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 その度に、相談者の彼女はこの上ない腹立たしさを覚え、その度にじっと我慢して来たが、親父さんはシルバー人材で・・・とはじまると、この頃は堪え症がなくなり、本気でその上司をぶっとばしそうになってしまいそうだと言った。

 その話を私にしているあいだ、彼女は今までの我慢を吐き出すかのように、私の前で泣き出した。そして、最後にこう言った。

「行ちゃん、私は、周りの人達と同じように普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に父と母を喜ばせることができて、普通に年をとって、普通に生きていけるのだと思っていた。だけど、普通に生きるって、それはとても難しいことで、普通に結婚生活を送ることができている人は、実は凄い人達なんだ、って、今頃になって気がついたわ」

 

 離婚を経験したり、適齢期を過ぎても独り者でいる女性は、隣の、家庭を持って生きている同世代の奥様を羨みはじめ、その隣の奥様は、家庭を持たずに生きている隣の自由人を羨みはじめる。出世の道から外れた旦那様と暮らす奥様は、隣の、部長の肩書をもった快活な旦那様と暮らす奥様を羨み、その出世コースをいく旦那様と暮らす奥様は、家庭を第一に考えている温厚な旦那様と暮らす隣の奥様を羨んでいる。いつしか自分の歩んできた過去を悔みはじめ、この先の目的がまったく見えなくなる、わからなくなる、というような状況に陥っていく女性達も少なくないのである。

 地元の、四十歳を過ぎても結婚せず、三万円代の安いアパートに暮らしながら従業員八人ほどの小さな製作所の経理を担当している女性、けい子(仮名)ちゃんは、『都内の出版会社勤務、独身、キャリアウーマン、マンションも購入したが、いつまでも会社の上司と不倫をしているわけにもいかず、私はこの先どうしたらよいのやら・・・』などの、適齢期を過ぎた独身女のドラマを見て、深刻に落ち込んでいる。

「出版会社勤務の独身女は、カッコいい上司とホテルのバーで待ち合わせだけど、私は地元に一件しかないラーメン屋で、還暦を過ぎたずーずー弁の行ちゃんとモツ煮込みを突きながら、瓶ビールだもんなあ」

 と、こんな調子である。相談したいことがあると言われ、彼女から呼び出されたのは私のほうなのだが、小心者の私は何も言い返しはしない。


 すると、今度はけい子ちゃんより一つ年上の、真由美(仮名)ちゃんがラーメン屋にひとりでやってきた。旦那といるとむしゃくしゃするのでひとりでラーメン屋に来たのだという。

 一般的には旦那のほうがラーメン屋に来るのではないか、と私は思ったが、これも言葉に出して言ったりはしない。

 真由美ちゃんは子供はおらず、旦那様とふたり暮らし。彼女は私の顔を見るなりすぐに私の隣の席に座った。独身男の私と独身女のけい子ちゃんがラーメン屋で密会しているというのに、誰も気をつかってはくれないのだ。そして、「ちょっと聞いてよ」と、真由美ちゃんは私とけい子ちゃんの顔を交互に見ながらそう言うと、唐突にこのような話をはじめたのである。

 

「今日、うちの旦那、救急車で運ばれたの」


「救急車?」

 私とけい子ちゃんはびっくりして真由美ちゃんの顔を見た。

「うん。でも、もう家に戻って来たけど・・・」

 真由美ちゃんは、救急車で運ばれた病院帰りの旦那様をひとり家に置いて、その旦那様に夕ご飯も作らずに出てきてしまったようである。

「だけど救急車とは穏やかでないな」

 夫婦喧嘩でもして、真由美ちゃんに突き飛ばされた旦那様は、今ではハンドルのところは真由美ちゃんのバック掛けになってしまっている、ダイエット用の室内自転車にでも頭を打ち付け、その打ちどころが悪くて救急車騒ぎにでもなったのだろうか、と私は思ったが、

「うちの旦那、伐採の仕事中にまたスズメ蜂に刺されたの。これで二回目。それで救急車騒ぎよ」

 私の予想は大きく外れた。が、その真由美ちゃんの話は予想以上に深刻なものだった。真由美ちゃんの旦那様は、現在、地元の森林組合に勤めている。地元では安定しているほうの仕事のようであるが・・・、

「だけど、スズメ蜂に二回刺されたのでは、今度また刺された時には危ねえぞ」

 どうやら、安定職のはずが、思わぬところに落とし穴があったようだ。私はスズメ蜂の恐ろしさを真由美ちゃんに教えてあげようとしたが、彼女はすでに知っていた。

「そうなの。今日、運ばれた病院の先生にも、行ちゃんと同じことを言われた。三回目は命の保証はないって。だから、もう今の森林組合で働くのは難しいでしょうって、私は旦那にそう言ったのよ。ここに来る前にそんな話をしていたの。そうしたらさ、うちのアホ旦那、何て言い返してきたと思う?」

