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13-2

 
「馬鹿にされても嘲笑われても、自分なりに一生懸命やってきたことが何も報われずにいることが……自分の大切な存在が突然消えていくのがどれだけのことか……あんたら、少しでも考えたことあるのかよ?えぇっ!?」
溜まりに溜まっていたものが噴き出したかのような翼の叫びは、その場に居合わせる全員を硬直させた。
しかし、それを何とか制しようと彼の横にいる圭介が口を開く。

「一也、お前の気持ちはわかる。……だが、終わってしまったことを嘆いてもしょうがないだろう」
「しょうがない?」
翼は圭介を横目で睨みながら呟くと、プッと噴き出すように笑い出した。

「アッハッハ……!まぁしょうがないだろうな。俺みたいなもはや存在価値の無いゴミクズには、似合ってる言葉だよ、兄さん」
「一也!」
「それに」
すると、翼はその鋭い視線の先を母に移した。

「あなたが今そんなものを頭にかぶる状態になってしまったのも、自業自得だろうが」
息子の放り捨てるような言葉に、母は口もとを震わせ始める。

「か、一也……」
「俺を散々罵ったバチがあたったんだね……。まさか癌になっていて下さってるとは」
翼の母に対する恐ろしいほどゆるやかな口調は、氷の冷たさのようなまさにそれだった。
しかし、その発言に対して父が割って入った。

「おい一也!お前、今何て言ったんだ……もう一度言ってみろ!!」
「聞こえてなかったのか?その女が癌になってくれてよかったって言ってるんだよ」
「な、何だと?」
父がそう問うと、翼は軽い溜め息をして再び口を開き始めた。

「本当はこの手で殺したいくらいだけどね。まぁ、おかけで俺がこの手を汚さずに済んだってコトだよ。みなさんわかりました?」
翼が笑い捨てるようにそう呟いたその時だった。


気がつくとガタンとした物音とともに、彼はソファ脇の床に仰向けに倒れていた。

「グッ…」
背中を強く打ったせいか、小さくそう声を漏らす。
そんな彼の上を、鬼のような形相をした圭介が、弟の襟首を両手で掴みながら組み敷いていた。

「圭介!」
「あなた!」
父と和美も思わぬ事態に飛び上がるように驚く。
しかし、頂点に達した圭介の怒りはおさまるはずもなかった。

「一也…お前どこまで腐ってんだぁ!!えぇ!?」
翼の襟首を放さない彼の怒声が、その場に響き渡る。
「母さんはな……お前が紗恵さんとあんなことになってしばらくたってから、申し訳ない申し訳ないってすごく悩んでたんだ!!だから謝りの手紙も闘病しながら一生懸命書いてあんなに送ってたんだぞ!!それがお前にはわからないのか!?」
「……わからないだと?じゃあ兄さんにはわかるか!?いつもあんたと比較されて見下されてきた揚げ句、立場や力を使って大切なものまでヘラヘラと踏みにじられた俺の気持ちが……あんたにはわかるのかよ!!」
圭介と翼が互いの言葉をぶつけ合うと、そこに頬をぐっしょり濡らした母が割って入った。

「もうやめて圭介も一也も……。私が悪いの……一也にあんな酷いことを自覚無しにとはいえしてしまったから……うぅっ……」
母はそう言うと、がくりと膝を床につけ翼のことをその潤んだ瞳で見つめた。

「一也、私のことが殺したいくらい憎いわよね。ごめんなさい……本当にごめんなさい……あぁっ……」
顔を両手で隠しながら泣き崩れる母を見てか、翼と組み合っていた圭介はピタリとその動きを止めていた。

「ワッ!」
しかし、この時をとばかり思ってか、翼は圭介のことを足で突き飛ばした。
起き上がって乱れた衣服を整えると、彼は茫然とする和美の前にスタスタと歩いていった。

「一也さん……?」
「和美さんも大変ですよね……こんな家に嫁いできたんじゃ」
すると、翼はジャケットの内ポケットから一枚の名刺を取りだし、それを和美の右手に強引におさめた。

「えっ、一也さんコレ……?」
「見ての通り僕の名刺です。ご用命の際は、"翼"をこの店で指名して下さいね」
そう言うと、翼は義姉である和美の頬にスッとキスをする。
「キャッ!」
和美が声を上げると、それを見ていた圭介が再び怒るのはすぐのことだった。

「一也お前ぇ!!どこまでふざければ気が済むんだ!!」
「こんぐらいのことでムキになるなよ兄さん」
翼と圭介は10秒ほど睨み合った。

「フン……」
翼は彼らに背中を向け、歩きだした。
「一也、お前どこに行くんだ?」
父がそう問い掛けると、彼は一瞬立ち止まりながら背中越しに答えた。

「東京に帰る。明日も仕事があるし疲れてるんでね」
「こんな時に言うのもなんだが……夕食だけでも食べていけ。母さん、体辛いのをこらえてお前の好きなすき焼きの用意して待ってたんだぞ」
驚くほど穏やかに話す父だったが、息子である彼が発した答えはその場にいた全員が思いもよらないものだった。


「いらないんなもん。てかさ……毒でも入ってたらどうすんだよ?」
「毒……だと?お前、本気でそんな-」
「聞いてないようだから言っといてやる。俺は絶対に許さない……」











