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12-2

 
「みなさん、何を飲まれます?」
楓がそう言うと、翼と羽月はビール・愛菜はライムサワーと、それぞれのオーダーを答えた。

「今日はおいしい鰆が入っていますよ」
「じゃあ、それで!後はママさんのオススメでお願いしますでぇ!」
一通りの注文を終えると、翼たちはそれぞれジョッキやグラスを手に持った。

「じゃあ、翼と羽月くんの今日の成長とこれからの飛躍を願って……」
愛菜に促されるように、三人は「カンパイッ」と声を揃えた。

「あー!今日は生きてきた中で一番うまいわぁ!」
羽月はカウンター上にジョッキをドンと置きながら、何かを吐き出すように声を漏らした。

「フフッ」
愛菜はクスッと笑った。
「えっ、何ですか愛菜さん?」
「羽月くん…あなたホントにおもしろい子ねぇ。翼もちょっとは見習えばいいのに」
そう言いながら、愛菜は自分の右隣にいる翼を横目で見る。
「……すいませんねぇ」
「フフッ、冗談よ!翼は翼だもんね。でも、あなたたちよくここには来てるのよね?」
「まぁ、よくってほどではないけど…週一くらいで来てるかな?」
するとそこに、美空が小鉢に入ったお通しを持ってきた。
そして気付いた翼に対し、手話を軽くしてみせる。

「……。そっか、これ美空さんが」
翼は美空の手話に言葉で返答する。
その光景を、彼の隣にいる愛菜が不思議そうに見ていた。
「……そっか、じゃあいただきます」
翼はお通しの小鉢の中に整えられた竹ノ子の煮付けをパクリと口に移した。
ゴリゴリと小さな音を口の中で鳴らしながら、彼は無言で二度首を縦に振る。

「美味しいよっ」
翼は笑いながらそう言うと、美空は顔を赤らめながらニコリとほほ笑む。


「ねぇ翼、彼女もしかして……?」
美空の手話のことに半ば気付いていた愛菜が唐突に尋ねると、翼は一旦無言で頷いた後に静かに答えた。
「彼女……美空さんは声が出せないんだ」
「そう……」
愛菜はあらためて美空の横顔を見つめた。
すると、小鉢の煮物を一口パクリと口に運ぶ。
左手を当てながらゆっくり、ゆっくりと口に噛みほぐすと、愛菜は美空に話し掛ける。

「これ、とっても美味しいです」
突然の愛菜の言葉に、美空は目をパチクリさせつつも笑顔で軽く頭を下げた。
「いつも二人でいらっしゃる翼さんたちが、こんな綺麗な人を連れてくるなんて。どうぞゆっくりなさっていって下さいね」
楓は落ち着きのある口調で翼たちに言った。

「はいっ♪ここいいお店ね、翼」
愛菜は嬉しそうに言った。
「さぁ、明日は休みやし、今日は飲むでぇ~!」
はしゃぎながら声を上げる羽月のその一言を皮ぎりに、翼たち三人の打ち上げで盛り上がる夜は更けていった。

ただその最中、愛菜を隣に楽しげに食事をする翼のことを、美空はどこか切なそうに見ていた。



3時間後-

「あぁもう、羽月くん調子に乗って飲み過ぎよっ!」
「う~……」
愛菜に注意されながら、羽月は"楓"の外で座り込んでいた。
「羽月さん、大丈夫かしら」
楓と美空が心配そうにその光景を見つめる。
すると、美空が翼の肩をトントンと軽く叩き、手話の手ぶりををしてみせる。

『羽月サン、大丈夫カナ』
翼はそれを読み取ると、大丈夫と言わんばかりにゆっくりと頷いた。
「じゃあ、僕ら帰ります。楓さん美空さん、ごちそうさまでした」
翼はふらつく羽月に肩を貸しながら、楓と美空に軽く頭を下げた。

「ありがとうございましたぁ。羽月さん、帰ったらゆっくりなさってね」
「はぁ~いおおきに~……」
「愛菜さんも、またいらして下さいね」
「はい。とても美味しかったです、ごちそうさまでした!あっ美空ちゃん、竹の子の煮物、すっごく美味しかったよ!また作ってね」
愛菜のその言葉に、美空は手話で『アリガトウゴザイマシタ』と言って、ペコリと頭を下げる。
そうやって別れの挨拶を交わしながら、翼たちは"楓"を後にした。


「すぐにタクシー乗せた方がいいわね……。羽月くん、一人で帰れる?大丈夫?」
「う~……。あ、はい……俺は大丈夫やでぇ……ちゃんとタクッて帰るさかい……」
そばで心配する愛菜の顔を直視できないものの、羽月はふらふらとしながら、その細長い身体を引きずるように歩いた。

「大丈夫か?今タクシー止めるからな」
「あぁ……ありがとう翼くん……。もう靖国通りやし、俺はもうここで大丈夫やから……愛菜さんを送ったって……」
今にも崩れそうな羽月をよそに、翼の挙げた左手を目印に一台のタクシーが止まり、後部座席のドアを開ける。

「さっ、早く帰って休めよ」
「羽月くん、じゃあね」
「おおきに、翼くん愛菜さん……お疲れさまぁ……」
いつもの元気な面影が全く見えないような羽月を乗せたタクシーは、ドアをバタンと閉め、少しずつ翼たちのもとから離れていった。