「・・・・・・」

 他人の旦那様が女房に返した言葉など考えるのは面倒だから、私もけい子ちゃんも少し大袈裟に、おたくの旦那様は何て言ったんだ? という目を真由美ちゃんに向けた。その時のけい子ちゃんの目は、私以上に芝居がかっていた。

「うちのアホ旦那、私にこんなことを言ったの。今の森林組合の仕事を辞めたら俺のこの歳ではもう安定した仕事なんて見つからないぞ、またスズメ蜂に刺されると決まっているわけでもないのに、仕事を辞められるわけがないだろう、次に刺されたらその時はその時だ、その時に考えればいいべ、なーんてぶっこいたのよ」

 ※ぶっこいた、とは、言った、吹いた、という意味である。


 私は今の話を聞くまでは、仕事中に事故にあった自分の旦那様を、アホ呼ばわりはないだろうと思ったが、今の話を聞いて、確かに真由美ちゃんの旦那様は少しアホかもしれないな、と思い直した。そのようなことを考えていると、

「それなら今のうちに、旦那の生命保険をたんまりとかけておきな」

 すぐにけい子ちゃんがナイスフォローをした。と、今度は、

「うん。そうする。だけどいいなあ、けい子ちゃんは、これから旦那様を選べるんだもの」

 結婚に少し縁遠くなってしまっているけい子ちゃんに、真由美ちゃんは何とも呑気なことを言ってくれたのだ。それでもけい子ちゃんはあまり気にならなかったようで、

「生命保険と言えば、聞いた?」

「ああ、例の彼女のこと? 聞いたわよ」

「ということは、やはり、本当なんだ?」

「けい子ちゃんの耳にも入っているなら、そうなんじゃない」

 と、こんな調子で、私の目の前でまったく主語のない話がはじまった。

 いつの間にか真由美ちゃんの旦那様の話はどこかに消えてしまい、今度は、地元で生命保険の外交員をしている、自分達と年齢の近い、数回の離婚歴があっても男性に不自由しない女性のことで、けい子ちゃんと真由美ちゃんの話は盛り上がりはじめた。

 そして、最後はお決まりの、

「へえー。彼女が今年の秋にまた若い男と結婚する話は本当だったんだ。そうしたら今度で四回目よ。どうしてあの人は男にモテるのだろう。いいよねえ、別れてもすぐに別の相手が見つかる人は・・・」

「本当、いいなあ」

 と、隣の芝生は青く見えて羨ましい状態で、彼女達の話は終わりを告げたのである。

 結局、その日は肝心なけい子ちゃんの相談ごとは聞けずじまいとなり、私は、真由美ちゃんの旦那様のことは、生命保険も大事だが仕事を変えたほうがよいだろうというアドバイスをし、なぜに男と別れてもすぐに別の男が見つかるのか、という地元の生命保険外交員の女性のことは、ご本人達のご想像にお任せして帰って来た。その帰り際、

「ところで、けい子ちゃんは俺に相談ごとがあったのではないか?」

 そうけい子ちゃんに訊いてみた。


 けい子ちゃんはほろ酔い気分のまま、あはっ、と笑い、私の肩を軽く叩いた。

「大した用事でもなかったの。あとで行ちゃんに電話でも入れるわ」

 そう言って彼女は、ふらつきながらラーメン屋をあとにした。

 

 その夜、私は今日の彼女たちのことを考えてみた。

 彼女たちの目は、どこを見ているのだろうか。

 どの家の庭先を見ても、どれもこれも、それが雑草だったとしても、すべてが青い芝生に見えてしまっているようだ。しかし、私はここで彼女たちに、ふた言、み言、言いたいことがある。それは、「その芝生は本物だったか」と言いたいのだ。

「プラスチックで出来た芝生を見て、青くていいなぁ、なんて思っているのではないか。そんな目では駄目だぞ」

 と、言いたいのである。

 

 昔、私は、北関東の山に建つ大きな別荘の掃除をしたことがある。それは、友人が請け負った仕事の手伝いであったのだが、大変にしびれた仕事となった。その建物の中に入る前は、

「こんな広い芝生の庭のついた別荘を持てるくらいの、金持ちになってみたいなあ」

 などのことを言って、友人とその建物のオーナー様を羨ましく思ったものである。

 しかし、いざ玄関の扉を開けてみると、私も友人も咄嗟に首にかけていたタオルで口元を塞いだのを覚えている。家の中は酷い湿気とカビの匂い、そして室内はネズミの糞まみれ状態だった。数分前迄は、こんな別荘を持てるくらいの金持ちになりたいなあ、と言っていた私と友人だったが、気が付けば、

「どれほどの数のネズミがこの天井裏に住みついているんだべ、たまったもんじゃねえな」

 と、いう会話に変っていた。そう言っているあいだにも上から糞が落ちてきた。 

 その別荘は外周りだけは近所の人が管理してあげていたようで、庭の芝生は見事に青々としていたが、建物の中は、体の具合が悪くなるほど酷い状態だった。



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