「一生呪ッテ生キテヤル」









凍り付くような目付きで言い放った翼の一言に、そこにいる全員が絶句した。



母は再び泣き崩れた。
父も、圭介も、和美も、この時全員が確信せざるを得なかった。



もう、自分たちが知っている"浅川一也"は、どこにもいないということを-



優しかった昔の『彼』のことを思い返しながら、ただ茫然と立ちすくむしかなかった。










「じゃあね」
翼は一言そう言って、その場から立ち去っていった。

彼がツカツカと歩いて、ブーツに履きかえていたときだった。
「一也……」
よろめきながら歩いて寄ってきた母が、後ろから声をかける。
彼女の手には、アルミホイルの中に収めた丸い形をした物の姿があった。

「一也、これ。おにぎりを作っておいたのよ……。後で-」
母がそれを差し出したその時だった。
「こんな毒物、いらないって言っただろ?」
翼はそれをたたき落としては、玄関の床に転げ落ちたそれをブーツを履いた足でグシャリと踏み潰した。

「……!」
「じゃあ」
翼は最後にそう呟いて、生まれ育ったその家の玄関を後にした。



閉めた扉の向こうで崩れ落ちながら啜り泣く母の声は、もはや彼にとっては心地よいノイズのようなものでしかなかった。



「自分自身のしたバカに自覚した揚げ句、今度はそのストレスで癌か……あの女にはお似合いの結末だ……」
翼は、何を気にするそぶりをないまま、急ぐこともなく自分が住む東京・新宿へと戻っていった。










「♪♪♪~♪♪~」
東京へ向かうタクシーの中、翼のケータイが一つの着信を知らせた。
「愛菜だ。一体何だろう?」

今日この日から起こったすべての出来事が、狂い始めた運命の結末へと通じていた。





                                                   
第14章へ

14-1

 
「愛菜、一体どうしたんだ?」

翼は通話を終えたケータイを見つめながら呟く。
ただ彼がいまわかっていることは、普段の彼女からは考えられないほど感情的な口調で「早く来て」と訴えかけていたことだった。

「すいません、ちょっと急いで下さい」
とにかく一刻も早く新宿に着かなければと思いたったのか、翼は現在乗っているタクシーの運転手に急ぐように促した。



『あの愛菜が一体どうしたって言うんだ』

そう胸に秘めながら、次々と移り行く車窓の眺めを置き去りにするように、新宿への道を進んでいった。





約1時間後-

翼は新宿の『西総合病院』へと降り立った。

「愛菜からのメールだと、確かここだよな。かなりでかい病院だ」
時刻は午後8時を過ぎ、病院の外や入口にかけては人気がもう無くなりかけていた頃だった。
翼は案内板の表示に導かれるまま、病院の入口へと向かって歩いていった。
入口に差し掛かると、自動ドアが左右に開き、彼は中をそのまま突き進んでいく。
病院特有の匂いが、ケータイの電源をオフにする彼の嗅覚を襲うのには、そう時間はいらなかった。

「愛菜はどこだ?確かこの辺りにいるって-」
彼女を探すのに、そう多くの時間はかからなかった。
入口からすぐの人気が掃けたロビーに、ただ一人座っている彼女の際立った外見は、わかりやすいほどすぐに翼の目に留まっていた。

ただ不思議だったのは、愛菜の服装が昨夜"楓"で食事したときと全く同じものだったのは、翼の目から見ても明らかだった。
彼はそれが気はなったものの、ずっと斜め下を虚ろに見つめている彼女のもとに近づいていった。

「愛菜っ!」
翼が声をかけると、愛菜はゆっくりと顔を上げる。

「翼……来てくれたのね」
「どうしたんだよ、急に」
「……」
愛菜は再び顔を俯く。

「ごめんなさい、翼。休みの日に急に呼び出したりして」
「いや、いいよそんなの」
翼自身、先の家族との衝突の一件があったためか、今改めて休日だったという事実に気が付いた。

「そんなことより、どうしたんだい?愛菜があんな風に電話してくるなんて思わなかったから」
「うん、それはね……」
愛菜が話そうとしたその時だった。
一人の男性医師が、話している二人のもとへと速足で寄ってきた。
愛菜はそれに気付くと、ハッとしたように立ち上がる。

「先生っ!!」
いつになく声の大きい愛菜。
医師は二人のもとに着くやら、翼に対して頭を下げて一礼した。
翼もそれにならう。

「おばあちゃんは、今……おばあちゃんはどうなんですか!?」
「……」
愛菜に対し医師は一瞬黙りこくると、何か意を決したように口を開いた。

「そのことですが……」
「えっ?」
「一緒に来て下さいますか?おばあさんの待つ病室に」
力無く答える医師の言葉に、愛菜はどこか意識が遠のくのを覚えた。
「まさか…」
愛菜がそう聞くと、医師は顔を伏せたままそれ以上は答えようとはしなかった。

「嘘でしょ……」
さらに力無く、か細い声で呟く愛菜。
そのままゆっくり頷いた彼女は、医師とともにその病室へと行くことにした。

「翼……一緒に来て」
そう言いながら、愛菜は翼の腕をその細く華奢な指でキュッと掴む。
その力の無さに、翼は彼女が明らかにいつもと違うことを確信せずにはいられなかった。


2階へと上がり歩いて間もないところに、その病室はあった。
「どうぞ、行ってあげて下さい」
医師に導かれるまま、翼と愛菜はそこのドアの前へと立ち止まる。
「なぁ、おばあちゃんて……?」
事情がまだ飲み込めていない翼がそう聞くと、愛菜はそれに答えようとはせず、ドアをゆっくりと開けた。
開かれたドアの向こうには、三~四十代の四人の男女がベッドで横になる一人の人物に悲しげな視線を送っていた。
ドアが開かれたことにより、彼らはやってきた愛菜たちの存在に気付く。