「大丈夫かしら、あの子」
「大丈夫だよ、元気があいつの取り柄だし」
「フフッ、それもそうね。さて、私たちも行きましょ」
翼と愛菜はクスッと笑い合った。


「ん?」
翼はいつの間にか自分の足元に落ちている、一枚の古い写真の存在に気が付いた。



『これ、あいつのかな?』



それをひょいと拾いあげると、翼はそれに目をやる。
そこには、小学生くらいの少女とさらにいくつか小さい男の子の二人が笑顔で手を繋いで写っていた。

写真の後ろには、

  "茜(アカネ)10歳"
  "直人(ナオト)5歳"

とサインペンによる直筆で書かれていた。



『あいつ……何でこんなものを』



翼がそう考え込んでいると、愛菜が彼の背中を指で突いた。

「おっ」
「ちょっと翼、どうしたのぼんやりしちゃって」
翼はその写真をサッとジャケットのポケットに隠した。
「あ……いや、ちょっと俺も酔ったかな」
「そうなの~?大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だよ」
翼は、これが羽月の写真だとしたら彼にとって必要以上に見られたくないものだろうと考えてか、そのことがバレないようにと愛菜に対してはさりげなく振る舞った。

「じゃあ、私も帰るね」
「あぁ、今日はわざわざありがとう」
「うん、次は光星の奴も抜いちゃおうね。……それとさ」
「なに?」
「……今日みたいな家庭的なお料理、久々だったから何か嬉しかった。また連れてってね」
「あぁ」
その時、翼は愛菜の表情に悲しげな影がフッと浮かんだのを感じた。

「愛菜?」
「じゃあ、またね翼!」
愛菜は止まっていたタクシーにそそくさと乗り込むと、社内から翼に軽く手を振ってその場から去っていった。



『どうしたんだろう、愛菜』



翼はそう思いながら、自らの帰路へとつくことにした。





翌日-

昼に起きた翼は、自宅にて例の写真をその手に取って見ていた。
「どこと無く面影があるよな……。まぁとにかく、店で会ったら渡そうっと」
そう呟いていたその時、部屋のインターフォンが鳴り響いた。

「誰だろう?」
翼はインターフォン用の受話器を取った。
「はい」
すると相手は受話器の向こうからこう囁いた。

「一也……俺だ、圭介だ」
翼の表情は一瞬にして強張った。
「……兄さん」
「一也、突然ですまないんだが、母さんのことでとても大切な話があるんだ。ちょっとここを開けてくれないか。頼む」


翼(=一也)の兄・浅川圭介の突然の訪問だった。





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13-1


【Pegasus】の締日営業が明けた日曜日-

その昼下がり、翼は実の兄・圭介が運転する自動車の助手席へと腰をおろしていた。
久しい再会にも関わらず、兄弟同士何も会話をすることもないまま、深い沈黙とともに時間は一刻一刻と流れる。
しかし、彼らの実家のある横浜との距離は確実にそれとともに縮まっていく。
それに比例するように、翼はその瞳の形を少しずつ…少しずつ無意識の内に変えていた。





1時間前-

自らの部屋のドア一枚の向こうにいる兄・圭介に対し、翼は僅かながらの躊躇を感じていた。
"あの事件"の当事者ではないとはいえ、兄はきっと浅川家から何かを言いつかってきた……彼は確信したようにそう直感していた。
何にしても、応答してしまった以上、そのまま居留守で帰ってくれまいと悟った翼は、二人を隔てているそのドアの手摺りにそっ手を近づける。

『ガチャリ』と音をたてたドアは呆気なく開き、久しい兄弟の対面へと導いた。


「一也……」
会社員らしきグレーのストライプのスーツ姿の圭介は、扉の奥に姿を現した弟の姿を見ては、そのまま絶句した。
久しく見ないうちに、以前の面影が無いほど変貌してしまったことに、大きいショックを受けていた。

所々ハネて盛られた茶色い髪の毛も然り、
左耳につけられた銀色に輝くピアスも然り、
しかし、それ以上に以前の優しい表情が垣間見れない程の瞳に宿る闇が、圭介自身が知っている"一也"でないことを物語っていた。
そんな弟を見てか、圭介はしばらく開いた口を塞げずにいた。

しかし、翼は至って冷静に兄に対峙していた。
「兄さん、
いきなり何しに来たんだ」
翼のその一言で、圭介は我に返ったのか改めるように口を開いた。

「一也……連絡も一切無しに、一体今までどうしていたんだ!みんな心配していたんだぞ!」
圭介は声を大きくして言いたい気持ちを堪えながら、翼に言い放った。
しかし、その言葉も虚しく、彼には届いてはなく。

「兄さんさぁ、そんなことを言うために、わざわざここに来たの?」
「質問に答えろ一也!今までどうしてたんだ……その髪の毛は何だ!?」
「それを答えて欲しいなら、まずはこっちの質問に答えろよ」
「なに?」
翼は一度深いため息をつくと、再び口を開き始めた。

「ここに何しに来たんだ?親父のくだらないパシリかい?」
「……!さっきも言ったように、母さんのことで話があるんだ」
「……あの女の?一体何なんだ、用件ならメールで一本送ればいいじゃないか」
言い捨てるような翼の一言一言に対し、圭介は自分の中に溜まる何かを必死で抑えながら答える。

「一也、ここ数ヶ月、今まで家からお前宛に封筒が送られたきたはずだ」
「封筒?」
すると翼は、今いるドアもとから部屋の中のある一部分を振り返ってみる。

「あぁ、あれのこと?」
そっけなく答える翼が指差す先には、何十枚という数の封筒が山積みになっていた。
「あれがどうかしたのかよ?」
「ちょっとどけっ!」
圭介は翼を押しのけるように部屋の中へと入っていった。
「おい!何勝手に土足で上がってんだ!」
怒鳴る翼をよそに、圭介は床に棄てられたように重なった封筒をじっと見下ろした。
そうしている彼の拳は、今にも飛び出しそうな衝動を抑えるかのようにプルプルと震えていた。

