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青い自転車 緑のアンブレラ

 青い自転車のサドルの後ろに緑のアンブレラを突き刺して、出発の準備は整った。
 自転車の漕ぎ方ならば昨日身につけた。傘の差し方だって一昨日覚えたよ。
 ペダルを踏めば青い自転車は出発する。ハンドルを捻ればそっちへ曲がる。ブレーキを握れば自転車は止まる。そこが下り坂ならばちょっとペダルを踏んでブレーキをギュッとすればいい。ちょっと進んでギュッ。ちょっと進んでギュッ。そこが上り坂ならば無理せず自転車を降りればいい。ハンドルを握って自転車を押すと、ペダルが足にぶつかって痛いじゃないか。左手はハンドル、右手はサドルだって?そんなややこしい押し方をすれば、自転車は右にクルリと一回転。いつまで経っても進みやしない。俺は自分の身体に見合った坂の上り方を考える。押して駄目なら引いてみな。簡単なことだよ。俺は自転車の前に立ち、カゴを引っ張りながら後ろ向きに進んでいく。
 この辺はやたらと坂が多くていけない。ようやく買ってもらった青い自転車。漕ぐ時間と同じくらい、押したり引いたりしなくてはならない。俺はようやく坂の頂上にたどり着く。見渡す限り曇天。でも、大丈夫。俺には緑のアンブレラがあるからね。
 一昨日は雨だった。そこで俺は何度も練習をしたんだ。アンブレラを握ってアーケードを歩く。そのトンガリは真っ直ぐ下に向けて。周りの人にぶつからないように。そして、アーケードの終点にたどり着いたら柄の部分の黒いボタンを押せばいい。バサッと音を立てて緑の屋根が広がる。何度も眺めたお気に入りの通勤電車と同じ色。鮮やかな緑のアンブレラ。そいつを掲げて雨の空へと踏み出していく。水溜まりを見つければ飛び込んだ。カタツムリを見つければしゃがみ込んだ。雨には雨の楽しみ方がある。
 やぁ、曇天。
 この辺では一番小高い坂の上、俺は自転車の脇に立つ。そして、俺は待っている。辺りにたくさんの水たまりができる程の大きな雨を待っている。

宍戸サレン・ガール

 「最近、毎日のように同じような夢を見るんだ」
 宍戸は語りはじめた。
 「何処かで見たような可愛らしい女の子が狐を連れてこっちにやってくる」
 「狐?犬でなく?」
 「夢の中の俺はそいつを狐だと思っているんだ。で、狐は俺の名を鳴く」
 俺の名を鳴く。その言葉にデジャヴ。
 「息子っちぃぃぃ」
 突然、宍戸は俺の息子を高く掲げながら雄叫びをあげた。驚いた細君は煮え湯を掻き回す手を止めた。
 「いい加減名前くらい覚えろよ」
 俺はため息。それでも息子は満面の笑みでされるがまま。宍戸の頭上で発せられる小猿のような声に彼女の口元も綻んだ。
 宍戸が我が家にやってくることは珍しい。

 

 これからそっちに行くから素麺でも茹でておいてくれ。

 

 メールがあったのは10分前だった。鍋が煮え立つより前に宍戸が乗り込んできた。
 「美味いもんを買ってきてやったぞ」
 鷲掴みにしたフードパックの惣菜を掲げて、まさか、万引きしてきたわけではあるまい。
 「こういうのゲリラっていうんじゃないか?」
 「なんだ?嬉しくなさそうだな」
 俺は彼女の表情を伺い、曇りない笑顔に安堵した。
 「久しぶりね」
 「おう」
 一人おとなしい奴がいると思えば、部屋の隅では小さな息子が人見知りを発揮。しかし、宍戸の強制力ですぐに打ち解けた。絶叫マシーンと化した宍戸は、息子を持ち上げては振り回す。駆け回る。子供がいないのに男児のツボをよく心得ている。
 ダイニングテーブルに置かれたパックには「エビと枝豆のつまみ天」とシールが貼られている。冷たいビールを思い浮かべたのは俺だけか。宍戸は酒を飲まない。天ぷらには素麺。それも悪くない。
 「できたわよ」
 やがてザルにいっぱいの素麺が運ばれてきた。
 「おお、来た来た」
 宍戸が息子を床におろすと、すね毛まみれの足にしがみついてもっとやれとせがむ。
 「飯だぞ。席につけ」
 俺が声をあげれば、宍戸は頓狂な声を出して足下を見下ろした。
 「大した父ちゃんでちゅねぇ」
 まったく調子が狂う。