「アッちゃん……」
病室にいる一人の女性が、愛菜に向かってそう言った。
「おばあちゃんは?おばあちゃんは……??」
愛菜がそう問い掛けると、ベッドからか細くかすれた声が彼女の名をゆっくり呼んだ。

「アッ……ちゃん……」
すると愛菜は、目の前にいる男女を掻き分けるようにベッドの方に駆け寄って膝をついた。

「おばあちゃん」
愛菜がそう言いながら見つめる先には、もう80超えているだろう老婆がベッドの上にて横たえていた。
彼女がキュッと手を握ることで、その老婆はスローモーション映像のようにゆっくり…ゆっくりと笑顔を見せる。

「アッ……ちゃん……」
「なに?どうしたのおばあちゃん?私、ずっとここにいるよ」
愛菜が手を握りながら必死に聞き返すも、もはや虫の息と言った状態の老婆の声は、ハッキリと聞き取れるものではなかった。
しかし、愛菜の耳にはしっかりと聞こえていた。


「こんなに……綺麗に……なっ……てくれ……て……」

「おばあちゃんもういいよ、それ以上しゃべらないで……おばあちゃん……」

「アッちゃん……に会え……て……おばあちゃ……うれ……し……かっ……」

「おばあちゃん……イヤ、そんなの……」


愛菜の声が力無く潤んでいるのが、後ろから見守る翼には痛いほど伝わってきていた。

やがて、心拍計のブザーが一定の音を鳴らし続ける。

それは、愛菜を初めそこにいた数人の男女が深く泣き崩れ始めるための、

辛く悲しい現実を突き付けられた合図だった。



「おばあちゃん、おばあちゃん……死んじゃイヤ!イヤ!死んじゃイヤぁあー!!」
なりふり構わず大きな声でベッドの白い掛け布団に顔を埋めながら泣きじゃくる愛菜。

そんな愛菜の肩を抱きながら一緒に声を上げて泣いている女性や、他の三人の男女。

そして、そんな見たこともない今の光景全てに絶句している翼。

その時翼にただわかっていたのは、



一人の人間の"死"という現実がもたらした、深すぎる悲しみだった。



今はただ、永く奏でるレクイエムのように止まることのない愛菜の泣き声を、



黙って聴きながらその場に佇むことしかできなかった。





約2時間後-

老婆の遺体は既に霊安室へと移され、愛菜は一人そこに座り込みながらピクリとも動かなかった。


「愛菜……」
翼はそんな彼女の後ろ姿を、ただずっと見つめていた。
「今は……ただ何も言わず一緒にいてあげて下さい」
医師は翼にそう言うと、ペコリと頭を下げそこから去っていった。



『愛菜が、あんなに取り乱すなんて』



すっかりやつれた背中が、愛菜の心労の度合いをわかりやすいほどに示していた。
ただ、今は医師の言う通り黙って見守るしかない……翼はそう思うことにした。


しかし、ずっと永く続くかと思われた彼女の沈黙は、意外にも早く破られた。

「翼……いる?」
「……うん、いるよ」

小さい声で自分を呼ぶ彼女の声は、ぐったり力が抜けたような聞き取りにくいものだったが、翼はただ懸命に話し、答えることに努めた。

「愛菜、大丈夫かい?」
「……うん」
「そうか」
明らかに彼女が大丈夫ではないのはわかっていたが、今はそっとしてやることが第一だと翼は自ずと言い聞かせる。

「ゴメンね、翼。こんなとこ見せちゃって」
「そんな、気にするなよ」
「いつものあたしじゃないし……こんなことになっちゃったから、引いたでしょ…」
「そんなことないって」
「無理しないで」
「愛菜!」
「……ゴメン」


"いつものあたしじゃない"


それは翼本人も十分にわかっていた。
しかし、今の人の"死"に直面し悲しみに打ちひしがれている彼女のことを考えれば、彼は無理矢理にでも仕方ないと納得しようと思った。

白い布で顔を覆った老婆の横たえる姿が、今彼女の心にどれだけのダメージを与えているか-
形は違えど、"大切な人"が自分の目の前から突然いなくなる痛みを嫌なほど理解していた翼には、それ以上何も言うことはできなかった。
 

「あのぉ……」
「?」
翼の背後から、先程老婆を看取っていたうちの一人の女性が話しかけてきた。
「失礼ですが、アッちゃん……彼女の彼氏さんか何かでしょうか?」
「あ……はい。彼女……病院で大切な人が大変だからってことで、それで」
"客とホスト"と言うわけにもいかないので、翼はうまくごまかしながら答えた。

「そうでしたか…」
「あの、お聞きしていいかわかりませんが、そちらは?」
今度は翼が聞き返す。


「私たちは、以前彼女が生活していた児童養護施設の者です」
「児童養護施設?」
翼が思わず口にすると、女性はコクッと頷いた。

「知らないのも無理はありません。あの子、自分の過去については一切語りたがりませんから。高校を卒業する18まで、あの子は私どものところにいたんですよ」
「そうだったんですか……。ちなみに、亡くなったあのおばあさんは?」
翼が問い掛けると、女性は一瞬躊躇してから答えた。

「あのおばあちゃんは、ボランティアで私どもの施設によく来て下さった方だったんです。とてもお優しい方でして、ご両親のいない彼女の母親がわりのような人でした」
「その人が、先程亡くなられて彼女はあんなに……?」
「えぇ……。子供たちにも大変慕われてて……。あんないい方でしたのに……」
女性はそう言って再び涙を流すと、それ以上は何も語らなかった。



