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 北関東のこの小さな村で、私は、行(ぎょう)ちゃん、と呼ばれている。

 そして、この数年、私のところに悩み多き人達がやって来るようになった。

 

「行ちゃん、こんな調子で私はこれから先、生きていけるのだろうか」

 そんな悩みを抱えた女性達も少なくはない。

 ただ、私が多くの相談者を見てきて思うことは、相談者達の大半の人が、心の奥深くに、 『隣の芝生が青く見えて、落ち込んでしまう』といった、何とも厄介な感情の渦に巻きこまれ、身動きが取れなくなっているのではないか、というものである。

 これからのお話は、そのような彼女達のことを書かせて頂こうと思っている。だが、これは誰かれかまわずというものではなく、私の心に深く残った、自称、不幸のどん底女、と言っている、七人の女性達の物語を連載していこうと思う。

 彼女たちの特徴は、あの彼女はこれから一体どうなることやら、といった印象を周りの人達に持たれ、彼女達自身も、私はこれから一体どうなることやら、と落ち込んでいる。しかし、私の見立てでは、彼女たちの未来は大きなツキが巡ってくると出ているのだ。そのツキは、近い将来かもしれないし、十年、二十年、三十年先のことかもしれない。

 私は、そんな彼女たちの二十年後、三十年後の姿を見届けたいと思うようになった。そして、婆様になった彼女達に、「ほら、俺の言うとおりになったべ、生きていてよかったな」と、言ってあげたいのである。

 だから、私は百歳までは生きようと思っている。

 百歳まで生きられる術は、『癌』という字から学んだ。これから先も私は、滝行と瞑想を行いながら、北関東の山の片隅で生きていこうと思う。

 しかし、私が紹介したいと思っている七人の女性たちの中の四人は、まだ了承を得られておらず、この本のタイトルは、七色の芝生、ではなく、三色の芝生、のほうがよいだろうか、などと考えてもみたが、言葉の響きが、なないろ、のほうがよいので、『七色の芝生』にした、という次第である。

 

※このお話は、なるべく事実に基づいて書いておりますが、本人のプライバシー保護ため、彼女たちの名前、家族構成、勤務先等については事実と異なるものもあります。


 

 

 

七色の芝生


 冬になると、私は地元のお寺の境内にある滝行場を使わせて頂き、百日間ほど、滝行を行っている。行者のようだということから、私は、行ちゃん、と呼ばれるようになった。しかし、現在は周りの人達の、私を見る目が少し違ってきていることは否めない。

 

 それは二年ほど前のことだった。

 村に一つしかない信号機が赤になったので、私は運転していた車を止めて信号待ちしていた。すると、「ぎょう!」という声がどこからともなく聞こえて来たのである。女性の叫び声のようだったが、前方左右、人も車も来る気配はまったくなく、ということは後ろか、と思った私はバックミラーを覗いた。その私の感は的中した。ミラーには、隣町の高校に通う地元の女子高校生のくるみちゃん(仮名)の姿が映っており、彼女は本気モードで自転車をこいで私の元にやって来ようとしていた。

 くるみちゃんは私の車の横に、きゅっ、と自転車を付けると、「行ちゃん」と言ったきり、しばらくゼイゼイハアハアしていた。信号待ちしていた信号は、とうに青に変っていたが、前方左右後方、どこからも車の来る気配はなかったので、私は車を止めたまま運転席の窓を開け、「何だい?」と、自転車を跨いで呼吸を整えているくるみちゃんに訊いてみた。すると、

「行ちゃんに、教えてもらいたいことがあるの」

 彼女はゼイゼイハアハアしながら、そう答えた。

 そんなに息せき切って、どこから私の車を追いかけてきたのだろうかと思ったが、余計な無駄話はせず、私はすぐに本題にさしかかった。

「俺に何を教えてもらいたいんだ?」

 当時、くるみちゃんは高校一年生だった。好きになった男の子との相性でもみてほしいとでも言われるのかと思ったが、

「私のこの頭の中から、煩悩を消すことができる瞑想を教えてほしいの」

「?」

 彼女の口から、煩悩、瞑想、などの言葉が出たので私は少し驚いた。 


 信号機のある交差点から三百メートルほど行くと、寂れたガソリンスタンドがあり、私はそこでくるみちゃんと落ち合うことにした。村に一件しかない貴重なガソリンスタンドである。その店はガソリンを入れるだけでなく、待ち合わせ場所としても村人によく使われている。ガソリンスタンドに置かれている外のベンチに座り、私はくるみちゃんの話をよーく聞いてみた。彼女の話は、自分のお喋り性格を何とかしたいのだというものだった。