 彼女は食器棚からソバ猪口を4つ取り出し、ダイニングテーブルに並べた。
 「おろしたてのソバ猪口だぞ」
 「俺のためか?」
 「そうよ」
 頬笑む彼女を余所に、俺はしかめ面の前で手を振る。
 「宍戸君はお椀派?茶碗派?」
 「派っ?」
 「私の家は茶碗で素麺を食べてたのよ。でも、彼のところはお椀なんだって」
  彼女は俺を指さし、珍獣でも発見したように目を丸める。
 「で、喧嘩の末、ソバ猪口を買ったわけか」
 宍戸は息子を抱え上げて背の高い椅子に座らせた。
 「汁物はお椀だろ」
 「主食なんだから茶碗よ」
 彼女は宍戸に自分の椅子を差し出し、鏡台から自分の椅子を引っ張ってきた。
 「さぁ、遠慮せずに食え」
 そう言ったのは宍戸だ。思わず鼻が鳴るが、一番何もしていないのは実は俺だ。
 「いただますっ」
 一際陽気な息子が場を和ませる。子供の力は偉大だ。俺は一口ソバを啜り、宍戸の手土産に手を伸ばす。
 「美味いだろ?」
 塩味のきいた衣でくるまれたエビと枝豆のかき揚げ。見た目から想像される味がそのまま口に広がる。
 「確かに美味い」
 「だろ。俺のお陰だ」
 宍戸は満足げに笑み、大量の素麺をすすり上げた。
 「で、狐がどうしたって?」
 「キツネ?」
 宍戸が彼女と目を合わせて首を傾げる。
 「毎日のように同じ夢を見るんだろ」
 「ああ、毎日と言ってもここ二日ばかりな」
 俺は噎せ返り、素麺を吹き出しそうになる。
 「女の子はムスッと不機嫌な顔で押し黙ったまま。そんで、狐は俺の名を連呼するんだ。それがそいつの鳴き声なんだな」
 「よく分からん夢だな」
 「いや。俺、昔あいつらに会ってるんだ」
 「初恋の子か?」
 宍戸は小さく首を横に振る。
 「狐もいるのよ」
 小さく縦に振る。
 「あいつらさ、親父が布団で俺に聞かせた話に出てきたんだよ」
 俺はなんとなく下顎をつきだし、彼女は眉を持ち上げた。宍戸は両手を強く結んで眉を垂らす。続いて、気色悪い裏声を響かせた。
 「あなたがお話ししてくれないと私たちが消えちゃうわ」
 すぐに息子の小猿のような笑い声が響いた。
 以来、俺の脳味噌にも不機嫌な女の子と俺の名を鳴く狐が住み着いた。しかし、一点、残念なことがある。女の子が口を開けば、宍戸の気色悪い裏声が響くのだ。