「一也……」
「何だよ」
「お前……この封筒、封を開けてないところを見ると一切見てないのか?」
歯を噛み締めながら呟く圭介に対し、翼は冷静に答えた。
「見ての通りさ。あの女の書いたものを一々俺が見る必要がどこにあるんだ?しつこすぎて捨てるのも忘れてたさ」
それを聞いた圭介は、目をカッと開きながら翼の襟元につかみ掛かった。

「ぐっ!」
つかまれたと同時に壁にたたき付けられた翼は、一瞬にして苦悶の表情を示す。
「何するんだっ!!」
「何じゃない」
「えぇ!?」
「お前、こんな時にこんな頭して何やってんだ!!」
「こんな時?何のことだ!!」
翼は怒る圭介の言葉にわけもわからず、彼を突き飛ばした。

「ハァ……ハァ……。兄さん、俺が何であんなもんを見る必要があるんだ。あんな女からのものなんか見れるか!!」
怒鳴り散らす翼に対し、圭介はただギロリと睨み付けた。

「何なんだよ一体。ただ喧嘩したいだけなら、ここから出ていけよ!!」
「一也!!」
圭介は振り絞るように、声を上げると、一旦冷静さを取り戻すように話を続けた。

「よく聞け、母さんはな……」










高速道路を走る車内は、着々と横浜へと近づいていた。
その間、翼と圭介は何も言葉を口にすることはなく、ただ、エンジンの静かな音だけが二人の間を支配していた。

「一也」
運転席でハンドルを圭介が、重い口を開いた。
「お前の気持ちもわからなくはないが…わかってるよな?」
「……」
「俺がさっき部屋で話した通り、母さんはあれからずっとお前のことで苦しんだんだ」
「……」
翼は何も答えなかった。
ただ、早々と通り過ぎて切り替わっていく車内からの光景を、じっと見つめていた。
圭介もそれ以上は何も言わず、フロントガラスごしに映る景色を追いかけ追い越していった。





数十分後-

自動車を降りた二人は、横浜某区にある豪邸のような大きな建物の前に対面していた。
それと同時に、翼の中には言いようのない感情が噴火寸前のマグマのように込み上げていた。
それを必死でこらえながらも目の前にある建物を睨みつける彼の横顔を、兄である圭介は心配で仕方なかった。

すると、開いたエントランスから一人の長い栗色の髪を後ろで束ねた女性が翼達のもとに近づいてきた。

「おかえりなさい。……一也さん、お久しぶりです」
女性は、翼の容姿に一旦目を丸くしていたものの、すぐに平静になり彼に話しかけた。

「……どうも、和美(カズミ)さん。さっき兄から聞きました。今は兄とここに住んでいるんですね」
「えぇ。一也さん、あなた、お父様たちがお待ちよ」

和美と呼ばれた女性はそう言うと、一也に「どうぞ」と言わんばかりにエントランスのドアをスッと支えた。
「……」
翼は躊躇していた。
一歩一歩、中に近づくたびに、あの時の記憶が徐々に鮮明になって甦っていくのを感じていた。


ふがいない自分、

情けない自分、

自らの存在意義すら否定されたような自分、

様々な思いが、彼の心の中を独り歩きしていた。


「一也、入れ」
圭介が後ろからふと翼の背中を押す。
家の中にとうとう足を踏み入れた彼の鼻に、どこか嗅ぎ慣れた匂いが漂う。
見慣れた光景が視界に広がる。
苦しく、懐かしく、そして何か切なく腹立たしいものが一気に混じり合っていく。

「一也、何をぼーっと突っ立ってるんだ。お前の実家なんだ、早く上がれ」
圭介は家の中に上がることをためらっている翼に促していく。

「さっきも話しただろう。とにかく、上がってくれ……なっ?」
「……」
すると翼は、履いていたブーツをゆっくりと片方ずつ脱ぎ、家の床へと足を乗せていく。

「お父様たちは、リビングで待っているわ。さぁ、どうぞ……」
和美に導かれるまま、翼はリビングへと一歩一歩と何かを噛み締めるように足を運んだ。


リビングのドアは開けられた。


奥のソファに腰をおろす父とニットキャップを頭に被る母が、ドアのそばに立つ翼の姿を捉える。

「一也!」
母はその瞳に涙を浮かべ、翼のもとへとよろけながら駆け寄った。
「一也……一也……」
母が翼の腕に触れようとしたその時だった。

「気安く呼ぶな、触るな」
どこから出しているのか不思議なくらい重く低い声が、翼の口から溢れ出る。
その際、母の頭を覆う灰色のニットキャップが逸らそうとする彼の視線を引き付けた。

「……」
翼は目の前にいる母に目を合わせようとしなかった。

ただ、異常なまでの拒否反応が彼から出ているのが、その場にいる全員が確信していた。


「一也……それに母さんも、とにかく座りなさい」
どこか肩を落としたような父が、力無い口調で言った。
翼は「フン」と鼻を鳴らすも、父に向かい合うように渋々とソファに腰掛けることにした。
それに次いで、圭介も彼の横に腰をおろす。



しんと静まり返った空間が5分ほど過ぎると、それを破るように父が口を開いた。

「一也」
「何だよ」
翼が目を合わさず聞き返すと、父は徐々に表情を強張らせた。
「お前……あれから電話もろくに出ずに何をしていたんだ」
「兄さんと同じ質問か」
「質問に答えろ、一也。何をしていた?」
「見ての通り、さ。新宿で働いてる」
翼はそう言って、セットされた自らの茶色い髪の毛を右手の指先で揺らした。
その指には、以前は全くすることのなかったリングが銀色の輝きを放つ。
それを横目で見ては顔をしかめる圭介の表情を見てか、父は次男である彼の現状を察し始めていた。