『愛菜……』



翼は、深く沈んだ愛菜の後ろ姿を見つめた。
すると、彼女は突然スッと立ち上がる。

「お、おい」
翼は思わず声をかける。
「翼……行こう」
愛菜は思ったより冷静な口調で囁く。
「で、でも……」
「私は大丈夫。それと……先生」
愛菜は翼のとなりにいる施設の女性のことを呼ぶと、スッと振り返った。

「私、行くね」
「アッちゃん……」
思ったより健やかな表情の愛菜に、翼と女性は俄かに驚く。
「大丈夫なの……?」
「うん、もうたくさん泣いたし。これ以上泣いてたら、おばあちゃんに怒られちゃうよ」
「そう……そうね」
「北野さん、また来るね」
愛菜のその言葉に、女性は一筋の涙を流しながら首を縦に降った。

「翼、私たちは失礼するわよ」
「え?あ、あぁ。じゃあ、僕らは失礼します」
そう言うと、翼と愛菜は女性に頭を下げ、その場を後にした。

「愛菜、いいのか?」
「えぇ」
病院のエントランスに差し掛かったときまで、愛菜は翼の顔を一切見ようとしなかった。
しかし、彼女はふと翼の方を振り向き口を開く。

「翼」
「ん?」
「お願いがあるの」
「……何だい?」
「今日あなたが締日後の休みだってことはわかってるんだけど」
「うん」
「もうちょっと、一緒にいてもらってもいい……?」
「……あぁ」
「ゴメンね……ありがとう」
「遠慮なんてしなくていいよ」
「うん、ありがとう」

翼と愛菜は、病院のターミナルから一台のタクシーを拾い、それに乗り込む。

「新宿の西口で」
運転手に行き先を告げ、二人を乗せたそれは、暗い闇の中を街の光の明るさに向かって突き進む。
車内での会話を一切することなく、二人はただ目的地まで固い沈黙を守っていった。





約30分後-

二人を乗せたタクシーは、目的地に到着する。
「ここは……」
翼は思わず呟いた。
「そう、微妙に懐かしいでしょ?」
「うん」
二人が目の前にしているのは、新宿西口のオフィス街に堂々とその姿を構える、愛菜が御用達のシティホテルだった。

「さぁ、夜もふけてきたし行きましょう」
「あぁ」
翼と愛菜は、まるで普通のカップルのようにホテルのエントランスへと入っていった。

14-2

 
「俺が光星さんに酔い潰されたあの時以来だなぁ」
ホテルの一室に入ると、翼はどこか懐かしみを感じながら言った。

「そうね」
愛菜はスプリングコートを脱ぐと、それをソファに放るように置き、ベッドに吸い込まれるように腰をおろす。

「あの時に比べたら、翼はホントにホストらしくなったわ」
「愛菜のおかけだよ。俺がここまで成長できたのも」
「そんなことないわ。翼自身がちゃんと努力をして自分を証明してきてる証拠よ」
「あ、いや……。でもありがとう。愛菜には感謝してる」
精神的に疲れている愛菜を気遣ってか、翼はどこかいつもよりも優しい口調で言った。
彼女が凜と振る舞っていても、想像以上の悲しみと寂しさで落ち込んでいるのは、翼自身も夜遅くにここに自分を連れてくる時点で気付かざるを得なかった。


「愛菜、何か飲もうか?お酒でも。今日は俺におごらせてよ」
「……うん」
どこと無く力無い愛菜の返事を聞きつつ、翼はルームサービスでシャンパンと軽食をオーダーすることにした。

「ごめんなさい翼、仕事でもないのに気をつかわせちゃって」
「いいって。こんなときは飲もう」
「うん、ありがとう……」
 



約20分後-

翼たちは、部屋に届いたシャンパンを飲み始めていた。
「よし飲もう」
「うん」
人が亡くなったこともあり、二人は「乾杯」の合図はせずにそのままシャンパンが注がれたグラスを口に移す。

「今日は振り回しちゃって、ホントにごめんね」
「いいって謝るのはさ。愛菜、さっきから謝ってばっかりだよ?俺にはそんな気遣いはいいからさ」
「うん……」
愛菜はそのまま無言でシャンパンを一気に飲み干す。
「ふぅ」
「大丈夫か?そんなに一気に飲んで」
「大丈夫……大丈夫よ」



『大丈夫なわけあるか』



翼はそう言いたかったが、以前自分にもショックで飲んだくれていた過去があることを思い返すと、とてもではないが言えなかった。
今は、愛菜が少しでも安心できる状態にしよう……翼はそれだけを考えていた。

その時だった。
「翼、あたしさっぱりしたいからちょっとシャワー浴びてくるね」
「え?うん、わかった」
「だから、ちょっと一人で飲んでて」
すると愛菜は、すぐにバスルームへと向かっていった。

「シャワーか…。ちょっとさっぱりしてもらった方がいいかもな」





約30分後-

愛菜はいつまでたっても、バスルームから出てくる気配はなかった。
おかしいと思った翼は、こっそりバスルームに近づきドアもとに耳を澄ませる。
すると、無尽蔵に流れるシャワーの音の中に、弱々しく崩れていくような女の声がするのを微かにだが彼の耳は捉えた。

「愛菜?いい加減遅いけどどうしたんだ?」
「……翼……」
心の中でもしものことを想像していた翼の中に、一つの安堵感が生まれる。
すると、バスルームの中の愛菜から、思いもよらない言葉が返ってきた。

「翼……」
「なに?」
「こっちに来て……」
「えっ?」

予想外のことに、翼は目を丸くする。
「だって愛菜、今シャワー浴びてるんだろ?」
「イヤ……?」
「いや、そんなことはないけど……」
「じゃあお願い……一緒にいて……」
次第に彼女の言葉に力が無くなっていくのを感じた翼は、やむを得ずシャワーの音が続いていくバスルームの中に入ることにした。



