ヒカルの先に立って歩き始めた。

 ヒカルは彼女のとなりに並んだ。砂浜にふたつならぶ足あと。

「チクラは、あなたのことを魔女の城の外にだそうと思ってる」

「チクラのことを知ってるの?」

「みんな、知ってる。チクラは、いそいでいるみたい。きっと、ねむりの火がくるからね」

「ねむりの火がきたら、きみはどうなるの……」

「それを話したら、あなたは怖がるんじゃないかしら」

「怖がったりしないよ」

「そうかな。ねえ、あなたがお城から出られないのは、あなたが怖がりだからよ。あたしだったら、もう、とっくの昔に、魔女の城なんかから飛び出して、新しい世界に冒険しに行くのに。ほら、見て。あそこに階段がある」

 数十メートル先に、浜辺の部屋の切れ目があった。そこに、階段が取りつけられて、扉は、少し高いところにあった。扉は大きくも、小さくもなかった。

「きみも一緒に行こう」

「行けないの。だれもあなたとは一緒に行けないのよ」

「ここにいたら、ねむりの火に焼かれてしまうよ」

「言ったでしょ、わたしは偽物だって」

「偽物と、本物のちがいって、何? ぼくにはわからない」

「わからなかったら、あなたはここで立ち止まるの? 出口がどこにあるのかわからないから、あなたは探さないの?」

「ちがうよ」

「でも、あなたが言っていることって、そういうことよ」

 そう言われると、だまるしかなかった。

「わたしだったら、たとえ、なにがあっても、できることをするわ」

 そのとき、部屋が、がたがたと振動した。ねむりの火が、城を焼いている。

 しかも、それはヒカルの足もとまで迫っていた。

「さあ、走って」

 ヒカルは階段まで、走った。

 階段にたどりつき、半分くらいのぼり、うしろを振り返る。

 少女は、階段から十メートルくらいのところで、立ちどまっていた。

 彼女の黒い、きらきらした瞳は、水平線を見ていた。

 いまさっきまでしずかに凪いでいた水平線がぶきみに膨れ上がり、白い波がはげしい勢いで浜辺に近づいてくるのがみえた。

「いっしょに行こう!」

 少女ははじかれたように、階段に駆け寄った。

 そのとき、津波が彼女をおそった。高い波だった。ヒカルは彼女の腕をつかんだ。

 だが、彼女はみずから手を離した。

「火が……」と言った。

 水をかぶれば、松明の火が消えてしまう。そうすれば、ヒカルはここから出られなくなる。少女の姿は、波の下にみえなくなった。

 ヒカルは階段の上でじっとしていた。

 波はぶきみにふくらみ、部屋は海水でみたされる。ヤシの木の上まで、海面が迫っていた。


0 魔女の世界


 ヒカルは階段に立ち、だまっていた。少女は、ヒカルを行かせようとしたが、その気力はもう彼にはなかった。

 ヒカルは、悲しくて泣いていた。声を殺して、両手で顔を覆い、指の隙間から涙の粒がこぼれていた。今までずっと、ヒカルは、悲しいことやつらいことをひとり、心の中にしまってきた。それがあふれてしまったのだ。

 ヒカルを城の外に出そうとしたのはまちがいだったかもしれないとチクラは不安に思った。だけど、彼にしかできないことがあって、チクラは、ヒカルをみちびいてきた。

 ねむりの火は、もう、目前までせまっている。

 浜辺の部屋を、その扉を焼いてしまったせいで、海の水があふれ、階段にこぼれ出していた。

 座りこむヒカルの腰まで水がきているが、ヒカルは動こうとしなかった。

 チクラは窓を叩いて、ヒカルに合図を送ったが、むだだった。

 ヒカルが出口を探そうとしなければ、もう階段も用無しだ。

 浜辺の部屋が焼け落ちて、ねむりの火は、魔女の城の階段に達した。

 チクラは、火が、格子や窓がらすを焼き払うのを待った。

 そして、中に入れるくらいの穴があくと、はじめて城の中に入っていった。

「どうして、もどれないの? あの子を助けに行かないといけないのに」

 ごめんね、ヒカル。それは魔女にだってできないことなんだ。

 あの人たちを助けてあげることは、だれにもできないんだ。

 チクラはそう言いたかったが、それはできなかった。

 ただ、ヒカルの隣に座って、同じように水に浸かった。

 チクラは、自分がうそをついていたことを、心の中でみとめた。

 この先、階段をずっとのぼっていっても、よいことがあるかどうかなんて、それはだれにもわかりはしない。ただ、ヒカルを勇気づけたくて、そう言っていた。それがチクラでなくても、だれであっても、そう言うしかなかったのだ。どうしても、そういう励ましかたでしか、ヒカルに語りかけることができなかった。