「新宿……。まさかお前」
「そっ、ホストやってんの」


『ホスト』


母と、たまたまその時飲み物を運んでいた和美は、その名前を聞いて目を大きく見開いた。


「ホスト、ホストだと?」
「あぁ」
淡々と返事をする翼に対し、父は一気に表情の激しさを変え、テーブルに両手を勢いよく振り下ろした。
『ドン』という強い衝撃音に、翼以外の全員がビクリと反応する。

「一也……!KKさんの会社であんな事件を起こし、連絡も無しに何をやっていたかと思えば……ホストだと!?」
「悪いのか?」
「悪い?悪いかだと!?貴様、そんな女をたぶらかして金儲けをする仕事をしていたのか!!えぇ!?」
「あぁ。あんたらがやってるめんどい仕事なんかより、楽しく金も稼げるんでね」
「何だと!?お前、自分が何をふざけたことを言っているのかわかってるのか!?」
父は翼を睨みつけた。
しかし、当の彼はさらに恐ろしい眼光を父に向けた。

「ふざけたことだと?ふざけてんのはどっちだ!!」
「一也、落ち着け!」
口調を荒げた翼を、横にいる圭介が諌める。
しかし、すっかり以前の優しい面影の無い弟の表情に、兄である彼は僅かな恐怖すら抱き始めていた。

そして睨み合う翼と父の会話は続いていった。


「あの時……あんたらが俺に……いや、俺達にしたことを俺は絶対に忘れない」
「紗恵さんのことか」
「それ以外に何があるって言うんだ?糞ジジイ」
翼の口調はさらに鋭さを増し、次に父の横で押し黙っている母にその標的を向けた。

「おい、ちゃんと聞いてるのか?」
母はビクッとしながら、自分を鋭く睨む翼に視線を合わす。
「あんたも、よくもメチャクチャにしてくれたよな」
「一也……お母さんね……その……ごめんなさい……」
「白々しく母親面するな。今更謝っても遅いんだよ」
「ごめんね一也……ごめんなさい、ごめんなさい……」

母は、ポロポロと涙を流しながら何度も、何度も謝った。
息子に対する自分自身の過剰な行為で起こしてしまった"あの時"のあの過ちを悔い改めてきたのか、当時のような過熱した雰囲気は全くと言っていいほど影を潜めていた。
しかし、翼がそれを許しているはずはなく-。

「ごめんなさいで事が済めば」
「えっ?」
「警察なんかはいらないんだよ!!」
この日最も張り上げた彼の怒声が、浅川家の中を重く包み込んだ。

「一也、母さんに何てことを!!」
「あんたは黙ってろ」
割り込んできた父を制すると、翼はそのどす黒く鋭い眼光をその場の全員に向けた。

「わかるか?俺があの夜から、どんな惨めな思いで生きてきたか。どんなに引き裂かれるような辛さを味わったか……」
「……」

13-2

 
「馬鹿にされても嘲笑われても、自分なりに一生懸命やってきたことが何も報われずにいることが……自分の大切な存在が突然消えていくのがどれだけのことか……あんたら、少しでも考えたことあるのかよ?えぇっ!?」
溜まりに溜まっていたものが噴き出したかのような翼の叫びは、その場に居合わせる全員を硬直させた。
しかし、それを何とか制しようと彼の横にいる圭介が口を開く。

「一也、お前の気持ちはわかる。……だが、終わってしまったことを嘆いてもしょうがないだろう」
「しょうがない?」
翼は圭介を横目で睨みながら呟くと、プッと噴き出すように笑い出した。

「アッハッハ……!まぁしょうがないだろうな。俺みたいなもはや存在価値の無いゴミクズには、似合ってる言葉だよ、兄さん」
「一也!」
「それに」
すると、翼はその鋭い視線の先を母に移した。

「あなたが今そんなものを頭にかぶる状態になってしまったのも、自業自得だろうが」
息子の放り捨てるような言葉に、母は口もとを震わせ始める。

「か、一也……」
「俺を散々罵ったバチがあたったんだね……。まさか癌になっていて下さってるとは」
翼の母に対する恐ろしいほどゆるやかな口調は、氷の冷たさのようなまさにそれだった。
しかし、その発言に対して父が割って入った。

「おい一也!お前、今何て言ったんだ……もう一度言ってみろ!!」
「聞こえてなかったのか?その女が癌になってくれてよかったって言ってるんだよ」
「な、何だと?」
父がそう問うと、翼は軽い溜め息をして再び口を開き始めた。

「本当はこの手で殺したいくらいだけどね。まぁ、おかけで俺がこの手を汚さずに済んだってコトだよ。みなさんわかりました?」
翼が笑い捨てるようにそう呟いたその時だった。


気がつくとガタンとした物音とともに、彼はソファ脇の床に仰向けに倒れていた。

「グッ…」
背中を強く打ったせいか、小さくそう声を漏らす。
そんな彼の上を、鬼のような形相をした圭介が、弟の襟首を両手で掴みながら組み敷いていた。

「圭介!」
「あなた!」
父と和美も思わぬ事態に飛び上がるように驚く。
しかし、頂点に達した圭介の怒りはおさまるはずもなかった。

「一也…お前どこまで腐ってんだぁ!!えぇ!?」
翼の襟首を放さない彼の怒声が、その場に響き渡る。
「母さんはな……お前が紗恵さんとあんなことになってしばらくたってから、申し訳ない申し訳ないってすごく悩んでたんだ!!だから謝りの手紙も闘病しながら一生懸命書いてあんなに送ってたんだぞ!!それがお前にはわからないのか!?」
「……わからないだと?じゃあ兄さんにはわかるか!?いつもあんたと比較されて見下されてきた揚げ句、立場や力を使って大切なものまでヘラヘラと踏みにじられた俺の気持ちが……あんたにはわかるのかよ!!」
圭介と翼が互いの言葉をぶつけ合うと、そこに頬をぐっしょり濡らした母が割って入った。