「入るよ?」
翼は一言断りを入れ、バスルームの中へと足を踏み入れた。
シャワーの音がよりハッキリすると同時に、蒸気に乗った石鹸の香りがフワッとその空間を舞う。
愛菜がいるバスタブは、白いシャワーカーテンで仕切られている。

「愛菜?」
「服を脱いでこっちに来て……」
翼が呼びかけると、愛菜は一言そう答えた。

「いいのか?俺が入っても」
「……」

愛菜はそれ以上は答えなかった。
翼は自らの服を脱ぎ、シャワーカーテンの向こう側に入ることにした。



『愛菜、やっぱり強がって気を張ってたんだな……』



そこらじゅうに雑に散らかされた愛菜の衣服を見て、翼はそう思った。
すると彼は、カットソー・ミニスカート・下着を丁寧にたたんで洗面台の脇にある籠に置き、自らの衣服を脱ぎ始めた。
どこか恥ずかしさはあったものの、全裸となった翼はカーテンの前に立った。

「愛菜、入るよ」
そう言って、呆気ないほどに軽いシャワーカーテンをするりと横に開いた。



「愛菜!」

バスタブの中にガクリとしゃがみ込む愛菜。


それを見つめる翼。


シャワーから容赦ない雨のように降り注ぐ温かい粒が、震えながら沈み込んでいる愛菜の美しく華奢なその身体を濡らしていた。


「おばあちゃん……うっ……えっ」
バスタブに激しく落ちるシャワーの音に雑じり、愛菜の弱々しい声が翼に伝わっていく。


「愛菜…」


翼は、彼女の名前を呼ぶと、それ以上は何も言わなかった。


ただ、何も言わず、


悲しみに臥せる愛菜の頭をギュッと抱きしめていた。


「翼……」



「今は、何も考えるな……」



「うん……」



愛菜は、ぐっしょり濡れたその身体を翼にピタリと埋めた。



翼は、その多量の涙で濡れ、今にも崩れていきそうな愛菜を、ただその腕で支えた。



ただの情か、恋心か、仕事だからかはわからなかった。



ただ、翼の心の中から沸き上がる一つの気持ちが、愛菜を放ってはおけなかった。



気がつけば、二人は互いの背中を両方の手でまさぐっていた。










「翼、お願い……」



「何だ……?」



「今日だけは……今夜だけでもいいから……客じゃなくて、あたしを一人の女でいさせて……!」





翼と愛菜は、重ね合わせる唇を合図に、激しく、どこか儚く、互いを求め合った。



無限に降り注ぐ温かい雨が深い悲しみを洗い流すかのように、



二人の身体を、濡らしていった。





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15-1

 
「んんっ……」
カーテンの狭い隙間から差し込む一筋の明るい日の光に、ベッドの上の翼の目は覚めた。

「朝か…」
そこを睨みながら右手で目をこすると、彼の左胸部にピタリと頭を埋め眠りこける人物の姿があった。



『愛菜。そうだ、確か俺たちは-』



翼は、しわくちゃに乱れた白い布団の中に全裸で横たわる自分たちの姿を見ては、昨夜のことを思い返していた。

「そうか……そうだったんだよな」
翼はすっかりくしゃくしゃになった愛菜の髪の毛を軽く撫でる。

「う……ん……」
愛菜が色めいた甘い吐息とともに声を漏らしながら、その瞳を徐々に開ける。

「翼……」
「愛菜、おはよう」
「おはよう……。あれっ?あたしたち……」
「うん」
愛菜は、今の自分たちの状態に改めて気付くと、ほんのり顔を赤らめる。

「はずかしい」
「ステキだったよ」
「ばかっ」
頬を膨らます愛菜は、その弾力と張りのある白い胸をギュッと押し付けながら翼に抱き着いた。

「翼も……よかったよ」
「そうなんだ」
「うん」
翼と愛菜は、再び互いの背中に手を回し、固くロープを結ぶかのように舌を絡め合った。


「翼、
ありがとう」
「えっ?」
「翼のおかげで、少し元気になれたかも」
「そうか……よかったよ」
翼は愛菜の乱れた髪の毛を直すように軽く撫でる。
その際に、彼に抱き着き甘える彼女の姿は、普段の愛菜からは想像はできない、純粋無垢な少女そのものだった。
翼は、それが意外でならなかった。

「起きようかな」
そう言って、ムクリと起き上がる愛菜。
美しいラインで描いたようなその華奢な身体は、全裸になっていることで、ますますその繊細な白さを表していた。
しかし、その時だった。



『ん?あれは何だ??』


翼は、起き上がった愛菜の背中の下に、ある小さな模様のようなものを見つける。
薄暗い部屋の中をぼんやりと浮かび上がっている銀色のそれは、一本の縄のような細い物に絡められた鳥の羽根を形どっていた。

「……??」
翼はそれに目がくぎづけになったまま動かなかった。

「さてっ、カーテン開けようか」
片手に持ったバスタオルで前を隠した愛菜がカーテンを開けると、眩しいばかりの光が一瞬にして部屋全体に行き渡る。

「わっ」
翼は眩しさのあまり目を閉じた。
その際に、光に照らされた愛菜のボディラインが輝きによって浮き出ていく。

「いい天気……」
愛菜は、窓から映る晴れた景色を見つめながら身体を伸ばした。
「……」
翼は目を擦りながら愛菜の後ろ姿を凝視したが、さっきの模様のようなものは、幻だったかのように痕跡のかけらもなかった。
確認できたのは、いつもの彼女の白い素肌そのものだった。