 くるみちゃんは高校の友達に、絶対内緒にしてね、と釘を刺された話しでも、絶対内緒だからね、と言って、その友達の内緒話を別の友達に喋ってしまうのだという。どうしても喋りたい欲求に負けてしまい、後悔だらけの毎日を送っているので、その喋りたい煩悩が湧き上がった時にすぐに消すことができる瞑想を教えてほしいのだと、彼女はそのようなことを私に言った。

 くるみちゃんは私の元に来る前に心を落ち着かせるための本を数冊買い求め、彼女なりに勉強したようだ。効果はどうであれ、その本から、煩悩、瞑想、などの言葉を覚えたようだが、友達の内緒話を別の友達に話したくて仕方がないという症状は、煩悩というものとは少し違うような気もした。が、余計な口出しはせず、私はその時にこのような話をくるみちゃんにしてあげた。

「雪が降っている寒い日でもな、お寺には参拝する人たちが多くやって来る。俺が滝を受けているあいだ、俺に手を合わせていく人もいてな、中には、お賽銭まで投げてくれる人もいるんだ。お賽銭は大半が硬貨だからそのまま水の中に沈んでしまうけど、それでもありがたいと思うぞ。だけどな、そう思いながらも、俺も貧乏人だから、時には、このお賽銭がお札(さつ)だったらいいなあ、お札だったらちゃんと俺の足元まで流れついてくれるかもしれねえな、お札を投げて貰えねえかなあ、なんてことを考えてしまうこともあるんだ。冷たい滝の水を受けていて、このまま死ぬかもしれないな、なんて状況の時でも、消えかけた煩悩が頭をもたげてくることもあるんだ。それでもな、本当にお札が俺の足元に流れついてそれを手に取ってしまった時には、周りの人達にえらく幻滅されることも想像できる。あの男は行者もどきだ、って簡単にそう思われてしまう。だから、ひと息ついて、これを行ったらその先はどうなるか、というものを考えられるようになることも、人生の大切な勉強だと思うぞ。それに、煩悩はそう簡単に消えるものでもないし、消えたからよいというものでもない。何度も言うが、言葉に出す前に、これを言ってしまったらその先はどうなるか、ということをひと呼吸置いて考えられるようになったら、くるみちゃんも一人前だ。自分の煩悩と上手く付き合っていけるようになってこそ、人としての深みが出てくるのではないか。俺はそう思うぞ」


 そのようなことを私は、喋りたい欲求に負けてしまうというくるみちゃんに、ぺらぺらと喋ってしまったのである。

 すると、その翌日のことだった、

「行ちゃんよ、行ちゃんは、行者でなくて、行者もどきだったんだな」

 と、何の前置きもなく地元の人にそう言われてしまったのだ。

 何のことだ? と私が理解に苦しんでいる頃にはすでに、私の、お賽銭の煩悩の話はたちまち小さな村の人達に伝わっていた。そのようなことで、それ以来、私は、行者もどき、という目で地元の人達から見られるようになってしまったのである。

 

 それでも、そんな行者もどきの私のところに、悩みを抱えた人達が多くやってくる。

 理由は、私は趣味で八卦占いを行っており、お金を取らないことをいいことに相談者が絶えないのである。相談者の多くは女性であり、四十歳を過ぎている人が大半だ。しかし、相談事を聞いて必ず八卦を立てるとは限らない。どちらかと言えば、立てないほうが多い。

 当然のことだが、相談内容も人それぞれである。「ひとり娘が嫁に行ってしまったら、我が家の墓守が自分たちの代で絶えてしまうのだけれど、どうすればよいだろうか」などのものもあれば、「現在、収入が少なくて国民年金を毎月、3,750円しか納めていないのだけど、将来のことを考えたら家族にお金を借りても、15,100円、ちゃんと納めたほうがよいだろうか」などのものもある。

 つい先日は、

「勤め先の部長を、ぶっとばしてしまってもいいだろうか」

 と、そんな物騒な相談ごとがやってきた。

 その相談者も女性であり、彼女の話はこうである。勤め先の上司は接客が下手であり、客人との会話に詰まると、突然、「そこに座っているうちの事務員さんは・・・」と言って彼女(相談者)の話をはじめるのだという。・・・彼女の住まいはどこそこで、地元の中学校を出て、うちの会社に来る前はどこのそこの会社に勤めていて、親父さんはシルバー人材で働いていて、いつもその辺で下草刈りなどをしている。彼女は結婚したけれどその旦那がパチンコに狂って別れた。そんなことで誰かいい人でもいたら彼女に紹介してあげてください、と、そのような調子で会社の上司は客人に彼女の素性話をはじめ、沈黙を回避するのだという。



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