ロードムービー

 妙なTシャツ一枚でその男はロードを闊歩していた。Tシャツ一枚といったってズボンははいているよ。恐らくパンツもね。なんだか冴えない男なんだ。2、3日風呂に入っていないように小汚い。デブだ。そして、まったく妙なTシャツだよ。胸には「愛犬」なんて書いてある。そして、出っ張った腹の上にはシーズーだろうか。毛むくじゃらの愛らしい犬がプリントされていた。
 そのメッセージを読みとるのはなかなか難しい。愛犬家なのか。それとも、胸にYou make me...と刻んだ空白世代の模倣か。なんだかパンクじゃない。なんて、途端にそのTシャツが宜しいものに見えてくる。男の残像が何度も過ぎり、いつしか俺はそのTシャツを買い求めていた。
 こいつは程良く着こなしたい。程良く色褪せたブルージーンを程良く腰まで落とす。スニーカーも悪くはないけどね。エンジニアブーツもちょっと違う。やはりここはデッキシューズだろう。70年代NYパンクス。パンクはスタイルじゃねぇんだよ。アティチュードなんだよ。なんて言ったのはUKパンクスだけど、スタイルの悪さに関しては抜群にNYパンクス。だから、俺の胸には「愛犬」Tシャツ、足下にはホームセンターで買ったデッキシューズ。
 買いたての頃はしんどいね。おろしたての真っ白なデッキシューズに可愛いシーズーのTシャツだ。ファッションに無頓着なお父さんだって気付くだろう。
 「ヤバいな、これ」
 みんなが笑っているようだ。俺は逃げるようには歩き出す。今、咳込んだおまえ、笑いたきゃ笑えばいいだろう。
 俺は男の背中を探し求める。ロードを歩き、デッキシューズを削る。排気ガスを浴びて、黄砂を浴びて、PM2.5を浴びて、3日もすれば俺の「愛犬」Tシャツもいい塩梅になってくる。その頃になって、ようやく男の背中に追いついた。
 「よう」
 声をかけると男は振り返る。死んだような目が多少見開かれる。眼球が涙の中で泳ぎ出す。同じような格好の小汚い俺が目の前にいる。男は戸惑いを隠せない。俺が手を挙げると男はそれに呼応する。そこですかさずハイタッチ。俺たちは肩を並べて歩き出した。
 これがムーブメントのはじまりだ。
 「やぁ兄弟」
 男から応答はない。小刻みに頷きながら、俺から逃げるように歩き続けた。男は自分がムーブメントの先導者であることに気付いていない。それどころか、いきなり現れた俺のことが不愉快で仕方ない。俺もだよ。こんな冴えない男にそんな目をされて何が楽しい。でも、ここからが肝心だ。すぐには何もやってこない。胸に「愛犬」の小汚い男が二人。多くの者は無表情で小さく首を傾げるだけだ。眉間に皺を寄せて不快感を表す奴がいれば、そいつにはまだ見込みがある。
 でも、まずは「愛犬家」だな。犬を連れた小綺麗なマダムを間に挟むように俺はポジションをとる。するとどうだ。犬を連れたマダムの両脇に「愛犬」と書かれた冴えない男二人。もう無表情で首を傾げてなどいられない。誰もが目を丸めて振り返る。ここで気を付けなくてはならないのは、如何にしてマダムを逃がさず取り込むか。
 そこで、俺は腹に描かれたシーズーを指さして呟いた。
 「犬を探しているんです」
 「まぁ」
 マダムの応答に、俺はサクセスの予感。 
 「なぁ兄弟!」
 声を上げて、男に呼びかける。マダムが男の顔をのぞき込む。男は小さく目配せしつつ、なおも小刻みに首を揺らす。多少の効果はあったか。
 通学途中の学生の群に潜り込み、1人を釣り上げる。通勤途中のサラリーマンの群に潜り込み、3人を釣り上げた。非日常を求める輩はいくらでもいる。
 「なぁ兄弟!」
 俺は同志を釣り上げる毎に声を上げる。
 「おぅ兄弟!」
 中には理解あるサラリーマンもいるもんで、ムーブメントに加わるなり途端に共鳴しはじめた。俺たちは兄弟であるという連帯感ができあがる。続いてのアクション。俺たちは若者の集う繁華街へと繰り出した。
 眉間に皺を寄せて不快感を表すプロスペクトを見つければ、俺は先導者たる男を突き飛ばしてそいつに激突させる。倒れ込んだプロスペクトを引き起こしてムーブメントに引きづり込む。そして、日本シリーズ制覇さながらの胴上げをはじめた。
 繁華街を闊歩しながらプロスペクトを突き上げる。俺が「なぁ兄弟!」と声を上げれば、サラリーマンはドスの利いた声で「おぅ兄弟!」と呼応する。「なぁ兄弟!」「おぅ兄弟!」と繰り返していれば、不機嫌なプロスペクトから否が応にも笑いがこぼれる。そうなればサクセスだ。俺たちはそいつを取り込み、次なるプロスペクトへ狙いを定める。
 なんだか変な集団が、次々と若者を突き上げては輪に取り込んでゆく。最新型の遊びを見つけたように若者たちが吸い寄せられる。もう俺のやるべきことはない。先導者たる男はいつしか自ら狙いを定めて突進し、次第に大きくなるムーブメントが若者たちを引きづり込む。男は次第にいい気分になっちゃって、雄叫びをあげながら突進しまくった。
 俺にはその声がとても不愉快だった。次第に不満を募らせる。先導者たる男が俺に与えるインパクトはもう何もない。
 ムーブメントから少し飛び出せば、徒党を組んで闊歩する俺たちに見向きもせず街灯にもたれる若者一人。裏声で「グリーングリーン」を歌っていた。
 ある日パパとふたりで 語り合ったさ この世に生きるよろこび そして悲しみのことを グリーングリーン 青空にはことりがうたい グリーングリーン 丘の上にはララ 緑がもえる その時パパがいったさ~♪
 そして、俺はフェードアウト。