「もうやめて圭介も一也も……。私が悪いの……一也にあんな酷いことを自覚無しにとはいえしてしまったから……うぅっ……」
母はそう言うと、がくりと膝を床につけ翼のことをその潤んだ瞳で見つめた。

「一也、私のことが殺したいくらい憎いわよね。ごめんなさい……本当にごめんなさい……あぁっ……」
顔を両手で隠しながら泣き崩れる母を見てか、翼と組み合っていた圭介はピタリとその動きを止めていた。

「ワッ!」
しかし、この時をとばかり思ってか、翼は圭介のことを足で突き飛ばした。
起き上がって乱れた衣服を整えると、彼は茫然とする和美の前にスタスタと歩いていった。

「一也さん……?」
「和美さんも大変ですよね……こんな家に嫁いできたんじゃ」
すると、翼はジャケットの内ポケットから一枚の名刺を取りだし、それを和美の右手に強引におさめた。

「えっ、一也さんコレ……?」
「見ての通り僕の名刺です。ご用命の際は、"翼"をこの店で指名して下さいね」
そう言うと、翼は義姉である和美の頬にスッとキスをする。
「キャッ!」
和美が声を上げると、それを見ていた圭介が再び怒るのはすぐのことだった。

「一也お前ぇ!!どこまでふざければ気が済むんだ!!」
「こんぐらいのことでムキになるなよ兄さん」
翼と圭介は10秒ほど睨み合った。

「フン……」
翼は彼らに背中を向け、歩きだした。
「一也、お前どこに行くんだ?」
父がそう問い掛けると、彼は一瞬立ち止まりながら背中越しに答えた。

「東京に帰る。明日も仕事があるし疲れてるんでね」
「こんな時に言うのもなんだが……夕食だけでも食べていけ。母さん、体辛いのをこらえてお前の好きなすき焼きの用意して待ってたんだぞ」
驚くほど穏やかに話す父だったが、息子である彼が発した答えはその場にいた全員が思いもよらないものだった。


「いらないんなもん。てかさ……毒でも入ってたらどうすんだよ?」
「毒……だと?お前、本気でそんな-」
「聞いてないようだから言っといてやる。俺は絶対に許さない……」











「一生呪ッテ生キテヤル」









凍り付くような目付きで言い放った翼の一言に、そこにいる全員が絶句した。



母は再び泣き崩れた。
父も、圭介も、和美も、この時全員が確信せざるを得なかった。



もう、自分たちが知っている"浅川一也"は、どこにもいないということを-



優しかった昔の『彼』のことを思い返しながら、ただ茫然と立ちすくむしかなかった。










「じゃあね」
翼は一言そう言って、その場から立ち去っていった。

彼がツカツカと歩いて、ブーツに履きかえていたときだった。
「一也……」
よろめきながら歩いて寄ってきた母が、後ろから声をかける。
彼女の手には、アルミホイルの中に収めた丸い形をした物の姿があった。

「一也、これ。おにぎりを作っておいたのよ……。後で-」
母がそれを差し出したその時だった。
「こんな毒物、いらないって言っただろ?」
翼はそれをたたき落としては、玄関の床に転げ落ちたそれをブーツを履いた足でグシャリと踏み潰した。

「……!」
「じゃあ」
翼は最後にそう呟いて、生まれ育ったその家の玄関を後にした。



閉めた扉の向こうで崩れ落ちながら啜り泣く母の声は、もはや彼にとっては心地よいノイズのようなものでしかなかった。



「自分自身のしたバカに自覚した揚げ句、今度はそのストレスで癌か……あの女にはお似合いの結末だ……」
翼は、何を気にするそぶりをないまま、急ぐこともなく自分が住む東京・新宿へと戻っていった。










「♪♪♪~♪♪~」
東京へ向かうタクシーの中、翼のケータイが一つの着信を知らせた。
「愛菜だ。一体何だろう?」

今日この日から起こったすべての出来事が、狂い始めた運命の結末へと通じていた。





                                                   
第14章へ

14-1

 
「愛菜、一体どうしたんだ?」

翼は通話を終えたケータイを見つめながら呟く。
ただ彼がいまわかっていることは、普段の彼女からは考えられないほど感情的な口調で「早く来て」と訴えかけていたことだった。

「すいません、ちょっと急いで下さい」
とにかく一刻も早く新宿に着かなければと思いたったのか、翼は現在乗っているタクシーの運転手に急ぐように促した。



『あの愛菜が一体どうしたって言うんだ』

そう胸に秘めながら、次々と移り行く車窓の眺めを置き去りにするように、新宿への道を進んでいった。





約1時間後-

翼は新宿の『西総合病院』へと降り立った。

「愛菜からのメールだと、確かここだよな。かなりでかい病院だ」
時刻は午後8時を過ぎ、病院の外や入口にかけては人気がもう無くなりかけていた頃だった。
翼は案内板の表示に導かれるまま、病院の入口へと向かって歩いていった。
入口に差し掛かると、自動ドアが左右に開き、彼は中をそのまま突き進んでいく。
病院特有の匂いが、ケータイの電源をオフにする彼の嗅覚を襲うのには、そう時間はいらなかった。

