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草あやめ(くさあやめ) 現代語訳

 

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草あやめ[1]

 二丁目の借家しゃくや地主じぬしは、江戸っ子気質かたぎのため敷地しきちざさず、裏町に面した木戸には『用のない者、立ち入るべからず、』と形式どおり記してはいるものの、表門にはとびらさえなく、夜がけても好き勝手に通行できる。ただ、それは知り合いに限ったことで、赤の他人については、俗に言う『通り抜け禁止』である。これは私も同意見だ。また、近所付き合いの五六軒に、確かに美人がいないわけではないが、むやみやたらとのぞき見られては困るし、のきには芸者屋の提灯ちょうちんの光もなく、奥から三味線さみせんの聞こえてくるような場所柄ばしょがらでもないので、頬被ほほかぶりをしたり、ふところに手を入れたり、湯上がりの肩に手拭てぬぐいを置いたような、いかがわしい姿も目にしたくはない。得意先とくいさきをまわる豆府屋とうふや、八百屋、魚屋、油屋などの出入りが許されているだけだ。
 そのほか、早朝には納豆売りや、近所の小学校に通う幼い子が、近道ちかみちなので五人か六人一緒に通る。また、毎月の一日ついたちと十五日には、『お花やお花、』と撫子なでしこの花や矢車菊やぐるまぎくなどの花売りが、二人三人、呼びかけながら行くのである。そのうち時間がつと、高下駄たかげた歯直はなおし、鋏磨はさみとぎといった職人が来て、紅梅の下の井戸端いどばた砥石といしえ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんを下ろす。目黒のたけのこ売りが、雨の日にみのを着て若柳の枝のかかった台所をのぞくのも情趣があるものだ。物干ものほしの竹竿が二日月ふつかづきに光って、蝙蝠こうもりがちらりと見えている夏の初めの、ある夕方、我が家の出窓の外を美しい声で売り行く者がいた。『苗や早苗さなえ胡瓜きゅうりの苗や茄子なすの苗』と、その声はちょうど、大川がぼうっとかすんで流れている、今戸いまどあたりの陽気な三味線の調子に似ていた。『ちょっと苗屋さん』と、窓から呼んで引き返してきたのを、小さい木戸を開けて庭に通すと、そこをくぐる時、笠を脱いだその若い男は、おだやかな目つきで、頬のまるい顔をにこにこさせて、『へいへい、どうぞご覧くださいまし、』と荷を下ろし、どれも元気のよい、あお鶏冠とさかのような双葉ふたばの苗を、日に焼けた手で一ツ一ツ取り出した。それを、年寄としより、弟、さらにお神楽座かぐらざ一座いちざ太夫たゆう、姓は原口、名は秋さん、またの名を女形おんながたという、見た目のいいのと、皆で縁側えんがわに出て見ると、一ツとして欲しくないものはないのだが、まず、『昼のおさかなはこれくらい、晩のお豆府とうふはいくら』と、計算する。もちろん、初鰹はつがつおは買わないとしてだ。そして、残りの小遣こづかいの中から、一分いちぶほどもする大変高価な苗を七八種ずばりと買う。もっとも、こんなに買っても、それを植える場所は五坪いつつぼにも満たない庭なのだ。
 隠元豆いんげんまめ藤豆ふじまめたで茘枝れいし唐辛子とうがらし、『生活のしになるものばかりだな、』とののしらないでいただきたい。苗売りの若い衆が、一つ一つ、『北海道の花茘枝はなれいしたかつめの唐辛子、せんも実のなる酸漿ほおずきつるなし隠元豆、よしあしの大蓼おおたで、手前のあきないまする玉蜀黍とうもろこしは、どれも粒揃つぶぞろいでございます、』などなどと、名前に花をえて言うから、思わず買ってしまったのだ。
 そのほか、朝顔、いちごなど、花も実もある苗の中に、呼び名のひどく大袈裟おおげさなものが二ツあった。一ツは『牡丹咲ぼたんざきの蛇の目菊じゃのめぎく』、もう一ツが『シシデンキウモン』である。我が愚弟ぐていはこの名前にすぐに聞きれて、『賢兄にいさん、買いなよ買いなよ、』と言う。この牡丹咲きの蛇の目菊なるものは、いわゆる蝦夷菊えぞぎくである。こんな風に…『我は清盛きよもり公から数えて九代目くだいめ子孫しそんたいらの、』…と平家へいけ豪傑ごうけつが名乗るごとく、『の』の字を二ツ付けたのは、『売り物には花をかざれ、』という格言に従ってのこと。けれど、もう一つのシシデンキウモンにいたっては、それがどんなものなのか、まったく見当がつかない。苗売りに聞けば『他にくらべるものがないほどしおらしい花です、』と言う。蝦夷菊を蛇の目菊じゃのめぎくと呼ぶのは趣がある。一方、しおらしい花に、それに似合わぬ『シシデンキウモン』などと名付けるのはちょっとせない。これを悪く言うつもりはないものの、問題は、この二種はどちらも、買うのに一分いちぶのほか、さらに五銭が必要なことなのである。
 けれども甚六じんろくという者は、『どうして白銅貨はくどうかたった一枚に躊躇ためらうのか、』と言う。そこで私がさりなく、『おい若造わかぞう君、シシデンキウモンにれ込んだのかね。何も白面金毛九尾はくめんきんもうきゅうびきつねのような花じゃあるまいし、いらんよ、』とさとして、そのまま二階に逃げ上がろうとすると、そのたもとつかまえて、『いいじゃないか、買いなさいよ。一ツしか咲かなくたって花に変わりはないじゃないか、』としつこい。『旦那だんな、だまされた思いなさって』と、苗売りも熱心にすすめるし、『僕が植えるから、』と女形もしきりに口説くどく。皆キウモンという名に血迷ったのだ。仕方しかたなく、私は長いため息をついて一分いちぶに加えさらに五百という大金を出した。


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