もういいかい

 大阪出張の帰り「のぞみ」52号東京行き。車内で弁当を食うことを好まない俺は、新大阪駅構内でラーメンを啜って新幹線に乗り込んだ。通路寄りのC席。会社支給のノートPCを開いてメールをチェックする。金曜日は比較的社内外からの問い合わせが少ない。緊急性のあるものにだけ返信してPCを閉じた。あまりマメに返信していると、レスのいい奴だと認識され、何かと面倒だ。

 スマートフォンを開いて、気になる人物のツィートを一通り確認。続いて、一冊の本を取りだした。

 「恋する原発」

 発売されて間もなく図書館で予約した本がようやく回ってきた。挑発的なタイトル。360度過激な内容。そして、著者特有のエロ、エロ、エロ…。通勤電車で読むには度胸が試される。これは文学作品ですから。己に言い聞かせ、眉間に皺を寄せて小難しい顔をする。それでも、頁を全開にする勇気はなく、直角に開いて顔を寄せる。多分な雑念や自意識と格闘しながら、どうにか読み進めた。帰りの新幹線で読み終えるつもりだ。

 京都駅にたどり着くと、困ったことが起きた。金曜日の夜ともなれば車内は満席に近い。三人掛けのB席に女性が割り込んできたのだ。俺は両手で開いていた本を、親指一本挟んだ片手持ちに切り替える。45度まで本を閉じて、さらに眉間を力ませた。

 女は席に着くなり一冊の本を取りだした。グレー一色の地味な装丁、ブルーの文字で打たれたタイトルがなんだかお洒落じゃない。

 俺は「震災文学論」の章を読み終えたところで、一度、本を閉じた。膝の上には、UKパンクか関西パンクかと見紛う末期色、否、真っ黄色の装丁。表紙を伏せれば中指を突き上げる男のシルエット。

 やがて車掌が現れた。俺は胸ポケットからチケットを取り出す。しかし、検札をしている様子はなく真っ直ぐに歩いてくる。よく見れば「神奈川県警」と書かれた制服警察官だった。なにごとか。N700系の東海道区間最高速度は時速270キロ。こんな閉鎖空間で事件なんて堪らんぞ。しかし、車内巡回とは限らない。容疑者護送中の一人が便所に立っただけかも知れない。それにしても、お腰に付けた拳銃をちらつかせて物々しい雰囲気が漂う。

 俺は基本的に新幹線移動というものが好きだ。本州である限り何処へ行くにも陸路を選ぶ。新幹線が好きと言うより飛行機が嫌いなのだ。鉄塊が宙を舞うことへの不信感もさることながら、空路の特別扱いが気に入らない。電子機器、通信機器の使用制限。ハサミ一本許さない持ち込み制限。出発15分前過ぎたら有無を言わせず閉ざされる保安検査所。乗り損なう不安感を煽り、不便な思いをさせておいて最後には決め台詞。

 「快適な空の旅をお楽しみください」

 シバクゾワレ。大阪帰りなもんで、ついつい。それとも電車があまりにも無防備なのだろうか。エーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッターが、スマンガラが相次いで捕まり、再び呼び起こされる記憶。

 

 テロル テロル 子供の時にだけ あなたに訪れる 不思議な出会い 

 

 妙ちくりんな歌が頭を過ぎり、俺は頭を振るってそいつをかき消した。

 隣の女はすでに本を閉じて眠りについていた。俺は再び本を開く。物語はついに最終章。

 メイキング☆7 ウィー・アー・ザ・ワールド。

 便所を終えた(?)警察官が帰ってきた。通路側のシートにもたれた俺の目の前を拳銃が通過する。手を伸ばせば奪い取れそうだ。

 「だるまさんがころんだ」

 大声で叫んだら立ち止まるだろうか。週末、覚え立ての息子と日が暮れるまで遊んだのだ。あまりの大きな声に恥ずかしくもなるけれど、遊び方を覚えることが何より大事なこの時期、こっちも本気で挑まなくてはならない。

 「だるまさんがころんだ」

 大声で叫んだら驚いた拍子に拳銃を引き抜いて銃口を向けるだろうか。あんたが探しているのは俺かもしれないぜ。

 それにしても、ウィー・アー・ザ・ワールド。クライマックスになれば、USA・フォー・アフリカを凌ぐ豪華ゲスト陣で、俺の眉間は力みっぱなし。脳味噌が圧迫されて目眩がする。原発に対して「反対」とも「推進」とも意見が持てない俺は、エンターテイメント作品としてしか読むことができない。ごめんなさい。どちらかというと、昔からCO2問題の方が関心あるんだよね。