『おかしいな、確かにさっき-』



「翼?」
「あっ」
いつの間にかバスタオルで身体を覆っていた愛菜の声で、翼はハッとする。
「どうしたの?ぼーっとしちゃって」
「あ、いや……」
「?」
「やっぱり、スタイルいいなぁ~と思って」
「もうエッチ!どこ見てるのよバカ!」
愛菜は赤くなりながらも、どこか嬉しそうに顔を背けた。
しかし、一方の翼は何とかごまかせたとホッとしていた。



『あんな模様、昨日シャワー浴びてた時にはなかったはず……』



自分の寝ぼけによる見間違いか-
翼は気にかかっていたものの、これ以上考え込むのはやめることにした。
愛菜本人に詮索することもできるが、昨日の病院での一件もあることを踏まえると、今は聞くべきでないと判断した。



「翼っ」
「何だ?」
「ありがとうね。昨日はホント寂しくて潰れそうだったから」
「愛菜、俺は何も-」
「翼が、いてくれてよかった……」
愛菜は涙ぐみ、一筋の涙を零す。

「愛菜、大丈夫か?」
「うん……。今日、もう一度おばあちゃんがいる病院行ってくるわ。翼は今日から仕事でしょ?だから帰って少し休んで」
「あぁ……」
翼と愛菜は、その後別々にシャワーと着替えを済ませると、部屋を出ることにした。


「ありがとう……」
愛菜は再び翼に抱きつき、顔を埋めた。
ホテルを出て愛菜と別れた翼は、一人タクシーに乗り自宅への帰路についた。

「ふぅ」
シートにもたれ掛かれ深いため息をつく彼の脳裏には、愛菜のことが強くあった。



『天馬さんが前に言っていた、愛菜が悩んでることって……このことだったんだな』



それと同時に、翼の中には愛菜を抱いた感触が未だ鮮明に残っていた。



『最後に紗恵を抱いて以来、かな』



複雑に絡まる思いを抱きつつ、翼はタクシーから見える輝く青い空を見つめていた。





1時間後-

翼は、自宅のベッドにてドサリと倒れるように横になった。
「ふぅ……」
ふと彼の口から出るため息が、昨日のからのことを思い返させる。
「……」
部屋の天井をを見上げる彼のまぶたは、次第に重さを増していった。



『どこかで……どこかで見たことがある……あの、縛られた羽根のような印』


心の中でそう呟いているうちに、翼は深い眠りへと入っていった。
何か不思議なものに吸い込まれていくように-。










翼は一つの夢を見た。










『ん?』










『それは……』











『セ……イバ……カ……イ』









『そんな……』










『そんなはずは!』











「そんなはずはっ……!」

翼はそう叫びながら、目をカッと開けた。
「ハァ……ハァ……」
上半身を起こした彼の額や首は、拭い切れないほどの汗で滲んでいる。

「何だったんだ、さっきの夢は……」
そうつぶやきながら、彼は右手をこめかみに当てる。
ハッキリと記憶には残らない不気味さだけが残る夢……。
翼の脳裏には、それだけが強く刻まれていた。

「一体何だったんだ」

そう言いながら、翼は時計を見ようと部屋の中を見渡した。
時刻は午後2時半。
昼下がりになり、店への出勤時間である午後4時へと近づこうとしていた。

「店、行かなきゃな」
翼は重い体を起こして、出勤への準備を始めた。

「……」
翼はスーツに袖を通しながらも、さっきの夢のことが気になっていた。
「時間だ、行くか」
どこか蟠りは残りつつも、翼はそのまま家を出た。

たかが夢だ、気にしててもしょうがない-

そう思うことにした。





30分後-

翼は【Club Pegasus】のあるビルのエレベーターの中に入ろうとしていた。

「翼くん」
背後から翼に声をかけてきたのは、由宇だった。

「由宇さん、おはようございます」
「おはよう」
挨拶を交わした二人は、そのままエレベーターにて4Fへと移動する。

「今更だけどさ」
「えっ?」
「翼くん、変わったよな」
「急にどうしたんですか?由宇さん」
「入店のときは、正直何だコイツって思ってたけど。今はすっかりホストらしくなってさ。新人からも優しい先輩だって評判だよ」
「そんな」
「これも、愛菜さんのおかげなのかな」



『愛菜-』



由宇の口から出た彼女の名前で、翼は昨夜の出来事を思い出す。

「そうかもしれないですね。俺も彼女にはすごく感謝しています」
「言ってくれるね」
エレベーターのドアが開くとほぼ同時に、由宇はフッと笑みを零す。

「俺は別にいいけど、うかうかしてられないな。光星さんは……。じゃあ、今日もがんばろうか」
そう言うと、由宇は足速に店の中へと入っていった。


「おはようございますっ!」
翼はエントランスから大きい声で言った。

「おはよう翼っ!」
「翼さん、おはようございます!」
周囲のホスト達が、笑顔で迎えるように翼に挨拶を返していく。
入店当初と比べて徐々に変わってきた周囲の反応が、彼の中の仕事の手応えをさらに実感させる。

「翼くんっ!おはよう!」
今日も元気いっぱいの羽月が、張り上げるような大きな声で挨拶をする。

「おはよう」
「翼くん、こないだはゴメンな」
「えっ?」
「俺、めっちゃ酔ってもうて……」
羽月は、恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。

「気にするな。でも、これから飲み方気をつけろよ」
「うんっ、おおきにっ!さぁ、今日もがんばろな!」
羽月は翼にそう言いながら、ニカッと笑った。


「あっ!」
翼は何かを思い出したように叫んだ。
「翼くん、急にどないしたん?」
「実はさ、これ」
首を傾げる羽月を前に、翼はジャケットの胸ポケットにゴソゴソと手を入れる。
すると、そこからスッと一枚の写真を取り出した。