「愛菜はどこだ?確かこの辺りにいるって-」
彼女を探すのに、そう多くの時間はかからなかった。
入口からすぐの人気が掃けたロビーに、ただ一人座っている彼女の際立った外見は、わかりやすいほどすぐに翼の目に留まっていた。

ただ不思議だったのは、愛菜の服装が昨夜"楓"で食事したときと全く同じものだったのは、翼の目から見ても明らかだった。
彼はそれが気はなったものの、ずっと斜め下を虚ろに見つめている彼女のもとに近づいていった。

「愛菜っ!」
翼が声をかけると、愛菜はゆっくりと顔を上げる。

「翼……来てくれたのね」
「どうしたんだよ、急に」
「……」
愛菜は再び顔を俯く。

「ごめんなさい、翼。休みの日に急に呼び出したりして」
「いや、いいよそんなの」
翼自身、先の家族との衝突の一件があったためか、今改めて休日だったという事実に気が付いた。

「そんなことより、どうしたんだい?愛菜があんな風に電話してくるなんて思わなかったから」
「うん、それはね……」
愛菜が話そうとしたその時だった。
一人の男性医師が、話している二人のもとへと速足で寄ってきた。
愛菜はそれに気付くと、ハッとしたように立ち上がる。

「先生っ!!」
いつになく声の大きい愛菜。
医師は二人のもとに着くやら、翼に対して頭を下げて一礼した。
翼もそれにならう。

「おばあちゃんは、今……おばあちゃんはどうなんですか!?」
「……」
愛菜に対し医師は一瞬黙りこくると、何か意を決したように口を開いた。

「そのことですが……」
「えっ?」
「一緒に来て下さいますか?おばあさんの待つ病室に」
力無く答える医師の言葉に、愛菜はどこか意識が遠のくのを覚えた。
「まさか…」
愛菜がそう聞くと、医師は顔を伏せたままそれ以上は答えようとはしなかった。

「嘘でしょ……」
さらに力無く、か細い声で呟く愛菜。
そのままゆっくり頷いた彼女は、医師とともにその病室へと行くことにした。

「翼……一緒に来て」
そう言いながら、愛菜は翼の腕をその細く華奢な指でキュッと掴む。
その力の無さに、翼は彼女が明らかにいつもと違うことを確信せずにはいられなかった。


2階へと上がり歩いて間もないところに、その病室はあった。
「どうぞ、行ってあげて下さい」
医師に導かれるまま、翼と愛菜はそこのドアの前へと立ち止まる。
「なぁ、おばあちゃんて……?」
事情がまだ飲み込めていない翼がそう聞くと、愛菜はそれに答えようとはせず、ドアをゆっくりと開けた。
開かれたドアの向こうには、三~四十代の四人の男女がベッドで横になる一人の人物に悲しげな視線を送っていた。
ドアが開かれたことにより、彼らはやってきた愛菜たちの存在に気付く。

「アッちゃん……」
病室にいる一人の女性が、愛菜に向かってそう言った。
「おばあちゃんは?おばあちゃんは……??」
愛菜がそう問い掛けると、ベッドからか細くかすれた声が彼女の名をゆっくり呼んだ。

「アッ……ちゃん……」
すると愛菜は、目の前にいる男女を掻き分けるようにベッドの方に駆け寄って膝をついた。

「おばあちゃん」
愛菜がそう言いながら見つめる先には、もう80超えているだろう老婆がベッドの上にて横たえていた。
彼女がキュッと手を握ることで、その老婆はスローモーション映像のようにゆっくり…ゆっくりと笑顔を見せる。

「アッ……ちゃん……」
「なに?どうしたのおばあちゃん?私、ずっとここにいるよ」
愛菜が手を握りながら必死に聞き返すも、もはや虫の息と言った状態の老婆の声は、ハッキリと聞き取れるものではなかった。
しかし、愛菜の耳にはしっかりと聞こえていた。


「こんなに……綺麗に……なっ……てくれ……て……」

「おばあちゃんもういいよ、それ以上しゃべらないで……おばあちゃん……」

「アッちゃん……に会え……て……おばあちゃ……うれ……し……かっ……」

「おばあちゃん……イヤ、そんなの……」


愛菜の声が力無く潤んでいるのが、後ろから見守る翼には痛いほど伝わってきていた。

やがて、心拍計のブザーが一定の音を鳴らし続ける。

それは、愛菜を初めそこにいた数人の男女が深く泣き崩れ始めるための、

辛く悲しい現実を突き付けられた合図だった。



「おばあちゃん、おばあちゃん……死んじゃイヤ!イヤ!死んじゃイヤぁあー!!」
なりふり構わず大きな声でベッドの白い掛け布団に顔を埋めながら泣きじゃくる愛菜。

そんな愛菜の肩を抱きながら一緒に声を上げて泣いている女性や、他の三人の男女。

そして、そんな見たこともない今の光景全てに絶句している翼。

その時翼にただわかっていたのは、



一人の人間の"死"という現実がもたらした、深すぎる悲しみだった。



今はただ、永く奏でるレクイエムのように止まることのない愛菜の泣き声を、



黙って聴きながらその場に佇むことしかできなかった。





約2時間後-

老婆の遺体は既に霊安室へと移され、愛菜は一人そこに座り込みながらピクリとも動かなかった。


「愛菜……」
翼はそんな彼女の後ろ姿を、ただずっと見つめていた。
「今は……ただ何も言わず一緒にいてあげて下さい」
医師は翼にそう言うと、ペコリと頭を下げそこから去っていった。