 チクラはふるえるヒカルの肩を抱いていた。

 こうなったら、もう言葉など何の役にも立ちはしない。

 ヒカルは、何度も何度も、庭師からもらったシャツの袖で、顔をぬぐった。

「チクラ、どうして、先に行かなくてはいけない? ぼくにしかできないことってなんだろう。ほんとうにあるのかな」

 あるよ、ヒカル。

 チクラはうなずいた。でも、ヒカルはもうだめだ。歩けないだろう。

 ヒカルが行かないと言うのなら、チクラはこのまま、ねむりの火がすべてを焼き尽くすまでヒカルのそばにいようと思った。

 でも、ヒカルは顔を上げて、チクラをまっすぐにみた。

「魔女の城の出口に行かなきゃ」

 チクラは、波にのまれそうになりながら、ヒカルの掌に文字を書いた。

 ずっとここにいてもいいんだよ、ヒカル。

 ヒカルは、ゆっくりと首をふった。

「ぼくは先に行くよ。行かないと。だってもうもどれないんだもの」

 そうだ、もどれない。魔女の世界では、いつでも先にしか行けない。

 ヒカルは行こうとしている。

 ねむりの火は、最低限の足場しか残さずすべてを焼き払っていた。

『次がさいごの階段だ。そのさきがどうなるかわからない。それでもいいね』

「チクラ、きみに会えてうれしい。魔女の城から出ても、また、会えるよね」

『もちろん』

 きっと会えるよ。

 ヒカルは、笑って頷いた。

 チクラは、なんども謝った。

 ごめんね、ヒカル。

 ごめんね……。


                   × × ×


 長い夢をみていた。

 彼女は束の間、意識を取り戻した。それが世に言う走馬灯だとは、にわかには信じられないことだった。そのなかには、すでに亡くなったなつかしい父親の姿もあった。それらは、もう、何年も思い出さなかった記憶ばかりだった。

 彼女の父親が亡くなったのは、たしか、阪神大震災の翌年だった。震災を、彼女は経験していない。その当時、彼女とその家族はまだ関東地方に住んでいて、なんの揺れも感じないまま、ニュースではじめて知った。

 とはいえ、彼女はまだ小学生だったから、それをまるで怪獣映画のワンシーンのように見つめていた。コンクリートの高速道路や建物を打ちくずすほどの大きな地震、といわれても、今ひとつぴんとこなかった。

 そんなものがこの世にある、実際に起きたのだと、どんなにテレビが繰り返しても、それはどこか遠い世界の出来事だった。だが、その影で、たくさんの人が亡くなって、彼女はそれに対して何ひとつできなかったと言っていい。

 彼女の人生は、たいていがそんなふうだった。

 本当に大切なことは、彼女のしらない、蚊帳の外で起きているみたいだった。

 父親の死も、そんなふうだった。

 彼は、彼女が通うのとは別の小学校の用務員をしていたが、花壇の手入れをしている最中に心臓発作で亡くなった。彼女は祖母に預けられ、気がつけば、棺の中で亡くなっているところを目にしただけだった。その後母子ふたりとなり、仕事の関係で引越しをしたから、その祖母の死に目にもあえなかった。

 悲しいこと、つらいことには、彼女はいつも触れられず、通り過ぎて行った気がした。

 それが、彼女の心にいつも引っかかる。自分とはどんなに関係のない、遠い世界、遠い国の出来事でも、何かできることはなかったんだろうかと、思う気持ちがある。

 たとえば、彼女の人生と並行に、世界ではいろんな出来事が起きていた。どこかの宗教者が地下鉄に毒ガスをまいたし、おどろくほど若い人がなぜこんなことをと思うような犯罪をおかした。それに、だれにも責任のとれないようなことも起きた。自然災害はそのひとつだ。それは恐ろしい。津波に襲われる夢をみたこともある。