「あっ!」
羽月は思わず声を上げる。
「この間愛菜と三人で飲んだ後タクシーで送ったときに、俺の足元に落ちてたんだ」
翼がそう言うと、目を大きく広げた羽月はその写真を彼の手から強引に奪い取る。

「わっ」
「これ、よかったわぁ……翼くんが持っとってくれたんやぁ!」
「やっぱり、君のだったのか」
「うん、めっちゃ大切なものやから……。ホンマどこに落としたかって心配で心配で」
羽月は泣きそうになりながら、手に取った写真を見つめる。
すると彼は、突然目の前の翼にガバッと抱き着く。

「わっ、おいっ!」
「翼くんおおきに、ありがとう!これ拾ってくれて、めっちゃ嬉しいわぁ~☆」
自らの頬を翼に擦り付ける羽月。

「おっ、おい!やめろって!気色悪いな……!」
「あっ、ゴメンな翼くん。つい嬉しゅうて」
羽月は翼から離れ、僅かに乱した彼の服をササッと整える。
翼は、そんな嬉しそうな羽月の手にある写真を改まるように見つめる。

「なぁ、そんなに大切なものなのか?それ」
「え?うん」
羽月はフッと寂しげな表情を浮かべる。

「あのさ、確認のためにちょっと見させてもらったんだけど……もしかしてそれ」
翼が尋ねると、羽月は切なげな笑みを浮かべながら口を開いた。

「あぁ、これはガキの頃の俺やねん。わりとかわいいやろ?んで……」
羽月は写真に写る少女を指差す。

「こっちは、俺のお姉ちゃんや」
「お姉さん?」
翼は笑う写真の中の姉弟を改めて見つめた。
とても楽しげに姉と手を繋ぐ少年"直人"には、思っていた通り羽月の面影を感じていた。
そして弟の横でかわいらしい笑顔を見せる、姉"茜"。

あどけない無邪気さを感じさせるその古い写真を大切そうに手に持つ羽月を、翼は神妙に見つめる。

「ホンマ、よかった……」
その時、羽月の頬に一筋の涙が零れる。
「ホントに、君にとって大切なんだな」
「うん」

しかし、その時翼は胸の中でハッとした。



『たしか彼の家族は……』



「なぁ、答えたくないならいいんだけど一つ聞いてもいいかな?」
「何や翼くん、改まって?」
翼は一度息を呑んでから、再び口を開いた。

「前一緒に飲んだとき、君の家族はバラバラにって言ってたけど、もしかして……?」
突然の翼からの質問に一瞬目を丸くするものの、羽月はすぐに答えた。

「うん。前酔ったときにどこまで言ったかわからへんけど……俺、1月に東京来るまで10年間京都の親戚んとこにいてな。その前はこっちにいたんや」
「東京に?」
「うん。詳しく言えへんこともわからへんこともあるけど、どこに引き取られたかもわからずに離ればなれになったアネキが、東京の新宿歌舞伎町で働いとるって話をつい半年くらい前に聞いたんや」
羽月の瞳が次第に遠くを見つめる。
彼は続けた。

「ホンマか嘘かわからへん話やけど……俺、いてもたってもいれへんようなって。俺を預かってくれてたじいちゃんに言って東京に来たんや。"いつか絶対、姉ちゃん捜してくる"って」
羽月の口調が少しずつだが強くなっていくのを翼は感じた。
羽月はさらに続けた。

15-2

 
「もちろん何のあてもないで。けどな、もしホンマに姉ちゃ……アネキが歌舞伎町で元気に生きておるとしたら、と思ったら……。俺、前からやりたかったホストでいっぱい稼いで、アネキに楽して欲しいんやて。俺、ガキの頃アネキに迷惑ばっかかけとったから。他にも色々できることあるかもしれへんけど、アホの俺にはこんなことしかできんのや……」
いつの間にか涙声になっている羽月を、翼はただじっと見つめた。

「だから、これ失くしたときはどうしようかと思うたわ。俺にとっては、もうたった一人かもしれん肉親やから」
羽月は泣いていた。
泣き顔を隠すように、その手にある写真を顔の前につけた。



『たった一人の肉親……』



翼は複雑な想いを抱いていた。

「あっ、ゴメン翼くん……シラフなのにこんなみっともないとこ見せてもうて」
羽月は目をゴシゴシ拭いながら言った。
「あ、いや……」
「ホンマに写真おおきにな。あ、そろそろミーティングや」
羽月がそそくさとフロアに行こうとした時だった。



「羽月!」
翼がそう口にしたとき、羽月の動きが背中越しにピタリと止まった。











「お姉さん、見つかるといいな」
翼がそう言うと、羽月はコクッと頷き、少しずつ肩で笑い始めた。

「どうしたんだ?急に笑ったりして」
すると、羽月はくるりと振り返る。
「初めてやな~と思って。翼くんが俺のこと名前で呼んでくれたの!」


翼と羽月は、互いに見合うとフッと笑みを零した。
「さっ、今日からまた仕事がんばろう!」
羽月は、そう言いながらフロアの方に元気に向かっていった。











翼は言えなかった。






どんな事実があったか不明とはいえ、






自分が、その例の事情に関わったかもしれない"浅川"の血を引いていることなど、






彼の口からは口が裂けても言えなかった。






そう心に抱きながら、






翼も仕事と言う名の戦場へと向かっていった。

「よし、今日もやるぞっ!!」
天馬の掛け声を狼煙に、今日の【Club Pegasus】の営業は幕を開けた。
翼たちホストも、それぞれのいつも通りの仕事に入っていく。