『愛菜が、あんなに取り乱すなんて』



すっかりやつれた背中が、愛菜の心労の度合いをわかりやすいほどに示していた。
ただ、今は医師の言う通り黙って見守るしかない……翼はそう思うことにした。


しかし、ずっと永く続くかと思われた彼女の沈黙は、意外にも早く破られた。

「翼……いる?」
「……うん、いるよ」

小さい声で自分を呼ぶ彼女の声は、ぐったり力が抜けたような聞き取りにくいものだったが、翼はただ懸命に話し、答えることに努めた。

「愛菜、大丈夫かい?」
「……うん」
「そうか」
明らかに彼女が大丈夫ではないのはわかっていたが、今はそっとしてやることが第一だと翼は自ずと言い聞かせる。

「ゴメンね、翼。こんなとこ見せちゃって」
「そんな、気にするなよ」
「いつものあたしじゃないし……こんなことになっちゃったから、引いたでしょ…」
「そんなことないって」
「無理しないで」
「愛菜!」
「……ゴメン」


"いつものあたしじゃない"


それは翼本人も十分にわかっていた。
しかし、今の人の"死"に直面し悲しみに打ちひしがれている彼女のことを考えれば、彼は無理矢理にでも仕方ないと納得しようと思った。

白い布で顔を覆った老婆の横たえる姿が、今彼女の心にどれだけのダメージを与えているか-
形は違えど、"大切な人"が自分の目の前から突然いなくなる痛みを嫌なほど理解していた翼には、それ以上何も言うことはできなかった。
 

「あのぉ……」
「?」
翼の背後から、先程老婆を看取っていたうちの一人の女性が話しかけてきた。
「失礼ですが、アッちゃん……彼女の彼氏さんか何かでしょうか?」
「あ……はい。彼女……病院で大切な人が大変だからってことで、それで」
"客とホスト"と言うわけにもいかないので、翼はうまくごまかしながら答えた。

「そうでしたか…」
「あの、お聞きしていいかわかりませんが、そちらは?」
今度は翼が聞き返す。


「私たちは、以前彼女が生活していた児童養護施設の者です」
「児童養護施設?」
翼が思わず口にすると、女性はコクッと頷いた。

「知らないのも無理はありません。あの子、自分の過去については一切語りたがりませんから。高校を卒業する18まで、あの子は私どものところにいたんですよ」
「そうだったんですか……。ちなみに、亡くなったあのおばあさんは?」
翼が問い掛けると、女性は一瞬躊躇してから答えた。

「あのおばあちゃんは、ボランティアで私どもの施設によく来て下さった方だったんです。とてもお優しい方でして、ご両親のいない彼女の母親がわりのような人でした」
「その人が、先程亡くなられて彼女はあんなに……?」
「えぇ……。子供たちにも大変慕われてて……。あんないい方でしたのに……」
女性はそう言って再び涙を流すと、それ以上は何も語らなかった。



『愛菜……』



翼は、深く沈んだ愛菜の後ろ姿を見つめた。
すると、彼女は突然スッと立ち上がる。

「お、おい」
翼は思わず声をかける。
「翼……行こう」
愛菜は思ったより冷静な口調で囁く。
「で、でも……」
「私は大丈夫。それと……先生」
愛菜は翼のとなりにいる施設の女性のことを呼ぶと、スッと振り返った。

「私、行くね」
「アッちゃん……」
思ったより健やかな表情の愛菜に、翼と女性は俄かに驚く。
「大丈夫なの……?」
「うん、もうたくさん泣いたし。これ以上泣いてたら、おばあちゃんに怒られちゃうよ」
「そう……そうね」
「北野さん、また来るね」
愛菜のその言葉に、女性は一筋の涙を流しながら首を縦に降った。

「翼、私たちは失礼するわよ」
「え?あ、あぁ。じゃあ、僕らは失礼します」
そう言うと、翼と愛菜は女性に頭を下げ、その場を後にした。

「愛菜、いいのか?」
「えぇ」
病院のエントランスに差し掛かったときまで、愛菜は翼の顔を一切見ようとしなかった。
しかし、彼女はふと翼の方を振り向き口を開く。

「翼」
「ん?」
「お願いがあるの」
「……何だい?」
「今日あなたが締日後の休みだってことはわかってるんだけど」
「うん」
「もうちょっと、一緒にいてもらってもいい……?」
「……あぁ」
「ゴメンね……ありがとう」
「遠慮なんてしなくていいよ」
「うん、ありがとう」

翼と愛菜は、病院のターミナルから一台のタクシーを拾い、それに乗り込む。

「新宿の西口で」
運転手に行き先を告げ、二人を乗せたそれは、暗い闇の中を街の光の明るさに向かって突き進む。
車内での会話を一切することなく、二人はただ目的地まで固い沈黙を守っていった。





約30分後-

二人を乗せたタクシーは、目的地に到着する。
「ここは……」
翼は思わず呟いた。
「そう、微妙に懐かしいでしょ?」
「うん」
二人が目の前にしているのは、新宿西口のオフィス街に堂々とその姿を構える、愛菜が御用達のシティホテルだった。

「さぁ、夜もふけてきたし行きましょう」
「あぁ」
翼と愛菜は、まるで普通のカップルのようにホテルのエントランスへと入っていった。

14-2

 
「俺が光星さんに酔い潰されたあの時以来だなぁ」
ホテルの一室に入ると、翼はどこか懐かしみを感じながら言った。

「そうね」
愛菜はスプリングコートを脱ぐと、それをソファに放るように置き、ベッドに吸い込まれるように腰をおろす。

「あの時に比べたら、翼はホントにホストらしくなったわ」
「愛菜のおかけだよ。俺がここまで成長できたのも」
「そんなことないわ。翼自身がちゃんと努力をして自分を証明してきてる証拠よ」
「あ、いや……。でもありがとう。愛菜には感謝してる」
精神的に疲れている愛菜を気遣ってか、翼はどこかいつもよりも優しい口調で言った。
彼女が凜と振る舞っていても、想像以上の悲しみと寂しさで落ち込んでいるのは、翼自身も夜遅くにここに自分を連れてくる時点で気付かざるを得なかった。