 とても、自分は、そんな目に遭わなくてよかったと、そんなふうには思えない。だが、何ひとつ、彼女がそれらの出来事にしてやれることが無く、そう思うたびに、心にちいさな引っかき傷ができていくようだった。それに、他人のために何かできるほど、自分はそれほどりっぱな人間ではない、それもはっきりしていた。

(自分のような人間が、誰かに何かしてやれるはずがないじゃないか……)

 彼女は地元の短大を卒業し、資格をとり、アパートをひとりで借りて小学校の教師として働いていた。

 教師になれば、安定した生活が送れるからと、母にすすめられたのもある。だけど、現実はそれほど甘くはなく、いつも自分の実力不足に悩まされていた。同僚の男性教師と恋愛関係に陥ったのも、その頃だった。彼女はいま、妊娠していた。

 お腹はまだ目立たないが、三ヶ月目に入ったところだという。

 いろいろ悩んだが、恋人には話せない理由があった。もちろん母親にも相談できない。

 これがばれたら、職をうしなうかもしれない、そういう危険もあった。おろそうか。それともひとりで育てる?

 結論はでないまま、激痛に襲われたのは、仕事の帰り路だった。

 子どもたちのテストや宿題の採点がかさなり、遅くなってしまった。バスをおりた頃から違和感があり、ベンチに座って休んだが脂汗がとまらない。

 そのうちに腹痛が激しくなってきた。

 山の手の住宅地は夜になると人気が無い。どうしよう……。声も出せぬまま、荷物を捨てて、ちかくの交番まで歩いた。

 だが、ここは、坂道の途中にあるせいか、交番にたどりつくまで、急な階段があった。

 彼女はこの階段の下にいた。とてもではないが、のぼれる気がしない。あたりを見まわすと、やはり人の姿はなく、民家も遠い。そばにいるのはいつも仕事の行き帰りにおがむ、ちいさなお地蔵様だけだ。お地蔵さまが何か助けてくれやしないかというのは、ちょっと都合がよさそうだ。

 見上げると、交番には明るい光がともっている。しかし、意識はふたたび遠のきかけていた。

(このままでいたら、子どもはだめになるかもしれない。いや、そのまえに、私も無事ではすまないかもしれない……)

 それでもいいかも、と彼女は一瞬、考えた。

 そうすれば、すべてのことにけりがつく。もう、何も苦しむことはない。

(私、何もできないまま、このまま死んじゃうのかな)

「ごめんね、ヒカル……」という言葉が、彼女の口を突いて出ていた。

 もし、何もできない子どものような自分が、この世界でたったひとり、ちっぽけな自分が、決断できたら、その勇気をもてたなら、つけようと思っていた名前だった。

「ごめんね……」

 そのとき、彼女の言葉に応える声があった。

「大丈夫だよ」

 痛みによって血の気がうせ、白くぼやけた視界に、彼女に手を差し伸べる少年の姿がみえた。


                  × × ×


 ヒカルは、彼女の手を取り、最後の階段をのぼっていく。

 彼女はつらそうだが、それでも、ゆっくりと。

 ヒカルが、ふりかえる。チクラをみている。

 その階段の先に何があるかは誰にもわからないし、過去に遠く過ぎ去ってしまったものたちは、もう二度と戻ってくることはなく、誰にも触れられないだろう。

 でもヒカルは、がぼがぼ靴をはいて、彼女のきた道の先に進んでいこうとする。

 それは、チクラの希望でもあった。

 ふしぎだ……と、チクラは思った。

 まったくちがう他人の祈りや願いが、自分の希望と同じように感じられるなんて、信じられない、ふしぎなことだ。

 過去にはもどれないこの世界で、そのふたつが、ときどき等しい重さをもつ。

 そのことが奇跡のように思えるのは、自分ひとりだけのことだろうか?

 チクラはずっとふたりをみつめていた。

 大丈夫だよ、と答えるヒカルの声が、チクラの耳に残っている。



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