「翼、ちょっといいか?」
天馬が翼に話し掛ける。
「社長、何ですか?」
「もう聞かなくても知っていると思うが、愛菜の例のおばあさんのこと-」
「えぇ…」
「さっきあいつからメールが来たよ。翼がいてくれて助かったってな。これから葬儀やら何やらで辛い時期だろうからな。何かあったらお前が支えてやれ」
「はい」
「もちろん、他のお客のことも忘れるなよ!」
天馬は、そう言うと翼の肩をポンと叩きキャッシャーの方へと向かっていった。

「よしっ!」
翼は、気を改めるように今日の仕事へと入っていった。




PM 6:00-

【Club Pegasus】への客足は途絶えることはなく、席は次々と女性客の姿で埋めつくされていった。
もちろん、翼の指名客も来店し始めていた。

「翼っ!」
明るい巻き髪に、今にも見えそうなミニスカート姿のサングラスをかけた一人の客が翼の名前を呼んだ。
「梨麻!」
「へへ~来ちゃった☆」
以前とはさらに比べものにならないほどさらに派手になった梨麻の姿に、翼も驚きを見せる。

「いらっしゃい!また露出が増えたね~」
「えへっ☆だって翼に見てほしかったんだもん!」
「またまた」
翼と梨麻は、そう話しながらソファに座る。

「ねぇねぇ翼聞いて!私ね、店でついにNo.1になったのぉ!」
「ホントに?すごいじゃん梨麻!」
「あはっ!果穂ちゃんにもついに勝ったしね、これも翼がいつも励ましてくれたおかげだよ☆いつもありがとね」
梨麻はそう言いながら、翼の腕に胸を押し付けるようにギュッとしがみつく。

「梨麻ちゃんはもう酔ったんですか~?」
「はーい♪」
翼と梨麻は、とても楽しげにその場の雰囲気を作っていた。

「すげぇよな~翼さん、愛菜さん以外にあんな可愛い女の子が太客にいるんだもんな~」
「あぁ。ダメホストなんて言われてたらしいけど、そんな面影なんて全くねぇよ」
二人の新人ホストがそう話していたときだった。

「お前ら何言ってんだ?」
ギロリと二人を睨み据えながら言ったのは光星だった。

「光星さん…」
「お前らよぉ、あんなカスを褒めてる暇があったらてめぇの指名でも取りやがれ!」
「……はい」
光星は「チッ」と口を鳴らすと、ヅカヅカとその場から消えていった。

「何だよあいつ……翼さんに今にも抜かされそうなくせによ」
「なぁ」
二人がそう話しているのを、翔悟は離れたところでじっと見ていた。
そこに天馬がやってくる。

「光星のやつ、かなり焦ってるな」
「社長にもそう見えますか?」
「あからさまだ。自分の客になるかもしれないはずだったあの梨麻って子を翼に取られ、しかも太い客に育ったんだからな」
「ですかね……あいつももうちょっと骨のある奴だと思うんですが-」
翔悟はため息をつくように言うと、天馬は彼の肩に手を置きながら口を開く。

「翔悟、お前も気をつけた方がいいぞ」
「えっ?」
「翼には他にも客が……特に愛菜がいることを忘れるな。うかうかしてると、お前まで食われかねないぞ」
「社長……社長は俺と翼とどっちが上だと思ってるんですか?俺があいつに負けるなんて-」
「どれだけ実力があろうが客がいようが、ホストは結果がすべてだ。お前も十分すぎるほどわかっているだろう?」

そう言葉を交わすと、天馬と翔悟は接客している翼を見つめた。



『翼……か』



「翼、B卓に千春さんだ!」
「はいっ!梨麻、ちょっと待ってて」
佐伯に言われ、翼は梨麻といたテーブルを後にし、新しく来店した女性客の方へと向かった。

二人だけではなく、光星も由宇も、佐伯や他のホストも、そして羽月も……皆が認めていた。
入店当初からホストとして凄まじいほどに成長した翼の姿は、まさに光り輝いていく磨かれた原石そのものだったことを-。



数時間後-

【Pegasus】の営業は終わった。
「ちょっと楓さんのとこで食べてこうかな」
翼は、やや疲れを見せながら、一人ふらりとネオンの中を歩いていた。
歩くこと数分、看板の明かりのついていない"楓"の前に着くと、そこには柴犬のチョコと戯れている羽月の姿があった。

「あれ、羽月?」
「え?あ、翼くん!呼ばれ慣れんからびっくりしたわ!」
「ここでどうしたんだ?」
「あぁ、見てやこれ」
羽月が指差す先には、引き戸に接着された一枚の貼り紙があった。
翼はそこに書いてある内容を口にし始めた。

「"申し訳ありませんが、都合により休ませていただきます……楓"。休みなのか今日、定休日でもないのに?」
「そうみたいなんや。俺腹減ったからソッコー来たんやけど…残念やな」



『どうしたんだろう?』


翼は不思議に思いつつも、今日の"楓"での食事は諦めることにした。

「ラーメンでも食べてくか」
「おっ、えぇなそれ!チョコ、またな」
翼と羽月は、どこか切なそうなチョコの頭を撫でると、その場を後にした。



2時間後-

帰宅していた翼のケータイが鳴った。
彼は、直ぐさま着信を確認する。

「愛菜」
着信は愛菜からのものだった。
翼はその後の彼女のことが気になってか、すぐにそれに応答した。


「もしもし、愛菜?」





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