「愛菜、何か飲もうか?お酒でも。今日は俺におごらせてよ」
「……うん」
どこと無く力無い愛菜の返事を聞きつつ、翼はルームサービスでシャンパンと軽食をオーダーすることにした。

「ごめんなさい翼、仕事でもないのに気をつかわせちゃって」
「いいって。こんなときは飲もう」
「うん、ありがとう……」
 



約20分後-

翼たちは、部屋に届いたシャンパンを飲み始めていた。
「よし飲もう」
「うん」
人が亡くなったこともあり、二人は「乾杯」の合図はせずにそのままシャンパンが注がれたグラスを口に移す。

「今日は振り回しちゃって、ホントにごめんね」
「いいって謝るのはさ。愛菜、さっきから謝ってばっかりだよ?俺にはそんな気遣いはいいからさ」
「うん……」
愛菜はそのまま無言でシャンパンを一気に飲み干す。
「ふぅ」
「大丈夫か?そんなに一気に飲んで」
「大丈夫……大丈夫よ」



『大丈夫なわけあるか』



翼はそう言いたかったが、以前自分にもショックで飲んだくれていた過去があることを思い返すと、とてもではないが言えなかった。
今は、愛菜が少しでも安心できる状態にしよう……翼はそれだけを考えていた。

その時だった。
「翼、あたしさっぱりしたいからちょっとシャワー浴びてくるね」
「え?うん、わかった」
「だから、ちょっと一人で飲んでて」
すると愛菜は、すぐにバスルームへと向かっていった。

「シャワーか…。ちょっとさっぱりしてもらった方がいいかもな」





約30分後-

愛菜はいつまでたっても、バスルームから出てくる気配はなかった。
おかしいと思った翼は、こっそりバスルームに近づきドアもとに耳を澄ませる。
すると、無尽蔵に流れるシャワーの音の中に、弱々しく崩れていくような女の声がするのを微かにだが彼の耳は捉えた。

「愛菜?いい加減遅いけどどうしたんだ?」
「……翼……」
心の中でもしものことを想像していた翼の中に、一つの安堵感が生まれる。
すると、バスルームの中の愛菜から、思いもよらない言葉が返ってきた。

「翼……」
「なに?」
「こっちに来て……」
「えっ?」

予想外のことに、翼は目を丸くする。
「だって愛菜、今シャワー浴びてるんだろ?」
「イヤ……?」
「いや、そんなことはないけど……」
「じゃあお願い……一緒にいて……」
次第に彼女の言葉に力が無くなっていくのを感じた翼は、やむを得ずシャワーの音が続いていくバスルームの中に入ることにした。



「入るよ?」
翼は一言断りを入れ、バスルームの中へと足を踏み入れた。
シャワーの音がよりハッキリすると同時に、蒸気に乗った石鹸の香りがフワッとその空間を舞う。
愛菜がいるバスタブは、白いシャワーカーテンで仕切られている。

「愛菜?」
「服を脱いでこっちに来て……」
翼が呼びかけると、愛菜は一言そう答えた。

「いいのか?俺が入っても」
「……」

愛菜はそれ以上は答えなかった。
翼は自らの服を脱ぎ、シャワーカーテンの向こう側に入ることにした。



『愛菜、やっぱり強がって気を張ってたんだな……』



そこらじゅうに雑に散らかされた愛菜の衣服を見て、翼はそう思った。
すると彼は、カットソー・ミニスカート・下着を丁寧にたたんで洗面台の脇にある籠に置き、自らの衣服を脱ぎ始めた。
どこか恥ずかしさはあったものの、全裸となった翼はカーテンの前に立った。

「愛菜、入るよ」
そう言って、呆気ないほどに軽いシャワーカーテンをするりと横に開いた。



「愛菜!」

バスタブの中にガクリとしゃがみ込む愛菜。


それを見つめる翼。


シャワーから容赦ない雨のように降り注ぐ温かい粒が、震えながら沈み込んでいる愛菜の美しく華奢なその身体を濡らしていた。


「おばあちゃん……うっ……えっ」
バスタブに激しく落ちるシャワーの音に雑じり、愛菜の弱々しい声が翼に伝わっていく。


「愛菜…」


翼は、彼女の名前を呼ぶと、それ以上は何も言わなかった。


ただ、何も言わず、


悲しみに臥せる愛菜の頭をギュッと抱きしめていた。


「翼……」



「今は、何も考えるな……」



「うん……」



愛菜は、ぐっしょり濡れたその身体を翼にピタリと埋めた。



翼は、その多量の涙で濡れ、今にも崩れていきそうな愛菜を、ただその腕で支えた。



ただの情か、恋心か、仕事だからかはわからなかった。



ただ、翼の心の中から沸き上がる一つの気持ちが、愛菜を放ってはおけなかった。



気がつけば、二人は互いの背中を両方の手でまさぐっていた。










「翼、お願い……」



「何だ……?」



「今日だけは……今夜だけでもいいから……客じゃなくて、あたしを一人の女でいさせて……!」





翼と愛菜は、重ね合わせる唇を合図に、激しく、どこか儚く、互いを求め合った。



無限に降り注ぐ温かい雨が深い悲しみを洗い流すかのように、



二人の身体を、濡らしていった。





                                                  第15章へ


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