 「じゃぁ、推進派?」

 隣の女が不意に目を覚ました。

 「いやあのそのあの」

 驚いた拍子に俺は女の首を絞めて揺さぶり始める。


子供のくらし

 清貧なんていう言葉がある。電子辞書(明鏡国語辞典MX)を叩いてみれば、「私利を求めず、行いが正しいために、その生活が貧しいこと」とな。
 美しいじゃない。清いじゃない。さぁ、今すぐ仕事を放棄しよう。
 私利など求めた覚えはない。投げ出すことが正しい行いではない。分かっている。生活は優雅とは言えないが、かと言って貧しくはないだろう。多少の娯楽を享受できる程度の収入を、必死に稼いで生きている。割と清いでしょう。
 冒頭に取り上げておいて申し訳ないが、清貧は却下。忘れてもらいたい。
 
 乞食になりたいと言っていた親父の言葉を思い出した。それ、
息子に聞かせる言葉か?臑齧り虫だったあの頃、なんて馬なことを抜かす鹿親父だと呆れた。今となれば分からないでもない。分からないでもないのが残念でならない。
 最近読んだ本から。
 「それじゃ人間ってのは何だっていうと、要するに子供がいちばんの基準だと思いますね。子供って、1日24時間、全部遊びじゃないですか。生活イコール遊びなんですよ。あれが理想でね、そいつを歴史になぞらえてみると、未開原始の社会と同じなんですね。(悪人正機/新潮文庫)」
 未開原始の社会というのは、狩猟、採集の生活ということかしら。それって、現代で言えば親父の理想じゃない。無理無理、実際。

 清貧なんて阿呆かっ。
 乞食なんて無理無理っ。

 苦労が美しいとは微塵にも思っちゃいない。俺は考えている。どうしたら楽して生きていけるのか。そこんとこ、実際、もう少し真剣になって考えるべきではなかろうか。何故、苦労を強いらる日々を受け入れて生きていかなければならないのか。
 「楽したければ己を高めろ」
 そうね。あんたの言うことは一理あるけれど、疲れたよ。あっちの山なら駆け上がれそうな気もするが、目の前は断崖絶壁。エブリデイ絶壁と向き合い、そして、俺は途方に暮れる。見上げはしても、手足をかける気にはなれない。

 「俺、案山子なんだ」
 正確に言うと、案山子が職業。俺の職業が案山子なんだ。麦畑のキャッチャーより田圃のスケアクロウでありたい。一次産業に携わるって素敵なことだろう。英語で言うとなんとも格好宜しいね。
 ネクタイを締めて、身支度を整える。毎朝、可愛いHONEYに見送られて俺が向かう先は田圃。満員電車に揺られて、勤務地に辿りつけば汗だくのスーツを脱ぎ捨てる。白いタンクトップに着替えて、麦わら帽子と軍手を身につける。
 そして、俺は田圃の真ん中に立つ。両手を広げる。
 「ご苦労さんだねぇ」
 トトロの婆さんみたいな女に優しい声をかけられ、俺は小さく会釈する。
 雀の群が現れれば全力で退治する。ただ立っているだけなら竹で作った案山子でいいだろう。こっちはプロなんだ。これでおまんま食ってんだ。俺は全身全霊でなまはげさながら。大声を張り上げる。田圃を練り歩く。
 「動くのかよっっ」
 そりゃ雀も驚いて逃げる。
 日が暮れれば、俺は再びスーツに着替える。疲れ切った身体を吊革にぶら下げて満員電車に揺られる。家に帰れば、スリッパを鳴らしながら可愛いHONEYが現れる。
 「おかえりなさい。今日はどうだった?」
 「ざっと300羽ってところかな」
 なんて理想を妄想。

 こんな歌を口ずさみたくなる。ガールズバンドの最高峰♪

 だから HONEY天使のKISSが 胸にとけて涙がほら こぼれる
 Oh yes my HONEYこのときめきを 時間よりも空気よりも 確かな

 Oh yes my HONEY広い夜空に やさしい目と強い腕を みつけた
 そして HONEYあなたがいれば 雨の日でも風の日でも 地球はまわるよ

 だから HONEY、
 そんな切り口で言い訳したい気分なんだ。
 俺は君にかまける。
 すれば苦労を苦労とも思わない。
 自己暗示だよ。
 子供の暮らしにはほど遠い。



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